眠る時なんかに思い浮かべる、毛玉のような空想上の羊と比べると、実際の羊は角と細身な顔のせいか、やや恐ろしい。そんな顔が突然、何の予兆もなく自室に現れた場合は? やや、なんてものではない。腰を抜かすほどに恐ろしい。
今まさに滑り込もうとしていた寝台に我が物顔で座り込み、羊は俺を笑っている。くすくす、くすくすとおかしそうに笑って、笑い続けて、そして毛のひとつ、足跡のひとつも残さずに忽然と消える。
気づく。ベッドの上には、最初から影も形もないことに。
「それで、その日から羊の幻覚を見るようになったと」
「はい。食堂でも、職場でも。日に数度、酷い時は部屋の入り口が羊で埋まってて入れないんですよ」
「はは」
財団は大きな組織で、故に大抵のサイトも部屋も大きいのだが。カウンセリングルームに割り当てられた面積は、比べると随分と慎ましいものだった。締め切られたカーテンの代わりに、嫌に眩しい蛍光灯。おおよそ安心できるとは言い難い、二人きりの沈黙。汗は頬と額を湿らせて、それが不安と不快を生む。机を挟んで目の前の男が、いやに湿った空笑いをひとつ。
「……笑いごとじゃないんですけどね」
「それは申し訳ない。どうしても、羊を恐れる人と聞くと少し面白いですね」
微塵も申し訳なさを感じない微笑で、彼は頭を下げる。
「いいですよ、別に。それより──」
「──仕事しろ、って話ですね。もちろん。カウンセリングを続けましょう」
「……ええ、お願いします」
先を読まれたことに、不快感はあれど困惑はない。直感的な確信──ここがカウンセリングルームで、彼がカウンセラーとしてここにいるなら、これは当然の流れなのだと、何故か飲み込めた。
「今からいくつか質問をします。嘘でもいいので、絶対に何か答えてください」
「……はい」
優しさか自信か釈然としない台詞を受け取って、頷く。別に嘘を吐くつもりもなかった。このためにカウンセリングは始まっているのだから。
「では、まず一つ目から」
始まって、いたのだから。
「あなた、どうやってここまで来ましたか?」
「……あ、れ?」
言葉に詰まる。カウンセリングルームの廊下の景色が、背後に広がっている空間の全てが思い出せない。俺は、いつから、どうやってここにいる?
「今は何時ですか?」
わからない。遮光性の高いカーテンの裏に、光があるかどうかが。
「最後に眠ったのはいつですか?」
ずっと、わからないことを問われ続けている。咄嗟に身を乗り出して、その質問を止めようと、胸ぐらを掴む。その行為の是非を考えるより早く手が出る。
「──羊は、何匹いましたか?」
近づいた男の顔は、あの夜に見た羊。
目を伏せると、暗闇が見えた。目を開けてもそれは変わらなくて、いつのまにか俺の世界からは何もなくなっていた。温度もない、光もない。
だから俺は、自分以外に羊を求めた。
目を瞑り、開く。羊が一匹、俺を嘲って笑っている。別にいい。何も異常のない単調な暗闇より、明らかに狂っている景色のほうがマシだ。だってここはずっと、そういう世界だった。
人のような化け物が生きていた。存在しないものが存在していた。物理法則は狂い続けていた。目の前で目を瞑れば死を意味する怪物なんていくらでもいた。そんな夜を、俺はずっと過ごしていた。
けれど、ここには羊が一匹いるだけだ。
「絶対に答えてくださいと、ちゃんと言ったんですけどね」
カウンセラーと同じ声で、羊はそんなことを宣う。羊が一匹しかいないのなら、声が同じなのは当然のことだった。
「最後にいつ寝たか、思い出しました?」
「一回も寝てない。夢の中で寝るのは──出来なくはないかもしれないけど、難しい」
「たいてい、そのまま起きてしまうでしょうね」
羊は、相槌を打ち、そのまま話を促す。俺が話すのを知っているかのように……いや、実際に知っているのだろう。
「夢がこんなに殺風景とは知らなかった」
「普段はもっと賑やかなんですけどね。今できるもてなしはハリボテの部屋と、椅子くらいのものです」
羊が脇に目をやる。目線の中に、椅子がひとつ。俺はそれに腰掛けて、話を続ける。
「何か変化が?」
「知っているくせに。……普段の夢の、何割が異常なものなんでしょうね?」
沈黙。羊は目を瞑る。この暗闇では瞑っても大した違いにならないだろうから、俺はやめておく。
「狭い狭い、人一人分しかない夢界。コレクティブとも呼べない、ただの『あなたの夢』」
それがこの世界。羊が一匹いるだけの、その場しのぎの逃避先。
「……羊」
「はい」
「俺は、起きなきゃダメか? 結果は変わらないんじゃないか?」
このまま夢界に居れば、最後の仕事は簡単に、緩やかに終わる。それは──それくらいには、救われたっていいんじゃないか?
羊は、笑っている。
「別に、私は何も言っていませんよ。起きろとも、居ろとも行っていない。なのに選択肢を生じさせているのはあなたの方だ」
だからこうします、と、羊は俺を突き飛ばす。角が腹に突き刺さり、現実なら軽傷以上を負うだろう衝撃で、俺は無理矢理後ろを向く。
背中にぶつかったのは、薄茶色の無骨な扉。いつの間にか椅子は消えていて、この世界で唯一のものはこれになっている。
「このほうがわかりやすいでしょう? 起きたいなら、どうぞ。開けない限り、夢界は維持されます」
開けなければ。自分から動かなければ。選択権をわかりやすく提示され、理解させられた世界で、俺は深く息を吐き。
ドアノブを握る。
羊は笑う。
「いいんですか? 状況が状況です。逃避を選ぶのも、当然の権利だとは思いますが」
「生きることも、当然の権利だった。だからこそ、俺はその権利を自分で捨てるべきだと思う」
「一度逃げておいて、格好つけないでください」
「そうだな。でもいいんだ。逃げたから向き合えたこともある」
逃避先の羊は笑っている。俺はそれを、ただ受け入れる。
「それでは。さようなら」
「さよなら、俺」
ドアノブを回して、ドアを開く。
一匹しかいなかった羊は、世界ごと消えた。
羊毛布団を蹴飛ばして、寝台から体を起こす。サイト-8181地下にある、音のない小さな部屋で、俺は目を覚ました。
枕元には、銃弾がひとつ込められた拳銃。握って離してを繰り返した記憶と一緒にそこにある、一瞬で訪れるこの夜の終わり。それを手に取って、震える手を逆の手で押さえて、深呼吸をひとつ。発射口を、眉間に寄せる。
誰かが死ななきゃいけない時には、誰かが殺さなきゃいけない。選ぶ人間が一人しかいないだけで、とどのつまりはそういう話だった。
だからこそ──俺は、羊なんかに逃げたくはなかった。恐れて責務から逃げるのは、自分の命をそんなふうに殺すのは、正しくないと思った。
羊はもう笑っていない。代わりに俺が笑う。あまり、全く、面白くはないけれど。それで、少しだけ震えが止まる。
その一瞬を逃さずに、引き金を引いた。