黄昏

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 辺りは、夜の色へ。ジープの上の空から西に行くにつれて、空は藤色から枯れ草色へと変わっていく。太陽はもう山の向こう側だ。草原が影に包まれてから、どれだけ経っただろうか。やがてはそこらを覆う天蓋にも藍色の幕が下りるだろう。ここには夜を過ごせそうな場所も、食べ物もない。

 ジェイムズ・ブラッドショーはこの一日、死について思いを巡らせていた。きっかけは駐車場での一幕。目の前で二人の男が死んだことだ。
 人のものとは思えないほどに呆気ない死だった。彼らは元から心などない物質に過ぎず、最初から屍としてそこにあったのではないか。今は事実だけがその場に転がっているのだろう。
 死体を見たのは初めてではない。父の青ざめた顔であれば今でも鮮明に思い出せる。しかし、今回は話が違う。死の瞬間を目撃したのは、あれが初めてだったのだ。
 いや、本当に初めてだったのだろうか。ジェイムズは過去を振り返った。アノマリーのせいでDクラスが消失する瞬間なら、一度だけ見たことがある。このDクラスの死に様は、実に空虚なものだった。もはや彼の名も顔も記憶にない。ツナギを着た特徴のない囚人が、虚空に消え去っただけ。昼間の暴漢どもが尊厳のない骸を晒していたとしても、彼らは重みのある物体となって空港に転がっている。同じ人の死でも、そこには大きな隔たりがあった。
 そして、現在。アルゼンチン軍事政権はまさにそのアノマリーを使って邪魔な人間を消している。CIAも使ったことがある。どれだけの人が消えたのだろうか。もはや想像すらつかない。ジェイムズは、何が何でもこのアノマリーを回収せねばならなかった。

 夜の足音が聞こえる。ジェイムズは寒村の影を認めた。数軒の家と、それよりさらに少ない明かりが灯っているだけの村だ。泊まれそうな場所はない。ジープの速度を落とす。エンジンの唸りに紛れて、人の声が聞こえる。挨拶だろうか。内容までは聞き取れない。ジェイムズはエンジンを切った。再び、人の声がする。スペイン語だ。

「どうもどうも、ごきげんよう。なにかお探しで?」

 段々と目が黄昏に適応していく。粗末なあばら家の玄関に、一人の男が座っている。ジェイムズは運転席の扉を開けた。疲れ果てた脚が、砂埃の舞う地面を踏みしめる。そのまま彼は気を緩めずに男の方へ歩みを進めた。

「どうも。この辺に宿ってありますか?」

 男はニヤリと笑う。残照が彼の白い歯を照らした。矍鑠たる八〇代か、耄耄とした六〇代か。ひと目見ただけではわからない。

「すんませんねえ。小さい村なもんで、宿なんて」

 あからさまに肩を落として落胆した様子のジェイムズを見て、老人は思い出したように言葉を続ける。

「ぜひ、我が家にお泊りになってください」

 このあばら家に世話になるのは、老人にとって酷だろう。ジェイムズはその事実から目をそらさないようにした。

「お気遣い痛み入ります。ですが、そりゃあなたのご負担になるでしょう」
「大丈夫でございます。確かに粗末な暮らしではありますが、それでも夜通しの運転よりかはマシでありましょう」

 男は立ち上がった。彼の笑顔を見て、ジェイムズは頬が熱くなるのを感じた。確かにありがたい申し出だが、同時に不安も隠せない。しかし、ジェイムズの体力は底をつきている。何よりも休息が必要だ。もはや、諸手を挙げて受け入れるしかない。

「今のわたしはあなたの優しさに報いることなどできません。本当に有り難いことではありますが、わたしはどうしても先に進まねばならないのです」
「いえ、ぜひお泊りになって」

 形ばかりのやり取りのあとに、老人は手を差し伸べた。温かい枯れ木のような手だ。筋張っていて骨も浮いている。ジェイムズは老人の手を取った。確かな力を感じる手だ。

「感謝、痛み入ります。デイビッド・ブラッドレーといいます」
「ミゲル・ロペスです。アメリカからおいでなさったんですか」
「……ええ。ただの旅行ですよ」

 良心の痛みを無視しながら偽名を名乗る。国籍を聞かれたときも返答に窮したが、それよりも怪しまれる方が問題だった。しかし、ミゲルはジェイムズの悩みなど何処吹く風といった様子だ。

「さあ、そのジープをこっちに。あなたの好きそうなものもありますよ」

 黄昏時。ミゲルの両目が怪しげに輝く。ミゲルは家の影へと消えていった。ジェイムズはジープを家の裏へと向けて動かした。ヘッドライトはつけていない。
 家の裏手には、小さな小屋があった。そこから灯油ランタンを持ったミゲルが再び姿を表す。彼の誘導に従って車を小屋のドアに寄せていく。ランタンの光がチラチラと荒れた裏庭に舞った気がした。
 暗闇の中、柔らかな光が金属の冷たさを照らす。そこにはバイクがあった。

「ハーレー・ダビッドソンULの一九四七年モデルです。アメリカのミルウォーキーで作られたものですよ。七四インチのサイドバルブエンジンで、アメリカの最高傑作……。バイクはお乗りになりますか?」
「ええ、昔はよく。こいつは確かにすごいバイクですよ。状態もいい。 こんなもの、どこで手に入れたんです?」

 ミゲルも誇らしいはずだ。彼の期待に溢れた表情からもわかる。アルゼンチンの片田舎に紛れもない本物のハーレー・ダビッドソンが眠っているという事実に、ジェイムズも少なからず驚いた。

「よく知る青年 いえ、息子の。わたしの末の子のものです」

 ミゲルは未練のある声音で言った。何をするでもなく、彼は深紅のフェンダーを拭いた。

「あいつは首都で学生をやっとりました。きっとこのバイクを盗られたくなかったから、わたしに預けたんでしょうなあ。わたしは今でも時々走らせてやってます。だから、こいつもまだまだ現役ですよ」

 ミゲルは思い出に浸っているようだ。記憶の彼方からミゲルが戻ってくるのを待つ内に、ジェイムズはこの老人が既にボケているのではないかと心配になる。だから、子どもの名前は聞かないでおくことにした。

「あの子はこのバイクが本当に好きだったんでしょう。いや実にアメリカは良いものを作る。アメリカの物は最高ですよ。 それでも、あなたらアメリカの人たちはここに来るんです。アルゼンチンの美しい景色を見に、ね」

 自分のことを言われた気がした。記憶の中から帰ってきたミゲルの言葉は、思いもよらぬほどに力強い。思ったよりもこの老人は話が上手なようだ。納屋の扉を閉じるときに、ミゲルはジェイムズがここに来た理由を尋ねた。自分は建築家だと、つき慣れてもいない嘘を言う。

 家の中には女がいた。三十代の半ばほどで、ランプの明かりに目をひそめている。やがて彼女は早口のスペイン語をミゲルに浴びせかけはじめた。この男は誰だ。何を考えてるんだ。私の安全はどうしたんだ。誰が後始末をすることになるんだ。彼女は大体こんなことをまくし立てていた。その手には二人の男に食わせても十分な量のシチューが入っていそうな鍋が握られている。
 女の口調に棘はない。むしろ優しさや親しみさえ感じられた。ミゲルもわざと怒ったふりをしながら、もてなしの義務や聖書にも書いてあるような慈善の心について声高に主張を始めた。
 まさにこれこそが父娘の愛の交わし方なのだ。ジェイムズはミゲルの親心と、その娘の父に対する思いやりを感じた。

 三文芝居に半ば飲まれてしまったジェイムズは、己の役柄を果たそうとスペイン語の粋を尽くして謝った。そして、帰ろうともした。少なくとも、その提案はした。二人を少しでも落ち着かせたかったからだ。しかし、ミゲルの奥ゆかしさはにべもなく断られてしまった。黙っているしかない。そうすれば、この寸劇が終わる。
 ジェイムズは危険人物でない。ミゲルの娘はそう思ったのだろう。それどころか、彼はこの孤独な老人の一夜の伴となってくれる存在だと確信したようだ。小さなため息を残して、彼女は少しだけ大きい隣家の中に消えていった。

 シチューはラム肉や南瓜、そして白豆でいっぱいだった。ミゲルはニヤリと笑顔を見せる。ひとしきり二人で歴史と宗教の話をしたあと、ミゲルはジェイムズに様々な美しい建築物を紹介した。一度は行ってみたほうがいいそうだ。

 夕食を終えたあと、ジェイムズはジープを見に行った。トランクからフェルネット・ブランカのボトルを回収して、ベレンに心のなかで感謝する。イタリアの薬酒の瓶を見たミゲルの笑顔がより深まる。ランタンがパチンと音を立てて、少し暗くなった気がした。

「さて 我が友デイビッドよ。明日はどこへお行きに?」

 スペイン語で「我が友」の部分を強調しながらミゲルは言った。ジェイムズにはこの老人が信頼に値するか判断がつかない。食後の薬酒を舐めるようにして飲んだ。

「名のない町を探しています。新しい町です」

 唇をすぼめて、ミゲルは首肯する。

「この伽藍堂の国で、人々が何を建てるかを見たいと仰るのですな」
「その通りです」
「実に大きな建設計画でございます。アルゼンチンで一番大きいくらいじゃないでしょうか。数千人からの人が、そこに詰めております」

 ミゲルはゆっくりと頷いた。頷いている途中に喋り終わってしまうのではないかと思うほど、ミゲルはゆっくりと話している。ジェイムズは彼の言葉を待つ。

「若い頃、ブエノス・アイレスで働いとりました。労組にも入ったんですがね、今じゃあ難しいでしょうな」

 ずい、とミゲルはジェイムズに顔を近づけて、彼のことを見つめた。その視線に、ジェイムズは憐れむような首肯を返す。ミゲルは言葉を続けた。

「その町では 建設現場には、一人の男がおるのです。労組の創設者の、ヴァルレラさんが」
「オーグスチン・ヴァルレラですか? ご存知なら、ぜひ教えていただきたい……彼について」

 この片田舎に、ヴァルレラのことを知っている人間が居るとは。ジェイムズは驚嘆した。

「会ったことはございません。しかし、皆々が口を揃えて彼を讃えるのです。その昔、ヴァルレラさんは先生でございました。それが今ではどうでしょう。どこで働いていても、労組は彼の言葉に耳を傾けるのです。多くの人がヴァルレラさんについて行きます。遠方から話を聞くためだけにやってくる人もいるくらいです。なんでも、炎のように心を燃やすような言葉を話すとかで……。ヴァルレラさんは大変な伊達男だと、わたしは聞いとります。そこそこ年は食ってると思いますが、それでもタフで、美しい男だと。そんな男が、建設現場では誰よりもよく働くのです」

 ミゲルのギラついた視線に圧されて、ジェイムズは思わず鋭く息を吸いこんだ。空気が鼻腔を通り抜ける音に、恥ずかしさがこみ上げる。

「いえ、すいません。つまりその、どうぞお続けになって」

 意味のない言葉が口から滑り落ちる。ミゲルは一息ついて、言葉を続けた。

「ある少年が集合住宅の現場で働いていたときの話でございます。九階でリベットを打つ作業をしていたとき、悲劇は起こりました。足場がバラバラに崩れ落ちてしまったのです。そしてリベットガンが暴発して、その少年の片手を鋼鉄の大梁に釘付けにしてしまったのです。逃れられるはずもございません。哀れな少年を助ける方法もまた、ございません。労働者たちは皆、建物の下に集まりました。ただ少年が建物の端からぶら下がっているのを眺める他になかったのです。無事な方の手が力尽きようものなら、少年は無惨にも落下死するでしょう。リベットが手を切り裂いて、地に落ちるのです。そこにヴァルレラさんがやってまいりました。悲鳴を聞いたんでしょう。少年を見たヴァルレラさんは、梯子も足場もなしにスルスルと建物を登ったのです。苦もなくてっぺんまでたどり着いた彼は、片手でその子をつかんで、もう片方の手でリベットを抜いたのです。ヴァルレラさんは少年の命を助けました。まさに奇跡でしょう。そんな話を、聞いたことがあります」
「本気で仰ってるのですか?」

 どうにも胡散臭い話だ。ジェイムズの奥ゆかしさが音を立てて崩れた。彼の中の科学者たる部分がそうさせたのだ。

「どうでしょうなあ。己の行動か、皆が言う伝説か。あのような男にとっては、どちらが重要でございましょうか。果たして真実はどこに居るのでしょう」

 ジェイムズは目を閉じる。老人の問いに答えるには、確かな事実を知らねばならない。

「他に、ヴァルレラに関する話はございますか?」

 ミゲルの表情が暗くなる。

「政府はヴァルレラさんの言うことが気に入らんようです。しかしヴァルレラさんは決して一度口にした真実を撤回しません。政府の手の者に誘拐されて、拷問されたとしてもです。そして、殺されることもない。皆、彼のことを愛しているのですから」

 しかし、もう殺す必要はない。政府の連中は、もっと最悪なことができる。ジェイムズは思考を巡らせた。再びミゲルの視線が向けられる。

「奴ら曰く、そう。ヴァルレラさんはゲリラなのだとか」

 これには驚かない。あまりに落ち着き払っていると、怪しまれないか。ジェイムズは心配になる。ミゲルはジェイムズから視線を外した。彼はフェルネット・ブランカのボトルを灯火にかざす。

「この酒は良いものですなあ。誠に感謝でございます」
「……どうも」

 老人の言葉に、ジェイムズは生返事を返すほかなかった。ミゲルは柔らかい光を反射して輝く酒瓶を眺めている。

「理解はします。難しい時代でありましょう。荒野を旅する見知らぬ男としてなら、嘘をつく必要もございましょう。しかし、同じ釜の飯を食ってしまえばどうでしょう。もう、見知らぬ男ではありません」

 ミゲルの視線と、ジェイムズの両目が交叉する。

「一つ、質問に答えてくださいますか」

 ジェイムズは、何も言わなかった。

「あなた、建築家じゃありませんな」
「……ええ」

 他に言うべきことはたくさんあるというのに、ジェイムズの口は動かない。既に重大な失敗をしたみたいだった。真の任務も知らずに、ここで終わってしまうかのようだった。なぜ自分はアルゼンチンにいて、この家の中に居るのだろう。唇をすぼめて胡乱げな視線を投げかけてくるこの老人に、自分は何ができるのだろう。舌が口の中に張り付いて、うまく話すことができない。

「ええ、建築家ではないです。でも自分は……自分は疑問を持ちます。懐疑的な男なんです。他の人は何かを信じてるところ、わたしはその何かを疑うのです。そんな疑念の心でも、篤信の心を救うことだってできるのです。わたしはそう思っています。どんなに苦しんでも、どんな犠牲を払っても信じることを止めぬ者たちには感服するばかりです。そう 
「ヴァルレラさんのような方、ですかな」
「あなたのご子息のような方であります」

 半ば自棄に言い放ったミゲルに対し、ジェイムズの言葉は衝撃を与えた。二人の間に沈黙が広がら。その中には、筆舌に尽くしがたい思いが詰まっていた。驚きで固まったミゲルは、やがてゆっくりと首を縦に振った。アルゼンチンの広大な草原を夜のそよ風が吹き抜ける。びゅう、と木壁の隙間から風が吹いた。

「昼間、この村に警察が来ました。アメリカ人で、ジープを運転している男を見なかったか聞いて回っておったのです。なぜその男を探しているかは、答えてくれませんでした」

 ミゲルが語った現実が重りとなって、ジェイムズの両肩にのしかかる。ミゲルは続けて語る。

「もしわたしなら、ジープは隠しておきますな。数週間かそこら、警察連中が他の人の尻を追いかけ始めるまで」
「しかしどうしても行かねば、それに移動手段だって 
「わたしの倉庫にジープを隠して置けるような場所はございません。真に残念なことですなあ。でも、警察はジープの男を探してるんです。ハーレー・ダビッドソンULの一九四七年モデルを駆る男がいたとしても、気にも留めんでしょう」

 ミゲルは茶目っ気たっぷりな笑顔をみせた。

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