ファーストコンタクト
評価: +15+x

 ノックもなく乱暴に開け放たれた扉の音に、資料の最終チェックを行っていた手が止まる。

 こちらに近づいてくる足音に合わせて鳴る耳障りな軋みが、振り返らずともそれが招かれざる客であることを雄弁に告げていた。
 ただでさえ憂鬱だった気分が一層沈んでいくのを感じる。だからその名を口にするのに、覚悟を決める一瞬の間を必要とした。

「……何か用かい、屋敷
「用も無いのにおまえのシケた面を拝みに来るほど暇じゃないよ、粟倉」

 開口一番、飛んできた憎まれ口に、一度は飲み込んだ溜息を深々と吐き出した。
 意を決し、背後に立つ来訪者へと向き合う。

 そこに立っていたのは枯れ木を思わせる男だった。薄汚れた白衣は浮浪者然とし、目も落ち窪み暗く澱んでいたが、しかし精気に欠けるなどということは決してない。むしろ臭気立つ沼のような負の活性に満ちている。
 その長身痩躯を半分支える右の義足は偏執的なまでの使い込みによって塗装が残らず剥げ落ち、剥き出しとなった地金すら一切の光沢を失っている。整備不足のそれが身動ぎのたびにキイキイと鳴き、生理的嫌悪感を催す奇怪な甲虫を思わせた。

「僕は用があったとしても、できる限り君の顔は見たくないけどね」
「おっと当て擦りとは珍しい。いいぞ、二日は寝てないな」

 精一杯の悪態も当然のように堪えた様子はない。再度大きく息を吐き、慣れない毒舌をひっこめる。

「どういう用件かは知らないけどね、あまり長々と相手はできないよ。なにせこの後すぐに……」
「新入りども相手のオリエンテーションが控えているんだろう? 知っているよ」
「……待て、なぜそれを?」

 屋敷がこともなげに答えた言葉に、内心の警戒レベルが引き上げられる。
 もちろんその予定は機密というわけでもなく、何かの折に耳に挟むことはあるだろう。だがこの男の他者との接点の少なさを踏まえれば、どう考えても不自然だった。
 疑惑の視線に気がついたのか、屋敷はなんということはないとばかりに肩を軽くすくめる。

プロトコル・アイドルがあるからな。新入りどもの主だった動きは把握してる」
「ああ、なるほど」

 プロトコル・アイドル――それはかつて財団職員を無差別に殺傷するKeter分類の異常現象を無力化するために制定された異色のプロトコル。その考案者が、他ならぬ屋敷である。

「835-JP、ついにSafeに分類されたって聞いたよ。おめでとう、Keterクラスオブジェクトの完全収容にはそう携われるものじゃない」
「めでたいことがあるか。あんなもの、体の良いコストカットだよ」

 祝いの言葉に、忌々しいとばかりに顔を歪める。

「奴らの恐ろしさ、厄介さ、悪辣さを甘く見ている。あれらには最善を尽くしてもまだ足りん」
「まあ言いたいことは分かるけど……リソースも有限だからね。それを適切に振り分けるのも最善のうちさ」

 かつてのKeterクラスオブジェクト――そのSafeクラスへの変更は、同時に割り当て予算の減額も意味していた。
 思えば、プロトコル施行直後はそれこそ件のキャラクターがサイトを埋め尽くす勢いで増殖していった。ポスター、フィギュア、果ては楽曲からアニメーションまでもが制作され、SCP-835-JPという概念を瞬く間に上書きしていった。
 しかし近年になってその規模は徐々に縮小され、今やその面影をところどころで見かける程度にまでその存在感を減じさせている。

 職員への印象付けは十分に達成したという判断だろう。事実、サイトが美少女キャラクターで埋め尽くされた日の衝撃は忘れたくても忘れられるものじゃない。
 だがそれは、あくまで当時を知る職員に限った話だ。

 職員は日々様々な理由で入れ替わり、新たな人員を加えて組織は代謝する。それは全体で見れば微々たる変化だが、ダムの決壊は蟻の一穴から始まるもの。かつてのプロトコル・アイドルを知らない職員の割合が財団で増す中で、835-JPに向けられる印象は徐々に薄まっていくだろう。

「それを防ぐため、新人職員に対して行われる"消照闇子"の印象付けといったところだろう? いったい何をするつもりだい? やれることがあれば協力するが、あまりに奇天烈なことは御免だよ」

 と、そこまで口にしたところで、よせよせと鬱陶しげに手で払われる。

「確かに面倒な案件ヤマではあるが、これは俺の仕事だ。上手くやるさ。だから今話題に挙げるなら、むしろ新米どもの手引きなどという管轄外の面倒事を押し付けられた阿呆のことだろう」
「…………」

 突如として突き返された悪罵に対し、しかし言い返すことはできなかった。

 ただでさえ激務の中で、大した手当が出るわけでもない新人職員のオリエンテーションという雑務。大勢の面前で講釈することは苦手といっていい自分がそれを任されることになったのは、偏にその性格に目をつけられ、押し付けられた結果だと言われれば反論できない。

 押し黙ることしかできない私を鼻で笑うと、屋敷は一切の遠慮なく私のアームチェアに身を投げ出すようにして腰掛けた。乱暴な着席に背もたれが音をたてて軋む。

「で、これらはその資料と」

 屋敷が目を落としたデスク上には様々な資料が山と積まれていた。

「プリント、冊子に……こちらのディスクは映像資料か。ご苦労なことだ。すべて今日のために?」
「ああ、そうだよ」

 なぜか喜色を滲ませながらディスクを摘まみあげた屋敷の問いから逃れるように、私は顔を伏した。そのどれもが激務の合間を縫って、あるいは貴重な寝食の時間を削って作業に励み、作成したものだ。

「苦手だ忙しいだ面倒だのと、こちらの事情なんか新人たちには関係ない。このオリエンテーションは僕らにとっては面倒な雑務の一つに過ぎないが、彼らにとっては財団での大切な第一歩なんだ。適当に済ませたり、準備を怠ったせいで失敗なんてことは許されない」

 額に当てた手でぐしゃりと前髪を握り潰しながら、こういう性格だから押し付けられてしまったのだろうな、などとぼんやり考える。そんな自身の情けなさに、思わず笑みさえ零れた。

「馬鹿な奴だと、君は笑うだろうけどね」
「別に……そんなことはないさ」

 我ながら自嘲にすぎる呟きに容赦ない追い打ちを覚悟したが、そっけなく返されてきたのは意外な台詞。思わず顔を上げた私の視線から逃れるかのように、屋敷はディスクを弄んだままそこへ視線を落としていた。

「なんだ? 言いたいことがあるなら言ってみろ」
「ああ、いや……」
「ふん」

 呆けたその返答が気に入らなかったのか、屋敷はくるりとアームチェアを回転させた。

 なんだ? 屋敷の振る舞いに驚きを通り越して困惑するが、さらに予想外の事態は連続する。

「せっかくだ、俺がプロトコル・アイドルを実施する中で得た学びを一つ教授してやろう」

 男はその長身を背もたれで隠したまま、私へ言葉をかける。

「何事も、第一印象ファーストコンタクトが重要だ。それこそが人の印象を決定づける。ああ、付け加えるなら、これは俺の持論だがね……人の失態ヘマほど印象深く、広まりやすいものはないんだよ。だから、そうした場に用意周到で臨もうとするおまえは間違ってない」

 ああつまり、何が言いたいかというとだな――彼はそこで言葉尻を浮かして立ち上がる。手にしたディスクを机上に戻して歩み寄ってくると、そのまま呆気にとられる私の背後へするりと回り込んだ。

「堂々としていろ。新入りどもに舐められるな」

 直後、私の背中は彼の平手で強かにはたかれていた。その衝撃に、肺の底で重く澱んでいた空気が口から漏れ、丸まっていた背筋が自然に伸びる。
 僅かによろめいてから振り返ったとき、屋敷は既に出口のドアノブに手をかけていた。

「屋敷」

 咄嗟に私はその背を呼び止めていた。呼びかけに屋敷は動きを止めたが、私も何を言うべきかが分からずしばし沈黙が降りる。

「……何か用があって来たんじゃなかったのかい?」

 口から出たのは本意ではない言葉だったが、その問いに屋敷は背を向けたまま答えた。

「ああ……それならもう済ませたよ」

 最後まで意図の読めない台詞を残し、義足の男はたどたどしい足取りでオフィスから去って行った。

 はたしていったい何だったのか。奇妙、不可思議としか言いようのない同僚の言動にしばしその場で立ち尽くした。

 まさかとは思うが、彼は私を……。

「……行くか」

 背に残る心地よい痺れを背負いながら、私は資料を抱えて新人たちが待つ講堂に向けて出発した。

 心なしか、その足取りは先ほどまでより少しだけ軽く感じられた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 だからこそ――

「すまない。これからガイダンス代わりの短い映像を流すから、質問はそれが終わってからにしてくれないか」

 私は、オリエンテーションが始めるや否や挙手してきた新人職員を毅然と制することができていた。

 新人職員の青年は一蹴されて、わずかに怯み言いよどんだものの、しかし意を決するかのように疑問の言葉を継いでいた。

「いえあの、博士……背中のそれは、いったい何です……?」
「……なに?」

 背中? その指摘の意味を頭で理解するより早く、咄嗟に後ろ手に回した指先にかさりと何かが触れる。何かしらの大判紙と思われるそれをそのまま掴んで引き剥がし、目の間にまで持ってくる。
 それに描かれているものを脳が理解するまで、さらに数秒の時間を要した。

 顔面へみるみる血液が集まるのを感じる。頭がクラクラと揺れ、背筋は急速に冷えていく。だからこそ続く事態にも、私はろくに対処することができなかった。
 ディスクを挿入したことで自動再生された映像が、スクリーン上に軽妙な音楽と共に流れ出す。

『私の名は消照闇子。ある秘密組織……通称"財団"を討つべく育てられた闇に生きる殺し屋よ――』

『人の失態ヘマほど印象深く、広まりやすいものはない』――大写しで流れるそれを茫然と眺めながら、私は屋敷の言葉を思い出していた。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。