酒は詩を釣る針 |
20██年 3月██日 サイト-8100 ゲストルームB 秋津洲 蜜蜂
あの緑の角砂糖は私を奇妙な夢へと誘った。今思えば断っておくべきだったのだ。食事会の名目で食堂で行われた酒盛りでの事だ。酒の飲めない私にあの胡散臭い悪い笑みを浮かべた男はフランスの薬草酒を染み込ませた角砂糖に火をつけて私に差し出した。それは、咽返るほど甘い毒の道の入り口となった。
記憶に残っているのは赤くて甘いカブのスープと緑色に染まったあの角砂糖だ。どこぞの僻地から赴任してきたロシア人のエージェントが親睦を深めるためにと開いた食事会はカブをふんだんに使った赤い料理と酒で大いに盛り上がっていた。参加している皆は蒸留酒とつまみで大いに盛り上がっていた。幾人かの人付き合いのいいエージェントが私にも酒を勧めてきたが、残念なことに私はアルコールを受け付けない体質ゆえ、彼らの好意を受け取る事が出来なかった。
食事会が中盤に差し掛かってきた頃だろうか?イヴァノフ、あの胡散臭い笑みのロシア人はせっかくの参加者に楽しんでもらえないのは申し訳ない、気分だけでもと差し出してきたのがあの角砂糖だった。
穴の開いた金色のスプーンの上に角砂糖を乗せ、スプーンと一緒にグラスの上に固定する。フランスの甘ったるいアブサンヴィユー・ポンタリエと評した薬草酒を幾分かしみこませるとそこにマッチで火をつけてアルコールを飛ばしながら少しずつ砂糖に加水して火を弱めていく。 ふわりとグリーンアニスの甘い香りが周囲に広がったと思うと、後からワームウッドのヒノキに似た清涼感のある刺激が後追いしてきて不思議な気分になる。微かに残るのは柑橘か何かだろうか?複数の香りが混ざり合って未知の情景を想像させる。
「フランス人は恋人に告白する前、勇気を出すためにほんの一口飲むそうだ、今回は残った角砂糖を齧るだけに、グラスに残った液体はほんの少しアルコールが残ってる。」
火が消える頃には角砂糖は半分以下の大きさになっており、グラスには宝石のような緑の液体がゆらゆらと揺れている。私は悪戯盛りの子供とセクハラ親父の中間の胡散臭い笑みを浮かべる彼の言葉通り角砂糖を口に含む。
角砂糖の甘みにフェンネルとニガヨモギの味が交じり合って濃厚な薬の味がした。顔をしかめる程の甘さが襲ってきたかと思うと即座にハーブの苦みが舌を覆い、続けてミントがそれを緩和する。日常で飲むあらゆる飲料水とは異なる不思議な味だ。私は口の中でその不思議な物体を転がしながら水で少しずつ流し込み、口直しに近くにあったカビのチーズを食べて口の中を落ち着ける。何故かチーズを含んだとき、ロシア人は一瞬だけ顔をしかめたが思い直したかのようにまた笑みを浮かべると会を楽しんでくれと去って行った。
後で知ったことだが、あの時のチーズはスティルトンというちょっと変わった種類であったらしい……なんでも、人に夢を見せるチーズだそうだ。
20██年 3月██日 サイト-8100 私室/ベッドルーム 秋津洲 蜜蜂
私はあの賑やかな食事会の後、浮かされるようなほわほわとした気分でベッドに転がっていた。ふんわりとした温かみとベッドのぬくもりは私を夢の世界に誘うには十分なものであったがこのまま寝てしまうと翌朝後悔する事になるのは明白だった。
ふわふわとした気分を落ち着けながら寝る前の虫達のステータスを確認し、彼らの食事と水を加えたうえで日課の日誌をつける。設置されたモニター越しに黒くて小さい友人がメッセージを送ってくる。
『普段より甘い香りがする、それに少し苦手な薬の気配も、体調を崩しているなら早く寝た方がいい』
適当にメッセージを返して休もうと思うが体が上手く動かない……世界が小さく震えているような気配もある。酒の匂いにやられたかな?そんな感想を抱きつつ一歩二歩三歩と進んだ時だ。目の前に緑のガス状の何かが見えた。それは、まるで人のような形態をとったかと思うと、私を包み込むように接近してきて……そこで記憶が途切れている。
████年 █月██日 ██████████ ████████ 秋津洲 蜜蜂
気が付いた時、私……僕?それとも俺?ともかく私は熱いザラザラした地面の上にうつ伏せで倒れていた。行き苦しい乾いた空気が灰をこがすような錯覚を覚える。いや、実際に焼かれているのかもしれない。
砂漠に足を取られながらゆっくりと立ち上がると周囲には砂の大地が延々と広がっており、遠くを見渡せば見渡すほどゆらゆらと陽炎が立ち上がり世界がゆがんでいく。試しに一歩踏み出してみる。足元は多少沈み込むが歩くのに支障はないようだ、続けて数歩足を進めてみる……じりじりとした熱さも、ザクザクとした感触も本物そのもののように感じられる。これは夢?それとも現実?頭は熱さに浮かされたようにはっきりしないがそれでも私はとりあえず歩き出すことにした。ここでは遠くない将来干からびてしまうという確信があった。
照り付ける日差しでまるで白磁のように真っ白に見える砂漠をザクザクと進んでいく。空に浮かぶ”二つ”の太陽はジリジリと身をこがし今にも意識が持っていかれそうだった。砂漠を延々と進む中で一つ気が付いたことがある。はるか遠くに小さな何かが反射しているのだ。水か?はたまた人工物かは分からない、だが遠くに動かない何かがあるのだけは確信が出来た。どうして確信できたか?そう信じないと力尽きて倒れてしまいそうだったからだ。
なにはともあれ確信してからはそこを目指して延々歩いた、夜が来ても、昼が来ても延々と歩き続けた。肺は焼けるように痛み、飢えと渇きに苛まれていたがそれでも身体だけはいつもと同じように動いた。都合2日歩いたほどだろうか。都合”4つ”に増えた太陽の元、たどり着いたのは数本のヤシと低い茂みに囲まれた小さなオアシスだった。完全に崩壊する一歩手前のデッキチェアと古びたキャンピングカーが鎮座しており、その傍らに透き通った水が湧き出る水場が存在していた。
私は迷わなかった。
一心不乱に水場に駆け寄ると四つん這いになって顔を沈めごくごくと”水”を飲んだ。それは確かに”水”だったが同時にあの角砂糖を思い出させる後味が残った……甘く、苦く、薬のような味だ。それはひどく甘ったるい毒のように感じたが、それでも身体は水分を欲し、あらがう事が出来なかった。
次に気が付いた時、私はあの水場の傍らで何かを吐き出しながらのたうち回っていた。肺は呼吸を求め、鼻も口も酸素を求めたが吸おうとしてもそれを遮るように黒い何かが溢れ出しまるで私が油田となったかのように周囲は黒い油っぽい何かに覆いつくされていく。溢れ出す何かをはっきり認識する事は出来なかったが、ただ漠然とそれは自分の一部なのだ……とだけ感じる事が出来た。
10分、それとも1時間か?半日か?ともかく死ぬほど苦しいそれが終わった時、私は暗いオアシスでまた一人転がっていた。古びたキャンピングカーから漏れるぼんやりとした明かりを除いて何一つ光源はなく、それにも星一つ見えなかった。
立ち上がる力もない有様だったが、それでも私は光に向かって這いずって、理由は分からないがそうしなくちゃいけない気がした。普段は心地よいであろう周囲の黒いそれは今の体にとっては酷い障害のように感じられたが、それでもなお数メートルの距離を這いずって体を車に倒れ込ませるだけの力は残っていたようだった。
スプリングもタイヤもすべてが朽ち果てかけた古びたキャンピングカー、ぎしぎしと軋む車内に身体を投げ出すと、中は外とは隔絶した異様な空間が広がっていた。吐き出した彼らが、集合体となってそこにいた。人の形をとり、まるで人のように椅子に座ってこちらを見下している。普段は世話をするばかりのワモンゴキブリたちが私を見下しているのが分かった。彼らは私を普段私がするように持ち上げると優しく撫で上げ、そして少しぞんざいに車体後部のバスタブに放り込む。
バスタブには朽ち果てた骨となった先客がいたが彼らは気にせずにシャワーで私を”もみ洗い”して埃と砂にまみれたベッドへと転がす。意味が分かるのに分からない、いくつかの言語が聞こえ彼らは私を優しくなでる……彼らは私を見守るように一人、二人と増えていき……そこで気が付く。
中に……誰がいる、彼らではない誰か、人ではない何か、それが彼らを身にまとい私を優しく見下ろしている……私はそれが何かを確かめようと手を伸ばす、力も入らずただただ中空を切るその手を……
それは何かで切り落とし緑の血が腕があった場所から噴き出し……そこで私の意識が途切れた。
20██年 4月██日 サイト-8100 食堂A 秋津洲 蜜蜂
結局のところ、あの出来事は夢だった。ひどく長い時間眠り続けていたように感じられたが、実際の所は6時間の睡眠の中の出来事であった、という事らしい。医務室に行っても、検査を受けても何もなし、悪い夢を見ただけだろうと薬を処方されるだけであった。
ただ、それからしばらく経っての食堂での事だ。また私はあのロシア人と食事をする機会を得た。彼ははぐらかすばかりであったが去り際に1枚の紙片を置いて行った。そこにはこのように書かれていた。
夢は夢のままであるべきだ、だがそれでも夢を望むのならフランスの甘ったるいアブサンヴィユー・ポンタリエとスティルトンを、あれは君をまた夢に導くだろう。ただし、戻ってくる心構えを忘れずに。苦い真実を覗くより甘い幻想を信じたほうが良いものだ。