仕事を終え、家に帰りついた。時計は11時を回っていて、思わずため息をつく。遅めの夕食を取ってから風呂に入り、床に就いた時には午前0時だった。
気が付けば、そこは一面の緑が広がる草原のただなかだった。耳には風が自然のカーペットを優しくなでる音だけが聞こえ、見上げれば真っさらな青空が広がっている。
そんな大自然の真ん中に、不釣り合いな人工物が置かれていた。木製のロッキングチェアに、同じような材質の木製テーブル──カフェなんかに置いてあるような長い一本脚の付いているタイプだ。
そして本棚だ。本棚はかなり大きく、私の背を超えている。その本棚を目にした瞬間、直感的に理解した。あそこには、私が今まで読んできた物語が収納されていると。理屈ではなく心で理解した。
私がそれを理解すると同時に、一冊の本が棚からテーブルに移動した。昔見たハリーポッターの映画に出てくる、飛ぶ本そっくりの動きで。不可解にも私はそのことに大して驚きを覚えなかった。
ロッキングチェアに腰掛け、テーブルに置かれた本を手に取る。表紙には、「通勤中に読んだ物語」と書かれていた。なんとも直接的というか、もう少し捻った名前は無かったのかと思ったものの、変に難解なタイトルよりは分かりやすい方がいいかもしれないと思いなおし、ページを捲る。
彼がおかしいのかどうかわからないが、正気なんじゃないかと思う。家を出るときに、彼は私の家が水に沈むからどうとか言った。どうか、彼らが私を洗い流さないように。彼らが我々を隠さないように。もっと色々なものを見つけてくれ、なにかを残そうとした人たちがいることを私は知っている。
私はこの物語が好きだ。忘れ去られることへの恐怖をこれほど上手く描いたものに出会ったのはこれが初めてだった。何よりこの後に続く一文がまた素晴らしい。
ページを捲る。
……どういうことだ?以前読んでいた時にはこんなものは出てこなかったはずだ。
5分程待っても広告が終わらないので、仕方なくページを捲って、違う物語を読むことにした。
物語の中に広告……?おかしな話だ。
終わってしまった。
最下級の警備員からO5評議会に至るまで財団のだれも、なにが終わったのか正確に説明することができなかった。推測するとしたら、出てきそうな答えはこれである、
世界から異常が消える……財団という組織がその役目を終える様を綺麗に描いてるこの物語が好きだ。
ページを捲る。……なぜこんなところで区切られているんだ?
まただ、また変な広告が。思わず悪態が口をついて出てしまう。今度は秒数の表示までおかしなことになっている。それにしても、マインド・ミルク™だと?私は乳製品アレルギーなんだぞ。飲みたくても飲めるものか。
またしても読書を邪魔されたこと、飲めもしない商品を宣伝されたことにイラつきを覚えながら、ページを捲る。
余りにも酷い、もはや最初の、この物語の扉を開ける素晴らしい書き出しすら読むことを許されなかった。
それに……分譲住宅だと?今住んでいるマンションのローンさえ払い終えていないというのに……わかっててやってるんじゃないのか?人がストレスを感じそうな広告ばかり表示するなんて……まるで……まるでなんだろう?
ページを捲る。次のページは報告書だった。今度こそ大丈夫だろう。
D-1104: もう十分手遅れだ。それに放送室に二人はちょっと狭いだろうし、アナウンス役は一人で十分だ。そう思わないか? そしてアナウンスをやるのは普通は大人だ、子供に任せる仕事じゃない。
これも良いものだ。Dクラスと少女のやり取り、デパートの階を上がるごとに忘れられていくDクラス……報告書としての体裁も十分整っていて、欠点らしい欠点が見つからない。
しかし、おかしい、明らかに不自然な区切りだ。若干の諦めと、僅かな期待を秘めつつページを捲る。
[音源不明]: ……なにをするの?
D-1104: 俺は犯罪者だから償いをしなくちゃダメなんだ。でも皆は俺を忘れちまっただろうから、ため息をつき、ページを捲る。なんてことだ
私はこれから死ぬ。
世界はこれから滅び行く。
こんな世界のために、私は全てを捨てて生きてきた。
だから最後の最後くらい
大儀も責務も、全部捨てて
この作品は最近行われたコンテストの出場作品でかなり上位だった気がする。……何位だっただろうか。
緻密で丁寧な心情描写と状況描写、荒廃した世界での交流と、仲間との別れ。とてもお気に入りの物語だ。
そして最後に待ち受けるのは
空に輝く第五ヒトデ、見麗しくもお姿隠し、その角の裏は何処にある?
教えておくれよヒトデやヒトデ、無色の緑は遠い彼方、とても貴方に届かない
諦めるのは簡単だけど、辿り着くのは難しい
空を昇るstep&hop、jumpは最後に取っておこう
第一のstepそれは単純、初めに……
強烈な頭痛で目を覚ました、とても煩い夢を見ていたような気もするが、思い出すことが出来ない。時計を見ればもう朝の7時だった。慌てて着替えを済ませ、朝食も取らずに家を出る。
通勤電車の中で、夢について改めて考える。なんだか、とても面白い読み物を思い出そうとしていたはずが、くだらない広告に邪魔されて台無しになったような気がする……。
気のせいだろう。あんなもの、現実にあるはずがない、ましてや、夢の中にまで広告を始められたら、人はどこで安息を得ればよいのだろう?
何となく視線を上げれば、中吊り広告が目に入った。嫌悪感から直ぐに目を逸らしたものの、幾つかの単語は読み取れた「マインド・ミルク™」「モットアマイユメ(株)」「オネイロイウェスト観光局」違う……そんなはずはない。スマホを取り出して画面をのぞき込めば、そこにも広告が氾濫していた。
違和感を覚えて周りを見回せば、車両の中には自分一人だけがいることに気づく。
ここは何処だ?
何もかもが崩れていく、足元が無くなり、落下していく感覚に身体を預け、意識を手放した。