タイ王国西部、アンパワー水上市場。
メークロン川支流、アンパワー運河沿いに立ち並ぶ伝統家屋群は国内でも人気の水上マーケットだ。タイ国内に数ある水上市場の中でも良心的な価格帯のマーケットで、昼間の落ち着いた長閑な雰囲気と、夜の幻想的な風景が特徴と知られている。近隣には世界的に有名な観光地"メークロン線路市場"が存在し、乗り合いタクシーソンテウが両地点を結んでいることもその人気に拍車を掛けている。
そんなアンパワー水上市場に拠点を構える超常組織が黒魔力師連盟だ。GOCによればタイプブルーとされる奇跡論的現象を操る異能者軍団、有体に言えば魔法使いの群れであり、現在ではタイ本国に留まらず世界規模の活動を行っている。アンパワー拠点はそんな黒魔力師連盟が持つ拠点の中でも歴史が古く、彼らにとって重要な拠点として機能している。
近年はタイ全体で見られる観光来訪者の増加に伴い、タイ国内で連盟の黒魔力師が目立った活動をすることは稀になったが、アンパワー拠点など地方に存在する拠点では別だ。理由はアンパワー周辺の宿事情にある。アンパワー水上市場周辺は宿が少ないため、多くの観光客は早い時間にアンパワー水上市場から姿を消し、バンコクやメークロン線路市場付近の宿に帰っていく。前述のソンテウは早い時間に最終便を迎え、メークロン線路市場に戻るには深夜料金ぼったくりのバイクタクシーを利用する他無くなってしまう。メークロン線路市場からバンコクに戻る乗り合いバスロットゥは21時には最終便が出発する。そのため、22時頃のアンパワー水上市場は観光客が消え、運河の水音は聞こえるほど静かになる。この時間になると運河が枝分かれする市場北部の周辺の居住区は不気味なほど人気がなくなり、連盟の黒魔力師の顔を見かけるようになる。市場の便利さと観光客の居ない地方らしさの両面を併せ持つアンパワー拠点は連盟にとって貴重で重要な拠点という訳だ。
さて、黒魔力師連盟と財団の仲はハッキリ言って悪い。財団と連盟はファーストコンタクト当初より、「財団が連盟黒魔力師を収容し、その報復に連盟黒魔力師が応用奇跡論で財団職員を殺害する」という関係性であり、敵対する者同士だった。80年代末に、財団収容する最重要機密オブジェクトSCP-001を含めるオブジェクト数点を買い取りたいとする取引が連盟側から持ち掛けられ、友好関係の構築を連盟が提案したが、この取引は早々に決裂。それ以降は更に対立が激化した。結果的にアンパワー水上市場を含めるいくつかのタイ国内の地方拠点は、財団の力が及びにくい場所になってしまったのだった。
その黒魔力師連盟に大きな動きがあったのは、つい1週間前のことだ。黒魔力師連盟に新たな加盟者希望者が……という話はよくあるが、その加盟者希望者が"ハーレット出身"という情報に、いくつかの正常性維持機関が揺れた。
ハーレットと呼ばれる地域はこの世界どこを探しても存在しない。その名が見れるのが19世紀の冒険家"ロレンツ・エルドリッチ"が自費出版した書籍"紀行"の第18巻から30巻までの間のみだ。この紀行という書籍群はロレンツ氏の冒険を綴ったものとされているが、突拍子もない異常存在との遭遇や、超常現象の体験が内容に含まれており、ロレンツ氏の創作物語という評価が下されてきた。しかし、20世紀中盤にMC&Dのマーケットにロレンツ氏が所有していた異常な遺品が並ぶと評価が一転。自費出版ゆえに全巻あわせても500冊も販売されていない希少性も相まってロレンツ氏の書籍は莫大な金額で取引されることとなった。
そんな流れの中でも、18巻から30巻は比較的価格が安定していた。前述のハーレットと呼ばれる地を冒険した時の内容を綴ったものであり、内容があまりに真実味を帯びていなかったからだ。ハーレットでの冒険はいよいよ異常なものばかりであり、魔法という概念が当然のように存在する世界で、異なる文化と魔法使いと邂逅する内容は子供の夢物語だとしても出来が悪く、誰も本当のこととは信じられなかった。実際、今回の"ハーレット出身の魔法使い"の話も反応したのはGOCと財団だけだった。
GOCと財団が反応した理由はいくつかある。そのうち1つは、18巻から30巻に登場する魔法の特徴だ。ハーレットでの冒険、即ち18巻から30巻に登場する魔法の多くは、タイプブルー達が操るものやファンタジーRPGで見るような、火の玉を飛ばしたり雷を落とすようなものではなく、異常な魔法存在を創り出し、それを使役するようなものだ。この魔法存在の特徴や外見に関する記述が、財団やGOCが"ロレンツ・エルドリッチ"という名前に敏感になっている原因だ。『目を合わせないと即座に接近し、首を絞める折るの攻撃を加える魔像』『如何なる攻撃も通用せず、ありとあらゆる全てを破壊し尽す凶暴な地竜』『遺体を収めた石棺と、時折遺体から蘇る殺戮の魔人』これら財団が支配下に置くオブジェクトに似た特徴の魔法群が複数登場するのだ。もちろんこの例はごく一部にすぎず、中にはGOCが管理するオブジェクトも存在する。ロレンツ氏がそれらオブジェクトを生前から認知していたかかなり怪しく、ハーレットという場所は財団やGOCにとってタダの創作物と片付けることが出来ない場所なのだ。
この日、アンパワー水上市場には何人かの財団職員が入り込んでいた。黒魔力師連盟のメンバーに怪しまれたりしたらハーレットの魔法使いを確保するのは難しくなる。襲撃作戦は少数、黒魔力師連盟に顔が割れている現地職員は避け、中国人観光客に扮しやすいモンゴロイドの職員が選定された。エージェント時任は諜報員として何日も前からアンパワー水上市場に滞在していたが、5日目の今日、ようやく黒魔力師連盟に動きがあった。
今夜遅くに臨時会合が開かれ、ハーレットの魔法使いと黒魔力師連盟がファーストコンタクトするらしい。前述の通り、黒魔力師連盟は財団に対してオブジェクトを要求してきたことがある。もしハーレットの魔法使いが本物なら、財団が売却を拒否したオブジェクトを魔法で作り出し、黒魔力師連盟に供給してしまう可能性がある。それを防ぎ、更にハーレットの魔法使いを確保しなければならない。エージェント時任を含める潜入職員達は、その人数にも関わらず重要な任務を帯びていた。
深夜2時。灯りは表の通りを照らす最小限のみ。
一人二人と続々拠点内に黒魔力師が入ってくる。拠点の中には先立ってエージェント時任が潜み、残る全員は付近の暗がりに潜り込み、エージェント時任の合図を待っている。
拠点の広間に10人程度の黒魔力師が入ってきたところで、お目当ての魔法使いが凝った意匠の長杖をカランカランと床に鳴らしながら現れた。茶髪のミディアムレイヤーにデカイ丸眼鏡。この辺ではあまり見ない意匠の魔装に身を包んだ若い女だった。薄暗闇で妙にギラつく青緑色の耳飾りと髪飾りが妙に妖しく、先の長杖と合わさって高い彫金技術の産物を感じる。女を正面にするように黒魔力師達が座ると広間の扉は閉められ、臨時会合は始まった。
黒魔力師のうち1人が口を開く。
「まずはブツを差し出してくれ」
「ああ、わかった」
女は軽く頷きながら答えると手を天に翳し、ブツブツと口走った。激しく火花が散ったかと思うと、何もない虚空からゴトッと物体が零れ落ちた。エージェント時任には、その物体の特徴的外見から即座にSCP-1084-JPだと判別できた。間違いない。この女は本物のハーレットの魔法使いだ。
黒魔力師達はどよめきながら、満足そうに頷いている。SCP-1084-JPはかつて黒魔力師連盟が呪術に利用するとして求めたオブジェクトの1つだ。黒魔力師連盟側が加入の手土産として、ハーレットの魔法使いに要求していたことは既に調査済だが、黒魔力師達の反応をみるとハーレットの魔法使いに対しては半信半疑だったようだ。先程まで葬式のような雰囲気だったが、広間に明るい雰囲気が漂う。
「おお。素晴らしい。これを供物すれば……。いやはやまさか本当に手に入るとは……。よろしい、私達はお前を歓迎しよう──」
そう話した黒魔力師は本当に嬉しそうな表情をしている。広間に居るほぼ全員が会合の成功を確信していたが、勿論このまま時任達が見逃す訳がない。黒魔力師が女に握手を求めようと手を伸ばした瞬間、
「ちょっと待った!」
叫び声が会合の進行を制止した。それと同時に大きな物音が広間に響く。広間の扉が蹴り開かれる音だ。
「誰だ! 貴様──」
乱暴に蹴破られた扉の方を全員が振り返る。
「君たちは騙されている! その女は偽物だ。私こそが本物のハーレットの魔法使いだ」
女と同じような魔装に身を包んだスキンヘッドの色黒男がズカズカと広間に入ってくる。男の登場に黒魔力師達は混乱を隠し切れない。
「いやいや、危ないところだった。受け取れ、例の土産だ」
男が女と同じように手を天に翳す。すると眩い閃光が瞬き、ゴトッと物体が落ちる音がする。これは安い手品だ。しかし薄暗い拠点内でそのトリックを見破った者は居なかった。
スキンヘッドの男は得意げな表情で腕を組み、黒魔力師に土産を確かめるように促す。黒魔力師の一人が落ちた物体を確かめると、土産はやはりSCP-1084-JPに見える外見をしている。その黒魔力師は真偽を判断をすることができず、
「おい、どうなってる!」
と声を荒らげた。ハーレットの魔法使いが2人、会合の場は混乱している。それを見てエージェント時任はニヤリと笑う。今回がファーストコンタクトという情報は本当だったようだ。仕掛けるなら今が好機、エージェント時任はそう思った。
「ソイツが偽物だ!」
全身黒装束の男が立ち上がり叫んだ。場の混乱を切り裂く大声に、広間に居た全員が注目する。男が偽物だと指さしたのは女の方だ。女は状況の整理が追いついていないという顔をしている。黒装束が更に続ける。
「その耳飾り、俺はお前を市場で見たぞ! その時お前はTシャツにGパンでそんな服装じゃなかった。お前は旅行客のふりをした財団職員だ!」
全員の視線が女に集まる。
拠点の中には先立ってエージェント時任が潜み、残る全員は付近の暗がりに潜り込み、エージェント時任の合図を待っている。
黒装束の男が叫んだ内容。これが"合図"だった。
再び蹴破られた広間の扉。財団機動部隊が銃を構えながら突入してくる。襲撃をある程度予想していたか、黒魔力師達も立ち上がり応戦しようとするが、機動部隊が構える銃は威嚇も警告もないまま火を吹いた。偽物を指摘した黒装束の男、基いエージェント時任が銃撃を受け倒れ血を流す。もちろんこれは打ち合わせ済みの演劇だ。財団の用いる弾丸が非殺傷弾なのは言うまでも無い。
黒魔力師達は黒装束の男が倒されたのを見て、仲間を殺されたと思ったに違いない。本物の黒装束の男は今頃飛行機で財団施設に運ばれている最中だろうがそれを知る余地もないのだ。黒魔力師達が怒りに任せ、火球や雷光を機動部隊に浴びせる。黒魔力師の使う魔法とは正に神秘、一方的な銃撃で戦闘は終わらない。黒魔力師の1人が銃弾を防ぐ障壁を張り、他の黒魔力師が魔法で攻撃する。機動部隊と黒魔力師達の交戦は黒魔力師有利だ。
「ハーレットの魔法使いを確保しろ!」
機動部隊の隊長格がわざわざ聞こえるように叫んだ。機動部隊の一人がハーレットの魔法使いを名乗る男へ駆け出す。男は逃げずに機動部隊に果敢に挑もうとした。これも段取り通りの茶番だ。機動部隊隊員は男の鳩尾に前蹴りをいれ、倒れこんだ男を背負って広間の出口に走る。他の隊員達も男を背負う機動部隊を掩護するように射撃を続ける。いつの間にか黒装束の男が消えているなど誰も気づかない、広場は迸る火花と弾丸の応酬だ。
さて、こうなると立場が無いのがハーレットの魔法使いを名乗る女だ。黒魔力師に偽物呼ばわりされ、突入してきた武装勢力は自分に目もくれない。客観的に見て偽物はこの女だ。そしてそれは黒魔力師達から見てもそうだった。巨大な火球が女に対し放たれる。女は間一髪避けるが吹き飛ばされてしまった。
「大丈夫か!? 掩護するから逃げろ!」
機動部隊の隊員が女に向かって叫ぶ。女からすれば更に状況を悪化させる発言だ。女はこの状況に溜まらず、広間から単身逃げ出した。黒魔力師達がこれを追いかけようとするが機動部隊の掩護射撃がこれを阻止する。広間の戦闘はもう少し長引きそうだった。
首尾よく拠点から脱出した女はどうすれば良いか分からなかった。ここは自分を敵だと誤認している連中のホーム、逃げ出せる保証も無いし、この暗闇の中で人里を離れるのは獰猛な野生生物との遭遇などリスクがある。女はアテもなく、とりあえず走ることしかできなかった。
「待ってください。こちらです!」
そんな女に対し、路地から話かける人影があった。
「私達はあなたの味方です。先ほどの会合は私達の敵対組織による破壊工作でした。私達の主、偉大なる黒魔力師"オルフェーブ"様はすべてお見通しです」
「事態の終息まで時間が掛かります。それまでここは危険です。どうぞこちらへ」
その人影は黒魔力師を名乗った。女は安堵した、まだ希望は潰えていなかった。黒魔力師連盟とコンタクトを取るまで沢山の苦悩があったが、それら苦悩が水泡に帰すかと思ったがまだ終わってはいなかった。女は導かれるままその黒魔力師に着いていった。残念ながら黒魔力師"オルフェーブ"など実在しないのだが。
それから約3時間後。アンパワー運河とその本流メークロン川は托鉢に訪れた僧侶の船が行き来する時間となっていた。タイの日常的慣習が1日の始まりを告げる頃、水上市場から少し外れた川沿いの廃墟に近づく1人の僧侶がいた。船を降り、船を固定すること無く、川から廃墟に直接伸びる階段を昇って行く。
「なんだ、俺が最後か」
それは先ほどハーレットの魔法使いを名乗った男だった。男は逃走用に利用した橙色の装束を脱ぎ捨て、廃墟の隅に畳まれた洋服に着替え始める。
「ああ、アンタで全員だ。うまく出し抜いたな、全員良い仕事だった」
廃墟の隅の暗がりに、先程黒魔力師連盟の拠点を襲撃した犯人たちが休んでいた。その暗がりの椅子からエージェント時任が応える。時任は立ち上がり、部屋の中央に置かれた棺桶サイズのコンテナに再度腰掛ける。
「しかし、小娘一人が随分手間を掛けさせてくれたな。話は向こうでじっくり聞いてやる」
時任が目線をコンテナに落としながら口走る。それに応えるようにだろうか、コンテナの中から壁を蹴るような音がし、なにやら声が聞こえる。
「オマエタチキョウカイダナ ワタシタチハオマエタチノオオモウヨウニハナラナイゾお ま え た ち 教 会 だ な 私 た ち は お 前 た ち の 思 う 様 に は な ら な い ぞ」
この世の物とは違う言語がコンテナから聞こえる。罵声なのは誰でもわかるだろう口調だ。先ほどまでタイ語を操っていたハーレットの魔法使いが、わざわざ"その言葉"で罵声を吐いたのは感情の昂ぶりゆえだろう。この場にいる誰もコンテナから響く声が何を言っているか分かるはずがない。しかしエージェント時任はニヤリと笑うとコンテナを踵で蹴り返し、罵声に答えるように口を開いた。
「ウルセエヨ オレハヂナムダ ガムガムケルムジャネエう る せ え よ 俺 は 痔 な ん だ ガ ン ガ ン 蹴 る ん じ ゃ ね え」
先ほど"GOCと財団が反応した理由はいくつかある"と書いた。その理由を1つしか書いていなかったが、理由は勿論まだある。その理由とは、財団とGOCにとってハーレットとは御伽噺なんてものではなく、もっと"現実的で身近な危機"だからだ。