灰色の少女はビビッドカラーの夢を見るか
評価: +49+x

サイト-81██のとある人型収容セル。窓等の不要な設備は無く、天井の隅には一台の監視カメラ。そのカメラの視線の先にただ1人、灰色の布地に身を包んだ14歳程の少女が座ってる。
……SCP-████-JP-2。彼女はそう呼ばれている。同じ異常性を抱えた双子の妹の方だ。

(……あたしは言われた通りにする子。言われた通りにいい子に。)

それは彼女に義務付けられた思考である。そして彼女は、少し俯き。

「本当は、自分で何かを考えてみたい。自分で何かを決めてみたい。」

その呟きは彼女が幾度と無く繰り返した思考である。収容室の隅に座り込み、自分の両手を見つめるSCP-████-JP-2の映像を、監視カメラは映し続ける。

「やっぱり無理だよ……。」

少女は、自身の両手にその顔を埋める。

(……誰かが "君は悪い子" って言ったら、あたしは悪い子になってしまうし、誰かが "君は死人だ" って言ったら、あたしの命は失くなってしまう。それに……)

(……あたしの身体。本当は普通の女の子の身体。でも、誰かにあの日みたいに、 "バケモノ" だ、って言われたら……)

「うぅ……」

(……考えるのはやめよう。

だからあたしは誰とも話さず、この "部屋" でいい子にしてなきゃいけない。)

「あなたたちは、いい子にしなきゃ……」

(……ここに来る前から、お母さんだってそう言ってたんだ。)

「お母さんは、悪い子は要りません。」

「お母さんは、いい子が好きです。」

収容前の色褪せた記憶。その中で、彼女は母親の言葉を反芻する。

彼女の記憶は既に灰色の靄がかかっているのだが、それでも尚も……、だ。




そしてこの収容セルもまた、一面灰色である。





……突然、部屋の鍵が開けられる。SCP-████-JP-2は、ゆっくりと振り向いてその視線の先に、1つの物影を捉える。


……が、彼女は、直ぐには状況を理解できなかった。

まず最初に、訳の分からない視覚的な刺激があった。

少女は困惑し、そして、それが遥か彼方の記憶に眠る、 "鮮やかな色" だということを少しずつ認識し……

……そして、灰色の部屋と白い通路に突如差し込まれたオレンジと赤が、少し遅れて彼女の目を射る。

そこにいたのは、オレンジ色の服を着た人物。その男は睨むように彼女を見ると、咳き込み、口から血を吐いて倒れたのだった。

SCP-████-JP-2はヨロヨロと立ち上がる。彼女には、その突然の鮮やかさ、オレンジと赤がとても綺麗なものと写り、それが血塗れの男だと認識するのに更に少々の時間を要した。ようやくそれが血生臭い惨劇の一端だと理解した彼女は、ゆっくりと錆びた歯車のように軋む思考を回そうとする。

(どうしよう、この人、いつもの博士たちと同じ財団の人……?)

しかし、いつもの博士たちなら白い服を着ている筈だった。

(でも、助けたくても、あたしはここで大人しく、ただ大人しくしてなきゃダメで……)

「あー、残念だけど、その人ならもう死んでるよ。」

突然の声は "部屋" の監視カメラの方向からだった。恐る恐る視線を向けた彼女は、その上に乗った色彩に再び目と思考を射られた。

再び、鮮やかな対象を認識するのに十数秒の時間を使う。少しずつ時間をかけて、その「鮮やかなもの」の形状が認識できてくる。

「君は、逃げなくて良いのかい?」

彼女が漸くその姿を意識に捉えられた頃合いを見計らい、一匹の緑の、しかし少しずつ鮮やかな色の混ざったカメレオンが言った。

「あたしは、って……?」

「知らないの?外じゃみんな脱走パーティーだよ。僕だって自分の部屋から逃げ出して、コイツの頭ん中に入ってここまで運んで貰った。」

そう言って両目をグルグルと回転させるカメレオンを、彼女は呆然と見つめる。彼女に理解できた事の中で、確かな内容は1つ。

「それじゃあ……、あなたもあたしと同じ、SCPオブジェクトなのね。」

SCPオブジェクト。 "普通ではなく、自分にも周りにも迷惑をかけてしまうからここに仕舞われているのだ" と彼女は続ける。彼女にとってその言葉は、自身が未来の無い灰色の日々を過ごさねばならぬ理由であり、同時に、彼女自身の全てであった。

しかし、色鮮やかなカメレオンはSCPオブジェクトと呼ばれても、その得意気な様子を崩さない。

「そうさ、僕は体のある生き物じゃないんだ。Imaginanimal、って言ってね。人の頭の中に入ったり、こうして幻覚みたいなホログラムみたいな形で現れたり、できるのさ。」

そう言ってカメレオンは、カメラの上から手足を離して床の上に着地する。屈んで触れようとした少女の手はそこに確かにあるように見える緑の体をすり抜け、彼女にまるで彼が自分とは異なる世界の夢物語であるかの様な印象を与えた。

「さ、どうする?逃げないの?」

これは、ともすると夢でも見ているのか、と彼女は思案する。しかし、例え夢の中であれ現実であれ、灰色の少女が導く解答は1つだった。

「あたしは、いい子にしてなきゃだから……」

……それは実際のところは、彼女自身が導いた解答ではないのかもしれない。しかしその区別は、今の彼女にはついていなかった。

(いい子にしてなかったら。)

灰色の少女の思考は、再び過去の傷を抉りに行く。

彼女を「バケモノ」と囃し立てる級友たち。

赤く大きく、鋭くなっていく両手。

……その後の記憶はしかし、彼女自身にも曖昧だった。

「……ねぇ。」

差し込まれたカメレオンの声が、彼女の意識を現実へと引き戻す。

「いい子にしてたら、君は死んじゃうよ?言ったでしょ?大脱走パーティーだって。その人みたいになりたいの?
……僕は色んな人の頭で学んだから知ってるんだ。誰だって死にたくない、でしょ?」

前足を片方上げてオレンジの男を指差しているカメレオンは、彼女の次の言葉を待つかのように両目で少女を見据えている。

「……この人は、どうして?」

少女は再び、錆びた思考を回し出そうと試みる。
そのオレンジの男の背中は、獣の爪の深い跡が付いていた。この白と灰色の施設で起こりうる惨劇とは何なのか。誰が、あるいは何が、この鮮やかな男の背中を引き裂いたのか。しかし彼女の思考は、暫くの時間を置いたカメレオンの返答に先行しなかった。

「やられたんだよ、 "収容違反" した "生物型オブジェクト" に。」

そして、一瞬の間を置いて。

「ここから出れば君のお姉ちゃんにも会えるかもよ?でもこれは嘘かもしれないし、本当かもしれない。」


(お姉ちゃん……)

……ふと思い出した遠い記憶で、少女を抱き締める姉の手は、どういう訳か傷だらけだった。




「ようやく通信が繋がったか!」

壁も崩され、瓦礫とゴミが散乱した誰だか知らない博士のオフィス。あーあ。新米エージェントとして配属早々これですか。

ついてないなぁ、とぼやきつつ、オブジェクト群がとうに通りすぎたこのオフィスに身を隠しつつ、ようやく入った通信に返答する男が1人。

「はい。こちらエージェント・猿児。」

「こちらエージェント・山田。手短に状況を説明する。まず知ってはいるだろうが、ここサイト-81██にて大規模収容違反が発生した。」

なるほど、まさしくその通りですね。エージェント・猿児は心の中でそう言った。

「で、問題はここからだ。」

少し長めの髪を弄って、猿児は上官山田の連絡を聞く。
要点を纏めると……

曰く、「ラベンダー」を自称する人型実体によってサイトが襲撃を受けたこと。

その後、中央電源がクラッシュに至り、大規模収容違反が引き起こされたこと。

そして現在も復旧が進められているが、まだ多くの通信網は途絶していること。

なるほど、随分と絶望的な……

「……でだ、エージェント・猿児。その "ラベンダー" とやらは、未知の装甲服を装備している。ソイツとやり合えとは勿論言わん。人型実体への対処には、連絡のついた機動部隊がそちらに向かっている。」

ん?

「すると……私の任務は?」

「オブジェクトの保護だ。特定のな。2つのオブジェクトが合体し、財団に協力して負傷した。」

なるほど。2つのオブジェクトが合体し、財団に協力して負傷したのか。

「……え、はい?」





SCP-████-JP-2は灰色で何もない部屋を出た。突然訪れた、財団の誰から許された訳でもない解放。それに言い知れぬ胸騒ぎを覚えたまま、彼女は直前までいた部屋よりも少しだけ明かりの強い廊下を歩いていく。進行方向は、カメレオンによれば "危険なオブジェクト" がいるという左側とは逆の方向だ。

必死に思考を動かそうと、彼女は文字通り右手で頭を抱える。首筋の辺りで乱雑にカットされた、手入れされていないボサボサの髪がその指に触れた。少しずつ、考えるという行為を思い出し始める。

(どうしてこんなことに?)(お姉ちゃん……あなた、お姉ちゃんのことを知ってるの?)

漸く回りだした彼女の思考は、しかし今度はオーバーフローして無数の問いを吐き出してくる。しかし結局口から出た言葉は、あまりにも当たり障りのないものだった。

「ここには、誰もいないんだね。」

彼女の頭に乗ったカメレオンは、「まぁね」と言いながらつむじ周辺を探っている。

誰もいない。それが普通なのかそうではないのか、彼女にはそれすらも分からなかった。しかしただ1つ、階下から悲鳴と轟音と怒声が響いてくることだけは分かる。指の間に引っかかる髪から手を離し、

(あっちの方から、さっきの人は逃げてきたのか……)

また問いが1つ吐き出された。

廊下は真っ直ぐ続いている。

「アイツのことは気にしなくていい。奴は沢山の悪いことをしてここに来たんだ。海千山千の悪党さ。
……心苦しいけど、悪いことをした人には罰を、っていうね。僕は人間が好きだから、その考え方を学んできたんだ。こうやって人の頭に入ってね。」

カメレオンが、スルリと彼女の頭の中に入って来た。彼が頭皮と頭蓋をすり抜ける奇妙な感覚に少女は一瞬足を止めるが、

(奇妙なのはあたしだって似たようなもの。)

白い通路の壁に手を沿わせ、再び歩きだした彼女の問いは、次第に頭の中のImaginanimalとの噛み合った会話の形をとり始める。

「……その人が……どうしてあたしを?」

そんな男が、何故命を擲ってまで自分を解放したのか、と。
それに答える彼の言葉は、少女の頭の中で目をグルグルと回転させながら放たれる。

「あぁ、あのオレンジはただ、君の部屋の扉が外への出口だって信じてただけだよ。僕、詐欺師の才能があるんだ。」

再び歩みをゆっくりと止め、少女は1つ溜め息をつく。ボサボサ髪が、俯いた視界の端で揺れている。

しかし、彼が詐欺師だと聞いて、少女はどこか安心感を覚えた。

「そう、詐欺師……。みんな、悪い子だからここに仕舞われてるんだね。

……なんで安心してるのかな、あたし。」

カメレオンは詐欺師、悪い子。それだというのに、この安堵の感情はどこから来るのか。それはまるで、あの日 "バケモノ" になった彼女を抱き締めて、元に戻してくれた姉の言葉の様だった。






「リンコは……  他の誰でもない。リンコ自身なんだから……」












「……おーい?おーい?」

カメレオンの呼び掛けに、少女はハッと我に帰る。思考が飛んでいたのは、或いは少女には過去にしか色らしい色が無いからだろうか。

「帰ってきたね。じゃ、続きを話すよ。」

「あぁ、ごめん。」

いつだって、お姉ちゃんは自分を庇ってくれた。その思い出のフラッシュバックは、中でも特別な色を帯びていた。

カメレオンは、少し舌を出し、引っ込めてまた話し始める。

「……で、そう、何も悪い子ってことはないと思うのさ。僕は色んな奴の頭の中を歩いてきたけど、みんなそれぞれのカラーがあった。悪いやつでもね、それなりにここに来るまでの人生を楽しんできたんだよ。多分ね。
……でも、君は空っぽ。君のいた "部屋" と同じに。」

「あたしは……空っぽじゃなきゃいけないの。」

そう言いながら、少女はカメレオンの舌のピンクに少し惹かれた。灰色の日々の中で、既に記憶は色褪せていたので、そのピンクはまるで初めて触れる色であるかのように感じられ……

「……虚無な君は、いい子にも悪い子にも、なれるはずが無いじゃないか。」

「えっ?」

一瞬、また立ち止まる。薄紅色に惹かれた少女は、その言葉の意味が少し難しくて考える。

廊下は、少し曲がり角が多くなってきていた。

「……あたしは……」

「でも気をつけて。」

「え?」

「僕は詐欺師だから、言ってることは本当かもだし、嘘かもしれない。」

「…………。」

「……僕、君に色んな色をみせたくなっちゃったな……。」

少女とその頭の中のカメレオンは、人型収容区画の端にある長い階段を降りた。




あー、えっと、ここまでで何が起こった。

大小コンクリートの欠片やら、破断した鉄筋やらが散らばった中で、エージェント・猿児は目を覚ます。頭からの流血から察するに、思いっきりの衝撃で気絶してたってとこか。

「良かったです……生きてて……」

足元から少女の声。
……そうだ。この子を、……じゃなかった、このオブジェクトを守りきるのが私の役目だ。何気絶しちゃってんだか。

SCP-████-JP-1。同じ厄介な異常性を抱えた双子の姉妹の姉の方。極めて暗示にかかり易く、他者からの言葉を容易に信じてしまう。そして、その "思い込みのイメージ" の影響が肉体にも変異を齎す。

SCP-███-JP-1。スズメバチのImaginanimal。何かよく分からんが、 "自我を持った動物のイメージ" らしい。このスズメバチだけじゃなく、Imaginanimalとやらには色んなラインナップがあるんだとか。

で、その2つのオブジェクトが合体したと。

足元に血まみれで倒れている、スズメバチの特徴を備えた少女。髪飾りのように頭に付いた複眼と、右側だけの触覚と羽。Imaginanimalとやらが頭の中に溶け込んで、完全に一体化した結果この姿になっちまったらしい。
……そして端末に来た資料に依ると……彼女には特別収容プロトコルにより、「自分は模範的で、財団に協力的なオブジェクトである」という暗示が与えられている。そしてこれは、妹であるSCP-████-JP-2も同様に。

「……成る程なぁ。」

「……?」

「あぁ……、いや、気にしないでくれ。」

離れ離れの双子か、と口の中でぼそり。

互いに暗示をかけ合わないよう、収容室もサイト内部の離れた区画に分けられているのだそうだ。

……しかし彼とて財団エージェント。オブジェクトに同情を寄せては、ならない。

「いやぁ、しかしこんな大量に……」

……全く、まさか新米エージェントがこんなに大量の報告書を読めと送りつけられる羽目になるとは……、と猿児は思考する。

まぁ、さて。上官に連絡をしなければ。

エージェント・山田との通信。

「こちらエージェント・猿児。報告します。端的に言いますと双子の妹の方、SCP-████-JP-2が危ないです。」

「どういう事だ」

「 "ラベンダー" の狙いがこの双子らしいです。で、姉の方は私が連れて何とか逃げてますが……」

上官山田が訝しげな声色で問い返す。

「待て、何故 "ラベンダー" の目的が分かる?」

そこですね。

「あー、それなんですが、
……まさかの本人に出くわしました。 "パペティアー・ラベンダー" とか名乗ってましたね。で、曰くその子達を解放するんだと。

……や、しかし女なんですねアイツ。まさかドラゴンに乗ってるとは更に思いませんでしたが。」

おいおい嘘だろ、と通信機の向こうで上官山田が息をつくのが分かる。

「……操り人形遣いパペティアー……?ドラゴン?……端的に詳しく説明しろ。」

「……分かりました。そのドラゴンは首なしで……」

猿児は、少しずつ説明を続ける。

"ラベンダー" とやらは黒い首なしドラゴンの背中に乗って、機動部隊を蹂躙していた。

「まぁ、酷い有り様でした。」

その現場、何かの収容室だったらしい複数の部屋は既に壊されて1つの大部屋のように繋がっていた。隊員たちはそこで蹴り飛ばされ、隔壁の破片にぶち飛ばされ、ドラゴンの首の切断面から吐き出される炎に焼かれながらしきりに「タマサブロー」と叫んでいた。

「……多分何かのプロトコルだと思うんですが。」

「……了解した。それで、そのオブジェクトはどうなった。」

「それがですね……」

だがドラゴンは反応せず……そこにノコノコと現れてしまった猿児とスズメバチ少女の方へ、向かって来たという訳だ。

「……多分、あの "ラベンダー" ってのがドラゴンを操ってますね。切断面の少し後ろ辺りに座ってたんですが、ラベンダーのスーツからコードみたいなのが、何本もドラゴンの背中に刺さってました。」

「……ふむ。それにしてもプロトコル"鬼呪"が無効とは……」

「プロトコル"鬼呪"?」

端末に、新たな報告書が送られてくる。

SCP-774-JP、ですか。

分かりました。読んどきます。」

「そのオブジェクトの名前は口に出すな。それと、今から最近辺のシェルターに移動してくれ。場所は分かっているな?」

「あー、はい。大丈夫です。」

「しかし……、 "ラベンダー" は "解放する" 、と言ったのか。」

「はい。まぁ、私と纏めてこんな目に遇わせてる時点で解放とは名ばかりですがね。」






突然、灯りが落ちた。カメレオンの案内で、幾つもの長く狭い通路を抜けた先で、少女は暗闇に包まれた。

(えっ……?)

少女の足が強張って止まる。何もかもが見えなくなった。窓の無い、外からの光が差すことの無いこの空間。そこにあるのは、虚無と……

(どうして……?まさか、 "危険なオブジェクト" が近づいてるの?)

……虚無と、長らく少女が忘れていた感情。

(……消えたのは本当に灯り?それともまさか、あたしの目が……)

「ここ一帯の電気がやられたんじゃないかな。」

彼女の思考の中に、再び鮮やかなカメレオンが現れる。

「少なくとも僕の知る限りでは、この辺に危険なオブジェクトは収容されてないよ。」

少女はカメレオンの言葉と、そして何よりもカメレオンの持つ "色" に落ち着きを取り戻す。

「そっか……」

"怖かった" 、と彼女は思う。灰色の日々の中で、とっくに死んでしまったと思われた感情。……それは過去ではない "現在" に根差した恐怖だった。真っ暗闇の中で、何かを失いたくないという思いが、彼女の胸の鼓動を強く、速く打たせていた。

「……ねぇ」

「なんだい?」

「あたしにも、ちょっとは色があったみたい。」

「うん?」

少女は、自らの両手を前にかざして視線を向ける。しかし、光の無い暗闇の中ではその肌も、衣類の灰色も見えなかった。

「あたし、これまで灰色の部屋で灰色の服を着て。あなたの言う通り、 "虚無で空っぽ" だと思ってた。」

「…………。」

「でもね。」

「うん。」

「その灰色まで失くすのは、嫌だ、って思ったの。」

「そうかい。」

カメレオンは少し静止し、そして言葉を続ける。

「真っ暗になっちゃったけど、どうする?」

「…………。

……壁づたいに進んでみる。」

少女は、右手を壁に沿わせながら、ゆっくりと歩み始める。それは、彼女自身が導きだした "手段" だった。

「へぇ。少しは自分で考えられるじゃないの。」

カメレオンが面白そうに言う。

「……そう、なのかも。」

……そうやって少し進むと、開けた場所に出たようだった。そしてまた、右の壁にじわりと体重をかけて進む。

少女は少しずつ進んでいく。

右の壁にじわりと体重をかけて進む。

慎重に、少しずつ。

右の壁にじわりと体重をかけて……

……壁が横開きに、ぐらりと動く。

「…………っ!」

支えを失くした彼女の身体は右に傾き、そのまま "壁" が開いた先の床面に叩きつけられる……否、その床の上には幾らかの物品が散らばっており、少女は脛を、腕を、腹部をその下敷きになった物品に打たれた。

「ぃ痛っ……」

「……えーと、大丈夫?」

「うん…………。

正直この感覚も忘れかけてたな……」

……灰色の少女の呟き。

その感覚は "痛み" だった。収容室で何もしないで生きてきた彼女には、とうに縁遠くなっていた物理的な痛みとの再開。

「うぅ……っ、……」

少女はお腹を押さえ、痛む手足を擦りながら起き上がる。

……そして、目をパチクリとさせた。

ここ一帯の光は奪われ、視界は閉ざされた筈だった。ここ一帯には暖かさの無い、暗闇だけがある筈だった。しかし、彼女の目はまた色を見……その視線の先、暗闇の中に揺れる光源を捉えた。

幻じゃないか、とも一瞬思った。自分の恐怖が、自分に見せる幻では、と。しかし少女の目はそこに確かに光を放つ、火の揺らめきをに見つめている。

「……あれ?……ねぇ、あれ、見える?」

彼女はゆっくりと右の手を上げ、その暖色の光を指差した。

「うん、キャンドルランタン、だね。

……横倒しのままだと不味いと思うんだけど……」

カメレオンが静かに答える。

ぼんやりと、しかし確かな光。

金色の枠に縁取られた瓶の中で輝く炎は、無機質な床と、その上に無造作に散らばる種々のものたち……銀色のベルの付いた目覚まし時計、赤い小猿のペーパーウェイト、黒いヘッドホンに青い空き缶……それら1つ1つを確かに照らし、それらの手前に長い影を作っていた。

暫く起き上がったままの姿勢でその光景に見とれた彼女は、意識して我に返ると1つの言葉を投げ掛ける。

「あれ、立ててあげないとダメなやつ?」

「うーん、そう思うけど……」

カメレオンがそう返した時には、既に彼女は前へと進み出していた。ランタンの金色の取っ手に手をかけ、ゆらり、ゆっくりと持ち上げる。灯りに照らされた視界の端でボサボサ髪が揺れた次の瞬間、

……正位置になったランタンは部屋に完全な光を齎し、少女の倒れこんだその部屋の、全体が明るく照らされた。

「そもそもこの部屋は何の……んん!?」

少女の頭の中にいる、カメレオンが一瞬硬直する。

Anomalous物品保管庫

「……あぁ、成る程そういう事か……」

少女が壁と間違えて押してしまったその扉に並んだ文字は、オブジェクトに指定されずとも、何らかの異常を備えた品々を意味する言葉が刻まれていた。

Anomalous。少女はその意味を知らない。左手で乱れっぱなしの髪を撫で、不思議そうに見上げる彼女にグルグル目からの説明が入る。

「…………。」

「……そういうこと。」

「……じゃあ……ここにあるもの全部、あたしと通じる部分があるんだ……」

嘆息と共に、そんな言葉が溢れた。

オブジェクトに荒らされたのか、職員が使えそうなものを探して持っていったのか。広い壁一面に大小並んだロッカーの鍵と扉は7割方開け放たれ、一部の物品は床へと投げ出されている。

(この銀色ベルの時計も、赤の置物の小猿もランタンも、全部あたしと同じ……)

異常性を持ちここに仕舞われ、それでいて、色を失わぬ物品たち。

少女は右手でランタンを掲げ、開いたロッカーの枠に左手を置いた。

彼女の中に確かに、何か新しい感情が芽生え始める。

……そして、静かに静止する少女。

……頭の中のカメレオンが、不思議そうに目の動きを止める。

「どうしたの?」

「うん……」

左手に触れているもの。それはプラスチックの小さな足と、同じく小さなスカートの布地。

「何だか凄く……懐かしい感じ。」

少女の声。
……懐かしさ、その感情を彼女は持った。
そしてふっと目を閉じ、少しだけそうした後、ゆっくりと左手の元へと顔を寄せて目を開く。

……その表情は笑み。同時に、夢見がちとも取れそうな表情。

「凄く……、綺麗……」

少女の視線の先、彼女の触れる指の先には、ピンク色の髪をした20cm程の女の子、優しい色をした人形が座っている。

色褪せた筈の過去。しかし懐かしさという感情は、その色を手繰り寄せるための糸となった。

そして少女の口から、滑るように言葉が出た。

「この子、 "春" って感じがする……」

彼女はランタンを置いて人形を手にとり、その髪と小さなワンピースを撫でる。
白地のワンピースには、手折った黄色い花の模様が散らされている。

「……ふふっ、あたしまるで、スズネみたいなこと言ってる……。」

その目には確かな光が宿される。少女は、久遠の過去へと忘れ去っていた笑顔を見せた。その笑い声は小さな鈴のように響く。

カメレオンは不思議そうに両目を揃える。

「スズネ……?」

「うん。」

単純で短い2文字言葉。しかしその声は、これまでに無い感情の表出に弾んだ声。

「つどうき スズネ。お姉ちゃんの名前。
お姉ちゃんは、スズネは、こうやってお人形に季節を当てはめて遊ぶのが好きだったの。」

「へぇ……。それじゃあ、き……」

少女は目をキラリとさせ、ピョン、と横飛びに移動する。

「……それで、この子は夏。」

春の人形の、1つ右のロッカー。その中に腰かける金髪の人形に、少女は愛おしそうに触れる。
頭には麦わら帽子を乗せ、服は水色に青や藤色のグラデーション。

「え?」

質問をするための言葉を流れるように寸断され、カメレオンが口を開けたまま言葉を失う。

「それでこの子は……、あれ?」

その隣には空っぽのロッカー。暫く辺りを見渡した後、床に雑多な品々と共に投げ出されていた "秋" を見つける。

「あ……、戻してあげなきゃ」

「ねぇ……、ねぇ!」

「ん?」

ピンク髪の "春" と栗色髪の "秋" を左右の手に持ち、彼女は漸く立ち止まる。

「それで……君の、名前は?」

少女は、ニッ、と笑みを見せる。

少し間があって、少女は答えた。

「リンコ。つどうき リンコ。

……この名前、何年ぶりかな。」

……嘗て無い胸の高鳴り。

少女には、リンコには自分の名前が懐かしかった。
その名前、長らく呼ばれることの無かった名前は、自分というものを取り戻した彼女の心を更に震わせた。

(リンコ。そうだ、あたしの名前はリンコ……!)

そして弾んだ足取りでロッカーに向き直り、それでいて優しく慎重な手つきで "春" と "秋" を、 "夏" のいる場所の両隣に座らせる。

そしてその隣には、銀髪と白い上着の色に、濃紺のスカートが映える子が1人。

「それでこの子が、冬。これで揃ったね!」

その場で、くるっと半回転。
カメレオンがポカーン、と口を開ける。

「君と……えっと、リンコとスズネお姉ちゃんは、昔はいつもお人形で……?」

"お人形で遊んでたのかな?" 、とカメレオンは尋ねる。

「うん!……スズネは、お姉ちゃんはこの子たちみたいな優しい色のお人形。それで、あたしは……」

「……それであたしは?」

「それであたしは、もっとカラフルな外国のお人形、だよ!」

「カラフルな。成る程ね。」

「あたしたち、いつも2人の部屋でお人形遊びしてたの。2人で、毎日!」

「そっか。…………?、2人で、毎日?

……うーん?

…………まぁ、いいか。」

カメレオンの声に、少し複雑な表情が混ざる。

「スズネやあたしの憧れの、想像の中の自由な自分たち。お人形たちをそれに見立てて……」

「えーと?それ、 "収容" 前の話?」

「うん。お母さん、とっても厳しかったから……」

……また母親の言葉を思い出す。

「お母さんは、悪い子は要りません。」

今度はその、面長の顔まで頭に浮かんだ。
……そして、振り上げられた右手も。

「うーん、そっかぁ……」

カメレオンがそう返した時。

ピシッ。
……足下の床に亀裂が走った。

「……あれ?……ん?ねぇ、リンコ、ちょっとマズいよ!?」

亀裂はみるみる大きくなり、やがて少女の、リンコの立っている床が崩れる。

「あぁあ!??」

足場を失い、リンコは落下から逃れようと左右の足を踏み出す。しかし視界は落ちていき、周りの風景が1階分、綱の切れたエレベーターのように上へと流れる。

……ギリギリの所で、指先が金色のランタンに触れ、共に階下へと落下する。

「あ痛っ!、くぅあ~……」

階下1階分の尻もち。リンコは土埃を払おうとして、自分の服が土埃の有無など関係ないような色をしている事に気付く。

「あー……」

上体を起こして座り込んだまま、今度はその右手を頭へと置いて手櫛する。……髪も、元々やはりボサボサだ。

辺りは明るい。ランタンはリンコの足元で、床だった残骸にもたれるようにして斜めに鎮座している。……どうやら、斜めならばまだ辺りを明るく照らすらしい。

「あー、んんっ、と……」

座り込んだまま右手を突き出してランタンを取り、続けて右足を、左足を動かしてよいしょ、と立ち上がる。

頭の中のカメレオンは、両目の視線をしっかり揃え……

(何を見てるんだろ……?)

今度はリンコが、カメレオンに尋ねる。

「えーっと、もしかして何かある?」

カメレオンは両目で前方を見据えたまま……、

「……リンコ、僕が見せたかった目的地が割りとすぐそこだ。」



目の前には真っ直ぐに長く続いた通路。
その先に小さく見えているのは、財団の、大きな購買スペースの服売り場だった。

小さく、とても小さくではあるものの、そこに見える沢山の服たちが色彩を放ってリンコを誘う。

「でも危険なオブジェクトも割りと近いのかも。リンコ、急い……」

……カメレオンがそう言いかけた時には、リンコは既に走り出していた。










……少しだけ、息を切らして。
タッタッタッ、と何本か、深緑の木の鉢植えを通り過ぎ。やがて白い床は木目調のフローリングへと切り替わる。

「Superior Clothes' Palace」

頭上に掛けられた看板には、青地にベージュの飾り文字でその店名が綴られている。

入店。今はフロント企業の店員も、財団職員の先客も1人もいないが、そこにはあらゆる輝きがあった。
濃紺、ピンク、モスグリーン。視界の左右に広がる棚には、色とりどり、ハンガーに掛かった何十着ものコートたち。
レッド、パープル、ミントグリーン。どうやら右手の棚には大人しめ、左手の棚にはビビッドな色の服があることが掴めてくる。

リンコは息を切らして、通路を突き当たった透明な扉を両手で押し開いたままの姿勢で……

……立ち止まってはいられない。

「あぁ、やっぱそっち行くんだ!」

跳ねるように左へと向かったリンコの頭で、揺すられながらカメレオンが声を出す。

店内を須く照らすランタンは、既に入り口の床に置いてきた。

バサッ!

ピンクと黄色、縞模様のダウンジャケット。

バサッ!

青とオレンジ、ツートンカラーのアウターコート。

両手を広げて左右に掴み、姿見に向けて走り出すリンコ。

「ねぇ、どっちが似合うと思う?」

走りながら、語尾を跳ね上げるような声でリンコは問いを投げ掛ける。両手に広げたコートはまるで、飛び立つ翼の様にも見える。

「いや分からないよ?鏡の前で合わせてからにして!?」

鏡の前で両足にブレーキ。左右のコートを姿見に映る自分に重ね、体を捻ってみるリンコ。

「ねぇ、試着はしてみないの?」

「してみたいけど、この上に着たら土埃で汚れちゃう!

……うーん、これは……どっちも違う!」

2着のコートを元に返して、あちらこちらと理想の服を探し出すまで。
黒とピンクのツートンカラー。淡い3原色と白い色。数多のコートを合わせては、更なる理想の服を求めて。

黄色いポッケの紫コート。

「この色好きかも!……でも違うなぁ。」

ピンクのファー付き、緑のコート。

「これは何か、カメレオンみたい。好きだなぁ、うーん、でももうちょっと!」

青と白と藤色のグラデーションの……

「あぁっ!」

リンコが大声をあげて立ち止まる。

「んん!?どうしたのさ、いきなり!」

驚いて声をあげるカメレオン。

そしてカメレオンへの返答というより、独り言の続きに近い言葉をリンコは叫ぶ。

「そうだ!あたしの持ってたお人形、夏服だったんだ!」

「夏服?」

「そう!あたしのお人形には着せ替えが無くて、コートとかはいつもお姉ちゃんのから借りてたの!
……だから、あたしが欲しい服は、夏服!」

手に持っていたコートを元の場所へと掛け直し、タタッ、タタタッ、と店内を駆けて探し始める。

また頭の中で揺すられて、カメレオンは少し諦め気味に問いかける。

「流石に、季節的に無いんじゃないかな?」

「そうかもだけど、探してみなきゃ分からない!」

リンコの答えは、どこまでも前向きだった。

コートの並ぶ棚の裏、こっちはマフラー、その先は帽子。
ビビッドな色のエリアには、夏服の用意は無いと分かってくる。

……それならば。リンコは自分の趣味とは違った方の、大人しい色のエリアにも偵察の足を延ばしていく。

「こっち……、にも無い、その後ろは……、あぁ!さっきも来たとこだ……」

店の奥の棚の裏、マネキンの並ぶ壁の隣でリンコはガクン、とうなだれる。立ち止まり、上半身を前へと倒し、肩でゼェゼェと息をする。

「最後の最後で……。リンコ、惜しかったよ……」

カメレオンの声は、どこか申し訳なさげな色を帯びている。

少しずつ切らしていた呼吸が戻り、リンコはゆっくりと視線を上げていく……

……その目に、1体のマネキンの襟元が捉えられた。

「惜しかった、かな……?」

「……ん?」

リンコは、マネキンの着ている紺のダウンジャケットのジッパーに手を伸ばす。

「あなた、最初に言ってたでしょ。自分は詐欺師だって。
……だからその言葉だって、本当かもしれないし、嘘かもしれない。」

ジッパーが、ズゥーッ、と下ろされる。襟元に僅かに見えていたパープルピンクのシャツは、胸元にはV字のミントグリーンの模様、そして腹部辺りから藤色に移り行くグラデーションに、更に水色のペイントのような……

……外国産の菓子のような、いくつもの絵の具を混ぜ合わせたような。冬物のコートに隠されていたTシャツは、その目を射抜くような色彩を露にした。

「…………!」

リンコの、動きが止まる。顔には、満面の笑み。

(探し当てた……!)

おいおい嘘だろ、とカメレオンが両目を揃えて大口を開ける。その色彩は、カメレオン自身の鮮やかさを吹き飛ばす程の……

……そしてリンコの思い出にある、あの憧れの人形すらも吹き飛ばす程のビビッドだった。

(試着してみたい……!)

自分の服の襟に手を掛ける。

(これ脱いじゃうなら土埃は関係ないよね。)

(あれ、試着室どこかにあったっけ、どこだっけ。)

リンコの思考は、つい数時間前ではあり得なかった速度で回り出す。

(……ん、あれ?マネキンのシャツってどう脱がせれば……?)

その思考は数秒か、或いは数分だったのか。この色の服に身を包みたい。その思いがリンコの意識を集中させた。

(このお洋服、何だか、あたしが "自分" になれる気がする……!)

そして……






「……おい!右!」

カメレオンの言葉で、ふと我に返る。

「み、右、え……!?」

右を向いたすぐそこには、ついぞ存在を忘れていた "危険なオブジェクト" 。

(ま、マズい、着たいのに、逃げなきゃ、あぁこんな所で……!)

宙に浮かんだ頭だけのドラゴンが口を開く。

「私の名は……」

「おい!いたぞ!!!」

入り口からの大声と、何人もの激しい足音。

「確保しろ!!!総員、プロトコル"鬼呪"だ!!!」











そして、リンコは "機動部隊" に連れられて細い通路を歩いていく。リンコの左右を固めるように、左に5人、右に4人。重そうな装備に身を包んで。しかし辛さの欠片も見せずに歩く彼らは、きっとこの場所を守る要なのだろうとリンコは思った。

(結局、着られなかったな……。)

リンコの服は相も変わらず灰色のまま、カメレオンも、気配を察知されたくないのかすっかり黙りこくってしまった。

渋い色の装備を身につけた "機動部隊" 、 "シェルター" へと向かうのだと彼らは言った。それ以外は、オブジェクトであるリンコに聞かせないためか、努めて黙っているように見える。
灰色、白、白、灰色。また色の無い通路を抜けて。

……やがてたどり着いたのは既に瓦礫に覆われたスペース。右にいた1人が瓦礫の中に壊れず残っていた入り口の横の、数字の書かれたボタンに手動でパスワードを打ち込むと、扉が開き、階下へと続く暗い階段が現れた。重武装の彼らに今度は前後を挟まれて、何階分ほど降りただろうか、ランタンが無くとも明かりに照らされた、広いスペースに出た。広くて明るいこと以外は、数時間前までリンコが、灰色の少女がいた "部屋" とこのシェルターはそう変わらない。その中に、ざっと20人位の白衣や武装にそれぞれ身を包んだ人たちが、血を流して座り込んでいる。

「頭部、回収しました。」

"機動部隊" の内リンコの前にいた1人が、手にぶら下げていた猫の頭を1人の男に差し出して言う。

「あと、Anomalousのランタンも1つ。」

「……えーと、分かりました。が、新米エージェントに言われましても……、うん、まぁ、そうすか。」

自分を "新米エージェント" だと言ったその男は、男性にしてはちょっとだけ長めの髪を弄りながら端末を取り出し、画面を "機動部隊" の隊員に見せる。

「……多分コイツの頭ですよね。名前を言ってはいけないやつ。或いはタマサブロー。

……で、そっちの子が、 "ラベンダー" の狙いの双子の片割れと。」

「そうです。で……動けそうな人員の人数は?」

「それがですね。ご覧の通り怪我人ばかりでして。」

「うーむ……。」

辺りを見回す機動部隊員。

( "ラベンダー" ……?)

そしてリンコもまた、苦悶の声に満たされたシェルターの中を見回した。
本当に、沢山の人たちが辛そうな息遣いで傷口を押さえているのが分かる。白衣を着たポニーテールの女は、右目を押さえて呻いている。

(…………)

リンコの中では感情が上手く纏まらず、視線は負傷者1人1人の、上をなぞるように滑っていく。

全身プロテクターで銃を抱えた男は、咳き込む度に血を吐き、その隣では眼鏡の男が、白衣の右手を赤く染めている。

(あたしが、喜んでる間に……)

(でも、だけど、あたし本当に嬉しかったんだ……)

曖昧な思考はリンコの中をただ流れ、尚も視線は呻く人々の上を滑っていく。

(あの服、着たかったな……)

何人かは完全に床に倒れ込んでいる。白衣の人たち、武装を身に纏った人たち。

そしてまたその倒れた中には、リンコと同じ灰色の服の……

……そう、灰色の服の。

リンコは一瞬遅れて、その目に映ったものの意味を理解し始める。

(……え?)

リンコの視線の先にいるのは、蜂のような、見覚えの無いパーツを備えた少女。しかし、それは自分とそっくりなスズネだと気付き、リンコの思考は一気に形を成していく……

……駆け出そうとするリンコ。

「あ、おい!」

後ろから機動部隊の男の声が聞こえ、リンコは肩を掴まれる。その力は片手だというのに恐ろしく強く、リンコは容易にその進行を阻害された。

(スズネが目の前にいるのに……!)

(漸く、漸く会えたのに……!)

シェルターの無機質な壁の隣、リンコはあまりにも無力であり……

「……あー、失礼、新米エージェントの戯れ言なんですが……、その子には、姉を担いで逃げてもらった方が良いのでは?」

そのリンコに味方するかのように、新米だという男の声が背後でする。

対するは、リンコを掴む隊員の低い声。

「新米さんよ……お前頭でも打ったのか?」

「ええ、さっき思いっきり。で、思うわけですよ。その双子がタマサブローの二の舞になったらたまったもんじゃないと。」

「…………」

男はただ感情でリンコに味方しているのではない。短い言葉、しかしそれはそれで一応一理、筋の通った理屈。

リンコを掴む機動部隊の男の手が少し緩んだ。が、完全に離すことはせず……

「分かりますよ。ま、離せないですよね。下手したら免職ですから。」

"新米エージェント" の言葉の通り、やはり男はリンコを離しはしない。

「……ところがね、既に免職確定の奴がいるんですよ。オブジェクト、双子の姉の方に通信全部聞かれちゃいまして。だから……

……私があなたの手を蹴り上げます。」

「お前は何を……


……あぁ、そうか。……好きにしろ。」

パフッ、という音がして、
……その後一瞬の間を開けて、男はリンコを掴む手を離した。









プロトコル"再接合鬼呪"

背景: 現在、竜の形態をとったSCP-774-JPが "ラベンダー" の制御下にあると見られ、プロトコル"鬼呪"は無効であることが判明している。この無効の原因は2通りの仮説が考えられ、それらはそれぞれ

1. SCP-774-JPの頭部が切断されており、無効の原因は現在の当該オブジェクトに聴覚が存在しないためである

2. SCP-774-JPは "ラベンダー" の制御下にあり、無効の原因はこの "ラベンダー" によるコントロールのためである

というものである。

内容: 現在活動可能である9名の機動部隊、並びに1名のエージェントが参加し、内1名がSCP-774-JPの頸部切断面に接近、 "タマサブロー" の頭部を押し当てて接合した後プロトコル"鬼呪"を実行する。仮に効果が見られない場合、続けて "ラベンダー" とSCP-774-JPを接合しているコードを手動で切断、若しくは除去する。


「これで上手く行くのかどうか……」

「やってみるしかないでしょう。」

「切断面に、そもそも近付けるのか……」

9人の機動部隊員が、それぞれに話し合っている。

「押し当てて接合、可能でしょうか?」

「元が液状生命体ですし、再生能力も確認されてますから可能であると踏んでます。」

その声を背後に置き去りにして……

(間違いないよね、スズネ、スズネだよね……!?)

……リンコは、蜂の特徴を備えた少女の元へ駆け寄る。

スズネ。いつだって一緒にいる筈だった、リンコと同じ顔をした双子の姉。バラバラに "収容" されるまで、2人はいつだって一緒だった。

床に横たわったスズネはリンコに気付くと、一瞬ふっ、と優しく微笑み、しかし苦痛と不安に苛まれた、そんな表情で左手を伸ばす。

「……スズネ!スズネお姉ちゃん!」

(やっぱりそうだ……!)

……リンコはスズネの左手を握る。両手で包み込むように。

辛そうな息をしながら横たわるスズネを、灰色の服のリンコが見つめる。

長い時を引き離されて孤独に過ごし、色褪せた記憶の中でしか会うことも叶わなかった姉妹の再開。しかしそれは、苦悶に満ちた惨劇によってもたらされた副産物。そこには、暗く不安定な空気が同居していた。

灰色の壁、固く冷たい地面。

そして両手で包んだスズネの手を、自分の胸に押し当てるリンコ。

(スズネ、震えてるの?……怖いの?)

リンコの視線は、微かな振動を続けるスズネの瞳に向けられる。

彼女のその目は、漸く再開叶った姉の目は、恐怖の色に揺れ続け……

十数秒の呼吸の後に、スズネはその口を開いた。

「リンコ……。リンコは、聞いた……?」

( "聞いた" ?聞いたって、何を……?)

困惑気味のリンコに、スズネがその言葉を続ける。

「…………リンコ……私ね……、またあの人に会ったの……私たちを狙ってるのは……」

……スズネの左手は、やはり小刻みに震えている。
反対の右手には包帯がグルグル巻きになっており、リンコと同じ灰色の服のあちこちに赤茶色の染みがある。
そしてこの灰色のシェルターの中で、彼女は恐れを抱いて震えている。

「顔は、見えなかった。でもゴーグルの中の目を見たの。私を真っ直ぐに見据えてて、でも、虚無みたいな目をしてた。」

(あの人……? "あの人" って誰……?)

リンコには、それが分からない。しかし、隠すことも、振り切ることもできない不安が間違いなく、深々とスズネの中に巣食っている。

「教えて……。スズネ、 "あの人" って……?」

リンコの問いに、

「そっか……、それならいいの。」

スズネはふっと目を伏せた。

「覚えてないくらいなら……」

そして彼女の小さな声は、「ちゃんと、リンコちゃんのこと護ってあげられた」と呟く

スズネの不安……しかしその状況が、リンコにも不安の種を齎す。
スズネを、姉をここまで怯えさせるもの。スズネが "あの人" と呼ぶそれが自分たち姉妹を狙って、この惨劇を作り出している。

それでいて、リンコは今や空っぽではない。

(少しでも、少しでもスズネを安心させてあげなくちゃ……)

リンコはそう考える。1つ1つ単語を探して、その言葉を紡ぎ出す。

「……大丈夫だよ、きっと。……上手く言えないけど……」

リンコには、それまで幸せを掴むことに対する確信のようなものがあった。しかしそれは考える程に頼りなく、そして僅かずつ、揺らいできている様にも感じられた。

それに。

自分には分からない "あの人" に怯えるスズネが、今こうして、漸く巡り会えたスズネが、どこか遠いところへ行ってしまう様な気がして。

(上手く言えないけど、世界は本当はもっとカラフルなところなんだから。こんなの悪い夢か何かだよ……)

……そう絞り出す様に言いかけて、リンコはふと目を伏せる。

カラフルな世界。

それをスズネに何と説明すれば良いのか。
リンコ自身は、例え一瞬の夢のような幸せであったとはいえどそれを見た。

……しかし。

目の前で苦痛と共に横たわり、不規則な息をつくスズネがこの数時間の間に見たものは、きっと同じものではない。今だって、周囲に存在するのは灰色のだだっ広いシェルターと、苦痛に悶える負傷者たち……

(でもお姉ちゃんにも……スズネにも、あの世界を見せてあげたい……)

それが、今のリンコの願い。

だから。

だからこそ。

「教えて……」

「え……?」

「その、 "あの人" のこと、あたしにも教えて。そうじゃなきゃ、折角会えたのに、スズネがまた、遠くに行っちゃう気がして……」


そして。

スズネは不安げな、しかし覚悟や安堵、複数の感情が混ざった複雑な表情を浮かべて、やがてリンコにその答えを告げた。

「うん…………ラベンダーは……、私たちを狙ってるのは……、

……私たちの、お母さんなの……」


そう言い終えたスズネの目は、リンコを見据えながら揺れている。



……そうか、とリンコは思う。
同じ日、同じ場所、僅かな時間の違いで産まれた "お姉ちゃん" 。そのスズネが今も昔も、母親から自分を守ってくれていたのだと。




そしてリンコがスズネに掛けた言葉は……

「……きっと大丈夫。あたし、上手くやれるよ。」




面長の顔。振り上げられた右手。
昔みたいに自分だけが庇われて、スズネを傷だらけには、もうさせない。








ザリッ、ザリッ。

靴の下、瓦礫から出た細かな砂利を踏みしめて、リンコとスズネに近付いてくる男が1人。

「この "タマサブロー" というオブジェクト、人間に名前を付けられるとそのまま、その名前通りの存在になってしまう訳でしてね。」

リンコの隣、件の新米エージェント、 "エージェント・猿児" がしゃがみこむ。

「後はここにも書いてある通りの手順でなんとか。しかし1つ問題があると。

あー、まずは手順についてか。」

手書きの暫定プロトコルの紙を片手に、猿児は言葉を続け、その概要を掻い摘んで語り始める。

リンコとスズネが、その視線を彼へと向ける。複雑な感情を宿した視線と、そして困惑に揺れている視線。

「え……?」

スズネのか細い声。

そして、続けてリンコが問いかける。

「なんで、私たちにそれを……?」

リンコの問い。それは当然の疑問であり、無数の疑問符がリンコの脳裏に突き刺さる。

「君たちには、他でもない君たち自身に、今目の前に鎮座している問題を認識して貰わなければならない。」

……エージェント・猿児はそう言った。

「それが君たち、SCP-████-JP-1、2の存在だ。ラベンダーの言葉を聞けば……、分かるかな?」

沈黙。僅かに動いた猿児の足元、ジジリ、と砂利の音が鳴る。

彼は何を言っているのか。リンコに更に疑問符が刺さり、疑問の声が口を突く。

「えっと……それって……?」

……スズネの震えが強くなる。彼女は既に何かを察した。

少し視線を落とした猿児。その口から、残酷な一言が発される。

「……君たちが、第2、第3のタマサブロー、危険なオブジェクトになりかねない。その暗示の内容によってね。」

「えっ……?」

頭の無数の疑問符を、粉砕するような衝撃。

第2、第3のタマサブロー。

リンコの口から、反射的に発されたのは言葉の形にならない声。

シェルターの床についたリンコの手の下、細かな砂利の音がズザリ、と鳴った。

「危険な……オブジェクト……」

"タマサブロー" というそれは、つい今しがた聞かされた、今正に暴れているという凶悪なオブジェクトではなかったか。

猿児がそこに言葉を返す。

「ラベンダーは君たちを狙っている訳だ。その過程でもし君たちが、何か危険な暗示を与えられたら?
……流石にあのドラゴンみたいなヤツを、追加で2体は相手にできない。」


(…………。)

自分の服と、スズネの服の灰色が目に入る。リンコの頭が大きくうなだれ、視線を真下に落としたせいだ。

(…………第2、第3のタマサブロー……)

(…… "あのドラゴンみたいなヤツ" 、を……)

リンコの、そしてスズネの異常性。それを再認識させられる。

「異様に暗示にかかり易く、またその暗示の影響が身体にも表れる」。

カラフルな世界を見てきたとても、決意を新たに固めたとしても、それ自体には何ら変わるところはない。今もリンコは、そしてスズネも、この異常を抱え続けている。

(結局、何も変わらないってこと……?)

砂利の上の手。無意識に、その砂利を握りしめるように指が動く。

"スズネは事態の収拾のために尽力して負傷した。"

"今度は君が、スズネを連れて逃げるんだ。"


そんな言葉が、リンコの頭を通り抜けていく。

(そっか……)

(そういう事だったんだ……)

「模範的で、協力的なオブジェクト」であると与えられた暗示。

スズネは、それに忠実に従ったのだ。

そしてそれは恐らく……

(……そういえばあたし、 "機動部隊" から逃げようともしなかった……)

リンコはドラゴンの生首に睨まれた後、 "機動部隊" の言葉がそれを猫の首へと変えるのを、ただ棒立ちで眺めていた。

逃げたところで、逃げ切れたかは分からない。逃げ切れる訳が無かったかもしれない。

……しかし、「逃げよう」と思考することすらしなかった。

つまり、 "それ" はリンコも同じ。

(……だからきっと、あたしたちはこの "異常性" から逃れられない…………)









……次の瞬間、轟音と共にシェルターの電灯が消えた。それでも部屋は明るいが 、それはAnomalousのランタンのせいだ。例え灯りがあろうとも、憂うべき事象に変わりはない。

「何事だ!」

「シェルターの予備電源が、物理的にやられた模様です!」

続けて、シェルターの足場に揺さぶられるような縦揺れの振動。地面から足が浮き、前のめりに地面に叩きつけられる。

リンコの思考は、かき乱されたまま……

「近付いてます!」

「どのオブジェクトだ!」

「分かりません!最悪の場合、これ以上陣形を練れないままに……」

……そしてシェルターの屋根の片隅が開かれる。

「その双子は私の子だ……!!!!私の元にいるべきなんだ!!!!」



「………… "最悪" が来たな。」

機動部隊のリーダーの声。

「総員、プロトコル"再接合鬼呪"だ!!!」



(結局、あたしはどうすればいいの?)

揺れる地面に両肘を突き、空虚な黒に掴まれたように、リンコは止まったままだった。
その両頬を涙が伝う。

「おい!早く!早く逃げろ!!!」

……猿児の声が頭の上を通り過ぎる。

"機動部隊" が銃撃を開始した音が、シェルター内に大音量で響く。

リンコの思考は止まったまま。

「……怖いよ。」

震える声。

(そっか、あたし、怖いんだ……)

リンコの思考が、言葉に遅れて着いてくる。

「……怖いよ……」

(怖いのは何?あたしは、何が怖いんだろう……)





「リンコ、私、怖いよ……」


(…………!)


違う。違った。

これは、これはスズネの声だ。






リンコの思考が動き始める。


スズネは、こんな惨劇を、こんな恐怖を前に戦って。

スズネは、自分がこんなにも怯え、ボロボロになるまで戦って。

そして、今そのスズネを、姉を助け出せるのは、他ならぬ自分しかいないじゃないか。

(……だから、逃げろ。)

自分で自分に命令を下す。

(これは他でもない……、あたしの意思だ!!!)

その思考がリンコを跳ね起きさせた。

左手を自分の肩にかけ、自分の右手で腰を支えて。姉と共にそれから逃げる。

(これだって結局は、本当は暗示のままかもしれない。)

でも。

(……でも今はスズネを護る。そのためなら構わない!)

シェルターの入り口の階段を登って。瓦礫の散らばる間を縫って、 "ラベンダー" からスズネを護る。

(できるだけ。できるだけ狭くて目立たない方へ……!)

できるだけ狭くて目立たない方。それが選んでいく道の基準になった。

X字の鉄骨で補強された柱が並ぶ廊下を抜けて、「非常時のみ使用可」と書かれた金属の扉を開いてその先の螺旋階段を登る。

金属色が剥き出しの階段の上に、灰色の服をはためかせ。
下の方から響いてくるのは、銃声と、コンクリートの崩れる音か。

「スズネ、大丈夫……?」

(あんまり速く走ったら、スズネの傷が痛むかも……)

リンコに震える肩を預けて、スズネは確かに着いてきていた。

(脚だって痛むはずなのに……)

「大丈夫……。」

息の混ざったスズネの声。それでいて、少しだけ震えた声。

「今は、リンコに全部を託してる、から……」

ランタンは持ってこられなかった。或いはそれは、機動部隊が携帯して行ったのかもしれなかった。

2階分程登った所で、幾つもの扉の並ぶ、グネグネとカーブした通路に出る。
……まだ少し、少しだけ電灯が消えずに残っている階を選んだ。

(大丈夫。逃げ切れる。)

スズネを庇いながら走る。

走り抜ける通路の側面、低脅威度物品収容庫と書かれた扉が目に止まる。

(収容庫……

……収容室…………あたしたち、またきっとバラバラに、元の部屋に戻される……。

……でも。例えそうだって。)

例えまた、あの部屋に "収容" されたとしても。

(微かでも、2人で未来を夢見たい。だから……)

スズネの頬に、自分の頬を重ねる。
一瞬視線をスズネに向けて、そしてリンコは前を見据える。

(逃げ切って、逃げ切って、それで部屋に戻される前に、精一杯、ずっとずっと2人でお話するんだ……!)

少しだけ緑がかった白の、緩いカーブを描いた通路を進む。

リンコの涙は、走るリンコに当たる風に吹かれて散らばっていった。

そして、通路を曲がっていくと……




轟音。

リンコは、スズネは、そのままコンクリートの塊と、折れた鉄骨と共に落下した。

痛む体を起こして、少し間があって段々と状況が分かってくる。2人は、足場を崩されて階下へと転落した。元から吹き抜けだったのか、それとも天井を何枚もぶち抜かれたのか、縦に5階分はあろうかという広大なスペースの中央に、その存在は鎮座していた。

首の無いドラゴンに乗り、名前通りの色をした機械的な甲冑に身を包んで。

(あれが、ラベンダー……あたしたちの母親……)

"逃げなきゃ、スズネを起こさなきゃ" 、そう思考するリンコの鼓動は、バクンバクンと痛いほどに跳ね上がる。

「スズネ……、スズネ……」

リンコはスズネの上体を抱き上げ必死に呼び掛ける。

……動かない。スズネは、彼女の姉は目を閉じてぐったりとして。

(……嘘、そんな……)

リンコの思考を、絶望の黒が覆いかけたとき……

「生きてるよ。」


頭の中からの呼び掛け。それは再び頭の中で動き始めたカメレオンの声。

「落ち着けって。まだ温かいじゃん。」

ずっと黙りこくっていた詐欺師は、冷静な声でリンコに告げる。

(……そうだ、冷静にならなきゃ。)

詐欺師の言葉は嘘か信か。
リンコはスズネの身体に触れて、その心臓に手をあてる。

トクン……、トクン……、

(……嘘じゃない。)

絶望の黒が晴れる。辺りは灰色どころか瓦礫の惨劇。だが、まだ希望は消えてはいない。

リンコはゆっくりと顔を上げ、ラベンダー色の甲冑の母親、その母親が駈る首なしの竜、そしてそれらに立ち向かって行く機動部隊とエージェントをその目に収めた。

(みんな、みんなこの場所を、そしてあたしたちを護るために戦ってるんだ……!

それは間違いなく事実。それならあたしだって、必ずスズネを護らなきゃいけない……!)

1人の機動部隊員が遥か上の階の足場から、銃を連射しながらドラゴンへと向かっていく。

しかし彼は前足で払い除けられ、鉄骨が剥き出しになった壁面に叩き付けられた。そのまま8m程落下して、地面に叩きつけられる。

リンコは気絶したままのスズネを抱えて……、

(……あたしの役目、スズネを連れて、逃げ切らなきゃ……!)

リンコの視線は周囲をグルリ、逃げ場となるべき道を探す。

……しかし。

前方には首なし竜の背中がそびえ、左側には行き止まりの壁。背後には瓦礫の山があり……

……唯一開けた右側も、別の部屋へと至る通路ではなく、この広いスペースで唯一通れる扉は、ラベンダーの向く方向の前方にあった。

(考えろ……!あたしは考えられる筈だ…………)

リンコは頭を抱えながらも、その思考をフル回転させていく。視線の先には遥か上方、こちらに気付かず背中を向けた "ラベンダー" 。

(…… "ラベンダー" は、母親は、あたしたち2人を狙っている……)

リンコの思考は真っ白に、なりかけたまま回り続ける。

……すると、カメレオンが、またふっと口を開いた。

「へぇ、じゃあむしろこの "ラベンダー" 、ってのに着いていけばここから出られるんだ。」

……無責任な言葉。

( "ラベンダー" は、あたしたち2人を狙ってる……だからソイツに着いて出る……)

……しかし。

(…………そうだ、これは詐欺師の言葉……。
……この言葉、嘘かもしれないし、本当かもしれない……)

リンコの思考は、また明瞭な形をとって動き出す。




……母親。

……この惨劇を引き起こし、沢山の負傷者を出し。

……死者だって、オレンジの男1人だけではないだろう……

……それに、それに何よりも。

(アイツは、スズネのことをこんなになるまで傷付けた……!)

リンコはスズネを横たわらせ、その場に強く足を踏みしめて立ち上がる。

「今の言葉、間違いなく嘘!」

カメレオンの目が、片方だけちらりと動く。

「だけど、だけど!……いくら詐欺師でも、時には本当の事も言うよね。」

「……ん?それがどうかしたの?」

カメレオンが意図を読みかねた様に、不思議そうな声で尋ねる。

「あなたが自分を詐欺師だって、そう言ったのはあたしに暗示をかけないためでしょ。

……でも、でもお願い、最後に1つだけ、1つだけあたしに暗示をかけて!」

リンコはスズネをその場に置いて。右側、斜め前方へ、 "ラベンダー" の視界に収まる方へと走り出す。

「おいおい待てよ!やり合ったって勝ち目はないぞ?」

「分かってる!でも騙し討ちならいける筈!だから、……暗示であたしの耳を聞こえなくして!」

そう言いながら、リンコは竜の足元ギリギリ、右足の隣に駆け寄っていく。

「おい!何してるんだよ!お、うぁああ!!!」

竜が方向転換を試み、右足がリンコの頭上に上がって落ちてくる。

「避けろ!!!」

悲鳴に近いカメレオンの声。リンコは散らばる固い瓦礫の上に自らの身を投げ出す様に飛び込み、竜の足はその2m程隣へと踏み下ろされる。落とされた巨大な足から押し出される風が灰色の服をバタバタとなびかせ、舞い上がる粉塵にリンコは思わず目を瞑る。

そして次に目を開けたとき……

「あれは……、成る程、そういう事か!」

カメレオンの叫び声。
彼はリンコが目を開けたとき、その視界に入った毛玉を認識し、彼女の意図を了解した。

"タマサブロー" の頭部。竜の右足のすぐ近く。あれを踏み潰されたら一貫の終わり。そして転がった猫の頭を、拾い上げに来る隊員もエージェントもいない。

「あれを拾ってラベンダーの元に、その言葉を聞くことなく近付いて……、

……リンコ!そういう事だな!」

「そう、だから早くあたしの耳を!」

強い声でリンコは叫ぶ。

「いや暗示なんて必要ないよ。 "ルー・ウィンドスの9事例論文" って聞いたことない?」

カメレオンから、訳の分からない言葉が放たれる。

「聞いたことない!今そんなこと……」

「リンコ!」

カメレオンの一喝。

「有名な論文に載っているんだ。僕みたいなタイプのImaginanimalは、人の頭の中に入るイメージを好き勝手に "ポイ" できるってね。」

何を言っているのかと、リンコは混乱し始める。

「……ポイ?」

「そう。見えたり聞こえたりする筈のもの、それをポイっと捨てて無くしてしまうんだ!
これは脳内ニューロンの、ダラメタ受容体に介入する事で可能となる……!」

「難しくて分かんない!」

「あぁそれでいい。ただこれだけ理解すればいい。僕は僕自身の能力で、君の聴覚を消すことができる!!!」

(…………!)



静寂。

……いや、目の前に広がる光景は、尚も轟音を立てている筈の粉塵と銃撃の様相を呈している。

(カメレオンが、あたしの耳を……!)

首なし竜の右足が上がる。この一瞬で、勝負をかける。

「あぁぁぁあああぁぁあぁぁぁぁあ!!!!!!!」

自分には聞こえない大声と共に、リンコは駆け出し、スライディングをするかのようにその足元に滑り込む。

伸ばした右手に "頭" を掴み、左手と右足で体を起こして跳び跳ねるようにその場を離脱する。

……リンコの隣1m、そこに竜の右足が落ちた。

残ったエージェントと2人の機動部隊員の元へ、自分から見て左側へと進もうとするラベンダーの背に、声の限りに呼び掛ける。

「あたしは、あたしはここにいるぞ!!!!」

ドラゴンの脚がズシン、ズシンと地を踏み鳴らして、ラベンダーがリンコの方へと向き直る。左右に伸ばしたラベンダーの手は、やがてその右手だけが前方へと突き出される。

……リンコに右の掌を向け、ラベンダーは、今ハッキリと、リンコの声と姿を捉えて何かを叫んだ。

「        」

リンコには何も聞こえない。しかしきっと、ラベンダーは今何かを言った筈だ。

「あたしは、そうだよ、勿論ここから出たい。でも……」

内容は出任せでいい。何としても会話を繋ぐ。

「        」

ドラゴンが身を屈めて、切断面とラベンダーが近づいてくる。ラベンダーは両手を奮い、上半身を大きく揺らして何かを叫んでいる様だ。マスクの口元が動いて、今度は何かを言っているのが目で見て分かる距離まで来た。

「でもどうして?あたしには分からない。だから聞かせて。」

「        」

ドラゴンが完全に前足を付き、床に伏せた。ラベンダーが両手を開き、リンコの方へと差しのべるように伸ばしてくる。
……その後は一瞬だった。リンコは、 "タマサブロー" の頭を両手で、力の限りドラゴンの首へと押し当てる。 "タマサブロー" の目が開く。リンコは肺腑に大きく息を吸い込み、自分には聞こえない声で、限りない大声でその名を叫んだ。

「タマサブローーーー!!!!!!!!」






















「……実感無いなぁ。」

最近辺の財団フロントの病院で負傷した頭部の検査を終えて、エージェント・猿児は処分通告書を片手に今回の事件を思い返していた。……少し長めの髪を弄って。

何でも、サイト-81██はこれからも存続するのだそうだ。

確かに、猿児たちの居た西側の一角は壊滅的な被害を受けた。しかし渦中でも復旧が間に合っていた西側以外のブロックは、まだ何とかなっていたらしい。

「……自分達だけ隔壁閉鎖ですか。」

処分通知を喰らった男。彼はゆっくりと窓枠にもたれ、ガラスの窓に背中を預け。

「うーん、まぁ、しっかしなぁ……。」

西側方面が大変なときによくもまぁ……、と思いかけるが、しかしそれは不適切な考えだなと、直後に頭を振って打ち消す。

システムを復旧させて隔壁を閉じ、それ以上の収容違反が起こらないように対策を講じる。それだって、あの惨劇を広げないために間違いなく必要な職務なのだから。

……まぁ、その隔壁も、あのラベンダーが止められなければ容易にぶち破られていただろうな、と猿児は思う。

「……そうだ、ラベンダーといえば……」

猿児の思考は、リンコとスズネの方向へ向く。

「……私は言ってた内容聞いたが、あの双子には言えないな……。」

ラベンダーが、最後に言っていた言葉。何も聞こえていないリンコに、あの時言っていた言葉。





「私はあなたたちを助けるためにHEROになって!そのHEROを裏切ってまであなたたちを助けに来たのに!
どうして私を拒絶するんだ!!!」

「リンコは、リンコはいい子よね?スズネとは、スズネなんかとは違うわよね……!????」





リンコの発した言葉との、会話にもなっていなかった。
醜いもんだ、と猿児は溜め息をつく。

「……うん、まぁ、もう会って話す機会も無いか。」

そうだよな、うん。と背中を伸ばし、窓から離れて歩き出す。

まぁでも、サイト-81██はこれから大変だろうな。なんせ……

……西側以外は何とかなった、そうは言っても損傷が無かった訳じゃない。
それにかなりの人員が、手遅れになった西側一角で深手を負ったり帰らぬ人に。

そんな訳であるからして、サイトの復旧の必要に加え、人員の損失による人手不足が凄まじいらしい……

……だからこその "これ" なのだろう。

処分通告書

エージェント・猿児を、向こう1年間の減給処分とする。




その後、目を覚ましたスズネと、あたしは少しだけ、ほんの少しだけお話ができた。

スズネの安堵した声、そして優しい色の目を、あたしはしっかりと見届けた。

……それに。






「……つまり、君の希望はしっかりと、スズネにも伝播したんだね。」

カメレオンが、またまた目をグルリと回しながら言う。

「うん。だから、あたしたち、きっといつかまた2人で笑える。」

「そっか……。」

しかしカメレオンも策士である。あの時リンコの聴覚を消した「ルー・ウィンドスの9事例論文」とやらはデタラメで、結局のところ単なる暗示だったらしい。

暫しの間を空けた後、カメレオンがまた口を開く。

「僕も姐さんと同じように、僕の世界全てを君に見せてあげたいんだ。」

「姐さん?」

「うん。スズメバチのImaginanimal。僕の姉貴分なんだ。 "あの子には妹がいるから探してあげて" って、僕に言ったのも姐さんなんだよ。」

……彼と同じImaginanimalのスズメバチが、スズネの意識には同化していた。

それはスズネ自身からも聞いたし、スズネの身体の蜂パーツが、そのことをしっかり物語っていた。

「だから、僕は姐さんみたいに君の意識に溶け込んで。

……こうして話したりはもう出来なくなるけど、その分君の世界をカラフルにできる。」

そして、彼はいたずらっ子の様に目をチロっ、と動かし、

「……でも。」

そして、その先をリンコが続ける。

「それは本当かもだし、嘘かもしれない。」

「そう。……でも1つ、僕は君を気に入ったってこと、これだけは本当さ。」

……そして…………、

……そして、もう頭の中のカメレオンは話したり、目をグルグルさせたりはしない。その代わりリンコの肌にはパッチワークの様にカメレオンの肌が混ざって、この灰色の部屋の中で、その世界は少しだけ、カラフルになった。

いつかまた、リンコとスズネの2人がもっとカラフルな世界を見られるのか、それは分からない。

(……でも。)

(あたしは初めて、自分で何かを決めて動くことが出来たんだ。)

リンコはそれだけでも少しだけ、少しだけ夢を見ても良いような気がした




特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。