土塊の帝国(パート3)
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ダエーヴォンは燃えていた。通りはご馳走となった肉とけばけばしい軟骨で溢れかえり、その煙が寒さと薄情な太陽を覆い隠していた。奴隷の穴が燃え、荘園と庭が燃え、広場には異形の群衆がうようよしていた。噴水からは赤と茶色が迸っていた。肉の柱が石碑や寺院に絡みつき、空に茶色の霧を吐き出していた。時折遠くからマスケット銃の銃撃音や遊牧民に襲われるマンモスの鳴き声が響き、そして静まっていった。

世界の全てが死のうとしているかのようだった。

ケアンと呼ばれる奴隷がピラミッド神殿の頂上に立って街を見渡し、街が死ぬのを見ていた。帝国はその死の過程における最後の激痛の最中にあった。間もなくここにあるものは全て消え去り、白橡色しろつるばみいろのステップと旧き病める風だけが残るだろう。

今やケアンに主人はいなかった。芸術家は奴隷商人と共に絹のシーツの上でもがき、互いの体を溶け合わせ、膨張させていた。恥辱の冠を戴く有角の王への不滅の芸術の捧げ物だ。この階段の静けさはごく一時的なものに過ぎない。この場所の平和は長くは続かないだろう。

彼は街に背を向け、かつて巨大な鉄の扉があった場所に開いた穴を通り抜けた。その扉はバラバラに引き裂かれ、金属のはずがちり紙のようにグシャグシャに潰れていた。
神殿の中は血と臓物で汚れ、壊れた武器や引き裂かれた衣服、砕けた偶像の石の死体が散らばっていた。神殿守、白の侍祭、聖職者、そして赤いローブを着たそれよりもなお位の高い聖職者、その全てが細切れにされていた。

「兄弟よ」声が主祭壇の上の玉座から轟いた。「私は奴らがお前に新たな腕を与えるのを見たぞ」

「ええ」ケアンは言った。「そして私はお前が新たな腕を生やすのを見た」そこには再び母国語を使う事への微かな、悲しき懐古の念があった。その言葉を話さない時間はあまりにも長かったのだ……

人影は玉座から降り、主祭壇を通り越して暗闇の外へ踏み出した。アブ=レシャル、ダエーヴォンの一の剣がここに立っていた。都合八フィートの筋肉は雨風で痛み、傷つき、刺青が入っていた。何度も破壊されてきた野性的な鼻、強い顎、歪んだ歯、くしゃくしゃの髪、どれもケアンが川の土手で一緒にボール遊びをした少年の特徴だった。

「まさか奴らがお前を褒賞品にするとはな」

「彼らは私をつまらないものだと思ったのですよ。手元に置いておくほど興味を引かないものだとね。一の剣を脅かし、そして見逃された男」ケアンは髪を払い、額の焼印をあらわにした。クック。奴隷が持ち得る最上級の等級。「どうやら私は会話のきっかけとしては素晴らしいものだったらしい」

「なるほど」アブ=レシャルは束の間浮かんだ考えに気を取られてしばし沈黙した。「我が兄弟よ、どうしてここにいる?」

「お前を連れ帰るために」

アブ=レシャルは首を横に振った。

「私はこの大陸中に血液をもって有角の王の福音書を記した。私の過ごす人生の全てが今や奴の糧となる。私は心が深淵に呑まれゆくのを感じるんだ。そして遠くないうちに全てが消え去り、獰猛な心無い動物だけが残るだろう。私は呪われているのさ、兄弟。だが私は残された時間で私にできる事をする。この帝国とその神全てをざわめき唸る地獄の狂気へと連れて行くんだ」

「まだ希望はある」

「これが私にはふさわしいのさ。不注意と天罰だよ。私は私たちの故郷を荒廃させ、声を滅ぼし、そして生命の樹は死んだ。ダメだ。お前は帰れ。帰って生き残りの標となれ。そこがお前の場所だ。そしてここが私の場所なんだ。果たされない贖罪を追い求める事が」

アブ=レシャルは溜息をついた。

「七人の花嫁は死んだ。文字の綴り手と吊られた王も死んだ。ワンダーメイカーにチャウ=ダー=クレフにそれ以外の奴らは皆逃げた。残るはモルクだけだ。奴は軍勢を集め、私のいるこの場所に導いて……そして軍勢は私を打ち破るだろう」沈黙。「この街から離れた方がいい。奴らが来る前に」

ケアンは頷いた。言うべき事は言った。彼らは再び出会うだろうと彼には分かった。そしてそれこそが最後の邂逅となるのだ。全てが成し遂げられた時、彼らは互いを打ち倒す。

彼は何も無い入り口へと戻って行った。モザイク床に足音が響いた。

「兄弟よ」

ケアンは振り返った。

「神が貴方を導くだろう」アブ=レシャルは言った。

「そして貴方も」

ケアン、声を聴く者アダマンの息子、谷の民の祭主、最初の殺人者、呪われし放浪者は、視界から消え、西へと向かった。

アブ=レシャル、声を聴く者アダマンの息子、谷の民の盾にして守護者、大いなる裏切り者、青銅の神の破壊者、ダエーヴォンの一の剣、西方の虐殺者は、高位聖職者が座る主祭壇の黒い玉座に戻り、座ってその目を閉じた。

日が沈み、日が昇った。

日が沈み、日が昇った。

日が沈み、日が昇った。

日が沈み、日が昇った。

彼らは来た。剣とマスケット銃と軍用獣がピラミッド神殿に溢れ、そして彼らの先頭には、神がいた。

アブ=レシャルは目を開き、立ち上がり、剣を取った。

モルク、恥辱の冠を戴く有角の王は、喜んだ。

アンリ・ド・モンフォールの車のバックミラーには、シナモンアップルのエアフレッシュナーの隣にダサい飾りがぶら下がっていた。特に変わっているようには見えないその飾りは、一対の羽と頭の上に金色の輪を持つ、微笑みを浮かべた人型で、「守護天使が飛ぶより速く運転しないようにしよう」と書かれた巻物を持っていた。

実際にはアンリ・ド・モンフォールはその制限を超えた速さで運転してはいなかった。けれど彼は車が物理的に出し得る速さを超えた速さで運転していた。モンタークは飛ぶ速度は速いが、彼が宿る人形が持っているような巻物も、光輪も、羽も持ってはいなかった。ついでに言えば手と足も。

サラーは助手席に座り、カートリッジをマガジンに装填していた。彼は出発してから何度かしか喋っておらず、その代わりに聖遺物の確認と再確認に集中していた。ド・モンフォールはそれが彼が一人でいた場合よりも良い状態だと確信した。大きな危機は回避された。

それは数ある問題のうちの一つに過ぎない。計画は最も基本的なアウトラインしか無かった。「侵入し、メアリー=アンとナオミを救出し、脱出する」という計画だ。それは事実上使い物にならなかった。彼らはサイトの設計も、財団がそこで何を収容しているのかも、彼らが立ち向かう相手が何なのかも全く知らなかった。道には十万個の変数が立ち塞がっていた。

けれどサラーは彼らは成し遂げられるのだと確信していた。ド・モンフォールにはそれがはっきりと見て取れた。サラーは完全に、絶対にこの救出をやってのけると確信していた。変数は存在しなかった。手段の代替は不可能だった。どんな提案も、反対するものならどんなに論理的であろうとも却下されただろう。彼の死以外は全て些細な問題だった。

「奴らは私たちを待ち受けているだろうな」

「奴らはまだ俺が死んだと思っているかもしれない。それがアドバンテージになり得る。それに奴らはもっと別の種類の反撃に注意を向けているだろう。財団ってのはこうだ。影と秘密を扱い、他の奴らも同じようにすると思っている。奴らの隙を突くのに最も簡単な方法は堂々と攻撃する事だ。それは奴らが予想するだろう中で最も起こりそうにない事で、奴らが準備しているだろう中で最も起こりそうにない事だ」

「正面扉をぶち破ろうとするのは馬鹿だけだから、か」

「その通り」

「私はもっとひどい計画を承認したことがあるぞ。インクブラッドについては?」

「俺はその源泉がサイトに収容されていると仮定している。インクブラッドについてだが、奴らは財団のエージェントのままで、財団のエージェントのように考える」

「なら実際には潜入ではないな。もっと間接的なものだ。外部の第三者はいないのか?」

「感染源の向こうにってことか?いないだろうな。行動は誘導しているんだろうが、コントロールはしていないだろう。インクブラッドは自発的に動く」

「なるほどな」

沈黙が場を包んだ。ド・モンフォールは頭の片隅に少しばかりあの狂気、これは上手くいくんだという信仰心を、そして強い伝染性を持つもの、信念を感じた。

ああ、もし死ぬのなら良い事をする方がいい。

「私たちは完全に狂ってしまったらしい」と彼は言った。

「違うさ。ただ世界のあり方に気づいただけだ」

休憩室はメアリー=アンに病院の待合室を思い出させた。ウォータークーラー、当たり障りの無い家具、コーヒーテーブルの上に置かれた古いタイム誌。快適で、しかし快適すぎはしない。その下にピンと張ったゴムバンドのような緊張を隠した、快適さのイミテーション。

メアリー=アンは手の中の空のスチロールコップを覗き込んだ。茶は無くなった。別れを告げ、心を落ち着けるために一人の時間を取っていいとレドモンドは言った。彼女は祈ろうとした。しかし言葉は虚しく、天に届いたのだという安心感を生む事なく彼女の頭の中で反響した。彼女は孤独だった。

ごめんなさい。

彼女はコップをゴミ箱に放り込んで、抱っこ紐を持ち上げた。ナオミはまだ眠っていた。きっと一瞬の事だろう。きっと痛みは無いだろう。

きっと。

「いいわ。準備はできた」

レドモンドは頷き、ついて来るように合図をした。廊下を行き、角を曲がり、別の廊下を行く。メアリー=アンは自分が自分自身の心臓の重みで落ちていくかのように、曲がりくねった吹きさらしの道をよろよろと歩くトウモロコシ人形1になったかのように感じた。

廊下の終わりには金属の上に黄色くSCP-089と文字が刷られた防爆扉があった。エージェントがアクセスコードを入力し、キーカードを滑らせた。金属が金属を擦って扉が開いた。

像はチャンバーの向こう側の端にあった。玉座に座った牛頭の男。腕は外側に伸び、翼は広げられ、口は開いている。粗雑で、醜く、恐ろしい見た目のもの。大量の木材がその隣にあった。彼女はそれが何のための物なのか知っていた。

扉が後ろで閉まったのでメアリー=アンは不安になって喉をごくりと鳴らした。

アブラハム、お前の息子イサクを、一人息子を、お前が愛する者を連れて、モリヤの地へと行け。そこで彼を生贄に捧げるのだ……

部屋の端は彼女が近くにつれて広がっていくように見え、像は思ったよりも高く聳え立っていた。寒気が彼女の背中を駆け上がった。彼女は、彼女の周りに、像から放たれる存在感を感じ取った。何か大きく、縁遠い、非人間的な、あの虚ろな穴を更に押さえつけて引き裂くもの。

彼女は孤独だった。完璧に、完全に、絶対的に孤独だった。財団もイニシアチブもいない。サラーもいない。神もいない。ここでは彼女と、ナオミと、そして像とその力だけが、空虚な深淵の中に浮いていた。

炎がゆらめき、消えた。

メアリー=アン、お前の娘ナオミを、一人娘を、お前が世界で一番愛する者を連れて、サイト-36の深くへ行け。そこで彼女を生贄に捧げるのだ……

少なくともこれが為されたなら、何百万の人々が何も起きなかったかのようにそれぞれの生活を送り、今日は何も起こらなかったかのように一生を送るだろう。その日は他の日と同じように、喜びと悲しみと退屈と不安と怒りと愛と憎しみと笑いと涙と誕生と結婚と葬送と人生で満たされている。百万日の今日、百万日の明日、そしてその先。

少なくとも、ナオミは彼らを救うだろう。

神はその一人息子をお与えになるほどにこの世界を愛された……

メアリー=アンは像の足元にいた。彼女は抱っこ紐を置き、ナオミをその外に出した。彼女の娘は腕の中で身じろぎしたが、眠り続けていた。メアリー=アンは娘の額にキスして、最後にもう一度抱きしめた。

「さよなら、ナオミ。愛してる」

彼女は片手を伸ばし、像の胸を開いた。優しくナオミを中に置いてハッチを閉めた。彼女は身をかがめて玉座であった炉を木材と焚きつけで満たし始めた。丸太小屋のように作れ。彼女のカウンセラーが過ぎ去りし日にサマーキャンプで言った言葉だ。大きな木材を外側に、焚きつけと火口を中央に。

ライターがそこに、木材の隣の床に転がっていた。ウォルマートで買える安物のプラスチックのものだ。

神よ、あなたの御手に、彼女の魂を委ねます。アーメン。

答えは無かった。

メアリー=アンは火をつけた。

2009年製のホンダCR-Vが時速二百マイルでサンダーソン化学プラントSanderson Chemical Plantの正面ドアを突破した。金属が金切り声を上げ、砕け曲がって、ガラスと壁の破片のシャワーの中で炎上した。火と口と目玉に包まれて転がり、ハルクが最後には止まるようにして安全に着地した残骸からサラーとド・モンフォールが飛び降りると、蝶番が千切れてドアが落ちた。

彼らは侵入した。ステップワン、完了。

ナオミは悲鳴を上げた。その音はスピーカーから鳴るドラムとシンバルが奏でる不協和音と、チャンバーを揺るがす轟音によってかき消された。像の口と鼻孔から油煙が吹き出した。轟音はなお大きくなり、震動がなお激しくなった。

メアリー=アンの持っていた、彼女は良い事をしていると保証するあらゆるものが叫びと共に粉々になった。彼女はそこに立っていた。震えながら。動くこともできずに。胆汁が喉元で凍り、涙が煙で赤く腫れた目から湧いて出た。

彼女はやった。娘を生きたまま燃やしたのだ。

人殺し

彼女は五十万の、それ以上の命を救ったのだ。

化け物め

最終的にナオミは煙で気絶し、叫び声は止んだ。彼女は肺に空気を求めて哀れにももう幾度か喘いだ後に死ぬだろう。

お前が殺した。

それが終われば、脂肪が燃え肉が焼ける匂いが煙と共に湧き上がってチャンバーに満ちる。

お前には死すら生温い。

全てが終われば扉が開き、そしてそこには灰と焦げた骨だけが残る。

お前は苦しんで当然だ

小さな、焦げた骨だけが。

違う。

ド・モンフォールはエージェントの頭にロバの顎骨を叩き込み、液化させた。その後ろではサラーが燃え盛る白い銃弾の嵐を廊下に撃ち込み、インクとボディアーマーを一緒くたに焼いていた。

メアリー=アンの腕が飛びかかり、激しい熱を無視してハッチをこじ開けた。彼女はナオミを像の外に出し、チャンバーの反対側、像から離れられる限り遠くへと走った。ナオミは咳き込み、喋り、喘ぎ、泣いた。彼女の皮膚は皮が剥けて赤くなり、焼けていた。

「いやいやいやいや……ああ神よお願い、やめてください……ごめんね、ごめんね、ごめんね……うううあっああうああ……大丈夫だから、ママはここよ。うあああっうううあ、ママはここよ……私の愛しい子、一人だけの愛しい子……空が曇った日もあなたが私を幸せにしてくれる……」彼女の声は絶望に狂った調子になった。彼女がナオミを助けたのはただナオミを自分の腕の中で死なせるだけのためだったのだという厳然たる理解が彼女の心の表面に浮かんできたのだ。

咳と喘ぎが止まった。

そんな……

メアリー=アンはナオミの首筋に指を当てた。そこには微かな脈があり、口からはわずかに息の音がしていた。今は。メアリー=アンは息を凝らして壁に背を預け、できるだけ優しくナオミを膝の上に乗せた。もしナオミが死ぬのだとしても、この方がいい。あんなもののはらわたに置き去りにされて一人で死ぬよりこうやって死んだ方がいい。

再び震動で部屋が揺れた。ナオミはほんの少しだけ目を開けて、痛みから身を守ろうとするかのようにメアリー=アンの胸に身を預けた。

この子は私があそこに入れたのを知らない……炎の中で目を覚ましたこの子を私が救ったんだ……

赦されたが故の痛みから涙が再び溢れ出た。

「大丈夫。私はここにいる」

壁にマリナーラソースのスプラッタを作った麺のような巨大な器官は財団エージェントの作った封鎖を破壊した。それは来たところへと戻る前に、通過するサラーとド・モンフォールに向けて自身をサムズアップのような形に捻った。

メアリー=アンはその場に座り、像が煙を噴き出し炉が明るく燃えるのを見ながら、下の大地の鳴動に耳を傾けた。まだ来ていない財団エージェントへの、そして中途半端な儀式によって起こるだろう脅威への疑問が彼女の頭の中に浮かび、すぐに消え去った。そんな事はどうでも良かった。今考えるべき事ではない。

奇妙な平穏がメアリー=アンに訪れた。それは死刑囚が最後の夜に感じた平穏と同じ類のものだったかもしれない。ナオミは未だ彼女を愛していた。ここで、全てが終わってさえも。それで十分だった。虚無感を埋めるには十分だった。世界が彼女を完全に押し潰さないようにするには十分だった。暗闇の中に小さな炎を灯し続けるには十分だった。

それで十分だったのだ。

メアリー=アンは殺してきた。多くの人間を殺したが、その中には殺される必要の無い人間もいた。それが、人々が平和に暮らせるように命を奪うことが彼女の人生だった。闇と光の間の醜い血塗れの境界に立っていたのは誰かがそこに立たなくてはならなかったからだ。彼女は多くの命を世界から奪い、たった一つの命を与えた。そしてその小さな命を滅ぼそうとした後でさえも、彼女はまだ愛されていた。

それで十分だった。彼女は化け物ではなかった。彼女は生き続けることができ、痛みに、罪に、恥に耐え続けることができた。ほんの少しの愛で世界は明快になった。

彼女は独りではない。

神がそこにいた。死にかけの子供と、広大で心無く不条理で恐ろしい宇宙の最も深い穴に嵌っている壊れた母親の間の、ほんの少しの愛の中にいた。神はそこにいて、他の全てのものが剥ぎ取られて初めて認識できた。ほんの少しの儚い愛が、彼女を取り巻くあらゆる痛みを、あらゆる悲哀と苦悩を、その全てを超えていた。

平穏。彼女は平穏の中にいた。

メアリー=アンの眼差しは再び像へと向いた。その存在感は未だそこにあったが、今は小さくなっていた。その存在感はまやかしだと彼女が知った今、それは小さくなっていた。彼女が以前に感じた絶望、それは嘘だった。彼女を絶望させるための嘘、彼女の精神を壊すための嘘、彼女を恐怖させ、そして恐怖を通して彼女を恐ろしい行為に導くための嘘。彼女にその行為を進んで行わせるための大きな嘘。

臆病者の策略。影の後ろの恐怖に隠れて人類に自らの絶望をぶちまける、ベソかきで、歪んだ、哀れな力の業だ。決してあからさまではなく、決して強引なものではない。それは人々を壊した。嘘と恥で人々を恐怖に陥れ、より大きな堕落へと駆り立てた。そしてそれを糧とした。臆病者であったもの、この力は、絶望を糧として強く老いた。

鬱陶しい。

メアリー=アンは像と朦々とした煙に中指を立て、ナオミにギターを弾いた時以来の笑みを浮かべた。

「いいわ。やれるもんならやってみなさい。そんなにこの子が欲しい?なら私が相手だ」

「この部屋だ」

「分かった」ド・モンフォールは防爆扉を殴りつけた。

メアリー=アンは金属がバリバリと鳴るのを聞いて背を強張らせた。扉に巨大な凹みができ、それから別の凹み、凹み、そして拳が金属を引き裂いた。手が引かれ、殴っていた者は頭が通るほどに裂け目を広げた。穴から突き出たヘルメットを被った頭は、アンリ・ド・モンフォールだった。メアリー=アンは今にも笑い出してしまいそうな気がした。

「メアリー=アン」彼は礼儀正しく会釈すると頭を引っ込めた。更なる軋み、更なる破砕、そしてド・モンフォールは穴を人が入れるほどに大きく引き裂いた。

サラーが穴から入って来た。

「メアリー=アン!」

彼は穴とメアリー=アンの間を一瞬で越えて、妻の隣に膝をついた。彼の目には涙が溢れていた。

彼は救出任務を完遂したのだ。

「大丈夫か?怪我は?何か……ああ、なんてこった……」彼はナオミの今の状態を認識し、顔に恐怖の表情を浮かべた。

「生きてるわ」メアリー=アンは言った。「でも治療が必要。すぐに」

「分かった。アンリ、この子を安定させるためにマチルダを使うことはできるか?」

「実験した猫は問題無く出て来た。だから—」

「使うぞ」サラーはメアリー・マッキロップ2の傷んだ古い旅行鞄を肩から下ろし、口を開ける限りに大きく開けた。メアリー=アンは彼にナオミを渡した。彼はナオミをそっと袋の中に入れると、紐をきつく引いた。彼女は取り出されるまで停止状態になるだろう。

メアリー=アンは立ち上がり、腕を伸ばした。今や全てが明快だった。彼女の目の前には未来が広がっていた。彼女には何が起きなければならないか分かっていた。何をしなければならないか分かっていた。力は地響きが轟音を立て、濛々とした煙が広がる度に近づいて来ていた。臆病者たるもの、それは強力な臆病者で、そして彼女はその仕事を脅かしていた。

サラーは彼女の隣で鞄をもう一度肩にかけた。

「アンリ。状況はどうだ?」

「奴らがエレベーターに仕掛けたやつを越えてくるまでは一分半ほどありそうだ」ド・モンフォールは扉の反対側から言った。サラーはメアリー=アンに腕を回した。

「行こう」

メアリー=アンは微笑み、首を横に振って、サラーの腕を解いた。

「あなたたちはナオミを安全なところへ。私はここでやる事があるの」

「なんだって?」サラーの顔は一瞬にして安堵の表情から唖然とした顔に変わった。「メアリー=アン、君を置き去りにはしない。ここから逃がせるんだ」

「そうじゃないの。あの火傷がどうしてできたか知りたい?あの子は私があの炉に入れたから焼かれたの。あのすぐそこのよ。あの像の後ろには力がある。それが嘘をつき、企み、あの子を生きたまま焼こうとするほどに私を惑わせた。あいつを殺す」

唖然とした顔は恐怖の表情へと変わった。

「メアリー=アン……」

「行って。追いつくわ。私を信じて。大丈夫だから」

サラーは何も言わなかった。メアリー=アンはそれに驚きはしなかった。彼の目に映る恐怖と安堵と怒りと気遣いの裏に、メアリー=アンには理解が見て取れた。彼女は彼を抱きしめ、キスをした。

「家に帰ったら私のドレッサーの靴下の引き出しの下を見て」彼女は言った。「あなたのためになる物があるわ」

「分かったよ」

「愛してるわ」

「俺も愛してる」

「ひょいっと」メアリー=アンはサラーのベルトから長い黒曜石のナイフを取った。「これ借りるわね。あなたたちは行って」

「ああ」サラーは少しだけ躊躇したが、穴の外へ飛び出した。

二人の足音は轟音に飲み込まれた。メアリー=アンはナイフを手に持ち、今や濛々とした煙に覆い隠された像に向かって静かに歩いて行った。刃は信じられないほどに鋭く、彼女はそれをそれ以上の物だとは思っていなかった。彼女に必要なのはとても鋭いナイフだけだった。

サラーは自分のした事が信じられなかった。メアリー=アンの救出が終わった後、彼は進んで彼女を置き去りにしたのだ。彼の怒りは消えていた。彼女が勝つと信じていたからではない。彼女が勝つと知っていたのだ。それは確かで、明日太陽が昇るのと同じくらい間違いの無い事だった。

さて、自由を得るまでもうひと頑張りだ。生き残ったインクブラッドと衛兵は体勢を立て直していたが、サラーは一時空間を満たした黒の銃弾と斬撃に悩まされていないことに気づいた。それは家に帰る途中のちょっとした障害でしかなかったのだ。

煙は今や巨大な塊となり、柱となり、渦を巻いて雷を轟かせた。揺れはほぼ一定になっており、深みで鼻歌のように鳴っていた。

メアリー=アンはナイフを手から手へと放った。臆病者はその姿を表していたが、彼女は恐れなかった。備えはできていた。彼女の痛みは溶け去り、強さに変わった。彼女が出会ったすべての人々から、復讐と正義のために叫ぶすべての母親と子供たちから、力を与えられていた。

柱はコンパクトな黒い塊へと崩れた。最後に揺れがあり、像は爆発してチャンバーに誘拐した青銅と粘土の破片を撒き散らした。煙が何も無いところへ溶けていった。

煙が出ていた場所に立っていたのは男のようなもので、十フィートほどの身長と毛むくじゃらの雄牛の頭、湾曲した角、そしてボロボロのカラスの羽を持っていた。その頭の上には変色した青銅の不格好な王冠が乗っていた。粘土と石炭と古い汗の臭いがした。唾液と泡が床に滴り落ち、蒸気を発生させていた。

それは鉛のような足音を立てて前に進み、メアリー=アンの数フィート前で止まった。それはお辞儀を真似るように背中を丸めて低く身をかがめた。

「バビロンの売春婦万歳!」それは顔を上げた。その唇は形だけ真似たような雑な微笑みを浮かべていた。メアリー=アンはその二つの漆黒に目を合わせた。彼女の目に恐怖は無く、彼女の顔にも恐怖は無かった。

「お前は勇敢で、愚かだ。売春婦」それは大陸が動いたかのような声を響かせた。「その小さな叛逆をもって強大なるモロクへ挑むと言うのか。アブ=レシャル、ダエーヴォンの一の剣その人でさえ私を倒せなかったというのに。おまけに調理ナイフだけでそれを為そうと言うのか?愚かさに愚かさを重ねているな。私はお前の名を呼んだ。メアリー=アン・ルウィット。お前は私のものだ」

メアリー=アンは何も言わなかった。

「舌が無くなって残念だな、売春婦」

まだ何も言わない。

「お前の沈黙は疲れるな、売春婦よ。話せ。嘆願しろ。お前の無力な空の神に救いを求めろ。私の慈悲を請うのだ。望む事を言え。お前の沈黙はつまらん」

メアリー=アンはモロクの顔に頭突きした。

車の残骸と出口が見えてくると、 SUVに積まれた投光照明の光に照らされた分厚い影のようなものが外で待ち構えていた。

「くそっ!」ド・モンフォールは唾を吐いた。サラーが瓦礫の山の陰に身を潜めている間に、彼は車から金属片を引き剥がして盾のように前に掲げた。

彼らを守れ。

「モンターク、どこにいる?」

そこだ。近くに小さな火花が飛んでいる。跳び、転がり、ダサい小さな飾りを掴んでサラーに投げる。

「モンターク、彼らを外に!」

サラーは地面が下に落ち、彼が夜の中に飛んで行った時、自分が炎と目の旋風に囲まれているのを感じた。彼は暗闇に包まれる前の一瞬、エージェントたちとその車の列に突進するド・モンフォールを垣間見た。

その瞬間の怯みが驚きによるものか痛みによるものかにかかわらず、それは大きく開いたチャンスだった。伏せて、前に進み、立ち上がって、睾丸に一振り、横に方向転換。コンクリートの床に蒸気を上げる血液が飛び散り、モロクは痛みに吠えた。鉄と硫黄のような臭いがした。

彼女の頭の中で星が弾けた。拳が彼女を殴り倒した。骨が折れた。革のような太い指が彼女の髪を掴んで床から持ち上げた。頭皮が引き裂かれて出血した。彼女は叫んだが、その音は神の怒号による炉の一吹きに掻き消された。彼女の皮膚は熱で剥がれ、水膨れになった。ナイフを振り回すと刃が分厚い皮膚に当たった。モロクは彼女を壊れて血を流すぬいぐるみのように脇に投げ捨てた。

メアリー=アンの体は転がってぐったりと静止した。神は鼻を鳴らして横たわる彼女に近づき、仕事を終える準備をした。彼女の体を掴み、口元へと運んだのだ。

ナイフがモロクの目に深く突き刺さった。モロクは吠え、そしてナイフは戻って再び顔に、首に、目に、鼻に突き刺された。モロクはメアリー=アンを床に落とし、その顔から血を流した。肋骨が割れると共に彼女の肺から空気が出て行った。

「死すらお前には生温いぞ売春婦」モロクは叫んだ。「誰もが最後には恥の重さで壊れるのだ。足を大きく広げて泣き叫び、犯され投げ出された夜の事を覚えていないのか?お前は一時の喜びでしかなかった。彼らが右手に飽きていたからというだけで選ばれた尻軽女に過ぎない」モロクの顔はメアリー=アンのすぐ側にあり、その炉の吐息が焦げた肉の臭いで彼女を包んでいた。「あいつがお前の事を気にかけていると思うのか?あいつは孤独で自暴自棄な男でしかない。あいつがお前のような無価値なクズを引き受けたのは他にいい女がいなかったからだ。だからお前を選んだ。化け物と尻軽女。それ以上のものは無い」モロクは彼女の隣に座り、足を組んだ。「我が最も哀れな下僕よ」

動きがあった。メアリー=アンは自分の体を押し上げ、ゆっくりと……ゆっくりと……ゆっくりと……立ち上がった。今は痛みしかなかった。皮膚の皮が剥けて赤くなり、焼ける痛みだった。左腕はぐったりと垂れ下がり、肩は衝撃で砕けて使えなくなっていた。服は裂けて真紅に染まっていた。片目は腫れて閉ざされ、もう片方も引き裂かれた頭皮から流れ落ちる血で見えなくなりかけていた。髪はもつれて真紅の塊になっていた。肋骨は潰れ、全身に骨折。どこもかしこも痛みばかり。痛み。痛み。痛み。痛み。

彼女は微笑んでいた。

「し、し、死ね」最後の力を振り絞り、彼女は手を伸ばしてモロクの目からナイフを抉り抜いた。何千年にも渡る母と父と子が有角の王の血を求めて叫び、励ました。

「死ね」ナイフがモロクのもう片方の目に刺さった。

「死ね」モロクの喉に。

「死ね!」メアリー=アンはモロクの胸に身を投げ出し、血を流す神は背中から倒れた。

「死ね!」また胸を。「死ね!」何度も何度も、。ナイフを刺す度に叫んだ。「死ね!死ね!ハハハハ!死に!腐れ!死に!腐れ!死に!腐れ!お前は犯す母親を選び間違えたのよ、腐れ外道め!」

力の爆発は終わった。終わりがここにあった。メアリー=アンはそれを感じた。まるでずっと待っていた古い友人が通りを歩いて来たようだった。

「へ……へ、へへ……おま……えは……」軋むような呟きの息と共に唇から血が滴った。「逃げる……でも遅かれ……早かれ……」

彼女は最後にもう一度モロクの胸からナイフを引き抜いた。

「神が……お前を討ち果たす」

メアリー=アンはナイフを振り下ろし、モロクの額に深く突き刺した。有角の王は震え、肺から最後の息を吐き出した。彼女は自分の体を死体から引き剥がし、ふらふらと何歩か歩いて膝を着いた。彼女は束の間虚空を見た。唇が何か音無き言葉が始まると共に動いた。

メアリー=アン・ルウィットは血塗れのコンクリートの床に倒れ、死んだ。

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