薄明
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この街が色を失ったあの日、駆けつけた私を出迎えたのはいつもと変わらぬ声だった。

「ああ、大変な事になったね。それにしてもよくここまで来られたものだ。信号は読めた?私はさっぱり。これじゃ車も運転できやしない」

どうしてこの人はこんなに呑気にしていられるんだろうと、あまりにいつも通りのその姿に呆然としたのを覚えている。何も気にしていないような風でコーヒーを啜り、今まで蓋の色で見分けていた塩と砂糖を間違えてカップの中身を流しに捨てたあの人は、この街から色が消えた事なんて本当に全く意に介していないような様子だった。仮にも芸術家だというのに、あの人は芸術に多大な影響を及ぼすこの重大な変化を前にいつも通りに笑っていた。

「どうして……」

そんなに能天気なんですか、と続けようとした呟きは、口の外には出なかった。笑いながらコーヒーを淹れ直すあの人の目がその問いへの答えを映していた。心底ホッとしたような、まるで重荷を降ろしたような、何かから解放された人間の目。全てが収まるべき場所に収まったような感覚がして、スッと荒ぶっていた気持ちが冷えていった。この人は本当は芸術家なんかじゃないんだと、私はその日初めて気づいた。

あの絵の具に塗れた日々の中でそれは大きな失望だった。けれど今はそうではない。そんなあの人だからこそ今の私を、私の選択を受け入れて、背中を押してくれるだろうと信じていた。気づけば私もあの人と同じく、もう芸術家ではなくなっていた。

だから、インターホンを押す行為にそこまで抵抗は感じなかった。これを押せばもう芸術家でいるという選択肢は消えてしまうと分かっていても。どう言い出すべきか。何を言われてどう返すべきか。頭の中でそれだけがぐるぐると回り続ける。気づけば数分は経っていて、けれど返事は無いようだった。試しにとノブを回してみるとドアは音も無く滑らかに開いた。きっとまた鍵を開けたままで昼寝でもしているのだろう。あの人にはそういう所がある。お邪魔しますと小さく呟き、何度も訪れた師匠の家に踏み込んだ。

「師匠、いますか」

物はあれど、生活感はまるで無い居間。誰も使わず床に埃が積もったアトリエ。本や雑誌の山が並ぶ、散らかり放題の広い書斎。ご無沙汰していた師匠の家は以前と全く変わりなかった。けれど肝心の師匠はいない。押し入れや寝室、風呂場までも覗いてみたが、結局誰も見つからなかった。どうやら留守のようだったので中で帰りを待つ事にして、私は手近な机に置かれていた新聞を取った。日付を見ると一週間前のものだった。

新聞の山から別のものを取ってみると、それは四日前のものだった。更に別のを取ると先月の新聞。そんな風にデタラメに、過去の新聞が机の上に置かれていた。一番下のものを取って暇つぶしにパラパラと捲ってみると、気になる場所が見つかった。マジックペンで一つの記事が囲われている。

違法ストリートアートの製作者が捕まったという小さな記事。これはここ最近増えている事件で、てんでバラバラな一般人が場所を選ばずストリートアートを作っているというものだ。当然条例だの道交法だのに違反するのでこうして度々逮捕者が出る。色が消えたのによくやるなとは思うのだが、なんとも迷惑な話である。それ自体は特筆すべき事の無い記事だったが、囲われていたのが気になって別の新聞を開いてみる。すると同じように逮捕の記事がマジックペンで囲われていた。

四日前の新聞も、一週間前の新聞も、どの新聞も同じように逮捕の記事が囲われていた。そして最後の、最初一番上に置かれていた新聞を開くと、そこからメモがはらりと落ちた。

プロレ?

それだけが書かれた紙から何かの意味は読み取れず、私はただただ首を傾げた。けれどそれを裏返すと、そこには地図が書かれていた。

南太島の地図に違法ストリートアートの場所と製作者を書き込んだもの。そこに今日の日付と共に書き加えられたバツ印の持つ意味は、流石に私にも読み取れた。

外では雨が降り出していた。土砂降りとまではいかないが、そこそこ激しい降り方だった。

師匠の家から拝借した傘をさして、私はバツ印の場所に向かった。南太島全域をメモ用紙に収めた地図の中では、バツ印がカバーする範囲もそこそこ広い。今までの例から作品を置けそうな場所を絞っても、十箇所ほどの候補があった。雨の中を徒歩で探し歩き、最後の場所に着いた時にはもう昼過ぎになっていた。

師匠はそこに立っていた。四方を塀に囲まれた空き地の隅で、雨の中で傘もささずに何かを見つめているようだった。

「何してるんですか、こんなずぶ濡れになって」

「……君か」

それだけ言って彼女は再び沈黙した。ひどい顔だった。目の下には大きな隈があり、顔はほとんど青白かった。その目線の先には、一体の人形が直立状態で置かれていた。

等身大の人形だった。それはどこかデッサン人形にも似ていたが、所々コードや機械部品が剥き出しだった。顔には二つのカメラアイが、手には五指のマニュピレーターがそれぞれ備え付けられていた。精巧に人間を象ったそれは、この空き地にはあまりにも場違いだった。

一瞬カメラアイが動いたような気が、そいつが目だけ動かして私の事を見たような気がした。ギョッとして師匠の方を見るも、彼女は変わらぬ様子でその人形を見つめている。気のせいであることは疑いようもない。けれど何だか気味悪く思えて、私はそれを誤魔化すように呼びかけた。

「風邪ひきますよ。帰りましょう」

彼女は長い沈黙の後、絞り出すように言った。

「そうだね。帰るとしようか」

彼女は静かに歩き出した。その手に傘を握らせたが、彼女は開こうとしなかった。

師匠の家に帰り着き、まずは彼女を風呂場に突っ込んだ。本当は湯船に浸かりたかったらしいのだが、シャワーだけでも幾らか気分が良くなったようで、風呂場から出てきた彼女はそれなりに元気な声を聞かせてくれた。他愛も無い世間話や近況報告に花を咲かせて、体が温まるようにとココアを作って渡したところで私は本題に入る事にした。

「それで、どうしてあんなところにいたんです」

精一杯に嫌味に言ったつもりだったが、彼女は気づきもしない様子で言った。

「探し物だよ。昨日からずっと」

「それは分かりますよ。そういう事じゃなくてですね」

「まあいいじゃないか。君こそどうして私を探していたのかな」

私は言葉に詰まった。言うのは難しい事ではなかった。けれど正直に口に出したいとは思えなかったのだ。それにはきっともっと心構えが必要なのだと、私は先延ばしの言い訳を続けていた。

「心配になりまして。あんな事件のすぐ後ですから」

迷った末に、いつかと同じ言葉を使った。それは嘘ではなかったが、嘘ではないだけの言葉だった。それを師匠も感じ取ったのだろう。すぐさま追求が飛んできた。

「でも、それだけじゃないんだろ」

「……少し言いづらい事を報告しようかと」

「何だい。大体想像はつくけど」

平然とそう言う彼女は興味無さげで──興味が無いのではなく本当に何を言おうとしているのか想像がついているからなのだろうが──まるっきり自然体だった。準備も覚悟もできてなんかいなかったけれど、ここで言わなければならないのだと私は思った。気づけば口の中が乾いていた。自分の分のココアも用意しておけば良かったと頓珍漢な後悔をして、私は目を閉じ、深呼吸をした。

「──ええ。辞めようと思っています」

何を、とは言わなかった。言葉にしないと伝わらないような事でもなかったし、それ以上になんとなく口にするのが憚られた。この人の前でそれを言ってはいけないような気がしてならなかった。

答えは無かった。目を開けた時、彼女は両手でマグを持ってココアを啜っていた。長い沈黙が部屋を包んだ。

「……今日の晩、またあの場所に行かないかい」

ややあって、低い声で彼女は言った。

「それは、どうして」

「見せたい物があるんだ」

彼女の目は真っ直ぐに私を射抜いていた。その眼光に私は頷かざるを得なかった。

「見せたいものって何なんですか」

闇に染まった街を歩き、昼間訪れた空き地に向かう中、何度目かの問いかけをした。もう空き地に続く高い塀の裏路地が見えてきていた。のらりくらりと明確な回答を避けてきた彼女は、目的地が見えてようやくぽつりぽつりと話し始めた。

「事件があったね。条例違反のストリートアートってやつ」

「ええ、最近流行りの」

「あれね、捕まった人は皆揃って自分じゃないって言ってるらしい」

「そうなんですか」

「その関係で、他人の名義で芸術を作る物ってやつにちょっと心当たりがあったんだ。それなら本人たちがやってないって言うのにも説明がつく。まあ、調べるつもりは無かったけどね」

街もこんな状態だったし、と彼女は辺りを見回して言った。右も左も、暗がりの中でも灰色に包まれているのがはっきり分かった。

「どういう事です」

なんて事のない話だよ、と彼女はつまらなそうに吐き捨てた。

「ずっと苦しかった。未知を求め、既知を広げ、そうしてたどり着いたあの場所で、私の道は途切れてしまった。描くもの全てが同じに見えたし、筆を握る度にただ同じ日々を繰り返している事を否が応でも突きつけられた。だから私は筆を折って、逃げ出して、そしてなぜだかこの街にたどり着いた。でも、結局何も変わらなかったんだ。目は勝手にモチーフを探すし、誰かが頭の中で描かなくちゃならないって叫ぶんだよ。繰り返しすぎる日々の中で、もう描かないって決めたのに焦燥感だけが高まっていく。目を開けているだけで吐きそうになってしまうくらいに」

「……」

「だからね、私にとってこの変化は実にありがたかったんだ。街がモノトーンになった時、もう描かなくていいんだって本気で思った。ここまで極端に表現の幅を制限されると、私では十分に自らの意図を伝えられない。頭の中の誰かさんもできない事をやれとまでは言わなかった。あれ以来私の頭の中は静かだ。飯も美味いし、ちゃんと一日六時間眠れてる。私はそれで満足なんだ。だから余計な事に首を突っ込むつもりは無かったんだよ」

「でも、あなたは探していたじゃないですか」

彼女は頷いた。

「つい先日、二度目の事件で、この街はデタラメに色づいた。するとどうだ。誰かさんがまた騒ぎ出した。まだできる事は残ってるぞって。だから探し始めたんだ。おかしいのが筆を握らまいとする私なのか、頭の中でぎゃあぎゃあうるさい誰かさんなのかはわからないけど、どっちにしてもあれを見つければ何かが変わるって、あれが作る物がこのぐちゃぐちゃな心をきっとどうにかしてくれるだろうって思ったから」

「……『プロレ』ってやつはそんな大層なものなんですか」

「そうだよ。プロレ、正式名称をプロレタリアート。昼の間に近づいた人間の頭の中から芸術のイメージを写し取り、夜の間にそれを作品に変換する。そんな機能を持ったオートマトンさ」

私たちは路地を抜け、薄暗い空き地に辿り着いた。そこには街灯に照らされて一体の人形が立っていた。私たちに背を向けて立っていた人形はゆっくりとこちらを振り返った。それは昼間の人形だった。左手にパレット、右手にはけ。地面にはバケツと、色とりどりの塗料が入った皿が散乱している。

オートマトンは再び正面に向き直ると、はけを掲げて擦り付け始めた。壁に囲まれた空き地の壁に絵を描いているのだ。

「見てごらん。今それが描いているのは君の作品だ」

「え……?」

「プロレは道具だ。本来絵を描くことなんて望めないような人々の中に眠る才能を外に出してやるための道具なんだよ。だからプロレはアイデアの持ち主の名前を署名する。昼に近づいたのが君だから、あれは君の作品を作るんだ」

暗がりの中に目を凝らす。プロレがはけに新たな塗料をつけ始めた。私ははけなんて使わない。プロレはまだ乾かない塗料の上に別の塗料を重ねて塗った。私はそんな塗り方をしない。けれど、作品の大まかな構図が見えてくると、それは私の作品に相違無い事が嫌でも分かった。それは間違いなく私の中にあったものだった。

「君はもう絵を描くつもりは無いんだろう?どうせなら最後に自分の知らない自分の作品でも楽しんだらどうだい」

そうだ。私はもう絵なんて描かない。この機械が何を作ったってそんなの知ったことじゃない。だが。

黒い物が心の中を渦巻くのを感じた。何もかもが不愉快に感じられた。いけしゃあしゃあと知った風な口をきく師匠も、勝手に私の代わりを務めようとするオートマトンも、諦めておきながらこうして目の前の光景に文句を垂れようとする私自身も。

私は手を伸ばした。その手はプロレの手元に届き、その手からはけを取り上げた。その時になって私は自分がいつの間にかプロレのすぐそばに歩いてきていた事に気づいた。

はけを取り上げられたプロレはこちらに向き直り、はけを取り戻そうと掴みかかってきた。機械の重量にたじろぎ、数歩後ずさる。踏みつけた陶器の皿が割れる音が暗がりに響いた。

取っ組み合いの末に私たちはバランスを崩して転倒した。頭を打つことは免れたが、プロレがのしかかる形になって身動きがろくに取れない。プロレは私が右手に握るはけに手を伸ばした。その首元から剥き出しのコードが覗いている。

私はコードに手を伸ばし、全力をもって引きちぎった。

「私……もう少し続けてみようと思います」

動かなくなったプロレを押し除け、師匠の手を借りて立ち上がって、私は荒い息のままに言った。彼女はそれに応えて問いかけた。

「心変わりした理由を聞いても?」

「このアイデアは、イメージは、私のものです。私以外のものがこれを形にするなんて考えたくもありません。それが例え偶然の一致であったとしても」

心に浮かんだままの答えに、彼女は穏やかに微笑んだ。

「帰ろうか」

「それで、師匠はプロレを見つけてどうなったんです」

空き地からの帰り道で、私はふと思い出して問いかけた。

「何の話さ」

「言ってたでしょう。見つければ何かが変わると思って探してたって」

ああ、と彼女はばつが悪い様子で言った。

「どうもならなかったよ」

「そうなんですか?」

「プロレの作る作品が答えをくれると思っていたんだ。私の思う芸術をプロレは形にしてくれるから。でも、プロレは私の作品を作ってはくれなかった。なんでだろうね」

困ったように笑う彼女を見て、あの雨の中立ち尽くす姿が脳裏に浮かんだ。私が自分の中に答えを得たように彼女にも答えが必要だった。答えが無ければ彼女はいつまでも探し続けるだろう。けれど、彼女が繰り返したいくつもの日々の中に果たしてその答えはあるのだろうか。

「多分ですけど」

それは見当違いかもしれなかった。答えを与えようという試みは思い上がりかもしれなかった。けれどそれでも、この人が存在しない答えを探して彷徨い続けるなんて許せなかった。たとえそれが間違ったものだったとしても、答えがあればそこから進む事ができる。間違った答えを見直して別の道に進む事だって。答えが必要なのは今、この時に他ならない。だから、私は。

「師匠の中で、芸術ってものはもう何者でもなくなっていたんじゃないですか」

私にとっての答えを吐き出した。それが彼女の中でどんな意味を持つのかは分からなくても、そうする事が助けになると、そう思って。

「そう、か」

師匠はそれきり押し黙り、夜道に二人の靴音だけが反響した。家が遠目に見えてきた頃、確かにそうかもしれないな、と彼女は静かに呟いた。横目に見えたその顔は憑き物が落ちたかのようだった。

「では」

「ああ、それじゃあ」

家の前に来たところで私たちは別れの挨拶を交わした。またお会いしましょうとは言わなかった。もう会う事は無いと思ったし、それは彼女も同じだろう。プロレが私たちに与えた微かな光。同じ薄明の光の中に私は朝の日差しを見た。彼女は夜の静寂を見た。二人の道が交わる事はきっともう無いとお互い十分に分かっていた。

遠くを見れば黒い空が藍に染まり、橙色を映し始めた。昔と変わらぬ空の下でこの街は変化を迎えていく。光を失った芸術都市は、新たな秩序を得てもう一度光に照らされる。そして、きっと私たちの行く道もその光が照らし出すだろう。

地平線から眩しい朝日が微かに覗いた。南太島の夜が明ける。

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