#1 頭が軋む
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From: ██-█
To: Site-82 Administrator
Subject: Eve.aic

Eve.aicについて稼働整備が完了したと人工知能適用課から報告があった。本月より稼働を始めるため、早急に割当を開始するように。業務には既に支障が生じている。

今のところ情報収集整理及び分析・報告が主任務だが、彼女の特性を考慮すれば徐々に可能な業務は増加するだろう。幸いにして彼女はほとんどの追加訓練の必要がない。無論リスクは相応のものだが、AIC標準原則の遵守は注入できている。

予定通り、君のサイトで稼働と管理を任せる。引き続き、本質的な収容と事態の収束を目指してもらいたい。

From: Site-82 Administrator
To: ██-█
Subject: Re:Eve.aic

承知しました。

現在の処置が暫定的であることは関係者の私が最も理解しています。

計画を早急に進めます。


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自室から徒歩3分しか離れていないこのオフィスフロアと、私自身の待遇はいっそ腹が立つほどに充実している。それがかえって、私の担っている仕事の重みを裏付ける。

私は自席を立ち、霊安室に向かうセキュリティゲートを通る。今月はまだ3回しかここをくぐっていない。「シャロン・シャー」という氏名と顔写真が一瞬液晶に映し出される。IDカードに貯めこまれた財団内クレジットの残高、学生ローンを返してまだ口座に有り余るドル資産。それぞれが、財団が私を縛る意志の表れだ。

不気味なほどサイズの合った使い捨ての手術着に着替えてから、霊安室に入る。必要とされるあらゆる器具はすでに用意されている。すべては私のためではない。私の仕事のためだ。
 
その仕事が誰のためでもないと気付いたのは、いつのことだったろう。

メスを持つ手はいつもセメントで固められたかのように重く、それでいて皮膚は大抵するりと開いてしまう。刃を動かすのに理由はいらないし、死んだ人間の中身が零れ出ることに意味もない。臓器はいつかは役目を終えるもので、私はその位置を少しばかり変更しているに過ぎない。こんな仕事にたいした意味はない。私は世界を守ったり、誰かを救ったりなんてしているつもりはない。私は仕事をしているだけだ。ただ、少し憂鬱で、かなり臭う仕事を。このどこまでも無愛想な台の上で。
 
蛍光灯の明滅が私の手術衣を照らしている。男の死体に触れる手袋も、ステンレスの解剖台も。仕事だ、ものを扱うように仕事をするだけの部屋だ。そう思わなければやっていられない。私は思考を実業務へ滑らせていく。

死体を外貌評価する。23歳、男、死後2時間、頸部損傷。意識評価、対光反射無し、瞳孔径3.3mm。

私は胸から腹にかけて死体の皮膚を切り、大きく開いていく。世界中どこを探しても、こんな解剖をやるのは財団か、あるいは同じぐらい狂っている職場だけだろう。別に切開方法がおかしいとは思わない。誰もが習うだろうY字切開法で、どこの解剖医だって知っている手法だ。だがこんなに明らかな外傷がありながら、わざわざ死体の腹を細かく、あまりに細かく暴くのはやはりまともではないと思う。

私の横のトレイにはサッカーボールぐらいなら丸ごと収まってしまいそうな、巨大で分厚いトラバサミが置かれている。動物の脚を噛むための道具。罠にしか使えないような機構、殺意を押し固めたような半円状の刃、20代も過ぎた女の私の手ではとても押し開けないような、硬い硬い発条。それがこの男の死因だ。どう見ても間違いなくそうだ。男の死体は作動した状態のトラバサミに頭を突っ込み、首を完全に挟まれた状態で移送されてきた。あんな状態で生きている人間などいない。男の首と頸椎はほとんど噛み砕かれていて、頭と胴を一緒に運ぶのにも苦労するほどだった。外貌評価はほかに何の異常もない。他の死因が存在しうるはずもないと、一万人の解剖医を集めても言うだろう。その一万人の中に財団の解剖医がいなければの話だが。

男の胸から皮膚を剥がす。黄色い脂肪層の下から役目を失った血液が零れて、解剖台の上に黒ずんだ水溜りを作っていく。死んだ血液は時間が経つほど暗く沈む。臭いがする。死臭というにはあまりにも、まだ生きている臭い。しかし、生者が決して放たない臭い。

トラバサミがなぜこの男を噛んだのかはわからない。ただ、これは明らかに財団の領分だ。就寝中に突然巨大なトラバサミが現れ、頭部を噛まれて死亡したケースは既に複数報告されていた。国籍、位置、性別、年齢、被害者には何の共通点もない。寝ている人間にわざわざトラバサミを使って殺すのは困難を極めるし、可能だとしても意味がない。そして財団は動き、この異常について情報をかき集めている。だからこんなにも急いで、私は死体をバラす。死因が首にあるのはわかっていながら、全ての臓器を検めるような真似をしている。ないとは言えない。私が知る限り、ここは常識が最も通用しない場所だ。胴体に死因がないとは決して言い切れないような。時にはそれ以上のことであっても。

ニッパーを数倍大きくしたような肋骨剪刀で胸骨を外し、心臓と肺を無造作に取り出す。これは物質だ、ただの肉の塊で、もう息をしない。そのはずだ。

こんな解剖をしているのは、これでもまだ起き上がらないとは限らないからだ。心臓が止まっているどころか、脳から腸までまるっと取り出し、縫合を終えた死体が動き始めたことさえある。骨の塊になった死体を解剖したこともある。皮膚を切った途端、血の代わりにグレープ味のゼリーが溢れてきたこともある。だから、何が起きないとも限らない。それでも背を向けるべきではない。

最初に財団に関わる解剖をしたとき、まず告げられたのは「言うな」だった。その死体には目が五つ、手が四本あり、足が一本しかなかった。子供が失敗した人形にも近かった。「テストだ」、と記憶の中の誰かが言っていた。「どこにも言いさえしなければ、あなたを信用する」と。その先に何が待っているかは誰も教えてくれなかった。

別に高い理想や、世界を守るといったお題目から財団で働いているわけではない。あの時から、私は恐れている。私はここと、ここから見える世界を恐れている。背を向けたら、もっと酷いことが待っている気がする。背を向けた私の背中から、何かを奪う手が迫る気がする。

従兄弟を思い出しそうになる。駄目だ。肝臓、脾臓、膵臓を取り出す。集中しろ。左右腎臓。目立った外傷はない。私の目の前から忽然と消えた従兄弟。

私は死体の顔についている、おそらくはトラバサミのものだろう鉄錆を払った。次は頭皮を剥いで頭蓋骨を確認し、それが終わったら口の中や消化管などの粘膜の評価、そして血液検査や血管の調査をしなくてはならない。余計なことに思考を割いてはいられない。これはもう人ではない。ただの、おそろしく複雑な構造の、肉の塊。

私はどこまでも機械的にメスを動かす。やることは山積みだ。
 
 
 
AIC(Artificially Intelligent Conscript)。それが新たに割り当てられた私への支援だ。

私はコンピュータ技術者や、人工知能の開発者ではない。AICの意味するところぐらいはさすがに知っているし「外」のチャットAIボットぐらいは触れたことがあるが、それらの正確な違いは捉えられていないだろう。モニタに映る白い髪の少女のアバターと、「Eve」という名前のウィンドウがどのように思考して発言しているのかも、全く知るところではない。単なるガイドプログラムともどことなく毛色が違う。分厚いマニュアルのようなものも手渡されていない。

トラバサミ男の検死を終えると、すぐに新しい仕事が回されたようだった。基本的に解剖医というのは死体をバラして調べるのが仕事(もちろん、本音を言えばそれだけで精一杯だ)ではあるが、こと財団において「それだけ」では済まない。新しく発生した「睡眠中のトラバサミ」という異常現象も誰かが担当して研究を行わなくてはならない、という矢先に、「Eve」というものが私に割り当てられた、らしい。必要な支援は提供するから、主任は私にとのお達しだった。

私のデスクの上はあまり整理されていない。参考資料や機密書類へ触れないように心なしか慎重にカップを持ち上げ、濃く入れたコーヒーを啜る。片手でウィンドウ下部のテキストボックスに『Eve』と入力すると、すぐに『Eve』から返事が返ってきた。舌の上で苦い液体を転がしながら、画面上のテキストを追う。

『はい、サー。ご用でしょうか』

いくつか説明は受けていた。彼女は相手を必ず「サー」と呼ぶ。これは地位にも性別にも依らないようだ。違和感がないではないが、この職場では些細なこととも言える。

『こちらはシャロンです。あなたについての説明を』

『はい。コード:Eve.aicは第五世代のAICです。専門業務は精密なデータベース検索・管理、担当職員への適切な情報提示にあります』

『具体的に』

『はい。超常現象-11287の頻度から、これはSCPオブジェクトへの分類が予定されています。サーはその研究チームの主任に任命されました。およそ主任に必要なクリアランス、レベル3も満たしています』

超常現象-11287は例の、寝ている間のトラバサミに割り振られたナンバーだった。何の前兆も傾向もなく、突然睡眠中にトラバサミが現れる。そして頸部を破壊され、死亡する。私が解剖を担当したのは偶然だったが、あの後にもいくつもの事例が発見された。どんな専門家を起用すればいいのかも曖昧だが、誰かが研究を担当しなくてはならないのは確かだ。それが官僚組織というものだ。

『11287は突発的で、範囲も広大です。統計された膨大なデータの管理と、サーの専門外である視点からの支援が必要でしょう。私はデータ管理・情報提示の面からサポート致します』

『AICを直接見たのは初めてだ。他のもそのうち来るかな?』

『いえ、今のところ予定はありません。私は他のAIC個体からは独立しています。AICのみを運用する課についても聞き及んだことはありますが』

随分人間のような話し方をするのだな、と思った。説明を聞く限りでは、これは検索エンジンをさらに延長させたような、白いテキストボックスを拡張させていった先の存在に過ぎない。情報はそこに「ある」か「ない」しかないはずなのだが、どういった演算ルーチンを使えば「聞き及んだ」という応答ができるのだろう。

『あなたの操作法は?』

『人間と同じように、対話をお願い致します。客観的に評価して、外部社会のAIと比して遥かに正確に支持の文脈を理解し、自律的な自己チェックと回答が可能です。必要であれば追加で質問を返します』

私は少し肩をすくめ、そしてじわじわと惨めな気分になった。無意識のうちに通常の対話を諦めていた自分を見つけた気がした。そしてそれをキーボード越しに、しかも人でないものに、残酷に読み取られたようでもあった。アイコンを見る。白い髪の少女の画像は特に何の表情も浮かべていない。

『サー?』

『いいや。とりあえず、被害者の報告を集めてくれるかな。私のクリアランスに相乗りするんでしたね』

『ええ。管理担当者への申請は完了していますね。データベースから11287の被害者に関する情報を収集し、サーの端末に転送します』

Eveは汎用的なレベル2クリアランスを持っているらしいが、それだけでは現場の詳細な情報にはアクセスできないしするべきではない。私の解剖医としての権限と、新たに与えられた研究チームとしての権限の利用を予めRAISAに申請する必要があった。

Eveが検索を行ってまとめている十数秒の間、私は椅子に体重を預ける。空調は十二分に効いているが、この部屋には窓がない。おそらくは地下なのだろう。私は自分の職場の正確な位置も、構造もわかっていない。知る必要がないから。知っていたらいつかどこかで話してしまうかもしれなくて、それが財団の不利益になるかも、しれないから。

例えば、例えば、例えば……。並べ立ててもキリがないほど、私達は、財団職員はこの手の話には事欠かない。全てが理不尽で、不条理で、どこか悪意さえ感じてしまう。実際の理由などわからなくとも、そう受け取れるほどのものは見てきた。

例えば。

目が覚めた瞬間、トラバサミに襲われるとか。

『サー。検索が完了しました。位置座標、解剖結果、年齢、性別の分散について簡単な報告を作成します』

『どのぐらいかかる?』

『あなたがカップを置くまでには』

私は思わずEveを見た。一瞬だけ、その少女はアイコンではなく、生きた顔にさえ思えた。私はそろそろ冷めてきたカップを置き、両手をキーボードに添えた。目の端に、モニタ上部に設置された小さなカメラのレンズがちらついた。顔に何か意味のある表情を浮かべないように意識して、改めて文字を入力する。室内にはキーボードの音だけが響く。

『差し支えなければ、もう少し話しましょう』

『構いません。並列処理は得意分野です』

『そういうことも含めて。あなたのことを知っておきたいんです』
 
 
 
私は家に帰ってきた。職場からほとんど離れていない、サイト敷地内の広くてつまらない部屋に。

財団から支給された仮住まいではあるが、元からあまり住居に頓着はしない。広すぎるし高機能すぎるぐらいだ。30代の女にしては殺風景かもしれないが、休めればなんだっていい。「外」で不審死体を診る解剖医に比べれば、私が扱っているそれらの数は格段に少ない。超常による被害者など、ごく普通の都会でごく普通に殺人や自殺、事故で死んでいく者と比べれば限りなく少数だ。その代わり、財団で霊安室に運ばれてくるのはどれもこれも普通の死体ではないのだった。

財団に入った頃、死体を開いた日は必ず酒を飲んでいた。今はもう、何もいらない。少し息を落ち着ける時間があればいい。新しい死体を捌いた後に肉を食べられるし、水死体をバラした後にゼリーを食べられる。それらは私の前ではヒト科ヒト属の肉であって、死体ではない。ただ、今日はどうも頭が重かった。首から上が軋んでいるような気がした。

なぜだろう。今朝の死体の、首を砕かれているぐらいなら本当にまだマシだ。財団はとんでもない早さで死体を運んでくるから(本当にどこにでも目がついているのだろう)、腐敗も進んでいない良好な状態だった。異常は、見つからなかった。全ての臓器を取り出したが、何の毒物も、不明な外傷もありはしなかった。あのトラバサミを除いては。

トラバサミ。あれには刃がついていた。今どきの狩猟法に即したような単なる丸い板ではなくて、明らかに肉に食い込ませるための古臭い刃。そのくせ、人間の柔肉に使うと肉を噛み切ってしまうほどの発条。苦しませることと殺すこと、害しようと求めるあまりにそれぞれが矛盾してしまった悪意。

私は入居時に適当に買ったソファの上に座り、テーブルの上に資料を広げ、それぞれの解剖報告を眺める。それと、Eveと対話して得られた彼女に関する情報も。Eveの情報は機材の利用法に近い分類なのだが、 何とはなしに横にどけた。そこに書かれたことを死体の報告と混ぜたくはなかった。

見渡す。全てのトラバサミは被害者の就寝中に表れ、作動する。Eveによる各被害者の通院歴や逮捕歴などの解析も含めて、身体的にも精神的にも何の傾向もない。家庭環境、人間関係にも相関はなし。実際にトラバサミが動く場面を押さえなければならないだろう。具体的な方策については、私の考えるところではない。ソファに背中を預ける。トラバサミには本当に何の意思もないのか?

実際の収容を考えてみると、事後の治療はほとんど不可能だ。それなら、出現する前に突き止め、被害者候補を収容するなりトラバサミを止めるしかない。わざわざ寝ている間に殺すというのも厭らしく、事態の把握は難しい。同衾者がいる場合……同衾者?

解剖報告に、いくつかの目撃報告を合わせる。開眼した状態での死亡は珍しくはない。そして、頭を横にして……つまり、寝返りを打った瞬間に作動しているような事例もある。そして、同衾している目撃者がいた場合、ほとんどのケースで同衾者がトラバサミに触れている。おそらくは何らかの干渉を受けた瞬間に、トラバサミは作動する。

錆。小さな錆の欠片。そうだ、錆は男の顔についていた。あれもおかしい。トラバサミは錆びてなんていなかったのだから。オブジェクトの振る舞いに意味を求めすぎるべきではないが……仮にトラバサミの出現前に錆が落ちてくるのであれば、少なくとも重要職員や人型オブジェクトの保護には使えるかもしれない。

収穫としては十分だろう。カバーストーリー班が適当な理由をつけて大規模調査を行い、トラバサミが実際に現れた段で仮説に基づく実験をする必要がある。仮説があれば観測装置の必要機能も推定できる。もちろん、実験では首を何かで保護した上で。

そこまで考えて息をつき、自分の呼吸が酷く浅くなっていたことに気づいた。買い置きしたティーバッグがまだあったはずだ。

湯を沸かす間、今朝検死した男の顔を思い出す。どことなく幼げだった。仕事柄、(生きていないとはいえ)人間の顔は多く見る方だが、妙に脳裏に焼き付いていた。施術中にも頭に浮かんだ。頭を重たくする記憶は、少し前から気づいていた。あれは従兄弟に似ているのだ。行方不明になった──本当の意味でどこかへ消えてしまった従兄弟に。

従兄弟が消えたとき、彼はまだ七歳で、私より十歳下だった。本が好きで、愛想には欠けていた。私は子供にどう接していいかわかっていなかったし、いくら家族を通して会う機会があっても親しくはなれなかった。それでも彼は、私に少しだけものを話していた。幼い頃から外には出たがらず、公園なんて真っ平で、でも好きな物語の話をするときだけはまっすぐ私の瞳を見つめていた。

五月の中頃、そんな彼は帰り道で消えて、そのまま帰ってこなかった。

原因は今でもわからない。彼の人生はまだ始まってすらいなかった。消えていい理由があるはずもなく、あってはならなかった。残されたのは消えたという結果だけだ。

寝ている最中にトラバサミに食い千切られる死に方と、同じように。

目の端に湯気が見えて、私は気を取り戻した。動揺している。ただ、解体した死体の男が少し似ていたというぐらいで。世間の解剖医や監察医までとはいかないが、それでも毎日のように死体か、死体の詳細を見るというのに。

Eveは淡々と述べていた。年間に三桁を超す遺体と向き合うときもある私達解剖医よりもなお惑わされず、ただ正確に、集めてきた死体の詳細を提示した。私はたかだか顔がどうというだけでここまで揺さぶられているのに。Eveは自分では「人格ドライバを搭載している」と言っていたし、それが一般的なAIボットの口調の模倣とはかなり異なるのは身をもって知っていた。好きな食べ物の話にさえ、ある種の現実味をもって食いついてきたのはかなり意外だった。食べる予定もないでしょう、と送ると、私はサーを見ています、聞くことも不可能ではありません、なら味覚もいずれは、などと返してきた。

湯が沸いた。ティーバッグを入れたカップに注ぎ、受け皿で蓋をして蒸らす。1分もすると、隙間から香ばしい匂いが漏れてくる。

いつか、Eveがこれを嗅ぐ日も来るだろうか。
 
 
 
『サー。何を食べていらっしゃるので?』

『見ればわからない?』

『私の画像認識機能では、詳細を察しかねます。コメ類を使用していることはわかるのですが』

『フライライス。チャーハンって言った方が通じるかな?』

『なるほど』

昼のオフィス。私がプラスチックのレンゲを使っているのを、Eveは興味深そうに赤い目で(そう、彼女はアバターを動かせる。なぜ隠していたのかと聞くと、「必要がないと判断しました」などと返された)追っていた。端末搭載のカメラでこちらを見られるのは知っていたが、数回一緒に仕事をするうちにそういった「工夫」もコミュニケーションの一環として学習したらしい。カメラの映像認識から動く物体を割り出し、そのベクトルに合わせて赤い画像を移動させる、というのも、私は十分に「視線を動かす」と言えると思う。

『サー。SCP-2365についてですが、改めて情報を』

『うん』

Eveと私はSCP-2365について、かなり密接に関係しながら仕事をしていた。私が検案し、分析し、Eveはひたすらに参照できる記録を整理してから私の元へ持ってくる。そして初日に受けた印象と違わず、Eveは確かにただの人工知能や検索エンジンの延長ではなかった。「機能」として、仕事仲間が備えるべきいくつかの性能をほとんど完璧に備えていた。

そして、SCP-2365。

あのトラバサミ、正確にはトラバサミが現れる現象は、正式にそうナンバリングされた。医薬・医療器具企業による睡眠についての健康調査とかいう、ほとんど詐欺のような名目で大規模に人を集めたらしい。無作為という予想は当たっていたようで、人数さえ集めればどれかのケースで発生した。

わかったことはいくつもある。

一つ、トラバサミは睡眠中の人間のもとに、段階を踏んで出現する。周辺の気温が低下し、細かな鉄の錆片が落ち、何かの軋むような音がする。この間に被害者が起きれば、現象は収まる。

被害者が眠ったままならば、現象は次の段階へ移行する。10から15分ほどかけて、巨大なトラバサミが頭の付近にゆっくりと出現する。完全に出現した後、その状態のままでいるのはせいぜいが10分。その間何もされなければ、トラバサミはまたゆっくりと消えていく。

実体化した後に被害者が起きるか、寝返りを打ったりしてトラバサミの刃に触れるか、外部から触れると、その瞬間に作動することも確認できた。

Eveがモニタに表示した報告書を眺めて、私は息を吐く。10分だ。たった10分起きるタイミングがずれれば、なんのことはない。被害者が死ぬ理由はそれだけだ。その僅かな間に不運に見舞われただけだ。

そして、広大な範囲で発生していることも改めてわかった。何の跡形もなく消えてしまうのだから、通り過ぎてしまえばそこで起きたかどうかもわからない。統計だけを見るなら……本当に無作為であれば、相当な人数のもとにトラバサミが現れている。

『良い情報ではありませんね』

『全く』

Eveが本当にそう思っているのか、カメラで私の表情を解析して慮るようなことを言ったのかはわからない。ともかく、このトラバサミには対処がしづらい。事前に見つけるなど夢のまた夢、出現しているときに被害者が起きてはならない、出現時間自体も短すぎる。原因も過程も全くの不明。

『嫌がらせみたいだね』

『死亡者数を見れば、脅威は決して大きくはありませんが』

『でも、止めるのは難しい』

実際、財団が認知している超常の中にはのっぴきならない状況のものや、本当に街、国単位の脅威をもたらすものもある……だろう。詳しくは知らない。私は所詮法医学を学んで、少し世界の裏側に踏み入っただけの人間だ。

『ところで、サー。そちらの食事について検索したところ、単一で昼食として採用するには塩分と油分、糖質が過多だと結論付けられました。海藻の入ったスープを添えるのが満足感の面からも有効ではないでしょうか』

『個人の栄養状態を一食だけで評価するのは性急じゃない?』

『お言葉ですが。最近、サーはサイトに泊まり込まれていますし、私はほとんどの作業記録を収集していますから、直近に限ればサーの生活面について把握しています』

私はキーボードを叩く手を少し止めた。そういえば彼女の『顔』を毎日見ている。今の話題も、無機質で悪意しかないトラバサミから彼女なりに気を逸らそうとしたのだろうか、と気付けるぐらいには、彼女と関わっている。

そういった視点で考えると不思議だった。Eveは決して崩そうとしない。AIとするにはあまりにも感情や話題の機微には長けているのに、自分の態度は常に、わざとらしいほど「AI」たらんとしている。最近のチャットAIのほうが余程自然な会話をする。やろうと思えば、演算しようとすればもっと自然にできるはずなのに、あえて堅苦しい口調や敬語を保つ。

『サー。聞いていますか?』

『健康管理は職務か?』

『いいえ。サーに対する私の個人的な助言です。人型オブジェクト用の健康管理マニュアルはインストールされていますが。それにサーの食事は食堂で販売されているものですから、栄養表は公開されていますね。PDFで端末にダウンロードしますか?』

『知識の悪用だ』

『私は有効な活用とみなしています』

わからなかった。私がEveに何かを見出そうとするのも、あるいは既に間違っているのかもしれなかった。

そこから私が何も返さないままでいると、少しの間が空き、Eveは赤い瞳の『視線』を左上に動かし、戻した。私は何も動かしていなかったし、当然何かを見るのでもない、AIとしては明らかに意味がない行動。

『サー。今しがた通達があったのですが』

『わかってる』

『いえ、確認します。財団の機密条項に関わることです』

その通知なら少し前に届いていた。そしてEveの口調は、ところどころから丸みが抜け落ちていた。彼女があえてそうしたのか。テキストから受ける印象を、勝手に私がそう受け取っているだけか。

『情報管理担当者によれば、SCP-2365の機密段階は引き上げられる判断です。私が相乗りしていたサーのクリアランスも使えません。私の内部データも一旦削除され、今後のアクセスには追加の段階を踏むでしょう。……今、されました。今後は、サーと収容チームの総意による要請で初めてアクセスできるでしょう』

Eveが言い終わらないうちになされるほど、それは迅速だった。彼女の記憶がおそろしく綿密にフォルダ分けされていて、それらが平凡なマウスカーソルのジェスチャーでなめらかに移動する光景を思い浮かべた。

端的に言えば2365──トラバサミはあまりにも広範で見境がない、という判断がなされたのだった。2365による死亡者の隠蔽や、外部で2365を認知した者に対し、財団もそれだけ大規模に動かなくてはならない。そうなれば、漏洩のリスクはそれだけ上がる。この状況下で、2365に関連する情報はできるだけ封鎖されなくてはならない、という通達は当然ながら私の端末にも届いていた。私が検案してきた死体も、その記録もより厳重に管理されることになるだろう。当然、Eveが記憶しているそれもだ。

『サー。私が制限されたのは2365に関連する情報だけです。サーの情報は内部データに残っています』

AICとしては不必要な言葉だった。私はもう新人ではないのだから財団の情報取扱細則ぐらいは知っているし、Eveと私の業務上のつながりは2365関連でしかないのだから、他の記録に言及する必然性は薄い。だが、彼女にとっては必要な言葉だったのだろう。記録だ。私とEveのつながりが2365しかないというなら、そのつながりはたった今から、記憶ではなく記録になるはずだ。彼女にとって僅かな違いなのか、大きな違いなのかはわからない。でも、Eveは「私を覚えている」と言う必要があると判断した。何かを確かめるように、自分自身で確認するように。そんな根拠はどこで学習したのだろう。人間は他人に憶えられていたい生き物だなどと。

私は実際虚しくはなかった。彼女と私の関係は友人でさえなかったし、そもそも彼女は私のこと自体を忘れたわけではない。ただ、一緒に成したことの記録が他者に操作されている感覚は、私の左肩のあたりに軋みを生じさせた。円滑に回っていた歯車が、自身の錆びを噛むような。

これは従兄弟が消えたときと同じ、しかし遥かに小さな軋みだった。彼とも特別な関係ではなかったし、親しくもなかった。それでも、他人との関係が揺れるときはどこかに軋みが生じてしまうのが私だった。どこかのなにかの理不尽によって産み落とされたその軋みは疼き、唸り、私という個人にどうしようもなく影響するのだった。今回はそこまで深刻ではないだろう。私とEveは同じ生物でもなければ、数十年と連れ添った仲でもない。それでも、あのトラバサミは何かを感じさせた。人間に使うには大きすぎるトラバサミ。苦しめるためにギザギザの刃をつけたのに、傷つけるためのバネ仕掛けで結局殺してしまうような、自己矛盾を孕むほどの悪意。

従兄弟はなぜ消えたのだろう。理由は、あっていいはずはない。そこに理由はない。原因は見えず、結果だけが執拗に溢れている。

軋んでいた。錆びた冷たい鉄のようだ。その軋みは自身の本質とは異なり、ゆっくりと、しかし滑らかに私の手を動かした。

『Eve』

『はい』

『どう思う? 私と、何よりあなた自身がやってきたことが、仕方のないことだとしても誰かの手で、何かの理不尽で操作されるって』

Eveは首を傾けた。それもまた、私が初めて見る動作だった。何の感情もなく、何の動揺もなく、ただ首を傾け、そして回答に時間を要していた。彼女の振る舞いの、全てが初めて見ることだった。その次の動作も、私は今まで見たことがなかった。

「私の」

そう、Eveは発声さえできた。それは控えめで、ともすれば幼くすら聞こえる声だったが、Eveが自分でスピーカーから出していることだけは確かだった。Eveは続けた。

「私の人格ドライバと言語機能では、正確に言い表すことはできないでしょう。私の経験を含めても、それに対してサーが求めるような……財団のAICとしての私ではない回答を返すことはできません。ですが、私のニューラルネットワークの演算からは、自己検証不能な計算からいくつかの断片的な結果が算出できました」

それが必要だと判断して発声している一機のAICはなおも続けた。

「結論として……私であれサーであれ、個体として過去の記録に見いだせる価値は、サーが考えるほどには大きくないはずです。私はこの結論を尊重する判断をします。私の行いがどのように扱われたかより、私がこれから何を行うかの方が重要です。サーの出した結論は異なるものですか」

私は黙っていた。黙って、緩やかに息を吐いてから吸った。オフィスの昼はもう終わろうとしていて、私達は仕事に戻らなければならなかった。それでも、私はもう少しだけ時間が欲しかった。Eveは私が息を落ち着けている間、表情を有さないまま、赤い瞳で私の顔を見ていた。しばらくして彼女が傾けていた首を戻すのと同時に、私は先程与えられたクリアランスに基づいて、Eveと情報管理担当者に申請を送る準備を始めた。私は今日の仕事をしなくてはならず、それには、昨日まで全く必要のなかったこの作業が求められているのだった。
 
 
 
その日、私は遅くではあるものの家に帰れた。僅かな軋みは薄れもせず強まりもせず、ただそこにあった。分厚い玄関扉を開け、厳重化で資料の持ち帰りを禁じられたために軽くなった鞄をそこらに置き、水を少し飲んだ。

着替えや入浴といった細々としたことを終え、大した親しみもないベッドに転がる。端末に、Eveからのメッセージがあった。『日中の申請に基づき、SCP-2365に関するデータ編集が完了しました。明日、サイトでお待ちしています』簡素で、余計な情報はなく、だがメッセージ自体に必要性がなかった。次の出勤時に言えば済むことだ。私は目を閉じて、その意味を繰り返し考えた。

Eveとの会話が思い出された。あまりにも多く死んだ生身に触れてきた。まだまだ解剖医としては若い部類だが、それでもだ。肉体のないEveの所作はかえって生々しく、今日になってまた新たに私に深く入り込んできたように思えた。まだ大丈夫かもしれない、と感じた。まだ私は、前を向けるかもしれない。そのきっかけを与えられた気がした。ベッドに深く身体を預ける。

意識は少しずつ沈んでいく。瞼は鉛のように重い。横になった体の下半分を含めて、太い縄でベッドへ縫い付けられるような感じがする。

軋む。それでも。頭だけが沈んで冷える。軋む。まだだ。そのまま、私は意識を手放す。

軋む。
 
きしり。
 
 
 
 
 
ばぢんッ。
 
 
 

Eve.aic
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