二重なる法王
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 蝉の声が木霊する山の中。財団職員・砺波直弘となみただひろはYシャツの胸元に黒い染みを作りながら石段を登っていた。目標である寺社はまだ遠い。太腿を上げるたびに熊よけの鈴が音を鳴らした。

 砺波が山登りに不似合いな格好で登っているのには理由がある。この山の中腹にある寺には"鴉天狗"と呼ばれるオブジェクトが封じられており、蒐集院の時代から管理が行われ続けていた。そんな寺の住職に収容に関する相談があるとして、蒐集院の収容体制を引き継ぐことを任務とする蒐集院蒐集物収容課の一員として砺波は呼び出されたのであった。

 ようやく目的地に辿り着き、木製の年季の入った門を潜ると、空気が変わったような感じがした。寺に張り巡らされた結界は事前に許された人間しか通過できないようになっているのだと報告書に書かれていたのを砺波は思い出す。そんな結界の先に住職は立っていた。

「こんにちは。お越し頂きありがとうございます。住職の纐纈貴道こうけつたかみちです」

「どうも、砺波です」

 纐纈家の今代であり、砺波を呼び出した人物こそが、この纐纈貴道だ。黄土色の僧衣を羽織っており、頭髪は綺麗に剃られている。いい顔をしている、と砺波は思った。年齢は31であり、砺波の二つ歳下だ。独身であり、この寺に住み込んで生活をしているという。

 寺を代々継いできた纐纈家はその結界術が評価されていたようであった。今でこそその名前を見ることは少ないが、300年ほど前においては周辺地域の収容体制の構築に一役を買っていたようである。もちろんこの結界の強力さについては現代の財団においても十分に評価されており、収容局管轄のオブジェクトの中ではトップクラスに収容違反の危険性が低いと見なされている。だからこそ砺波は呼び出されたことを不安に思っていた。その硬度の収容体制を脅かすほどの大きな脅威に対して自分がやれることはあるのだろうか、と。

「さぁ、こちらからお上がりください」

 纐纈の案内に従い、砺波は冷房の効いた綺麗な客間に通される。隅々まで清掃が行き届いており砺波は感心したが、同時にこの寺の抱える問題が余計に分からなくなるのであった。

 暫くしてから、纐纈がお盆に茶を乗せて入室してくる。暑かったでしょう、と氷がたっぷり入った緑茶を砺波に差し出す。砺波はどうも、と頭を垂れてから喉にゆっくりと液体を流し込む。玉露の濃厚な味が感じられる、美味い茶であった。纐纈がグラスを置くのを見届けてから、纐纈はゆっくりと口を開く。

「単刀直入に言ってしまえば、結界が何者かによって傷つけられています」

 砺波は唾を飲み込んだ。オブジェクト自体の報告書は十分に読み込んできたが、まさかその外側にある問題だとは思いもよらなかったのだ。

「傷というのは、経年劣化とかそういったものではないのですか」

「結界は毎日の朝夕2回点検を行い完璧な状態に保つようにしています。しかし、ある日を境に毎朝本当に小さな、かすり傷程度の損傷が見られるようになりました」

「つまり夜間の犯行であると。犯人に心当たりは」

「いえ、特にはありませんね。単純にここの存在を知っているのは、財団さん以外には旧蒐集院の財団派以外ということにはなるでしょうが、まぁそんなことは言うまでもないことですよね」

 あとはIJAMEAも考えられるだろうか、と砺波は思い浮かべる。しかしながらどちらも活発ではない団体であり、ごく僅かの過激派が年に数回インシデントを起こすか起こさないかといった程度。様々な可能性を考慮しつつも砺波はまず事件の現場へ向かった。

 案内された先は寺の奥殿であった。全長3mほどの阿弥陀仏を中心にいくつかの像や装飾品が並べられている。これらに収容を強める効果などはないと知っていたが、砺波は確かな厳かさを感じていた。しかしそんな空間に似つかわしくない違和感。その異様さを辿っていくと、結び目が切れたように結界が綻んでいる部分があるのが分かる。それは単なる劣化ではなく、明らかに誰かがその一点を執拗に破ろうとしているようである。

「わかりましたか。これについては、砺波さんに見せるために修復せずに残していたものなんですが」

「本当に鴉天狗が内側から壊そうとしている訳ではないんですね」

「確証を持っては言えませんが、明らかに中の鴉天狗が動いている様子は感じられないんです」

 纐纈の発言は論理的ではなかったが、砺波はその表情を見て信用に値すると思った。

「わかりました。であれば、やはり夜に張り込んで犯人を突き止めるしかないでしょう」

「以前、私が張り込んだ際には犯人は現れず、結界に損傷が生じなかったのです。もしや人間の目があると現れないのかもしれません。隠密に行うことを推奨致します」

「わかりました」

「よろしくお願い致します。では、お部屋をご用意致しましたので、そちらで夜までおやすみください」

 ごゆっくり、と砺波は6畳ほどの客室に通される。夜の間見張るのであれば今のうちに休眠を取っておくべきだろうか、と布団に身を委ねた砺波は一人ため息をついてからビジネスホテルにキャンセルの電話を1本いれる。

 そして、次にマッチングアプリを開く。こちらに関しては相手方から先にキャンセルの連絡が入っており、仕事が長引いてしまいそうであるということであった。「明日以降予定があえば」などと返答し、画面を閉じそのまま目を閉じた。

 同性愛者である砺波直弘にとって、地方でしか会えない見知らぬ男と地方の魅力ある居酒屋を経て一夜を過ごすのが砺波の最近の生きがいであったので、これはかなり残念なことであった。寺の探索は昼寝から目覚めたあとの自分に任せることにして、砺波は布団に身を委ねた。


 次に砺波が目を開けると、時刻は18時であった。障子の裏から沈みかけの夕日から漏れ出た朱色が染みている。目をこすりながら部屋を出ると、境内はしんとしていた。纐纈によれば、纐纈は22時に就寝し、5時に起床するという。その間の7時間が勝負だ。

 纐纈は本堂で坐禅を組んでいた。背筋がまっすぐと伸びており、まるで彫刻のように微動だにしない。邪魔するのも悪いかと思い踵を返す砺波を纐纈は呼び止めた。

「何かご用でしょうか」

「いや、特には」

「そうですか。時間までごゆっくりお過ごしください。簡単なお弁当もお作りしました。そちらにご用意しておりますので、よろしければ召し上がりください」

 纐纈は部屋の端にある檜の机に乗った木製の弁当箱を指して、また前を向いて口を閉じた。砺波にとって完成された姿形であるように見える一方で、どこか疲れているようにも見えた。何かまだ聞き出せる話でもあるのではないかと砺波は思案する。

「よければ一緒に食べませんか」

「大変申し訳ないのですが、食欲が沸かないもので」
 
「そうですか、残念です」

 砺波は纐纈が単に人と関わることにストレスを感じているのかもしれないと判断した。なんにせよ話を聞くことは難しそうなので、砺波は弁当を手に取り客室に戻った。

「うま」

 弁当を開けた砺波は弁当の美味さに驚き思わず声を出した。白飯の上に炒り卵と牛肉、ほうれん草が敷き詰められたいわゆる"三色丼"のようなものであったが、どれも完成されたバランスで味付けがなされている。そして何よりも白飯が美味い。先程寺を見て回った時に、厨房の中に伝統的な釜があったのを思い出し、砺波は飯の美味さに合点がいく。

 砺波はこんなにも料理ができて真面目な人間なら婚約しているだろうと推測し残念に思った。同時に収容体制が次代までは確実に続くということなのだから自分は安堵しなければならないのだろうか、などと好き勝手に人の事情を砺波は考えつつ弁当を平らげた。


 12時。砺波は奥殿の端の地袋の中に隠れて、何が起こるかを見守っていた。真夏の夜に狭い空間に籠るのは流石に厳しいものがあると砺波は汗を垂らしながら思った。

 今夜何が起きたとしても、砺波は動かない。例えオブジェクトが収容を破ったとしてもだ。あくまで原因の究明、それこそが己の役割なのだと。自身の胸のざわつきを抑えるためにも、砺波は今夜の目的を反芻した。

 その時、襖が開く音がした。砺波は息を潜めて、その人物が視界に入るのを待った。その人物は黒い甚平を来ており、がっしりした体格であり、坊主。

 なんだ纐纈さんか、などと声を出そうかと思った瞬間、纐纈は結界に向けて大きく振りかぶって、殴った。

 砺波は絶句した。積み上げてきた推論がバラバラと崩れていった。しかし砺波には何度も修羅場を超えてきた経験がある。砺波はその経験に従い、冷静に深呼吸を行うことで心を落ち着けることができた。

 砺波は現状を把握し、再度纐纈の様子を伺った。砺波から見えるのは纐纈の背中だけであり、その表情は伺えない。一定のリズムで一箇所を殴り続けており、これが結界の傷の原因であることは明らかだ。

 とはいえ、このペースで朝まで殴り続けたとしても結界が破れないことは砺波にもはっきりと分かった。結界を人間に例えるなら、膝小僧に擦り傷ができた程度のダメージであるだろう。

 よって、砺波は事前の計画の通り、自身の行動を観察に留めることにした。床を踏み締める足音が一定感覚で響く中、砺波はただじっと纐纈の様子を伺う。纐纈はなぜこんなことをしているのか。その理由の一端をなんとか掴もうとしたのだった。

 暫くすると、纐纈は突然殴るのをやめた。ゆっくりと振り返り、顔を下げたまま奥殿から出ていってしまった。足音が聞こえなくなったのを確認してから地袋から這い出ると、空から光が差し込み夜明けがやってきていたことに砺波は気づいた。纐纈の残滓を追ってみると、それは纐纈の寝室に続いているようだった。中からは寝息が小さく聞こえ、男が眠りについたことがわかった。
 
 砺波は壁によりかかりながら腰を下ろす。ふぅ、とため息を一つつくと、汗が頬を伝って床に垂れた。


「おや、砺波さん。おはようございます。どうでしたでしょうか」

 瞼が重そうな纐纈が襖を開けて部屋から出てくる。廊下で休んでいた砺波はゆっくりと立ち上がった。

「あぁ、原因はよくあるタイプの自然霊でした。鎮静化させましたので、ご安心を」

 纐纈に昨日の出来事をそのまま伝える訳にはいかない。砺波は一度嘘をつくことにしたのだった。

「そうですか、ありがとうございます」

 纐纈は腑に落ちない表情をしながら感謝の言葉を述べた。

「若干結界が欠けているので、修復だけお願いします。それでは、失礼させて頂きます」

「ご足労おかけしました」

「また、何かお気づきのことがあればすぐにご連絡を頂ければと思います」

 砺波は荷物を背負って寺を出た。砺波は纐纈の見送る姿を最後に振り返り、その目に焼き付けた。


 その夜。纐纈の寺のある村の隣町、その中心の駅前のロータリーに砺波は来ていた。昼間はホテルでしっかりと休んでいたので体力は回復している。

 わずかに二つあるベンチの片方に座って、砺波は周りを見渡す。その人物を探すが、15分に1度やってくる電車からまばらに人がばらばらと降りてくるのみである。駅前といえども、電灯の下でなければ十分に顔を確認することができない程度には暗い。

 もう待ち合わせの時間のはずなのに現れない相手に対して、砺波はどこにいるかをチャットで尋ねた。相手が西口にいると答えたので、砺波は自分の場所を尋ね返す相手のメッセージを無視して西口に向かう。

 砺波が今から会おうとしているのは、昨日の夜に会えなかったマッチングアプリの相手だった。再度メッセージを送ったところ、相手も今日の夜は予定がないということであったため、砺波はその男と会うことになったのだった。お目当ての相手はカーキのハーフパンツを履いていて、白Tを着ていて青いキャップを被っているという。平日の夜に街路樹の下で立ち尽くしている大柄の男はそいつしかいなかった。

「おい」

「あっ」

 目の前の男は声を途切らせる。

「話したいことがある」

 その男は間違いなく纐纈貴道、その人であった。目の前の人間が砺波であることに気付いた纐纈は反射的に逆方向に走り去っていこうとする。その腕を砺波は掴む。

「放せ」

 腕を大きく振って砺波の拘束から逃れようとする纐纈に対して、砺波は全く動じない。

「放せよ」

 纐纈は足も精一杯に動かして抜け出そうとするが、砺波は掴んだ纐纈の腕を決して離さない。

「なんで、なんであなたがここにいるんですか」
 
 息を切らしながら砺波の方を睨みながら纐纈は言葉を零す。砺波はその様子を見てゆっくりと掴んだ手を離す。

「理由なんかないはずです。こんな片田舎に、もう用なんかないでしょう」

 砺波の返事を待たずに、纐纈は言葉を矢継ぎ早に重ねる。紅潮した頬が痛々しく見えた。

「笑いにきたんですか。男好きの私のことを笑いにきたんでしょう」

 その目の焦点は合っておらず、決して砺波の視線と合致することはなかった。

「笑うはずがないだろう。俺も同じなのだから」

 纐纈ははっとして砺波と初めて目を合わせた。二人の間に僅かな沈黙が生まれてから、纐纈は再び目を逸らした。

「俺はお前と話したい。お前のことを教えてほしい」

 砺波は纐纈の肩に手を置き、真摯に言葉を伝えた。砺波はただ目を逸らしたまま、わかりました、とだけ答えた。


「それで、なぜ私は米を炊いているんですか」

「なぜって、腹が減ったからだが」

 寺の厨房にて。砺波は鍋でルーをかき混ぜ、纐纈は釜の火の面倒をしていた。

「昨日食べた弁当が上手くてな。是非炊き立ての米を食いたくなった。釜で炊く白飯など普段食う機会はないしな」

 纐纈ははぁ、と納得できない様子で相槌を打つ。

「安心しろ。そこはギブ・アンド・テイクだ。お前が炊き立ての白飯を提供する代わりに俺は砺波家直伝のカレーを提供しよう」

「ふざけているんですか。私はあなたが話があるからと言うから招き入れたんです。夕食を一緒に食べたいだけと言うなら━━」

「よし、ルーはできたぞ。そっちはどうだ」

「十分に蒸らすことができたので、もう良いと思います」

 纐纈は砺波に反感を覚えながらも、食事の準備を進めて行った。そして二人は食卓についた。

「いただきます」

 纐纈はスプーンに一杯すくい、口に入れた。スパイシーでありながらどこか懐かしい味に目を丸くする。

「美味しいか」

「美味しいです。店でめんつゆを手に取った時は正気を疑いましたが」

「めんつゆは万能だからな。何に入れても美味くなる」

 纐纈は口の中でルーの味を分解していくと、確かにそこに僅かに出汁の旨味が感じられた。とはいえ主張が強すぎることはなく、スパイシーさを引き立てる役目をしているのは間違いなかった。

「なんというか、砺波家って意外と俗的なんですね。これが直伝のカレーだとは」

「いや、めんつゆは俺のアイデアだが。親から継いだ部分は、調理の際の火加減といった部分だな」

「結構挑戦的な改変じゃないですか。もうそれは砺波家のカレーじゃなくてあなたのカレーですよ」

「なんとでも言うといい。今のこの一杯があるのは家のカレーがあったからこそだ。ならば俺はリスペクトをもってこれを砺波家のカレーと呼ぼう」

 はぁ、とカレーを食べる手を止めずに相槌を打つ纐纈ははっと我に返り、スプーンを置いた。

「そうじゃなくて、話ってなんなんですか」

「あぁ。アプリで会うはずだった相手が纐纈だと気づいてな」

「いつからなんですか。その。アプリでやりとりしてた相手が自分って気づいたのは」

「ずっと会ってから既視感は感じていた。その既視感の理由をしっかりと探したのは今日朝別れてからだったが」

 纐纈はアプリ上で顔を出しておらず、胸より下の画像しか登録していなかった。当然の疑問である。

「かなりしっかりした筋肉と骨格の感じがな。気のせいで済ますこともできたが、人の少ないこの土地だと限られるだろう」

「なるほど」

 纐纈は居心地が悪そうに相槌を打ち、恥ずかしさに耐えられずグラスを手に取り水を流し込んだ。

「お前彼氏はいるのか」

 砺波の突然の問いかけに纐纈は飲んでいた水を吹き出す。

「なんだ、いるのか」

「いや、なんなんですか急に」

「アイスブレイクのようなものだ」

 腑に落ちない表情を浮かべながら纐纈はゆっくりと口を開いた。

「いるわけないじゃないですか。基本的に寺から長時間離れることはできないですし。だからこうやって、たまに旅行とか出張で来る人と会って遊ぶぐらいしかできない」

 砺波は纐纈の顔を見ることなく、カレーを食べ進めていた。皿とスプーンの擦れる音が静かな境内に響く。

「俺も同じだ。異常の存在も知らない人間とは、見える視座が違いすぎると感じてしまう。そういった感情を抱く余地がない」

「でも、こうやって男と会ってるじゃないですか」

 纐纈は砺波の俯瞰したような態度に苛ついて嫌味を言った。

「まぁ、会うしかないからな。時に、どうしようもなく暮れていく夕日に哀愁を感じることがある。たまにこうやって気晴らしでもしないとおかしくなってしまいそうだと感じることがある」

 お前も、そうなんだろう。そう同意と共感を求めていることが纐纈には分かった。

「分かりました。あなたが、私とよく似た境遇にあることは」

 それで何か、と言いたげな纐纈を見て、砺波は更に話を広げる。

「では、自分が『そうだ』と自覚したのはいつだ。俺は財団で働き始めて数年経ってからだった。ふいに、な。何か特定のきっかけがあったわけじゃない。もしかしたら男もいけるんじゃないか、って気づいてからはすぐだった。ネットで調べて、男と会って」

「会ってからは」

「まぁ、それで今この場に至るというわけではあるのだが」

 焦って水を流し込む砺波見て纐纈は笑ってから、椅子に深く腰を落ち着け口を開いた。

「僕は多分子供のころからそうだったと思います。学校でもぼんやりと同性の友人を目で追っていました。でも、やっぱりこういう家柄だから、どこかそう確信することができなくて」

「高校を卒業してからは、この小さな寺に籠って本格的に父から結界術の指南を受けていました。ずっとです。365日、修行を欠かすことのない日々が続きました。3年前に父親が急逝するまでは、ですが」

 父親の死についての話だと言うのに、纐纈の顔は変わらない。纐纈の中では整理がついている事項なのであり、「悩み」ではないことを砺波は悟る。

「父の葬式がひと段落して、いざ落ち着いたとなったときに、自分も後継者が必要なことに気付いたんです。今まではまだ一人前ではないからと見合いの話などは断り続けていたのですが、いい年ですしそろそろ動かなければまずいと思いまして」

「それで、所謂婚活のようなことをしたんです。寺勤めとなると難色を示されることも多かったのですが、真剣交際まで進展したこともありました。でも、やっぱり違うな、と思うことが多くて。最初はその人が合わないだけなのかと思ったりもしたのですが、その違和感を確かめるためにいろいろ試していたらこの有様ですよ。馬鹿みたいですよね」

「俺は馬鹿じゃない」

 少しの沈黙の後に、意味を理解した纐纈が言葉を漏らす。

「すみません」

「お前は馬鹿じゃない。それに、お前が馬鹿であるのなら、俺も馬鹿になってしまう。俺だけでなく、世の同じ人間全てが、だ」

「でも、僕は結界の維持のために、後継者を作る必要があります。僕一代の勝手な我儘で、纐纈の本流の血を絶やすわけにはいかないです。ただ男に愛されたいだなんて、そんな理由で」

 砺波の言葉を噛み締めながらも、纐纈は己の信念を苦しそうに吐き出した。

「十分妥当な理由だろう。愛欲だなんてものがあったからこれまで人類は存続してきたのだ。それが果たされず、欲求不満となる人間はおかしくなるように設定されている。良い機会だから言ってやろう。お前はおかしい。そう、オブジェクトに操られてしまうぐらいにな」

 纐纈は黙っている。愕然とするわけでもなく、暴れたりするわけでもなく。

「お前。やはり分かっていたか」

 纐纈は昨晩、何者かに操られていたためにあのような凶行を行ったのだったのだと砺波は推測していた。本当に纐纈が自身の意志をもって結界を破ろうとしていたのであれば、結界術を逆転させればいいはずだ。そうではなく、ただ結界の構成要素を一つ一つ破壊していくやり方を行っていたのは、非効率極まりないのである。同時にこのことから、纐纈を操る存在が纐纈の高度な精神領域まで支配することができていないと考えた。そして夜間にのみ操ることができるということを考えても、纐纈が眠ることによって表層意識が薄まった瞬間にのみ現れることのできる、まだ対処が可能な範囲の能力ではあるのだと。

 間違いなく纐纈を操っている存在は鴉天狗なのだろうと砺波は自身の経験と照らし合わせて思った。妖怪というものは、実に人を操りたがるものである。そしてその標的は、決まって心が弱った人間だ。纐纈の昼間の様子を見て、何か心の内に秘めていることがあるのではないかと、そしてそんな実情を当事者が気づかないわけがないと砺波は思い至っていた。

「実際に、そうだと言われるとさすがに苦しいものがありますね。僕、そんな、そんな理由で、結界を」

 引きつるように纐纈は笑う。砺波の目にはそれが愉快な様子には映らない。

「笑うな。お前がゲイであるということは、お前をお前たらしめる大きな要素だ。そこを否定することは、お前自身を否定することと相違ない。自分を肯定できない人間が、今目の前にある現実を肯定できるはずがない」

 纐纈は笑うのを止め、唇を噛み締める。そんなことは、纐纈にも分かってはいるのだろう。

「お前は自身の中の同性に対する劣情に身を委ねながら、同時に自身の社会的責任に板挟みにされている。二つの矛盾する論理を一人の人間が抱え込めるわけがないだろう」

「じゃあどうしろって言うんですか。自分を完全に殺して、ただの『纐纈家の当主』になって、機械的に次代に結界術を引き継げれば良いだなんて何度も僕自身が考えていることです」

 好き勝手に物を言う砺波に纐纈は思いの丈をぶつける。

「だから、一人で抱え込むなと言っている。お前の次代への責任感も、愛を求めるその本能も決してどちらも間違いではない。だからこそ、その二つの意思を争わせるのではなく、分かち合うことが必要なのではないか」

 砺波は纐纈のグラスに水を注いで言った。

「俺を、収容局を頼ってほしい。収容のあり方を共に模索しようじゃないか。纐纈の血筋を辿って親類を見つけることで、後継者にすることもできるかもしれない。それに、もうこの収容体制をやめて、より現代的な方法で収容することもできるかもしれない。なんにせよ、まずお前が俺たちのことを頼りにしてくれないと、何も始まらない。何も解決しない」

 纐纈は少し黙ってから口を開いた。

「分かりました。砺波さんたちが頼れる存在であることは分かりました。であればもうすべてあなたたちに全てを任せてしまいたい。僕がここに関与していくのはリスクでしかない。僕は、本当に心の全てを乗っとられてしまって、結界を解いてしまうかもしれない。僕は、僕自身が怖い」

「そのために、カレーを食べたんだ。『俺たち』のことを好きになってほしくてな」

 纐纈はぽかんとした顔をする。砺波の言葉の意図を掴みかねているようだった。

「まず、『俺たち』を好きになろう。『俺たち』のことが好きになれたなら、その時はお前がきっとお前自身のことを好きになれるはずだ。そうしたら、そこで自身への恐れはなくなるはずだ」

 纐纈はその手順を理解し、砺波がこれまでいかに親しく接してくれていたかを思い出した。何かこみ上げる熱いものが体の中心にあった。

「安直だったかもしれないが、こうやって腹を割って話せただろ。今日のところはとりあえず、お前が俺の仲間であることを認めさせる夜としようじゃないか」

「ホントに、安直すぎますよ。同じ釜の飯を食えばいいだなんて」

 砺波は珍しく表情を緩めて、笑いかけた。

「まぁ、なんだ。まだ積もる話はあるだろう。心配事でも、絵空事でも、話してみるといい。せっかくの機会だからな」

 砺波はすくっと立ち上がり、纐纈の皿を持ち上げる。

「昨日の夜は食欲が湧かないなどと言っていたが、よく食べるじゃないか。まだ米もルーもある。おかわりするよな」

「いや、自分でよそいます。申し訳ないので」

「そうか。では代わりに俺の皿を頼もうか」

「わかりました。任せてください」

 纐纈は少し口角をあげて、砺波と共に厨房に向かった。そうして白米とルーを皿に注ぎあった。


 二ヶ月後。あんなにうるさく鳴いていた蝉の声はおさまり、山々は若干色づき始めていた。とはいえ山を登れば汗ばむのは変わらず、砺波は薄手の服装で寺を目指していた。

「お久しぶりです」

 寺の入り口で纐纈が出迎えていた。血色がかなり良くなっているように砺波には見えた。

「元気か?」

「まぁ、元気ではありますね」

 それはそうだろう、と砺波は思う。数ヶ月前まで纐纈は夜にまともに休むことができていなかったのだから。最後の夜に纐纈が夜に動き出さなかったことは確認済みだ。やはり精神的に弱っているところをオブジェクトに狙われたのだろう。

「それはよかった」

 客間に座った砺波は鞄から紙を出して見せる。そこには何人かの名前と所属と連絡先が羅列されていた。

「纐纈の血を引く財団関係者のリストだ。こいつなんかはお前のはとこにあたる人物だな。結界術の適性があるかは知らん」

「ありがとうございます。こんなに財団と関わりのある親戚がいたんですね」

「ここから時間をかけて後任者を探していけば良い」

 纐纈はリストを手にとって軽く目を通した後、砺波の方をまっすぐと見た。

「行き詰ったらまた連絡してもいいですか」

「もちろん。収容にまつわることでも、個人的なことでも」

「では、その時はよろしくお願いします」

 纐纈は朗らかに笑ってから、そのお礼にと言わんばかりに話を切り出した。

「今から昼食にしようと思っていました。よければ、ご一緒にどうですか」

「いいのか。ではお願いしよう」

「なに座ったままでいるつもりなんですか。あなたにはカレーを作ってもらいますよ。材料は用意してあります。もちろんめんつゆも」

 いいだろう、と砺波は立ち上がって袖を捲った。纐纈は頬を緩めて、砺波が誘いに乗ったことを安堵した。砺波と同じ釜の飯を食いながら、話したいことがたくさんあったのだ。

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