その失神は脱粋症状に帰せられる
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補遺4971-na1794: 以下にミシュレー博士の着脱式視覚インプラントから得られた記録の転写を掲載します。当記録は関係研究員の決定のもと、当該のSCP報告書に追加されました。対話ログの相手は異常性保持者であり、インシデント発生後にPoI-8712の指定を受けました。

前提情報: ミシュレー博士はエージェント隊に随伴してサイト-██からサイト-██にフライトする途中、[編集済]空港への便を待っていた。その折にスキーウェアを身に付けた、外見上特筆すべき点のない人物との軽い会話を行った。

[対話ログのうち最初の34分は重要度が低いため削除]

PoI-8712: ひとつ話題を提供してもいいですか。たぶんこれ、結構重要な話だと思うんですが。

ミシュレー博士: そうですねえ…… まずは話してみてくださいよ。しばらくは飛行機も来ないですしね。

小休止。

PoI-8712: かつて我が家では毎日、家の前の庭に集まって団欒したものです。その際、料理人役の人間がバーベキューグリルで肉を焼くことになってました。グリルからは毎度毎度、炭がこぼれるんです。基本的にはそんな大量にこぼれることはなかったですよ、小さいのが2、3個程度でした。料理人役はね、僕がまだ小さかった頃は祖父が務めてました。僕が大きくなった頃、父に交代しました。そして将来的には、僕がそれを引き継ぐはずだったんです。

沈黙。

PoI-8712: 我が家がこの地域で暮らし始めてから100年も経っていました。先祖代々この家をときどき建て直したりもしていました。そうして心機一転、一家はまた新たな生活を始めるわけです。そういう改築に僕も一度立ち会ったことがあります。その時僕は15歳でしたね。感慨深かかったですよ、「きっとこれからまだ見たこともない日々が始まるんだ」って。まあわかるでしょ、僕も当時は目に映ることがいちいちドラマチックに見えちゃう年頃だったんです。えも言われぬほどにね。

対象は語りを中断し、プラスチックのスポーツボトルから給水する。

PoI-8712: まあ結局のところ毎回毎日、肉を焼いてメシを作る生活は変わりませんでした。他でもないこの場所で、ずっと。グリルを新調していろんなメシを作ったんです。僕の父はビーガンだったものですから、肉の代わりにこの豆乳チーズ?とかいうのを焼く羽目になりました。対象は笑いながら語る。けれどもこの場所は、そして炭は、変わらずそこにありました。

沈黙。

PoI-8712: その炭はそりゃもう大量に積み上がっていました。何トンもですよ。庭の草はどんどん減っていきました。炭は層を成し、ある日その一端が家に到達してしまいました。そのことに気づいた日、僕は夢を見ました。消えかかったグリルの火が夜闇の底でぱっと燃え出すかのように、火焔が家の壁面に及び、僕ら一家は死んでしまうのです    僕がまだ夢見から醒めやらぬうちに。不安に圧倒されました。それは僕自身を案じたからであり、妹を案じたからであり、母を案じたからであり、妻を案じたからであり、我が子たちを案じたからであり    つまり、我が身を尽くしてでも守ると誓った、一家の皆を案じたからでした。だから僕は決めたのです    あのグリルでメシを作るのはやめよう、と。そしてあの炭がすっかり埃にまみれ、かつての暖かさも完全に喪われた頃でした    僕はこんなものもう地面に埋めて、芝生を敷いて覆い隠してしまいたいと思ったのです。そしてこんな炭のことなんて忘れてしまおうと、そう思ったわけです。でも一家の皆はそんなことはしたくない、と云いました。皆の想いも察するに余りありますよ、皆 “グリルでメシを作り、食べる” という習慣に愛着を感じていたんですからね。あの炭は父や祖父との思い出でもありましたから、それを埋めてしまうなんて良い思いはしなかったでしょう。もちろん僕にとっても、そこは暖かな記憶にあふれた場所でした。

ミシュレー博士: そういう場面は何度経験した人間でも辛いものですよ、お気持ちお察しします。かくいう私も昨年、生まれ育った我が家から引っ越しましたから。

PoI-8712: 思い詰めた末「やはりリスクを負うのは無理だ」と決めた僕は、グリルを捨ててシャベルで雪を掻き分け、その上から青い芝生を敷きました。それから…… 家族に詫びました。「これは必要なことだったんだ」とね。一家でグリルを囲むこともなくなり、必然的に会話も減りました。一家の間に溝を感じます。もう僕には家族の皆が…… 赤の他人にさえ見えてしまいます。

ミシュレー博士: いい気分ではないでしょうね。

PoI-8712: きっとまた集まって腹を割って話すチャンスがあるだろうと僕は信じているんです。万事また元通りになると、そう信じてはいるんです。けれどやっぱり僕は今でもあの決断は本当に正しかったのかと悩んでいます。

ミシュレー博士: 大丈夫。あなたは正しいことをした。私はそう思いますよ。

対象は除雪用の長いシャベルを背中のベルトから取り外し、両手で博士に差し出す。シャベル先端にはプラスチック製の広幅な匙部が付いている。

PoI-8712: 結局のところ僕が然るべき行動を取れていたかはさておき、これは僕なんかより貴方が持つべき代物ですよ。

ミシュレー博士は困惑を顕わにシャベルを受け取る。それをどこに置くべきか迷うさまが見て取れる。

ミシュレー博士: え……? いや、まあ、ありがとう。正直どういうおつもりか判断しかねますが、これで私の家族を脅してみたりすればいいんでしょうか?

両者が笑い合う。

PoI-8712: 違いますって。単なるささやかなプレゼントだと思ってください。どうぞ。

対話ログ終了。

注: この対話には前述の班だけでなく、ブルファ博士 (超現実部門) とニッコロ・ウンベルト (GOC所属・奇跡術者。SCP-████調査のため招聘されていた) の2名も居合わせていた。この2名は他の目撃者と異なり、PoI-8712を “恰もそこに着座姿勢の人間がいるかのようだった” “実際には、1つのシカの生首だけが、その “人間” の頭があるべき場所に浮遊しているだけだった” と叙述した。当該実例が干渉したスポーツボトルやシャベル等の物体は、不可視の力により空中に浮かび上がっていたように見えたとも述べた。PoI-8712追跡の試みは成功に至っていない。

ミシュレー博士がシャベルを調査したところ、その柄の全長は空洞であり、シナモンのような強烈な香りを伴う液体で満たされていることがわかった。当該液体の化学成分分離に成功し、それら成分はほぼ無調整でNothungクラス-可知化薬 (グノスティクス) の精製・安定製造に流用された。

研究員からこのシャベルをThaumielあるいはDeicidiumクラスのSCPとして別途登録するよう提案が為されたが、シャベル自体には異常性がないことから却下された。

*


廊下が長く続く。壁面は蒼白く、その無人の通路は薬用アルコール臭を帯びている。財団は空間デザインにおいて暴力的な機能性を主眼に置き、灰色と白を基調とする。一方GOCは、機能性の観点から甚だしく無骨ではあるが、どこかアール・デコを思わせる建築機能を選択する。この建造物コンプレクスも連合が入居してからというもの、まるでオテル・リッツの倉庫あるいは私病院かのように変貌を遂げた。

ウンベルトは階段から入棟しドアの近くで座った。ただ換気装置の駆動音だけに妨げられる静寂。自身が腰掛ける金属製の椅子が立てる音さえ、空気を読まない轟音のように煩く感じられた。その廊下は無人だった。この空間を支配するのは偉大性と神的遍在性オムニプレゼンスを帯びた可知化薬グノスティクスの香り    薬用アルコールとシナモンの混合物を彷彿とさせる臭香。そのシナモン臭が一切を染み抜く。男は左眼の下の肌荒れた薄い皮膚を擦りつつ、背広の胸ポケットからもう片方の手で菫色バイオレットの喘息用吸入器を取り出し、アクリルノズルを乾いた唇でつつみ、吸引音を響かせた。

はるか向こうの廊下の末端に白衣の人影が現れた。かれはこちらに近づき始めた。ウンベルトはかれにフレンドリーに手を振ろうとしたが、逡巡せざるをえなかった    相手が纏う空気に、親近感を推認することができなかったからだ。人影は30秒のうちに2倍の大きさになり、蒼白な男の姿になった。それは財団のオレンジ色のバッジを付け、清潔な白衣に身を包み、そしてその手には幼体germを入れた鉄のケージがあった。男はウンベルトに向き合って座りケージを脇に置いた。

「貴方もプロジェクト・ジークフリートに参加するのですか?」財団職員収容フリークは訊いた。ウンベルトは黙ったまま頷いた。この問いは会話の第一声としてはいささか不適当なものであった。なぜならこの巨大すぎる建物には、プロジェクト・ジークフリート以外の用途などあるはずもないからである。そこには素朴なカフェテリアさえ無いものだから、皆わざわざ重いランチジャーを持参する羽目になっていたほどだ。「まだお入りにならないんですか?」

「ええ、まだです」

財団職員は両手で白衣の皺だらけの裾を伸ばした。

「毎度こうだと、儀式リストに “入棟前に廊下で死ぬほど退屈な時間を過ごす” とでも追加すべきなのでは、なんて思ってしまいますね」職員は冗談を飛ばした。

男は笑った。だがその時急に乾いた咳の発作に襲われた。胸郭をその内側から破裂させんばかりの咳に、男はうずくまった。発作が落ち着くとウンベルトは手を上げ、宥めつつ好意を示すようなジェスチャーを取った。

「俺はウンベルトと云います」そう名乗る声は嗄れていた。「奇跡術者です。もちろん “元” が付きますが」

「つまりは密儀執行座ハイエロファンティア1のお方ということですか。ああ申し遅れました、私はカールです」財団職員からウンベルトに向けて伸ばされた手は、しかし相手に届くことなく宙で止まった。「握手も儀式に該当してしまうだろうか」かれは確認する。

「そんなわけないでしょう」密儀執行座の男は前傾し、研究員の小さく肌荒れた手を握り、再び後ろにもたれかかった。そして小さく咳き込んだ。

「ウンベルトさん、と云いましたか。それは本名ですか? それともコールサインですか」カールが尋ねた。

「奇跡術者はもうコールサインでは呼ばれないんですよ」枯れた声がそう答えた。「それも一種の術式と見做されてしまうのでね」

「じゃあ本名ということですか?」

「ええ、姓です。   というか、そろそろ敬語はやめようぜ。堅苦しくなってきた」ウンベルトは伸びをした。かれの椎骨が静かにしかしはっきりと、ボキボキ音を立てた。「俺は二流役人同然に落ちぶれた。でも今回は専門家としてここに招いてもらったんだ」

「財団が奇跡論専門家を招聘したなんて話、記憶にないな」カールが訝しげに呟いた。「君はG世界OオカルトC連合の人間か?」

「今じゃただの G世界C連合だけどな」左右のポケットに手を入れつつ、ウンベルトは重々しく呟く。「ご存知の通りオカルトのオの字すら消え果てたよ。もちろんどもにとっては今の方がいいんだろうがね。アイツらから見れば俺たちは焚書者だったんだから。まあ、今でもそうであることに違いはないんだが」

「君たちが焚書者呼ばわりされてるのは実際どうなんだ、本当に本を焼いてるのか? それとも単なるメタファーか?」カールはちょっと気になったので問うてみた。

「まあ脱儀式化作戦Entritualisierungの初期には焼きまくったさ、ブラヴァツキーとかクロウリーとかのをね。その上で関係者全員に記憶処理を施した    俺たちのこの行為をあげつらってナチスドイツ呼ばわりする輩が出てこないように」そしてウンベルトは続けた。「ヴェール・プロトコルを破り捨てた今、この手の作戦には一層の警戒心が求められるようになった」

「尤もだな」カールは頷いた。

奇跡術者はそれ以上何も答えずに天井を見上げた。静寂が立ち込めた。カールはウンベルトの衣服を目視で注意深く調べた。かれの外見に魔術者っぽさはまったくなかった。ウンベルトの中では、神秘主義者といえば単色のタートルネックセーターを着て時代遅れなメガネを掛けているか、あるいはツイードの衣装を纏っている人物だった    そしてその服装こそ、英知とか積み上げられた経験とか奥義にまつわる知識とかいった、ステレオタイプなハイエロファント2らしさを象徴するものだと理解していた。だがそれに比べウンベルトはコーサ・ノストラのスパイかと見紛うような正装だった。明るい灰色の背広に暗いズボン、サイドクラウンにリボンが巻かれた帽子……。古文書なんかより、トンプソン銃と葉巻の方が似合いそうな男であった。対してカールは、“知者不言、言者不知知る者は言わず、言う者は知らず” の構えで行くことにした。

はるか遠くの廊下の末端付近、戸口のところに2人の人間が現れた。かれらはスーツに財団の渉外部門とGOCのPSYCHE部門のエンブレムを付けていた。連合職員ゴッは何か早口でしかし整然とまくしたてていた。言葉の奔流からかれの耳が拾えたのは、ショーだとかテレビ番組だとかインターネットブログだとか何かのセクトを指す符牒だとかクリスマスソングの一節だとかの数限りない名詞であった。概してカトリック諸国における儀式主義的活動に関する話らしかった。財団の “諜報員” はカールの脇を通ろうとして幼体germのケージに膝をぶつけたが、かれがそれを認識することはなかった。

「君のとこは随分忙しそうじゃないか、なぁ」カールがウンベルトに投げかけた。もう諜報員たちは廊下の逆側の端の白い自動ドアに消えていた。

「まあそうかもね。PHYSICSから見た感じ、“プシヘーエフ3” の生活は気楽ではなさそうだ」GOC職員は笑った。

「最初の頃はまだそうでもなかった、って話だそうだな」

ウンベルトが頷いた。

「厄介な事態に陥るのはそれからもう少し経ってからだった。“主” を失った有象無象の超常セクトどもがあちこちで活動を始めたんだ。静かに、ひっそりとだ。それが早期対応を困難にした。とはいえ最初は気楽だった」

「何だかんだでソイツらにも儀式を止めさせることができたわけだ。一体どうやったんだよ君たちは。ネロやソ連の轍を踏むこともなく」

「抵抗も殉教者も生まずに成し遂げられた理由を知りたい、と?」“スパイ” が確認した。

「そうだ」

「プロパガンダ番組を打ち出したくらいだよ。他にこれといったことはしてないさ。というかあんたも見たはずだぜ? あんなに大々的にやってたんだから。マスコミというマスコミから発信してたじゃないか」

「僕は情報空間から離れたところにいるもんでな」財団職員の呟く声は申し訳なさげであった。「うちの部門は職業柄そうならざるを得んのだ」

「そうなのか。だがまあ、要は大衆受けする言説を発案したということだよ」ウンベルトは咳き込んだ。片手では胸ポケットの喘息用吸入器をまさぐりながら。「人は人好きのする強い言葉を好むものだ。いくら討論したところで人を振り向かせることなんて出来はしない。真に支持されるのは単純・明快・大衆的なスローガンだ。一方は善、一方は悪。そういう言説を発案し、あらゆるマスメディアを使って速攻で喧伝し、その後可知化薬グノスティクスガス散布を開始した    皆が第一印象に囚われているうちに。つまり、皆がまだその報道に疑問を抱かぬうちに」

「ミームエージェントも摂取させずに、ダイレクトに?」少々皮肉めかしてカールが訊いた。

「もちろん直接散布したさ。財団もこれに加担してたことは、あんたも知っておくべきだ」奇跡術者は視線を上げた。「あんたはミーム部門の人間か?」

カールは黙して頷いた。この脱儀式化作戦の期間、かれはスタジアム大の地下ラボラトリーに籠り、陽光の輝きなど何ヶ月も目にしていなかった。だがそんなことわざわざこのGOCの奇跡術者に話して聞かせようとは思わなかった。あるいはカールは心の底で恥じていたのかもしれない    自分が技術者でしかなく、オペレーションに実質的で直接的な関与ができていないことを。それに加えて連合の職員がクラスW高度記憶補強剤を服用しているはずもない、ゆえに “反ミーム部門” などというワードはただかれを混乱させてしまうだけだろう。

「そうかそうか。オペレーション初日はまったくもって普通のプロシージャだった。宗教や魔術に関するあらゆるテキストにfnord4を書き加えていった。儀式、儀礼、マイナー宗教、そういったものを肯定的に言及しているテキストすべてにだ。途方もない作業量だった」

ウンベルトが喘息用吸入器を取り出し、ダース・ベイダーみたいな呼吸音を鳴らす。その間、短い沈黙が流れていた。

「大衆の行動を非異常の手段で制御するなんて到底無理な話だ。例えばだ、祝いの席で『乾杯トースト!』って唱和するだろう。あんなものでも廃止するには骨が折れる」背広に吸入器を戻しつつ、かれは話題の総括に取り掛かった。「でも俺たち連合は、それも儀式と認定した」

「つまり、ちょっと乾杯して一杯煽るのさえ儀式扱いってわけだな?」不意にカールが割り込んだ。

「儀式だ」と認めたウンベルト。

「肩に唾を吐く5のも?」

「それも儀式だ」

「木を打ち鳴らす6のも?」

「それはちょっと微妙かな」

「じゃあ日常会話でおなじないを唱えたりするのは?」

「まず基本として、それが術式を含むかどうかに注意する必要がある」言葉を濁す奇跡術者。「儀式の効力はそれを反復適用する内に宿っていく。例えば某カルト信者はとあるフレーズを繰り返していた。『その少年は泣かなかったし…… 1,000人のキムも処分ダッシュしなかった7』と……」

「今のも術式か?」

「ああ。でもどういう意味かは教えないぞ」脚を組みつつ、ウンベルトは悪戯っぽい笑みを向けた。「つまりそれを何度も繰り返したんだ、四つ脚の獣を殺戮しながら……。また時には、二つ脚の獣を殺すこともあった。今ではうっかり何かを殺してしまうことや、蚊を叩き潰すことさえもある種の儀式となっている」

「でも儀式って、それが『儀式である』と信じられていることも必要なんじゃないのか?」

「そう、そこが問題」ウンベルトはまた咳き込んでから息を吸った。プールから飛び出したスイマーみたいに音を立てて。「あの狂人どもが何を儀式と見做し、何をそうでないと考えるか? そんなのあんたたちには知る由もないだろ。でも、それこそ連合が未だ俺のクビを切らない理由の一つだ。実は俺はただの奇跡術者じゃない、もっと幅広い分野を専門にしてるんだ。そうでなかったら他の同僚と同じように解雇されてただろう。とはいえ、一応万一に備えてスリーポートランドでレジ打ちもやってるんだが」

「じゃあつまりゲーテの書いた『魔法使いの弟子』を暗唱するのは……」

「やめておいた方が無難だろう」奇跡術者が諫言した。「万一のことがあっては困るからな」

「じゃあ『詩篇』を朗誦するのは? あれにも術式が散見されるが」

ウンベルトは唇を舐めた。

「宗教がらみは答えづらいな」かれは呟く。

「じゃあ宗教制度をミヒューム社会8からごっそり廃絶したというのは本当か?」

「YesともNoとも答え難いな。信仰すること自体は可能だが、儀礼行為はNGになった。領聖も、洗礼も、教会葬も、葬儀も、教会結婚式も放逐され、奉神礼は禁止とされた。こんな状態の信仰を宗教と呼びうるのかどうか、俺にはわからない」

「要は全員カタリ派さんになりました、と」総括しにかかるカール。

「カタリ派? あの二元論的異端グノーシズムは禁欲的だったとは聞くが、結婚式を挙げるのはOKだったんだろ」

「じゃあカタマラン船になったということで」カールはダジャレを試みた。

「葬儀がなくなったのは名残惜しいよ、やはり」嗄れた溜息をつくウンベルト。「ああ懐かしいな、神々の糧たる法事粥クティの味が」

「ああ、法事粥は大問題だな」カールは着座姿勢を崩してずり落ちた    長い脚を廊下に投げ伸ばし、ポケットに両手を突っ込んで。

「儀式がもう二度と執り行われないというのは寂しい。そして俺はきっとこの先奇跡術のこともこうして名残惜しがることになるんだろう」

「作戦が完遂された暁には、そうなるだろうな」

「儀式を再び執り行える日は本当にもう来ないんだろうか」

「SCP-4971……」

「何だ、そいつは」

「儀式の神だ。財団の報告書に登録されている」説明を始めるカール。「いや言いようによっては奴は “儀式の神” ではないのかもしれない。何故ならそれは、諸儀式が不可避的に孕んでいる結果でしかないからだ。人智の及ばぬ自然がもたらす厄災ゆえ、実際のところ儀式自体に機序を有するわけではない。それはより正確には寄生者だ、人類種の文化に喰い付くモノだ。それは諸儀式を喰らい続けるが、喰ったからといって成長することもない。だから奴を殺すため、僕らは諸儀式を殲滅して “奴を窒息させる” という責務を負っているわけだ。けれども5、60年後、呪術・呪法が文化空間から拭い去られた暁には、僕たちは再び小さな儀式を執り行ったり、日々小さな生贄を捧げることも出来るように戻るだろう」

「そうなればゴミ同然に遺体を破棄するなんてこともしなくてよくなるんだろうか」

「その段階に至ってなお、まだ社会に葬儀を望む意識があるなら、ね。そしてその点こそが本質だ。つまりだ、もしも僕たちが死者を埋葬する習慣を失えば、もう遺体を神聖視する意義も無くなるんじゃないか?」

「なるほどそれを消すことこそが、ミヒュームを50年以上も可知化薬グノスティクス漬けにする真の目的というわけだ」

「そう、正にそういう話だよ」

白い自動ドアがプラスチックの軋る音とともに開かれ、“諜報員” たちが戻ってきた。先程とは違いその2名は脇の下に分厚い黄色のファイルを抱えていた。かれらが近付いてきた時、ウンベルトは両者のファイルにMC&Dのロゴが印刷されたラベルを視認した。やってきた連合職員は今回も何やら単語の奔流に溺れかけ苛立っており、かたや財団職員は相方の心理にシンプルな罵言でもって賛同していた。かれはカールの脇をまたしても通ろうとしてケージに膝をぶつけたが、しかし今回はかれはそれに気付き、そして軽く詫びを入れた。

「なるほどな、君のところもずいぶん大変そうじゃないか」2人が視界から消えた後、そう述べた。

「まったくだ、いつも気が休まらない。痔でも患ったようなしんどい気分だよ……」小さく呟くウンベルト。「俺も糞ほど仕事が溜まってたんだ。数え上げてたらキリがないほどだった。BDSM嗜好者が好む儀式とか。隊列形成・行進を模擬する某軍事的儀式とか。ひっきりなしに行われる戦勝パレードとか。小中学校に入りたての新入生に、上級生が浴びせる歓迎の罵声や嘲笑イニシエーションとか。便所でブラッディ・メアリーを召喚してる小中学生とか。船体にシャンパンボトルを叩き付ける進水式とか。それと、日々の小さな……例えば噴水に投げ入れるコインみたいな、“うまく行きますように” と願いを込めて投じられる、ささやかなコストとか。お土産の購入とか。“もしあのバスに間に合えば、今日一日いい日になりそう” 的な願掛けとか。今挙げたようなのを全部掻き集めてぶっ潰す必要があった。そしてそのためにプシヘーエフだけじゃなく、俺もこうして駆り出された」

「なるほどなあ、あんな大量の可知化薬グノスティクスがどこに消えていくのか、やっと合点がいった」カールが相槌を打ち、椅子の背にもたれかかって顔を上に向けた。そこには天井の強化ガラスに取り付けられた、淡く白いランプがあった。

「例えば、キャンドルライトディナーについて考えてみよう」続けるウンベルト。「温かい灯に囲まれて、肉料理が食卓に出てくる    この光景もまた犠牲式だといえる。たとえその肉を食っている人々が、その行為の供犠くぎ的側面に無自覚であったとしてもだ。供犠の対象は…… 恋神アモールかそれとも他の何某か、結局誰に対してだったかは知らん。俺は歴史家じゃないからな。話を戻すと俺たちの任務ってのは、色恋を嗜む大衆がキャンドルライトディナーに必要性を見出せなくすることだ。だが言うは易く行うは難し。まずキャンドルライトディナーに言及したテキストに、片っ端から無数のfnordを挿入している。さらに世に聞こえる作家やジャーナリスト、歴史家や哲学者でもいい、そういう人間に宣言してもらっているんだ。シンプルだが斬新な定式フレーズ   具体的には『デートで肉を食べるのは、国会議事堂のカフェで牛タンを注文するようなものだ』という言葉を。なかなか刺さる定式だろ。オックスフォードの言語学者に態々みっちり鍛えてもらったスペシャリストに考案させたからな。俺たちの肩にはこういう仕事が山ほど乗っかっている」

「文化になってしまったものを一部抽出して消し去るのは大変、ということか」

「手を汚さず、倫理的に、民主主義的にやり遂げるなんて出来るはずもない。だから “人々が自らの意志で決断したかのように” 大衆心理を誘導してやる、なんて考えは甘っちょろい。そんな穏便なやり方では埒が開かない。こんな仕事を成功させられるのは、大気中に散布する何トンもの可知化薬グノスティクスと、強力なプロパガンダマシーンだけなんだ」

両者の間には再びの沈黙が流れた。

「……ウンザリすることばかりだよ、この仕事は」ようやく呟いたのはウンベルトだった。「内心、辞職を考えているところだ」

「そうか、でも僕はもう少し働かせてもらおうかな。“下々” の人間はそう遠くないうちに、味気なくて窮屈な生活に突入するはずだ。でも僕は儀式が当たり前に行われる世界への慣れが捨てられそうにない    儀式がない生活を日常と呼べるようになるには、僕にはもうちょっと時間が必要だ」

「俺の場合、事はそう簡単ではなさそうだ」黙考の後、呟いた奇跡術者。

「どうして」

ウンベルトは今までで一番激しく咳き込んだ。またしても襲い来る発作の中で、息を吸うのもやっとだった。

「俺、重度のアレルギー持ちなんだよ。可知化薬グノスティクスアレルギー」やっとのことで声を絞り出したかれゴックであった。

*

GOC代表者はスカイブルーのラインが入ったスーツに身をつつみ、スノーホワイトのシャツとブラックのネクタイを纏っていた。摩天楼の高階に構えられたオフィスルームは壁という壁に窓を有した。眼下に広がる街の景色は陽光に輝き、この建物を何処かの首脳や巨大銀行の所有物にも劣らないものにしていた。そしてここに罠魔法はない。つまるところ至って平凡なビジネスミーティングだ。

この談話は公的な会談には該当せず、非公式なものと見做され記録もされない    少なくとも、そういうものだったはずだ。財団代表者は不承不承にこの個人会談への参加を承諾した。これはこの後の公式交渉に先んずる事前会談であった。参加承諾こそしたものの、かれの脳裏には何だか悪い予感が未だつきまとっていた。

「完全を期すため、貴君には私たちの計画をもう一歩深く知っていただく必要がある」連合の使節は4枚のA4用紙を会談相手に差し出した。かれはそれを指で摘み手に取った。「文量を減らすよう最大限努力したが、そのせいで重要事項まで書き落としてしまったかもしれない。もしそうであれば遠慮なくご指摘願いたい」

文書執筆者のざっくりとした筆致が描き出すのは、気の遠くなるようなプロトコルであった。それは儀式、儀礼、あるいは犠牲と見做し得るようなもの全てを、日常生活から抹消するプロトコル。かれはそれを “財団の代表者は大気を精神影響性の薬品で汚染するものとし、”…… など書かれた段落まで読み進めた。そこで内心によぎった懸念があった。この執筆者の計画が遂行されてしまえば、儀式あるいはそれに準ずる概念そのものが、人々の集合無意識から焼き払われることになりはしないか。

地球上のどの文化における禁忌タブーよりも強力なもの。人々の脳に埋め込まれることが計画された法的原則。

テキストが与えた印象は一言では表現し難いものだった。ある観点から見ればそこには首尾一貫性、熟考の痕跡、正確性が伺えた。この著者らはまるで何かの建設計画でもプレゼンしているかのようであった。つまり建物の基礎の盤石さを明快にデモンストレーションするような文体だったのだ。だがまた別の観点から見ればその図面は、大胆不敵な綱渡りじみてもいた。この計画は野心的アバンチュールだ。この建物プロトコルは追い詰められた獣の如き狂乱に、膝上まで浸かっているようにしか思えない。

最後のページの下部にはGoIのリストが小さく掲載されていた。それらGoIは、GOCと財団と、あと連合が気前よく買収したその他GoIらによる共同作戦で根絶やしにされた団体たちだった。つまりは外交的交渉に応じず、儀式を止めることに従わなかったGoIたちである。そこにはサーキストとか朽㽲くっこう9とか、それ以外にも多少の勢力差こそあれ取るに足らないセクト名の羅列が含まれた。それはこの文書の訴求性を大いに向上させていたが、しかし胡乱さを払拭することには何ら貢献していなかった。

十分信頼に足る計画だと思われます」財団の使節は用紙を机に下ろし、かれの手を乗せた。「しかし正常性に対するリスクが余りにも大きいようにもお見受けします。我々はその正常性の守護を誓う団体なのですよ」男はこの辺りで、自分が考えたわけでもない、どこかで聞いたようなセリフを捲し立てようとしている自分がいることに気付いた。「貴方がたがやろうとしていることは、地球全人口を向精神薬に依存させることと何ら変わりがないではないですか」大使はあやうく “ドラッグ漬け” と形容しそうになったがなんとか踏み留まった。

「正常性と仰ったか。興味深い」連合職員は横を向き窓を見つめた。かれの顔には淡黄の眩い光線が差し込んでいた。また手垢まみれのイデオロギー論争が始まるぞ    そんな予感に使節は唇を舐めた。連合職員が表面上取り繕って見せる深淵なる平静は、会談相手収容フリークの神経を逆撫でるには充分過ぎた。「財団は常々 “我々は正常性に尽くして闘っている” と仰る。我々としてはその概念の抽象性と曖昧性を指摘せずにはいられない。貴団体はこれまで、幾人もの気骨稜々たるPoIにインタビューを実施なさっている。かれらは正常性に対する各人各様の見解を陳述していた。そして貴団体ご自身ですら、正常性の何たるかがしばしばわからなくなっている」

「じゃあ貴方がたが思われる正常性の在り方ってどんなもんなんですか」気怠そうに反論する財団職員。「GOCは何のために闘ってらっしゃるんですか。“潔癖主義” のためですか? 我々は正常性に奉仕しているのです。つまり、慣れ親しんだ、然るべき、均衡ある世界に。そこにおいてこそ人類が活動できる場所に」

「連合は “我々” という種の生存のために闘っている。つまり、人類のために。幾百万もの人類のために。私や、貴方や、窓の向こうのあの人々のために」GOCの交渉者は窓の下に視線を落とした。そこには人々で賑わうストリートがあった。「これが私たちの大義だ。然るべき大義であり、揺るぎない、実体のある大義だ」

「我々が奉仕しているのもそれですよ。しかし我々には、首無しのシカ一匹のためだけに社会を再編するなどという選択はできません」

「だがその先に訪れるのは社会再編どころか、制御不能で回避不能な人類滅亡だ。今一度思い出していただきたい    かの知る者がいつかあの森で世界の裂目を見つけてしまう事態を、そしてこの地球に犠牲者の山を築く事態を、一体誰が食い止めてくれるのだったか?    それは “未だ静寂を知らざりし全ての者の心臓” であろう」

「仰るように強力なオブジェクトではあります。しかし財団はそれに対し、非標準クラスを採用した安定性に欠く収容状態に置くことで妥協する選択肢を採ります。我々はこの不安定性を妥当な損失、犠牲だと見なしています」

「だからこそ脱儀式化作戦はより低コストな選択肢なのだ。貴団体にとってはそうでなくとも、私たち連合にとっては」GOC代表者は端的に総括した。「連合はそのような犠牲コストを容認しない。正常性や生産性、あるいは “科学の名の下に” 犠牲を払うことなどあり得ない。馬鹿馬鹿しい」かれは失笑した。「私たちはオカルト連合。今、全ての儀式の命運は、貴団体の良心にかかっている」

「またいつもの口論が始まってしまいそうですね、財団とGOCが活動指針を異にする以上、それは避けられないわけですが。しかし、ここではこれ以上深掘りするのはやめませんか」苛立ちながら相手の話を遮った財団の使節。「それで、貴方がたは儀式というものがどれくらいあると見込んでいるのですか?」

相手は押し黙ってしまった。

「我々には知る必要があります。貴方がたの計画がどれほどの社会再編を想定しているのか」財団職員はそう付け加えた。

「現代人が置かれた文化空間には、古代の高尚な儀礼や血塗られた供犠式の混合物が否応なく紛れ込んでいる。だが人々はこの文明世界においてそんなこと意識もせずに暮らしている」使節はくどくどと語り出した。「たとえばクリスマスツリーの飾りが生贄の動物たちの内臓の代用であることはご存知か?」

財団職員は首を横に振った。

「実は私も知らなかった。オペレーションの構想を練っていた時に本当に偶然そういう話を読んだのだ。あるいは、ほぼ全世界で行われている謝肉祭カーニバル    こちらについては一目瞭然だろう。そして世界中の至る所に   」大使は総括した。「一目ではそれと判別できない供犠式がある。聖餐や、葬儀における法事粥クティヤがその例だ。世界は一変することになる。多くの側面で、予想も付かない方向に。そのような世界は一見して情緒や精粋に欠くのかも知れない。だがそれでも、この世界が〈無のものNichts〉に沈み〈意味喪失Sinnlosigkeit〉に没する訳では無いはずだ」

財団の使節はペットボトルから青い蓋を外して水を飲んだ。水には奇妙な味があった。それは胸が痛くなるほどよく知った味だった。そのはずなのに、財団職員はそれが何の味なのか、思い出すことができなかった。

「こちらの意図を正確にご理解いただきたい。これは依頼でもなければ提言でもない」先ほどと同様、かれの会談相手はくどくどと悲しげに話し始めた。「これは最後通牒なのだ。丁重に言葉を尽くさせてはいただいたが、しかしこれは最後通牒なのだ。これはトロッコ問題なのだ    つまり『貴団体はレバーを引きますか、それとも引きませんか』ということだ。その回答がどちらであれ、連合はプロジェクト・ジークフリートを展開する予定でいる。そのための準備は万全だし、資金も調達できた。ここで財団は『援助する』と仰ることも、『しない』と拒むこともできるだろう。だが仮に『援助する』と仰ってくれるのなら、例のオブジェクトを特殊収容クラス指定する必要もなくなるだろう。だがもし援助を拒むと仰るなら、つまり貴団体はサーキストをはじめとする団体の側に立たれる、ということになるのだろう。その場合、ともすれば連合はこの地球上から消滅してしまうかもしれない。だが時間がある時で構わない、直近のオペレーションレポートをご確認願いたい。財団が10件中1件の割合で私たちの助力に頼っている、という現状にお気づきになることだろう」

「というわけだ、オペレーション・ジークフリートは近いうち展開されることになる。それにより世界はこれまでとは違う在り方を持つことになるし、今現在理解されている意味での正常性は失われるのかもしれない。しかし、だ。世界はきっと完全なものとなる。世界はきっと、ここに集った私と貴方にとって、護るに値する掛け替えのない人々の住まう地となる。……どうか考えてみていただきたい」

財団の使節は水を飲み干し、蓋を閉めた。

「いずれにせよ自分には財団を代表して何か決定する権利は与えられておりません」立ち上がりながらかれは答えた。「本件はO5評議会の審議に掛けられることになります。ですがかれらの意見に影響を与えられるよう、自分も最大限努力させていただきます」

連合職員もまた立ち上がり、相手と握手を交わしていた。かれは自分のブリーフケースを拾い上げ、10mほど歩いてロビーへと退出した。

国連特有の建築様式で設計された広いロビーを通り抜けながら、使節はさっきオフィスで飲んだ水の味が何だったのか、やっと思い出すことが出来た。

それはシナモンの味だった。

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