「寒っ」
「もうちょっとまともな第一声あったでしょうに、なんでよりによってそれを」
新千歳空港に降り立ってすぐ不満を漏らす檀崎に、旅路を共にした詩が文句を吐く。両者初の北海道上陸はそれぞれの不平不満から始まった。
「逆になんであんたはそんな寒そうじゃないのよ。こんな寒い土地にこの11月に来いなんて、死ねって言われてるようなもんでしょ」
「腐っても雪国の山形県民がなんで防寒してないんですか。楽だからって夏用スーツで来たでしょ檀崎さん」
「冬用のやつ重いし動きにくいのよ。エージェント職舐めんじゃないわよ、動けなかったら死ぬからね」
口調の軽さと内容の重さが比例していない愚痴を吐きながら、檀崎はスーツの袖を弄る。せめてマフラーでも巻けばいいのに、という詩の真っ当な言葉には耳を貸すつもりがないと表明するかのように、檀崎は別の話題へすり替える。
「それよりあんた、なんで着いてきたの? 今回の仕事には関係ないでしょ」
「ああ……ただ北海道に住む親族の訃報が届いたので、移動中檀崎さんが酒を飲まないよう見張るのも兼ねて付いて来ただけですよ」
「親族? そんなのいる 」
「じゃあ僕はもう行きますね。そろそろ迎えが来てる頃だろうし、待たせちゃ悪いですから」
「はぁ? ちょ、まだ話は!」
呼び止める声が口から飛び出た時には、もうすでに詩は彼女の視界から消えていた。通路の真ん中で1人残された彼女の盛大な舌打ちは、すぐに周囲の足音で消し去られた。
新千歳空港国内線ターミナルからB駐車場に繋がる連絡通路、B連絡橋の駐車場側入り口に壁に寄りかかる1人の男がいた。左目には特徴的な刺青、首にはいくつかの玉が結び付けられた首飾りを掲げるその男は、目元を擦り眠そうな目で、すでに午前11時を大きく回った時刻を示すその腕時計を何度も覗いていた。時には国内線ターミナルの方を覗くその姿を見れば、誰であれ彼が人を待っているとわかるだろう。
ふと、彼の視界に1人の女性が入り込む。銀色に染めたショートカットの特徴的な紺色のサマースーツを着た女性、檀崎がそこには居た。
「檀崎だんざき 美紅みくさんですか? エージェント・檀崎」
不意に名を呼ばれた彼女は自身の名が呼ばれたことに驚いた様子で目を見開いて、その顔に合点がいってから口を開く。
「あんた、名前なんだっけ」
「鼈宮谷べっくや 嵐玲あられ、か。そうそう、そんな名前だった。いや〜、顔は覚えてたんだけどねぇ」
「いえ、大丈夫です。事前に人事ファイルを読ませてもらった時に檀崎さんが名前を覚えるのが苦手ってのは知ってたので。それより、集合時間……」
「集合時間? ああ、何時だっけ。結構余裕持って到着したつもりだから自信あるのよね」
「余裕……?」
右手につけた腕時計と左手のスマホで開かれているスケジュール帳を交互に見比べながら、鼈宮谷は困惑の声を溢す。
スケジュール帳に記載された集合時間は10時半、平均起床時刻が午前12時の彼にとって、10時半に現地集合はなかなか酷なものであった。それに対し山形から北海道まで約1時間10分のフライトを経てやってきた檀崎はハツラツな様子であった。両手には、おそらく持てる限界まで買ったであろうお土産の袋の数々があった。
「でも時間は……いや、いいか。それよりその袋、何が入ってるんですか?」
「これ? お土産の酒」
「酒?」
「そ、酒。あとツマミね。上川大雪とかはずっと買おうと思ってたけど、他の酒とかツマミ見てたら色々欲しくなっちゃってさ」
「でも、人事ファイルには酒癖が悪いから飲ませるなって」
「あんなん誇張しすぎなのよ。いうてキツいのは二日酔いで飲んでも記憶結構残るタイプだし」
少し見苦しい、あくまで主観での檀崎の言い分に一応耳を傾けていると、彼女のスーツケースから四角い箱を取り出し、手渡してくる。
「これ、山形土産のどまん中弁当。これがまた美味いのよ、まぁ重たいからたまに食べるぐらいでいいけど」
「ああ、これはどうも。僕お土産用意できてないんですけど」
「良いって、もうこんなに買ったし。あと、立ち話もなんだしそろそろ行きましょ。あんた、私を81HDに連れてくために車で来てるんでしょ?」
鼈宮谷が待たされた時間より遥かに早く終わった立ち話の場から離れ、鼈宮谷がここまでの旅路を共にした財団の社用車に案内する。車に疎い檀崎ですら、一目でバンだと気づく造形をしたその黒塗りの車は、連絡通路のすぐそばに停められていた。
財団の社用車にバリエーションとかはないのか、という文句を織り交ぜたため息を吐いて、檀崎は助手席に腰を下ろす。そんなものある訳ないでしょと冷静に返答する鼈宮谷は、どこかしぱしぱとした、眠そうな目を擦りながら運転席に座る。
車のエンジン音が鼓膜を揺らし、そのバンは発進した。
「ねぇ、あんた。なんか眠そうだけど大丈夫?」
虚な目を先ほどより少し大きく開いてから檀崎を一瞥した鼈宮谷は、少しニッとした顔をしてから再び前を向き、口を開いた。
「めっちゃ眠いです」
「ちょっ、はぁ!? うわっ、蛇行運転してるじゃない!今すぐ運転席降りろそこ変われ!」
「今僕が飛び降りたらそれこそ事故になりますよ」
半狂乱的な様子で静止を求める檀崎にどう見ても寝不足な鼈宮谷が冷静に応答するその様子は、どこか奇妙なものであった。
「檀崎さん、もうサイト-81HDに着きましたよ。結局事故らなかったんですから許してくださいよ」
「あんなホラー体験させておいて許せなんて言える立場じゃないでしょそっちは。こっちはいつ死ぬかにビビりながら、車にこの運命委ねるしかなかったのよ」
「でも結局 」
「結果論で済む話じゃないでしょ! いくら修羅場潜り抜けてもこんな恐怖は初めてよ」
ダラダラ文句を垂れる檀崎に己にも非があることから強くは言えず宥めるだけの鼈宮谷ら2人が、付属の地下駐車場からサイト-81HDのエントランスに入ってくる。そんな2人を見かねてか、メガネをかけた白衣の女が2人に向かって歩いてくる。
「やぁ、これはこれは。どうもこんにちは、エージェント・檀崎さんですね? 初めまして、研究主任の柳田と申します」
「ご丁寧にどうも。主任ってのは今回の件の?」
「ええ、如何にも。まぁ、私が今回の件で研究主任というのは、彼の手前少々憚られますがね」
「なんで? あんた、三十路だけどこいつはまだ二十代前半の若造だし。年齢的にも知識的にもあんたが適任でしょ」
「あれ、聞いてないんですか? 彼、超常アイヌの生まれで、生まれつき寝てる間は老化が進まない異常性を持ってるんですよ。多分普通に歳取ってたら下手したら三桁は行ってるかも。それに超常アイヌご本人だし。まぁ最近の財団職員なんて、異常性の一つや二つ大したことないでしょう?」
そう告げる柳田と鼈宮谷の顔を見比べたのち、檀崎は顔で年齢を判断することを諦めて柳田に向き直る。
「そうね、異常性があるから差別するなんてのは古臭い過去のことでしかない。それに、私も異常性ってほどではないけどそれっぽいのあるし」
「サイト-81YMから提供してもらった人事ファイルにも書いてありましたね。確か、ミームや認識災害に対する耐性でしたっけ?」
「そんな万能なもんじゃないわよ。あくまで虫の知らせみたいなもの。気付けても視界から外せられりゃいいけど、少しは影響を受けるなんてザラよ。その対策がこれ」
そう言った檀崎はスーツのポケットから四角いピルケースを取り出す。
「こいつの中には即効性の抵抗ミームが織り込まれた薬が2種入ってる。あとついでにパッチ型のWクラス記憶補強薬。1番便利なのは写真とか絵とかの視認をトリガーに効果を発揮するやつなんだけどね」
「アイヌにも紋様でミーム効果を発生させる技術がありますね」
「超常アイヌ本人からの言葉は重さが違うねぇ。そ、そういう視認で効果を発揮させるミームは古来から存在してるし、それだけあってかなり使いやすい。でも」
そこまで言ったところで人差し指と中指を立て、鼈宮谷の目に向ける。
「今私が、こうやって両目を潰せばあんたはその恩恵が得られなくなる。全盲には無力ってのは、紋様という形式をとった古来から変わらないごく普通のこと」
「我々研究職でも気を抜けば五感の一つなんて簡単に失われるこの職場では、五感の必要ない接種方法が求められるということですか。なんとも合理的な、財団らしい結論ですね」
研究者としての好奇心がくすぐられたのか、柳田は楽そうに笑って、通路の奥を手で指した。
「さ、挨拶代わりの立ち話はこんなもんでいいでしょう。私のオフィスに案内します、今回の詳しい要件はそこで」
柳田の研究室は壁一面に多くの写真や絵画が貼り付けられ、どこか異様な雰囲気を醸し出していた。
「嘘でしょ……」
「ああ、檀崎さんは見慣れてないですよね。これでも柳田さんのコレクションは少ない方なので」
「いや、おそらくエージェント・檀崎はそういうことを言ってるんじゃない。そうでしょう?」
「えぇ……そうね」
そう呟く檀崎は、先程の威勢の良さが嘘かのようにどこか弱々しく見えた。右手で両目を押さえながら、左手でこの部屋にしては珍しくぽっかりと空いた部屋の片隅を指さす。
「四方八方からミームが感じ取られて虫の知らせが煩いのもあるけど、1番はそこ。一体なんだか知らないけど、大きさ的には多分、絵画」
「え、絵画ですか? 確かに壁に絵とかは何枚か掛けられてますけど、そこには何も無くないですか?」
「いやはや、驚いた。そこまで精巧なのですか、あなたのセンサーは」
「1人で騒いでないでとっとと布とか被せてくんない?」
「こりゃ失敬」
悪びれた様子もなく、柳田は檀崎が指した部屋の隅に遮光カーテンを被せる。カーテンがかけられたことにより、以前からそこに存在していた絵画の輪郭が捉えられるようになってゆく。
突然の出来事に驚愕する鼈宮谷を横目に、柳田は淡々と壁の写真や絵画をひっくり返すだの布を被せるだのして視界から外していく。その後ろ姿を睨みつけながら檀崎はピルケースから薬を一錠取り出し、ペットボトルの茶とともに飲み下す。
「人のことを前触れもなく試すだなんて、随分と“素晴らしい”マナー講座を設けてんでしょうねおたくの81HDは」
「確かに前触れもなくこのようなことをしたのは無礼でしたが、これも今回の作戦に関係のあるものなので、どうかご理解を」
「こんな古典的で古臭いミームなんかが今回の事案に?」
「ええ、なんせアイヌは古い存在ですから。それに何より、私は古臭いミーム学者ですから」
「古臭いミーム学者を自称するにしては、ミーム効果は駄作ばっかりな気もするけど。芸術品としては中の上、ミームで見れば下も下よ。その、さっきの絵画を除けば」
そう言いながら檀崎は布の被せられた先ほどの絵画を指さす。
「ああ、残念ながらあれは私1人での産物ではないのですよ。ある回収されたアノマリーの断片を参考に構築し直した、悪く言えば贋作ですかね」
「そのアノマリーってのが今回の? とっとと本題に入って欲しいんだけど」
それは申し訳ない、と言いながら柳田は近くのキャスター付きの椅子を手元に引き寄せて座る。デスクの上にある資料に手を伸ばし、掴んだ3束の書類のうち2つを鼈宮谷と檀崎に手渡す。
「鼈宮谷研究員はすでに聞き及んでる内容だろうが、とりあえず聞いててくれ。エージェント・檀崎、あなたの推測は正しい、お陰でいくつか説明の手間が省けて立ち話が少しできるぐらいにはね。今回の件、古臭いミームに古臭い古典的な姿を隠匿する効果、そしてこの土地に古来より住むアイヌ。この三拍子から察せるでしょうが、今回我々が収容、もとい対処するのはアイヌ民族に伝わる伝承が一つ、カムイです」
「檀崎さん、カムイについての知識はどれほど」
「アイヌの土着信仰の神、だっけ? 軽くなら漫画からの知識で熊のカムイとかが居るのは知ってるけど、あくまで存在だけ。まぁ付喪神みたいなもんでしょ?」
「付喪神とはちょっと違いますね、檀崎さん。カムイは森羅万象全てにカムイ、まぁ要は神が既に存在している、という考えに基づいてあります。例を言えば、シャケのチェプカムイ、火のアペフチカムイというように人間が開発することなく既にこの世界にあったものなどにも神があるという感じです。対する付喪神はですが、例えばペンにしましょうか」
そう言いながら、鼈宮谷は胸ポケットから一本のボールペンを取り出して、もう片方の手で指す。
「付喪神はそのとある特定の、この一つのペンが作られてから100年経ってようやく魂が宿り、妖怪となるという伝承です。そこには物単体が長い歴史を経て神となるか、兼ねてよりその枠組みに当てはまるものは既に神が先にあるか、という明確な差異があります」
「なるほどね、カムイは前で、付喪神は後ってことか。で、今回対処するカムイってのは?」
その檀崎の問いに対し、柳田は手元の資料に目を落としたまま答える様子を見せない。
「ねぇ、おたくの研究主任ダンマリなんだけど。結局私は何のカムイを対処すれば良いの?」
「ええっと、ですね。あの、柳田さん、これ言わないと流石にまずいですよね?」
「そうだな……鼈宮谷研究員、頼んだ」
「えぇ……えっと、檀崎さん。実はですね、分かってないんです、何のカムイか」
「は? 分かってないの?」
「エージェント・檀崎、その怒りはもっともです。ただ、理由も理解していただきたい。先ほどの絵画、今回対処するカムイから回収された断片を参考にしてのもので在ると説明しましたが、参考にした結果があのような様に、今回のカムイはある種の非認識性があるわけだ」
そこまで聞いて、檀崎は片手を突き出し静止のジェスチャーをする。
「オッケー、とりあえずあんたらは私に透明マントとかなんとかを被ったすばしっこい猫かなんかでも捕まえてこいって言ってるわけね。んなもんミーム学部門に頼みなさいよ、絶対ミームに対して虫の知らせが発生するただのエージェントに任せる仕事じゃないでしょ」
「いいや、あなたが適任なんですよ。勿論、ミーム学部門には頼りました、戦術神学部門、巷説部門、思いつくのは片っ端から。それでもミーム学部門から得られた回答は、神格実体の認識災害はそう簡単に相殺できるもんじゃないと」
「戦術神学部門と巷説部門は?」
「戦術神学部門は『カムイは妖怪の方の比率が大きいから巷説部門に』、巷説部門は『カムイは神だから戦術神学部門に』と、たらい回しにされました」
「つまりですねエージェント・檀崎、なんというべきか、そのままの意味でセンサーとして働いてもらいたいと言うことです」
「オブラート破り捨てたら鉱山のカナリアになれって意味ね。現地に直接赴いて、危険を感じたら報告しろと」
「下手に否定はしません」
柳田の正直な肯定を聞き終えた檀崎は、手に持っていた書類をデスクに投げ置くと、近場にあった丸椅子を足元に引き摺り、柳田と向かい合う形で座り込む。
「良いわよ、カナリア。やってやろうじゃない」
「頼む側が何をって感じかもしれませんが、本当に良いんですか、檀崎さん? 未知の、しかも神格実体を相手にするのは流石に命の保証が」
「こんな職場でエージェントなんて仕事してたら、死なんてもうカケラも怖くないわよ。それに一回やってみたいと思ってたの、特攻で名誉の死を遂げるってやつ」
「言ってることは不謹慎極まりない気もしますが、何より作戦に承諾してくださってありがとうございます、エージェント・檀崎」
「作戦場所とか日程とかはどうなってんの?」
「日程は本日から8日以内。作戦場所は、異常がその文化に根付いていたり、日常的に使用していたりとする領域のうち、財団の介入が制限されている領域を指すフリーポート。その一つのカムイミンタラです」
「フリーポートねぇ」
道脇に寄せられた新雪の残る道を北上する車の中の助手席で、檀崎が独り言つ。手元には先日柳田から手渡された書類が握られている。捲られているページは北海道に位置するフリーポート“カムイミンタラ”に関する説明であり、今の彼女らが向かう先である。
「ねぇあんた、ただのアイヌじゃないんだってね。超常アイヌとか言ってたっけ。もしかして、今向かってるこのフリーポートが地元だったりすんの?」
話を振られた鼈宮谷は、前方から視線を外さないまま横目で檀崎を一瞥する。2人が会った初日とは異なり、鼈宮谷は適度な睡眠を終えていて、そこに睡魔は感じられない。もっとも、檀崎の自分の身の安全を確保するのも兼ねた熱心な睡眠導入が無ければ、先日と同じような展開が再度繰り広げられていただろうということは想像に難くない。
「いえ、僕自身は札幌の生まれですから、出自は今回のカムイミンタラとは関係ないですね。けど、親が超常アイヌだったので、そっちはもしかしたら」
「今、その親は?」
「僕がまだ幼い頃に起きた抗争で2人とも他界しました」
「そう……悪いこと聞いたわね」
「大丈夫ですよ。首がすわる前の話ですし、あまり覚えてませんから。それに81HDの人たちが第二の家族みたいなものなので」
「まぁそれなら……とりあえず心に病んでなくて良かったわ。というか、そうなると私たち2人とも初のカムイミンタラってこと? 刺されない?」
「刺されませんよ、そこまで治安は悪くないです。それに、あくまで関係ないのは僕の出自ですから、何度かカムイミンタラには足を運んだことがあります。っと、そんな話してたらもう着きましたね」
車を大雪山国立公園公営駐車場の一角に停め、2人が車から降りる。檀崎はコンビニ袋一つにナップザックという身軽な格好で、これから彼女がフリーポートに任務として入ると知っているものでも、姿だけ見せられれば疑いの目を持つのは明確であろう。
また鼈宮谷も、リュックサック一つを背負い、身軽な服装をしている。基本裏方として行動する研究員としては最適な格好ではあるそれは、檀崎との相乗効果により観光目的で来た登山客にしか見えないだろう。
「大雪山国立公園? なになに、仕事サボって観光でもすんの? 粋なことすんじゃない」
「いや、観光じゃないですよ。とりあえず着いてきてください」
そう言って鼈宮谷は登山ルートに入るかと思えば、すぐ傍の獣道に歩を進める。平然と獣道を突き進む鼈宮谷に半ば困惑しながら、檀崎は空いた隙間を埋めるように少し早歩きで彼の後を追う。
20分ほど経った頃、少し視界が開け小さな山小屋が姿を現す。
「あれは?」
「財団の前哨基地です。今回みたく、財団の介入が必要だと判断された事案の際はセーフハウスとして使われてるんです」
「前哨基地? にしてはここら辺何もなさそうだけど」
そう言って檀崎は周囲を見回す。視界に入るのは木と少し開けた場所に在る財団の山小屋のみであり、何かそこに集落のような類があるようには見えない。
「にしてはポータルの類も見えないけど、場所間違えてんじゃないの?」
「そう見えますよね。そうだな……檀崎さん、結界術ってのはわかりますか?」
「あのドーム状で中の人間守るやつ?」
「ええ、おおまかにはそんな感じです。結界術にはいろいろあるんですが、檀崎さんが挙げたのは護衛の目的で使われる最も典型的なものですね。こっちのは隠匿用、簡単に言えば、そのドームに反ミーム性を施したようなものです」
「反ミームにしちゃ、私のセンサーは反応してないみたいだけど」
「僕は専門家じゃないので分かりませんが、似て非なる存在なんでしょう。物質そのものへの全ての認識を捻じ曲げることで成立する反ミームと、その物質の内側を外側と定義した部分から隠匿する結界とではまた別でしょうから」
「へぇ、そういうもんなのね」
あまり理解しきれてないような檀崎の空返事に、鼈宮谷はそういうもんでしょうと雑に返しながら小屋に向かう。目を擦りながら歩く彼は、どこか眠たそうな様子であった。
「一旦仮眠しませんか? まだ期日まで6日ぐらい残ってますし」
「あんたの仮眠って仮眠じゃない気がするんだけど。一旦何とかなったりしない? まだ午後の6時なんだけど」
「寝ぼけて作戦中に変なこと口走っても良いのなら」
「よし、寝よう。ただし、時間になったら叩き起こすから」
「ありがとうございます」
もうすでに意識が朦朧としてきたような様子で言葉を紡ぎながら、鼈宮谷はゆったりと小屋に歩みを進める。
「ちょっとあんた大丈夫?」
そう言いながら檀崎が肩を貸し、ようやく鼈宮谷は小屋のドアを開けた。
「いやー、森の空気ってのは意外と美味いもんね。それともここが結界に囲われたフリーポートだから、外とは違うだけ?」
「流石に空気の流れは断ち切ってないと思いますよ」
午前11時、FP-カムイミンタラに入ってすぐの場所で檀崎は伸びをしながら大きく深呼吸をする。カムイミンタラと呼ばれるそこには柱としての木枠に、干され黄金色となった茅が壁や屋根として使われる住居が建ち並んでいた。チセと呼ばれるアイヌの伝統的な家屋は、檀崎にとってはとても新鮮なものであった。
「そういえばさ、あんたここ来る前なんか変な踊り、踊ってたよね? 踊り終わった途端ここが見えてびっくりしたんだけど、あれ何?」
「アイヌの伝統舞踊の、サルロンってやつです。原理は僕よく分かって無いんですけど、結界への視認・進入条件としてサルロンを踊る必要があるらしいです」
「へぇ、初見のやつよくそんなの気づけたね。ゲームの隠し要素みたいなもんなのに」
「たぶん形式部門の人たちが頑張ってくれたんですよ。あ、そうだ。今日の流れって聞いてます?」
「まだ」
「じゃあ僕が今から説明しますね。ちょっとこれ見てください」
そう言って手元のタブレットを操作しながら檀崎の横に並び立つ。タブレットには恐らくこの大雪山国立公園の物であろうマップと、その上で点滅する赤い点が表示されていた。
「これは、財団が記録したカムイミンタラのマップです。点滅する赤い点はこのタブレットに内蔵されたGPSを用いて獲得された現在地情報です」
タッチペンを取り出し、右上に大きな丸を描く。
「そしてここが、今回の調査予定範囲です」
「なんでここなの?」
「先程、このタブレットにはGPSが内蔵されてると言いましたよね? このカムイミンタラに入る際は、このタブレットの所持が義務付けられてるんです。そして直近数ヶ月、この付近でGPS信号が停止し、職員が失踪する事件が相次いでるんです」
「ここの住民が職員を殺害したり、誘拐した可能性は?」
「当初はそれが有力な説でした。しかし、1ヶ月ほど前調査に赴いたエージェントから音声付きで映像が81HDに送信されたんです。映像の中で彼はこう言ってました、『歪んだカムイに追われている』と」
そう言ってタブレットの画面を切り替える。刑事ドラマでよく見る捜査資料、それが檀崎がはじめに抱いた感想だった。いくつかの考察文に、"歪んだカムイ"の撮影を試みたであろう複数のブレた写真が貼られていた。
「81HDであいつがなんのカムイか分からないってのも、この資料を見たら納得ね」
「その分危険度も高いです。せめて、取れる限りの安全策を取って行きましょう」
「その安全策ってのは? 記録的に肉眼では確認できないんだろうし いや、もしミーム由来のものであれば私の虫の知らせでそこはなんとかなるか。なかなかの賭けではあるけど」
「そうですね。ですが、多分今回の案件は大丈夫です」
「なんであんたがそんなことわかんの?」
「厳密には僕って訳ではないですね。さっき話したこれから会いに行く安全策の一つ、超常アイヌの協力者がよく知ってるんです。ああ、ここは財団と友好的なコタン 要は村ですね なのでそんな警戒しなくても良いですよ」
「……バレてた?」
檀崎の少し自嘲的な自白を背に受けながら鼈宮谷はコタン、アイヌ民族の集落に進む。その後ろを警戒を緩めた檀崎が追う。
友好的なコタンというのを証明するかのように、白衣を着た鼈宮谷が堂々とコタンの中を歩んでも、周囲のアイヌは彼に敵対であったり好奇であったりとかの特別な視線を向けることはない。例えるなら、街に居る鳩に対するような距離感のように感じる。
それは檀崎も同様で、目的のチセに辿り着いてもそれが変わることはなかった。
「ペクユエニシパ!居ますか? 僕、鼈宮谷です」
「そこまで大声出さなくても聞こえると、前も言っただろ」
と鼈宮谷の呼び声に文句で返しながら、白髪の初老の男性が姿を見せる。
「よう鼈宮谷、お前いつになっても若けぇままだな。ん、そこの嬢さんは?」
「仕事仲間の檀崎さんです。檀崎さん、こちらこのコタンの村長のペクユエさんです」
「和名は安野輝亮だ、好きな方で呼んでくれ」
「ご丁寧にどうも。紹介の通り、私は今回の作戦でペアを組むことになった檀崎、よろしく」
「そうか、鼈宮谷とペアか。大変だろうなそりゃ」
「ええ、こいつほんと起きなくって」
「はっはっ、だろうなこいつは本当昔から……っと、客を立ちっぱにさせちゃ悪いな。遠慮せず入りな」
そう言ってペクユエはチセの中から手招きする。
手招きに応じて、鼈宮谷が先に立ってチセの中に足を踏み入れる。それに続く形で檀崎も、少し警戒した様子を崩さないまま同じようにチセに入る。
チセの中央には囲炉裏のような、薪が焚べられ燃やされている空間があった。初めてチセの内部を見て抱いた檀崎の感想は、竪穴住居の様だ、というものだった。
「そこらへんに適当に座ってくれ。すまないが今はあまり出せるものがなくてな、我慢してくれると助かる」
「そんな喉乾いてないから大丈夫。ってか、情報提供だけで充分よ」
「ははっ、安上がりな嬢さんで助かるな」
よっこらせと掛け声と共に、ペクユエは2人の向かいに胡座をかいて座る。
「今回の案件なら既に聞き入れてる。"歪んだカムイ"だとかを捕獲するのだろう?」
「ええ、そうです。ペクユエさんには情報提供を願いに来たんですが、もうひとつ。遭遇した身として、あのカムイを歪ませているミーム的効果についてです」
「なるほど、厳密には遠くから観測したまででしかないが、話せる限りのことは話そう。先ずは何が良い? 専門的な用語も、ある程度なら通じるから安心してくれ」
「じゃあ遠慮なく。あんたが見たそいつは"歪んでた"? 歪んでいたのなら、あんたは反ミームと認識災害のどっちだと思う?」
そうだな、と呟きながら顎に手を当て軽く俯く。
「アレは確かに歪んでいた。そして、財団の君からすれば素人意見にはなるが、あれは反ミームだ。厳密には不完全な」
「不完全な反ミームだからこそ、アレは歪んで見えたと?」
「そうだ、カムイそのものが不完全に顕現したが故か、歪みが反ミーム的紋様を形成したが故かは分からんが」
「反ミーム……めんどくさそうね」
「ペクユエニシパ、報告では"歪んだカムイ"に追跡されたという報告があるんですが、そこらへんは」
「追跡だ?」
先ほどまで俯いてた顔をぱっと上げ、鼈宮谷の顔を見る。
「俺はそんなことされなかったな。距離の問題か、はたまた何か条件があるのか」
「条件の不明な異常性ほど厄介なものはないわね。うん……私が聞きたいのはこれでおしまい、後は実際に対面してみる。あんたはなんかある?」
「僕ですか? いえ、僕も特に……あ、ちょっと仮眠を取っても 」
「駄目。絶対に寝かせないから」
そう言って、若干体が斜めになっている鼈宮谷の手首をしっかりと掴んで立ち上がる。
「じゃあ、えっと、ペク……パグ……? 名前忘れた、ありがとうね村長さん。こいつは私が連れてくから」
「ペクユエだ、覚えるのはまたいつか会えた時でいい。その時をしっかり待ってるから」
「覚えやすそうな名前で助かるわ」
「もはやただの森ね、ここまでくると」
「まぁコタンは森の中の少し開けたところに集落を作ってるだけですし」
情報提供をしてくれたペクユエに別れの言葉を告げ、2人は"歪んだカムイ"の発見された地帯に来ていた。
「そのカムイっての見つけたらどうすればいいんだっけ」
「昨日の時点で財団の回収部隊が待機してるので、発見したらすぐに連絡を入れる手筈になってます。ただ、回収部隊の人達からは誘導してほしいって言われてまして」
「やっとカナリアらしい仕事ができると思ったのに、カムイとの"鬼ごっこ"もしなきゃいけないの? まぁいいけどさ、あいつらも命懸けだろうし」
そこまで言ってから押し黙り、思い出したかのように言葉を紡ぐ。
「そういや、あんたがタゲられたらどうすんの? 私はあいつを直視する策もあるし、追いつかれても応戦するなりなんなり出来るけど、あんた戦闘無理でしょ?」
「そこらへんなら多分大丈夫です。ちょっと前に僕、結界の説明しましたよね?」
「ええ、なんか護衛用と隠匿用があるとか言ってた」
「そうです。僕、簡易的ですけど結界を張れるんですよ。と言っても、僕自身の身を守る程度のことしかできませんが」
「充分充分、それならとりあえずは一安心ね。っと、やっと着いた」
そう言って立ち止まり、脇に挟んでいたシートを地面に敷く。木に囲われたそこは、木が良い目隠しとなることで遠目からでは少し発見しにくい場所であった。しかし、あくまでも少しであるため、気休め程度のものであった。
「ここでカムイが出るまで待機、ね」
「長丁場になりそうですね」
「寝ちゃダメよ。これは意地悪とかじゃなくて、貴方の身の安全を考えて。寝てたら最悪の場合、身を守る間もなく死ぬ」
「肝に銘じておきます。そういえば気になってたんですけど、檀崎さんの対策って何ですか? さっき反ミームを直視するとか言ってた」
「ああ、あれ? そういえば81HDでは説明し損ねたわね」
と言いながら、スーツの内ポケットからピルケースを取り出す。そしてケースから医療用パッチのような物を取り出し、人差し指と中指で挟みヒラヒラと振る。
「これ、Wクラス記憶補強薬のパッチ型。首筋とか手首とかに貼ると、まぁざっくり言えば反ミームとかが見れるようになる。でもデメリットがあるのよね」
「何ですか、デメリットって」
それはね、と言いながら答える前に自分の腕にパッチを貼る。
「酔っ払うんだよね、これやると」
「えっ……それってダメなんじゃ」
「何がダメなの? これはただの"副作用"。それに流石の私だって酔いたいからこのパッチを使ったわけじゃない、カムイとやらをこの両の目でしっかりと拝むためよ」
「ならまぁ、良いんですかね?」
「これせがみにミーム学部門の知り合い尋ねたら全員から拒否られたから、わざわざ新人の子とっ捕まえて貰うの大変だったのよね」
「やっぱそれダメなんじゃ……」
「 ってものがアイヌにはありまして、トリカブトの毒を使ってるので人も余裕で死にますね」
「何でそんな愉快そうに言うのよ、怖」
そんな雑談を40分ほど続けていた頃、突然檀崎が視線を鋭くし、姿勢も警戒状態に入る。彼女の只事ではなさそうな様子を見て、鼈宮谷も姿勢を変える。
「どうしたんですか?」
緊張してるせいか、小声で鼈宮谷は問いかける。
「……来た。南西の方向、多分だけど、足音はない」
檀崎の簡潔な状況報告を聞き、直ぐに鼈宮谷は南西の方角を向く。
方位磁針に従って南西の方角に視線を動かしていると、視界端に場違いな"歪み"が映り込む。鏡の屈折とは違う、だからといえ水中のものを外から覗き込んだものでもない。
だけれども、確かにそれは歪んでいる。形容出来ない歪んだ"ナニカ"が森の中で静かに佇んでいた。
「鼈宮谷」
動悸が早くなっていた彼の心臓は、檀崎の柔らかな声で落ち着いていく。
「回収部隊に連絡を。『"歪んだカムイ"を発見した。エージェント・檀崎が囮になって誘導している』って」
「ぼ、僕も援護を 」
「駄目、こういう場面で研究職は下手に動いたら死ぬよ。あんたは大人しく逃げときなさい」
「……分かりました」
元より自身が戦闘には向かないと分かっていたのもあり、鼈宮谷は大人しく身を引いた。檀崎に言われた通り、そのままの文面で回収部隊に連絡を送る。
「檀崎さん、これを」
そう言って、鼈宮谷は黒い長方形の物体と板状の物を手渡す。
「これはタブレットに……トランシーバー?」
「僕は檀崎さんと違って、カムイと戦ったら抵抗する間も無く死にます。どころか、野生動物相手でも死んじゃいます。だから僕は、アイヌの神相手なら、アイヌの手段で抵抗するんです」
鼈宮谷はニッと笑って続ける。
「僕にも手伝わせてください。それは、そのまず第一歩です」
そう告げる鼈宮谷の顔は引き締まっていて、真っ直ぐ檀崎の目を見つめていた。フッと小さく息を漏らしてから、檀崎は口を開く。
「わかった。なら、あんたのこと頼りにするわ。時間はどれぐらい稼いだ方がいい?」
「簡易的なモノなので、長くて15分ほど。稼げますか?」
「余裕よ、そんぐらい。じゃあそれで行きましょう、頼んだよ。私が無事に帰って来れたら、その時は一緒に居酒屋行きましょ」
「死亡フラグやめてください、縁起でもない。それでは、くれぐれもお気をつけて」
鼈宮谷が充分に離れたことを確認してから、檀崎は身を乗り出す。先ほどの位置からさほど動いていない"歪んだカムイ"をしっかりと見据えて声高らかに告げた。
「さぁかかって来い、クソカムイ!」
挑発なんかしなきゃ良かった。
カムイから逃げている間、心の中でぼやく。酔ったせいで緩くなった言葉のストッパーを恨みながら、そもそもカムイに日本語が通じるのかという疑問にも発展していった。
「……んなこと考えてる場合じゃない」
そう独り言を吐いて頭を振り、余計な思考を追っ払う。今考えるべきは後ろの追ってから上手く逃げながら彼、鼈宮谷が罠を仕掛ける時間をしっかり稼ぐこと。胸元に引っ掛けたトランシーバーにも絶えず注意を送りながら、後ろのストーカーから逃げ続ける。
「何でこんな暗いのよ、クソ」
5時過ぎだというのに周囲は暗闇に包まれている。冬場の日の出の短さを恨みながら、立ち塞がる木々を避けながら走る。来たばかりのときはデメリットにしかならないと思ってた木も、いざとなれば距離を開くための障害物として良い働きをする。
後方数メートルに居るカムイを、確かに感じ取っていた。具体的には、カムイの持つ反ミーム性に対する"虫の知らせ"から感覚でわかる。
とはいえ、ここまで強く感じられるのは今回が初めてのことだった。深く考えたいところだけど、今はそんな場合じゃない。危機的状況から分泌されたドーパミンのせいだと、自分で自分を納得させる。
あとどれぐらい走れば良い? 体力の限界はまだ先、カムイもまだタゲを移してないし、追跡をやめる気もなさそう。
ふと、頬にピチャッと雨粒のような、小さな水飛沫が当たった感覚がする。今日の天気は快晴、にわか雨もあり得ない。だとしたらあり得る可能性は鳥の糞尿か
「アイツがやりやがったのが一番濃厚ね」
後ろに付く"歪んだカムイ"の射程距離を知らないし、なにを得物にしてるかもわからない。アイツの水飛沫を真っ向から浴びることが、行方不明のトリガー?
とりあえず、些細なものであればトリガーにならないのは不幸中の幸いといったところだろうか。……こんなこと、本来なら考えるべきじゃないのかもしれない。けれど、頰に付いたこの液体からは、どこか嗅ぎ覚えのある香りがする。
確信を得るために一度舐めたいところだけれど、それはあまりにもリスクが大きすぎる。これ以上こんな必要のない思考に囚われないよう、袖で拭いとる。
少なくともこの液体そのものに嫌な予感、というよりセンサーは反応しなかった。こんな場面でも直感に頼るのは少々危険かもだが、これでここまで生き延びてきたんだ。今は頼れるもの全てを頼ろう。
少なくとも、目標のリミットが定まるまでは警戒を解けない。幸いにも今は 多分 アドレナリンのお陰で、センサーが性能を向上させている。そんな時の嫌な予感は、きっとさぞかし高性能なのだろう。
「っと、ヤバ!」
より一層"嫌な違和感"を感じ、思いっきり飛び上がる。頭上にあった太い木の枝を両手でがっしりと掴み、遠心力を利用してさらに遠くに飛ぶ。
バッと後ろを振り向けば、カムイが腕の様な棒状のものを振った後であった。先端には、お椀だろうか。とにかく液体を溜められそうな部分が存在する。例に漏れず歪んでいるから、正確ではないのだろうけれど。
先程までいた地点の地面は、場違いに濡れているように見える。局所的に雨を降らせる能力? それにしては濡れ方が水の入ったコップを横に振ったかのようだ。じゃあやっぱりあのお椀みたいなのは本当にお椀?
なにはともあれ、あの液体を全身で浴びるのは絶対に避けたい。液体そのものにミーム的なものは感じ取れない。つまり、センサーが反応しない。予備動作無しに液体をかけられたら、私は一巻の終わりだ。それだけは絶対に避けたい。撒かれた液体の跡を見た限りでは、射程距離は4〜5mほど。飛沫も含めたら6mはあるかもしれない。
そんなことを考えていると、カムイは先程までの棒状の部分をすでに引っ込めている。どこかに格納したのか消滅させたのか。大事な場面を見逃した。おそらくは攻撃に使うであろう部分を格納したのなら、次にアイツが取る行動は一つ。私の追跡。
距離的なアドバンテージのある内に、逃げ出した方がいい。ただ、さっきよりもさらに後ろに警戒をした方がいいだろう。痺れを切らしたのかわからないが、アイツは明確に敵対的と見れる行動を取った。今後はさらに過激になることが予想される。
パターンさえわかれば完璧だが、カムイというある種の神格に人間の尺度を当てはめるのは良くなさそうだ。
しつこい奴はモテない、苦し紛れにそう吐き捨てようとした時、トランシーバーからザザッというノイズが流れる。反射的にトランシーバーを掴み、直ぐ顔の前に持ち上げる。
『檀崎さん、聞こえてますか? 僕です、鼈宮谷です』
トランシーバーのスピーカーからは、ノイズに混じって鼈宮谷の声が確かに発せられる。彼の北海道訛りの声に若干の安心感を覚えつつ、すぐに気を引き締め通話ボタンを押す。
「聞こえてる!その対抗策ってのは、出来た!?」
『はい、出来てます!先程渡した、81HD支給のタブレットで檀崎さんのGPS情報を確認してるんですが、ちょうどそこから北東に65mほど進んだ地点に設置しました』
「わかった、そこまで誘導するわ」
『檀崎さん、僕の設置した"対抗策"は人間にも被害が及びかねないものです。だから絶対に、"スイッチ"を踏み抜かないでください』
「踏み抜かないでって、こんな暗い環境で!?」
『そう言うと思ったので設置した木の、2本手前の木に蛍光色のテープを巻いておきました。それを目印にあとは気合いで飛び越えてください』
「気合いって……いや、わかった。華麗に飛び越えてみせるわ。回収部隊は?」
「今、僕と一緒に罠の付近で待機してます」
「オッケー、ありがとう鼈宮谷。なら、回収部隊に伝えておいて欲しいことがある」
『なんですか?』
「"歪んだカムイ"の行動パターンが一部判明。先端がお椀みたいになってる棒状の物体を生成する予備動作が確認されたら、カムイの半径8m以内には絶対に近づかないこと。直後撒かれる液体に触れたものはおそらく失踪する。って、出来る?」
『出来ます!』
「ありがとう、それじゃあ目的地に着いた後はよろしく」
トランシーバー越しの鼈宮谷にそう伝えてから、トランシーバーをまた胸元に引っ掛ける。
未だ後ろを一定の速度で追ってくるカムイを一瞥し、ニッと笑いながら声をかける。
「ねぇあんた、50m走のタイムはどれぐらい? それとも、カムイには妖怪の運動会の参加資格なんてない?」
ちょっとは軽口を叩けるようになった己の余裕さに少し驚かされる。行くべき目標が定まったと言うのは、自覚してないだけでかなりのプラス効果だったらしい。それとも彼の声に安心したのか。まぁ今はそんなこと考えてる場合じゃない。
体感残り45m。警察学校時代に使ってた校庭のトラックのような平面の地形なら簡単なのだろうけど、ここは森の中だ。盛り上がった根に足を取られそうになるのを避けながら走るのは、思ったより骨が折れる。
ふと、視界の先に場違いな黄緑の蛍光色が目に入る。
夜風に吹かれヒラヒラと揺れるその蛍光色のビニールテープは、直ぐに鼈宮谷の言葉を想起させた。
先ほどよりもさらに足元に注意を向けながら、テープの方向に一直線で走る。1本、2本……3本目!鼈宮谷の言葉が正しければその木の下に……あった。ピアノ線と思しき糸が夜空に輝く月光を反射していた。あれが鼈宮谷の言っていた"スイッチ"なのだと直感する。
回収部隊や鼈宮谷の姿は見えない、恐らく先程伝えた行動パターンを意識してのことだろう。リスクを可能な限り削減してくれるのはかなり助かる。
そんなことを考えていたら先程のテープがもう真横に来ている。"スイッチ"まで秒読みだ。
歩幅を調整する。踏み切るのに良さげな広い空間がないが、まぁここは妥協しよう。ちょうど根が捌けてる、落ち葉の溜まった部分で利き足を思いっきり踏み切る。曲げた膝のバネの力を使って、前に一気に飛び出す。
糸を完全に飛び越えたのを確認してから、地面に身を投げ出す。受け身は取ったが、少し肘が痛む。痛みを無視し、パッと横を向けば待機していた鼈宮谷と回収部隊がその姿を見せる。そして、足の先には先程のカムイが未だ勢いを落とさず追ってくるのが見える。自身の置かれた状況をよく再確認し、反射的に体を起こす。
「後方8メートルに目標オブジェクト!装置を作動させて、早く!!」
そう檀崎が走り出しながら叫んだすぐ後に、シュッと空気を割くような、鋭い弓の放たれる音がして、その音はすぐ森の中へと静かに消えていった。
「おかえりなさい、檀崎さん」
「どーも、何とか無事帰って来れたわ。あのカムイは、何があったの? 痙攣してるように見えたけど、その装置の影響?」
「あれはアイヌの伝統的な狩猟装置のアマッポです。カムイを待ってるときに、トリカブトの毒を使った罠を話しましたよね。それの代表例をカムイに使ってみました」
「すごいわね、即興でそんなことができるなんて」
財団の移動車両の中で、檀崎はようやく緊張を解く。
「カムイに毒が効くかは一か八かの賭けだったので、無事に効いて良かったです」
「目には目を、アイヌ文化にはアイヌ文化を、ね。あんたのおかげで命拾いしたわ、ありがとうね」
「檀崎さんがあそこまで誘導してくれなかったら、罠を発動させることすら叶わなかったんです。感謝すべきは僕の方ですよ」
それはどういたしまして、と檀崎は頭を掻きながら返す。
「ねぇ、あのカムイってこの後どうするの?」
「一旦81HDに輸送して検査だそうです。輸送コンテナに入れてからは痙攣しながらも檀崎さんを追おうとはしなくなりましたし、とりあえずは慎重に調査を進めることになりそうですね」
「そ、じゃあもう、カナリアの出る幕は無いわね」
ぐっと両手を組んで上に上げ、伸びをしながら檀崎は言う。
「あの、檀崎さん。一つ聞いても良いですか?」
「良いわよ、何?」
「僕の名前、覚えてたんですか?」
「……いつ正しい名前呼んだっけ」
「森で、僕たちがトランシーバーで会話してた時です。檀崎さん、僕のこと鼈宮谷って呼んでくれましたよね」
鼈宮谷の言葉を小声で復唱しながら、深く考え込む。
「ああ、呼んだ呼んだ。そうだわそんとき呼んでたわ」
「僕の名前、覚えられたんですか? それともこれまでの全部わざと……?」
「人のことなんだと思ってんのよ、全部素だって、素」
そこまで言って、しっかりと鼈宮谷の顔を見据える。
「てか、相棒の名前を覚えられずに誰の名前覚えろってんのよ」
カムイの捕獲作戦終了の翌日、サイト-81HDの柳田のオフィスに1人の来客があった。
「やぁどうも。随分とお早いご到着で、詩記者。いや、誤伝達部門の臨時エージェントの方が正しいですかね?」
「まぁ、どっちでも良いでしょう。今回の仕事、僕は誤伝達部門の人間として関与してるし。ああ、でも僕は記者の方で呼ばれるのが慣れてるからそっちで」
そう言って詩は椅子を手繰り寄せ、腰を下ろす。
「お茶なら大丈夫、急な訪問だし準備もろくにできてないだろう?」
「ええ、まぁ。本来ならエージェント・檀崎に話す内容ですし」
「檀崎さんはどうしたんだい? 別に怪我を負ったわけでもないんだろうし」
「二日酔いですよ、パッチ式のWクラス記憶補強薬の副作用で酔った影響で。あとうちの鼈宮谷研究員は純粋な寝坊です」
「ははっ、檀崎さんらしいダウンの仕方だ」
愉快そうに話す詩の向かいに、コーヒーを片手に椅子を引いて柳田が腰を下ろす。
「じゃあ、そろそろ確保したカムイの話をしましょうか。そこの資料を見てください」
「お、どうも。……トノトって何?」
「解説する前に先走らないでください」
「ごめんごめん。記者としての好奇心がつい、ね」
どこかマイペースな詩に軽くため息を吐きながら、再び書類に目を落とす。
「トノトはアイヌ語で酒です。それにカムイを合わせて、トノトカムイ。今回エージェント・檀崎と鼈宮谷研究員が共同で捜索した"歪んだカムイ"の正体です。まぁ、今回のは不完全な個体ではありますが」
「へぇ、こんなのが。なんか名前からして弱そうだね」
「実際かなり弱いです。簡単に収容出来ましたから」
「でも、こいつって何人かのエージェントを失踪させてるんじゃ無いっけ?」
「厄介な点はそこです。が、もう奴の追跡基準は判明してます。ざっくりですが、酔っ払ってる人間を狙って追いかけるらしいです」
「じゃあ失踪したエージェントもWクラス記憶補強薬を服用してたってことで良いのかい?」
「……話が早すぎて助かりますよ」
半ば諦めたように、柳田は呟く。それを気にするようなこともなく、詩は笑顔を崩そうとはしない。
「とにかく、詩記者。貴方の推察通りです。失踪したエージェントは全員Wクラス記憶補強薬をパッチで接種していた。酒のカムイだからなのでしょうかね、酔っ払いを狙うのは。因みにですが、失踪したエージェントの行方は現在でも不明です」
「随分と危険な橋を渡ってたんですね、檀崎さんは」
クスクスと笑い声を漏らしながら、詩は呟く。
「エージェント・檀崎がカムイとチェイスしてる時に行動パターンを解析してなかったら、多分生還は厳しかったでしょうね。彼女の想像通り、カムイの撒いたあの液体はアルコール飲料、それも日本酒と同様の成分をしてました。おそらく、あれで完全に酔い潰してから連れ去っていたんでしょう」
「意外と頭がいいんだね、カムイってのは」
「まぁ、歪んでいようと神に変わりはありませんからね。そもそも、偶像崇拝ではない神格が偶像として顕現してる時点で、神ではない何かかもしれませんが。エージェント・檀崎の観察力には驚かされますね。行動パターンに関しては、うちの研究班と遜色ない情報と考察を提供してくれました」
「へぇ。っと、ここまで来たらあとはカムイ専門の81HDの仕事ですね。僕の誤伝達部門臨時エージェントとしての仕事も引き継がれるし、僕らサイト-81YMの出る幕はない」
そう言って立ち上がる詩を手で制止して、柳田は口を開く。
「いや。詩記者、貴方にはまだ一つ仕事が残っています」
「なんかあったっけ?」
「あのエージェント・檀崎を一緒に連れて山形に帰ることです。うるさいんですよ、苦情が。あの二日酔い女を元いた場所に、早く、連れ帰ってください」
心底面倒くさがっているということがよくわかる、吐き捨てるかのような口調で柳田はそう告げる。そんな彼女を横目に、詩はオフィスのドアを開ける。
「残念ながらそれは僕の仕事じゃないね、彼女の仕事だ。それじゃ、檀崎さんにはよろしく言っといてくれ。あと、嘘ついて悪かったってね」



