髭を剃ったあとは気分がいい。
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 三度目にインターホンが鳴ったのは、俺が口許の泡を落としているときだった。

 流れていく泡は水に溶け、体を縮めながら排水口に吸い込まれていく。右手に握った髭剃りを一瞥してから放り、洗面器から離れる。刃はところどころが錆びていた。
 手で口許の水気を拭い取る。剃り残した髭が紙やすりの表面のようだった。

 鞄を担ぎ、玄関へ直行する。予定のない訪問客には居留守を決め込むのがいつもの行動だが、生憎これから外出しなくてはならないので、どうあっても対面する必要がある。宗教か、セールスか。二択を考える。結局は振り切るにしても面倒だ。面倒で仕方ない。これから鬱屈そのものと真正面から向き合うというのに。
 宗教。そう予想して、扉を開けた。

 外光が室内に差し込んだ。俺と同程度の身長の影が被さる。淡いピンクのジャケット、同系統のスカート。首許には模様入りの濃紺スカーフが巻かれ、品位の高さを周辺の空気に撒き散らしていた。いや、いくら品位が高かろうと、訪問販売をする逞しさは備えているのだけれど。毒々しいほどのピンク色をしたキャリーケースが、彼女の足元には置かれていた。
 セールス。予想は外れた。

「初めまして。私、イワナガ美容組合のミヨコと申します」

 頭を下げる彼女を前に会釈した。髪を弄り、顎を撫でる。無意識にやってしまう癖だ。
 俺は逃げ道を探した。彼女とアパートの壁の隙間から退路を確保しようとすると、それを塞ぐように腕が差し出された。
 手は名刺と一緒に、細長い箱を掴んでいた。箱には何もプリントされていない。販売員の服と似た、淡いピンク一色に染まっていた。

「イワナガ美容組合がこの地域に店舗を構えたのは最近のことなんです。今後の御贔屓にと、試供品をお配りしているところでして」
「俺、男なんですけど」

 想定済みと言わんばかりに彼女は微笑みを俺に向ける。唇に差した紅が日光を返し、輝いていた。

「男性でも化粧品や美容用品に興味を持つ方って増えてるんですよ。これを機に、美しくなってみませんか?」

 ありふれた男向けの広告文句を発しながらも、腕は少しも震えていなかった。ヒールのないパンプスの先を徐々にこちらに寄せ、圧迫感と一緒に詰め寄る。セールス対策である逃げの一手への対策。しっかりと練られているらしい。観念して、名刺と試供品を受け取った。

「大丈夫。それはあなたに必要なものですよ」

 ミヨコはにこりとした笑みを最後まで崩さなかった。踵を返し、無駄な動作を見せずにアパートの敷地外へと出て行った。仕事は終わったようだ。ここまでさっさと事を済ませられると、一切抵抗できなかった自分への情けなさすら湧いてこない。

 彼女が消えた狭い通路を眺めているうちに、携帯端末が鳴り響いた。自分が部屋から全く離れていないことに気付く。画面を見て、気管が詰まるような思いをした。打って変わって、喉奥から栓を吹き飛ばすような息が出る。焦る気持ちと同時に歩き出し、端末を耳にかざした。
 頭を貫通するほどの怒号が端末の向こうから飛び、俺はそれに黙っていることしかできなかった。


 玄関戸を押し開け、電源パネルに触れる。暖色系の照明に照らされた廊下をふらつく足で踏みつけた。疲労は脚に纏わりついて、まっすぐ歩く自由さえも奪っていた。
 汗に塗れた顔。窓の閉じた部屋に入ってすぐに不快感を覚えた。真っ暗な洗面所兼浴室に飛び込んで、洗面器の縁を掴む。顔を洗う最中に蛍光灯のスイッチを入れ、電気の明滅と一緒に、鏡に映った自分の顔を見た。
 水が頬を伝う俺の顔には髭が生えていた。剃り残しが日中でさらに伸びたのだろう。口許を触った。紙やすりの面は一層粗くなっている。

 鏡から目を逸らした。見ていられなかった。髭剃りを取り、片手でシェービングフォームを掴んだ。
 髭剃りは錆びている。鏡の前に晒してそれがわかった。今日剃り残しがあった原因もよく考えればこいつだった。俺はまた、剃刀を放り投げた。
 別段、容姿を気にする方じゃない。ただ、今は気になってしまう。重なりに重なってしまっている現状で、顔の髭すらどうにもできない。岩石が上から俺を潰そうとする。潰されまいと持ち上げ続けるが、放り投げられるくらいに強くはない。そういうイメージにときどき支配される。圧殺されてしまいそうだ。
 
 繰り返し、それが過ぎる。背面へとよろめいて、鞄を蹴ってしまった。普段とは異質な音が鞄の中で起きた。ぼんやりしたまま中身を探り、紙の質感を握り締めた。淡いピンクの無地の箱。カラカラと、軽くも重くもない物体の音がした。指で表面を撫で、箱の隙間に爪を突っ込んだ。
 プラスチックと金属で構成された、使い捨てタイプの髭剃り。箱と同じ色を基調にデザインされていて可愛らしく、逆に言えば俺には似合わなさそうな試供品だった。確かに男でも使えるが、気分の高揚は特に感じない。

 それはあなたに必要なものですよ。なるほど、それは合っているらしい。本当に偶然、合っていた。俺は鼻で笑ってから、シェービングフォームの蓋を開けた。せっかく合っていたのだから、今使うのも悪くない。どうせ俺のは錆びている。フォームを延ばし終えると、右の頬側から刃を当てた。

 肌の上で、ぷつりぷつりと糸が切れていくような感覚があった。今、剃っているのは髭のはずだ。髭を剃っていてこんな感覚になったことがあっただろうか。まるで髭が未来に生える分量ごと攫われるように、肌から分離していく。

 顎を渡って頬を刃が滑り、泡が洗面器に落ちる。
 フォームによって生じた泡の内側に、半透明な灰色の物質が閉じ込められていた。ぶよぶよとしていて、飴の塊にも見えた。灰色は泡を伴って、洗面器の中央に流れる。円を描いて穴に吸い込まれ、ぐるぐると渦巻いている様子は小さな竜巻を見ているみたいだった。そして排水口は竜巻をまるっと飲み込んで、げっぷにも似た音を立てた。
 俺は洗面器を覗き込んだ。排水口の穴と僅かな泡以外に、何も残っていなかった。それでも穴を、紙をわざわざ敷いているかのように凝視した。あの灰色はどこに行ったのだろう。どこに流れていったのだろう。あれは何の灰色だったのだろう。疑問はいくらでも浮かんだが、それらがわだかまりとして胸を締めることはなかった。
 もう、あの灰色は俺の中にはないのか。疲弊した身体に安堵感だけが、誰かの忘れ物みたく置かれていた。


 アプリケーションの通知に名前が並ぶ。先輩、後輩、親、恩師、かつての同学年───。
 鬱屈たちが連名を作り上げている。寝床に転がったまま、俺は鬱屈たちから目を背けた。見たくなかった。顔を向けていると、自分が情けなくて仕方がない。
 俺は顎を撫でた。つるつると、優しい触り心地だった。

 インターホンが鳴る。飛び起きて、テレビドアの確認画面を眺めた。淡いピンクの制服と、気品の高そうなスカーフ。寝巻のまま、俺は駆け出した。途中で洗面所の前を通りかかる。一瞬だが、鏡の自分を見た。何もかもが乱れていたが、髭は一本も生えていなかった。青髭すら生じていなかった。
 扉を押し開ける。今度居留守を決め込もうものなら、自分を責めても責め切れない。

「初めまして。私、イワナガ美容組合のミヨコと申します」

 セールス。待ち望んでいた。
 彼女は俺に頭を下げ、毒々しいキャリーケースを床に置いていた。自己紹介に違和感を覚えたが、些細なことを気にかけている場合ではない。
 なぁ、と販売員に向けて発するには自分でもどうかと思う調子で声をかけた。

「あれ、何なんですか」

 その一声を受けるとミヨコはぱちりと瞬きして、表情を一転させた。口角を丸くさせ、差した紅が潰れた形に変わる。納得を自分の中で清算したのだろうか、状況に応じて対応を変じるのはビジネスマンとして正しいはずだが、近寄りがたい雰囲気があった。

「ああ、そのお客様でしたか。ご説明いたします」

 こほん。わざとらしい咳が、空気の湿った初夏で起こった。

「あなたの髭は断たれたんです。今後一切あなたに交わることはありません。今後もイワナガ美容組合の製品をよろしくお願いします」

 説明はそれで終わった。踵を返し、俺を玄関先に独り残して去っていく。何が説明だ。何も説明してないじゃないか。その混乱を読み取ったのか、彼女は背を向けたまま続きの言葉を飛ばした。

「自分が邪魔だと思うものは剃っちゃってください。それは全部、あなたを困らせているムダな髭なんですから」

 部屋の中に戻った。直線で伸びた廊下の先、寝床に置かれたままの携帯が音を発していた。拾い上げ、画面を直視した。
 叱咤激励。夏の休暇にまた。電話でもいいから近況を───。
 これからも頑張れ。

 誰に言ってるんだろうか。

 期待されればされるほど、現状が期待を裏切ってしまっている。痛いほど感じる。明るく後押しされる度に、髭面の自分を鏡で見たときのように情けなくなる。こちらに出向いてきた人間に調子を合わせるときなんか苦痛だ。外見から汚れを消し去った上で、内と外の歪みがこれ以上広がらないようにしなくてはならない。
 端末を放り投げて、両手で顔を覆う。触り心地はやはり柔らかく、送り出された当時の肌を思い出させた。

 手で覆われては何も見えなかった。
 自分が邪魔だと思うものは剃っちゃってください。ムダな髭なんですから。
 販売員に投げかけられた言葉が何度も自分に向かってくる。

 自ずと、洗面所へと歩き始めていた。洗面器の前に立ち、フォームを顔に塗り付けてピンクの髭剃りを頬に押し当てる。力が籠って、刃が肉に刺さるかと思っていた。意外にも、俺の顔に傷は付かなかった。
 髭。旧友のあいつ。泡。勝手な期待。紙やすりの表面。不快感。情けない気分。

 全部流れちまえ。流れ落ちてくれ。流れてください。

 糸が断絶される感覚が、電撃みたく顔を駆け抜けた。
 目を下に向けると、泡だらけの灰色飴が洗面器にべったりと貼り付いていた。飴の中に、あいつの顔が映っていた気がした。灰色は名残惜しそうに、時間をかけて洗面器を滑っていく。やがて先端が排水口に到達すると、灰色はストローで吸引されるかのように穴へと落ちていった。

 ふらっと腰が抜けて、タイルの床に尻餅をついた。あの灰色は俺の中から消えた。俺を情けなくさせる要因の一つは、排水口の穴に飲み込まれたのだ。身体に負荷をかける重りが失われていくのを、黙って感じていた。
 床に寝転んだ。安心感に満ちた肉体を休めようと、白い天井を眺めた。俺を悩ませていたはずの存在は、どんな形をしていたかすらも思い出せなくなっていた。良かった。良かった、と思うべきだ。

 どうしてだか、俺は酷く落ち着いているだけだった。重りが消えたことを、喜ぼうとは思えなかった。灰色が流され、渦巻が飲み込まれてしまう様子をもっと長く見たい。自分から髭が消えていく安堵だけを感じていたい。安堵を感じなければ不安がまた起こって、自分がまた情けなくなってしまう。あの髭面は、二度と見たくない。
 まぁ、今はいい。どちらにしても、断絶できる鬱屈たちはまだまだたくさんあるのだから。ただ、結局は断ち切るにしても面倒だ。面倒で仕方ない。
 
 もし、鬱屈がすべて排除されたら。
 新たに不安が芽吹くより早く、俺は洗面器の前から逃げた。
 今はいいだろう。今の俺は情けなくなんかない。髭を剃ったあとだから。




 インターホンを押す。硬い触感が指を離れて、それから呼鈴は鳴った。
 肩まで届く髪に手をやり、顔の輪郭に沿って動かす。指は唇に触れる。柔らかさを感じてから親指を見てみると、僅かだが紅色が付着していた。扉の向こうにどたどたという音を聞いて、手を前に構えた。

 扉が開く。男が顔を覗かせた。瞼の開き切っていない目に生気は見出せそうにない。しかし、その露出面積の狭い眼球でも、瞳孔がきゅっと縮むのがよく観察できた。
 彼の顔には、髪も眉毛も、髭の一本すらも残っていなかった。
 腹に力を入れた。

「初めまして。私、イワナガ美容組合のミヨコと申します」

 頭を下げる。教え込まれたマナーに従って姿勢を戻し、微笑みを作った。
 男はこちらの全身を見て、服の意匠を見て、スカーフを見て、足元のキャリーケースを見た。水面に急浮上したような荒っぽい息を吐き、言葉を零した。

「俺、どうすりゃいいですか」

 所作から何となく勘付いてはいた。おそらく、この顧客は以前もこちらで扱った人物なのだろう。
 マニュアルに従って対応する。

「ああ、そのお客様でしたか。ご説明いたします」

 ポケットから、彼に名刺を差し出した。針で虫を殺すときみたいに動作が機械的な鋭さを持っているな、と自分でも思った。

「以前もお渡ししたと思いますが、その名刺にはイワナガ美容組合の連絡先が記されています。剃り上げたい欲求を満たしたいのであれば、そちらにご連絡をください」

 仕事の時間は終わった。
 キャリーバックの持ち手を掴み、引っ張ってその場を後にする。男が何かを言ってくる雰囲気はない。キャスターが鳴らす音だけがカラカラと無音の空間に溶けていった。
 男の顔には見覚えがあった。面識、という意味だけではなく。瓜二つの像を、最近見た気がした。


 扉の鍵を回し、崩れるようにして自室に飛び込んだ。
 キャリーバッグを適当に転がすと、電源パネルを素通りして廊下を踏む。夏の直前は暑い。湿気のせいで夏より暑い。制服なんて着ていられない。
 暗い屋内でスカーフを引っ掴み、床に叩きつける。ジャケットを脱ぎ捨て、洗面所の方向へと身体を倒した。
 熱で蒸れた頭に指を立てる。そのまま髪の中へ突っ込み、髪を握り締めた。
 ぱさりと、人工の髪は頭から外れる。ウィッグを洗面所に併設された浴槽に投げ込み、洗面器に向かい合う。蛇口を捻った。流れ出た水は洗面器の排水口へと吸い込まれていく。

 水で手を浸して顔を拭う。取り付けられた鏡の中の顔には、髪も眉も、髭一本すらない。毛の生えていない、つるりとした顔があった。男とも女とも判断しがたい、化粧によってようやく女に似るかもしれない不気味な顔だ。

 既視感の正体がわかった。
 俺だ。

 きっと彼は、不快で仕方がなかった髭をすべて剃り落としたのだろう。剃り落とす髭がついになくなり、困り果てていたのだ。
 髭がなくては、髭を剃る快感は味わえない。あの剃ったときの安堵感がなくては、胸が不安で一杯になってしまう。不安を解消するには髭が必要なのに、一度剃られた髭は生えてこない。

 しかし、打開策はある。
 新しく髭を調達して植える。それには一回切りの関係がちょうどよくて、何度も別の人間と繰り返せる方法がいい。販売員と客のような、互いにどうだっていい薄い関係が望ましい。
 そのためには、自分が販売員になるのが最も手っ取り早かった。

 イワナガ美容組合は心が広い。こんな俺を拾って、ミヨコに仕立ててくれるのだから。ミヨコの姿を借りれば、誰が相手でも販売員と客の関係を構築できる。
 その瞬間、俺は俺じゃなくてミヨコだ。情けない俺はどこにもいない。かつて出会った美しい彼女になりきっている時間は、髭が蔓延るように生えていた俺を忘れさせてくれる。
 おそらく彼も名刺の番号に電話を入れるだろう。販売員と客は明日から同僚同士になるかもしれない。ただ、そうした下らないことを考えるのも意味がない。その前に、髭として消費してしまうからだ。

 俺は柄がピンク色の髭剃りを手に取った。
 フォームを泡立て、頬に刃を押し当てる。糸の断絶を想起する。ぷつりぷつりと、髭が切断されていく感覚が肌に伝わった。

 洗面器に灰色の物質───髭が落ちた。出しっぱなしにした水に巻き込まれ、柔らかな髭の塊は渦になる。円を描いて回る髭は、ゆっくりと穴に吸い込まれていく。
 俺の中から髭が消える。その安堵が心に染み渡るのを感じながら、俺は口許の泡を落とした。

 髭を剃ったあとは気分がいい。


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