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ヴィクターは暗青灰色の青空を見上げた。地球にいた時の辛い体験を想起させる、微妙に馴染みのない色彩は彼がいた世界のものと異なっていた。目の前のコバルトブルーの海には同様に胸騒ぎを覚えた。静かな怒りが沸々と泡立つ底の見えぬ水面は全くもって自然のものには見えなかった。高さは100フィートに及び、何マイルにも渡って海岸を横切る防波堤が無ければ、彼はこの恐怖ドレッドの感覚を馬鹿げたものと片付けていただろう。あの長城の数多の箇所に、細部の明確な4ヶ所、すなわち外側の円の窪みは四角形ではなく尖っており、それぞれの窪みはサメの背ビレに、そして3本の内向きの矢、その3本は先端が矢印になっておらず、殴打のための拳になっているものさえなければ間違ったSCP財団の記章と呼べる代物が施されていたのだから。
「サメ!殴り!センター!」ロリィはそう叫ぶや、ドックで飛び跳ね、宙を殴打した。「たくさんのフリークなサメを殴りに行くわよ!」
「何故こんなのが戦闘の最有功手段なのか、今においてさえ全く分かりません。」ヴィクターは独り言を呟き、鎖帷子くさりかたびらの着いた拳を見下ろした。
「注意して。鮫科支持者と思われるかもしれないから。」ロリィは歌うような調子の声で注意を促した。「でも本音を言えば、あの人たちがアニメ風ハンマー使わせてくれたらいいんだけどな。ホオジロザメを殴って、殴られたサメの頭をお星さまが回っているのを想像できる?それにアイリスも来てほしかったわ。あの人が生身の拳でサメを殴打するのが見たかった。」
「海の中ではそんな真似はしないだろうと仰ってましたよ。」ヴィクターが説明した。「それとですね、あの方は我が社にとって計り知れない価値を持つ人物でありますので、サメ数匹のために命を危険に晒すのは無理な話ですよ。」
「じゃあアンタもダメなの?」ロリィは哀れむような顰しかめ面を浮かべて尋ねた。
「いえ、違います。」ロリィに背中を叩かれると、彼は穏やかな諦めの吐息を漏らした。
「心配しなくていいわ。前にも来てるもの。アンタの知るべき話は、味方になるにせよ、敵になるにせよ、あの人たちが熱狂的にサメを嫌っている以外に要らないわ。疑われたら、サメを殴って。それと、サメのサの字も言っちゃダメだから。でも至る所サメだらけだから、マジで難しいの。」
「それに然るべき理由がある。」2人の背後から掠れた年老いた叫び声が聞こえて来た。「鮫科に係る問題には中立は許されない。無関心は鮫科側への協力にしかならん。」
不揃いな顎髭を生やした、白髪の日焼けした肌の男が誤った形で言葉を引用した。髭は30年前にサメが男の頭をあと一歩で嚙み砕く所だった時に生じた、小さな円形の傷痕を隠せていなかった。サメ避けである鎖帷子の制服は何ダースもの貝殻型の記章や勲章で飾り立てられており、右腕は拳の形に整えられた正真正銘の強固な義手と化していた。
「オオトモ船長よ!」ロリが歓声を上げて、男に抱き着いた。「ヴィクター。この人はSPCSクルフルステン2のオオトモ船長。この世界での協力者よ。彼に初めて会ったのは20歳の時よ、図書館からこの世界に迷い込んだの。至る所であのエンブレムを見たものだから、エッシー・Pが跋扈していると思いこんで強いパニック障害を起こしちゃった。オオトモ ― 荒々しい人物のようだと知ってもマジで魅力的だった ―が駆けて来て、何があったのか聞いてきたの。それで「あなたたちってエッシー・Pじゃないの?」みたく聞いてみたら、彼はただ笑って『良かろう。ワシらはSPC ― サメ殴りセンターじゃ!』それからその場でサメを殴っちゃったのよ!どこから来たのかも分からなかったわ!でもあなたの所の記章が滅茶苦茶似ていたのには戸惑ったわ。」
「ワシらのロゴは水中にて直進してくる鮫科の見え方が由来じゃ。」オオトモが彼女に教えた。「一体全体財団のロゴはどういう形をしているんじゃ?ハッ!そやつらは海原が鮫科に苛まれているというのに、アノマリーを封じ込めようとリソースを浪費しておるわ。おまけにワシらがジョークだと?お主は財団ではないな?」
「ええ。違います。ヴィクター・チャン。マーシャル・カーター&ダークの者です。」ヴィクターは男の左手と握手しつつ、自己紹介を済ませた。
「ただしここではマーシャル・カーター&シャークになってるの。」ロリィが訂正した。「つまり、待って…じゃあここではアイリスがサメになってるの?考えるのも恐ろしいわ。」
「ロリィはメガロドンを捕獲してくれると申しておりましたが?」ヴィクターは尋ねた。
「捕獲じゃと?ワシなら間違いなく殺すぞ。鮫科を生け捕りにはしておかん。」オオトモは輝く歯から怒鳴り声を漏らした。
「構いません。当方としましては安物のアクセサリー用にサメの歯が欲しいだけですし、ミセス・プライスは香港において、メガロドンのフカヒレスープを高値で販売出来るだろうと考えております。」
「ふむ。幸運じゃな。今は繁殖期で、老マーシュの暗礁の傍で小さな尾を漁っている者をよく目にしておるわ。」オオトモは頷いた。「されど忠告しておくぞ。サメが出没する海域じゃ。つまる所、サメの数が無難なものに全くなっておらぬ都合上、全域がサメが出没する海域と化しておる。もし同行したいと言うのなら、安全は保障できぬぞ。」
「泳ぐ予定はございません。」ヴィクターは笑みを浮かべたものの、オオトモ船長からはノコギリザメとカジキの違いが分からない新米船員を相手にしているかのように睨まれるだけだった。
「ワシが手を失った経緯が分かるか?」オオトモはそう尋ねて、細部を調べられるように、金属の拳を撫でた。
「…根拠のある推測は立てられますね。」ヴィクターが答えた。
「左様。サメ殴りじゃ!どの道、ワシは泳ぎには行かんからの。ワシは甲板にいて防護グローブを装着するには余りにもプライドが高くて出来んかった。だから皆からは"後先考えないオオトモ"と呼ばれておった。鮫科は破壊不能も同然に忌まわしきものじゃ。知っていたかの?あやつらは癌にはかからんし、高水圧の深海にて永久に生き、誰にも打ち負かせられない長寿の持ち主なのじゃ。嘘ではない、やったのだから!何より重要なのは、歯状突起のマイクロメッキが原因で純然たる力技以外は通じない都合上、サメどもの刺殺や射殺が出来ぬ点じゃ。嗅嚢と鰓とロレチーニ瓶を備えている箇所であるがゆえ、顔は攻撃するとなると最も困難な箇所になるが、同時に非常に鋭い、忌々しき歯が大量に生えている箇所でもあるのじゃ!」
オオトモは束の間大言壮語に語ると、静かな怒りを抱きつつ目の前の許されざる海原を睨んだ。
「あの日がやって来るまで、ワシは何百ものサメを殴っておった。1匹たりとて外しておらん、だがほんの一瞬じゃった!無慈悲なアザラシの口に拳を突っ込んだのじゃが、一噛みで食道に持ってかれて負けてしもうた!皆は最新鋭の技術である間接接合式の義手で治そうと望んでおったが、その必要はないと突っぱねたわ!義手にしてしまえば、ワシには一つしか望みの使い道はない。サメ殴りじゃ!」
「思い切った策ですね。もっと言えば、フックの方が更に効果的であったでしょうが。」
「フックでサメを殴れれば良いがの。」オオトモは侮蔑を滲ませながら、左右に頭を振った。「本気でお前も来たいというかね?」
「サンプルの真贋を見極めねばなりませんので。」彼は頷いた。
「ならば撒き餌の如く飛ばされぬよう、最善を尽くせ。」オオトモは注意を促すと、安全確認のためにクラウンに顔を向けた。「ロリィ、お前さんのサメスーツはどうした?」
実のところ、彼女は現実改変能力を行使して、鎖帷子製の裾の広いミニドレスに改造していたのだった。
「何よ?女の子らしくよ。パンツは着たくないわ。」何食わぬ顔で肩をすくめた。
「あのスーツは1着2万ドルはするんじゃぞ。」オオトモは荒々しく言った。
「返却する前に返しますぅー。」そう約束してきた。
オオトモの返事は疑わし気な呻き声だった。
「お喋りはここまでにしておくかの。サメを殴りに行くぞ。」彼はそう告げると、2人に自分の船まで来るよう合図した。
「ロリィ、1点だけはっきりさせてくれませんかね。」ヴィクターは彼女の肩を掴むと小声で囁いた。「この世界のサメは一大脅威なのですか?それとも連中が狂人でしかないのですか?」
ロリィから返ってきた肩をすくめる仕種と「半々」を意味する手の動きに、ヴィクターは不安を覚えたのだった。
クルフルステンの荒々しく、攻撃的な船体が70ノット以上で荒れ狂う海を突き進んでいった。オオトモ船長は船首に立ち、最強の鮫科であるメガロドンの兆候を見つけんと、細まった目は水平線を見据えていた。
「ここの海水は余りにも澱んでいます。」背後から来たヴィクターが声をかけた。「連中が近くにいる時はどう把握するのでしょうか?」
海面からアオザメが飛び出してくると、ヴィクターは後退あとずさった。その顎は大きく開かれ、彼の頭蓋骨を飲み込まんとしていた。オオトモは視線を変える真似すらせずに打ち返した。
「近いぞ。」そう呟きを漏らした。「全拳用意!」
ヴィクターが安全圏に駆け足で退避する一方で、コルベット艦の乗組員は熱狂的に「はい」と返事をし、甲板の境界線上に配置に就くと、拳を握り締め、鋭い歯をノックアウトしたくてウズウズしていた。
全方向から何百もの背ビレが海面に現れ、ただ1つの目的を抱いてSPCの船へと急行していた。
「何て光景ホーリー・ハッセルホフ!サメたくさんいるじゃん!」ロリィは歓声を上げ、興奮の余り飛び跳ねた。
「拳をいつでも使えるようにしてくれるかの、ミス・ロリポップ。」オオトモが命じた。
「はい!船長!」ロリィは敬礼したが、無防備な状態になっている所をイタチザメに襲われた。彼女を地面へと叩き付け、自重で彼女を押し付けると歯ぎしりをしている歯が顔の間近まで迫った。「クソっ。カッコーアタックでも食らいなさい!」
彼女の額にて両扉が開き、ボクシンググローブを装備したスイス製鳩時計の鳩が飛び出してくると、サメを殴り飛ばし、海原へと送り返した。
「どうだったかしら、船長?」
「ロリィ、真面目にやる気が無いのであれば、下部デッキで待機していても構わんのじゃぞ。」甲板にて力なくじたばたと動くジンベエザメを容赦なく殴り飛ばしつつ、彼女を叱責した。
「私が?アナタだって歯が生えていさえないサメと戦ってるじゃない。」オナガザメが飛んでくると、背後から叩き付けつつ、彼女は答えた。
「鯨鬚も歯と変わらんのじゃ!」彼はそう言うと哀れなフィルター・フィーダーを甲板に蹴飛ばした。
「大物ね。本物のサメを殴れー!」ノコギリザメを掴むと、魔法でノコギリの箇所をチェーンソーに変形させ、ホオジロザメを真っ二つにした。
「ワシゃお前さんが産まれる前から本物のサメを殴り続けているわ。それにどの道然したる問題ではない!」非常に警戒しているオンデンザメに拳骨の一撃を食らわせると、彼はそう叫んだ。
「アナタのとこのルールってホント面白味がないわ。分かってるの?」シュモクザメの尻尾を掴むと、出来る限り数多の他のサメを叩きのめすハンマーとして使い始めた。「もし私が変形させなかったら、少なくとも他のサメにサメをぶつけてもいいかしら?」
1匹のドチザメがオオトモの金属製拳でダウンしたが、とにかく彼は休む間もなく、ヨシキリザメを殴打した。
「何ら問題はあるまい。」そう言うと笑みを浮かべた。
「メグだーっ!」見張りが叫んだ。人間と同じ位の高さの背ビレが海面に現れ、巨大魚雷の速さと精度を発揮しつつ、クルフルステンへと突進してきたため、尚も海中にいる全てのサメは迅速にその場を離脱した。
「衝撃に備えろ!」オオトモが叫んだ僅か数秒後、船が衝突を受け、全員が片側に吹き飛ばされた。一同は甲板の反対側に急行すると、船体が巨大ザメの顎でズタボロになっているのを目にした。
「ヴィクター、ヴィクター!あれを見て!メガロドンだよ!」ロリィは叫んだ。ヴィクターはサメの死体や死に際の躯体の山を押し退けて、船の端にまでノロノロと進むと、防水眼鏡を外した。
「本物で満足かの、ミスター・チャン?」ヴィクターが正真正銘の困惑ぶりを見せていると、オオトモは偉そうな声色で尋ねた。
「満足ですよ。都市バスほどの大きさですか!奴が船を沈めるよりも先に、どうやって殺すのですか?」ヴィクターは問い質した。
「考えれば分かる話じゃぞ?」オオトモはそう答え、拳を突き上げた。「フミコ、出番じゃ!」
両端に鉄の拳を備えた鎖である、長いクサリ・フンドーを装備した1人の女性が手すりに飛び乗った。彼女はフレイルを何度も振り回して加速させ、メガロドンに向かって一直線に投げ付けた。両拳は同時にサメの鼻に命中した。直ぐにサメは船を開放し、海中へと沈んでいった。
「逃げたのですか?」ヴィクターは尋ねた。フミコは頭を振ったが、それどころかドクター・フーの台詞が何故かヴィクターの脳裏に浮かんできた。
「足が無いのに、駆け足でいるのだとしたら、何と呼べばいい?」3
メガロドンが海面から現れ、秒速数十フィートで宙を舞った。開かれた口は一同全員を丸呑みするには十分だった。
ただ1人― 水中墓場まで持っていくであろう恥ずべき話にして、恐るべき話になった。―オオトモは斯様な巨怪を目にして生まれた絶望感と無力感を克服した。飢えて、強欲な破壊的力を前にして、何が自分には出来るのか、何が誰にだった出来るのか?
だがその時である。彼は勇気を取り戻した。答えが明白になったからだ。
サメは殴るものだ!
オオトモの拳が音速の壁を突破すると小規模なソニックブームが発散され、斯様な理解を超越した速度で空を切られたために拳から摩擦熱が発生して白くなっていた。獲物たるサメに命中すると、背後の海原に水飛沫を上げて無様に沈んだ。この攻撃はサメの脳を壊滅させ、ゆっくりと耳から脳が漏れ出てきたがゆえに、正攻法とは言えなかった。
オオトモが平然と甲板に立つと、乗組員は熱狂的に歓声を上げ、燻っていた拳より上がっていた煙が消えた。
「お目当てのメガロドンじゃ。ミスター・チャン。ウィンチを用意してくれ!」彼は指示を飛ばした。
「スゴかった!」ロリィが歓声を上げて、木の幹じみた首に腕を回した。「最高の1日になったわ。去年のエイプリルフールよりずっと楽しかった!このメガロドンって大きいのね!吊るす時には全員で写真を撮らなきゃ。さもなくば誰もこんなイカれた超大袈裟な大きな魚の話を信じっこないって。」
「超大袈裟な大きな魚の話じゃと?」オオトモが聞き返した。彼女は笑みを浮かべると、両腕を左右に20フィートずつ広げた。
「そうなの。だって昔こんなに大きな魚を捕まえたんだもの!」