Walk in the closet
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33.1度のSへ

我々の文明は終焉を迎えました。我々はあなたの尽力を受けてもなお、運命を覆すことは叶いませんでした。お詫びとともに、尽きぬ感謝の意をお伝えしたく思います。つきましては、手遅れにならないうちに、お預かりしていたご息女をお返しいたします。帰路の案内人として、私の息子と、息子同然に愛したバスカーヴィルを付き添わせます。どうか──

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1

私の研究室に併設された仮眠室のクローゼットに入り、扉を閉めなさい。中に懐中電灯が置いてあります。扉を閉めたのちに懐中電灯をつけ、クローゼットの奥にある扉に入りなさい。くれぐれも、私が渡したであろう小型の機械を手放さぬように。

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少年は研究所内を懸命に走っていた。背後からは侵略者たちの怒号と破壊音が追いかけてきている。少年は、追っ手の迫る避難所から、一人逃がされたのだった。少年の父は最後にこう言った。

「研究所のクローゼットまで逃げれば安全だ。一人で行けるね。…あまりパパを困らせるもんじゃないよ。さあ、行くんだ。元気でな。」

研究所のクローゼット。父の秘密のクローゼット。少年はこれまで何度か父の研究所に遊びに行ったことはあったが、私室のクローゼットにだけは触ることを許されていなかった。

「やっぱり秘密の抜け穴だったんだ」

少年は思った。背後の破壊音はさらに近づいている。階段を登りきったとき、少年の心臓ははち切れんばかりに鼓動していた。少年はどうにか父の自室に飛び込むと、内側から鍵をかけた。"CLOSE"と表示されたボタンを押しただけなのに、幾つもの金属音が連続してやかましく響いた。少年はすぐさまクローゼットへと駆け込んだが、しかしそこにはただの白い壁があるだけで、抜け穴などは見当たらなかった。少年は慌ててクローゼットの中をあさった。部屋の外の破壊音が、さっきより近くから響いた。少年がひとまずクローゼットの中に隠れようとしたそのとき、床近くに「非常用」と書かれた一つの懐中電灯が設置されていることに気づいた。

──扉を閉めたのちに懐中電灯をつけ──

少年は手紙の内容を思い出し、落ち着いてその通りにすると、果たして何もなかったはずの奥の壁に、懐中電灯は金属製の扉を照らし出した。

「抜け穴だ」

少年は確信した。「クローゼットの扉を開けたら、この扉はまた消えるのかな?」という好奇心と疑問は、外から聞こえた恐ろしい声により掻き消えた。少年はきらきらと光る扉を開け、迷わず中へ飛び込んだ。

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2

最初の扉をくぐったそこは、寝室であるはずだ。そこには一人の少女が眠っている。我々とはすこし体の作りが違うので驚くかもしれない。しかし、父さんの大事な友人の娘さんだ。必ず起こして一緒に連れて行きなさい。女の子が警戒するようであれば、同封の写真を見せるように。

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少年が扉をぬけると、そこは病院のような匂いがする奇妙な場所だった。「これは多分手術台だ」と少年は思った。そこに、一人の少女が寝かされていた。しかし、少年がこの生物を「少女」と認識することは難しかった。少年がこれまで見たこともない生物の「少女」は、指が少年よりも1本ずつ多く、肌もひどく乾いている様子だった。少年は躊躇い思った。

「こんなわけのわからない生物と一緒に行動できるのかな?」

しかし、少年の困惑は、少女の自発的目覚めにより中断された。

「……!?」

何事かをしゃべる少女、しかし少年は、その言葉を理解できなかった。明らかに少女は少年を警戒していた。それは少年も同じだったが、彼は手紙で言われた通り、同封された写真を見せた。1枚目は父の写真、2枚目は見たこともない生物──おそらく少女と同じ種族──の写真、3枚目は多くの記号が書かれた写真だった。少女はそれだけで全てを察したようだった。少年は少女に手を引かれ、部屋に設置された大型金庫のようなものに入り、クローゼットと同様に突然現れた扉を抜けた。

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3

少女の寝室の次の扉を開けた先には、バスカーヴィル、君の家族がいるはずだ。そこからは彼が導いてくれる。彼についていきなさい。離れないように、機械を手放さないように、注意しなさい。

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扉の先は、異常な場所だった。壁も天井もない。ただ広大な床が広がっていた。その床も、てらてらと見たことのない色の光を反射している。それは、傷ひとつない、見事な平面だった。

「……!」

少女が少年の肩を叩いた。少年が振り返ると、4足歩行する無数のずんぐりとした生物が、金属を引っ掻くような不快な足音を立てながらこちらに走ってきているのが見えた。少年は、とっさに逃げようとする少女の手を掴み、「安心して」のジェスチャーをした。少女にはそのジェスチャーの意味はわからなかったが、少年の落ち着いている様子を見て、彼が何を言おうしているのかを理解した。少年は、見たこともない不愉快な生物の集団の先頭に、同じく4足歩行で素早く走りよってくる、痩せ細った家族の姿を見つけたのだった。

「バスカーヴィル!」

声は異常な響きに変質し、しばらくあたりをさまよっていた。少年は駆け寄ってきた家族との再会を喜びつつも、不快な生物が足元を歩き回る嫌悪感を隠せずにいた。その生物はどことなく象に似た姿をしていたが、大きさは少年の腰程度までしかなく、肌はガサガサとして鱗とも樹皮ともつかない質感だった。鼻よりも尾がとても長く、燃えるように光る尾の先はとても美しかった。その美しさが逆に、生物の不気味さを際立たせていた。

「よかった、無事だったんだね」

声は誰のものともわからないほど絶え間無く変化した。少年はこの空間の異常さと子象に似た何かの気味の悪さから、早くここを離れたいと考えており、またその様子はありありと態度に出ていた。子象たちはしばらく少年と少女の周囲を嗅ぎまわっていたが、突然全員が首をもたげ、同じ方向を睨み、そして走り出した。その様子は象というよりも、まさしく獲物を見つけた猟犬のそれだった。

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4

そろそろ奇妙な生物にでくわしている頃だろう。機械は持っているな? なら大丈夫だ。君たちが最初に出会うであろう象に似た何かは、宇宙と時間の守護者だ。君や彼女は、本来その場所への侵入が許されない存在だ。しかし、その小さな機械が、君たちに一時的な許可を与えてくれている。機械を手放さなければ、彼らはむしろ君の味方だ。もし君を追って誰かがやってきたとしたら、早く次の世界へ行きなさい。誰であろうと、生きたまま貪り食われるところを見ようというのは悪趣味だ。

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叫び声が遠くから聞こえる中、隠された地下室の扉を抜けた少年たちは、またこれまでとは違う世界に来ていた。そこは建物の中らしく、切り出された木と丹念に編み込まれた草で作られた狭い部屋だった。そしてそこには、無数の生物が佇んでいた。特に何をするでもなく、ただ立っている生物というのは、それだけで不気味なものだった。それが、二本足で直立する青魚であればなおさらであろう。少年たちは生物の間を縫うようにそっと歩いた。生物は、明らかにこちらを認識していた。目が合う。目で追われる。しかし動かない。少年は、えもいわれぬ不気味さを感じており、少女も同じ様子だった。

不意に、背後から叫び声がした。一行が一斉にそちらを見ると、上下オレンジの服を着た人影が、悲鳴をあげていた。

「な、なんなんだよここは!こいつらは!」

少年はその人の言った言葉は理解できなかったが、意味はおそらくこんな内容だろうと推測できた。少年自身、この世界に来てから何度もそう叫びたいと思っていたからだ。

「あっ、おい、そこのやつら、お前らは魚じゃないな、ちょっと話を」

多分そのくらいまで話したところだろう。魚人間たちは一斉に彼の方を向き直り、ゆるゆると近づいていった。彼は悲鳴をあげ、座り込んでしまっている。わけのわからない言葉を叫ぶ声が、狭い部屋に響いた。

「急ごう」

少年らは彼を置いて先に行くことにした。魚たちは彼以外に興味を向けていないし、今のところ彼に対して敵意があるわけでもなさそうだった。彼が無数の魚人間に顔を覗き込まれるという恐怖と生臭さに耐えられれば、きっと生き延びられるだろう。

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5

君たちは幾つかの世界を超えて旅することになるが、その際、いくつか注意しなければならないことがある。

  • 機械を手放すな。君たちの肉体はその世界に適応できるかわからない。機械を手放せば、その瞬間に死ぬか、死ぬより恐ろしい結果になる。
  • 現地の生物と接触するな。君たちは機械により守られてはいるが、君たちから接触すればやはり危険だ。焼けた石をわざわざ摘むようなことはするべきじゃない。
  • 現地の水や食べ物を口にするな。どんなに喉が乾いても、腹が減っても、目的地に着くまでは口にするな。世界に捉われる。

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カビ臭い押入れの抜け道の先は、瓦礫の山だった。漂う強い腐臭の中を、何匹ものカエルのような生物が、二足歩行でウロウロしていた。

「やあ、あまり見ない顔だね」

不意に後ろから話しかけられ、少年と少女は飛び上がった。「このカエル、言葉が話せるのか」といった驚きを、少年は隠せなかった。

「うむ、その様子だと、次元旅行は初めてかい? 驚かなくていい。僕たちも旅行者なのさ。旅行者…植民者といったほうが正しいかな? 僕たちの祖先は、故郷の世界が滅ぶ少し前、この世界に移住してきたとされている。植民の際のゴタゴタの名残で、このあたりはまだ瓦礫なんだけど…今は概ね平和だよ。たまにこうしてやってくる次元旅行者を歓迎する余裕もある。よければ町に招待したいな、ぜひ寄っていってよ。おなかはすいてないかい? おいしい料理も用意しよう。」

少年は招待という言葉に少なからず興味を持った。異世界の町というのはどんなものだろう? 異世界の料理とは? 少年は行こうと主張したが、そのアイデアは即断で却下された。少女と、4本足の家族は、少年を強く叱責するような目で居抜き、その心に訴えた。少年はしぶしぶながら承諾し、先導されるままに、うつむいてまっすぐに歩いた。

「え? 来てくれないのかい? 残念だなあ。今日はちょうどちょっとしたパーティーがあるんだけどなあ」

「本当に来ないのかい? フカフカのソファやベッドもあるよ、すこし休んでいったら?」

「どうしても行くのかい? ならこの水筒をあげるよ。長旅には、ノドの渇きを潤すものが必要だからね。なんなら今少し飲んでいくといいよ。」

「飲まないのかい?」

「飲まないのかい?」

「飲まないのかい?」

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6

旅の途中では危険な奴らに会うことも多いだろう。しかし、見た目が危険なやつらは、ある意味良心的ともいえる。なんたってやつらは、見た目で「俺は怖いぞ、あぶないぞ、はやく逃げろ」と伝えてくれているわけだから。本当に危険なやつらは、いつだって優しい顔をしている。

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次の世界は森の中だった。周囲を少年の背丈くらいの大きさの動物が歩き回っている。

「シカだ」

8本足の「シカ」は、少年たちをゆっくりと取り囲むように歩いている。きっと、少年たちに何かしたいことがあるのだろう。おぞましい何かを。しかしそれはおそらく、小さな機械によって阻まれていた。父は常に、息子たちを守っていたのだった。

重力異常、空間歪曲、腕の沸き立つ沼、振動する死体、「こっちだ」と呼ぶ声、笑う老木。様々なおかしなものを超えて、少年たちは歩いた。ただひたすらに、まっすぐに。木々に遮られて陽光はうっすらとしか当たらず、森全体がしっとりとした空気に包まれていた。暑さは問題なかったが、それでも喉の渇きは歩き続ける少年たちにすぐに訪れた。

──現地の水や食べ物を口にするな──

一行は父の教えを守り、カエルの水筒がほしいとか、沼の水や葉に溜まった露さえ恋しいとか、そんなことを思いながら、それでも歩き続けた。

夜が来ても、眠ることは許されなかった。眠ろうという少年の提案は、少女に強く否定された。少年が渡した写真を示し、何事か必死に説いている。きっと眠ってはいけない理由が書いてあるのだろう。少年は少女に手を引かれ、時には4本足の家族に支えられ、フラフラと森を歩き出した。

朝が来て、夜が来て、また朝が来て、少年はついに倒れた。朝もやの中に、父に似た影がぼんやりと見えた。

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33.1度のSへ

我々の文明は終焉を迎えました。我々はあなたの尽力を受けてもなお、運命を覆すことは叶いませんでした。お詫びとともに、尽きぬ感謝の意をお伝えしたく思います。つきましては、手遅れにならないうちに、お預かりしていたご息女をお返しいたします。帰路の案内人として、私の息子と、息子同然に愛したバスカーヴィルを付き添わせます。どうか息子をよろしくお願いいたします。

バスカーヴィルはもともとこちらでもそちらでもない異次元の出自ゆえ、そちらの世界に適応できるかわかりません。もし生きながらえさせることが困難である場合は、献体として研究にご使用ください。彼も新世界の礎となるのであれば、さぞ喜ぶことでしょう。

息子はご息女をお送りしたのち、先だってお渡ししておいた黒い宝石のドアノブを与えて、門からお帰しください。息子には「隙間の世界」に住まうための術を余すことなく施しております。いつか我々が復興できる日まで、そこで息を潜めて待つことでしょう。お時間があればたまに手紙を書いてやってください。とても喜ぶと思います。

私はこの世界と運命を共にします。もう少しだけ、抗ってみるつもりです。この無限の平行宇宙の中で、あなたに出会えた奇跡に、心から感謝しています。

244.6度のS

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「なるほど。君のお父様のことは残念だったね」

「いえ、それが父の望みですから」

「そうか。よくできた息子さんだ。私の娘も君くらいしっかりとした人間に育つといいな。おっと、人間、というのは言葉のアヤだ、気にしないでくれ」

「わかっています。ところで機械とお嬢さんは大丈夫でしたか」

「ああ、機械の方は何の問題もない。助かったよ、これを作り直すのは、とにかく大変でね。ちゃんと持ってきてくれるか心配してたんだ。娘はさすがに疲れて眠っているが、健康状態は…変わりないよ」

「そうですか…父は医者として、お嬢さんの治療をできなかったことを、ひどく悔やんでいました」

「仕方がないさ。閉鎖宇宙に閉じ込めて治療法が見つかるまで時間を止めておくのがせいぜいだったんだ、その方法を教えてくれただけでも、私は感謝しているよ」

「そう言っていただけると、父も喜ぶと思います。では、私はそろそろ戻りますので」

「もう行くのか、少しゆっくりしていったらどうかね」

「いえ、私は物質世界に長く留まることができないのです。あちら側こそが、今の私の住処なので」

「そうか…元気でな」

「はい。あっ、あと、バスカーヴィルをよろしくお願いします」

「ああ。献体として、さっそくコールドスリープルームに運んだよ。手が空き次第、研究を始めよう。細胞の一つに至るまで、無駄にはしないことを約束するよ」

「では、お元気で」

そう言い残すと、244.6度のSの息子は、押入れに入り、その姿を消した。4足歩行の割に、器用に扉を開けるものだ、と33.1度のSは思った。旅人を見送った彼は、コールドスリープルームの窓を覗き、静かにつぶやいた。

「さて、バスカーヴィル少年、よろしく頼むよ」

4本指の爬虫類に似た勇敢な少年は、返事を返すことはなかった。

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