#8 長雨を負い
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その日は貫くような雨ではなかった。

窓についている水滴はまだ数えることができそうだったし、灰色の雨雲も薄っぺらく空を覆っているだけで圧迫感を与える重みはない。サイト-82の管理官室においてもそれは同じだ。

このサイトは地下に埋まってはおらず、従って雨天時の湿気も如実に室内へ伝わる。空調が甘いはずもないが、湿気そのものはどうしようもない。そうして湿度の高くなった室内で一人の管理官が机に向かっている。湿気の他に彼女を妨げる要素があるのは表情からも明白だった。寄せられた眉根はそのまま肌に刻まれてしまいそうだ。

机に山と積まれた紙の資料のほか、視界の大部分を専有するデュアルモニタにはいくつものウィンドウが並行して開かれ続けている。赤毛の女の小さな瞳孔は忙しなく動く。重圧を受けるには華奢すぎるようにも見える一方で、針金のような冷たい芯も奥底に伺えた。何にせよ、通常のサイト管理官はいくら何百の職員とオブジェクトを抱えているといってもこんな顔はしない。

机上に伏せられた端末が鳴った。女は端末を裏返すと指を一度叩きつけて、再び手を動かし始める。口から発されたのは二語か三語か。

「所属と番号」

『サイト-82、内部保安特務、グザイ-ラムダ-18。……ハヴァ、まだ続けているんですか』

「ザニラ。もう同僚じゃないんだ、管理官と呼べよ。そして余計な世話だ」

『あなたに責任があるわけじゃない』

「チッ。君がなんと言おうと知らん。私の夫が私の娘を玩具にしたのが、私の問題じゃなければ何なんだよ」

ハヴァという管理官は端末から聞こえる声に不機嫌そうに視線を逸らした。目の下には年季深い隈が刻まれていて、特徴的な赤髪には手入れされたものではない光沢がある。外面にも浮き彫りになるほど、その精神は傷を追っていた。

紙の資料と無数のウィンドウにはいくつかの共通の単語が見受けられた。Eve.aicと、それを取り巻く研究開発計画の数々に関する情報がかき集められるだけ集められ、乱雑に部屋に詰め込んであるといった印象だった。ハヴァはひたすらに情報を集め、追える可能性を全て追うためにあらゆる推論を立て続けていた。ある男、ある計画の痕跡を追うために。

『本来なら、当事者のあなたがこの問題に対応するのも、その若さで管理官になるのも正当な人事ではありません。療養で国外に出たとしても咎められないでしょう』

「だが最適なのは私だ。これ以上あの子の名前を勝手にさせはしない」

通話越しにでもわかるほどの溜め息が漏れた。Eve.aicという存在してはならない計画が浮き彫りになり、評議会から調査の通達があってからの幾年月、数えるのも面倒なほどこのやり取りがあった。

ハヴァ・メアリスダムは非才ではないが、それでも一つのサイトを任されるには経験が浅すぎた。能力の問題ではなく、単純に通ってきた道が違う。元は強く管理者を志望していたわけでもないし、ここでの秀才は凡人と同じぐらいの意味しか持っていない。間違っても評議会に見出されて異例の出世をするような人材ではない。

それでも彼女が鬼気さえ孕んだ勢いで周囲から突出したのは、極めて特殊な事情による。Eve.aicプロジェクトの名はほとんど呪いのようになって彼女とサイト-82に負わされているが、Eveは本来の意味でのAICとはかけ離れた出自を持つ。ピアノの自動演奏のために、電子ピアノではなく精巧にピアノを弾くアンドロイドを開発してしまうような歪んだ開発原理。人工知能徴募員という字面を正しく受け止めるなら、ある面ではAICの可能性であったかもしれないが。

ただ、そこで選ばれたのがハヴァの娘で、被疑者は夫だった。それだけがハヴァをこの業務に志願させ、サイト-82に留めさせている。AIC開発は財団全体の技術革新の一端であり、Eveはそこでの大きすぎる不安要素であり、ブラックボックスだ。評議会がリスクを排除するために通常以上の労力を割いても不思議ではない。そのために特別人事を敷き、密かに内部調査を進めていたとしても。

『現状、Eve.aicの稼働は安定しているのでしょう? 評議会はそこまであなたを急かしているんですか』

「いい質問だ。誰より私が急いでるんだよ。娘の顔をした得体の知れないAICがもう一年は稼働してるんだぞ」

ハヴァは名ばかりの管理官として実質的には内部保安業務を行い、行方を眩ませた夫を探し続けている。そのために娘によく似た何かを監視するし、他人を動かして積極的にEveに干渉させもする。そういう時、ハヴァは決してEveのことを「イヴ」と同一視するようなことはしなかった。一種の決別であったし、そうでもしないと平静を保っていられないのかもしれなかった。

本来、イヴに関わりのない誰かにこれを任せるべきなのだろう。ハヴァですら評議会に連絡を取りながらそう考え、しかし予想を裏切って承認された。彼女が元々内部保安部門の出身であったことも無関係ではないだろうが、例外的であることに違いはなかった。

『前回の調査にしてもリスクが大きすぎます。2118にあなた自身が曝露する必要はどこに?』

「実際、財団の目を搔い潜って奴は2118に接触していたんだぞ。遠隔での指揮をあてにできるか? それに、収穫は明確にあっただろ」

ハヴァは眉を吊り上げて、端末に吐き捨てるように言葉を続けた。

「あれはイヴじゃなかった。……2118の異常性は死ぬ瞬間の声だけを正確に再現するものだ。執刀医のロレンス・ラングフォードの記憶にはなかったし、手記にも表れていなかったが、イヴの身体が死ぬ瞬間にあの声を発したことは間違いない。ロレンスの手で切り開かれた後で追加の処置をやったんだ。そして奴はあの声の主を、明確に別の意思をイヴの身体に注入している」

『それが、現在のEve.aicを成すものだと考えているのですか?』

「さあな。とにかく、あのAICを動かし続けないことには何も情報が得られない。どのみちイヴは死んでも私の娘で、あの野郎にツケを払わせるのも私だ。健康管理は君以外の誰かに任せてる。それで? 用はお節介だけか?」

『まさか、業務連絡ですよ。今月が何月か忘れたわけじゃないでしょう』

「ああ」

ハヴァは椅子を回し、窓の外を見上げる。ぱらぱらとした弱い雨と薄い雨雲の向こうに、微かに鼠色の影が見えた。その妖雲の陰影は直下にある街にだけ色濃く落ちている。通知音が鳴って、デスクトップPCがいくつかのファイルを受信する。件名にある名前はどれも同じ、「本年度モンタナ州クリアウォーターの想定天候について」。

「そろそろ雨が来るな」

雲は緩慢に差し迫る。雨を伴って。
 
 
 
 
 
 


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雨は天気における最も単純な二択の一つで、そして悪い方の選択だと俺は信じている。 俺でなくとも過度な湿気はほとんどの人間が嫌うところだろうし、ここに配置されてからの雨は一層嫌なものになった。短い茶髪に覆われた頭を掻く。ヘルメットが必要ないのは幸いだ。

装備を確認する。前腕ほども長さがある巨大なスタンガンを腰に提げて待機し、観測所の中には拘束具や記憶処理剤が所狭しとそれぞれのケースに収められている。そして俺の服装はこの地域の警官装備だ。懐にはしっかりと「ノーラン・B・モーガン」と書かれ、俺の顔写真まで入った偽のIDがしまわれている。この身分証明まで含めて財団にとっての「非致死的武力」らしいが、実際これでも心許ない現場は他にいくらでもあった。それでも、この現場がマシだと思えたことはない。

移動観測所というからには各種センサーやカメラ、観測機器は巨大な車上に搭載されたまま走行できるようになっている。例の「雨」が降り始めたらすぐにクリアウォーターの街から10kmほど離れ、近寄る一般人に警戒しながら(もし見つけたらスタンガンと手錠と記憶処理剤を使わなくてはならない)、クリアウォーターの街を72時間ひたすら見張り続ける、記録し続けるのが俺達の仕事だ。

だから俺は雨が嫌いだ。年に1回、6月の半ばにこの仕事は始まる。この気味の悪い雨をずっと見続けなくではならない。

クリアウォーターの雲は気流を無視して留まり、既に小雨が降り始めていた。この雨の湿気た香りは10km離れたここでも嗅ぎとれる。同僚どもは他の11ヶ月がいくら陽気でも、雨が降れば押し黙る。大型車両をいくつも動員した移動観測所には俺を含めた何人かのエージェントが詰めているが、この3日間の空気は重苦しいという表現では済まなかった。車上生活に不満を述べるほど柔ではない。ただ、胸の奥で雨粒の塊が蠢いているような気がする。クリアウォーターの街からはもうすぐ全ての住人が消えてしまう。それがSCP-3300。全てを濯ぎ入れ替える雨。

幸いにも、今回は苦しみを共有するエージェントが少なかった。この車両には2人と1機しか詰めていないし、ここの隊長は俺だった。去年までは4人編成で、チームのうち2番目に経験が浅いのが俺だったというのに。人間の部下の男は偽装の警察帽を目深に被ったまま装備の点検をして全く喋らないし、もうひとつの部下だか道具だかはやはりモニタの中で黙ったままだ。

望遠カメラやセンサーの記録が数多くのモニタに映される中で、1枚だけ異彩を放つものがある。クリアウォーターを監視し続ける観測機器のデータがそのモニタでは集中的に管理されていて、平和な雨の町並みを映すウィンドウに紛れ、眼鏡をかけた白髪の少女のアバターがちらりと見えた。レクリエーションで、彼女はEveと名乗った。Eve.aic、ver2.0。それ以降はずっとこうして全ての観測所のデータを統合管理している。

人間の何千何万倍の効率で情報を処理していくAICを横目に、新人にもう一度確認作業をする。

「おい、薬は飲んできたんだろうな。今日飲み忘れたら悲惨なんてもんじゃないぞ」

「ええ。あれを飲んで一週間以内に、あの味を忘れることができますかね」

「それもそうだ」

その苦痛のことをYクラス記憶補強薬と呼ぶ。エージェントのほとんどが記憶処理剤を常用する組織ではあるが、そんな組織の薬剤課に掛け合ってもまず任せてもらえない薬物のひとつが記憶補強薬だった。忘れられるものを忘れないようにする薬。例によって、財団の薬剤課には甘いオブラートで錠を包むような気遣いはない。飲めば口腔が痺れるほどに苦いその薬を、3300に関わる職員は1週間に1度飲むことを義務付けられている。

3300は──というより、クリアウォーターはこれを使わなければならないような街だった。もうすぐこの街には一年に一度の雷雨が降る。降れば、全ての住民はその形を失う。ここは財団の設立以来、そんな現象を毎年続けていた。雨が降るたびに住民は崩れて形を失い、新しい住民に入れ替わる。外で旅をしている元住民には財団が監視をつけてあるし、雨が降る頃にそいつらも消える。あらゆる知人や記録は忘れ去られる。

財団が3300を確認する前からこの現象が騒がれもせずに続いているのは至って単純で、クリアウォーターは外部から認識されづらいからだ。正確には、誰もこの街に関心を向け続けることができない。雨に雪がれるように、この街の記憶は外部の人間から消えてしまうし、6月になれば本物の雨が降ってくる。住人の全てを溶かし尽くす雨が。だからこの壊滅的に苦い薬を飲んででも、財団だけは覚えていなければならない。その雨が降ったことを。

EveというAICはそういう点もあって今回の任務に使われているらしかった。電子信号を直接読み込む彼女に、精神影響性は通用しない。

街ひとつを監視しようというのだから少しでも人員を減らしたいのは理解できるし、並行処理に長けたAICをよこすのもまた理に適っているだろう。だがこのただでさえ憂鬱な3日間の中、緊張しているらしい新人と、全く知らない知性体であるAICと同じ車中で過ごせるだろうか、と説明を受けている最中にも思った。新人はこの3日間でどれだけ磨り減るだろう。黙々と点検を続ける彼を横目に見るが、街一つの終わりを見届ける経験の意味合いまでは測れない。

Eve自身はどうだろう。果てしなく人間に似た何かの群れが、豪雨の終末もどきを迎える様子を眺める経験は、これに何かをもたらしうるだろうか?

俺は窓を見る。キャンピングカーをさらに大きくしたような車両の窓に水滴がついて流れ落ちていく。窓の外の雨はだんだん強くなる。街の全てを濯ぐように。
 
 
 
2日目に入った。滝のような雨が小さな街に降り注いでいる。

新入りは俺達に課せられた業務のひとつである「外からやってくる通行人の監視と制圧」をしようと律儀にセンサーをチェックし続けていたが、やがて気を張り続けることに疲れて船を漕ぎ始めた。そもそも24時間体制を2人で隙間なく気を張ろうなんていうのは無理な話で、それぞれの観測車両が検知できる範囲は大きく重なるような数が配置されているし、俺達には共通の休憩時間も設定されている。つまるところ俺達のいる車両が多少精度の低い仕事をしたところで、隣の2台がそこそこ仕事をしていれば何の問題もないのだった。全員がそれなりの仕事をしていればいい。そしてこんな街に豪雨の中訪ねていくような奇特な人間も、定期便や在庫補充トラックなどの予め排除してある分を除けば毎年1人や、多くて2人しかいない。

完全に背もたれに体重を預けている部下に声をかけて仮眠を取るように勧め、適当にブランケットを投げ渡した。長時間の待機では適度にリラックスするのも仕事のうちだし、街中と外周を全て引っくるめてEveとかいう人工知能が統合監視しているのだから、カタログスペック上は人間の出る幕などない。エージェントとその装備は「もしも」の場合に備えて持っておく防犯グッズと変わらない。

あとは、これを見届ける役に人間が必要だろうというぐらいだ。

広い車内に並べられたモニターのうち、分かりやすい視覚映像のものに目を向ける。ほとんど前も見えないような豪雨だが、その分を差し引いて観測すれば見えてくるものもある。

人影だ。夥しい雨粒に紛れ、確かに大量の人影が街に溢れている。俺はそれを数えるほどの余裕はないが、ほぼ元の街の人口と同じだけの人数がいることを肌で感じた。空調を突き抜けるような湿気と共に、連中が人間でないのを感じる。

人影は家々のドアを叩き、時には乱暴に押し開き、出てきた住人を殴る。殴る。ひたすらに。一撃で住人は動かなくなる。そして倒れた後も、人影は、新たな住人は殴り続ける。全ての家で、全ての扉でそれが繰り返される。これを見届けなければならない、と、思う。

『ご興味がお有りなのですか、サー』

「いいや」

反射的に答えてから、俺はモニタに目を向けた。この2日で、Eveが自分から話しかけてきたのは初めてだった。

『記録は全てなされていますから。サーが見る必要はないはずですが』

「別に興味があったわけじゃない。そっちこそ、俺がこれに興味があるか気にするのか」

『はい。現在、活動を停止したSCP-3300-1は52%に達しています。このままであれば、前年度と同様に明日までに全個体が達しているでしょう。問題があるようには見受けられませんでしたので』

「いいことだ。脱出の試みは?」

『12組37名が試み、5組7名が脱落しています。手段は徒歩と車両の双方を含みます』

言葉と共に、Eveはマルチディスプレイに参考映像を表示する。それぞれが必死に生き延びようと人影から逃れ、街の外に出ようと豪雨の中を這いずっている。だが、彼らも一年前、同じように住民を殺して成り代わっていることに変わりはない。始めからこの街には雨の人影しか住んでいない。

『質問に答えていただいていませんが、いかがでしょうか。懸念点があるのなら協力させてください』

「そうだな。偽物ってことを考えてた」

『偽物ですか?』

「ああ。今でこそこいつらは化物に襲われる悲劇の住民をやってるけど、一年前はこいつらが化物だった。同じように、平穏な生活をしてた住民を殴り殺してすり替わったはずだ」

俺が見ていた映像の中で住民がバットを手に人影に殴りかかる。雨粒に邪魔されて表情の機微までは読み取れないが、数年もやっていればどんな顔かぐらいわかる。恐怖だ。3300が進行している間、例の侵略者には一切の物理攻撃が通じない。

『だから、偽物だと?』

「そうだな。俺はこの仕事はあんまり長くないけど、雨が降るたびに偽物だってわかっちまう。この街全体が偽物なんだってな。だから嫌な気分になる。俺達が監視するのはこの日だけじゃない。この三日間以外にも、俺達はずっとクリアウォーターを眺めているんだから」

『偽物では、いけませんか』

「別に。でも俺達が守る対象じゃない。例えば、ほら。あの二人は街から出ようとしてるだろ」

俺が指差した先には若い男女がいた。どうやら親の車を使って豪雨の中を突っ切ろうとしているらしい。ただ、それが無意味なのを俺は知っている。街の境界線に来て数分も走れば彼らの姿は雨に掻き消え、そして見るのは、「ようこそクリアウォーターへ」というボロい看板の迎えだけ。どうやっても、この三日間に外へ出ることは叶わない。

「昔にあいつらを引きずり出そうとしてみたけど、無駄だったそうだ。そもそもまともに入れやしないし、掴んだと思ってもそこにあるのは濡れた服だけ、なんてことが何回もあった。Eve、でも、脱出を試みた中で自殺した割合はどれぐらいになった?」

『直近20年間では、70%を越えます』

「そういうことだ。単なる入れ替わりの儀式じゃないんだよ、これは。あいつらは偽物だが自分が雨だってことを知らない。雨が降ってくるまでは。妙な偽物だろ」

その瞬間、奇妙な感じがした。絶え間なく響き続ける雨音に紛れて、何かが擦れるような、あるいは息を継ぐような音が確かにスピーカーから聞こえた。明らかに環境音ではなかったが、そちらを振り向くとEveの映ったモニタがあるだけだった。

『……ええ。奇妙な、ものでした』

ナイフで首を切り裂いた者も、銃で頭を撃ち抜いた者も、屋根から飛び降りた者もいた。結果は皆同じだった。水を撒き散らして消える。そして雨が上がれば、水溜りと一緒に死体はなくなる。これが起きるのはこの日だけだった。これ以外のいつに住人や住人の遺体を暴いても、構造は人間と全く変わらない。雨の降る日、ようやく彼らは自分が何者かを知る。

Eveがこれらと何かを重ねたのかは知らない。そこから俺達は話さなかった。ただ、Eveは雨を眺めていたんだと思う。たった3日で、俺がEve.aicと交わした言葉はさっきぐらいのものだったけど、確かにそう思った。クリアウォーターの街をずっと眺めて、全ての雨はEveの視界の内にあった。誰も街を出てくるやつはいなかったし、猛雨の街へ入っていこうというやつもいなかった。雨だけが街と外を隔てるものだった。Eveはこの偽物の街を文字通りに観察し、そして何かを見出していた。

俺達は雨を見ていた。全てを飲む雨を。街そのものになっていく憎らしい雨雲の群れを、俺は見ていた。俺にはそれしか許されていない。俺はクリアウォーターを忘れない。

住人を含んだ湿気が鬱陶しく俺の肌を撫で続けている。また乱れた息遣いのような音が聞こえる。Eveの方から響いていた。新人はおそらく気づいていないし、この車の録音機能で拾えていたとしても、自動解析でアラートを上げることは難しいだろう。その程度に小さな物音、あるいはノイズだ。

俺は音を思い出し、妹を連想していた。最近は帰れていないが、リビングでよく携帯ゲーム機を持って寝転がっていた幼い妹。

その音は妹のそれに似ていた。笑いを堪えるときの息。
 
 
 
「都合のいい雨だ」

『ええ』

ハヴァは噛み締めるようにして記憶補強剤を口に含み、コップの水で流し込んだ。3日前よりも紙の資料が僅かに増えたし、彼女が纏う若さにそぐわない老練さも深くなっていた。あの豪雨が降るたびに、彼女の中で何かが刻まれていくようだった。3日前と変わらず、端末からの声は事務的な報告を告げ始めた。

『Eve.aicの割当もひとまずは成功したようですね』

「まあ、3300の業務自体はそう難しいものじゃない。隠蔽は雨が勝手にやってくれるしな。もしここと彼女の何かが関係しているなら……あるいはEveの中にいる奴が、その素振りでも見せてくれたら儲けものだと思ったが。報告として上がっているのは、少し妙な音がしたぐらいか」

ハヴァがサイト-82に調査チームの本隊を構えたのはいくつかの事情がある。一つにはもちろん、Eve開発の痕跡が残されていたこと。もう一つには3300にほど近いここでは記憶補強薬を手に入れやすいことだ。

Eveの父親が痕跡を残さずに大掛かりな人体実験理論を組み上げた方法についてはいくつかの推論がなされていて、その一つが健忘性の異常物の利用だった。その対抗手段には記憶補強薬が不可欠になる。ただどこに彼がいるのかもわからない以上、滅多なことでは使われない薬を堂々と使えばそれだけで動きを察知されかねない。だから、3300だった。大量に記憶補強薬を運び込まざるを得ないサイトにしてしまうことで、ハヴァは記憶補強薬を常用し続けることができた。

『結局、クリアウォーター自体からは何も出てきませんでしたね』

「実験体を隠し続けるより、クリアウォーターの住民を使ってしまった方が労力はかからない。あるいは、あの街の中に潜伏しているかとも思ったが……今年のイベントで妙な報告が上がらないところを見ると、どうもそうでもないらしい。Eveの裏でもAIADに手を借りてるけど、観測自体にブレもなさそうだ」

3300はそれ自体が後腐れのない人材の提供源でもあり、かつての夫とハヴァの活動拠点からもほど近い場所だった。一度財団の目をごまかして住民を拉致してしまえば、1年足らずで証拠が消える。目立たないようにあちこちで人を攫い、記録と死体を隠し続けるよりは安上がりだ。そしてハヴァが見るに、かつての夫が作った死体の数はそれを必要とするほどのものだ。

端末からの声は、これもまた何度目かになる問いかけを発した。

『Eve.aicとは、直接会話しないのですか』

「冗談じゃない」

ハヴァはキーボードを叩く指と、モニタの上の視線を止めた。何度目かになる答えは、数年前に娘と死に別れ、夫を恨み続けたから発するのではない声で放たれた。ただ娘が死んだなら、ハヴァにはまだ他の選択肢があったかもしれない、と端末の声は考えているらしかった。もし、イヴが病で死んだなら。もし、夫が単なる裏切り者だったなら。

あるいは、彼女が財団にさえいなければ。

「私は良い母親じゃなかったよ。娘を産んだ時からそうだった。今も恐らくそうなんだろう。イヴを悼む時間なんてほとんど持たなかったし、娘の顔すら朧気だ。あの子が何を好きなのかも、どんな顔で笑うのかも知らない。必要もないのに、今さらあの顔と話せるか」

『そうかも、しれませんが』

「君はあれを見たんだろ」

『はい』

「なら言うことはない。私はあいつを許さない。あいつを見つけ出して初めて、私はあの子に謝れるんだ。その時までなら、私は最悪の母親でも構わない」

そう答えながら、ハヴァの視線はある一つのウィンドウに向けられた。この三日間、いいや数ヶ月、数年と、ウィンドウの内容はハヴァの中に刻みつけられていたようだった。外から見えないように幾度となく噛み締めた奥歯は、しかし年月とともに少しずつハヴァの相貌を歪ませるに至っていた。その魂の奥深くまで。ハヴァは暫くそれを眺めると、また端末の操作に戻る。

外では雨が晴れ始める。陽光に貫かれて乾いた後も、雨粒の痕はどこか醜く窓に残り続けている。
 
 
 


内部保安部門 事案記録-3192-82-B513

規定違反分類: 殺人、死体損壊、無断での研究計画立案実行、各種アクセス権限の不法奪取、他多数

被疑者: アダム・メアリスダム(レベル3/剝奪済)

被害者: イヴ・メアリスダム、過去被害者多数(詳細人数不明:46名以上、調査中)

事案経緯概要: [クリアランスコード制限:Level4:B-513分類クリアランスを提示してください]

被害者概要: 10代前半、女、白髪、赤眼。

頭部上面及び前面の皮膚と頭蓋骨の大半の意図的損壊を認める。脳外科処置上の都合と判断。脳髄毛細血管に多数のマイクロワイヤー挿入痕跡有。脳外科的処置により、前頭葉を中心として大脳全体への干渉が認められる。電極的干渉痕跡有。詳細な干渉内容を確認できず。施術開始後、表情筋が機能していたとは推測し難いことを付記する。

頭部以外にも多様な神経系の人為的損壊を認める。各種筋繊維を破壊した後、脊髄を中心として神経系の電位的計測・改造を行ったと推測。死亡推定時刻と手術室使用推定時間より、施術中の被害者は全ての神経系を機能させつつ生存していたと判断。施術完了から5時間後の絶命と推測。

以下に被害現場及び検死画像全78件を添付する。

[以降の閲覧は制限されています。クリアランスコード:Level4:B-513分類クリアランスを提示してください]

 
 
 
 
 

Eve.aic
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