「エヴォウルによる再生が行われることで私達は同一性を保持しつつ、劣等的性質の破壊及び同化が可能となります。」
繰り返す。
「再生を拒む者は私達がその頭蓋を開き、腐脳を大地へ還します。」
また、繰り返す。
今日の授業も退屈だ。「同化学」は同じことを繰り返すだけでなんの面白みもない。これが中学卒業まで続くと思うと憂鬱になる。
集中力が限界を迎え、ふと窓の外を見た。2組は体育でサッカーをやっているようで、この教室内と違って楽しげな雰囲気だ。
お、ダイちゃんがボールを取った!
頑張れ、頑張れ!
……ああ、やっぱりダメだった。
ドリブル中、派手に転倒して丸々とした体が地面に叩きつけられる。そんなダイちゃんを見限ったかのようにボールは離れていき、ラインから出ていってしまった。
ダイちゃん、よく頑張ったな。
応援してるから次こそシュートを——
「岡田君!」
「はっ、はい。」
耳を突き刺すような甲高い声。体が少し飛び跳ねてしまう。
「授業に集中しなさい。……同化の為に必要なことはなんですか?」
「咀嚼と嚥下です。」
「そうですね。咀嚼は劣等性質の破壊において重要な過程です。そして嚥下は同一性存在の持つ性質を再び自身の血肉で受け入れるということ。つまり——」
なんとか切り抜けられた。答えられなかったら、きっと廊下に立って壁のシミを見つめるハメになっていたことだろう。
「より優れた同一性存在が、劣った同一性存在を血縁関係のある者達で——」
今度はよそ見をしないで聞いているふりをする。考えていることは同化学ではなく、今日の晩ご飯についてだった。
まだ、お肉が残ってたっけ。
胃がズシン、と重たくなった。
「ただいまー。」
自分の部屋まで駆け上がってランドセルを放り投げる。そして、急いで椅子に座りゲームの電源を入れた。フレンドとの待ち合わせに遅れる訳にはいかないと、コントローラーに手をかけたその時だった。
「タクー、今日は早めにご飯だよー。」
はぁ、今日に限って晩ご飯が早い。コントローラーを乱暴に戻し、ドカドカと階段を降りていった。
後で謝っておかないとなぁ。
フレンドに嫌われたら、僕はこの日常から逃げられなくなるから。
1階に降りると晩ご飯のきつい臭いがした。この、なんていうか、変な臭い。嫌な予感は的中したみたい。
やっぱり、今夜も肉料理だった。
椅子に座って、それを見つめる。どんどん食欲が失せていく。
「もう飽きたよ。」
「ワガママを言うな。」
お父さんはいつもうるさい。これ美味しくないし、3日も続けば文句くらい言いたくもなる。
お母さんの肉料理は好きじゃない。いつも硬くて、変な臭いがする。濃いめに味付けされてるけど……このマズさは隠しきれてない。
なんとか齧って口に入れてみる。そして、やはり吐きそうになる。
「もういらない。ごちそうさま。」
噛みきれない肉をこっそりとティッシュに出して捨てた。部屋にあるポテチでも食べて口直しをしよう。そう思って席を立つと、いつの間にかお父さんが目の前に立っていた。どうやら、怒っているようだ。
「お父さん……?」
——パチンッ
叩かれた。頬がひりひりと痛い。
「残すな。」
「ごめん、美味しくなくて……食べられない。」
「だめだ、残すな。」
お父さんは僕を椅子に座らせる。また嫌な臭いのする肉と向き合わされ、泣きそうになる。
「お父さん、そんなに怒らなくてもいいじゃない。確かに美味しいものじゃないんだから。美味しく作れなくてごめんね、タク。」
お母さんはいつも優しい。すぐに僕を守ってくれる。
「お前はいつも甘すぎるぞ……おいタク、お母さんに謝りなさい。」
「ごめん、なさい。」
「大丈夫よ、お母さんも美味しく料理できるように頑張らないとね。食べ切れるようにお母さん応援するから、頑張ろう。ほら。」
それを口に入れる。舌にのしかかる。
「咀嚼して。」
それを噛む。硬い。
「嚥下して。」
それを飲み込む。臭う。
「お母さんの肉、まだ残ってる?」
「今日でおしまいだよ。明日はカレーにでもしましょうか。」
「やったー!」
生姜焼き、ステーキ、ハンバーグ…お母さんの肉を使った料理はどれも美味しくない。普通のカレーはそれらに比べたら、ご馳走なのだ。
「せっかくお母さんが再生したっていうのにお前ってやつは……そんな子他にいないぞ。」
「……。」
「だいたいお前、少し教義への理解が足りないんじゃないか?お母さんの肉だって——」
「もう分かったよ!」
「タク!」
やっぱりお父さんはうるさい。ダッと自分の部屋に逃げ込む。急に走ったからか、胃から変なものが込み上げてきそうになる。ポテチを無理やり食べてそれを押し込んだ。
「再生を拒む者は私達がその頭蓋を開き、腐脳を大地へ還します。」
また、繰り返し。
今日も窓の外を見ていた。この時間は2組の体育の時間でもある。授業に向き合うより、サッカーを見ている方が楽しい。
お、ダイちゃんがボールを取った!
今日こそ決められるか……?
おお!決まった!
1点、また1点……次々に決めていく。ダイちゃんの蹴ったボールは吸い込まれるようにゴールへ向かっていき、ゴールキーパーをすり抜けていく。
次第に、なんだか嫌な気持ちになってきた。
上手すぎて応援する気が起きないから?……いや、それは違う。
違う。
そう、違うから嫌なんだ。
そんなことを考えていると、授業が全然頭に入らない。気づくと、あっという間に帰りの会となっていた。
それはいつも通りに進行した。
”先生の連絡”までは。
「酒井君。」
「は……はい。」
「あなたは昨日、私の家の庭に来ていましたか?」
「え……い、いえ……それは……。」
酒井君も、もうダメか。
「来ていましたか?」
「は、はい!行きました!行ってました!」
「私とどんな話をしたか覚えていますか?」
「それは、それは……。」
「嘘なんてつかなくていいんですよ。」
酒井君は泣き出してしまった。
「おめでとうございます、酒井君。」
先生はニッコリと笑った。
「おめでとう!酒井!」
「今まで大変だったね、ほんとに良かった!」
「再生、楽しみだね!」
みんなもニッコリと笑った。
そして、祝福する。
「イヅァルグ イル エヴォウル。」
「イヅァルグ イル エヴォウル。」
「イヅァルグ イル エヴォウル。」
見ていられなかった。
僕はこっそりと抜け出して、そそくさと家に帰った。
「ただいま……。」
ランドセルを適当に放り投げる。ベッドに倒れ込み、目を閉じた。
今日はフレンドがログインしない日だ。嫌なことがある時に限って話せない。やり場のない気持ちを吐き出すように溜息をついた。
僕の唯一の楽しみは、ゲームをしながらフレンドと話すことだ。大嫌いな日常から逃げるには“外“の話を聞くのに限る。エヴォウルのいない外はとても魅力的で、話だけでもワクワクした。いつかフレンドの言っていた「てーまぱーく」という所に行ってみたい。そしたら友達もみんな誘ってみようかな。
……そんなことを考えていても酒井君が選ばれてしまったショックを誤魔化すことはできなかった。
明日、酒井君になんて声をかけたらいいんだろう。
おめでとう、かな?
良かったね、かな?
初めまして、かな?
いや、「初めまして」はダメだ。
先生に怒られる。
……なんで怒られるんだろう。だって酒井君はもう——
「タクー、ごはん。」
はっと我に帰る。
もうこんなこと考えるのはやめよう。
階段を降りていくと、晩ご飯の臭いがした。
あれ?おかしいな、と思った。
食卓の椅子に座る。
テーブルに運ばれてきたのは、カレーではなく生姜焼きだった。
「今日はカレーって言ったじゃん。」
「タク……。」
お父さんが申し訳なさそうにこちらを見る。
「お父さん、再生したんだ。」
「あぁ……そうだったんだ。おめでとう。」
「ありがとう。肉料理が続いちゃうと思うけど、ほんとにごめんな。」
「いいよ、気にしないで。再生はみんなするものだから。」
「タクは優しいな。ほんとにありがとう。」
今回のお父さんはかなり控えめだな。
……今回の?
今回のってなんだろう。お父さんやお母さんに、今回も前回もあるのだろうか?
再生してもお父さんはお父さん、変わらない。
ただ、近づくだけ。
同化学の基本だ。
だけど……。
「お父さんはどこ?」
そんな言葉が、思わず口から出てしまった。
お父さんは何も言わない。
晩ご飯を食べている。
ひたすら、食べている。
「タク。」
お母さんは僕を抱きしめた。
「大丈夫だよ、タク。ほら、お母さんもお父さんもずっと変わらないよ。タクのお母さんとお父さんだよ。」
いつも通りの優しさだった。
そして、いつも通りの違和感だった。
「帰りのホームルームを始めます。」
僕は何も考えられなくなっていた。でも、ぼーっとしてる方が辛くなくていい。今日も気付けば帰りの会になっていた。
「酒井君が再生を拒み、逃走したようです。」
先生が言うと、教室内が緊張した。
「劣等性質の助長によって同一性が損なわれる。」
山本さんが声をあげた。
「停滞に甘んじた矮小な存在。」
「意志に反するのは不埒な者のみ。」
「開き、晒し、還せ。」
みんなが何を言っているのかは分からなかった。
分かるのは、みんなが酒井君を許しそうにないということだ。
「皆さん心配いりませんよ、じきに再生して戻ってきますから。」
先生はみんなを宥めるように言った。
「酒井君を見かけた場合は教義に従って行動しましょう。」
みんな元気よく返事をする。
僕は返事をしなかった。
「そして、岡田君。」
突然、名指しされる。
「あなたは昨日、私の家の庭に来ていましたか?」
頭が真っ白になる。
何か言おうとしたけど、何も言えなかった。
そんな僕を見て先生は——
「おめでとうございます。」
ニッコリと笑った。
ひたすら走っていた。
学校には二度と行かない。家にも絶対帰らない。
このままここから抜け出してやる。
もう何もかも嫌だ。
何か変だ。
何か違う。
この先もずっと、こんな日常が続くなんて耐えられない。
石につまづき、転んでしまう。膝を擦りむいてしまったけど、構っている時間はない。一刻も早く、遠くに行きたい!
ぬちゃ ぬちゃ
足音が近づいてくるのが分かった。
振り向く。
それは、僕か?
細い体。
丸い顔。
一重の目。
そして、左上にある八重歯。
一見して僕に見える。
でも、違う。
こんなの僕じゃない。
こんなのが僕のはずがない。
異様に長い足。
血管が透けて見える肌。
脈打つ顎の下の袋。
そして、三本だけの腕。
……あれ。
僕の腕って、こんなに多かったっけ?
そうか。
僕もとっくに僕じゃなかったんだな。
気がつくと、それはいつの間にか目の前に立っていた。
ニッコリと笑う。
瞬間、右手と左手、そして何かで首を閉められる。
徐々に意識が遠のいていく。
ここで再生するんだな。
てーまぱーく、行ってみたかったな。
「タク。」
声が聞こえる。
聴き慣れた、優しい声。
お母さんだった。
「おか……あさん。」
来てくれたんだ。
やっぱり、お母さんはいつも優しい。
すぐに僕を守ってくれる。
疑ってごめんなさい。
家族が家族じゃないなんて思ってごめんなさい。
ここから出ようとしてごめんなさい。
これからはちゃんと授業にも集中するし、好き嫌いもしない。
お母さんの料理も残さない。
ちゃんと偉い子でいるから。
だから、僕を助けて。
僕は、僕として生き続けたい。
「お……かあさん。」
「おめでとう。」
「ただいまー!」
自分の部屋まで駆け上がって、ランドセルをしまう。すぐにまた1階に降りて、食卓の椅子に座った。学校を頑張った僕へのご褒美。お母さんの美味しい晩ご飯を楽しみに帰ってきたんだ。
「あら、今日はゲームしないの?」
「もう飽きたよ。」
「そう。でもよかった、丁度晩ご飯が出来たところなのよ。今日はすごいご馳走だよ〜!」
カレー、ではなさそう。
なんていうか、贅沢な匂いがする。
「じゃーん!」
「おお!すごーい!」
「タクもお父さんも好きでしょう?」
お父さんはニッコリと笑った。
僕も釣られてニッコリと笑った。
「久しぶりだね、姿焼きなんて。」
「タクの再生だから、つい頑張っちゃったのよ。さ、いただきましょう。」
「いただきます!」
「腐脳もちゃんと還してあるからね。」
笑顔で囲む食卓っていいなぁ、と思った。
「しっかり咀嚼しないとダメよ?」
「分かってまーす!」
「嚥下も慌てちゃダメよ?」
「はーい!」
「よし、近づいたね。」
何も変わらない。
何も違わない。
この先もずっと、こんな日常が続きますように。
そう思いながら、僕は晩ご飯を口に運んだ。