決定論的時間遡行における戦術入門
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 標的の拠点は思いのほか小綺麗だった。耳元の無線機越しに、ノイズ混じりの戦闘音が聞こえている。隊員達が気を引いてくれている内に、この仕事を完遂しなければならない。極力足音を忍ばせながら、夕凪は寂れた元雑居ビルの中を駆けた。

 気がかりなのは、聞こえてくる戦闘の様子が元の作戦と少々違っていることだ。場所も、時間も、作戦から少しだけずれている。とはいえ、機動部隊の作戦にイレギュラーはつきものだ。何があったにせよ、今この場で彼らの援護をできるわけではない。自分にできるのは、速やかに対象を救出することだけだ。

 今回の任務自体は、至ってシンプルだ。4時間前に拉致された財団の研究者を奪還する。標的は人型実体のグループだ。目撃情報からしても、実行犯は片手で数えられる程度の小規模な集団だろうと推測されている。拉致事件の発生から作戦開始までの時間が短いため、標的の情報は殆ど集められていない。とはいえこの状況では、情報の不足を嘆くよりも、この速さで標的の拠点を特定できたことの方を賞賛すべきだろう。

 この建物の間取りはそう複雑なものではない。拉致した人間を閉じ込めるだろう場所にも、概ねの当たりはつく。次々にドアを開け、無人であることを確認し、上の階へと駆け上がる。大部分の部屋は使われていないようで、埃を被っており、鬱陶しい蜘蛛の巣がそこかしこに張られていた。

 手応えがあったのは、階上へ上がってから二つ目のドアだった。ノブを回し、体重をかけて開こうとして、それはがちゃりという大きな音と共に抵抗した。少し遊びのあるラッチボルトとストライクが勢いよくぶつかる重い音。鍵がかかっている。

 ──ここが、当たりか。

 夕凪は迷いなくショットガンを構えた。中の人間に当たらないように45度の角度をつけ、素早く2発、ラッチを撃つ。意図通りに破壊できたことを確認して、ドアを蹴破った。

「……貴方が、篠原博士ですね?」

 薄暗い部屋の奥には、後ろ手に縛られた人間が蹲っていた。その人影は痛みを堪えているかのように鈍い動きでこちらを見上げ、こちらの問いに対して弱々しく頷いた。口元はガムテープで塞がれていた。

 駆け寄って近くにかがみ込む。人相も資料で見たものと同じ。研究者としては若手の部類なのだろう。年齢は自分よりも2つ上のはずだが、やや童顔で、同い年か歳下あたりに見える。一重の目がこちらを見返す。間違いなく、今回の救助対象だ。

 研究者というものは厄介ごとばかり運んでくるものらしい、というのが、最近の夕凪の所感だった。先週も、サイト内での実験中に不手際があったらしく、そのせいで夕凪たちは緊急出動を余儀なくされた。そして今回の任務は、人型実体の集団に拉致された研究者の奪還だ。単に偶然連続しただけなのだろうが、もしかすると機動部隊の仕事の半分は研究者の尻拭いなのではなかろうか、とすら思えてくるほどだった。

「財団所属の機動部隊です。あなたの救出に来ました」

 べり、と夕凪が口元のガムテープを剥がすと、篠原は痛みに一瞬だけ顔を歪めた。

 自分はアノマリーが嫌いだ。異常な実体が嫌いだ。それはいつも自分や人々の生活を脅かす。自分の親を殺したのも、その存在を過去からすら拭い去ったのも、この世にいてはならない異常な存在だった。エージェントとして、理不尽な異常性に殺された人々とその遺族の嘆きを、繰り返し見てきた。
 そんなものを壊すこともせず、実験室で弄くり回している研究者という存在を、理解し難い連中だと思っていた。

 財団の超常テクノロジーも、本音を言うならばあまり好きではない。特に、ブラックボックスのまま異常現象を利用するような類のものは。理解できないものは危険だし、わからないものをわからないままに使うことはさらに危険だ。──その点、相棒の銃器はそれぞれ、構造がわかりやすいから良い。己の手で分解と手入れのできるものならば、命を預けても良いと思える。

 とはいえ、これは仕事だ。腹立ちであれ思い入れであれ、私情を差し挟む余地はない。

「ありがとう、ございます。……もう、そんなに時間が経ったんですね」

 篠原の声は掠れていたが、想像していたよりも気丈なものだった。それに少しだけ安堵する。最悪の場合、昏睡状態の人間を担ぐことを覚悟していたが、その必要はなさそうだ。自力で歩ける相手ならば、脱出の難度も段違いになる。

「切っていただけますか」

 こちらに差し出された手首は、ケーブルタイで拘束されていた。剥き出しの肌を傷つけないよう、慎重にナイフで切る。解放された手首には痛々しい赤い跡が残っている。拷問でもされたのか、左手の小指と薬指の爪が剥がれていた。それを見て、わずかな同情を抱く。戦闘とは本来無縁のはずの研究員にとっては、恐ろしい経験だったことだろう。

 同時に、「どんな機密を漏らしたのだろうか」とも思う。篠原がこの人型実体に伝えた情報によっては、これから更に厄介な事態も発生しうる。

 篠原は表情の抜け落ちたような顔で、乾いた血で汚れている自分の手を見下ろしていた。

 その姿に、微かな違和感を覚える。拉致されてからこの救出作戦まで、4時間程度しか経っていないはずだった。それなのに、まるで、一日以上囚われてでもいたかのような、この疲弊具合と虚脱具合。シャツに着いている血の跡らしき染みも、まるで一晩以上経ったかのように乾き切り、くすんだ褐色をしていた。

 何か、想定外のことが起きているのではないか。或いは、自分は何か大きな間違いをしているのではないか。異常に近い戦場で磨かれた嗅覚が、曖昧な懸念を囁く。──否、拉致された職員は間違いなくこの人間だ。想定外の事は何も起きていない。今は目の前の任務に集中すべきだ。

 余計な思考を振り払うように、夕凪は篠原に声をかけた。

「……早く、ここを出ましょう。付いてきてください」

 立ち上がった篠原が一歩踏み出そうとして、止まる。

「待って、ください」

 掠れた声。篠原の迷うような視線に対して、夕凪は頷いて先を促す。

「……もう一人、いるはずなんです。私以外の人質が」

 瞬時に、夕凪の脳裏を今回の作戦の情報がよぎる。襲撃された財団所有のバス、それに乗っていた職員のリスト、襲撃者に関する僅かな情報、そしてこの作戦が開始してからの経過時間。

「確かな情報ですか。バスに乗っていた職員は、貴方以外、全員無事が確認されています」

 篠原は青白い顔で答える。

「見たわけではありません。ですが、主犯格が私以外の人質の存在を匂わせていました」
「……わかりました。他の部屋も確認しましょう」

 早足に部屋を後にする。篠原は手指を傷つけられただけで、歩行の様子に問題はなさそうだった。

 同僚たちはどれほど持ち堪えてくれるだろう。いもしない人質を探して時間を浪費して、同僚を死なせる可能性も、救出対象であるこの篠原博士を喪う可能性もある。もう一人の人質が本当にいるとしても、それが財団の研究者とは限らない。当初の目的であるこの博士だけを確実に助け出すのが最良なのではないかと、迷いがあった。

 そんなことを考えていたから、反応が遅れてしまったのかもしれない。

 篠原を連れて、各部屋の確認をしながら四階の通路を足早に進んでいる時だった。前触れなく、数歩先の扉が開く。

 出てきたのは少し小柄な男だった。顔に見覚えはない。特に怯えた様子もなく、この建物の中で平然としているその立ち居振る舞いから、普段であれば瞬時に敵であると認識できただろう。しかし、他の人質がいるという情報による先入観が、咄嗟の判断を鈍らせた。

「──敵です!」

 背後の篠原の声を受け、ショットガンを構える。驚いたように目を見開いた男の顔。

 迷いなく引き金を引いた。

 発砲した手応えは、確かにあった。腹に響く音も、腕に痺れを残した衝撃も、実弾の発射という事実を訴えている。

 それなのに、目の前の男の服には血痕一つ散らなかった。

 ──まずい。

 『銃が効かない異常存在からは逃げろ』。今までの経験から体に染み付いているその原則に従って、篠原の腕を掴んで撤退しようとした瞬間、目眩に襲われる。

 視界が歪む。

 瞬きの後には、視界が一変していた。いたはずの雑居ビルとは違う壁、違う床。そこは廃墟のような一軒家の中だった。埃を被ったフローリングの床には、魔法陣のような赤茶色の紋様が手書きされている。この色味からして、これはほぼ確実に血だろう。

「──篠原さんっ」

 鋭い声と共に振り向く。明らかにこれは異常による転送だ。この状況で一番恐れるべきは救助対象との分断だった。

「はい、ここに」

 先ほどまでと同じ距離感で後ろに立っていた篠原は、落ち着いた声で返事をした。その表情には、多少の動揺は見られても、恐慌の兆候はない。

 銃を構え、油断なく辺りを見渡す。厄介なことになった、と内心で舌打ちをした。他の人質を探したりなどせずに、すぐに帰還するべきだったのだ。足元にはひしゃげたブラインドが落ちている。本来は窓に設置されているべきはずのものが、何故か床の中央近くに。

「──あの。多分、ここには敵はいません。少なくとも、今は。これから来る可能性はありますが……」
「何故」

 銃を構えたまま、短く問う。戦闘の素人である研究員がこの場で口出ししてきたことに、わずかな苛立ちを覚えた。
 篠原は短く息を吸い、硬い声で答えた。

「これはおそらく時間移動です。過去方向か未来方向かはわかりませんが。こちらの壁に弾痕があります。先程発砲された弾丸がここに飛ばされたのだと推測します」

 篠原が指した先を見れば、確かに、壁には散弾銃の痕が残っていた。

 あたりを見渡す。奇妙な空間だった。少し離れた場所にある食卓の上には、まるで先ほどまで誰かが食事をしていたかのように、茶碗一杯分の米と餃子のパックが広げられている。慌てて立ち去ったのか、箸は無造作に机の上に転がっている。……いや、違う。古すぎる。米も餃子も変色し黴が生えている。まるで、数週間前に、食事の最中に誰かが忽然と消えてしまったかのように。

「そのような使い方をするのならば、ここはおそらく、銃弾や爆発物などを送りつける、緊急用のダストシュートなのだろうと考えました。であらば、そのような場所に、人員を配置する可能性は低いのではないでしょうか。私が見た限りでは、さほど人員に余裕があるわけでもなさそうでしたし」

 この研究員は監禁中に敵の情報を収集していたらしい。博士になるような人々は浮世離れしたことにしか興味がないのだと思っていたが、案外、ちゃんと現実を見ているものなのかもしれない。この人間も財団職員なのだな、と、内心での評価を改める。

 篠原は不安げな顔で夕凪を見つめている。

「差し出がましかったでしょうか」
「いいえ。あの男の異常性をご存知なのですか?」
「……人質として見てきたものからの推測になりますが、それでもよいのなら」
「もちろんです。今は少しでも情報が欲しい」

 周囲の様子から、この場所については概ね予想ができていた。この作戦開始直後から、夕凪は似たようなものを何度も見ている。

 だが、時間移動については、全く情報がない。

「時計──ああ、動いているのがあちらに。あれは多分、あなたの時計からは随分遠い時間なのではないでしょうか」

 篠原が指した壁時計に目をやる。6時20分。あの時計が壊れているのではなければ、あり得るはずのない時刻だった。

 咄嗟に、手首の端末の表示に目をやる。デジタルで示される日付と時刻は、こちらも"今日"の午前6時21分。
 位置情報は安定せず、地図上のあちこちに現在位置を示す点が飛ぶ。通信環境が不安定らしい。装備してきた通信機器がまともに機能するか、怪しいところだ。少なくとも、当てにするべきではない。

「本当に……ここは過去のようですね。任務開始から7時間ほど前の時刻が示されています」

 過去へ飛んだ、というのは、おそらく事実なのだろう。窓から見える建物群から、あの雑居ビルまでの距離も概ね予想がついていた。その上で、この距離で交戦の音が全く聞こえていないのはおかしい。太陽の角度も、早朝か夕暮れ近くであることを示している。

 茹だるほどの暑さなのに、蝉の声ひとつ聞こえていなかった。あの雑居ビルの中にいた時と同じように。時間の停滞したような空間を満たす、じっとりとした蒸し暑さ。

 情報の共有が先か、異常な空間から離れるのを優先すべきか。少しの逡巡の後、折衷案で妥協する。篠原に視線を戻し、提案した。

「まずは場所を変えましょう。もしここがダストシュートなのだとしても、定期的に人が訪れる可能性はあります。……あれらにとって価値のない場所の方が安全です。込み入った話は、その後に」
「わかりました」

 篠原は素直に肯定した。

 窓の外に視線をやる。異常な生物が闊歩しているわけでもなく、空に異常な物体が浮いているわけでもない。何の変哲もない住宅街だ。住人がどこにも存在しないことを除いては。

 篠原を連れて、玄関から出る。鍵はかかっていなかった。どちらへ向かうか少し迷い、右へと足を向ける。家屋一つ分ほど歩くと、建物の隙間から7階建てのビルが見えた。数百メートル先にある、この辺りではさして背が高い方でもない建物。夕凪はそれを指し示す。

「あれが、先ほどまでいた雑居ビルです」
「あれが……ずっと中にいたので、外観は知りませんでした」

 篠原は興味深げな顔で、しばし、それを見上げる。
 篠原が囚われていた雑居ビルは人型実体の拠点だ。だが、彼らが支配していた空間は、雑居ビルだけではない。ここは、市街地を複製して作られた小型現実空間だ。視界が及ぶ限りの空間全てが彼らのテリトリーなのである。

 自分達は今、敵対的な人型実体の腹の中にいるのだ。


◇  ◇  ◇


 ひとまず腰を落ち着けることにしたのは、転送された家屋から3本ほど道路を跨いだ場所にあるアパートの一室だった。急を要さないのであれば、ショットガンを使わずとも、針金一つで鍵を開ける術は心得ている。エージェントになってから身につけた技術の一つだった。

「あなたが見た人型実体は何人ですか」
「名前を聞いただけの者も含めれば三人。この空間を操作する人型実体と、物体を鼠に変える人型実体と、物体を過去へ転送する人型実体です」

 学生の一人暮らしらしい狭い部屋に、膝を突き合わせて座る。夏にしては静かすぎる、窓の外の沈黙。篠原の顔色にはやはりまだ疲労が見えるが、その声は明瞭だった。爪を剥がされていたことを考えると、少しばかり、冷静すぎる気がするほどだった。

「名前だけ聞けたのは、この小型現実空間の作成者。後藤と呼ばれていました」

 この空間が自然物ではなく人為的に作られた空間であるというのは、任務前に聞いている。

「集団内での後藤の立ち位置はどのような感じでしたか? 協力者? 空間の提供だけ?」
「彼らの口ぶりから察するに、おそらく行動を共にしています。私を拉致した時にも、後藤の異常性が利用されていたはずです」

 作戦開始前の移動中に、この小型現実空間の性質は聞いていた。ある時刻での基底世界の物質を写し取った、写真のようなものであること。物体や建造物の破壊が可能であること。破壊の余波が元になった物体に行くことはないこと。空間の作成者は、空間自体を経由した異常な知覚能力を持っていない可能性が高いこと。

 聞かされていた性質を、思い出せる限り篠原に伝える。説明を聞き終えた篠原は、耳を澄ますように目を閉じて、指の関節でコンコンと机を軽く叩いた。次に爪を立ててその表面を引っ掻きながら、最初は音を、次は机の表面を観察する。最後に立ち上がって、部屋の隅に落ちているプリントを一枚拾い、折り目をつけ、その端を破いた。

「……確かに、そのタイプの小型現実空間のようです。虫も見かけていませんし、Ⅱ型の亜種でしょうね。おそらく、第三者による空間への出入り口の作成すらも感知できないタイプです」
「わかるんですか?」
「こう見えても、時空異常理論の専門家ですので」

 篠原は少し自虐的な笑みを浮かべた。

「知覚能力がないという予想も当たっています。空間の制作者に限らず、彼ら全員とも、異常な手段での監視能力を持っていないのでしょう。少なくとも、音と視覚に関するものは。部屋に監禁されている時に色々とブラフをしてみましたが、どれにも反応がありませんでした」
「ブラフ、というのは」

 篠原は少し気恥ずかしげな様子で、財団と音声通信をしていると誤認させるための一人芝居をしたと語った。その前後で警戒の様子が変わることもなく、持ち物の検査も行われなかったことから、監視手段を持っていないと判断したのだと語る。

「身体検査をされなかったんですか? 拉致から現在まで一度も?」
「はい。そもそも、このタイプの予知能力者は警戒や見張りを必要としないのです。人質が脱走する時刻を未来から教えてもらえるのですから」

 篠原はそう言ってから、少し言いにくそうに切り出した。

「あの……そのヘルメット、脱いではいかがでしょうか。暑い時期ですし、顔が見えないのはいささか怖くて。ええと──」
「ああ、すみません。名乗っていませんでしたね。夕凪です」

 脱いだ途端、蒸れた肌に新鮮な空気が当たり、心地よい涼しさを感じる。

「やはり、女性の方だったんですね。女性の機動部隊の方は初めて見ました」

 その言葉を聞いて、またか、と思う。だからあまり、顔を晒したくはなかったのだ。部外者に、いつも言われている言葉だった。その言葉に暗に含まれているだろう感情を察して、心臓に鈍い痛みを覚える。女性の機動部隊なんて頼りない、と、きっとこの人も思っているのだろう。

 言い訳がましいと思いながらも、口を開かずにはいられなかった。

「……今回の侵入経路では、体重の軽い者の方が都合が良かったので、私が救出の役割を担うことになりました」
「なるほど、そういうこともあるんですか。機動部隊といえど、一概に強くて大きければ良いわけではないと。無知でお恥ずかしい。勉強になります」

 予想外に、篠原の返答があまりにも素直に感心している様子で、いささか毒気を抜かれた。もしかすると先ほどの発言にも、全く他意がなかったのかもしれない。最近の自分は、どうにも卑屈になりすぎている自覚がある。

「財団の研究者界隈も随分な男社会ですけど、機動部隊では尚更でしょう。……感服します」
「ええ、……そうですね」

 苦笑いで応じた時には、もう心臓の痛みは薄れていた。

「それで、二人目、鼠に関する異常性を持っている人物についてですね。バスを襲撃した異常性は、主にその男のものです。明確なことを言い切れませんが……私が見たのは、物体を鼠に変え、また鼠から物体に戻す、というものです。質量は保存されていたように思います」

 どうしてこの人はこんなにも淡々と、ともすれば楽しげにすら聞こえる口ぶりで、異常について語るのだろう、と思った。異常は恐れるべきものであり、この人はあの人型実体たちに爪を剥がされてすらいるのに。

「鼠を経由して別の物体を出現させられるかは不明です。対象は有機物・無機物を問わず、人体も含まれます」
「……人体」

 口の中で、篠原の言った単語を反芻する。「人体も含まれます」。篠原はそれを見たと言った。バスを襲撃された時に見たのか、それとも。凄惨な状況が頭に浮かびかける。

「もしかして、篠原さんが──」
「……ええ、はい、脚と片腕を変えられ、元に戻されました。後遺症はなさそうです」

 この通り、見た目も機能も完全に元通りです、と言って、篠原は片腕の袖を捲り上げた。右手を開閉し、問題ないとばかりに頷く。

「こちらの腕一本が十匹弱の鼠になっていました。とはいえ情けないことに、あれは覚悟していたよりも辛くて年甲斐もなく……あの時の記憶は少々曖昧ですが、余計な情報は漏らしていないはずです。……すみません。本来なら、後遺症なく異常現象を体感できたことを喜ぶぐらいでいるべきだったのですが。もっとよく観察しておくべきでしたのに、もったいない事をしてしまいました」

 心底申し訳なさそうに肩を窄める篠原を見ながら、どのような感情を抱くべきかに困った。やはり、この研究者はどこかおかしい。

 異常性の及ぶ距離と条件について、篠原は説明を再開する。篠原の見た事例によると、少なくともこの部屋の中は十分にカバーしているらしい。格闘戦の間合いを大きく上回っている。機序は不明だが、現実改変である可能性が高い。また、多くの人型実体の異常性がそうであるように、正確な制御には視認が求められるようだった。

「ありがとうございます、それも貴重な情報です。助かります。……最後に、私たちを飛ばした時間移動について、伺えますか」

 篠原は力強く頷いた。

「はい。彼の異常性が一番よくわかっています。自分の体を原点として扱い、物質を過去へ飛ばす、というのが、おそらく異常性の基礎の部分です。先ほど私たちが飛ばされた先の部屋の床に、血で書かれた模様がありましたよね? あれには体を意味する単語が書かれていました。初歩的な奇跡論を補助として用い、転送先となる『自分の体』を拡張しているのでしょう。それ以外の用途に奇跡論は用いられていないことから、奇跡論自体は戦闘に使えるほどの練度ではないように思われます」

 篠原の返答は饒舌だった。先ほど言っていた通り、あの男の異常性が篠原の専門分野だからだろう。

「私の予想が間違っていなければ、ですけれど、篠原さんが過去に飛ばされるのは二度目でしょうか」
「はい、そうです。バスを襲われ、拉致された直後に転送されました」

 あの転送直後、「時間移動」という単語を聞いてから、推測していたことだった。篠原の疲弊している様子と服の汚れの状態は、篠原自身が既に時間遡行を経験しているのならば辻褄が合う。

「転送先はあの雑居ビルの一室で、床には先ほどの家と同じ血文字が描かれていました。遡行したのは15時間から20時間程度。拉致されてから正しい時計を見られていないので、正確な時間は分かりませんが、概ねこの時間が彼の遡行能力の限界と考えて良いでしょう。最大まで長く見積もっても、数日程度までしか遡れないはずです」
「……あの、どうしてそんなに嬉しそうなのですか?」

 はっきりとした笑顔すら浮かべ始めた篠原に対し、思わずそう言ってしまった。篠原は恐縮したように、一転して肩を窄める。

「すみません、不謹慎でした。自分の研究している分野を体感できた興奮のあまり……」
「いえ、お気になさらず。……とりあえず、一旦、時系列を整理していただけますか」

 篠原の腕時計、自分が突入した時刻、そしてこの部屋にある時計の時刻をすり合わせ、2回の時間遡行による時間差を計算する。部屋を漁って手に入れた方眼のルーズリーフに、篠原はさらさらと時系列を書き込んだ。

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 ふと、疑問が浮かぶ。

「……何故、我々は7時間も前に飛ばされたのでしょうか。過去にしか送れないにしても、もっと短い時間、数秒前程度に送るのが彼らにとって最適のはずでは?」
「あの男にとっては咄嗟の回避行動でしたし、微調整が難しかったのだと思われます。我々研究者のような機械制御ではなく、手動制御の遡行ですから。ベースが数時間単位の時間遡行ならば、数秒単位の時間遡行はむしろ難しいのかもしれません」
「すみません、詮無いことをお聞きしました。あなたが時間遡行を使ったわけでもないのに」
「いえ、疑問点があればなんでも聞いてください。できる限り専門家として答えます」

 篠原の目は真っ直ぐにこちらを見ている。真摯な目だ、と思った。やはりこの人間も頭のおかしい研究者のようだが、研究対象に対する一途さは本物なのだろう。少なくとも、情報については信頼できそうだった。

「では、拉致から現在までの出来事を教えていただけますか。……言うのも辛ければ、途中を伏せていただいても大丈夫ですので」

 爪の剥がされた手を思い出しながら、言葉を付け加えた。

「お気遣い、ありがとうございます。そうですね……まず、両手両足を拘束された状態で、『財団の研究員、人質』と書かれたメモ書きを胸ポケットに押し込まれ、すぐに転送されました」

 これです、と篠原はポケットの中からよれたメモ用紙を取り出す。

「襲撃そのものには三名全員が関わっていたようです。尋問を受けたのは、転送から三十分ほど経ってからだったように思います。尋問の開始時には、太陽の角度などの情報から、時間転送が起きていたことに気づいていましたし、彼らは彼ら自身が知っていたはずの──知っていなければあのような襲撃はできないはずの情報について聞いてきたので、時間遡行だと確信した上で、真実と嘘を織り交ぜて答えました」
「真実と嘘、というのは」
「あのバスの中で、財団にとって最も価値のある存在は私だと伝えました」

 実際には一番代えのきく人材なので、と篠原は言った。誰か一人が捕まるのであれば、それを自分にするのが最も都合が良いと思ったのだと。

「すぐに吐いては信用されないと思い、多少の拷問を受けてから答えましたが……少し、甘く見ていたようです。普段の職場では怪我をする機会などほとんどないもので。拉致に必要な情報は、すべて正直に答えました。嘘を言っても意味はありませんし、かえって他の証言に不信感を抱かせてしまうので。それ以外の、すぐには真偽を確かめられない機密などについては、嘘を伝えました」

 無知ゆえのものかもしれないが、肝が座りすぎている。手足を鼠に変えられ、爪を剥がされるような拷問を受けて尚、相手へ流す情報の操作と敵方の情報収集に努めていたとは。これが財団の研究員の標準なのだろうか、と思うと、背筋が薄ら寒くなる気がした。

「あと、これは私が二枚目の爪を剥がされている時に聞いたことなのですが」

 そのような淡々とした口調で語られるべきではない内容に、顔が引き攣りかける。

「彼らの目的はおそらく、財団に収容された仲間の奪還でしょう。最近セクター8105に収容された、空間転移能力のある人型実体のことを知っているようでした。口ぶりからして、あの集団のボス格だったようです。随分と慕われていたようでした」

 異常性の持ち主というものは、この社会では少数派だ。それが生活を妨げるものであるにしろ、悪用可能なものであるにしろ、異能それ自体が社会に想定されていないものであることには変わりない。複数の人型実体のプロファイリングを読んだことがあるが、いずれも社会に馴染みきれず疎外感を持て余しがちな傾向があった。だから異能の持ち主は互助的な集団を作る傾向にあり、強い結束を持つものも少なくない。

「そもそも、私が乗っていたあのバスの便も、その人型実体に関する実験と情報収集のためにセクター8105を訪問した帰りでした。予定より長引いてしまい、泊まり込みになって……そう、彼らが仮に私たちの訪問の予定を知っていたとしても、長引いたことを知らなければ、昨日──いえ、通常の時間の流れでは今日これから、ですね──の、襲撃自体が不可能だったんです。彼らの襲撃計画は、拉致された私の証言を元に立てられたもので間違いない」

 そこで、篠原は一度言葉を切った。
 思いがけず、力強い眼差しがこちらを見つめる。そこに何かしらの覚悟の色が見えて、夕凪の背筋が無意識に伸びた。

「夕凪さん、あなたの任務が私の回収であるということは、重々承知しています。このままこの小型現実空間から帰還するべきだということも。ですが、過去に情報を送れる人型実体は、極めて厄介な存在だと進言します。あれは予知によって常に最適な行動を取り続けます。……もし、許していただけるならば、この遡行した7時間を彼らの確保・収容のために使わせてもらえませんか」

 異常現象を利用する。それは、夕凪にとってはありえない発想だった。

 異常を正しく恐れられることが、エージェントの資質の一つなのだと思っている。いち早く異常に気付き、それを避けることこそが、エージェントの生存率を上昇させる。だが、研究者にとっての資質は真逆なのだろう。異常を解きほぐすのが仕事の彼らにとって、異常は敵ではなく、興味関心の対象なのだ。

「彼らにとって想定外のこの7時間の遡行は、貴重なものです。あなたは戦闘の専門家で、私は時空異常の専門家です。この状況での作戦立案に十分な知識が揃っていると思います。私も財団職員です。微力ながら、専門家としてこの問題に対処したい」

 どこか切実ささえ感じられる篠原の言葉を、真正面から受け止める。自分の任務、短期的な目標、長期的な財団の利害。研究者という存在は、信じるに足るものであるか。

 研究者という存在は、あまり好きではない。それは一般人と同様に無力で、一般人よりも遥かに問題を引き寄せる人種だ。そう、思っていた。

 けれど、遡行してからこの部屋で、夕凪はずっとこの博士の話を聞き続けた。戦闘に身を置く者ではなくとも、財団職員らしい腹の決まり方をしている人だ。異常への向き合い方は自分とは違うが、その知識と能力は本物なのだろう。──この人なら頼ってみても良いかもしれない、と思えた。


◇  ◇  ◇


「時間異常に対処した経験はお持ちですか」

 篠原の質問に、夕凪は素直に首を横に振った。

「いいえ」
「知識はどの程度でしょうか」
「研修時代に、基礎的なことだけなら」
「では、もう一つ、聞きたいことがあります。時間異常、特に時間遡行、過去介入的な異常性を持つ現象と遭遇した時、最優先で守るべき原則はどのように教わりましたか。理由も含めて、思い出せる限り正確に、述べてみてください」
「過去を変えようとしてはいけない。CKクラスシナリオ──過去、歴史の再構築を引き起こす可能性があるためです」
「正解です。──ですが、理由の方には不足があります」

 一瞬、迷うように、篠原の視線が宙を彷徨う。

「……そうですね。正直に言いますと、私の専門は比較的理論に寄っているので、実践的なことは本来守備範囲外です。人に教えられるような立場ではありません。それを念頭に置いて聞いてください」
「わかりました」

 そう答えると、篠原はこちらの目を見つめて頷いた。

「財団職員として、CKクラスシナリオを引き起こす恐れのある行動をしてはいけないというのが、勿論、第一にして最大の理由です。しかし、実際のところ、CKクラスシナリオを引き起こしうる時間遡行というのは、ごくまれなのです。この状況で私たちが過去を改変してはならないのは、その試みが必ず失敗するからです」
「過去改変の失敗、ですか」
「はい。過去というものは、簡単には変えられません。並行世界は簡単に派生しません。そうでなければ、除外サイトは常に現実と齟齬のある文書が溢れかえることになります」

 除外サイトとは、機密文書を保管し、異常による遡及改変から保護するために使用される財団施設だ。そのサイトは超常技術によって世界から隔離されており、内部の物品は世界再構築シナリオの影響を受けることがない。

「異常に向き合う我々からすると、世界は頼りなく儚いものに感じることもあるものですが、一方で非常に強固でもあるのです。CKクラスシナリオを引き起こしうる異常は、……専門用語を使わずに表現するならば、高い『格』を持つ、極めて稀な異常のみです。……例えば、神格実体なら高位の神、現実改変ならば桁の違う現実強度のようなものと考えてください。今回のように、一介の、さほど財団から注視されていなかったような能力者が有している可能性はほぼゼロと言って良いでしょう。もし彼の時間遡行が過去、ひいては世界を書き換えるものであるならば、これほど小規模な作戦であるはずがない。その場合、彼は世界を手にしていると言っても過言ではないのだから、求めるものも見据える未来も、この程度で収まる筈がない」

 まるで研修中の教官か、大学の講義かのように、篠原は滔々と語る。部屋の一角には、持ち主のいない参考書が小さな棚にぎっちりと詰め込まれていた。棚の中には見覚えのある参考書もあり、懐かしさと共にかつての学生生活を思い起こさせられて、余計に大学の講義を受けているかのような気分になってくる。

「もしSF作品に触れる習慣があるのでしたら、過去や未来が変わらないタイプのタイムトラベル作品を読んだこともあるかもしれません。例えば、『週刊連載をしている漫画家が、タイムマシンを使って未来の自分の作品を手に入れて、それを盗作する』というストーリーがあるのをご存知ですか?」
「ああ、某SF少年漫画の」
「ええ、某SF少年漫画の」

 篠原は大真面目な顔で頷いた。

「あれと同じように、この時間遡行はタイムトラベルを含んだ形で時空が安定しており、過去と未来がズレないのです。某少年漫画の例で言うならば、タイムマシンを使って手に入れた未来の週刊誌と、それを模写して出版社に提出した原稿は、完璧に一致します。よって、パラドックスはどこにも存在しません。……原稿の作者は誰か、という問題は残りますがね」

 篠原は楽しげに笑みを浮かべた。

「このような時間遡行においては、私たちは決定論的世界を想定して思考せねばなりません。私たちが見ていた現在、この時間から考えれば未来にあたる出来事は、必ず起こる。その原則に従って今後の作戦を立てる必要があります。
 重要なのは作戦の堅実さでも確実さでもありません。尤度ゆうど──その作戦がどの程度、我々の見た未来を尤もらしく説明できるか、これに尽きます」

 具体的な例を挙げましょう、と言って、篠原は向かいに見えるアパートの一角を指差した。

「もしあの部屋の中に人質がいて、尚且つ、我々が未来で傷のないあの壁を見ていたのならば、壁の爆破がどれほど確実な作戦であったとしても、爆破作戦を採用すべきではありません。爆弾は何らかの不測の事態によって、起動しない。必ず妨害されます」
「なるほど……確認のために、この状況に対する私の理解を話してみても?」
「どうぞ」

 篠原の視線に促されて、夕凪は続ける。

「つまり……未来の私は未来の貴方の救出作戦に必ず成功する。私たちが考えるべきは、未来の──私自身にとっては過去に見た景色と、整合性のある作戦であるか。私は作戦中にもう一人の自分に遭遇することはなかったから、これから立てる作戦で、一周目の自分を妨害しないかを懸念する必要はない。もし気を付ける必要があるならば、それはむしろ二周目の、今の私のために、である。もし過去の自分と同じ時間に同じ場所に居合わせてしまうような計画を立てた場合、二周目の私は何らかの不慮の事態により、その計画を実行できなくなる」
「その通りです」

 篠原は安堵したように頷いた。

「専門家たちはこれを、時間異常第一法則、あるいはノヴィコフの首尾一貫の原則と呼んでいます。決定論的な時空を想定する場合では、時間遡行の前後で過去と未来が一致しない、つまり首尾一貫しない時間遡行は、禁じられています。法律による禁止ではなく、物理法則的に起こり得ないという意味での禁止です」
「そうであるならば……未来に起きる出来事は決まっているのですよね? 私たちがこれから立てる作戦自体すらも。では、私たちに自由意志はなく、ひいては作戦を比較検討することは不可能、あるいは無意味、ということにもなり得ませんか」

 そう尋ねた瞬間、篠原の目が輝いたように見えた。

「鋭いですね。ある意味でそれは正しいです。全てを知る神の視点、あるいは更に未来の視点からであれば、これから起きる事象は全て確定しています。しかし、今ここにいる私たちの視点ではそうではない」

 篠原の声は、今までよりも一段、明るく聞こえた。それが本来の声であるかのように、生き生きとした抑揚で言葉を続ける。

「私たちが知っているのは一部の未来であり、確定しているのは一部の未来だけです。それ以外は不確定として取り扱って良く、そこに我々の行動選択の余地が広がっているのです。……そう、通常の時間の流れと同じことです。基本的に、未来は決定している。試験の合否も、私たちの享年も、全ては確定している。けれど私たちは、合格の『可能性』を少しでも高めるために試験勉強をしますし、その行いは合格を掴む方向に正しく作用します。神ではなく、私たちのような当事者にとっては、今のような時間遡行と日常の違いは、未来の一部が見えているか、全く見えていないかという、それだけの違いなのです」
「……では、全部が見えている場合は、どうなるでしょうか。自在に過去に情報を送ることができる、あの人型実体の場合は」

 彼を知り己を知れば百戦殆からず。これは機動部隊の任務でも言えることだ。これから向かい合うオブジェクトの異常性や情報を、事前にどれだけ集められるかが、作戦の成否を決める。人型実体が相手ならば、その実体の手札や、思考の傾向をも把握する必要があった。

「……そうですね」

 篠原は口元に手を当て、少しばかり考え込む。

「その場合……自由意志の排除された、決定論的な世界に見えるでしょう。彼の見る世界では、全てが最適化されています。未来から送られた予言に従って行動し、同じ予言を過去に送る。過去は変えられず、変える必要もない。最善の行動を指示されるのです。少なくとも当事者にとって、全ての指示が最善のものに写り、より良い未来に変える余地が残されていない。故に首尾が一貫する。能力者が自在に未来の情報を取得できる場合、このような形で未来は安定します

 想像する。未来から送られた予言に諾々と従う予言者。最適化された指示書に頼りきりの人型実体の集団。彼らが何を考え、どう感じているのか。どのような思考で、財団に弓を引くに至ったのか。

 痛みも疲労も変わらないだろうに、篠原の顔には自然な笑みが滲んでいた。ともすれば、自分が救出に来た時よりも嬉しそうなほどに。
 学者とはこういう生き物なのか、と、その時、腑に落ちた。どんな異常事態であろうと、専門分野に関する説明や討論を心底から好んでいるのだ。

「他の事例を教えてくれませんか。できれば、具体的なものを。時間というものの性質と、その使い方について、もっとイメージができるようになりたいです」

 そう尋ねてみれば、ふむ、と篠原は軽く目を伏せて考え込む。

「では……財団内で既に実用化されている時間遡行技術について、解説してみましょう。夕凪さんはRSA暗号をご存知でしょうか? 情報セキュリティ関係の単語なのですけれど」
「たしか、桁の大きい素数同士の掛け算をするのは簡単でも、因数分解には時間がかかる、ということを利用した暗号のことでしたっけ」
「そうです、それです。財団はRSA暗号を突破するために、時間異常技術を使っているんです」

 RSA暗号は、現在主流の暗号だ。例えば、大きな素数二つの掛け算は、普通の人間でも紙とペンがあれば簡単にできる。しかし、その逆の、掛け算をした後の数値から、大きな素数二つの掛け算の形にするのは難しい。それは計算機にとっても同じであり、全ての数で割り算を試して答えを探す総当たりのやり方しかできないため、やはり時間がかかる。

「通信における暗号に求められるのは、原理的に解けない、というものではありません。現実的な時間で解けなければ、──例えば、解けるものだとしても、解くのに千年かかるものであるならば、暗号としての目的は果たしている、ということになります。だからこの暗号は実用的であるとされています。
 しかし、この『現実的な時間では解けない』という問題は、最適解で安定する時間遡行機構にとっては課題になりません」
「最適解──先ほど言っていた、改善の余地のない状態のことですね」
「そうです。未来の情報を使用し、かつ、最適解で安定するアルゴリズムを組むことができれば、この素因数分解を一瞬で解くことができます。例えば、ある6桁の数値について、それが『3桁の素数かける3桁の素数』の形に素因数分解できることがわかっているとします。この時、こういうアルゴリズムを組めばいいんです。未来から3桁の数字を二つ、取得します。その数字を掛け算し、目的の6桁の数字になったならば、同じ3桁の数字を過去に転送する。もし答えが6桁の数字に合致しなかったならば、最初に取得したものとは異なる3桁の数字を二つ、過去に転送する。これを実行したとき、どうなると思いますか」

 今までの任務とは全く違う頭の使い方に、脳が焦げつきそうだった。

「……時間遡行の前後で首尾一貫するのは、転送される数字が答えであるときだけ、ですよね」

 篠原は嬉しそうに頷く。篠原の上半身が、軽く前に乗り出した。

「はい、はい、まさしく! このようなアルゴリズムを組んだ時、未来は安定する形に収束します。即ち、未来から得られる2つの3桁の数字の積は、必ず、解きたい6桁の数になります。よく制御された実験室系で、過去へ転送できるのは情報のみ、それもマイクロ秒単位の過去へだけ。収用下の異常物品を使わない場合は、財団のパラテクでもその程度の時間遡行しか実現されていません。それでも、RSA暗号を破るにはこれで十分なのです。遡行可能な時間が延びれば、使用方法はもっと広がります。例えば、もしパスワードの入力とその成否を確認するのにかかる時間を遡行可能であれば、パスワードが一致した時のみ首尾一貫するようなアルゴリズムを組むことで、どのようなセキュリティも突破可能になります」

 篠原は心底楽しそうな笑みを浮かべている。まるでこの事態のことを忘れ去っているかのようですらあった。

「物理法則を計算機として使う方法は多々ありますが、遡行式計算機はその中でも最もエレガントなものの一つです。ああ、RSA暗号に関連する興味深い計算機として、他にも量子計算機というのもありまして、こちらも素因数分解のような、桁違いの計算資源を要するある種の問題を解決することができます。財団でもまだ実用化はされていませんが、少なくとも正常社会よりは早く、実用に耐えうる性能のものを開発することでしょう。こういう背景もあり、今はRSA暗号に替わる別種の暗号の開発が財団内でも急務になっていて……ああ、すみません、余談が過ぎましたね」

 一つ、疑問が浮かんだ。

「素因数分解できない数字を与えた場合、どうなりますか? その6桁の数字が素数で、どの3桁かける3桁でも表現できない場合、未来は安定しないはずです」
「大変良い質問ですね。おっしゃる通り、その場合は未来から与えられる解が安定せず、発散してしまうため、未来の情報が取得できません。実験的には、未来からの情報取得自体が失敗することになります。占術で例えるならば、占い師の水晶玉に何も映らない、御神籤の中身が白紙、といった形になりますね」
「あの人型実体はこれも知っているでしょうか?」
「十分に賢く、自分の能力に対して向き合っていたならば、知っている可能性はあります」
「自然に遭遇しうる現象ですか? それとも意図的に引き起こそうとしない限り、起き得ませんか」
「自然に起こる状況は……すぐには、思いつきませんね」
「──なら、知らない可能性が高そうですね」

 篠原が軽く首を傾げたので、夕凪は言葉を続けた。

「基本的に、人型実体は正常社会を甘く見がちな傾向があります。異能者特有の万能感、というものですね。今回の場合はその傾向が特に強い。人型実体集団ならば蛇の手との伝手を持っている可能性が高く、ひいてはそこから財団の強大さを知っている可能性が高いのに、今回の作戦を決行するに至ったというのも、それを裏付けています」

 少しずつ、頭の中に像が結ばれていく。あの人型実体は、競技や演奏など、パフォーマンスの失敗はあるかもしれないが、選択を誤るということはない。そのように生きてきた人間が、どう振る舞い、どのような計画を立てるのか。それも、慕っていたボス格が財団に囚われている状況で。

「その上で、あの人型実体は詰めが甘い。人質の貴方の身体検査すら怠る有様でしたから。自分の能力による予知を過信しているのでしょう。過去に情報を送れる人間にとって、短くとも一日というタイムスケールにおける失敗や後悔は発生し得ない、のですよね? ならば、未来の自分からの予言に絶対の信頼を抱くのは当然のことであり、ともすると試行錯誤という言葉すらも辞書に載っていないかのような……そんな生活を送っている可能性すらある」

 篠原から伝え聞いた人型実体の行動から垣間見える、保身と楽観。想定外の事態が発生し得ないことは、そのような事態への弱さを意味する。

「篠原さんの話では、意図的にならば予言が不発になる状況が発生しうるという話でしたよね」
「はい」

 肯定を受けて、夕凪は自分の発想を話す。

「この状況で、予言を失敗させたり、予言にない事態を引き起こすことはできませんか? もし本当に時間遡行能力に頼り切った人間であるならば、準備や逃亡の隙を与えないだけでなく、大きな動揺を誘えるはずです」
「そうですね……あの人型実体の場合、情報の転送ではなく物質の転送なので、少し条件が変わってはきますが……解を発散させることにより時間遡行を妨害するという基本的な考え方は適用できます」

 篠原は軽く目を伏せて考え込む。篠原の手元にある情報は、夕凪と同じだ。しかし、思考の形が違う。それにより、見えている世界も。

「──例えば、このような作戦はどうでしょうか」


◇  ◇  ◇


 篠原と共に、無人の街を歩く。
 考えうる限り、完全な作戦を立てられたはずだ。だから後は、それを実行するだけ。二歩先を歩いて、篠原を先導する。朝の太陽はまだ空の低くにあり、道路の半分以上が建物の影になっていた。

 音はない。人の声も、建物から聞こえるはずの生活音も。風にそよぐ木々の葉の音が、途切れ途切れに聞こえるだけだ。
 二人分の足音は静かだった。スニーカーの静音性はこのような時には便利なものだ。多少走ったとしても、この無音の街に大きな音が響くことはないだろう。アジトになっている雑居ビルから死角になるような道を選んで、言葉を交わすことなく歩く。

 目標地点は、小型現実空間の出入り口だ。正確には、これから出入り口になる場所の近く。これから約5時間半後に、篠原を奪還するために機動部隊が突入する。別行動の"1周目"の夕凪が離れた後、適切なタイミングで本隊に篠原を合流させるのが、今回の作戦の必要条件だ。まずはそのための待機場所まで、篠原を護衛する。


◆  ◆  ◆


「仮に、あの人型実体たちの会話を盗聴するための機材と、遠隔で起動可能な爆弾があるとします」

 アパート出発の数十分前。夕凪に向き合っている篠原は、ぴん、と指を立てる。

「そして、三カ所、爆弾を設置するとします。これであれの予言を破綻させられます」

 解のないアルゴリズムを作るんです、と篠原は言った。

「もし『地点Aが爆破される』という予言が出たならば、地点Bの爆弾を作動させます。予言が地点Bを指したなら地点Cの爆弾、地点Cが予言されたなら地点Aの爆弾を。もし予言の文面が不完全、あるいは破綻していたならば、地点Aの爆弾を爆発させることに、します。これで、おそらく未来からの予言の送信は失敗します。私たちは地点Aの爆弾を作動させることになるでしょう」

 このアルゴリズムで首尾一貫するパターンは、予言なし、地点Aの爆弾を作動させる場合のみだ。
 送信される情報自体がわかっているのならば、普通なら、盗聴する意味がない。送信される情報がないとわかっているならば尚更。──しかし、この場合に限り。

「大事なのは、この盗聴で得る情報自体ではなく、盗聴ができる環境、つまり『未来の情報を得られ、それに基づいて現在が変化する』という環境構築の方、というわけですね」
「ええ。未来の情報を引数とした関数と、それに使用する引数を得られる状況が揃っていれば、私たちはあの予知能力を破壊できます」

 では、この原案をこの状況にどう適用するか。それを考えるのが、私の仕事だ。

「それなら、最も効果的なのは、7時間後の奪還作戦を利用することです。本隊が攻撃を始める時間と場所を、予言不可能にしましょう」

 方眼用紙に、雑居ビルと侵入地点の位置関係、そしてその間を繋ぐ経路を書き込んでいく。元の作戦をベースに、3パターンのバリエーションを作った。これが、先ほどの話での「三つの爆弾」に相当する。

 ペンを動かしながら、夕凪は言葉を続ける。

「場所だけではなく、時間も変えます。むしろ時刻の方が秘匿の優先度が高い。襲撃される側ならば、最も知りたく、そして必ず過去に送るはずの情報でしょうから。時間と場所、その両方の予言を封じれば完璧です」

 ふと、一度目の奪還作戦で聞いた作戦の音が、元の作戦の予定と少しだけ違っていたことが思い出された。あれは多分、このバリエーションに由来する違いだったのだろう。

「あの作戦は、それほど融通の効かせられるものなのですか」
「追加の銃火器などが必要にならない範囲であれば。我々の作戦は、おそらく篠原さんの想像よりも柔軟です」

 大まかな筆記を終え、ペンを止める。

「篠原さん、お願いしたいことがあります。この本隊への情報伝達は、あなたにやってもらいたい」


◇  ◇  ◇


 がさり、と茂みを揺らす音が聞こえた。風のものではない、生き物の立てた音。
 咄嗟に振り向くと、そこには鼠がいた。マウスというよりもラットと呼ぶべき大きさの鼠が、三匹。親子か兄弟か、どういう関係の群れなのかはわからない。三匹は揃って道路の端を移動していた。

 背後で、篠原が押し殺した悲鳴のような声を上げるのが聞こえた。

 鼠の一匹がこちらを見て、すぐに走り去っていった。走っていった方角は雑居ビルではない。この空間には雀などの生き物は存在していないから、あれはおそらく、現実改変により生み出された鼠だ。篠原が言っていた通り、あれを使った監視は不可能なものとして計画を立てている。とはいえ、万全を期し、一刻も早く移動すべきなのは間違いない。

 少し走りましょう、と指示しようとして、背後の篠原が腰を抜かして地面にへたり込んでしまっていることに気づいた。

「足が……動か、なくて」

 夕凪は思わず舌打ちをしそうになる。時間は限られているのだ。こんなところで足止めを食らっている場合ではない。
 違う、と思い直す。今までが気丈すぎたのだ。本来戦闘とは無縁のはずの人間が、今まで冷静さを保ち、自分についてきたことの方が異常だった。

「ま、待って、すぐに立ちますから……うっ……ごめんなさい……すぐに、すぐ、大丈夫、ですから」

 焦ったように立とうとしては、バランスを崩して座り込む篠原に、夕凪は手を差し伸べる。どれほど異常に見えたとしても、やはり篠原は救助対象なのだ。夕凪の手を掴んだ篠原の手は、ほのかに温かかった。力を込めて握り、立ち上がるのを助ける。

「ごめんなさい。足手纏いですね。役に立つどころか、あなたの足を引っ張ってばかりだ。私も財団職員なのに、……なんて、不甲斐ない」

 立ち上がった篠原は、泣き出しそうなほどに顔を歪めていた。

「ここは、あなたの戦場ではありませんから」

 その言葉が、口をついて出た。

「ここは私の戦場です。篠原さんの戦場は、ここではない。あなたは私にはできない戦い方で、異常と向き合うことができます。あなたがあなたの戦場に戻れるように全力を尽くすのが、私の仕事です」

 胸を張り、できる限り堂々とした態度で、自分の胸元を叩く。胸ポケットには、『財団の研究員、人質』と書かれた紙が入っている。

「今は、そしてここからが、私の戦場です。任せてください」


◆  ◆  ◆


「篠原さん、あなたは監禁中に人型実体の様子を伺っていましたよね。襲撃を予知していた様子はありましたか」
「いいえ。未来の出来事について、彼らが話していたのは人質交渉関連のことだけで、いつ未来から計画書が送られてくるのかばかりを気にしていました」
「最後に人型実体と接触した時間はわかりますか」
「私の腕時計で午前4時ごろだったので……実際には午前10時ごろですね」

 口に出して、時間異常の専門家である篠原の反応を伺いながら、情報を整理していく。

「午後10時から、奪還作戦を開始した午後13時まで。この期間の彼らの動向を監視し、それを本隊の作戦に反映できれば、予言の妨害ができる。手段として最も単純なのは、盗聴器を仕掛けることでしょう」

 自分の持っている"もう一つ"の無線機を音量をゼロにして仕掛ければ、盗聴器の代わりとして使うことができる。あの雑然としたビルの屋内であれば隠し場所はいくらでもあるだろう。

 自分の無線機を篠原に預け、"もう一つ"をビルに仕掛ける。そうすれば、篠原を予言の観測者として運用できる。

 異常空間では、足を踏み入れること自体が死に直結することがままある。一寸先の闇、何も見えない扉の向こう側、あるいは何もないように見える部屋の中。一対の無線機があるならば、片方をその「先」へ押し出すことで、様子を伺うことができる。危険地帯の先を探るための杖として、このような無線機が役に立つ場面は少なくない。複数名での任務であれば他の隊員のものを使えば事足りるが、単独行動が想定される場合は、今回のように小型のものを余分に一つ装備することはままあった。

 特に今回は、人型実体集団の情報が不足しており、今後のための情報収集も目的の一つとなっていたため、"もう一つ"を持参している。篠原救出からの撤退時に盗聴器として仕掛ける手筈になっていた。

「仕掛けるならば、あのアジトが確実に無人になる、バス襲撃の時刻です。午前9時12分」
「では、……このように」

 篠原は方眼用紙に書き加えた。

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 付け加えるように、夕凪は口を開いた。

「──ここで、もう一つ。私が奪還に向かった時、あなたはもう一人の人質の存在を示唆していましたよね。その人質について人型実体が言及したのはいつですか? もし私の考えが合っていれば、あなたが拉致された時刻の後ではありませんか」
「それは……そう、だったかもしれません。時間遡行直後、彼らは他にも人質がいるようなそぶりをしていませんでした。もう一人捕まえられたと言っていたのは……ええ、今日になってからだったはずです」

 やはり、私の予想は正しかった。

「篠原さんは最初に、私たちが見た未来と合致する作戦であればあるほど良いと言っていましたよね?」

 夕凪は不敵に見えるように笑みを作った。

「私が二人目の人質になります」


◇  ◇  ◇


 窓ガラスに近づきすぎないように気をつけながら、目をこらす。
 篠原と別れた後、夕凪は雑居ビルから少し離れた建物に忍び込み、人型実体たちの動向を監視していた。

 部屋の少し奥、直射日光の当たらない場所にいれば、外からはほぼ見えない。まして、相手は軍人でもない、異常性を持っているだけの素人だ。しかも予知に頼り切りともなれば、まず気取られることはないだろう。
 そもそも、彼らには見張りという概念がないのだ。襲撃は未来からの情報で事前に知ることができる。裏返せば、それは「気づけなかった攻撃」に対する脆弱性も意味する。例えば、今回の侵入作戦のように。

 篠原の証言でも、侵入者に気づいたような物音や声はしなかったと言っている。慌ただしい物音が聞こえたのは、奪還作戦の時が最初で最後であると。だから、今ここでどのような振る舞いをしてもあれらが自分を見つけることはないのだろうが、機動部隊の一員としての習性が夕凪に身を潜めることを要求していた。

 予知能力が作戦の要であることは、あの人型実体たち自身も理解しているはずだ。過去に情報を送ること、転送可能な状態を確保することを最優先とし、まず前線には出てこない。故に、無力化の難易度も跳ね上がっている。
 しかし、相手が人質ならば、警戒心も薄くなる。相手から近づいてくる機会もあるだろう。奪還作戦が始まった後の混乱状態で、不意打ちするのが良い。

 盗聴器を仕掛けると共に、伏兵として人質に化ける。これが最も合理的な作戦に思えた。

 ──そろそろか。

 彼らが窓際から離れ、その姿が見えなくなった。バス襲撃まで20分を切っている。空間に関する異常性を持っていることから、おそらくテレポートの真似事もできるのだろうが、そうであったとしてもそろそろ現地に行く時間だろう。

 夕凪は窓に背を向け、そっと扉を開けた。侵入するならば今だ。足音を極力潜めながら、雑居ビルの裏手へと駆け出す。一度目の突撃時に、鍵のかかっていない窓を見つけていた。正面から入るよりも、そちらの方が痕跡が目立ちにくいはずだ。

 今の夕凪は、機動部隊らしい装備をしていない。防刃素材のインナーの上に、あの家から拝借したシャツを羽織っている。靴も同様に、サイズの合うスニーカーを拝借した。対して大柄なわけでもなく、筋骨隆々な見た目をしているわけでもないから、一般人と言っても十分に通るだろう。

 非戦闘員の女というものは、最も警戒されにくい属性だ。

 篠原が「身体検査はされなかった」と言っていたとはいえ、人質として身につけられるものは限られている。軽く悩んだ末に選んだのは、ポケットの中に入る小物数点と、靴と下着の中に隠せるサイズの小型の刃物だけだ。殺傷に使うのも難しいほどの、小指の先ほどの大きさのもの。それでも、拘束を切ることが目的ならば十分だ。
 代わりに、武器の類は盗聴器と同様、潜入時にビル内に隠して配置することにした。機動部隊による襲撃の混乱に乗じて回収し、要となる時間異常を有した人型実体の喉元に迫る。そういう手筈だ。

 ──二人目の人質は私だった、か。

 篠原が二人目の人質の存在を言ったときのことを思い出す。あの時、自分は、二人目の人質を探すことについて躊躇いを持っていた。実際には自分自身を助けるか迷っていたのだと考えると、少し、奇妙な気分だった。


◆  ◆  ◆


 時間遡行。もし自分であればどういう使い方をするか。目を閉じ、想像を膨らませる。

「……あの人型実体の能力について、『自分の体を原点に』、とおっしゃっていましたね。同じ場所の過去に、という使い方はあり得ますか。例えば、私が通る経路を見た能力者が、その場所に未来から攻撃を設置する、というのは可能でしょうか」
「いいえ。ほぼ確実に、あり得ません。その場所が、夕凪さんが歩くよりも以前に能力者の血でマーキングされていない限りは不可能です。人間の地図、緯度や経度による指定は、人間が作った恣意的な座標系ですから」

 篠原はきっぱりと即答する。

「ええと、どこまでが常識でしたっけ……地動説、は常識ですよね。地球が自転と公転をしていることも、太陽が銀河中心の周りを回っていることも。宇宙が膨張していることも多分、ご存知かと思います。全ては動いてしまっているのです。もし銀河中心を世界の中心と仮定して位置座標を定めたとするなら、この場所の一秒前も一秒後も、地球上ではありません。宇宙の何もない場所です。地球も太陽も動いてしまっているからです。人の持つ異能を含め、物理法則は人間に忖度をしません。地図上の『同じ場所』は、時空異常の観点では『同じ場所』ではありません。故に、時間移動を考えるならば、空間の指定方法も同時に考える必要があります。そこで最も単純かつ簡単な方法が、自分の体を利用した座標指定となるのです」

 篠原は楽しげに語る。瞳は爛々と輝いているようだった。研究者という生き物に対して、半ば呆れのような気持ちが湧く。

「つまり、あれが予言を送れるのは、過去の自分自身か、あの血の文字が書かれた場所に限られるわけですね」
「ええ、確実に」


◇  ◇  ◇


 人型実体たちの拠点は2階の一室だった。缶詰やインスタント食品の山。マットレスが敷かれた、寝室らしき場所。隅の机の上には、見覚えのある血文字が書かれている。夕凪たちが飛ばされた先にあったのと同じ、時間遡行の出現ポイントだ。

 使える、と思った。

 どの部屋も雑然としているが、床や机の上を観察すれば、どの部屋を使っているかは簡単にわかる。机の上の物品と内装が噛み合っていなかったり、埃が積もっていなかったりと、人の生活の匂いがするのだ。その他の部屋は、足を踏み入れることすらないようで、廃墟のような様相を呈していた。

 3階に上がる。給湯室のシンクの中には埃が溜まっている。ここも使われていないらしい。シンクの脇の収納棚の中に拳銃を隠した。

 ドン、とドアを殴るような音が聞こえて、夕凪は反射的に身構えた。音が聞こえた方を向いて、その音が何であったかに気づく。篠原だ。監禁されている篠原が、脱出を試みているのだろう。

 ──すまない、篠原さん。あと数時間後には、過去の私があなたを解放しますから。

 篠原が監禁されているエリアを避けて、更に4階に上がり、時間異常持ちの実体と遭遇した部屋へと向かう。人の気配がないことを確認してから中を覗いてみれば、個室として使っているらしく、私物が散乱していた。軽く見渡して、ノートを見つけた。

 パラパラとめくっても、特段、今回の作戦において有用そうな情報は書いていない。雑多なメモ書きばかりで、それを精査している時間はない。
 だが、情報になるのは書かれている文章だけではない。筆跡自体も、夕凪にとっては重要な情報になりうる。

「篠原さん、聞こえますか」
「はい」

 無線機越しに、自分の思いつきを説明する。

「2階のリビングルームに相当する場所に、時間遡行の出現ポイントを発見しました。偽の予言を書いて、相手を撹乱します。今から伝える内容を、機動部隊の人間に伝えていただけますか」

 最大の障害は時間遡行による予言能力だが、更に厄介なのはグループ内に空間に関する異常性を持つ実体がいることだ。ここが一緒にいた場合、空間跳躍による逃走をされてしまう。これをどう引き離すかが、今回の作戦において重要な点の一つだった。

『ゴトウ、12:55、西の郵便局前に空間のほつれ』

 ノートの筆跡を真似て、机の上にあったメモ用紙に文字を書く。時間は、あの作戦で確実に抑えることができる時刻。場所は、隊員が狙撃・襲撃がしやすい場所。筆跡を真似るのも、機動部隊に入ってから身につけた特技の一つだった。胸ポケットの『財団の研究員、人質』と書かれた紙も、篠原が持っていた原本ではない。あの部屋で手に入れた紙切れに書いたものだ。

 その紙を、2階の拠点まで戻り、『時間遡行の出現ポイント』に配置する。予言者は自分の予言を信頼している。ならば、予言を使って騙すのが最も効果的のはずだ。これで、時間遡行と空間異常の二つの人型実体を分断できる。

 続いて、使われている形跡のない棚の中に盗聴器代わりの無線機を仕掛けた。見た目にも違和感がないことを再三確認し、再度4階へと向かう。

「……この部屋か」

 4階の奥には、篠原から聞いた通りの場所に、窓のない物置部屋があった。部屋の中央の床には、やはり同じ紋様が血で描かれている。

 まず、腕時計の時間を調節する。機動部隊として支給されたものではない。小型現実空間内の家屋から拝借した品だ。アナログの針を2時間ぶん進める。10時間後から来た人質らしい、と誤認させるのが目的だ。

 続いて、ポケットから2本の結束バンドを取り出す。一本は足首に、もう一本は手首に。これも、人質として囚われた時の篠原の状態を再現するためのもの。

 後は、待つだけだ。


◆  ◆  ◆


「適切に実験を組めば、観測をトリガーとして任意の解に収束させることができます」

 篠原はどこか楽しげにそう語る。

「観測によって状態が確定するということ自体は、そう珍しいことでもないんですよ。正常な物理学でも、量子はそのような振る舞いをします」


◇  ◇  ◇


 人質への成りすましは呆れるほど上手くいった。
 要される演技力はさほどでもなかった。一人目の人質が篠原だったから、多少落ち着きすぎていたところで問題はない。財団職員とはそういうものだと思ってくれたのだろう。

 とはいえ、人質らしい言動のシミュレーションをしておいた方がスムーズだろう。転送部屋の隅に座り込み、あたかも今飛ばされて必死に逃げ場を探しているかのように振る舞い始めてから、10分程度。無造作で規律の欠片もない足音が聞こえてきて、人型実体たちが篠原の拉致を終えてきたことに気づく。足音は2人分か、それとも3人分か。微かに聞こえた声を元に、3人のようだ、とあたりをつける。

 足音は真っ直ぐに、夕凪のいる転送部屋へと近づいてきた。扉が開く。扉から遠ざかるように、そしてできる限り無様に見えるように、縛られた両手足を引き摺る。本物の人質であれば、きっと怯えるはずだ。

「……これが二人目、か」

 部屋に入ってきた、見覚えのある顔がそう言った。夕凪と篠原を過去へ飛ばした張本人だ。それが自分のことを初めてみるような顔で見ているのが、いささか奇妙に感じられた。私にとっては二度目でも、この人型実体にとっては初対面なのだ。"最初"はヘルメットをしていたから、二度目であったとしても顔がわかるはずがないのだが、これが時間遡行が引き起こす事態の奇妙さなのかと、妙な感情を抱く。

 時間遡行の人型実体は夕凪の胸ポケットからメモ用紙を取り出し、ふむ、と喉の奥で唸るような声を出した。続いて、篠原の腕時計の時間を見る。

「お前、さっきまでどこにいた」
「あ……あなたが、さっき、私のことを縛ったんでしょう!」

 設定は大まかに作っている。自分は、10時間後に襲撃されたセクター8105の研究員だ。襲撃犯らはセクター内に入ることには成功したが、目的の人型実体が他のセクターに移送されていたため見つからず、取り戻すことができなかった。その代わりに、研究員をもう一人、追加で人質に取ることにした。それが自分だ。研究員である自分は時間異常に関しては専門外で、"時間遡行"したことを自覚していない。

 そういう役に入り込めば、受け答えはスラスラと行うことができた。時に財団職員として情報を隠そうとし、時に無力な人質として尋問に怯え、刃物を前に屈してぽつり、ぽつりとデタラメの襲撃について話す。

 話しながら、人型実体達の様子を伺う。彼らの仕草に、興奮や緊張の様子は全くなかった。たった今、財団の職員を拉致したばかりであるはずなのに、こちらが驚くほどに緊張感がない。自分たちが財団に確保または終了させられることなど、想定すらしていないかのようだった。彼らは本当に、自分たちの成功を確信しているのだ。

「なぜ追加の人質を? あの人質が使えなくなるのか?」
「さあな。書いていなかった。脱走か……事故か何かが起こるのかもしれない」
「必要な情報なら予言が来る。情報が送られてないなら、気にしなくても問題ないということだ。俺たちはイワさんを取り戻すことだけを考えていればいい。一番大事なのはそこだろ」
「ああ、そうだな」

 人型実体は懐からメモ用紙を取り出し、その場で短くペンを走らせた。すぐに紙を破り取り、かざすように見つめていたのも束の間、それは手品のように消え去った。おそらく、過去の自分へメッセージを送ったのだろう。おそらく、「二人目の人質、9:30」あたりの文面の。

 これで、状況は整った。


◆  ◆  ◆


「例えば、予知を使ったカード当てをする場合を考えてください」

 篠原は机の上でゆるりと指を組む。

「3枚のカードの中から、1枚の当たりを選ぶゲームです。未来からの予言が届き、それを元にカードを一枚めくり、最後にカードを開いた後に過去へ予言を送る、という手順の実験をしたとしましょう。カード当ての結果の勝敗がどうであったとしても過去に情報を送れるのであれば、予言は必ず「何枚目が当たりだ」になります」

 確かにそうだ、と納得する。真ん中が当たりだと仮定した場合、篠原が前に話していた素因数分解の例を考えるならば、「左端はハズレ」という予言は安定しない。もし、その予言が未来から送られてくるならば、その予言を受け取った人間はハズレがわかっている左端以外のカードを開き、ハズレであれば「左と右はハズレ」、当たりであれば「真ん中が当たりだ」と予言を過去に送るだろう。これではどちらであっても受け取る予言と送る予言が一致しない。この二つが一致するのは、当たりのカードを当て、当たりのカードを予言に書く場合だけなのだ。当たりを引いた場合のみがこの系の解になる。

「続いて、第二の思考実験です。カードが当てられた場合は予言を過去に送ることができ、カードが当てられなかった場合は予言を過去に送ることができない、という条件を付け加えてみます。この場合、未来から予言が送られてくる確率は、どうなると思いますか」

 予言が未来から送られ、教えられたアタリを引き、過去に予言を送る場合。予言が送られず、ランダムにカードを選んでハズレを引き、過去に予言を送ることができない場合。どちらも首尾一貫しているから、時間遡行の導入による解の収束という観点では同等だ。同等であるならば、きっとシンプルに、「ランダムに引いた場合のアタリ/ハズレを引く確率」がそれぞれの場合の確率になるのではないか。

「三分の一、でしょうか」
「そうです」

 篠原は満足げに頷いた。

「予言がない場合の正答率と一致します。これを踏まえて、今回の場合にこの考え方をどう適用できるのか、なのですけれど」


◇  ◇  ◇


 ──来た。
 遠く、かすかな足音が聞こえて、夕凪は目を開けた。
 コンバットブーツの重い足音。潜入してからこの4時間、ずっとこの部屋から聞き耳を立てていた。その間に聞いた足音の、どれとも異なる、この響き。

 銃声が遠く響く。山の向こうの遠雷のように。聞き覚えがあるどころではない、自分のよく知っている銃声だった。訓練中、そして任務中に、何度も聞いた音。
 立ち上がり、ドアの前に立つ。人の気配はない。12時半を過ぎた時に、解錠だけは針金で済ませておいていた。静かに開けて、音を立てないように閉める。

 仕事の時間だ。

 銃声をはじめとする戦闘音は、北側と西側から、それぞれ別に聞こえてきている。1度目の作戦時に無線機で聞いていた状況と齟齬はない。時間異常持ちは4階にいるはずだから、機動部隊に足止めされているのは、鼠使いの現実改変能力者と空間異常持ちだろう。推定される距離の遠さからして、今すぐに合流されることはないし、こちらに来ることもないはずだ。
 今、時間異常持ちは4階で孤立している。まずは3階給湯室の収納棚の奥からグロック17を回収しようと、廊下を走り抜けようとして──

「──逃げる気かい? 嬢ちゃん」

 背後から、第四の人型実体に声をかけられた。


◆  ◆  ◆


「あるはずのものがないということも、情報になるんですよ」

 思案げな顔をした篠原が、宙に文字を書くように指を動かす。

「この状況で私が真っ先に考えるのは、遡行することがわかっているものに自分用に予言を託すことです。すなわち、雑居ビルに監禁されている方の『私』の利用ですね。人質になりすます作戦が可能であるならば、そのついでに監禁中の私に予言を渡すことも容易いはず」

 夕凪の侵入時に篠原は脱走させることは不可能だ。決定論的な世界では、過去は変えられない。決定論を抜きに考えたとしても、脱走は彼らの帰還時に判明する類の行いだ。必ず『予言』の対象になり、妨害される。
 だが、『過去の篠原との接触』だけならば、話は変わる。人型実体が感知し得ない工作は、予言の対象外だ。

「そして、このような作戦会議になったならば、私は必ずその方法を思いつき、実行しようとするはずです。それによって私たちの計画も首尾一貫の原則に従って最適化することができるから。──それなのに、今、私は予言を持っていない」

 篠原は指の動きを止めた。 

「先ほどの、カード当ての成功と予知の思考実験を思い出してください。この状況をどう解釈できますか?」

 小首を傾げた篠原が問うてくる。ここまで誘導されたならば、答えは一つしかない。

「つまり……任務の成功時のみ過去への情報転送が可能であるという条件下では、任務の成功率自体は変動しない。……今回の場合で言うならば、貴方が予言を持っていないことは、二周目の貴方に予言を託すという任務の成功率が低いことを意味する、と解釈できる」
「その通りです。もし未来からのメッセージが必ず送受信されるという条件下であったならば、それは容易に最適な安定解に収束します。けれど、過去の自分に予言を渡す計画のように、何かが成功した場合のみ情報の時間遡行が可能である、という場合において、私にとっての最適解で解が安定するとは限りません」
「……そして、現在見えている確率はもちろん0、必ず失敗することがわかっていますが、言える情報はそれだけではないのですよね。時間遡行現象自体がなかったとしても、『二人目の人質になりすます』ことはできても『幽閉されている篠原研究員にコンタクトを取る』ことの成功率が低い、……ということが推測される」

 篠原は嬉しそうに頷いた。

「完璧です。これは『幽閉されている篠原研究員にコンタクトを取る』の成功率を低減させる何らかの要因の存在を示唆している可能性があります」
「単純に、あるいは不運で、私が失敗すると言うだけの可能性も十分にあると思いますが」
「ええ、その可能性も否定はできません。しかし、我々の考慮の外にある存在がいるかもしれない、と警戒するに足る十分な根拠になり得ませんか」


◇  ◇  ◇


 逃げる気か、とあれは言った。

 私が戦闘員であることに気づいていない。人質にした研究員であると信じ込んでいる。
 ならば、致死的な攻撃はできないだろう。それは私にとって、大きなアドバンテージになる。

 男の足元の影からは、無数の虫が湧き出している。──いや、虫ではない。あれは蜘蛛だ。

「今すぐ戻るなら、痛い思いをせずに済むぞ」

 にたり、と余裕のある笑顔で男が笑う。

「俺たちはイワさんさえ取り戻せればいいんだ。あんたが大人しく人質をしてれば、殺したりはしない。俺だって手荒な真似はしたくないし、お前だって怪我はしたくないだろう? お互い、スマートにいこうじゃないか」

 その全てが想定済みだった。

 この小型現実空間に生物はいない。人はおらず、蝉の声は聞こえず、蝿も蚊も見かけない。食物を腐敗させるカビはあっても、一定以上の大きさの生物は存在していないのだ。──現実改変で作られた、あの鼠を除いて。

 その上で、一度目のビル襲撃時、夕凪は建物の内外で蜘蛛の巣を見かけている。蜘蛛の巣は風雨で劣化するものだ。水に弱く、風に乗って飛んできたゴミを取り除かねば保てない。巣が劣化していないならば、生きた蜘蛛がいることを意味する。生き物がいるはずがないのに。
 虫を見かけていないのに蜘蛛が生きている。食物を得ずに動いているならば、それは異常な存在だ。

 既知の3人の異常性のいずれとも合致しない。すなわち、人型実体は4人いる。
 おそらく、蜘蛛糸を張ることで扉の開閉を監視していたのだろう。篠原博士に予言を渡せないことも、夕凪の脱走にすぐに気づけたことも、それで説明がつく。

 とはいえ、対応するにも手段は限られている。元より、このビル内にはわずかな装備しか持ち込めない。結局、夕凪にできた対応は、蜘蛛避け効果のあるハッカ油をポケットに入れて持ち込み、脱走前に靴に染み込ませておくことと、元ガラクタ置き場だったらしい監禁部屋から鉄パイプを持ち出してきたことだけだった。

 今手元にある武器は、ただの鈍器だ。だが、原始的な手段が必ずしも劣るとは限らない。屋内戦では屋外よりも銃のアドバンテージは落ちる。それに、民間人が銃を持てない日本では、戦闘員であることを伏せる意味も持つ。目の前の人型実体はまだ、夕凪が戦闘員であることに気づいていない。

 もしこれが別の状況であったなら、このまま給湯室まで逃げて拳銃を手に入れ、銃で応戦をするという選択肢もあっただろう。だが、今回に限り、銃を使えない理由が二つある。一つは、この棟内にいる時間異常持ちの人型実体に、敵がいると銃声で気付かれてはいけないこと。そしてもう一つは、一度目の私が屋内からの銃声を聞いていなかったこと。

「おいおい、面倒だな」
「………」

 人型実体の足元から、まるで黒い泉のように、無数の蜘蛛が湧き出す。その生きた黒い"水"は波打つように蠢きながら床を広がっていく。

 アシダカグモ。ジョロウグモ。オニグモ。カバキコマチグモ。そして、この距離からでは個体の判別がつかないほど小さい、無数の小さな蜘蛛の群れ。
 大小の蜘蛛の大群が、床を覆い尽くしていく。

 焦りはなかった。
 人質は生きていなければ使えない。致死的な毒を持つ蜘蛛は召喚できないはずだ。

 鉄パイプを握りこみ、剣先に当たる部分を相手の目に向ける。正眼の構え。ひんやりとした冷たさを手のひらに感じる。それと同時に、緊張で強張っていた体の中が凪いでいく。世界が遠ざかり、静かになっていく。静まり返った世界の中で、目の前の相手だけがはっきりと見える。

 学生時代に打ち込んだ剣道の感覚が鮮やかに蘇っていく。インターハイに出られるほど強くはなれなかった。けれど、掴んだものは確かにあった。相手の些細な動きの見方、重心の扱い方、意識の集中と広げ方。高校三年に引退するまでの間、ひたすらに己を研ぎ続けたあの時の記憶。

 これは竹刀ではない。重さは10倍弱はあり、慣性のせいで動き出しは遅くなる。だが、自動小銃を握り続けた私に、今更この程度の重さは負荷にはならない。握った感触も太さも、何もかもが違う、けれど。

「──正気か?」

 今の私は、あの引退試合の時と同じ境地にある。

 大事なのは速さではない。前動作の無さが読み合いを制す。静と動。0と1。凪の下で渦巻く水流のように。きりきりと引き絞られた弓弦のように。静かに、そして爆発的に。

 ぴたりと止まったままの鉄パイプ、人型実体の体の揺れ、重心の僅かな移動、その呼気と吸気の入れ替わる瞬間、意識の切れ目────今。

 踏み込む。

 強く蹴った床が鋭い音を立てた。前に飛び込む己の右足。防御のために上がりかける男の腕。──だが、遅い。そして鈍い。自身の異常性を過信している人型実体は、いつも非異常性の人間を侮っている。

 最小限の動きで跳ね上がったパイプの先が、正確に額を打つ。鉄パイプ越しに伝わる、頭蓋にのめりこむ感触。

 昏倒させた手応えがあった。

 そのまま振り返らずに脇を駆け抜けて、背後に人が倒れる音を聞きながら、給湯室へと駆け込む。

「──っ」

 給湯室に辿り着いた瞬間に、激痛が夕凪の意識を貫いた。
 足に、火箸を突き刺されたような痛みがあった。声にならない悲鳴が喉の奥から漏れる。身体が勝手に丸まり、転がり込むような形で座り込む。涙で滲みそうになる視界の中に、足首に張り付いた小さな蜘蛛の姿を辛うじて捉える。約1cmの黄色い蜘蛛。それが片手の数以上。カバキコマチグモだ。

 反射的に払い落とす。右足首の激痛は続いている。足首には咬み口らしき傷、小さな点状の対になった傷が複数ついていた。──こんなに、傷口は小さいのに。内心で舌打ちをする。怪我は日常茶飯事でも、毒に触れるのは久々だった。喉が引き攣り、呼吸が乱れる。脂汗が滲むのを感じた。国内で最も強い毒を持つ蜘蛛だと聞いたことがある。

 3度、自らを叱咤するように大きく息を吸う。

 ──動ける。

 日本での死亡事例はなかった、はずだ。全身症状が出るのは稀だと聞くし、もし呼吸困難などの症状が出るとしても、それは咬まれてから3〜4時間後。問題ない。任務の続行には支障がない。複数個体に噛まれた場合にどう適用すべきかは定かではないが。

 右足を引き摺りながら収納棚の奥からグロック17を回収し、1周目の自分が使わなかった非常階段で4階へ向かった。


◆  ◆  ◆


「時間遡行の直前の、あの人型実体の反応についても考えておくべきですね」

 篠原は思案げに自分の顎を撫でた。

「能力者は私たちを見て驚いていた様子でした。未来の情報を時間遡行させられる存在にとって、通常、予想外の事態は存在し得ない。つまり、私の脱出を知った時には、過去に情報を送れない状態だった。情報の送り損ねが起きうる事態は幾つかあります。例えば、直後に財団に拘束された場合、交戦中・逃亡中であるゆえに情報を送信する余裕がなかった場合、最後に、事態を知ったのが遡行可能な時間を越えた後だった場合。──いえ、現場に居合わせているのだから、最後の場合は今回に限りあり得ない」


◇  ◇  ◇


 4階の廊下の角、前回の自分と逆側の端に身を潜める。人型実体が部屋から出た時、背を向けるだろう方向。過去の私は、二周目の私がここにいることに気づかなかったから、機が熟すまで隠れているべきだろう。

 足の激痛は増大していく一方だ。浅い息を繰り返す。気を紛らわすように、自分の腕を引っ掻き、服の裾を握り締める。握って、開いて、また握って。行き場のない痛みを発散させるように。

 ──だが、拳銃を構える分には問題ない。

 狙いを定め、撃つ。それだけの動作ならば、十分にこなせる程度の痛みだ。欠損はなく、大量の出血をしているわけでもない。

 激痛で乱れかける意識の端で、こちらへ近づく足音を聞いた。角の奥から少しだけ顔を覗かせ、霞みそうになる視界の中に、自分と篠原の姿を捉える。

 がちゃり。

 過去の自分がドアを開ける。こちら側からは一番離れたドアが、勢いよく開かれて、すぐに閉じられる。

 がちゃり。

 二つ目のドア。やはりすぐに無人を確認して、「自分」は流れるようにドアを閉める。

 続いて、三つ目のドアが、勝手に開く。そこから出てきた男の頭部に銃口を向ける。

 「敵です!」と叫ぶ篠原の声。──まだだ。

 ショットガンの銃声。──まだ。

 男が前に手を伸ばす。ぐにゃりと、空間が一瞬だけ歪んで見えた。自分と篠原の姿が掻き消える。──先ほどのメモ用紙の転送と、今の転送を見る限り、この男も異常性の発動に視認が不可欠らしい。

 夕凪は冷え冷えとした引き金に指をかけた。あれはこちらを見ていない。今、この空間にいるのは自分とあの人型実体だけだ。


◆  ◆  ◆


「正直に言うと、全ての人型実体を収容房に放り込む必要はないと思っているんですよ。正常な人間社会と調和して生きている存在ならば、軽度の監視だけで事足りるのではないかと。法が想定していない部分を監視によってカバーするだけで十分な場合も、少なからずあるとは思うんです。財団のリソースとて有限ですから、効率を求めてそういう選択をすることも、将来的にはあり得るのではないかと考えてはいます」

「その上で、あれは野放しにしてはいけない存在です」

「あの人型実体は、異常性を利用した窃盗により存在が発覚し、収容されました。強盗、傷害事件も確認されています。余罪はそれ以外にも沢山あるでしょう。関与が疑われている殺人事件もあります。あれは正常な社会から隔離しておかねばなりません」


◇  ◇  ◇


 自分はアノマリーが嫌いだ。正常な社会を脅かす全ての異常が嫌いだ。だからあれにも、間違いなく嫌悪がある。人智を超えた力を手に入れ、増長し、そしてそれを暴力という形で振りかざす存在。

 照準は人型実体の頭部に狙いを定めている。この距離ならば外さない自信がある。この状況であれば、上の人々も殺害も已むなしと判断するだろう。「そこにいることを気づかれる前に殺せ」。それが現実改変能力者をはじめとする危険で敵対的な異常存在と直面した機動部隊にとっての鉄則だ。この状況で収容は至上命題ではない。

 ──しかし、と1秒に満たぬ間で思考する。

 今、私がどのような対応を取ったとしても、あれを無力化できる未来は決まっている。あれはもう過去に予言を送れないのだ。それはこの状況について、あの男が未来から何も受け取っていなかったことで証明されている。私が何を選んでも、私はあれを無力化することができる。

 銃口が少しだけ下を向く。あの男の右手に狙いを定め直す。

 これは篠原が作ってくれた状況だ。私怨を優先させるべきではない。

 正常な社会を守るためには、まず敵を知らねばならない。確保、収容、保護。財団が危険な異常も極力終了させずに手元に置き続けているのは、その性質を理解するためだ。理解できて初めて、それを支配下に置くことができる。時間遡行下での現象を整理し、戦術を提案した篠原博士のように。

 私は財団職員としての本分を全うせねばならない。

 手の中で銃声が轟く。撃たれた右手を抱えて蹲った男の元へ、全力で駆け出す。男はこちらを振り返ろうと身を捩った。その視界を遮るように、窓のブラインドを掴み、引きちぎるように前へと投げる。

 消失。

 折れて歪んだブラインドが消えた時には、十分に距離を詰め終えていた。

 男の顎に蹴りを見舞う。倒れていく体を後ろから拘束し、手首を掴んで手錠をかける。最後に、目元を手拭いで覆って視界を潰す。男がもがく。時間遡行の発動する気配はない。

 男の頭部に銃口を当てた。

「──動くな。動いたら、撃つ」

 男の耳元で囁けば、その体はゆっくりと抵抗をやめ、膝をついた。そこにもう一発、こめかみに一打を加える。動けば撃つとは言ったが、殴らないとは言っていない。どさり、と重い音を立ててそれは倒れ伏す。

 床の上に鮮血の赤が散っている。指先一つ動かない人型実体を、夕凪は冷えた目で見下ろす。


◆  ◆  ◆


「人間を管理する方々は、ルールの中での最適化を行なっています。私はゲームをプレイするのではなく、ゲームのルールを変えたいんです。規則ではなく、法則の方のルールを」

 そう言った篠原の眼差しの強さに、胸を衝かれた気がした。

「サイコロの最大の目は6じゃなくていい。トランプにキングのカードが10枚あったっていい。Dクラスを使う必要のない収容方法があった方がいいし、機動部隊が消耗しない探索ができるようになればいい。1000本の毒入りワインの論理パズルを解くことよりも、私は奴隷を犠牲にせずに毒を検出できる手法を編み出して広めることに人生を使いたい」

 篠原の目がこちらを見ている。夕凪と同じように、暗闇に立ち続けることを選んだ者の目。太陽の下で研究者として生きる道もあっただろうに、それでもこの人はこちらを選んだのだ。

「夢物語だと、笑いますか」
「いいえ。──絶対に」


◇  ◇  ◇


 窓から地上を見下ろした頃には、既に戦局は終わりを迎えていた。視界の良い交差点の中央に、入念に拘束された人型実体が2人。ブラボーが監視役として油断なく銃を構えていた。

「──デルタより、状況報告」

 2階から回収した無線機を使って、隊長に連絡を取る。

「ビル内には人型実体2体。どちらもほぼ無力化済み。4階、物体を時間遡行させる人型実体がおり、現在は昏倒中。目隠し、手錠により拘束を行った」

 両脚の靴紐同士を硬く結び、ズボンも膝あたりまでずりおろしておいたから、まず逃亡は不可能であろう。

「過去への情報転送を阻止するため、右手を拳銃で撃ったが、他に主たる外傷なし。生体のまま収容可能。──続いて、3階の人型実体について」

 無線越しの「続けろ」というノイズ混じりの声に頷く。

「こちらは頭部を鈍器にて強打し、昏倒させた。拘束具なし。周囲には異常性により出現した蜘蛛多数。毒蜘蛛も多いが、おそらく致死性の毒を持つものはいない。殺虫剤および厚手のグローブで対応可能な範囲と見込まれる。……そちらの状況に余裕があれば、応援を求めたい。私は訳あって軽装のため、近づくのが難しい」
「エコーを行かせよう」

 隊長が即答する。──エコーは無事らしい。

 では、もう一人は。乾いた喉から、緊張と共に質問を発する。

「……犠牲者は?」
「ゼロだ。安心しろ、重症者はいない」

 無音の喝采が、体の中に鳴り響いた。


◇  ◇  ◇


『私は私の戦場で、貴方は貴方の戦場で。場所は違えど、共に戦いましょう』

 あの小型現実空間の外で、そう言って別れてから半年。あれから一度も、篠原には会っていない。それも当然のことだ。方や機動部隊所属、方や時間異常の研究者。私たちの仕事は、本来ならば交わり得ない。向く先が同じであったとしても、手法が違いすぎる。

 毎月の殉職者リストの研究員欄を眺めて、そこに名前が載っていないことを確認する。夕凪にとって、それが篠原を意識する機会の全てだった。死んではいないなら、生きているのだろう。この財団では、それだけで十分だ。

 昼下がりの休憩室で、業務用の携帯電話が通知音を鳴らした。すぐさま立ち上げ、メールの件名を読む。

 重力波異常監視機構の設立。一見して自分には関係ないもののように思えたが、機動部隊用のメーリングリスト宛に届いている。宛先間違いを疑ったが、本文をよく読み進めて、送られてきた理由に納得した。どうにも、時空間の歪みの伝搬を重力波として観測・検出することで、時間跳躍・空間跳躍・時空ポータルの発生を監視する機構らしい。もしこれが本当に実用的であるならば、機動部隊の仕事にも大きく関わってくるだろう。

 末尾の署名を見て、夕凪は口元を緩めた。

 ──総責任者、篠原圭。

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