あなたは知っているだろうか。アードザイン時空の遥か先、極南西回廊を通る果てしない空の旅の彼方には、宇宙C723があるのだ。多元宇宙的南方の僻地で明滅するこの宇宙の中には、毒々しい紫色をしたガス星雲の中を突き抜けて飛ぶランピーターネットワーク1の航路が存在する。Arp220衝突銀河やオリオン腕ブラックホール密集地帯の間を縫って飛ぶ、極南西回廊の飛行機のパスである。この航路の終着点は、天の川銀河の外縁部に燦然と煌めく青き地球だ。この星に辿り着いた航空機は、とある空港に着陸する。
太平洋最北部、アリューシャン列島に囲まれたベーリング海は、アメリカとロシアに挟まれた巨大な海峡を擁している。この海峡の中心部、暴風と波浪の打ち付ける黒々とした海面のその最中には、名もなき空港が秘密裏に建設されていた。多元宇宙より舞い降りようとする飛行機はみな、このダイオミード諸島のはずれにある知られざる島の大地に降り立つのである。着陸は難しいが、心配する必要はない。まともな空港を発っていれば、海と風が比較的落ち着く周期にここにつくはずだ。春先の便が多いのはそのためである。
空港のある島には、少数ではあるが人が住んでいる。世界オカルト連合の前哨基地が建てられているからと言えば分かりやすいだろうか。これを気にする必要はない。あなたはきっとただの多元宇宙からの放浪者に過ぎないのだし、彼らの仕事はそういうものを眺めて記録するだけなのだから。少なくとも、この地では。
そうして草のまばらに生え、灰色の小さなアウトポストが一つあるだけの島に降り立つと、この土地には見るべきものが何もないことに気づくだろう。当然だ。この島の生物は訳の分からないような建物に籠りっきりで望遠鏡を眺め、何かをラップトップに記録することを生業とする人間だけだし、一種類の雑草が生えているくらいしか自然もない。雨に湿った冷たい土と、茫漠たる海洋が周囲を囲んでいる。
それでもこの地をここに記録するのは、ランピーターのネットワーク・アクセスポイント、そして一見に値する奇妙なオブジェクトが存在するからに他ならない。島を探索していけば、その目立たぬ片隅にひっそりと置かれた双眼鏡(50ルーブルでいくらでも使える)が見つかるだろう。この双眼鏡はある特定の方角に固定されており、上下方向の操作しかできないようになっている。
遠方を望むのは、タイミングを見計らってからの方がいい。待っていれば、不自然に明るく晴れた朝が巡ってくるのである。恐らくその日は空にいわし雲がかかり、どことなく雨が戻ってくる気配がしているだろう。そんな時に高空を覗き込んでみてほしい。上空を流れるいわし雲の中にどす黒い色をしたものが一つ混ざっていて、そこから一握りの痰にも似た液体が降ってくるはずだ。それを見逃してはいけない。上手く双眼鏡のレンズに捉えられれば、その落下地点から大きな芽キャベツが生えてくるのが分かるだろう。そしてその脇からトマト、セロリ、二十日大根が現れる様子も。
しかし、双眼鏡で見えるのはここまでである。この現象が見られた日には、島のアウトポストの職員(普段は何もしていない彼ら)が忙しなさを取り戻し、これを覆い隠そうとするからである。海には途端に霧がかかり、現れた野菜らを包むだろう。双眼鏡は暗転し、機能を停止する。島の下部、少し入り江のようになっている箇所からは、一隻のボートが出港する。彼らは海の上に模様のついた看板を立て、それから戻ってくる。これを見るべきではない。看板の模様は、それを認識したものが遠くを見ようとする意欲を弱めるためである。旅人にとっては致命的だろう。
またこの現象は、ランピーターの飛行機の出立の合図でもある。頭上は晴れ、いわし雲が飛び去っていったその時、あなたは再び空へと戻れるだろう。窓から海を見下ろせば、春の光で淡く煌めく海面と、その上に浮いている巨大に育った芽キャベツが目に入るはずだ。こうしてシベリアを発った飛行機は南へ南へと進んでいき、いずれモンゴル北部に達する。この空域にかかる雲を通り抜ければ、極南西回廊のハブポート、350を超える宇宙に接続する巨大な宇宙内空港に辿り着く。そしてあなたは、またどこへでも行けるのだ。数多の世界を貫いて走る高速道路の天国にも、迷宮のように入り組んだ地下鉄の暗き網の底にも、多元宇宙の遥か果てに建造された巨大なリングワールドにも。
春先のシベリアをいわし雲が飛んでいた。春先のシベリアをいわし雲が飛ぶことが本当にあるのかどうかについての科学考証は無意味だ。確かにいわし雲は春先のシベリアを飛んでいたのだから。さて、このいわし雲は喫煙者だったので、かなり濃い痰が喉に絡むことがある。ゲエーッ、ゲエーッ……ゲッ! ペッ! うっわきったね! こいつベーリング海にでっけえ痰落としやがった! アッ! そこから芽キャベツが生えてきて……隣にはトマトとセロリと二十日大根も生えてきたぞ。しかも二十日大根のやつはどうやら失恋したてらしい。そして芽キャベツとトマトとセロリはそんな二十日大根を励ますために一晩飲み明かすんだってさ。 〜次の日〜 昨日のいわし雲はどこかへ飛び去ってしまった。いや、いわし雲ってそんなに長く残るものなのかな? まあどうでもいいか、あんなばっちいやつ。ところで芽キャベツのやつはあまり酒が強くなかったらしく、こっぴどい二日酔いになってしまったようだよ。
— ある旅人の証言









