新人採用過程。その一例
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 阿藤博士の研究室は薄暗い。博士の仕事のためだ。窓には厚いカーテンがかけられ、空調も止まっているのか空気は埃っぽくよどんでいる。天井に取り付けられた大きな最新式の照明は明かりを落とされて、古い卓上灯だけがデスクとその周辺の狭い範囲を照らし出していた。博士は作業に集中する為との理由から、自分以外、つまり、峰研究助手が照明を利用することを唐突に禁じた。三日前の事である。その為峰助手は現在第3世代の暗視装置を自分用に改造したものを着用して仕事を行っている。慣れたものだ。
 机に覆いかぶさるようにして、マネキンの頭部に細筆と針を用いて細工を施していた阿藤博士が大きく伸びをする。暗闇の中から峰研究助手がココアを差し入れた。博士はそれを音を立てて啜り、首を鳴らす。
「峰君」
「はい、先生」
「お使い頼まれてくれない?」
 阿藤博士が助手に丸めた紙束を差し出す。
「これは?」
「備品の申請書、研究会の議事録、お便り箱への返答、資料、その他だ。宛先はリストに記載してあるから、宜しく頼むよ」
「了解しました」
「極秘扱いの書類もあるから、無くしたり誤配したらクビが飛ぶと思い給え」
 脅さないでくださいよ、と困り顔でのっぽの研究助手が頭を掻く。
「あ、ついでに購買でポテチ買ってきてくれ給え。コンソメパンチ」
 はーい、と気の抜けた声で答える峰。扉の開くパシュ、という軽い音と共に光が一瞬だけ研究室に差し込み、すぐにまた暗闇に戻った。室内が静寂に包まれる。博士は卓上灯の灯りを落とすと椅子の背もたれを大きく倒した。
 古い革張りの椅子の肘掛けをそっと撫でると、かすかな空気音と共にそのカバーが開き、赤いつやつやとしたボタンが姿を表す。阿藤はボタンの輪郭をずんぐりとした指先でいとおしそうになぞりながら、歌うような調子で小さく呟いた。
「私は脅しなど言わんよ、峰君」
 
 
 

 
 
 
 ドアチャイムの音で目を覚ます。いつの間にかうたた寝をしていたらしい。卓上灯を点けるとオレンジ色の光が目に刺さった。椅子などで寝てしまったせいか関節が固まって痛い。
 二回目のチャイムが鳴ったところで、寝ぼけ眼を擦ってデスク隅に置かれたマイクのスイッチを入れた。
「誰だね」
『峰です。先生、両手が塞がっているのでドアを開けてほしいのですが……』
「本当に峰君か。例のものは買ってきてくれたかね」
『映像で確認してくださいよ。コンソメパンチならちゃんと買ってきましたよ。お届け物もあります』
 お届け物? はて……。頭に疑問符が浮かぶが、どうやらこの人物は峰研究助手で間違いないらしい。手元のリモコンでドアを開けてやる。卓上灯よりも強い光が差し込んできて、阿藤は一瞬目を細めた。眩しさに視界がぶれる。ぼやけた視界に峰研究助手が二人いるように見えた。目を擦る。二人いた。いや、峰研究助手が二人になったわけではない。荷物を抱えた峰と、その後ろにもう一人、見覚えのない白衣の男がいた。男は薄暗い部屋と阿藤の風体に一瞬戸惑うような表情を見せたが、すぐに峰に続いて研究室の中に足を踏み入れてきた。
「お届け物とはそれかね?」
「あ、いえ、後ろの彼は……」
 峰が何かを言うよりも先に、男がずいと前に出てきた。
「初めまして、阿藤博士! 本日付で阿藤博士の研究助手として配属されました、山利根と申します! よろしくお願いいたします!」
 阿藤は、彼にしては珍しく呆気にとられたような表情を見せた。体格のいい男だ。浅黒い肌とパチリと開いた目が活発そうな印象を与える。胸ポケットに刺された大きな万年筆が光を反射してキラリと輝いた。
「君が? 私の助手?」
「はい! こちらに辞令も」
 差し出された書類に目を通す。確かに人事部からの正式な辞令だ。日付は今日。阿藤は呆けていた顔を引き締め、口の端で一応の微笑みを見せた。
「そうか、助手が増えるのはありがたいな。何しろ最近忙しくてね……。おっと! いつまでも立たせていては不味いな。今明かりを点けよう。峰君、彼に椅子を」
 リモコンで電灯を操作すると、部屋が一気に明るくなり、空調も息を吹き返した。薄暗かった時には分かりづらかったが、かなり散らかっている。床には本棚から溢れた書籍が山と積まれ、デスクはマネキンの頭部を始めとする用途不明のガラクタに埋もれている。部屋の隅にはごちゃごちゃとした機械類がとりあえずといった感じで纏めて積まれ、今にも崩れそうだ。
 峰研究助手がどこからかパイプ椅子を取り出して、山利根に席を勧めた。
「まあ掛けてくれ。それで峰君、届け物とはその荷物の事かね?」
 阿藤の目が峰の足元に置かれた荷物に向く。両手で抱えなければならないほど大きいダンボール箱だ。
「はい、購買部で先生にと」
「おお、そうかそうか。やっと届いたか」
 うきうきとした様子で荷物を拾い上げ、重さを確かめるように上げ下げしたり、揺すったりする。そして満足げなため息を漏らすと、大事そうにデスクの下のスペースに収納した。
「他に何かあったかね」
「幾つか先生宛ての書類を預かってきました。こちらです」
 阿藤博士は手渡された幾つかの書類にざっと目を通すと、そのままそれをデスクの隅に放り投げ「未決書類」と刻まれた文鎮で重石をした。特に重要な書類は無かった。椅子に深く座り直し、リラックスした体勢を取る。
「それでだね山利根君、早速君に頼みたいことがあるのだが……」
 阿藤博士は不気味なほどににこやかだった。山利根が快活に答えた。
「はい! なんでしょうか?」
「あ、その前に峰君、ちょっとこっちに」
 峰を手招きし、耳を寄せるように合図した。峰が腰をかがめて顔を阿藤博士の口元に近付ける。
 
 山利根が動いた。
 椅子を蹴り飛ばし、万年筆に偽装されていた噴霧器からガスを勢いよく噴射する。大人二人を昏倒させてお釣りがくる量だ。成功の確信に山利根は唇をいやらしく歪めた。潜入からここまで怖いくらい簡単に行った。財団何するものぞ。後はこの二人をあらかじめ潜入している協力者の手引きで拉致するだけだ。数分待ってガスが十分に薄まったところで、山利根は細く頑丈な縄を取り出した。これで捕縛して連れ帰る。何もかも予定通りだ。
「君は……もう少し疑うことを覚えた方がいいな」
 だが、聞こえるはずのない声が聞こえた時、山利根は床にくずおれていた。
「相手が露骨に隙を見せてもまずは疑い給え。誘ってるだけかもしれないぞ」
 実際、誘ってたわけだが。とデスクの影から阿藤博士が立ち上がる。
「今までやってきた中でも特に『ちょろい』奴だな君は」
 横たわる山利根を阿藤博士が無感情な瞳で見下ろす。
「な……なん……」
 筋肉が硬直し、口がうまく回らない。
「テーザー銃だ。ちょっぴり改造を加えた品でね。威力に不安があったが問題なさそうだな」
 ほら、見給え、と天井を指差す阿藤。山利根が何とか眼だけを動かしてそちらを見ると、黒い点のような銃口がそこから覗いていた。それにしても、と続ける。
「防衛設備の実地試験用にスパイを回してもらうよう人事に頼んだのは私だが……数が多すぎないかね? これで5人目だ。いくらなんでも、なあ峰君。……峰君?」
 峰研究助手はガスを吸って昏倒していた。大きなため息を一つ。懐から端末を取り出し、どこかへと連絡を入れる。
「私だ。阿藤だ。今終わったよ……ああ、うんうん。いつものよろしく」
 通話を切ると、山利根を縄で素早く、きつく縛り上げる。山利根自身が持っていた縄だ。しばらくすると、電撃の効果が薄れてきたらしい。喘ぐような声で山利根が言う。
「俺を……尋問でもしようってのか」
「いや、そんなことはしない。時間の無駄だ。君の記憶は取り出され、君は処理される」
 山利根は博士を目で嘲笑った。
「適当こいてビビらそうったって無駄だ。記憶を取り出すなんて器用な真似は出来ねえだろう。俺は喋らねえぞ。殺すなら殺せ」
 阿藤博士がやれやれとでも言いたげにかぶりを振る。
「君の無邪気さが羨ましいよ。どうやら一度財団に雇用されたということが何を意味するのか、よく分かっていないようだ」
 博士は親しみを込めた、しかし断固とした口調で続けた。
「君は財団の貴重な資材として身も心も消費されるのだ。我々と同じにね。君はこれから処理される。意味が分かるかな?」
 阿藤博士が指を鳴らすと、研究室の床が割れてそこから青いボタンがせり上がってきた。
 山利根が震える目でボタンと博士を交互に見る。
「……脅しのつもりか?」
 阿藤博士はボタンに手をかけ、酷薄な、ひどく冷たい声で告げた。
「私は脅しなど言わん」
 ボタンを押す。
 山利根の真下の床が冗談のようにパカリと開き、彼を飲み込んだ。
 
 
 

 
 
 
 峰研究助手を揺り起こす。
「ん……あ、あれ? 先生? 僕は……」
「君は少々危機感というものが足りないな、峰君」
「……すみません」
「いや、謝る必要はない。私が君を盾にしたのだしな。それより、これを見給えよ」
 尊敬する師の発言に目を白黒させる助手を尻目に、阿藤博士は先程受け取った荷物を開封していた。中から現れたのは見事な色艶をした大量のサツマイモ。
「完熟の安納芋だよ。こいつを焼き芋にして食べるんだ。一緒に中庭にでも行って焼こう。おいしいぞ」
「今からですか?」
「今からだとも。それに、君が昏倒してから4時間は経っているぞ。そろそろ日も暮れる」
「えっ、あの、医務室とか、そういうのは」
「さ、行こう」
「あの、先生? 先生!?」
 芋と一斗缶を抱えて楽しげな足取りで歩く阿藤博士と、追う峰研究助手。
 助手の抗議を聞き流しながら、博士は上等な焼き芋の味に期待を膨らませる。
 今日もいつも通りの良い日だった。明日もきっと良い日だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「あ、先生」
「ん? おお! いい所で会った。今から焼き芋をするんだが、君もどうかね。採用祝いだ」
「いえ、俺はまだ勤務中ですから」
「そうか? 残念だな。じゃあ、また機会があれば誘わせてもらうよ」
「はい、楽しみにしてますよ。それじゃ」
「うむ。頑張り給えよ、山利根君」

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