私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
──『ヒポクラテスの誓い』
From: Site-82 Memory Engineer Dominic
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Subject: Eve.aicより回収された諸記録についてこれまでの配属記録におけるEveの関心傾向および行動の特徴と、発見されたテキストデータを照合しました。私の有する見識においては、かのテキストデータはEveの人格アルゴリズムにおける根幹を担っているものと見なさざるを得ません。
クリアランス以上の事実を知るつもりはありませんが、Eveの修復のためには事実関係の調査が不可欠でしょう。人格ドライバ単体で彼女の挙動を抑え込めないのであれば、対抗情報を用意する必要があります。
Eveに対して、あの記憶を改変できる偽装エピソードの差し込みを提案します。ただし、十分に説得力を持たせる材料が足りません。矛盾を生まないためには他視点からの客観的に見える情報面での材料が必要と考えました。
ご支援をお願いします。
From: Site-82 Administrator
To: Site-82 Memory Engineer Dominic
Subject: Re:Eve.aicより回収された諸記録についてまず、私達も当時の事実関係を明確に把握している訳ではないと言っておく。何かが起きていたのは事実だが、確認できた関係者のほとんどは口を閉ざしている。当該計画を主導した容疑者は既にPoI指定を受けているが捕らえられてはいないし、その過程でどんな超常技術が使われたのかも不透明だ。
その上であなたへの支援について準備している。アプローチはいくつか検討したが、当時のスタッフのひとりからようやく供述を得られた。精神影響性のあるオブジェクトを利用してはいるが、内容は少なくとも彼の視点において真実に近いはずだ。
音声ログを添付する。不足情報があればチーム内で協議し、再度申請を行うように。
[録音開始]
(深呼吸の音)
こんにちは。反ミームエージェントはもう接種しているし、あー、記憶処理申請もした。始めよう。早く始めないと、喋る事もできなくなりそうなんだ。どうせ全て忘れてしまうんだろうが。
僕はロレンス。ロレンス・ラングフォードだ。財団で医師をやっている。
そして、人間を一人殺したことがある。僕の手で、確実にだ。
まず、こんな話がある。ヒトの技術や知識や学問はあまりにも拡大していくのに、ヒト自体の性能は10万年ほど変化していない。人口の大半は自分たちが利用する科学技術のことを正確に理解していないし、発展し続ける医療を正しく行うにはますます多くの人手を必要としている。知識の専門化・細分化が際限なく続き、発生する問題は複雑化する。結果、文明が発展しているはずなのに、ひとつの問題に対して多数の専門家が関わらなくてはならなくなる。
ただ結局のところ、僕にとってそれは重要ではない。問題はその先にある。ひとつの問題に多数の専門家が関わった時、その責任は数が増えるほど分散されゆくものだろうか?
僕には責任があり、そしてこれまでそれを忘れる訳にはいかなかった。あの白い部屋は今でもずっと続いている。財団のほとんどの人間にあるのは忘れる義務だが、僕は真逆のものを背負っている。忘れる訳にはいかない。忘れることはできない。あの日僕が喪ったものが返ってくることはない。もちろん誰よりも大きなものを喪ったのは彼女に違いないのだが、それにしても僕の掌から零れ落ちたものは決して小さくはない。あるいは、彼女さえもその中に含まれるのかもしれなかった。
僕は思い出さなくてはならないが、これまでそうできなかった。でも僕はこの部屋に来て報告書を読んだ。やっと口から言葉が零れてきそうだ。
あなたはどうやら耳を傾けてくれるみたいだな。
その少女に会ったのはやはり病院だったんだ。やはり、というのは、ここ数年僕が人に会うのはほとんど病院でのことだから。
"外"で通り一遍の脳神経外科医として経験を積んだ後、軽くはないテストをパスして、しかし終わってみればあっさりと僕は財団に足を踏み入れていた。大抵の総合病院にはその財団とかいう組織の手が入っていて、僕らの管理している電子カルテから夜中に運び込まれてくる救急患者から何から筒抜けだと知ったが、別にさしたることでもなかった。
僕は人の命を救うとか守るとかで医者になったわけではないし。仕事に真面目であるというのと仕事に誇りを持つというのは全然別種の問題であることを知っていた。僕は真面目に仕事をした結果として、年がら年中財団施設の病院に医療スタッフとして詰めることになっていて、ただそこで淡々と情報を記録し続けていた。朝も昼も夜もなく、自分の担当分野となる病理が顔を出せばすぐに記録し、メスを持てるなら持ち、開けるのなら頭蓋骨を開いた。
少女に話を戻そう。僕が脳にハツカネズミの腸が湧き続けるDクラスの解剖記録をつけた日だった。
午前中の一仕事を終えて病院内を歩いていると、その少女は補助電源のついたオーソドックスな車椅子に乗って僕の前を通った。彼女は長期入院している普通の子供とはやや違って、前だけを見て細い腕で一生懸命に車椅子のホイールを持って転がしていた。リハビリの一環として行っているというより、ただ彼女がそうしたいから体を目一杯前に傾け、どうにか進んでいるように見えた。先天的に色素が薄いのか、透き通った白い髪の間から紅色の眼差しが覗いてたよ。弱そうな肌には日焼けのようなものは全く見当たらなかった。もっとも、財団施設に入院する患者の殆どには、日焼けする機会など与えたくても与えられないのが常ではあるけれどね。
僕の前を通り過ぎる時、彼女は軽い会釈をし、僕はそれを返した。言ってしまえばたったそれだけだ。
それだけで彼女はまた精一杯に車椅子を漕いで廊下の向こうへと行ってしまったし、僕は午後の作業を考え始めてた。幼い患者は奇怪な病状の患者に比べれば別段珍しいものでもなかったし、彼女にとっても僕は大量にいる医者のひとりに過ぎなかっただろう。ただ結論から言えば、そのとき僕はすれ違うべきではなかったのだと思う。彼女とすれ違うべきではなかった。すれ違っていなければ……こんな思いはしなくてもよかった。
その頃の僕にはとりあえず将来の進路への不安というやつはなかったように思う。もちろん"外"の常識を超えたものにはいくらでも立ち会ってきたし、命の危機はいつも隣合わせにある。目の前の仕事だって決して簡単なものはないし、僕がこの先進む道には理想の教師はいない。
でもそれは逆に言えば、周りのすべての環境が僕を必要としているという状況でもあった。医学部に進学し、脳神経外科の専門医試験を通過し、今も並みの脳神経医師よりはイレギュラーな仕事をしている僕は、絶対的に必要とされていた。財団の使命もその実感を後押ししていて、もしかしたら普通の医師が得るそれらよりも濃く醸成されていたかもしれない。僕には明確な居場所とやることが山積みになっていて、不安はその壁の向こうに追いやられてる。道に迷うはずはない、そんな感じがしてた。
不安というのは出鱈目に広い、何のしるべもない広場に一人で投げ出された時に降ってくるもので、僕にはそんなものを感じる余裕がなかったとも言える。何もせずとも上からやるべき仕事は次々に降ってくるし、技術の波は轟々と時代を流れる。僕のいるべきところはなくなりはしない。
そしてある時、上から降ってきたものをいつものように受け止めたところで、僕はようやく違和感に気づく羽目になっていた。それは会議室で起きた。
僕が少女とすれ違って何日も経たないうちに、常勤している財団施設で呼び出しがあった。指定された時間に会議室に入ると、普段僕とは関わり合いのない職員たちが数人と、見知った医師がまた数人ほど集まっていた。僕達は簡単な挨拶と自己紹介を済ませてそれぞれの席につく。どうやら今回の計画を主導するらしい白髪で色素の薄い男が中央に座ったが、その目は仕事を始めるというよりも、もっと先の触れたくない何かを見据えているようだった。
ホッチキスで留められた資料が配られ、少しみんなの背筋が伸びる。僕は財団でわざわざ紙で保管されている資料が、たいていろくでもない機密ばかりだと学び始めていたころだ。
前提として。僕は医療スタッフとしてサイトに勤めているが、必ずしも誰かの治療を担当するわけでもない。通常の科学技術でも脳は不明事項が多すぎるけど、この職場ではさらに段違いに奇怪な事象が起きる。異常ミームや精神影響、記憶影響を起こすオブジェクトがあればまず脳を真っ先に診なくてはならないし、財団自体の脳科学も独自の発展を遂げている。記憶処理剤はその最たるものだろうし、記憶技師だったっけ? 人間の記憶を専門で弄る立場まで財団内だけで成立してしまっている。
つまり、治療以外に携わることに慣れてしまっていたんだ。だから会議室でその書類を渡されたときもすぐには状況を理解できてなかった。この手の計画書は得てして冗長な題名をつけるもので、それでいて内容は具体的じゃない。……今でも後悔する、あの時点で計画書に違和感を見つけてすぐに席を立っていれば、誰かに助けを求めていたら何かが変わってたかもしれないって。実際には何も変わらなかったかもしれないが。でも言えるのは、あの時はまだ僕は僕だった。何かが始まったのはそのあとだったんだ。
名前も顔も見たことのない、役職上は僕の上に位置するのであろう男がのっぺりとした口調で説明を始める。それまでに毛が逆立つような違和感を、会議室の全体から浴びていたとしても。まだ僕は何もわかっていなかった。引き返せたかもしれないのに。
「今回の計画は、端的に言いますと神経工学技術を前提として、侵襲式の双方向ブレインコンピュータインターフェースの構築を第一目的とします。ただし、その精度は従来型を遥かに凌いでいなくてはなりません」
資料をめくる音が室内に響いてたのを覚えてるよ。その時点では、僕は彼の意味するところはよくわかっていなかった。声は続く、確かこうだ。
「このインターフェースは継続的な使用を想定した設計ではありません。その設計理念は唯一、搭載直後に果たされるべきものです。すなわち、脳が機器に出す命令を機器に伝えるのではなく、脳が行なっている活動のすべてを機器に伝えます。インターフェースはただこれを満たすためのものです。機器は脳に刺激を与え、脳の反応は機器に記録される」
入ってきた情報の何かが僕の頭の中で噛み合った。何が噛み合ったのかはまだ僕自身にもわかってない。そして流暢に声は流れ続ける。僕の脳が受け取った情報と手元にある知識を組み合わせ、結論へと高速で向かっていく。理解はきっと追いつくだろう。しかし間に合わなかった。
「そしてその入力によって、特定個人の獲得した演算方式の全てを機械化するが目的です。つまり、人の手によるルーチン構築、そして強化学習によらない人工知能の獲得とも言えます。この手法が成功すれば、何度でも行えます」
それにどれほどの意味があるのかはわからない。人間の思考回路が異常に複雑だから、機械を使って真似るのではなく、丸ごと機械に取り込んでしまえと彼は言っていた。言うのは簡単だ。ただ、それがどういうことなのか本当に理解できないほど、ここにいる人間は素人ではないとはわかっていた。
そうだな……たとえば君はエンジニアで、床掃除用のロボットを作るとする。一体どこのエンジニアが、「じゃあ人間の動きをとりあえず真似させて、あとでホウキを持たせよう」なんて考えると思う? 掃除機に移動機能をつければ済むじゃないか。
そんなことに意味があるのか、と思ってしまうが、人工知能の開発に限れば話は別かもしれないとも思い始めていた。まともに制御できるひとつの知能を作り上げるのに、財団がどれだけの労力を要したかは少し奥に足を踏み入れたなら誰でも知っている。知能とは自ら学習し、判断して動く精神でなければならず、一旦組み上がったものは作成者でも完全な行動予測はできないし、膨大な手間を費やさなければそもそも知能として自律させる域に届かない。
もしも、精神性が最初からワンセット整ったものが用意できたならどうだろうか? そして、この方法にはもうひとつ語られていない利点、いいや特徴があった。ただ僕がそれを考え始める前に、説明は次の段階へ移っていた。
「具体的な手術形式ですが、タングステンのマイクロワイヤーを使用します。外周数nmほどのワイヤーを多数脳内血管に挿入し、全ニューロンを刺激しながらその活動情報を受信できるように操作、固定。そのまま維持してニューロン活動を計測します。拘束時間は不明ですが、試算では6時間ほどを見ています」
次々と言葉が流れ、僕の胸の下あたりに重苦しい圧迫感が生まれて、冷や汗が吹き出し始めていた。なぜならその場の脳神経外科医は僕だったからだ。立案はどこか別のサイトの医師が行ったらしいが、実際に施術するのは僕に違いなかった。ワイヤー。脳内に無数のワイヤーを挿入するのは僕だ。
「この施術中、全身麻酔は認められません。硬膜外麻酔を使用して痛覚は遮断しますが、意識の中断は計画目標自体の阻害に直結します。同時に患者の拘束のため、随意筋の弛緩措置を行います」
脳外科において、覚醒下手術は重要だ。だが……だがそんな施術は聞いたこともない。ワイヤーを差し込まれて脳構造そのものの情報を強制的に吸い取られながら、その感覚を実感させる。それは人間にやる術式じゃない。
誰も何も言わなかった。何を言うべきかわからなかったのではなくて、何も言うべきでないと僕を含めて誰もが理解していた。いいや、理解させられた気になっていたんだ。だってそうだろう……そんな手術が、財団に何をもたらすというんだ? AICは今の形ではなかったにせよ、すでに第三世代が実用化されていたんだぞ。でもあの場で、誰一人何も言えなかった。
たぶん、男が何かをしていた。薬物なのかあの場自体に何かが仕込まれていたのかまではわからないが……ともかく、あの時の僕らには既に計画に逆らうことだけは思いつかないようにさせられていた。こんなことは言うべきじゃないんだろうが、せめて記憶を丸ごと奪うか、価値基準ごと考えて完全な木偶にしてくれていたらと思うよ。悪趣味だ。せめて……せめて僕以外がこんなに苦しんでいないことを願う。
そのとき、これに選ばれた末期患者が誰なのかももうほとんどわかりきっていた。いや、これは正確じゃない。でも人生で何度か最悪の予想をし、そうでないでいてくれと願って、裏切られたことが誰にでもある。そういうときは背筋に嫌な信号が走るものだよな。そんな感覚だ。僕は靄のかかったような頭で資料をめくった。手術計画を立てるためにも、必要なことだった。ああ、予想通りだ。君にとってもな。
僕は自分に何の驚きもないことに内心で意外に思いながら、資料に添付された白髪の少女の写真を眺めていた。名前をイヴと言うらしかった。
ちょっと……休ませてくれ。立て続けに話しすぎた。ここには僕とあなたしかいないから、きっと何も遠慮することはないんだろうけど。もちろんこの話はまだ終わりなんかじゃないから、まだ付き合わせることになる。すまない。
そうだな、彼のことは……まだ覚えてるよ。中央にいた白髪の男。顔と名前がどうしても思い出せないが。僕がまだ解雇されていないのも、あなたの前に連れてこられたのも彼のせいで、おかげなんだろう?
あの場に何人の医師とそれ以外の職員がいたのかは判然としない。だが少なくとも、この計画によって僕らが何を得るのか質問しないことはありえなかっただろう。その場に誰か一人でも正常なものがいたならの話だが。あいつは、あの男は……いや、よそう。インシデントを追うのは僕の仕事じゃない。ともかく、あれから執刀当日まで誰もまともではなかったのは確かだ。精神影響を誰もが受けていた。それによって得るものはなく、多くは僕と同じように、大きなものを失った。
そろそろ再開しようか。手術が決まった後のことを話すべきなんだろうけど……ああ、思い出した。手術の日取りが驚くほど円滑に決まって、あの子も特に嫌がったりはしていなかった。
そう、僕はあれからあの子の病室に何度か診察に行き、脳ドックに立ち会った。脳神経外科医に求められるのは神懸った手先よりもむしろそういった計画性の積み重ねにあって、施術は仕事の最終的な結果に過ぎない。あの子自身には予め用意された偽の検査結果と、軽い腫瘍だと偽って手術に同意させた。いつも通りだ。財団は……特に子供を前にした僕らは簡単に嘘をつくんだ。これは普段からやっていることだ。
利口な子だった。自分が恵まれた環境にないことをわかっていたが、そのことを嘆き悲しんだりはしなかった。あの日、脇目も振らず車椅子を漕いだように、毎日ただ自分のできることをやり続けていた。あるいは頭のどこかでは、僕が嘘をついたことさえうっすらと感じていたかもしれない。でも彼女はきっとそれを信じようとはしていなかったんだ。真っ直ぐだったから。何より、彼女はあの男を信用していた。
それから手術の日までの数週間、僕は暇を見つけるとよくレンタカーを借りて乗るようにしていた。免許を取ったのは何年も前だったし、家はサイトのすぐ近くだからろくに運転もしてなかったが、乗ってみると案外なんとでもなるものだった。奴からの暗示もあったのかもしれないが、僕は意外にも手術前に正体をなくすほど酔ってみたり、煙草を吸い始めてみたりといった逃避には陥らなかった。ただ車に乗った。できるはずであろうことをできる範囲でやってみることしかしなかった。行き先だって無茶なところには設定しなかったよ。僕は操られてすらその程度の人間だ。
思えば、僕の先にはいつも誰かがいた。高校以前は言うに及ばず、医学生のときには研修医が、研修医になれば先達の医者がいつも前にいた。僕が専門医試験を通って一人前になると彼らは当然のように道から消え、僕はそれを何となく独り立ちすることだと思っていた。
ふらふらと車に乗り込みながら、それは違った、今なのだ、と思った。今、僕はこんな誰にでも取れる資格ではなくて、僕の前を歩いていた誰ひとりですらしたことがないことをやらなくてはいけなかった。そして僕は間違えた。
そう、あのとき……あの時期にあってさえ僕は迷いを拭いきれていなかった。僕がやらずともきっと他の医者がやりおおせるだろう。だからこそ。誰もしたことがない、と僕にしかできない、では意味が違った。全身麻酔もなくマイクロワイヤーを何百と脳に差し込んで反応を取るような真似をすればどうなるかはわかりきっていることだった。一方で彼女にはそうされるだけの理由も、一応のものが用意されていた。
彼女の病室に診察へ行くたび、少しずつ体が動かせなくなっている様子がわかった。おそらく今の段階ではほとんど自覚はないだろうが、計画書には明確な神経系疾患の病状進行の詳細が記されていた。報告書を読む限りは持病だったはずだが……あの時期、彼女の状態は急速に悪化していたようだ。身体を動かす感覚ごと鈍っていくようだから、本人は「調子が悪い」程度の自覚しかなかったかもしれないけど。
どのみち彼女は"そう"なる。正確にどうなるかはまだわからないにせよ、確実に悪い方向には向かう。もう坂は傾いてしまっていて、どんな力であっても戻すことはできない。球は必ず転がり落ちる。
だからなのか? だからって、あんなことができるのか?
このインターフェースにはもう一つの利があると言ったね。それは人間の思考を丸ごと機械化することで、その人間の思考をそのままデータとして手にすることができるということだ。神経工学や医者の手に頼る必要はないし、バックアップも取っておける。従来のアプローチよりも遥かに安定した方式で、人格そのものに手を入れることができる。
計画を本当に主導しているのが誰かはわからないが、このことに気づいていないとは思えなかった。この少女を検体にしているのが意図的かそうでないのかも不明のままだが、おそらく意図的なものだろうと直感的に察していた。もう確かめる術はないが。
何回か一人で借り物の車を飛ばした。僕の一般的な活動圏内からは終ぞ出ることなく、だが自分のできることを確認するように。
そしてその日、僕は最後の診察に来た。窓の外の空は嫌味なぐらいに晴れていて、あの子の髪は陽光を受けて輝いていた。僕を見た彼女は薄く微笑んで、お薬はちゃんと飲んでますよと自慢げに言ってみせた。その笑顔には先週よりもほんの僅かだけ潤いが欠けていた。
「体調は大丈夫? 変なところはない?」
「はい。ばっちりです」
「手術が怖くは?」
「ぜんぜん。先生がついてるもの」
それはほとんど無意識のうちにつかれた嘘だったんじゃないかと思う。感じていたはずだ。あの子は感じ取っていたはずなんだ。それを自分でも塗りつぶしていた。血が透けて見えるほど薄い肌に嫌気の差す日射を浴びて、自分がどうなるかを肌で感じていたはずだと、僕は今でも思う。彼女を戒めるものは何もなかったが、ベッドと点滴と彼女はひとつの生き物になって、どうしようもなく傾いてしまった長い坂をゆっくりと滑り落ちようとしていると。
時間になり、僕は彼女を手術室に連れていかなければならなくなった。容態を考えてベッドのまま搬送することになっていたが、あの子は「パパ」とだけ言って父親の手を握り、そこからは不安な表情を見せずにただ横たわっていた。
そうだ。僕はあの子の父親の顔を知っている。どうしてかはもうわかっていると思う。あの会議室でも、その後の連絡でも幾度となく、この手術の計画責任者の男とは顔を合わせているに決まっているからだ。それがあの子の病室に通い詰めている父親と同一だったとしても、僕は何も知らない態度を通さなくてはならない。
僕はもうすぐこのことを忘れるけれど、最後に思い出しておかなきゃいけない。僕にはあの父親だけを責めることはできない。
どんな影響があれ、何のせいであれ、最後にメスを執ったのは僕なんだ。だから、せめてあの時見たものを話さなきゃいけない。どんな脳神経外科医の権威でも、治療以外の目的で患者を開頭したことはないだろう。あの目に身体を貫かれたことはないだろう。
麻酔が効いてきてバンドで台に拘束されると、彼女は穏やかだった顔から徐々に表情をこわばらせた。いや表情は動かせないから、目だけが強張ってたというべきかな。でも顔全体が歪んでるのかと思うほど強烈な視線だった。
紅い目だった。信じられないものを見るような瞳で、僕の持つメスを追っていた。なぜこれが見えているのかわからないといった目。そうだ、僕らは全身麻酔だと伝えてた。虹彩にメスの影が映り続けて、彼女はそれが真実だと理解していた。僕はメスを動かす。
それから……それから、これまでやってきたように小さなツールを使って頭蓋骨を切って開いた。その間、イヴは全く目を閉じなかったし、閉じられなかった。音が聞こえたはずだ。自分の皮膚と肉が頭蓋骨から剥がれる音、頭蓋骨が削られて頭に窓が開く音、それから。
より合わせないと肉眼で見ることも難しいような糸の束を分解し、前も側も後頭葉もなく血管へ滑り込ませる。そのたびに彼女は僕と、そして父親を見た。壮絶な何かが彼女の中で爆発していたはずだ。計画責任者である父親は、父親としては退出するべきであっても、職員としては同席して調整をしなくてはならなかった。奴は何の調整をしていた?
思い出して欲しい。僕がせっせと挿入していたマイクロワイヤーが何だったのか。双方向ブレインコンピュータインターフェース。つまり、機械が彼女の脳から何を吸い上げているか、奴はずっと調整していた。刺激が彼女の世界全体を揺さぶっている間ずっと。
彼女は僕を見た。口からひとつも、何の言葉も浮かんでこなかった。
僕の手先はこの手術の時、一切のミスをしなかったと思う。誓って。頭と指先が直結しているようにも思えたし、逆に指先だけが遙か遠くに行ってしまったかのようでもあった。もし彼女の喉がほんの少しでも動いたならどんな叫び声を上げていたのか鮮明にわかったけれど、一方でそれはどこか全く別の場所の出来事でもあった。彼女の視線は手術室中を刺した。その時の僕は何も感じることはなく、ただ正確に手を動かした。そうだ、僕は思い出さなきゃいけないんだったな。
外眼筋はおそらく、あのとき彼女が唯一動かせる筋肉だったと思う。つまりそれは、視線が訴えかけの手段だったってことだ。術式が終わる頃には、彼女はほとんど何も見えていなかった。涙を流すこともしなかった。ただ直上を見上げて瞬きをして、頭を切り開かれている、人のようなものでしかなかった。僕は脳そのものにもメスを入れ、ワイヤーの届かない箇所がないように脳をケーキみたいに切り分けた。その間にも、決して現実世界では得られないような速度の刺激と応答が脳と電子機器の間で急速に積み上げられていた。
もちろんだ。僕は思い出して、そして忘れてしまうだろう。でも……今は泣かせてくれ。彼女は泣けなかった。僕は13時間に及んだ術式の最中ずっと彼女を見ていたけれど、彼女は一滴も涙を流せなかった。偉いことなんかじゃない。それを奪ったのは確かに僕らだったんだから。術式が全て終わって、彼女の目を閉じさせてやるまでに、イヴがどれだけ泣いていたかは僕にはわかっている。でも僕以外の誰にも伝わってはいないだろう。
そうだ。イヴは死んだ。間違いない。あの結果がどうなったのかは僕は知りたくもないけれど、それだけは僕が見届けたことだ。そして、僕が喪ってしまったものだ。
僕はここで治療されるし、財団内での処分手続きは終了した。明日以降はまた誰かを治療する側に回るって聞いてる。そこでイヴを思い出すこともないだろう。僕が泣くことでいったい何になるのかもわからない。何も変わらずに事態は進んでいくんだから。僕自身の行いには、僕自身が向き合わなければいけなかったんだから。
でも、あなたに……死んだヤツメウナギに感謝するよ。あなたがもたらすミームのおかげで、僕は最後に泣くことができる。あんな、指が自分のものじゃないような感覚じゃなくてだ。彼女がどんな顔をしていたのか、最期の瞬間まで見届けたことを思い出せる。あれは僕のことだから。
ありがとう。さようなら、イヴ。すまない。すまない……。
[以降、録音終了までの嗚咽]
[録音終了]
終了報告: SCP-2737を利用した不安障害の治療、及び該当計画に関する聴取が完了しました。対象者であるロレンス・ラングフォードは記憶処理を施され、自身の供述を記憶していません。
From: Site-82 Memory Engineer Dominic
To: Site-82 Administrator
Subject: Eve.aicへの偽装エピソードの注入について音声ログを確認しました。ロレンス・ラングフォードからの供述は十分に有用です。
Eveの中にあった記録が彼女の挙動に影響を及ぼしているなら、あの記録に見受けられる情動的反応……つまり保護者から見捨てられた実感を緩和するために、ある程度事実に基づいた偽装記憶を用意し、演算意識深層に固定しておくのが有効な措置と考えます。
実際のところロレンスは最後まで彼女の身を案じており、その扱いはかつてのイヴ自身にも多少は伝わっていたでしょう。これをベースに、いくつか父親を上書きするエピソード記憶を生成して挿入したく思います。うまくいけば、少なくともしばらくはEve.aicの異常動作を抑え込めるはずです。
Eve.aic
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