何もいない世界
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なぜ彼らはそう望んだのか?

私はその答えが明確にならない時が最も幸運に思える。当時、私は孤児であり、芸術と作品にそれこそ息も吐かせないほどに私自身を埋め込んでいた。切り取られたウシンスクの区画の上では、私は非力であったが、同時に自由でもあった。私を止められるものは無かったが、衝動的に突き動かす存在もまた無かった。

ある時、私は限りなく広がる壁に突き当たった。コンクリートと煉瓦により押し固められた、秩序を象った一つの城塞だ。それは私を取り込み、より規格的なものへと飲み下した。私たちは不自由だった。私は奴らの作品ではない。なぜならこれは今に私が望んだことではないからだ。この場において私の代え難い自由は私でない者の手により切り取られ、それを幸福に捉えなければならなかったのだ。

しかし、これには全く以て無意味だ。無そのものだ。あらゆる束縛を無意味にする、究極的な魂の解放だ。私は長年勘違いしていた。その意味を推察しようともせず、ミームとして片付け、そう書き綴ったままにしていたのだ。不届き者め。

今、私は目を覚ましている。私は成すべきことをしている。彼らは依然として作品を回し続けていた。私もそれに続き、彼らの両腕が腐り落ちるまでそうすることを選んだ。

そして、私は夢を見始めた。それは大洋に身を投じるように開放的であり、鈍く冷たい痛みのリアリティを伴った衝撃だった。次に目を開けると、私は陸地に独り立っていた。遮るものが何一つとしてない、牧歌的な風景だ。有るもの全てが互いに干渉し合うことのない理想郷だ。それは、“人のいない世界”だ。

私の可動域に、精神に限界はない。今の私はまるで煙だ。蒸気の足で進むことを諦め、人間の存在しない世を目指す煙だ。それは一切の人の手も加えられていない、木々と地維だけの街だ。私は力の限り声を上げた。私は大気の流れに身を委ね、その内に自由を全うした。人の見えぬ海を眺め歩いた。日陰に屈んで木の実を探し集めた。幼い日々を思い出して。

“何もない”とは一体どういった感覚であるのか。事実は常に客観的にあるものだが、それに限っては例外だ。不可視の実体、虚空そのもの、或いは単に死と同義ではないかと私は問い続けていた。しかし、ここにはその答えが確かにあった。ここは何一つとして存在を維持できない。あるものは、本能と直感にその身を委ね、秩序の壁を肉体が超過する法悦だけだ。

今思い返すと、私はそれ以上に感傷的になっていただけなのかもしれない。歯止めの効かない思想は恐ろしくも美しいアイディアを模索させることができる。私はそれに依存することで、この煙の体を成り立たせているように思えてしまう。

無限の時間が過ぎ去り、地平線から夕日が伸びた。それは血糊のように赤々とし、私の心中にまで入り込んだ。終わりを肌身に感じ、日常もまたパターンの一部であると嘆いた。人のいない世界は何処にも存在しない。しかし、私には力がある。私達には確かな力がある。2つの憶測を行き交うことができる。

私が叫びを止めることはない。肺を持たないこの身体で鉛の声を上げるのだ。拉げたドムラを傍へ投げ、ここを訪れなければならない。人の存在しない地を語り継がなければならない。文明を放棄する選択を迫られた、雄大な自然を訴えなければならない。盲目になれるような海洋へ辿り着き、水平線の見えぬ岸まで泳ぎ続けなければならない。

そうして私の視界はますます暗くなっていき、再び目が覚める。それを見上げる時にはもう手遅れで、私の両腕は既に腐り落ち、体は雪の上へと倒れ込んでいた。こうである方がずっと楽に違いない。今、私の前には何も残されていない。しかしそれは私が何も得ていないということではない。私は私の後に続くより均一化された人々の列を、パターン化された私自身の投影を知るだろう。それが回り続ける限り、彼らは叫びを聞くべきだったと訴え続けるだろう。私達は成すべきことをしている。しかし、ここに一つ疑問が残る。なぜ彼らはそう望んだのか?

ただ、私もそう望んだのだ。なぜかって? 私はただ人間が憎たらしいだけなのだよ。

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