寒さが深く沈み、眠るような夜だった。
風はない。ただ、一歩足を進めるごとに冷気が足に絡むような気がした。
「近藤博士」
サイト-8181。敷地内の開けた広場には、公園のような芝生の敷地が広がっている。
この敷地が元々何に使われているのかはわからない。
研究者が得体の知れない実験に用いるようなこともあれば、職員がオフの時間に遊ぶこともある。
土に還ればよい、という副産物も、往々にして発生するものだという。
「なんだいシスター」
前を行く長髪の少女が、くるりと振り返る。
私は夜目は効かない。訓練を受けた他の子と違って、視力も強くない。
だから、彼女の背負っている長物が、何なのかわからない。
「そろそろ教えてくれませんか。そんなものを背負って、星でも見るのですか?」
冗談のつもりだった。射撃訓練で使う小銃だと言えば、私なら信じただろう。
しかしながら、彼女は研究職であり、私のようなエージェントではない。
だから、銃を持って守らなければならないのは私だ。
「うん。そう。言わなかったっけ?」
「聞いてませんよ。貴方は、シスター、面白いものが見れるよってだけで。星を見るのなら断ってました」
「あ、そう。シスターもお人好しだね。こんなに寒いのに」
殴ってやろうかと思った。
空白
空白
返事が来なくなって、随分と時間がたった。
君は今、どうしてる?
梨の礫じゃさびしいな。返事がほしいよ。
そうつぶやいて、シャッターを切る。
流れる雲。青い海。地平線。水平線。あらゆるものが、身悶えし、ざわめく。
君のその様が、とても愛おしい。
僕は知っている。君が変わっていくさまを。その姿に、僕は惹かれて、君の傍を離れられないでいる。
「君に、用があるんだが」
声に振り返ると、そのままひっくり返るような、大きな身体がいた。
僕の周りに誰かがいるなんて、今までにほとんどない。
「恐れる必要はない」
そう言って、彼は僕の傍に付かず離れずの位置にいた。
「何を、見ているのかね」
威厳のある声だ。
僕にお父さんはいなかったけれど、きっと、いたらこんな声なんだろうなと思う。
「好きな人の、写真を撮っているんです」
「撮るだけなのか?」
「ええ」
そう言って、フィルムを巻き直す。
カメラのレンズが赤く、そして青白く光った。
「寂しくはないのか」
「寂しくは……ないですよ」
彼女は、僕に何も言ってはくれない。それを見透かされたような気がした。
もう一枚。彼女を隠していた闇と雲が、晴れていく。
「見せてもらっていいかな」
僕は、今しがた撮ったばかりの写真を、彼に手渡した。
彼に見れるかな、と思ったけれど、心配はいらないようだった。
「……凄まじい。君はこんなものをずっと撮っていたのか」
大切な、大切な記録だ。これが、僕がここにいる意味だから。
「それは、本当にカメラなのか?」
「そうです。僕は仕組みを知らないけど」
「少しいいかな」
右手が触れる、久しぶりの感覚。
「君は何も知らなかったんだな。可哀想に。これは君には危険過ぎる。だから、私が預かろう」
「あっ」
僕のカメラは、彼に手際よく取り上げられてしまった。
「返して、下さい」
「そればかりは聞けない」
「貴方は、この為に来たんですか?」
「……代わりに、新しい居場所をあげよう。君が覚えている彼女が、向こうにいる」
にわかには信じられない。だけれど、そういうものが、本当にあるのかもしれない。
そんな優しさに満ち溢れていた。
「本当はわかっているのかもしれないな」
「……どういうこと?」
「私は君を救いたい」
初めは、怪訝に感じた。
「僕を?」
「ああ」
「救う?」
「そうだ」
「何から?」
「君自身がもたらしたこの終末から」
終末。そんなことは気にもしなかった。今がオワリなのか、そうでないのかもどうでもいい。
でも何か、どうしようもない感情が溢れてくる。その涙すら、流れなかった。
僕は、流れない涙も枯れるまで、いつまで一人でいたんだろう。
「僕は、戻りたい」
僕は、空いた右手を差し出した。もうカメラを持つことはない。
ずっと固まったままだった関節が弾け、振動が響いてくる。けれど、もう気にならなかった。
「では行こう。絶対に離してくれるなよ」
彼が、右手を掴む。僕とは違う、柔らかい肉を持ったかたち。
「あなたは、誰?」
「なぜそんなことを聞く」
「きっと、きっと伝えるよ。向こうで会った彼女に。だから」
「私の名は——」
彼の声は、音無き轟音にかき消された。全てを吸い込むような黒い何かに、僕も、彼も飲み込まれる。
さよなら。僕の愛した星。
また後で。
空白
空白
「ま、そういうオブジェクトかもねーって、話してたとこなのさ。僕らにお休みなんてないねぇ」
望遠鏡を組み上げた博士は、愚痴りながらレンズを覗き込んだ。
「つまりUFOの探索ですか」
ため息が出る。そういうものは我々が言わずとも、相応の組織があるはずだ。
「特異性が無いのならうちの仕事では——」
言いかけた私を、博士の言葉が遮った。
「待った。まだそれは早計だ」
「しかし」
「あれは天体望遠鏡が捉えた、まごうことなき人工衛星だよ。でもどっかの国が打ち上げた記録も、遠方から飛来した記録もないんだ」
二の句が、詰まった。
「つまりだ。無かったところに突然出現したのさ。静止衛星軌道上、レゴブロックいっこでも飛んでれば、分かるような場所にね」
「……なるほど。そうですか」
私の中のレポート帳が、パラパラと音を立てる。
空間飛翔。時空跳躍。何らかの認識異常?
「飛来記録のロストは……考えつきませんか」
「些か楽観的な仮説じゃないか? そも軌道上で静止してるんだぞ。そんなものがぴったり止まるかね」
博士は白衣のポケットをまさぐると、四つ折りにしたカラー印刷を取り出した。
携帯電話をライト代わりに覗きこむ。これは、天球図?
おそらくは天頂を中心に、円形に天体が描かれたものだろう。そこの一角に、乱雑に赤丸が描かれている。
「この記録を見ろ。これがその5分後」
見ろと言われてもさっぱりわからない。ああ、これだから研究職は。
「――つまり、あれは大型の飛翔物体と同時に現れてる。いいか、現れたのは二つだ。片方が消えて、残ったのがあいつ。まるでここまで連れて来たようにね」
連れて来る。未知の大型飛翔物体。ようやく、頭の琴線に言葉が触れた。
「つまり……そこに、何らかの意思があると?」
レポート帳が、ある一節に向けて走り始める。
大型飛翔物体。不明の技術。空間飛翔、ないしそれに類する何か。
連れてくる。導く。導くもの。時を超え、宇宙を超え、迷えるものを救うもの。
「……あれですか」
一人のシルエットが、浮かび上がる。いや、彼にはシルエットすらない。
ただひとつの名前であり、信奉者には救世主を意味する名前。
「仮説は立てられる、ね」
「担当者と連携しましょう。彼が関わっているのなら、対策チームの編成を」
「その前に、残念ながら、こいつは既に多くのアマチュア観測者の目に入ってるんだ。そのうちどれだけの目に留まったかは知らないけど」
事態は既に動いていたか。
博士は望遠鏡から目を外し、こちらを振り向き、挑戦的に微笑んだ。
「さて、どうするシスター? エージェント・シスター・ルコ」