ある新興宗教における潜入捜査官の顛末と物語
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警視庁公安部公安総務課。そこに属する第10係は、市民活動や反グローバリズム運動、カルト、セクトを主な対象として捜査している。そんな彼らは今、ある組織に頭を悩ませていた。その組織とは、「エルマ」という新興宗教。"異世界跳躍"を教義とし、女神エルマという特有の神を信仰する独特な団体。他の世界への移動というパルプ・フィクションのSFのような教義を掲げているにも関わらず、世界中に多くの支部を有している。この団体はいわゆるカルトと呼ばれる新興宗教とは異なっており、信者に狂信を強いることもなければ、犯罪的な行為を儀式と称して正当化することも無い。信者に対しての集金は殆ど行われず、信者やその家族に対して金銭を要求する場面はほぼない。「エルマ」は信者を搾取しないのだ。すると、ある疑問が浮上する。

そう、「エルマ」の資金源である。

世界中に支部を置くほどの組織である「エルマ」、施設を運営するだけでも膨大な資金が必要なはずである。だが、表面上彼らに明確な資金源は見当たらない。勿論、数人の資産家の信者が多額の献金を教団にしている事実はあった。だが、それを合わせても精々3000万円程度である。これでは施設の運営費を賄うことぐらいにしかならない。彼らの活動…布教と広報、セミナー、慈善活動、ゲーム制作、アニメーション制作…など全てを賄うにはとても足りない。恐らく、「エルマ」には表沙汰に出来ない何らかの資金源が存在する。考えられる可能性としては麻薬や武器密輸…人身売買である。

実際、公安総務課第10係は「エルマ」が人身売買等に関与していると疑っていた。なぜか?それは「エルマ」の信者の行方不明率が極めて高いからだ。「エルマ」に入信していた知人、家族が姿を消したという相談は以前からあった。今までに国内で姿を消した信者の数は73人。判明していないものや海外のものも合わせれば、恐らくこれよりもずっと多いだろう。現在まで遺体などが見つかったことはないが、儀式的な殺人に及んでいる可能性も否定はできない。国内外を問わず、新興宗教が神と信仰の名の元に非人道的行動に走った例は少なくない。

しかしながら、「エルマ」を捜査するには証拠が不十分だった。海外の「エルマ」が現地警察の捜査対象になったことはあったが、その際は脱税が判明したのみで行方不明者に繋がるような事実は発覚しなかった。何らかの手段で警察の目をかいくぐっているのだろうが、そのカラクリは不明である。

ともかく、「エルマ」は十分すぎる程に嫌疑のある団体だった。確かな証拠を掴むため、公安総務課第10係は3年前から密かに「エルマ」の施設に捜査官を潜入させていた。いわゆる"おとり捜査"である。おとり捜査は本来犯罪を取り締まるべき国家機関が犯罪を誘発する可能性がある、ということから違法性があるとされている。だが現実問題として、相手の懐を探らなければ手出しができない案件は存在する。この「エルマ」に関する一連の疑惑は正しく「相手の懐を探らなければ手出しができない案件」であった。

だが、潜入した捜査官は全員消息を絶っている。3年間で、9人の捜査官が全員である。しかも奇妙なことに、彼らはみな潜入してから1ヶ月足らずで消えている。違法性のある捜査に及んでも確かな成果は得られず、捜査官だけが消えていく。公安総務課第10係は、不明で強大な「エルマ」の闇と対峙していた。

そして2006年、公安総務課第10係は新たに10人目の捜査官を潜入させた。彼女の名は──




「蔭山さん」

階段から降りてきた男が名前を呼ぶ。私が軽く手を挙げて返事をすると、彼は私の方に歩み寄ってニッコリと笑みを浮かべた。

「いやぁ。お待たせしてすみません。庶務の方に話をしてきました」

彼は手で階段の方を指し示して「どうぞ」と言った。階段は勾配が急であり、一段が少しばかり高かった。ヒールのある靴を履いていた私はその階段を使う事に対して少し抵抗を覚えたが、階段横のエレベーターの「故障中につき使用禁止」の張り紙を見て諦めた。私は彼に連れられながら、バランスを崩さないように階段を上った。


2006

「エルマ」の事務所は雑居ビルの2Fにあった。雑居ビルとはいえ2Fの事務所以外の階は全て空いていて、テナント募集の張り紙が至る所に貼られている。ビルには「エルマ」の看板だけが出ていることもあり、周辺の人々には"エルマビル"と呼ばれていた。事務所の中は外観の割に大きかったが、内装は宗教とは思えないほど簡素だった。話によるとここは事務所と集会所を兼ねている場所らしく、諸々の施設は別の場所に点在しているということらしかった。

「蔭山さんはなかなかエルマの教えにお詳しいですね。特に研修とかやらなくてもいいんじゃないかな…?」

対面する中年の男が言う。彼はソファにどっしりと体を預けながら手元の資料を眺めている。彼の名前は廣谷ミキオ。地球エルマ 日本-関東支部事務所の布教担当者の一人だ。廣谷は入信希望者に対して教義を説く役割を担っている。一人一人がエルマに対しどの程度の理解を示しているかを見極め、教えを説くのだ。

「蔭山さんは以前からエルマに興味を持っていてセミナーにも参加なされてたそうですよ」

部屋に入ってきた男はそう言いながら、テーブルの上に3つのカップを置いた。中には温かいココアが注がれており、茶色い水面に白く細かい泡が渦を巻いていた。私はココアを手に取り、その熱で悴む指先を暖めた。事務所の中は暖房が効いていたがまだ四肢の先端は冷えていた。

「久慈くんありがとね」

廣谷はココアを運んできた男にそう言うと、熱々のココアを啜る。久慈と呼ばれた男は盆をテーブルに置き、廣谷の隣に座る。廣谷の体格ががっしりとしているせいで、久慈はソファの端の方に座らざるを得ないようだ。

「セミナーというと…どこ会場ですか?都内?」

廣谷は資料に目を落としながら質問する。一瞬疑われたかと思ったが、どうやらそういう様子ではない。私は心を撫で下ろし、事前に調査してきただけの事をまるで経験してきたかのように語った。

「大学生の時に仙台のセミナーに4回ほど。最初は友人に誘われてしょうがなく行ってたんですが、だんだんハマってきちゃって…大学を出て上京してきたので、この機に入信しようかな…って」

廣谷は「そのご友人は立派な"遷教師"ですな」と言って笑った。「エルマ」における"遷教師"とは一般的に言う"宣教師"とは異なる。未開の地へと教えを説くという役割を担っている点は同じだが、「エルマ」の"遷教師"は「未開の異世界」へと教えを説く者とされている。当然、異世界など言うものが現実に存在するはずがなく、"遷教師"は信仰上の架空の存在でしかない。

「かなりエルマの事を知ってくれてるみたいだし、やっぱり特に研修とかは必要なさそうだね」

廣谷は笑顔で私を見ながらそう言いい、右手を差し出してきた。

「ようこそエルマへ。これからよろしくお願いしますね。蔭山さん」

私は彼の手を握り、握手に応じた。

私は公安総務課第10係の捜査官である素性を隠し、事実上の潜入に成功した。そしてこれから、「エルマ」の中で"蔭山"としての生活が始まる。…もちろん、"蔭山"とは潜入時に与えられた偽名である。私の本名は田中だが、この捜査においては公安のメンバーを除いてそれを知るものは居ない。全ては消えた9人の捜査官の真実と「エルマ」の暗部の全てを白日のもとに晒すため。拳銃を忍ばせたバッグを横目に見ながら、私は静かに覚悟を決めた。


──潜入から10日。私は、未だに「エルマ」の違法行為の証拠を掴めていなかった。「エルマ」の事業展開は、明らかに他の新興宗教よりもオープンで緩かった。抜けるも自由、参加するも自由という感じで信者に対して盲信を迫ることも無い。それどころか、思想の過激化を予防しようとする動きすら見られた。危険な言動を示す信者には、教団が費用を負担した上で外部の臨床心理士が紹介されたりもしていた。

ただ一点。「エルマ」の言動に疑惑を感じさせるものがあった。それは「エルマ」の人間が口にする"跳躍"という言葉だ。「エルマ」は、行方不明となった信者は"異世界へと跳躍した"としている。これは以前の潜入捜査でもわかっていた事だ。だが、どうやらこれは行方不明になった人間を教義的に解釈しているものとは違うようだった。教団は信者を"跳躍させている"と説明しており、信者に対しては"跳躍"を勧めている。これはつまり、教団が行方不明者を生んでいると間接的に認めているようなものだった。かつてのカルト関連事件では宗教用語を「殺害」の代名詞的に用いていた例がある。「エルマ」の"跳躍"もまた、こうした表沙汰に出来ない事を暗喩している可能性があった。

"跳躍"とは何なのか、"跳躍"した人はどこへと消えたのか。それを明らかにするために、さらに踏み込んだ捜査が必要だった。私は表面上"蔭山"として振る舞い、「エルマ」の教義に傾倒し心酔して見せた。大して興味もない「異世界跳躍先候補」と題された創作的な異世界レポートも読み漁った。どうやら「エルマ」は異世界に幅広く展開する巨大な宗教、という設定らしかった。異世界の存在を前提に体験談的に話を進行しているせいで胡散臭さが凄まじい。だが、その異世界の有り様などには妙なリアリティがあった。信者達が異世界の存在可能性を信じてしまう背景には、こうした引き込まれる世界観の存在もあるのかもしれない。

この日も私は、"エルマビル"の談話室で「異世界跳躍先候補」を黙々と読んでいた。

「アトラルはこの前読んだから… ん?「異世界跳躍先候補:411 "宇宙船神殺し号"」…これは読んでないな…」

談話室のドアを開け、久慈が入ってくる。手には2つのカップが握られていた。

「蔭山さん。これ、レモンティーです。温かいうちにどうぞ」

私は彼からカップを受け取り鼻を近づけた。黄金色で半透明の液体から温かい蒸気と共に檸檬と砂糖の良い香りが立ち昇っている。

「それにしても熱心ですねぇ。こんなに熱烈な信者さん、中々いませんよ」

私が嬉しそうに笑うと、久慈は何かを考えるような素振りを見せた。ややあって彼は私にこう切り出した。

「…蔭山さん。"異世界"見たくない?」

顔を上げると、久慈の目は真っ直ぐと私を見ていた。"異世界"を見せる。それはつまり"跳躍"するということだろうか。突拍子もなく飛び出た"異世界"という言葉に面食らってしまい、彼の真意を理解出来なかった。だが、この機会を逃す訳にはいかなかった。

「"異世界"、見たいです」

私は考えがまとまるよりも前にそう答えていた。

久慈はうんうんと頷き、「じゃあ、行こうか」と言って部屋を出た。私は急いでコートを着てバッグを持った。そして、彼に悟られないように静かにバッグの中へと手を伸ばした。ハンカチやポーチを指で押しのけ、皮の袋に指先を這わせた。私は手探りで皮の袋を開け、中から拳銃を露出させた。そして、もし身の危険が迫ったらすぐに取り出して発砲できるように、バッグを開けてすぐの所にそれを動かした。

「僕の車で移動するけど、大丈夫?」

私は久慈に「大丈夫ですよ」と答え、静かにバッグから手を離した。久慈の中古のカローラに乗ってやってきたのは、都内の別の雑居ビルだった。彼は非常階段を開け、ビルの地下へと向かっていた。確認した限り、エントランスの案内板に地下階は書かれていなかったはずだ。私の中で緊張感が高まっていく。私は無意識に、バッグを右腕で抱え込んでいた。

階段をしばらく降り、久慈と私は地下3階へと着いた。どうやらここが最下層のようだった。そこにあるのは金属の扉だけ、看板もなければインターフォンのようなものもない。久慈がドアをドンドンと叩き「久慈です。跳躍を」と叫んだ。すると間もなく、ゆっくりと扉が開かれた。

「おぉぉ!!!久慈同志か!!久しぶりだな!!」

扉の向こうから異様に興奮した男が現れた。金髪の青年でヨーロッパ系の外国人のように見えるが、とても流暢な日本語を話している。彼と久慈は抱擁を交わした後、最近の体調がどうだとかという話を始めた。

「何年ぶりだろうな久慈同志よ。君とこうして話すのは」

「ははは。こちらの時間流じゃあまだ2日しか経ってないよ」

彼らは数分間に渡ってそうした奇妙な会話を繰り広げた。

「…あれ?そちらの方は?久慈のカノジョ?」

金髪の彼が久慈の後方で固まる私に気がつく。すると久慈は私に手招きをし、近づくように促した。

「こちらは新たな同志だよ。地球エルマの同志、蔭山さんだ」

金髪の青年は「それは喜ばしい」と呟く。

「蔭山同志。はじめまして。私の名はイルマイアス。ユニバースを転々とする"遷教師"の一人だ」

"遷教師"。「未開の異世界」へと教えを説く者。信仰上の架空の偶像だ。私はその場を誤魔化すように、何となく同調したようなフリをして彼に「よろしくお願いします」と言った。私は久慈とイルマイアスと名乗る男に促されるがまま、部屋の中へと入った。

そこには異様な光景が広がっていた。部屋はとても広く、中央には10本の巨大な金属の柱が円形に配置されていた。その柱を取り囲むように、数十人の人間が手をつないで立っている。私が予想だにしなかった奇妙な光景に呆然としていると、入口が閉じられてしまった。

私は内なる恐怖心が膨れ上がっていくのを感じた。怪しい新興宗教の隠された地下施設、そしてそこに広がる奇妙な光景、明らかにまともな状況では無かった。

「さぁさぁ蔭山さん。こちらに来て来て」

円の方へと歩む久慈に手招きされる。

「祝福されしエルマの同志達よ。こちらは蔭山同志。同志は、この度初めての"跳躍"を経験する。皆も同志の大いなる一歩を祝福したまえ」

イルマイアスが大きな声でそう叫ぶと、周りに立つ信者達が拍手と共に沸き立った。皆、私に対して祝福の言葉や応援の言葉を叫んでいる。

「皆がキミを歓迎しているよ。蔭山同志」

イルマイアスは優しくそう呟き、私の手を掴んで円の中心へと連れてきた。私は周囲のあまりの迫力に圧巻され、ただただ彼について行くことしか出来なかった。これらは恐らく「エルマ」特有の何らかの宗教的儀式なのだろうということは理解出来た。だがこれの意味するところや、自分の置かれている状況は全く理解出来なかった。

「初めての異世界跳躍は誰だって緊張するものです。でも、大丈夫!肩の力を抜いてリラックスしてください」

円の外れにいる久慈が私に向かって叫ぶ。私が久慈にどういうことかを聞こうと声を上げた刹那、体に妙な浮遊感が訪れた。全ての音が遠のき、視界が急激に歪んだ。

そして次の瞬間。

一瞬のうちに、私の眼前に見知らぬ都市が現れた。

「初跳躍おめでとう、同志」

横を見るとイルマイアスが立っている。彼はつい数秒前と全く同じ距離のところにいて、私の方を向いて拍手をしていた。

「これは…え?…何…?」

私が困惑している姿を見て、彼は何かを察したようだった。

「初めての異世界だ。一瞬すぎて何が起こったのかわからんのだろう?誰だってそうだ。仕方ない」

呆然と都市を眺めていると、今までに目にしたことがない文様が目に飛び込んできた。線と円からなる微細な文様、それが文章のように羅列されている。いや、恐らくそれは文章そのものだ。奇怪な文様一つ一つは、恐らく文字なのだ。

「ここは…どこなの?」

「ここは異世界の、ユニバース733の地球さ。少しばかり君たちの地球とは文化が違うがね」

私の問いに対して、彼はふざけた様子もなく至って真面目に回答した。

「異世界?…ありえない…そんなの」

「ありえない?…君はエルマを信ずる者なのだろう?」

イルマイアスは首を傾げて訝しんでいた。

「久慈が連れてきたということは、とうに異世界を受け入れていると思っていたが…」

イルマイアスを他所に、私は自分の中で答えを導き出そうと必死だった。一瞬で起こった常軌を逸した事態に、私の頭はパンク寸前だった。瞬きするよりも短い間に目の前の光景が変わったのだ。気絶したわけでもなく、眠っていたわけでもなかったはずだ。

「ここは…本当に…異世界?」

「あぁそうだ。異世界だ」

「………」

私は迅速にバッグから拳銃を取りだし、イルマイアスの顎に突きつけた。

「私を帰しなさい」

「…最近のニホンジンは銃を携帯してるのか?いや、確かユニバース58のニホンでは銃の携帯は禁止のはず…いや、それはユニバース59の事だったかな?いや、59にはニホンが…」

何かをブツブツというイルマイアスに私はより強く銃口を押し付けた。彼は溜息をつき、私に落ち着くように諭した。

「異世界に来たいと言ったのは君じゃないのか?なぜ私にこんなことをする?」

彼は静かに私の目を見た。

「…帰して。元のところに」

「いや、帰さない。今帰れば時間流圧のズレで君は遥か進んだ時代に辿り着くことになる。ここの時間流圧は少なとも1秒で10ヶ月以上経つんだ。まずは一旦"宇宙船神殺し号"へと跳躍して経過年数を調整してから──」

「帰しなさい!」

私が叫ぶと、イルマイアスは口を噤んだ。その後も何かを言おうとはしていたが、それ以上語ることは無かった。彼は懐から小さな機械を取りだして私に手渡すと、機械のボタンを操作した。

「この装置は跳躍前のユニバースへと強制的に帰還することが出来る装置だ。…ここを押せば帰れる。…時間流圧差は解消できんがな」

私は銃口を向けたまま彼から離れ、そしてボタンを押した。

「帰れるならなんでもいいわ」

私は再び浮遊感に包まれた。

そしてまた、次の瞬間には世界が変わった。

私は、何故か何も無い更地に立っていた。恐る恐る周りを見ると、見慣れたコンクリート製のビルが立っている。看板には日本語が書かれていて、路上を行き交う人々も至って普通だ。

私は走り、ひとまず人目のつかない路地へと入った。一刻も早く、公安総務課第10係へと報告をしなくてはならなかった。今起きた奇妙な体験を、伝えなくてはならなかった。携帯のディスプレイを見て、番号を押す。その番号は10係が捜査で使用するために用意した緊急回線だった。

だが、電話は繋がらなかった。画面をよく見ると、何故か電波が入っていなかった。その後もうろつきながら電波が入るか試したが、どこに行っても電波は入らなかった。そこで私は仕方なく、公衆電話を探すことにした。

土地勘はあり公衆電話の位置ならばだいたい知っていた。だが、どういう訳かあったはずの場所に公衆電話がない。さんざん探し続けて公衆電話を見つけたのは、夕方になった時だった。私はやっと見つけた公衆電話に駆け寄り、公安の緊急回線への電話をかけた。

『────はい。こちら公安緊急回線』

繋がった。

「"蔭山"…いえ、10係の"田中"です。捜査中の『エルマ』のことで緊急の報告です。都内の──」

私は、自らが体験した超常的な現象を説明しようと試みた。

『10係の田中ぁ?……ちょっと待ってください………うーん……そんなやつウチにはいないが…』

「え?」

私の試みは予想外な反応によって打ち切られた。

『…公安の緊急回線にかけてくるってことは…公安関係者か?それとも………誰だ?』

私は、ただ黙って電話を切った。

ややその場に立ち尽くした後、状況を整理するため一旦自宅に戻ることにした。とりあえず、私は限界に達している頭を休ませたかった。

歩道橋の上でふと街を見た。すると、そこには見たことがない巨大な建築物が空に向かって伸びていた。

「……何あれ?」

驚きのあまり、私は我を忘れてしばらくそれを眺めていた。通りがかったマスクをつけた若者が目に入り、呼び止めてあの建築物が何なのかを聞いた。

「…何言ってるんですか?あれ、東京スカイツリーですよ?」

私が目を丸くしていると、彼は「もういいですか」と言って去っていった。彼は何か平べったい端末のようなものを持ち、ずっとそれを見ながら歩いていた。

周りを見渡すと何故かほとんど全員がマスクをつけていた。


2020

自宅のあるアパートに帰ると私の住んでいた部屋には別の人が住んでいた。同僚や友人らの家を訪ねてみたが誰一人として私を覚えている人間はいなかった。路上に捨てられた新聞紙を拾い、私は今が西暦2020年であることを知った。わずか2分もなかったであろう異世界跳躍の間に、この世界では14年の歳月が流れてしまったのだ。その後の私は東京を放浪し続けて公園や駅前で寝泊まりした。

3月下旬のある夜。深夜にも関わらず、駅前で毛布にくるまって寝ていた私に1人の青年が声をかけた。黒いジャンバーに黒いズボンをはいた男で、顔はよく見えない。闇夜に紛れるような黒い服を着た怪しい男。私は咄嗟にホームレス狩りではないかと警戒した。

「田中さん、ですか」

彼は、私の名前を呼んだ。どこの誰かは知らないがこの青年が私の存在を知る唯一の人であることは間違いなかった。名前を呼ばれただけなのに私は嬉しさで涙を溢した。ひとしきり泣いたあと、私は小さな声で「はい」と答えた。

その後私は、その青年の所属するある組織によって保護された。その組織の名は「財団」。彼らは絶大な影響力を持った秘密結社らしかった。

私は彼らによって新しい衣食住を与えられ、ホームレス生活をしてから患った指先の凍傷の治療も受けた。そして私は、彼らの尋問を受ける中で様々なことを知った。

既に警視庁公安部公安総務課第10係は「エルマ」を捜査の対象としていないこと。「エルマ」はエルマ外教として「財団」の調査対象となっているということ。私は2006年の「エルマ」への潜入捜査中に行方不明となっていたということ。そして、私に関連する事項は機密情報にあたるとして「財団」が全て隠蔽したということ。私に接点のあった人物の記憶を記憶処理という技術によって消し去ったということ。

これらを知ると共に、もはやこの日本の中に自分の居場所など存在しないということを悟った。

全ての聴取が終わった日、私は「財団」の職員にここで働くことは出来ないかと申し出た。記録も、記憶も、私に関連する全てのものは「財団」の記録以外には残されていないのだ。彼らの記憶処理という技術があれば、私は全てを忘れて人生をリセットできるだろう。そうなってしまえば楽なのかもしれない。

ただ私は、せめて、私の事を覚えていてくれる場所にいたかったのだ。

複数回に及ぶテストと検査の後、私は「財団」にエージェントとして雇用されることとなった。公安時代の高い諜報技術が評価されての事だった。


2020年9月。今私は、エージェント・田中としてある組織──GoI-101への潜入と諜報という任務を担っている。今日の目的は、あるオブジェクトについての情報を引き出すことだ。

対象に接触し、自身が信者であると偽る。



14年前このまえと同じように。



インタビュー記録.2163-JP.01

[前半省略]

エージェント・田中: 新宿でムベべっていうやつのポスター見たんですけど、あれってなんなんですか?

久慈氏(日本エルマ 関東支部 布教勧誘担当者): あぁ、ムベべ星行きのバスね。あれねー。私たちの名義で貼ってるけど、直接運営してるの別のユニバースの人達だからねー。詳しいことはわかんないかなぁ。

エージェント・田中: そもそもムベべ星ってなんですか?

久慈氏: ムベべ星はねー。ちょっと前に文明が滅んだ惑星だね。2004年辺りだったかな?

エージェント・田中: 滅んだ?

久慈氏: そうそう。詳しいことはわかんないけどね。僕行ったことないし。というか、行けるわけないんだけど。

エージェント・田中: どういうことですか?その、行けるわけがないって?



[後半省略]

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