十一度目の夜へ
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こんな夢を見た。

坂道を登り切った先の洋館。黒鉄の華奢な門の向こう。
そびえる桜の大樹の陰で、一人の少女が待っている。
通り過ぎる風の音が、何か言った彼女の声を遮る。

聞き取れなかった自分はそちらへと一歩踏み出す。
その足は小さく、蛍光色の運動靴を履いていて。
少年の自分は短い歩幅で駆け出している。

もう二度とない光景。かつてそこにあった筈のもの。

昔見たそんな夢を、大人の今も時々思い返している。

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坂の上にある夢追の屋敷に近寄ってはいけない。怖い夢を見続ける事になるから。

いわゆる「学校の怪談」に混じってそんな噂話を教室で聞くようになったのは、二年の三学期に入った頃の事だった。小学校にはつきものの、よくある怖い話というやつだ。

別に本気で信じた訳でもなかったのに、ふと思い立って坂の上に足を向けてしまったのは、きっと三学期末のどこか停滞した空気のせいだったのだろう。何もかもがちょうどいいように思えたのだ。妙に時間が有り余っているこの時期も、手ごろな距離も、そして噂の内容も。だから翔吾は大して気負うこともなく、その場所へと向かった。良く晴れた少し肌寒い日のことだった。

放課後に軽く息を切らせながら翔吾は坂道を登り切る。「夢追の屋敷」というのは坂の上の区画の一番奥にある、一番大きな洋館であった。見上げた黒い門は固く閉ざされている。高い塀を回り込んでいると、小さな扉があるのが目に飛び込んできた。しっかりした黒鉄くろがねで編まれた柵の扉だ。優美な曲線を描くつめたい金属のフェンスの先に庭が広がっている。翔吾はそろそろと扉に近づいて、鉄のすきまからその向こう側を覗き見た。

広い庭のようだった。見えたのは、生い茂る低木の若葉。白い石をしきつめた通路。咲き始めた桜と屋敷の、ほんの一部。それをもう少しよく見たくて、少年はフェンスに顔をおしつけた。

きい、という軽い音。

ぐらりと視界が揺れて、身体が投げ出される。蓋の金具が外れていたランドセルの中身が勢いよくバラまかれたのが回転する視界の端に見えた。起き上がって後ろを見れば、黒鉄の扉は開いている。鍵がかかっていない所に体重をかけたから中に転がり込んでしまったのだとわかるには数秒かかった。翔吾は慌てて跳び起きて散らばった荷物をかき集める。小学三年生ともなれば、他人の家に許可なく入ってはいけないことくらい知っている。不法侵入というやつだ。こんな所を誰かに見つかっては大事件だ。一刻も早く証拠を回収して逃げ出さなくてはいけない。

何故か筆箱に入っていなかった消しゴムが転がって、その方向へと追っていく。きょろきょろと周囲を見渡せば、それは桜の木の根に挟まるみたいにして落ちていた。自分の胴まわりくらいありそうな太い根を乗り越えて、回収した消しゴムをポケットに押し込む。そうやってから目を上げた先には、これまた途方もなく太い幹がそびえていた。翔吾が腕を広げても、半分も抱え込めないだろう。これほどの根の上に乗っているだけのことはある。翔吾はこれほどの大樹をこれまで見たことがなかった。こんな辺り一帯を全部鷲掴みにして吸い上げるような根を持った大木は。根をしげしげと見ていると、背後から唐突に声がした。

「そこには何も埋まってないよ」

振り向けば、透き通るほどに深い黒の瞳があって自分を捉えていた。夕暮れと呼ぶにはまだ大分早い時間であったが、翔吾はそこに黒々と潤んで輝かしい夜空を見た。

ずっと見ていたら何だか吸い込まれてしまいそうな気がして、翔吾は無意識のうちに後ずさろうとした。入り組んだ桜の根に足をとられて盛大に転ぶ。仰向けに見上げた視界には、葉のないむきだしの寒々しい枝、そしてその先に春の眠たげに霞んだ青空。枝にしがみついた蕾はまだ固く結ばれている。起き上がろうとしたところで、くすくすと笑い声が降って来て青空に少女の顔が割り込んできた。先程の瞳の持ち主だ。自分より年上なのか年下なのか、それすらもよくわからなかった。まだ幼い一年生であるようにも、六年生のお姉さんであるようにも見える。学校では見た事のない顔だったから、同学年でないのは確かだ。いや、そもそも学校に夢追の子がいないからこんなに正体不明の噂になったんじゃないのか。

そんなことを考えている間、少女はずっとこちらを覗き込んでいた。さらりと肩から零れ落ちた黒髪が影を作っているからか、さっきみたいに吸い込まれそうだとは思わなかった。なんだ普通の女の子じゃないか、さっきのは目の錯覚だったんだ。そう思いはしたが、別に「普通の女の子」が相手だとしても何を言えばいいかなんて考えつきはしなかった。

「大丈夫?」

声をかけられても、「あ、うん」以外の声は出てこなかった。それから自分の姿勢を思い出して慌てて立ち上がる。少しだけ冷静になって、翔吾は不法侵入がバレた事に気づいた。

「……えっと、ごめんなさい。勝手に入るつもりはなかったんだけど荷物が転がって」
「そうなんだ。うちに用があるのかと思った」

少女の意外そうな声に、「そうだよ」とも「違う」ともつかない曖昧な声を返す。どう受け取ったのか、少女は「ふうん」と呟いて「上がっていきなよ」と事も無げに言った。

「えっ」
「お茶くらい出すよ。それに、手当も出来るし」

擦りむいた膝を少女は指さす。最初に扉が開いて転んだ時に傷になったのだろう。

「いや、悪いよそれは」
「あんまり話す相手もいなくてヒマなんだよ。それに」
「それに?」
「そうでないなら、君は招かれもしないのに女の子の家に入ったヘンタイってことになるね」
「お邪魔します!!」

返事を聞くと少女は満足そうに笑い、こちらに背を向けて歩き出した。逃げ出すという選択肢はとうの前に失われていたから、翔吾はおとなしくその後ろに付き従った。少女と少年は暗い屋敷の中へと入ってゆく。まだ寒さの名残がある、よく晴れた春の日だった。

長い長い廊下を抜けて、少女の私室に通される。慣れない手つきで消毒して絆創膏を貼りながら、少女は「さや」と名乗った。小さい夜と書いて小夜。学年は教えてくれなかったが、代わりに自分はずっと家から出ない暮らしをしているのだと彼女は明かした。だから、学校の話を聞かせて欲しい。麦茶と金平糖を目の前に置きながら彼女はそう言った。

促されるがままに、思いついた順に翔吾は学校の話をした。クラスの流行、先生の話、授業の話、友達の話。何が面白いのか自分でもよくわからない話を、小夜は興味津々といった様子で目を丸く見開いて聴き入っていた。それで、多少油断していたのかもしれない。

「それで、隣の英治ってやつが……こいつは時々変な怖い話を五年の兄ちゃんから聞き出してくるんだけど」

翔吾がそう言った時、「怖い話って、どんな?」と小夜は尋ねた。最初に浮かんだのは、もちろん「夢追の屋敷」だ。それ以外にも何か色々あったはずだと思ったが、「しょうもない話だった」以外何も思い出せはしなかった。言葉に詰まる翔吾の顔を、小夜はじっと見る。

「……近づくと怖い夢を見る場所があるとか」
「うちのこと?」

さらりと尋ねる小夜の声。思わず自分の掌に落としていた視線を上げると、さして気を悪くしているようには見えない。翔吾は黙って頷いた。彼女は面白そうに質問を重ねる。

「じゃ、きみは怖い夢が見たくてここに来たんだ? ……それとも、信じてないからここに来たの?」

沈黙。彼女は黙って麦茶に口をつける。黒々とした大きな目だけがこちらをずっと捉えていた。秒針の音が部屋の静寂を刻んで、時間の流れが止まっていないことを教えている。この部屋に音をたてるものは他にない。二人とも口を開かず、翔吾の頭の中だけが奇妙に騒がしく動いている。

ここに来た理由ははっきりしていた。

翔吾はこれまで、夢というものを見た事がない。

彼にとって、夜と言うのはただ意識が遠のくのを横たわって待つ時間であった。気づけば朝が来ていて、それでようやく一晩をやり過ごせたと知るのだ。何の楽しみも目新しさもない、一日に一度の苦役。大人に打ち明けたところで解決はしなかった。取り合ってもらえないか、あるいは犯人探しが始まるだけ。家庭環境が悪いとか学校でうまくいっていないとか、そんな話ばかりで誰も翔吾自身のことは見もしない。それですっかり諦めてしまっていた。きっとこんな事になっているのは自分だけで、だから誰もどうしていいかわからないのだろう。

人は誰もが何かしら特別な存在だと道徳か何かで先生は言っていた。特別だというのなら別の何かにしてほしかったと翔吾は思う。何かが欠けているだけで、そしてそれすらも自分以外のせいだというのはつまらない。

夢を見るという噂を本気で信じた訳ではなかった。それでも、何かが変わる可能性があるのなら、それが悪夢であっても今よりはいいだろうと思ったのだ。それだけの事だ。

「まあ、言いたくないならべつにいいよ。そういうお客さんも時々来るらしいし」

小夜は淡々と言って、金平糖を一つつまんで翔吾の手の上に置いた。乳白色の金平糖を一つ置いて、細い指が離れていく。この少女なら、あの大人たちとは違う事を言うのではないか。ふと、そんな気がした。翔吾は息を吸う。

「……夢ってのを見てみたかったんだ。一回くらいは」
「怖くても怖くなくてもいいってこと?」

信じるでも信じないでもなく、小夜はそう尋ねた。

「えっ? ……そう、だけど」
「わかった」

ちょっと待ってて、と言い残して彼女は部屋を出て行った。後に残ったのは自分と手の中の金平糖だけ。待て、とはどういう事だろう。手持ち無沙汰に翔吾は白い金平糖を齧る。かり、と音を立てて、仄かに林檎の風味がした。

少しして戻って来た少女の手にはきれいな薄青の小さな巾着袋が握られていた。その中から取り出されたのは、緑色の錠剤とも飴玉ともつかない丸い塊。

「お待たせ。これあげるね」
「えっ、なに?」
「食べると変な夢を見るんだってさ。実際に見られたら教えてよ」
「ええ……」

気づけば手の中に滑り込んでいた丸薬のようなものを見る。つやつやとしていて、少しだけ甘そうな匂いがした。知らない人から貰ったものを口にしてはいけないと教え込まれたのを今更ながらに思い出す。

「君は食べた事あるの、これ」
「ないよ。意味がないんだって。わたしの役割は自分の夢を見る事じゃないから」
「ええっと……?」
「だから実際どうなのか気になってるんだ。だめ?」

黒い瞳が覗き込むように見上げてくる。こうしていれば自分がそのうち呑むことを信じて疑っていないような眼だ。果たして、その通りであった。この子は自分の言うことを疑いも笑いもせずに聞き入れて、これをくれようとしている。それを疑ったり拒んだりするのは、何と言うか、"違う"と思ったのだ。決して視線の圧に負けた訳ではない。

「どう?」
「甘い……けどちょっと薬っぽくて……あと歯磨き粉に似てる……」

そうなんだ、と少女は笑った。それだけだった。特に何かものすごく奇妙な味がすることも、眠くなることも、変なモノが見えることも、気分が良くなったり悪くなったりすることも、何一つ変なことは起きない。まあこんなものか、と翔吾は思った。そして、とりとめもない会話が戻ってくる。翔吾も小夜も、お互い夢の話題を出すことはなかった。

話を続けて、茶菓子も話題もそろそろ尽きようかという頃に、不意に部屋の時計が鳴った。どこか聞き覚えのあるメロディが流れて、ああ帰る時間なんだなと立ち上がる。

「帰るの? そっか、またおいでよ。夢が見られるか気になるし」
「覚えてたらね」

あまり遅くなると親に心配をかける。足早に屋敷を出て、桜越しに見上げた空は深く澄んだ宵の紫に淡く染まっていた。入ってきた門へと振り返れば、薄紅とも橙ともつかない夕焼けが広がっている。輪郭のはっきりしない雲の端が、光を受けて眩いほどの鮮やかさにあかあかと輝いていた。

陽は沈みかかっている。見蕩れている時間はない。翔吾はランドセルの肩紐を抑えて駆けだした。坂道を一気に駆け降りて、ついた勢いを落とさずに直角に曲がって家路を急ぐ。走り続けて息切れがして、一息入れようと顔を上げる。その先にあの桜があった。

目を擦って、もう一度視線を上げる。夢追の屋敷にあったあの桜が、目の前で満開になっている。あの屋敷はどこにもない。背後には黒鉄の柵の扉があるだけだ。翔吾は振り返ることなく、開いた扉を駆け抜けた。先程のように坂道を駆け降りて走り続ける。それでも気づけば桜が目の前にある。その向こうの空は先程よりも暗く深い色をしていた。それに応じて、桜の色も少し蒼褪めているように見える。夜が近づいているのだ。

追いかけて来るんじゃないかと桜を見つめながら一歩一歩と後ずさる。桜は微動だにせず、透き通った花弁を冷たい風にそよがせている。扉を抜けて、前を見つめて一歩ずつ確実に帰路を辿る。何も間違えていない。何も変なものは見ていない。いつもの変わらぬ路である。それでも気づけば桜の根本に戻ってきている。翔吾は何度となくそこから離れようと試みてそのたびに失敗した。もはや桜など見たくもなくなっていたが、桜は目の前に現れ続けた。

気づけばすっかり夜になって、月が高く昇っている。何度かの全力疾走の果てに息を切らした翔吾はとうとう膝をついた。桜の向こうから冷ややかに見降ろす満月を見上げる。一度膝をついてしまえば、立ち上がる事はもう出来なかった。一度月を見てしまえば、目を逸らすことももう出来なかった。目を離したら、別のものを見ることになる。

辺りはすっかり暗くなって、地を這ってうねる大木の根は奇怪な陰影を地面に描き出している。それが今にも動き出して襲い掛かってきそうで、怖くてたまらなかった。

「そこには何も埋まってないよ」とあの少女は言っていた。あれは、何の話だったのだろうか。本当に何もないなら、わざわざそんな風に無いものについて言うだろうか。あるいは、あの桜がそうだったとして、この桜もそうだと言えるだろうか。

奇怪な影が自分を誘っている。月光から目を離してこちらを見ろと呼んでいる。

「思い出してはいけない」と思った。どうしてそう思ったのかは自分でもわからない。それでも、この下にあるおそろしいものを自分は既に知っていると思った。

春の夜、冷たい月灯り。

枝を離れた花弁がひらひらと仄かな光を帯びて舞い降りる。流れ星の残骸のように、降り積もった花弁が足元をぼんやりと光らせる。光が強まれば影もそのぶん濃くなって、もう、無視はできない。

ああ、そうだった。遠い昔に自分がここに木を植えたのだ。
一体、何をその下に埋めたのだったか。

思い出したくはなかったが、意識を向けずにはいられなかった。落とした視線の先で、黒い影がひどく濃く揺らめいて。

「言ったでしょ。そこには何も埋まってないって」

笑いを含んだ少女の声。影のかたまりがほどけて消え去った。あとにはただ、やさしい光。

「十日後にまたおいでよ。桜が見ごろだからさ」

あたりが明るくなって、思わず目を閉じる。ふわりと身体が浮いて、どこかに向かって飛んでいく感覚。次に目を開いた時、翔吾は自分が家に戻って来ていて、布団の中に横たわっている事に気づいた。


「ぼく、あの後家に帰ったんだよね?」
「そうだよ。そのぶんだと夢は見られたみたいだね」

湯気を立てる紅茶のカップを片手に、小夜はくすくすと笑った。

十日後、春休みの中頃。散々考え込んで、結局、翔吾はまたしても夢追の屋敷をこっそり訪れていた。自分があの夜に夢を見ていたのだということはすぐに理解できたが、どこからが夢だったのかはいくら考えてもわからなかった。翌朝クラスメイトに尋ねた所、坂を登っていくのを見たと言っていたからそこまでは本当だったのだろう。夢追の屋敷に行ったのか、という質問にははぐらかして答えなかった。何となくあの場所の事は秘密にしておきたかったのだ。

翔吾にとって一番気になっていたのは、「またおいでよ」と言われたのは本当かという事だった。言われてない言葉を信じていたらバカみたいだ。それでも、十日後に彼女が自分を待っているかもしれないという可能性を捨てられなくて、翔吾は坂を登った。全部が夢だった時に備えてそれらしい言い訳を十個くらい用意していたが、どれも使うことはなかった。黒鉄の扉にはやはり鍵がかかっていなくて、扉を開ければ桜の下に座っていた小夜がこちらを見るなり「また来てくれたんだね」と笑ったからである。それに今に至るという訳だ。

「それで、どんな夢を見たの?」
「……ここから帰ろうとしても帰れなくなる夢だよ」

見た夢について説明しながら、翔吾は時々窓の外に視線を向けていた。窓の向こうでは陽光を浴びて満開の桜が咲き誇っている。十日後が見ごろだという夢の中の言葉はどうやら本当だったらしい。夢の内容を語り終えて、翔吾は問いかける。

「最初に会った時も言ってたね、何も埋まってないとか。あれは何だったの?」
「ああ、あれ?  そういう小説があるんだよ。桜の下には死体が埋まっているって」

死体。昨夜の夢がよぎって背筋が寒くなる。

「まあそういう話があると誰も何もない空を見なくなるからね」
「……?」
「こっちの話。それで、どうだった? 初めて夢を見た事になるのかな。また見たい?」
「……うん。また、見てみたいかな」
「それは良かった」

少女の手には、十日前に見た薄青の巾着袋。差し出されたそれに、翔吾は首を横に振った。

「いらないの?」
「ああ、うん……今すぐはやめとこうかって。夜になってからでもいいかな?」
「ああ、そうだね。その方がいいかも。帰り際にあげる。帰ってから……でも、そうだな。夜になる前のほうがいいね」

小夜は巾着袋を床に置いて告げた。なんで、と思わず聞き返す。巾着袋からこちらに向けられた目は変わらず大きく潤んでいて、濡れた暗闇に自分が浮かび上がるみたいにして映っている。

「夜はさ。色んなものが見えすぎるから」
「……暗いのに?」
「暗いからこそだよ」

小夜はそれ以上説明する気がないらしく、手元のコインチョコレートに視線を落とした。「お客さん」の土産であるらしい。暗闇に何かが見えすぎるなら、あの黒を宿す目にはどんなものが映っているのだろう。小夜はコインチョコレートの金色の皮を剝きながら一つをこちらに寄越してくる。時間がゆっくりと流れていた。部屋の外では、満開の桜が微風に揺れている。穏やかであたたかな春の日差し。その時間に区切りを告げるように、壁掛け時計が鐘を打った。ちょうど四時だ。

「あの時計も誰かのお土産?」
「どうだったかな。昔からあった気がする」
「前は何かの曲だった」
「ああ。”家路”は五時だけなんだ」

あの聞き覚えのあるメロディは家路というらしい。ドボルザークとかいう外国の作曲家が作ったのだと小夜は言った。「新世界より」という曲の一部らしいが、曲の中に曲があるというのがどういうことなのかはよくわからなかった。翔吾はあまり音楽が得意ではない。

「あれが鳴ったら夢は終わりで、みんなお家に帰らなきゃいけないんだって。ここは夜には近寄っちゃいけない場所だから」

夢追の屋敷には近づくな、という噂を思い出す。あれは、一部分は本当だったのだろうか。子供たちの間を伝わる中で、「夜に」という情報が抜け落ちたというのは充分に考えられることだった。英治はしょっちゅう「いつ」「どこ」を抜かして喋るし。

そこまで考えて、この少女はどうなんだろうと思い当たる。

「……きみは? ここに住んでるんだから……」
「そう。おかしいよね」

帰る先なんてどこにもないのにね、と小夜は少しだけ寂しげに笑った。どう答えたらいいものかわからなくて、翔吾は目を落とす。家にいるのに帰りたいと思う事は何度もあったが、家にいるのに帰れと言われた事は流石になかった。

「時々さ、家の中で暇で仕方ない時にね。起きたままに夢を見る事にしてるんだ」
「起きたまま夢を?」
「目を閉じて、全部を自分で思い浮かべて進めていくの。でも、うまく行っても時計が鳴ると全部終わっちゃうんだよね。そうなると、諦めて時間が経つのを待つしかなくなる」

時間が経つのを待つしかない。夢についてはよくわからなかったが、その感覚には覚えがあった。そういう夜を何度も重ねていたから、翔吾は噂話の中心地までやってきたのだ。そうして訪れた先で出会った少女は、似たようなものを抱えて昼をやり過ごして来たらしい。翔吾は少し考えて、おずおずと口を開いた。

「そういう時ってさ」
「うん?」
「どのくらい時間が経ったのかって時計を見てがっかりすること、ない?」
「ある!」

澄んだ大きな目が星を見つけたみたいに明るく見開かれた。翔吾は思わず身を乗り出す。こんな感覚を人と共有するのは初めてだった。そして小夜にとっても初めてらしかった。それからは夢中で、一人で出来る時間潰しのやり方を交換していた。時間はすぐに過ぎ去って、時計が家路のメロディを奏でる。二人ともそれで言葉を切った。静かな部屋にそれだけが流れている。夢が終わるとはこういう事か、と思った。

「それじゃ、また十日後に」
「うん。また来てね」

時計が鳴りやんで、短く言葉をかわす。丸薬を受け取って、屋敷を出る。まだ暗くない空の下で、翔吾を見送るみたいに桜が咲いている。夢で見たのと同じ咲き方だったけれど、昼に見る方がずっといいと思った。次の十日後にはもう散っているだろうから、今のうちにと少し眺めて屋敷を出る。

今度は一回で家に帰れた。夜になる前に丸薬をこっそり飲み下して、あとはいつも通りに家で過ごして夜を待つ。もう寝なさいと声をかけられるのがこんなにも楽しみなのははじめてだった。布団に入って、目を瞑って、いつものように頭の中で数を数える。そうするうちに意識が遠ざかって、やがて翔吾はこんな夢を見た。

何でも暗い寺の中に一人でいる。翔吾はどうして自分が一人こんな所にいるのかを知りたくて、あたりを手探りして回る。そうするうちに何度か柔らかいものにぶつかって、翔吾は自分が一人であり、また同時に一人ではない事を知った。

何人もの人々が、冷たい床板に身を横たえている。様々な服装、年齢、多種多様な人々。みな深く深く眠り込んでいるらしく、声をかけても冷えた体を揺らしても何の反応もない。誰か目を覚ますものはいないかとしばらく頑張ってみたが徒労に終わった。それで誰一人目を覚ます気配がないから寺の全容が知りたくなった。燭台を手に取って、階段を登って上を目指す。一歩一歩踏み出すたびにぎしぎしと寺全体が鳴るようだった。

上を目指していると屋根の上に出た。暗闇に慣れ始めた目で寺の周囲を一望する。黒々とした山々にぐるりと取り囲まれているようだった。その山腹のそこかしこにいくつもの小さな火が篝火のように灯った。見ていると、火の一つが大きく膨れ上がって近づいて来た。火矢を放たれているのだ。

寺が燃えては一大事である。翔吾は咄嗟に屋根瓦を剥がして手に取り、飛来する火矢に向かって目いっぱいに投げつけた。瓦は黒い軌跡を描いてその先で破裂する。白いしぶきが飛び散って、火矢の炎がじゅっと音をたてて消えた。瓦だと思っていたのは水風船であったらしい。驚いているひまもなく、第二第三の矢が飛んできて、翔吾はそれを迎え撃ち続けた。最初はゲームみたいで楽しかったが、だんだん腕が重くなってきた。それでも誰も目を覚まさないのだから迎撃をやめれば全滅する。翔吾は必死で投げ続けた。

そうこうするうちに、周囲からも火の手があがりはじめた。撃ち落とした火が消え切っていなかったか、それとも手前で落ちた火矢か。そちらにも水風船を投げつける。

いつの間にか瓦はすっかりはがれて投げられるものは底を尽きつつあった。山腹の炎はとうに消えて、新しい火矢はもう飛んでこない。敵襲を凌ぎ切ったのだ。あるいは、誰かが相手の本拠地を落とせたのかもしれない。それでも、周辺の炎はまだ燃えている。何なら勢いを増している。黒い煙が立ち込めて、星も月も覆い隠してしまった。ふと足元の屋根が泡立っている事に気づいた。水風船の中身は強酸だったのかもしれない。炎はどんどん近づいてくる。赤々とした暗闇の中で吸った息が熱くてもう動けない。

はやくこの状況が終わってほしいと思った。乾ききった空気の中で、あの黒く濡れた目が懐かしくなった。何か、この状況だけを終わらせるものがなかったか。あの子は何と言っていたろうか。

どこか遠くで時計が鳴った。それで目が覚めて、ああ夢の終わりだ、と思った。


春休みのいい所は宿題が無いことだ。そして悪い所は、とにかく短い事だ。

落ちる夕日を数えているうちに、気づいたら翔吾は始業式を迎えていた。クラス替えの結果でひとしきり大騒ぎして、隣の担任のほうが優しそうだと羨んで、配られたリコーダーを適当に吹いてみて煩いと怒られる。そういう目まぐるしくて騒がしい三年のはじまりの中で、夢追の屋敷の話など誰も口にしなくなっていた。みんなすっかり忘れてしまったのだろう。翔吾だけがただ一人、「十日後」までの夜を数えていた。そうしてやっぱり、誰にも言わずにその日を迎え、あの坂道を登って行った。

屋敷の桜は既に散り始めていた。そよ風が吹くたびに、ひらひらと白い花びらが陽光を受けて輝きながら舞い落ちる。それがどこまでも続いて、見上げた空全体を白く淡く彩っている。

「来たんだね」

声に振り返れば少女が背後に立っている。最初に会った時と同じ光景だが、もう今は驚かない。何も変わっていない事に安心して「やあ」と片手を上げるだけである。少女はそれに笑みを返して自室へと招いた。学年が上がって学校の全部が目まぐるしく変わっても、ここだけは変わらなかった。

「ね、今回は夢は見られた? どんなだった?」

部屋に入るなり小夜は尋ねた。ずっと聞きたかったのだろう。見た夢の内容を離すと、少女はやっぱりそれを興味津々といった風に聞き入っていた。

「……それで、時計が鳴って終わり。目が覚めた時にはすっかり疲れてたよ。実際には寝ていただけなんだからそんな訳もないのに」
「悪夢を見た人ってそうなるらしいね」

悪夢。そうか、あれを悪夢と言うのか。奇妙な納得があった。夢を見たことがなかったから、良いとか悪いとかそういうものさしがあるという発想もなかったのだ。

「そっか。あれが悪夢っていうのか」
「きっとね。もう見るの、嫌になっちゃった?」

首を傾げて、黒い瞳がこちらを覗き込む。翔吾は少し考えて、首を横に振った。もう一度同じものを見たいかといえば微妙だが、目が覚めるとわかっているならそれほど悪いものではないように思った。それに。

「ううん。何もないよりは、少しくらい悪い夢でも見られた方がいいかな。あと、ここに来れば話も聞いてもらえるし。好きなんだ、ここに来るの」

その答えに小夜は少し驚いたような顔をして「そっか」と微笑んだ。黒髪を揺らして水菓子を並べる横顔が何だか普段よりも上機嫌であるように見えた。

「でも、不思議には思ったな。なんでこんな夢があるんだろうって。そういうの、知ってたりしないの?」
「んー……確か、頭の中にあるものを整理するのが基本じゃなかったかな」
「頭の中にあるもの……?」

少なくとも取り囲まれて火のついた矢を撃ち込まれた思い出は自分の頭の中にはないはずだ。

「細切れになるからそのままじゃない事も多いんだけどね。でも、その中で見落としているものを見つける事がある。それは未来に起きうることの警告かもしれず、あるいは過去に忘れた重大なヒントかもしれない。それを示すのが、夢の役割」

覚え込まされたような、何かの教科書をそらんじるような調子。

「君もそう思ってるの? ……それとも、他に何かあったりするの?」

小夜は少し考え込んで、「そうだね」と答えた。俯いて、透き通った水菓子をフォークでつつく。今回の菓子は白桃羹というらしく、きれいな桃色がフォークに揺れて光っている。小夜はそこから顔を上げずに言った。

「確かに、ここまでは普通の理屈で、その先にうちの家がある」
「普通の理屈……」
「世の中にはね。大人でも手に負えないような奇妙なものがあるんだってさ。それを、自分なりにどうにかしようとしている人々がたくさんいて。そのうちの一つが、この家」

言葉を探しながらの、ぼんやりした語り口。きっと他人に話したことはないのだろう。小夜は顔を上げて、一転してきっぱりした口調で告げた。

「悪夢を見る人はね、ここに来るんだ。起きている時でも、夢の中でも」
「……夢の中でも?」
「うん。仕組みはわからないけど、道が通じるんだって。ここは女王様を奉ずる場所だから」

急に何を言っているのかわからなくなったぞ、と思う翔吾をよそに小夜は淡々と語る。悪夢の玉座に座す女王。眠れる人々を救いにも滅びにも導くという、夢を統べる王。かつては大切にたてまつられていたというその存在は、いつの間にか夢の中に姿を消してしまった。それを探し、追い求めているのがこの家。だから、ここは夢追と呼ばれている。そんな話だった。

正直に言うと、知らない言葉が多すぎて何を言っているかはまるでわからなかった。「たてまつる」ってつまり何をするんだ。それでも、何だかそれは口を挟んではいけない事のように思えたから、翔吾は黙ってそれを聞いていた。いつの間にか話は終わっていて、少女は涼しい顔で麦茶を口にしている。翔吾はおずおずと「あのさ」と声をかけた。

「なあに」
「どうしてその話をぼくにしたの?」
「疑わずに聞いてくれそうだったから」

さらりと返された答えに、思わず笑いそうになった。自分が夢を見られないことを告げたのと全く同じ理由だったからだ。翔吾にはそれで充分だった。だから翔吾はそれ以上何も追及しなかった。小夜もそれ以上は語らなかった。

日が落ちるのが遅くなってきたといっても、5時という刻限に変わりはない。そして、楽しい時間は過ぎるのが速い。あっという間に家路が鳴って、今日の訪問の終わりを告げる。

「じゃあ、また十日後にね」
「うん……あのさ」

丸薬を受け取りながら、翔吾は去り際に切り出す。

「悪い夢を見てる時も、ここにきていいの? その、夜でも」

閉まりゆく黒い扉を背にして少女が微笑んだ。

「もちろん。来てくれたら、いつでも歓迎するよ」
「どうやったら来られる?」
「わかんない。人によってどう来るのかも、そもそも来られるかも違うらしいから。でも、首尾よく悪夢のさなかにここの事を思い出せたら、道を探してみて。もしかしたら、見つかるかもしれない」
「わかった。……ん、思い出せたら?」

小夜は苦笑いを浮かべて諭すように告げた。

「一番難しいのはね、悪夢を見ている時にこれは夢なんだって気づく事なんだよ」
「……そうかも」

夢を見たのは二回だけだが、確かにどちらも見ている間はこれが夢だと思わなかった。確かに翔吾にはちょっと難しいかもしれない。

「まあ、頑張ってみるよ」
「頑張ってね」

彼女は笑って手を振った。それに手を振り返して、翔吾は帰路につく。悪夢を見たとして気づけるだろうかという気持ちと、どうせ見るなら悪くない夢を見たいという気持ちが半々だった。

その夜彼はこんな夢を見た。

夢の中で翔吾は大人になっていて、大勢の同僚と一緒に仕事をしていた。仕事の内容は翔吾には難しすぎてわからなかったが、夢の中の大人の翔吾はその内容を完全に理解していて、何やら難しい言葉をたくさん使って盛んに何かを話し合っていた。何度もの議論を重ねた末に「そのアノマリーは処分されなくてはならない」という結論が出たらしくて、翔吾はそれを埋めに行く人員の一人ということになった。もちろん翔吾にはアノマリーというのが何かもわかっていなかったが、大人の翔吾は何もそこに疑問を持たなかったから問題はなかった。

埋めるべきものを車の後ろに載せて、自分は細い路を走っていく。雨がしとしと降っていて、時々大きな鳥の影が差した。辺りはすっかり暗くなって、車はまっすぐ夜の森へと分け入っていく。曲がりくねった道を走り続け、ついに車が通れないほど路が細くなった。荷物を担いで車を降りる。ぐにゃぐにゃしたものが入った黒い袋だ。それを肩に回して歩き続けると古い大木にぶつかった。ここに埋めなければならないと思った。

荷物をおろして持参した道具で穴を掘る。霧雨は音がしないから、湿った土を割る音だけが音らしい音である。掘り返した土を何度も後ろに放って、湿った匂いが骨に徹えるほどに立ち込めた。

「いつか、また。きっと私を探し出して頂戴ね」

足元に置いていた袋から声がした。袋の口が空いていて、黒い瞳の女がこちらを見上げていた。長い黒髪が濡れた土の上に投げ出されて蜘蛛の巣のように広がっている。確かに殺したはずの女だった。

女はそれきり喋らない。まるきり死体のように黙っていた。何か答えなくてはならぬと思ったが、一つも声は出なかった。

時計の音。目を覚ますと翔吾は子供に戻っていて、布団の中で目を見開いて天井を見つめていた。ずっと心臓はどきどきしていて、ただ、小夜の「夢は警告でもある」という言葉だけが頭の中を回り続けていた。


もはや登り慣れた坂道を、翔吾は足早に駆け上がっていた。それはいつもの光景であったが、どこか落ち着かない足取りであった。その日はなんだか朝から心がざわついて、漠然としたいやな予感が頭から離れずにいたのだ。何かが取り返しのつかないことになってしまうような。何かが迫ってくるような、あるいは逆に何かが遠ざかっていくような。教室での周囲は常にざわざわと妙に騒がしく感じられるのに、こうして歩き出すとあたりはしんと静まり返っているように感じられて、それが妙に不気味に思えてならなかった。

三年生になって少しして、本格的に生活が変わり始めたからだと思いたかった。
それで、とにかく去年度と何も変わらないものを目にして安心したかったのだ。

だというのに、坂を上り切った先に広がる景色は一変していた。夢追の屋敷がどこにもない。あれほどの大木も、あのお屋敷も、影も形も見つからない。全てがさっぱりと消え失せていて、屋敷があったことを示す痕跡だって何も残っていなかった。ずっと昔からそうだったというように、広大で殺風景な駐車場が広がっているだけだった。

まさか道を間違えたのではないかと歩き回る。一つ角を曲がった先にあの屋敷の柵の扉が待っているのではないかと期待して、あちこちの角を曲がり続ける。それでもあの屋敷はどこにもなかった。何度目なのかもわからなくなるほど期待を裏切られて立ち尽くす翔吾を、通行人が怪訝な顔で見ている。いつの間にか日は大分傾いていた。それで逃げ出すように、灰色がかってくすんだ夕焼け空の下を走る。悲しいだとか寂しいだとか、そういう感情はなかった。ただ、目の前にあるものが理解できないまま彼は走っていた。

次の日もまた次の日も、翔吾は坂を登った。そしてその度に何一つあの屋敷の痕跡が見つからないことを確認するだけの日を終えた。約束の十日目を迎えても、やはりあの少女は影も形も見せなかった。足が棒になるまで歩き回っても何も見つけられはしなかった。

頭上を梟の声が通り過ぎていって、すっかり日が暮れたことに気づく。家路が聞こえないから帰るタイミングがなかったのだ。夜ここにいてはいけないと言われたのを思いだす。暗がりの中に、あらゆるものを見出してしまうから。彼女はそう言っていた。

立ち並ぶ屋敷の隙間の暗闇を見つめる。そこには何もない。帰路を歩きながら、くろぐろと暗い曇り空を見上げる。恐ろしいものも美しいものも、何一つ翔吾には見いだせなかった。ただ空虚で面白みのない日常の風景がそこにあるだけだ。

家に帰って布団に入っても、やっぱり何か夢らしいものを見ることは出来なかった。あの屋敷が消えたあとに待っていたのは、ただ天井の虚無を眺めて意識が遠のくのを待って、夜が明けるのを待っているだけの夜。少女と出会う前にはずっとこんな夜を過ごしていた筈なのに、一度そうではない夢を知ってしまった後では何だかひどくそれが寂しかった。

悪夢でもいいから見たかった。そうすれば、ひょっとしたらあの屋敷に行けるかもしれない。あの少女とまた会えるかもしれない。それでも、どれほど頑張ったところで、翔吾に見られたのは昇っては沈んでいく月と、だんだんと白んでくる空だけだった。

夢というものがあったのなら、むしろ今までの屋敷の事が夢というものではなかったのか。夜を重ねるうちに、翔吾はそう思うようになっていた。元々夢などない、それが自分の夜だったじゃないか。いっとき何かを勘違いしていただけだ。そんなことすら思うようになっていた。いつの間にか、彼は坂道を登る事をやめて、そしてあの屋敷での事も思い出さなくなっていった。

結局のところ、それ以降少年が夢を見る事はなかった。ただ空虚を抱えて過ぎ去る夜を数えているだけ。自分はただの子供でしかなく、そして何か教えてもらえるほど重要な存在でもない。そう思って完全に諦めがついたときが、彼の少年時代の終わりだった。


曇り空の下で、一本の幅広い川が静かに流れている。風という風もない日のひらべったい水面は空気がわずかに動くたびにゆらゆらと揺れて映し出した曇り空を歪ませている。その川の上にかけられた橋に、二人の大人がたむろして何をするでもなく水面をぼんやりと眺めている。そのうちの一人は翔吾であり、もう一人は彼と共に「財団」で働いている同僚である。

あの屋敷が霞のごとく消えてしまった春の終わりから、十数年の月日が経っていた。あの日の少年はもうとうに大人になって、こうして財団とかいう組織に拾われて働いている。夢を見ることがないというこの体質は、財団である種の仕事をこなす上では途方もなく重要であったらしい。それで、翔吾は他人の夢に潜り込んで異常存在の影を追いかける職務についていた。自分の夢を見ることもないのに、他人の夢は何度も見ている。そういう暮らしの奇妙さにも、もはや何も思わなくなった頃であった。

川辺を眺めていると、ふいに橋の下から調子はずれの歌声が聞こえてきた。目を下に向ければ、一人の男がふらふらとした、それでいて奇妙にしっかりとした足取りでまっすぐ川に向かって歩いて来る。男はそのまま川岸を横切ってざぶざぶと水中を突き進んだ。誰一人それを止めようとはしなかった。男はさらに川の深くへと進んでゆく。調子はずれの歌はやがてごぼごぼという泡の音に上書きされ、やがてそれすらも静寂の中に沈んでいった。川の水面は滑らかさをすぐに取り返して、曇天の灰を映すばかりである。

「これは現実ですかねえ」

一連を表情一つ変えずに眺めていた同僚の安藤が出し抜けに呟いた。短くて明るい茶髪が活発な印象を与える女性だ。自分よりも年齢は下であるが、財団では先輩にあたる存在である。

「俺にも見えてるんで、夢ではないですね」

翔吾──今となってはエージェント・堀越と呼ばれる方が馴染み深くなっている──は川から視線を動かさずにそう答えた。「夢じゃなかったか」とさほど残念でもなさそうに安藤が言った。目の前で人が死んでいるとはとても思えないような現実感のない声だった。何もかもがおかしくなって、現実味を失っていた。どこに行っても、夢と現実の区別がつかない。今しがた沈んだ先ほどの男も区別がつかなくなっていたのだろう。ある異常存在の影響が世界に広がり、悪夢が人々を飲み込んでから数カ月が経っていた。

そもそもの元凶となるアノマリー、現実を狂気に塗り替えた異常存在はとっくの昔に対処されていた。堀越の預かり知らぬところで、財団とその他の組織はそれぞれの役割を迅速に果たしていた。それでも被害は甚大で、死者の数は数えきれないほどだった。根源をカバーストーリーで覆い隠そうとも、余波だけで人の世は容易に狂った。火元を消した所で燃え広がった火が勝手に消えるわけではないのと同じ事だ。

その中で追い討ちのように起きたのが、この世界的な悪夢だった。混乱の中で、人々は夢から目覚めない。目覚めないまま夢の中だと思い込んで歩き回る。悪夢のような現実を切り抜けた後に待っていたのは、現実のような悪夢の数々。夢から目覚めたと思ったらそこも夢の中で、これは夢なのだろうと思ったら現実にそれが起きている。人々は永い悪夢の中に閉じ込められてさまよっている。

財団の研究者らの見立てでは、世界規模の危機に対する防衛機構の一つが暴走しているのではないかという事だった。ある意味その悪夢は元凶を覆い隠し、人々を不安から守る役割は果たしていた。ただそれは別の不安で上書きするという事に過ぎず、そして元凶が対処された今となっては無用の長物と化した、というのだ。研究者らはその夢の機構を「女王」と呼んでいた。何らかの根拠があるのか、それともアリスか何かの引用なのかはわからない。不必要な関心を抱かないほうがいいというのが、堀越が先輩から教わった事の一つだった。

ともかく、それを探るために他人の夢の中を探索するのが堀越たちの任務であった。

ぼんやりと並んで川の水面を眺めていると、ふいに近くに設置されたスピーカーがぷつぷつとノイズ音を流し始めた。少ししてから、音のひび割れた懐かしいメロディ。この地域では、17時になるとドボルザークの『家路』が放送される。堀越たちにとっては、それは仕事の再開を告げる音色でもあった。橋の上からサイトへと戻りながら、先を歩く安藤が尋ねる。

「何だったっけ、この曲」
「『家路』、あるいは『遠き山に日は落ちて』ですね。『新世界より』の第二楽章の一部に歌詞がついたやつです」

後を歩きながら、堀越はすらすらと答える。何度も問われた質問だ。他人の夢と現実と自分の夢を行き来するものは、どこからが夢だったかがわからなくなって、過去と未来の区別を失ってゆく。皆どこか記憶が曖昧になって、眠たげな眼をしながら同じことを繰り返す。堀越は自分の夢がないだけ影響が軽いが、似たり寄ったりだ。きっと次にこの年下の先輩は「君は記憶が混じらなくていいですね」か「前にも聞いた気がするな」と答える。今度は何と答えようか、と思っていると、安藤はどちらでもない言葉を返してきた。

「断言するねえ。誰かに教えてもらったとか?」

はじめての言葉に、少しだけ息が詰まる。古い記憶の中に、小さな痛みと濡れた深い黒が過ぎった気がした。堀越はそれを振り払うように小さく笑って答える。

「さあ。昔のことだったんでしょうね、もう忘れてしまいました」

安藤はこちらをじいっと見た。明るい茶色の眼が、珍しくこちらをまっすぐに捉えている。しかし、彼女は何も言わずに先を歩いて行った。珍しいこともあるものだな、と思ったが、堀越はそれ以上深くは考えなかった。次の夢について考えなくてはいけなかったから。

その夜、彼はこんな夢に入った。

黒い地面にぎらぎらと陽光が降り注いでいる。途方もなく暑くて、せめてどこかに日陰はないかと夢の主はふらふら陽射しの下を彷徨い歩いている。堀越はそっと夢の主人の背を追っている。夢の主が認識した範囲にしか世界はないから、その中で「何か」を探す必要があった。彼らの間に視線を遮るようなものは何もないが、夢の主が振り向いてこちらに気づく気配はない。その点だけは楽だな、と内心息をつく。侵入先に認知されてしまった場合、運か要領が悪いと面倒な役割を課せられる事があるのだ。役割をこなして他人の夢を操作するのが得意な者もチームにはいたが、自分には苦手分野だった。それよりは隅の方を歩き回って痕跡を探すほうが性に合っている。

雲ひとつない青空を睨んで歩くうちに、遠い前の方に白い建物が立ち並んでいるのが見えてきた。夢の主はそれを目指して歩き始めるが、一向に近づけずにいる。先も見えずに歩き始めるうちに、黒い地面から陽炎がたちのぼって揺れ始めた。夢の主は困惑した様子で足を止めて前を見る。白い建物は少しは近づいたようだったが、やっぱりはるか先に素知らぬ顔で突っ立っている。

堀越はそれを尻目に先を急ぐ事にした。一度認識された場所なら自分でも好きに動ける。それに、『女王』の影響を受けた夢ならそういう場所を探す方が改変の痕跡を見つけやすい。

堀越は黒々とした地を蹴って高く跳んだ。何もかもが眼下に遠くなってゆく。高くなった視座で見回しても、やはり白い建物以外に目ぼしいものは何もない。それを確認して、堀越は空を蹴った。体の全部が傾いて、前方へと滑るように飛び始める。どういう訳か、跳躍と飛翔は堀越の得意技であった。どうするべきか既に知っているみたいに体が動くのだ。

上空を飛んでいれば、白い建物がみるみる近づいて来た。細い円筒状の塔が五つ横に並んでいる。よく見れば高さも太さもそれぞれ違っているようだった。照りつける青空の下を彼は飛ぶ。吹きすさぶ風が一瞬黒く冷たくなった。あっと思う間もなく空が掻き曇り、雨音がばらばら叩きつけて夕立の訪れを告げる。見る間に眼下の黒い地面はぬかるみはじめて暗い濁流を纏う。こうなればあの白い塔のどれかに直接降り立つ他にあるまい。そう考えて旋回したところで、のっぺりした円筒の裏側が目に入った。

爪だ。薄い色の爪が五枚、それぞれ塔の先端にくっついている。となればこれは指か。地中に巨大な何かが埋まっていて、そいつが指だけを地表に突き出しているのだ。堀越が塔の正体に気づいたのと、それが動き出したのはほぼ同時だった。近くを飛び回る羽虫を振り払おうとでもするように、指がぐっと横に動く。それに伴って地面が割れて崩れた。転がり落ちた堀越の前で地盤が跳ね上がる。身を起して見上げれば、地形は様変わりしていて目の前は長いのぼりの傾斜になっていた。その両脇を挟むように白い指。その本体は、きっと自分の真下にある。

堀越は前を見つめたまま後ずさった。半ば本能的な動きだった。その次の瞬間、坂の上から押し寄せる濁流。体は碌に動かなくて、抵抗らしい抵抗もないまま下の方へと押し流されてゆく。視界がぐるぐる回って次の瞬間、堀越は自分が横たわって安藤に見下ろされている事に気づいた。夢からの帰還、あるいは追放はいつもこんな調子だった。


硬いベッドに身を横たえたまま、堀越は何度か瞬きをして「どうでしたか」と尋ねる。起きている方はオペレーターとしてモニター越しに夢の内容を監視する決まりだった。何か異常事態が起きれば介入したり、最悪の場合は叩き起こすという訳だ。安藤は少し考えて「前から薄々思っていたのですが」と切り出した。

「堀越さん、坂道を避けてませんか?」
「はい?」

何の事か心当たりがないという顔をしていると、安藤はベッド脇に据え付けられたモニターに手を伸ばす。映し出されたのはこれまで堀越が潜り込んでいた夢の記録だ。焼け崩れた屋敷の床板の傾き。冬の木立に積み重なる枯れ葉。そして、先程見たばかりの白い指に挟まれた傾斜。そのいずれに対しても、画面の中のエージェント・堀越は咄嗟に目をそらし、下を目指し、そして後退っていた。

「たしかに」と堀越は呟いた。自覚は全くなかったが、こうも正面から連続して見せつけられては認める他にない。安藤曰く、ここまで坂道の夢を見ているのは自分だけらしい。

「でも、それなら共通因子ではないでしょう。自分たちが追いかけるべきなのは、属人性を持たずに誰の悪夢にも現れるものだ。さっきの巨人みたいに地中に埋まる何か、とか」
「その通り。でも、潜入者のほうに依存する因子が重要視されないのは、それが"潜入者の夢"だから」
「……俺に夢はないはずってことですか」
「そう。そこに共通があるのなら、潜入者の影響を排除した本質的な何かがあるかもしれない」
「女王か。……見つけて、どうなるんだろうな」

原因をどうにかしたって全てが元通りになる訳ではない。もう世界は壊れきっていて、カバーストーリーで何とかなる領域はとうに超えている。財団は今の社会に見切りをつけて「やりなおす」算段を立てているという噂が職員の間で公然と流れていた。財団は打つ手を用意しているのだから自分たちは後の憂いを断たねばならないのだと信じる者もいれば、財団は今生きている自分たちを見捨てて次へ行こうとしているのだと疑う者もいた。

堀越はといえば、噂の真偽にすら興味すら抱いていなかった。出所の良くわからない噂に振り回されて儚い希望を抱くのは子供の頃に卒業したのだと自負していたから。それに、今の堀越は夢を見ない、「常に醒めている者」としてある種の指標になっている。その自分がどうして噂話にやきもきできようか。そんな奇妙な自負とも責任感ともつかない感情が、堀越に噂について取り沙汰することを許さなかった。

「夢の中で坂道を登りきったときにどうなるのか、もしかして君は知ってるんですか」
「……いや」

安藤の質問に、堀越はううんと唸って記憶を辿る。どこかで自分は坂道を見ただろうか。勿論見ている。坂なんてどこにでもあるんだから、心当たりがむしろ多すぎるのが問題だった。安藤は「それでは次に出てきたら試してくださいよ」と錠剤を渡してきた。まだ夜だから次の夢に移れという事だ。夢に入るときはまずこれを飲んで、それから装置を取り付けて夢に入る。電極のついた装置を頭にかぶりながら、ふと堀越は尋ねた。

「逆に、そちらでは何か想像はついてるんですか」
「いえ」

思ったよりも歯切れの悪い答えが帰ってくる。嘘かもしれないな、と思ったが、堀越はやはり追求しなかった。茫洋とした思考の中で何かを思い出しかけたような気もしたが、安藤の「行ってらっしゃい」という声が聞こえて、それを皮切りに意識の連続性がぷつりと途絶えた。

瞼を持ち上げると昏い夕暮れだった。重たくて分厚い雲がほんの少しだけ暗い赤に染まっている。夢の主を探せば、和装の女が縁側のような場所に座ってしとしと雨の降る庭園を眺めながら連れと話し込んでいる。自分たちがいるのは古い寺院のようだった。随分と煤けている。この寺にはどこか見覚えがあるような気がしなくもなかったが、堀越にはうまく思い出せなかった。

堀越は視線を巡らせた。煤けた廊下も鮮やかな木々の生い茂る庭園も、平坦なつくりをしている。ここに坂道はないらしい。夢の主は動く気配がないので、行くところがない堀越は動かずにその会話に耳を傾けた。夢の中にはよく見られる繋がりのおかしい会話だったが、山門という言葉が複数回出てきたので堀越はそれを気に留めた。彼らは雨が上がったらそこに行きたいらしかった。

雨が降りやむ気配はない。会話はどんどん支離滅裂になってゆく。音もなく降り注ぐ霧のような雨が木々の葉を濡らして、緑が奇妙なほど鮮やかにてらてら光っている。その根本で烏揚羽が死んでいて、欠けた黒い翅を雨に洗われている。死んだ蝶に気を留めることもなく、夢の主は楽しく談笑している。

夢が進展しないかぎり、この外に出ることは出来ない。進展を待ちながら、堀越は庭を、そして寺を眺める。目の前のものを見つめながら、自分はいつかどこかでこれを見たのではないか思い出そうとしている。思い出そうとする堀越の背後で、夢の主の声がいっそ異常なまでに響いている。でさあ、ここって建て直したんだって、一回燃えちゃったから。へえ、なくなったの? うん。守り切れなくて、あきらめて一からやり直したの。それは美味しい話だ。

瞼の裏で篝火がちらついた気がした。そうだ。昔そんな夢を見た。それで、どうなったんだか。いや、そもそも自分は夢など見ないのではなかったか。だからこんな所に潜り込んで。何かを思い出しかけている。何かの扉が開こうとしている。ぐらりと視界が揺れた気がして、堀越は近くにあった柱にもたれかかった。「じゃあ山門も新しいの」という声が聞こえてくる。そうだ。山門。そこには坂道があるはずで。そして、その先には。

揺れる視界の中で目を見開く。見据えた先に階段がある。そうだ。昔はここを登ったんだ。一歩踏み出すと世界がさらに揺れて歪み始める。ついに目を開けていられなくなって、堀越はついに足を止めて屈みこんだ。夢の主の声が歪んで響き渡る。「夢の中なら何でも思い出せるんだよお」と繰り返している。

ふと、急に静かになった。目を開けると、堀越は屋根の上にいる。瓦はすべて剝がれ落ちている。建物は随分と小さくなっていて、眼下には長い坂道が伸びていた。いつの間にか山門の屋根にたどり着いていたらしい。遠くで山が燃えていたが、堀越は気にも留めなかった。堀越は地上に飛び降り、迷いなく坂道を駆け上がった。火の雨が赤い尾を引いて降って来る。堀越はそれを掻い潜って走り続ける。この先だ。この先で、かつて、自分は。

坂道を駆け上がる。どこか懐かしいと思った。目の前に黒い屋敷が見えたような気がした。この先にあの屋敷があって、桜があって、そしてどうなったのだか。

坂道の果てにたどり着く。息を切らして、目の前を見る。

そこには何もない。殺風景な駐車場が広がっているだけ。ああそうだった、と思った瞬間、視界が暗転する。

何もない天井。暗い部屋で天井を見つめながら身を横たえている。そうだった。自分にはこれしかない。夢を見ない体質なんてのは嘘だ。本当は、ずっとこの夢を見ていたのだった。

眠れずにただ夜が更けて明けるのを待ち続ける時間。空が白むのを眺めている夢。あの日から続く底なしの虚無。

あの日とはいつのことだったろうか。


横たわって天井を見つめている。見慣れた薄暗い天井。ずっと見上げていた光景だった。なかなか眠れない時に、夜中にふと目を覚ました時に、いつも最初に見るもの。

長い夢を見ていた気がするな、と思った。それから少しだけ意識が冷静になって、本当に覚醒しているのなら装置があってオペレーターの安藤がいるはずだと告げた。だから、これも夢の続きなのだろうと判った。さらに少しして、いやオペレーターとか財団のくだりから全部が夢だったのではないかという気もしてきた。何もかもが曖昧で、背中の下に広がる薄い布団とそれ越しの床の感触だけが知覚できる確かなものだった。

今見ているのが夢なのか現実なのか、判断がつかない。堀越にとっては初めての感覚だった。同僚たちが不安になる訳だな、と今更ながらに理解する。それでも朝さえ来てしまえばそれが現実である事が確定するのだから、同僚たちよりはましな環境にあるのかもしれない。自分の思考は自分のものだと信じる事が堀越には出来たのだから。

時計の秒針の音がやけに鮮明に聞こえている。遠い昔にこれを聴いていたな、と思い出す。視線を上げても時計そのものは見当たらなかったから、やはりこれは夢なのだろう。

ふと、昔こんな話をしたなと思い出した。眠れない夜の時間の過ごし方について話したことがあった。誰と、何処で話したのだったかと横たわったままに記憶を辿る。

思い出そうと試みさえすれば、いともあっさりと記憶の扉は開いた。どうしてこれまで思い出せなかったのか不思議に感じる程に簡単だった。

本当に、こんな大事な事をなぜ今まで忘れていたのだろう。瞬きするほどに短くて、それでも目が眩むほどには眩いあの思い出を。坂の上のあの屋敷を、あの桜を、あの夢の数々を、あの場で話した数々を、そしてそれを教えてくれたあの少女を。

──小夜。

夢とは記憶の整理だ。だから、意識の表層が忘れてしまっている事が夢に出てくる事がある。それはある種のヒントにもなりうるのだと、他ならぬ彼女が言っていた。だから堀越──翔吾は今ここでなら全てを思い出す事が出来た。全てを思い出すというのは、この何もない寝室の天井が自分に許された唯一の夢なのだと受け入れるのに等しい事だった。それは幼い日の翔吾にはどうしても出来なかった事で、そして今の自分にはもうそこまで難しくもない事であった。

あの少女にまた会いたい、というのが全てを思い出してから覚えた最初の感情だった。
あの少女ならこの悪夢についても何か知っている筈だ、というのが最初の思考だった。

それでもあの屋敷はどこにもない。現実でも、そして夢の中であってさえも、あの坂の上にあの屋敷はないのだ。秒針の音だけが時間を刻む。あの屋敷でもそんな時間が流れていたな、と思い出す。

ふと、儚い希望が頭をもたげた。この夢の中なら、あの少女に会いに行けるのではないか。全てを思い出した、自分自身の夢の中なら。そんな儚い夢物語に縋ってどうするのかと頭の中の静かな声が言った。またあの坂の上に何もない事を確認して落胆するのか。自分が何も知らない、何も出来ないちっぽけな存在だった事を思い出して失望するのか。その日々に嫌気がさしたから、自分はあの坂を登るのをやめたのではなかったか。そして全てを忘れたのではなかったのか。

それは正しかった。それでも、もう一度試してみない理由にはならなかった。

裸足のままベランダに出て空を見上げる。月も星もない、塗り込められた暗黒の夜がそこに広がっている。堀越は迷うことなく黒いアスファルトの上に飛び降りた。すこしだけ昼間の熱が残っていたのか、じんわりとした熱が足の裏に宿った。

ぺたぺたと暗闇の中を記憶を頼りに歩いていく。どこかで虫が鳴いている。生まれ育った街のはずだが、闇に閉ざされるとはじめて歩く知らない街みたいだ。歩き続けているうちに、登りの傾斜が始まっていて、自分が裸足ではなくなっていることに気づく。不思議なことに、いつもの革靴ではなくスニーカーを履いているようだった。見えもしないのに、きっと蛍光グリーンなんだろうなという気がした。彼はそのまま坂を登ってゆく。

何度も登っていた道。
そして忘れ去った路。

屋敷はなく、ただ桜が咲いている。
あの日見た幽玄の艶がそこにある。

堀越は思わず目元を擦り、強く目を閉じた。そうしなければ何かが溢れてしまいそうだったから。そして目を閉じてから、次に目を開けたら、目が覚めてしまうのだろうなとも直感した。

春先の冷たい風が頬を撫でる。目を開けた瞬間、それは夏のじっとりとした風になっていた。


目が覚めた、と思った時、目の前にはやっぱり桜の大木が聳えていた。それでも季節はすっかり夏で、青々とした緑の葉だけがそこに生い茂っている。堀越はいつもの革靴でそこに立ち尽くしている。

どういうことかと目を見張る堀越の背後を、誰かがふらふらした足取りで夢を見たまま歩いていく。夢遊病の症状を呈する者は、今となっては珍しくもない。自分も先程までああだったのだろうか、と思った瞬間背筋が寒くなった。夢を見ないという特殊な立ち位置はもう失って、いよいよ自分も自分が目覚めているのか自信が持てない。

ポケットに入っていた端末を取り出せば、たくさんのメッセージが滝のように届いていた。オペレーターから安否を問われ、応答を求められているものばかりだ。どうも自分は十日ほど音信不通になっていたらしい。取り急ぎ「坂道を登って、いま目を覚ました」と返信する。そして、堀越は目の前の大木に向き直った。

照りつける陽射しを受けて、何もかもが鮮やかだった。枝葉の緑も、足元に落ちる木漏れ日の輪郭も、張り出してうねる根に抱え込まれた影の黒も。すべてが色濃くて鮮烈だった。

木の根に抱え込まれた影が蠢いたような気がした。悪夢の共通因子の一つは「地中に何かが埋まっている」だったことを思い出す。でも、そこにはまだ何も埋まっていないことを自分は知っている。そして、そんな話が蔓延していれば、人は誰も空を見上げたりはしない。

堀越は上を見据えた。緑を透かして陽光が降り注いでいる。その先に、何か太陽とは別の冷たい煌めきが見えたような気がした。堀越は迷いなくそれに向かって跳んだ。夢の中で何度もやってきたように、身体はなにかに放り投げられでもしたかのようにぐんぐんと上昇していく。枝葉を潜り抜け、たなびく雲を超えて、視界が真っ白に染まっていく。どこに辿り着くのかは想像もつかなかったが、不思議と不安は覚えなかった。

気づくと堀越はあの屋敷のあの部屋に立っていた。子供のころに比べるといくばくか手狭に感じる部屋に、見慣れないものが一つある。透き通る水晶で出来た、冷たく狭い箱。棺とも寝台ともつかないそれの中に、あの少女が横たわって静かに眠っている。駆け寄って声をかけても、身じろぎ一つせずに青ざめた顔で寝息を立てている。何か悪い夢を見ているようで、指先だけが時々何かを掴もうとするように震えている。

時計を鳴らさなくては、と思った。背後を見ると時計は止まっていて、秒針は黙りこくっている。部屋は静まり返っていて、小夜の名を呼ぶ自分の声だけがしんとした部屋の壁に吸い込まれていく。

堀越は少女の枕元に膝をついた。子供のころに見た姿と寸分の代わりもない少女だった。相変わらず一年生とも六年生ともつかなかったが、今の自分にとっては幼い子供であることに変わりはない。

夢追の娘。あるいは、夢背負う女王。それが財団でどのように分類され、あの無味乾燥な文体で綴られているのか、エージェント・堀越は知らない。ただ、この一人の幼い大切な少女にこれ以上夢を背負わせたくないと強く思った。

息を吸う。あの日聴いた旋律を思い出して歌う。あの日々から随分と声が低くなってしまったなと思った。それでも構わない。

家路の旋律、夢の終わりを告げる歌。

瞼が持ち上がって、透き通るほどに深い黒の瞳が翔吾を捉えた。
輝かしい夜空がそこにあった。

こうして一つの長い悪夢が終わった。


起き上がった少女は大人になった翔吾を見て何度か瞬きをした。翔吾は昔のように笑いかけようとしたのだが、うまく笑えたかはわからない。それでも、小夜が笑い返してくれたからそれで充分だった。

「お久しぶり」と絞り出した声はやっぱりひどく掠れて低くなっていて、これでは自分が誰なのかわかってもらえないかもしれないと今更不安になる。だから、「翔吾くんだよね」という声が返されたときは本当に安堵して、涙が溢れた。涙を隠して棺に突っ伏した頭にやわらかな手が触れる。どちらが子供かわかったものではない。いや、きっと向こうのほうが年上なのだろうが。

「うん……そうだよ。僕だ。遅くなったけど、来たよ」
「来てくれてありがとう。ずっと一人だったから嬉しいよ」

翔吾は泣きながらどうにか顔を上げて、「ずっと一人で何してたんだい」と問いかけた。少女は少し迷ったように首を傾げる。

「それは悪夢の蓋が開いたあとの話?」

翔吾は首を横に振った。最も優先して聞き出さなくてはならないのはそれだったが、それよりも前の話を聞きたかった。それに、時計は止まっているのだから時間はまだあるはずだ。じゃあ最初からだね、と小夜は笑って話し始めた。昔と変わらない調子だった。

夢負いの女王というのは他者の夢に介在する存在である。その役割は、一人の人間が背負いきれない悪夢を肩代わりしてやること。そうして、いくつかの最悪の事態を「ただの悪い夢」にして、夢から帰してやること。それが自分がずっとやってきた事だった。

本来、あの場所は翔吾のような子供が目を覚ましたまま気軽に立ち寄れる場所ではなかったらしい。現実側からアクセスする手段もないではなかったが、いずれも堅く秘匿されていた。翔吾が何度もあの屋敷に入れたのは、ひとえにまた来て欲しいと小夜が思ったからだった。それでも、十日に一度が限界だったし、あの場所に屋敷を長く据え続けるのも土台無理な話であった。消えたのが異常だったのではなく、そこにあったのが異常だったのだ。

「もしかして、僕の夢のことも何度か改変してた?」
「うん。……夢を見る事を嫌いになってほしくなかったから。だから、あの十日ごとの夢はちょっと立ち入ったよ。うまくいったかあんまり解らなかったから、毎回感想を聞いてたけど」
「そっか」

限界が近い事は判っていたから、悪夢の中で自分のもとに繋がる道を探すようにと小夜は言った。あの薬を複数回渡していたから、翔吾はいずれ夢を見られるようになるはずだった。でも、彼が見ていたのは寝室で静かに夜が明けて行くだけの夢で、そしてそれを夢だと気づかなかったから、彼がここを訪れることはついぞなかった。

申し訳なくなって頭を下げる翔吾に構わず、小夜は話し続ける。そうして、以前のように一人に戻った後も彼女は役割を果たし続けた。そうしてある日、異変が起きた。現実の方で何が起きたかは、彼女は殆ど知らない。ただ、唐突に「悪夢」が溢れかえって手に負えなくなったというのが彼女の理解の全てだ。彼女に出来るのは、ただ最悪の状態に陥った人間たちを夢の中に留めて休ませ、せめて心だけでも守ってやる事くらいだった。それでも、長く人を夢の中に留め置けば別のところに支障が出る。判っていても、続けるほかに何も思い浮かばなかった。何もわからないなかでの、たった一人の敗戦処理。それがどれほどの孤独だったことか。

「そうこうするうちに取り返しがつかない所まで来て、でもその時にはもう自力で目を覚まして立ち止まることも出来なくなってた。だから、最後に止めてくれてよかった」
「……最後?」
「うん。きっと、もう干渉できなくなるから。ここまで壊れちゃったらね」

だからこれで終わりなんだと彼女は告げた。どこまでも寂しそうで、困ったような顔をして、それでもなお笑っていた。

「──いや。まだ手はある。終わってない」

気づけばそう言っていた。こちらを見上げる少女に、エージェント・堀越として知り得た事を語る。自分たちは既に「悪夢の蓋が開いた」元凶について対処している。そして、この夢さえも、終わりさえすれば一からやり直す事が出来る。自分たちには再起動の準備があるのだ。

だから、全部を悪い夢だったことに出来る。君だけが全部を負う必要はない。

何一つ、自分の力で成し得た事ではなかった。財団が行ったことの中に自分の寄与も役割もなく、そもそも何をしたのか、何をするのかだって大まかにしか知らない。その財団すらも世界を救えた訳ではなく、再起動の話だって聞き齧った噂話だ。それでも、これを小夜に伝えるのは自分の役割だという確信だけがあった。ここに来てこれを伝えるために自分のこれまでがあったのだろうとすら思った。

そうだったんだね、と少女はゆっくり呟いた。

「大きくなったんだね」
「そうだよ。だから」

だから一度、安心して眠るといい。今度は君自身の夢を見るんだ。

「そっか。……それじゃあ、また新しい世界で。私の事、探してね」
「見つけ出すよ、何としてでも」

翔吾がそう言うと、小夜はまた小さく笑い、翔吾の手を取ってから目を閉じた。

窓の外から月の光が射して、水晶の寝台をやさしく照らす。
窓の外で桜が咲いている。これが彼女自身の夢なのだろう。

遠くで家路のチャイムが鳴っている。視界が白く薄れて行って、夢の終わりを告げる。

これで良かったのだろう。


意識が浮上する。ものすごく長い夢を見ていたような気もしたし、一瞬うたた寝しただけのような気もした。

目を開けると、病室のように殺風景な部屋で安藤がじっとこちらを見ていた。頭に手をやっても何も装置はつけられていない。何度か瞬きをして現状を把握し、身を起こすまでの間、彼女は何も言わなかった。部屋の外で鳴いている蝉の声だけが空間を満たしている。身を起こして向き直るとようやく安藤は口を開いた。

「おはようございます」
「おはようございます。俺、どのくらい寝てたんですか?」
「さあ。でも、そんなに長くはないはずですよ」

聞けば、自分は桜の木の前に倒れていたところを回収されてここまで運ばれて来たのだと言う。運ばれて来てからは数時間も経っていないが、どれほどあの場にいたのかは判らないそうだ。堀越は何が夢で何が夢でないのか考えようとし、すぐに諦めた。それは誰にも解らない事だ。一つ息をつく堀越に、安藤は告げる。

「先程、連絡が来ました。明日からはお休みです」
「もう他人の夢に潜り込まなくてもいいって?」
「ええ、世界的悪夢は収束したと。原因については何の情報もありませんでしたが」

オペレーターは堀越をじっと見て、出し抜けに「何をしたんですか」と問いかけた。妙に確信を持った様子で「君が何かしたんでしょう」と続ける。

「俺はただ、昔の知り合いに明日は休みだよって言う夢を見ただけですよ。安藤さんと同じように」

あの幼い少女を女王として報告して、財団の関心を引きたくはなかった。嘘はついていないし、どうせ近いうちに全てが無に帰すのならそこまで忠実さを貫く必要もないだろう。安藤は何かを探るような目をこちらに向ける。前よりもはっきりとした目をするようになったな、と思う。今はもう本当に、夢と現実の区別がはっきりとついているのだろう。堀越は話題を変えることにした。

「それにしても、休みとは意外ですね。もう少し復興に借り出される……あるいはそういう体裁になるくらいはすると思ってましたが」
「ああ。もういいんだって、全部。懸案事項が片付いて、再生の目途がついたから」

後は高クリアランスのお歴々で片付けておくから、お前たちは好きに過ごせってこと。どこかつまらなさそうな顔をして安藤は言う。噂話はいつの間にか公式の見解になっていたらしい。

「こうもあっさり再起動がどうとか言われると自分達って何だったんだろうって思いません? ……まあいっか。そういう訳で、私は家族に会いに行きでもしようかと思っている所です。あなたはどうします?」
「そうですね……故郷に戻って、桜でも植えようかな」

口をついて出た言葉に、堀越自身も少し驚いた。それでも、それはとても自然な事であるように思えた。安藤もやっぱり驚いたような顔をして「明日世界が滅ぶかもしれなくても?」と尋ねた。

「だからですよ。いつか世界がやり直されたあとに、その下に何があるんだろうって誰かが思ってくれるかもしれないじゃないですか」

それは子供の怪談話になるかもしれないし、あるいは土に埋まった死体の夢になるかもしれない。何であってもよかった。そこに自分たちの面影が、痕跡が想起されるのならそれでいい。

「記念碑にしちゃあ随分と慎ましいですね」

安藤はそう言いながら自分の端末を開く。堀越の端末が光ってメッセージの受信を告げた。

「ホームセンターの住所?」
「手伝いはしないけど。君を回収しに行く時に、桜の苗木が放置されているのを見たから」
「……ありがとうございます。色々と」

安藤はそれには答えず、端末を置いて立ち上がる。手をひらりと振って部屋を出て行った。自分しかいない部屋に、風が吹き抜けて白いカーテンを揺らす。そういえばあの人はわざわざ自分を回収して目を覚ますまで近くで待っていたのだなと気づく。そのお礼を言いそびれたな、と思った。

調達した苗木を車の後部座席に乗せて走る。故郷の街へと入った時には、すっかり夜になっていた。途中までは財団の整備しているマクロラインを快適に使っていたのだが、公道に出た瞬間、人間社会の終焉を実感させられた。無秩序な混乱を避け、翔吾はずっと夜の山道を延々と走り続ける羽目になっていた。

久々に見た故郷は随分と様変わりしていた。人が死に絶えたからか、あたりはしんと静まりかえっている。見覚えのある家の並びをなるべく視界に入れないようにしながら、翔吾はさらに車を走らせた。自分で既に判っていた事であったとしても、かつての旧友たちが今どうなっているのか、決定的な事を知りたくはなかった。

あの坂道は、車で行けば一瞬だった。もはや懐かしさすら覚える殺風景な駐車場に車を停める。駐車場もやはり荒れ果てていて、割れたアスファルトの罅から土が剝き出しになっていた。

一番大きな亀裂に苗木を丁重に植える。その下には何も埋まっていない。ただ、かつてあった人々の暮らしが一度途絶えて滅びたという過去だけがある。そして、これから再建の未来もそこに加わるだろう。

作業を終えて空を見上げれば、白い月が頭上に浮かんでいた。それを見上げながら、翔吾はひび割れたアスファルトの上に大の字に寝転がる。途方もなく疲れていて、今はただ何も考えずに眠りたかった。ここで世界の終焉を迎えるならそれでいいと思った。そしていつか世界が再起動したときに、あの少女が普通に日々を過ごせたらなおいいと思った。見るのならそんな夢物語がいいと思い描く。

翔吾は静かに目を閉じる。もう夢は見なかった。




少年が一人、木陰で目を覚ます。
見上げた空は暗くて、随分長く眠りこんでいたらしかった。

見ていた夢を思い出そうとしているうちに、近づく足音。
顔を上げれば、制服を纏う少女が一人。
彼女こそが彼の待ち合わせ相手だ。
こちらが起きたのに気づいてぱっと笑う。

立ち上がってこちらも歩み寄り、そして並んで歩きだす。
再会が待ちきれなかったというように少女が話し始めた。
昼間の学校での話、読んだ本の話。そして夜に見た奇妙な夢の話。
会わない間にお互いに話題はいくらでも出来ている。

二人は話しながら、桜のふもとから去ってゆく。
今日が約束の十日目だった。

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