銀と黒のモノリスは、ケルワッサーに立つ
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熱がクリス・エドワーズの体を侵す。湿った肌着と生ぬるいデスクが夏をまざまざと感じさせる様は、財団といえども空調を満足させられない実情を体現していた。入口で浴びた消毒液のミストもすっかり乾き、今や気化熱にも期待できない中、エドワーズは重装備を背負って休憩室を目指していた。

休憩室のドリンクとエアコンに期待を抱いてエアカーテンをくぐると、一段と強い冷房が出迎えた。駐在する警備員に会釈をし、SCP-294  自動販売機へ硬貨を入れ、"Coke"とタイプする。注ぎ口から噴き出す炭酸はコップの縁を乗り越えて氾濫を始めた。

「おおっと」

シャバシャバとコークが弾けた後、揺れる水面に雫が垂れる。紙コップが弱い粘着を醸すその様は、伸ばしかけた手を引っ込めさせるには十分すぎるものだった。

「ああ、またみたいですね。しかし激しいな」

声をかけたのは、近場の布巾を片手に持った先の警備員だった。

「また、とは?」

「昨日までは何も起きてなかったのに、今日になって3回目ですよ。流石にここらで運転中止ですかねえ」

聞けば、誤作動が続いているのだという。表面張力の瀬戸際が1件、やけに鉄臭いミネラルウォーターの出力が1件、そして駄目押しに今の洪水。SCP-294が休憩室に設置され、職員からの寵愛を受け続けてはや14年が過ぎていた。一般製品なら既に買い替えの頃合いを過ぎていたが、さしもの異常存在も来る年波には勝てなかったのかもしれない。

  なるほど。しかし肝が冷えましたよ。どうするんです、これでも異常存在でしょう?」

「そうですね。ひとまずは運転を止めます。メカニックを呼んで調べて、必要ならオーバーホールもあり得ますね。腐った老人や喋るヒトモドキのせいで優先順位は相も変わらず低そうですが、まあ……1週間もすれば上から許可は下りるかと。どうぞ、最後のコークです」

拭き上がった紙コップは優しく手の熱を吸っていく。

「1週間ですか。じゃあ、戻ってくる頃にはまた通常運転に戻ってるのを期待しますね」

警備員はエドワーズをしげしげと眺めた。

「……ということは、フィールド調査ですか?」

「ええ、平行世界に5週間ほど。Wifiもトイレもおさらばなのはちょいと厳しいですが」

彼の讃嘆の眼差しをよそに喉へ糖を流し込むと、舌の上で踊った気泡が食道の中を駆け降りた。駐車場を見下ろす窓、バラエティを流すテレビ  見慣れた備品を視界に走らせ、最後の1滴を口に含める。

「これぞ合衆国ステイツだ。もうちょっとゆっくりしたいですが、また来月に」

「それまでには必ず間に合わせますよ」

コップをゴミ箱に放り込み、荷物の質量を背負いながらエドワーズは部屋を後にした。

◇◇◇


調査対象は無数のパラレルワールドのうち、比較的最近発見された一つだった。ぽつんと浮かぶワームホールは基底空間に穴を開け、煌々と眩い光を放ちながら、本来因果律を断たれた平行世界と接続していた。噛み潰された亜空の果てへ、財団はいつものように機動部隊と調査チームの手を伸ばした。

そこで待ち受けていたものは、ヒトと引き換えに豊かな自然の広がる別の地球、財団の知るうち特に変哲のない宇宙だった。力のベクトルが倒錯したわけでも、凍て付く氷河に全てが閉ざされたわけでもない、懸念したよりも常識の通じる世界が広がっていた。調査隊は過去に何度か派遣されていたが、物性や物理法則はもとより、重力加速度・自転速度・太陽定数・大陸配置・恒星や衛星の位置関係  全ては基底世界と僅かな誤差を生むだけで、物理学者や化学者の連中は退屈の色を見せていた。当初は天文学者や地質学者もはつらつとしていたが、やがて「見慣れた光景ではありますね」という結論に落ち着いたようだった。

新天地に心を躍らせたのは気候学者と生物学者の面々だった。260ppmという低い二酸化炭素濃度はヒトの不在を知らしめる決定的な要素の一つだった。農業革命も経験しない世界では、極相を迎えた針葉樹林が無数の野生動物を育んでいた。理想的な比較対象を手に入れた気候学者たちは、クリスマスの朝の8歳児のごとく喜んだ。

それに輪をかけたのが生物学者で  とりわけ昆虫学者は、マジョリティたる節足動物の動物相ファウナに目を見張った。脊椎動物が足痕一つ見せないあの世界において、彼らは地上の覇権を握っていた。胴を細く伸ばしたトノサマバッタは左右の顎で樹皮を齧り、翅を捨てたアシナガバチが群れでバッタを翻弄する。やがて保護色に身を包んだハエトリグモが藪から飛び出し、獲物を奪って去ってゆく。生態系の主役は半メートルもの巨虫たちが担っていた。

この新しい平行世界は生物学者の憧れの地となった。今回の調査地はアメリカ合衆国  北米大陸の東岸域。とあるボードゲームのように宇宙の狭間を裏返しながら、普段のサイトのカウンターパートも視界に入るかもしれない。

◇◇◇


5日目。フィラデルフィアと呼ばれる地で、調査隊はボートを揚げた。陸での覇権を譲った脊椎動物は海にこそ約束の地を見出した  というよりも、陸を目指す気など毛頭なかったと見える。オキアミをたらふく呑み込むウバザメの横で、7mはあろうカマスの仲間が歯を光らせた。トビウオの群れは重力に逆らって空を飛び、やがて放物線を描いて着水すると、そのまま水の中でも飛び続けた。

「沖にイルカがいないとこう違和感があるものなんだな」

「海獣もウミガメもいない。有羊膜類はストの最中か」

「アンモでも生き残ってないかと期待してましたが、やっぱ魚がドミナントですかね」

9日目。五大湖に向かう車窓の外で、カラスほどのトンボが円を描いた。トンボはガガンボを捕らえ、チョウを貪り、食欲の限りを満たしていた。ハクトウワシをも霞ませるその猛禽ぶりに手を叩いていると、手前に珍妙な巨虫が聳えていた。貫禄のあるこのサシガメは地域の頂点捕食者なのかもしれない。

「グリズリーなら木の実も食べるだろうが、あいつはどうだろうな」

「あれだけデカけりゃ雑食になっててもおかしくはないですね」

「血ィ吸われるのだけはゴメンだよ」

和気あいあいとはしゃぐ中、エドワーズは地図を広げていた。見慣れた基底世界の地図をなぞると、もう3日もすればエリー湖の湖畔が待っていた。湖にも魚がいるのか、あるいは水棲昆虫の類が跋扈するのか、心は車体と共に弾んでいた。

◇◇◇


12日目。

調査チームの前に鎮座していたのは、黄色と赤色の絵具をキャンバスに塗り込んだような毒気を帯びた湖だった。古びた図書館よりも静かに佇み、それでいて禍々しい圧を放つ光景を前にして、タイヤはとっくの昔に静止していた。

降り立つと、嗅覚が警告を発した。つんとした鉄の匂いが鼻を突いたかと思えば、悪臭が続けて脳を鷲掴みにした。喉と腹筋に力を込め、臓腑が突き上げられる感覚を必死に抑えて顔を上げる。ある者は試験管を手にして車を降り、ある者は望遠鏡を担ぎ、その湖に釘付けになる。小さな虫なら体重を預けられそうなほどに、湖面は濃度と禍々しさを誇っていた。

望遠鏡を覗く彼女から「あ」という声が漏れた。覗き込むと、衝撃が脳細胞を駆け巡った。黒い直方体が視界を穿つ。十数時間前まで網膜に居座っていた直線的な構造物  ヒトか何かの存在を示す痕跡が、この世界にも足を踏み入れていた。

その物体  どこかで目にしたそのボックスは、水面の上に立っている。銀の金属光沢と黒の樹脂に身を包み、見慣れた機械  コーヒー自動販売機は汁を漏らす。何かしらの液体がとめどなく流れ出し、注ぎ口はバルブの制御を脱した蛇口の様相を呈している。

「この世界のSCP-294か?」

そうかもしれない。

だが、何故。

人工物などただの一つも存在せず、シラミ、マダニ、哺乳類に縋りついた種さえ実在しないというのに  何故あの物体はここに在る。オフィスの14年で朽ちる機械が、何故大自然に身を置いたまま動いている。

「ひとまず、サンプルを回収しましょう。瓶を」

汚臭の蔓延る中、ひっきりなしに指示を飛び交わせ、液体を瓶に流し込む。雑巾で拭き取る程度では臭いが落ちず、変質していく車内の空気を消臭して間に合わせる。ダイバー用のスーツはあるにせよ、あまりの衛生環境のため潜水調査は延期の対象に甘んじた。

「ああ、酷い鉄と、アンモニアの臭いだ。血と肉と脂、それに排泄物の混合物か」

「生物起源物質に間違いはないわね」

「鉄ってことは節足動物の線は薄いか?この世界で初の、脊椎動物かも」

「ヘモグロビンなら、そう」

分光器による簡易的な検査装置はその仮説に頷いた。可視化されたスペクトルは脊椎動物に判を押し、その筋肉と脂肪、血液と組織液、全てを攪拌したジュースであることを証明した。加えて、その向かいのテーブル席では別の動きもあった。生化学者が豊満な核酸を見落とすわけもなく、成分分析と共にDNAアライメントが作成されたのだ。コンピュータを唸らせること十数分。幸か不幸か湖をなした単一種の生命体は、化石記録による較正を経て、その塩基のベイズ推定をある答えの領域に至らしめた。

「ここだ」

トンと液晶に置かれた指の先には、極めて大局的な分子系統曼荼羅が描き上げられていた。1本1本枝が伸びるようしゅが芽生えていくその過程の中、件の生物Xは樹形の半ばに食い込んでいた。

「この位置って……肺魚ですか」

「肉鰭類だ。パンデリクチスやティクターリク、あるいはもっと基盤的なところで分かれている」

「要は陸に上がる魚。私たちの祖先かもってことですか。分岐はデボン紀ですよね」

「じゃあざっと4億年近く  

口々に議論が交わされる中、或る記述が記憶の底からエドワーズの脳裏をよぎっていた。いつか目を通した報告書の、煩雑な収容手順でも、激甚たる事案記録でもなく。膨大な記録に埋もれた簡素な付録のフレーズが、意識の内にぬるりと浮かび上がる。

Dクラスに'フォベロミス・パッテルソニの脳脊髄液'を注文させ、
フォベロミス・パッテルソニの脳脊髄液を出力させました。

フォベロミス・パッテルソニは約800万年前、後期中新世に絶滅しています。


14年であれが壊れないのなら。風雨に抗い、寒熱に耐え、どこからともなく汲み上げ続けられるとすれば。

時間の哲学を超えた無尽のポンプ、絶え間の無いあれを真の姿とするならば。

垣間見えた不具合の延長が、予定されたものならば。



思考を声に出すと、チームは低いざわめきに包まれた。時間改変に関連する機材はここに無く、車内に並ぶ博士号も自然史分野の知見をもたらすだけであった。時間異常部門に告げようにも、電波を断たれ衛星も飛ばないこの世界において、基底世界への伝達手段は無に等しい。

腸の中で蠢くサナダムシを思わせるこの不穏の蓄積は、その場に捨て置くわけにもいかなかった。

「……行程の短縮を提案します」

◇◇◇


摩訶不思議な音を立て、ポータルから財団車両が飛び出した。かつての因果の再起と共に、車輪は普段の重力に従って床の鉄板に迎えられる  はずだった。車体は地面にめり込み、スタッドレスタイヤは泥濘の中で空回る。衝撃とどよめき、その中でエドワーズは現実を噛み締める。

  間に合わなかったか」

ウェダーを履いて車窓を飛び出し、勢いのまま泥に沈む。冷涼な大気が肌をなぞる中、彼は立ち上がった。

針葉樹林が腕を広げていた。鳥の声は無く、ネコほどあろうコオロギが林床の上を跳ねていく。ざわわと揺れる枝葉は生命を湛え、彼らの陰では見慣れない奇蟲が関節と翅を合奏する。広い緑のオーケストラの足元に、地面は踏み躙られた雑巾のごとく溜まった汚水を吐き出した。



その彼方にSCP-294は佇んでいた。

アリのコロニーにタンパクを与えながら、冷えた風の中でモノリスは静かに聳えていた。

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