郡山藩の北部、一歩森に踏み入れれば昼も夜も分からぬ深い山間。細い川に沿って名も無き農村があった。
「なあ、あんた。このあたりに武人が逃れてきたはずなんだが、何か知らねえか。」
足音一つ立てず背後に立っていた骸骨のような男に振り返った農人は、けげんな顔をしながら頭を振り、自分の作業を続けた。
「つれないねぇ、じゃあこいつを見してやろう。」
わざとらしい台詞で百姓の注意を取り戻した死人のような侍は、音もなく抜刀し、隣に立っていた若い松の肌に、その刀身を撫でつけた。
生き生きと節を太らせ、青々とした香りを振りまいていた松の木は、瞬く間に崩れ、爛れた。枯れたのでも倒れたのでもない。土塊と塵へと瞬く間に崩壊し、その隙間から膿のように樹液が漏れ、そこから芋虫とゲジが湧きだした。一本の木という生命が、文字通り崩壊した。
「そいつを連れてこないと、この村の土地が向こう百年は、実りを成さない腐った土地になるだろうが、どうするね?」
匿ってくれた村に迷惑はかけられない、と自ら不吉な男の前に姿を現したのはまだ若い侍だった。村の人間は家屋に引っ込み、葬式のように静かである。時折窓に影があるあたり、様子をうかがってはいるようだ。
「そうそう、あんたに用があるんだ。あんたに、というより、あんたのぶら下げてるその太刀に、なんだが。」
首を傾げたままにやにやと髑髏のように笑いながら男は問うた。
「これはあるべき場所へ帰るべき宝刀だ。お前はこれに用があるかもしれないが、この刀は藩主の倉に用は無い。」
骸骨がくひ、ひ、と嗚咽のような声を上げる。それがこの男の笑い方なのだという事実に侍は嫌悪感を上乗せさせられた。
「そうもいかねぇや。あんたが盗人で尋ね人なのは本当なんだから。一応聞くんだが、そいつを返す気はないかな?お上の第一の目的もそれなんだ。勝手に持ち出された宝が無事に帰りゃ、あんたの生き死の報告はホラ、あたしの舌先三寸だしねぇ。」
侍は沈黙を答えとした。
「……いや噂通りの変人だねえ、伊東の七八さん。職業柄変人とは多く会うもんでね。ま、変人の侍ってのは手癖が悪いのが多いから、仕事が難儀っちゃ難儀なんだが。面白さのほうが先に来らぁな。」
侍、伊藤七八は一層眉間にしわを寄せ、
「貴様こそ噂以上の怖気さよな、煤煙。歩く骸のような人斬りと聞いていたが、ここまでとは。」
くぅう、ひぃ、ひ。
煤煙と呼ばれた男がより一層奇妙な声を上げた。遠くで鴉がけたたましく啼いていた。
「その名で呼ばれたのは久しいなぁ。妙な仕事ばかりこなしてしまって、妙なあだ名ばかり付いちまったもんで。腐れ、蛆飼い、禿鷹、……。まあどの呼び方をしてきた人間も軒並み死にましたが。」
落ち武者狩りの煤煙。如何な剣の強者も撫でるように切り捨てる、雇われのアサシン。藩、朝廷、その他あらゆる勢力の依頼でも金さえ積まれれば引き受け、標的となった逃亡者は如何なる武装も全く歯が立たず、切り伏せられると言う。
否、歯が立たないのではない。曰く、煤煙の振るう刃は、触れたあらゆる武具を文字通り灰燼に帰すのだという。
「……俺の獲物の噂は知ってるよなぁ?お前さんが先日、郡山の差し向けた『三頭狗』をあっさり返り討ちにしたんで、藩はすっかりお冠でね。刀の無事は問わぬから盗人の首を獲ってこいとの事だ。」
煤煙は既に鯉口を切っていた。
「宝刀諸共、土に帰りな、坊ちゃん。」
七八は嫌悪感とは違った理由で怖気立つ。既に暗殺者は太刀を構え、闘気を発していた。
いつ、抜いた。
音が、しなかった。
対する自分は未だ徒手空拳だ。
フ、と丹田に呼吸を沈め、呼気とともに七八も抜刀する。
煤煙の構えは中段。正眼とも呼ばれる攻防一体の完成形。
構えるは不吉な鈍色の刀。鎬の上を禍々しく踊る刃文に未知の言語で書かれた呪詛を幻視する。如何な呪術か、あるいは薬学か鉱物学の賜物か。いずれにせよ刃が触れたものは意味を失い、結果、武を目的とした刀剣、鎧、その他あらゆる武具は土塊と屑鉄に還るのだという妖刀。
触れてはいけない刀と打ちあう。否、打ちあってはいけない。一度でも打ちあったが最後、此方は素手であの怪しげな暗殺者と殺しあう羽目になる。
刃を交える事無く絶殺の死神を討たねばならない。それはどれほどの難行か。
七八は下段に宝刀を構える。刀身同士は離隔させつつ、仮初めの安全地帯を作り上げる。その場しのぎの延命処置でしかない。
そもこの男の殺しは目の前に堂々と現れるという、暗殺者として到底破綻したやり方がなされた時点で完成している。
確かに闇討ちという安易な発想は手に取りやすい。多くの暗殺者の類は標的の枕元、人混み、新月の夜の森を仕事場に選ぶだろう。しかし研ぎ澄まされたもののふの背後に立ち寝首を掻くという行為もまた難しいことをこの死神は知っているのだ。故に、眼前で堂々と名乗り、あまつさえ自分の手の内すら晒す。「今から武具ごとお前を土に還す」と。
そこまで込みで彼奴の殺しの型なのだ。こちらの対応まで、ある意味いつも通り。互いに構えている時点で詰み。
決定しているのは此方の業物の刀は刀剣としての意味を失って煤となり、返す刃で此方の首が落ちるということ。
しかし、どのような想定の中でも勝ちの機が用意してあるのが、剣技という体系。
「うぁう」
七八は躾のなっていない駄犬のようなだらしない奇声を上げる。奇行によるブラフ。本来は格下の実践の不足した相手から先の勝機を得るための保険。
しかし実施するのは攻撃ではなく構えの変更。霞の構え。
八相の崩しとも正眼破りの構えとも言われる奇手。突きと防御に長あり、而して、突きも防御も正眼のそれには即応性が欠く。構わず七八はそのまま袈裟斬りに斬りかかる。
明らかな悪手。これ見よがしな釣り針。
後の先の勝機を掴むためのそれに、煤煙は正面から喰いつく。
痩せた体躯からは想像できない稲妻のような突きだった。正眼から繰り出す絶対的な模範解答。
「えぁ」
七八は嗚咽のような吐息を吹きつつ煤煙の左側に入り込む。太刀の間合いというにはあまりに近い。毛穴まで見えるような位置取りで、振りかぶった刃を自分の体に巻きつけるように構えなおす。
七八の修めた観桜流の技でもここまでの速さ、コンパクトな動作は想定されていない。しかし七八の担うその桜色の太刀はあらゆる鋼を容易く切り裂き、しかしながら木刀のごとく軽量であるという。
宝刀天國。
妖怪とも嘯かれる刀匠が業物の一つだからこそ成せる舞のような一手だった。
「あぁ!」
故に、声とともに発揮したその逆一文字の横薙ぎも神速の其れであり。若く才気あふれる若者の勝利は約束されていたはずであった。
「その手を使われるのは二度目だよぉ、小僧。」
大きく体勢を崩した煤煙が八相の構えのまま此方の横切りを受けているのはどういう訳か。
「まあ確かにそん時よりか速かったけどな。褒めてやらぁ。でもそれもこれで、」
煤煙は躰を右回りに回転させつつ七八の刀を弾く。刹那、宝刀はぼろぼろと土と鈍色の鉄くずを吐き出しつつ、崩れ落ちた。
「終りだ。」
風が白々しく吹き抜けた。湿っぽい水無月の風であった。
それに気づいたのはどちらが先だったか。七八の手にはまだ何かが握られていた。
鉄屑の残滓が棒状に残っていたように見えたそれは、しかし桜の小枝であった。季節外れの桜の花が二、三小さく咲いていた。
驚きが大きかったのは煤煙の方だと言ってよいだろう。百に迫る刀を腐らせてなお、このようなことは初めてであった。
絶望が大きかったのは七八の方であった。このような小枝だけ残ってどうしろというのだ。せめて尖った鉄屑の破片でも残ってくれれば窮余の策の助けになったかも知れないというのに。そも何故に桜の小枝か。刀の原材料でもあるまいに――
曰く、アマクニには刃がごとき強靭さの桜が咲き、彼の地の刀匠は其れを太刀の鋼に焼き付けるのだと云う――
桜の枝を握る手に力を入れる。
まるで鑢か鋸を握っているかのような痛み。およそ木の皮の硬度ではない。相手から目をそらさぬまま、そっと空いた左手で桜の花弁を撫ぜる。ぱっくりと指先が傷付き、血が花びらに染み込んだ。
煤煙が無言で上段に構える。先の薄情な薄ら笑いは消え、痩せた頬は即身仏のようであった。
妙な兆候。初めての現象。妙な太刀筋の若者。
不快だ。さっさと切り伏せて帰るとしよう。
いかにも尤もなその考えが焦りによるものだと気付く事が出来たなら、あるいはこの殺し合いの結果は違ったかもしれなかった。
縦一文字に振り下ろされる妖刀を、七八は二手に分かれた小枝の木の股で「受けた」。
鳴った金音はまさしく剣戟の最中のそれであり、水田の広がる小さな川辺の集落中に響いた。
遠くで水鳥が飛び立つ。水音が遅れて聞こえた。
観桜流には珍しい兜割術が存在する。
合戦の最中兜割を持つこともなかろ、と鍛錬を怠る門下生も多かったが、七八は熱心に学び、型を身に宿した。
そして今、凶刃を包み込むように捕らえた二股の鋼の枝は、兜割そのものであり。
「はぁぁぁあ!」
観桜流 兜割が法 其の肆 河割
蛇足と思えた技は、今この瞬間のためにあったのだ。
相手の妖刀を捉えたまま、刃桜を鍔元まで走らせる。香取神道流でいうところの「橋懸かり」。
リーチで勝るものが最も回避すべきデッドエンド。刃の内側に入り込まれ、獲物の根を押さえられる詰み。
妖刀の鍔に桜が触れる。
妖刀が力を発揮するのは刃が対象を離れた瞬間だと七八も気付いていた。
このまま煤煙が力任せに枝を振りほどいたら其処まで。あるいは多少体勢を崩してでも後方へ飛び、この刃桜から刀を離すだけでよい。さすればこの奇跡の金桜は普通の桜の枝か、あるいは灰燼に帰すだろう。
しかしながら、その勝ちの機を煤煙が掴むまでは、心拍一つ分ほどの間隙が確かに有ったのだ。
「ぇん」
枝を持つ左手で鍔元を確かに押さえつつ、右の拳を相手の左手に振り下ろす。
両の手で刀を持っていた煤煙の左前腕に通る二本の骨が、小枝のように弾け、
「フ」
返す拳は煤煙の胸腔の半ばまで肋骨ごと打ち込まれた。
「げぇふ」
血煙を吐き出しながら崩れ落ちる歩く死人のような男は、本当に死人になる直前、
「珍妙な技を……使いやがって……」
かつて自身が殺してきた人間が揃って最後に口にしていた恨み言を残して、絶命した。
死神の骸の傍に、妖刀と桜の小枝が転がっている。
桜を手に取る。
もう木肌は手に刺さらなかったし、花びらを撫でても弱々しく揺れるだけだった。
煤煙と呼ばれた男を埋めたら妖刀を墓標とし、その隣には妖の刃桜ではなくなってしまったこの小枝を差してやろう。
桜は挿し木でしか育たないことくらいは、七八も知っていた。
了