初恋の味
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東京都内某所、一見古びた洋風住宅に見えるこの建物がレストラン「弟の食料品」である。せっかく故郷の東京まで足を運んだのだ。有名店の料理は是非ともいただいておきたい。そう思った私は胸を躍らせながら店のドアをあけた。店内は外観からは想像もつかないような豪華絢爛な内装である。これは期待ができそうだ。早速ウェイターに席まで案内してもらいメニューを開く。

「お食事前にグラスのシャンパーニュはいかがでしょう?」

「ベリーニを」

メニューは本日のおすすめコースしかないようだ。なるほど、相当自信があるのだろう。ほどなくして食前酒が運ばれ口をつける。悪くない。食前酒を平らげたころに白いシーツにつつまれた50kgはありそうな塊がワゴンに乗せられ運ばれてくる。なにか催しでも見せてくれるのだろうか。シェフがゆっくりとシーツを取り除く。シーツの下、そこには何かが横たわっていた。いや、しかし見覚えがある気がする。彼女は──

「お気づきですか」

「ええ、私の同級生ですよね。初恋の子だったのでよく覚えていますよ」

そう、初恋だった。当時気弱な少年であった私はなかなか気持ちを伝えられずにいた。高校に上がって漸く告白したのだが、その結果は玉砕であった。その後も諦めきれずに何度かラブレターを出したり、デートに誘ったり、そんな私を彼女は迷惑そうな顔一つせずにきちんと断ってくれていた。その彼女が今目の前で横たわっている。少し年を取っただろうか。白髪が増えている。ほうれい線も目立つようになってきた。それでも彼女であることははっきりと理解できた。以前、同窓会で会ったときはもうすぐ娘が結婚すると言っていた。幸せの絶頂だったのだろう。そんな彼女がここにいるということは。シェフはにっこりと微笑んだ。

「それでは始めさせていただきます」

シェフはまず、邪魔な髪を刈り上げていく。彼女の美しかった髪がはらりはらりと床に落ちていく。あの髪に触れるためにどれほど努力してきただろう。私は複雑な気持ちでそれを凝視していた。

続いてシェフはメスを手にして彼女の胸部に切り口をいれはじめた。切り口に手を突っ込み、肋骨をこじ開け心臓を取り出す。ああ、本当に彼女は死んでしまっているんだな。その時初めて実感した。刺身包丁で取り出した心臓を下ろしていく。見事な手さばきに思わず見とれてしまった。心臓が目の前に出される。生で食べられる機会はなかなかない。それが出されるということは相当鮮度が良いのだろう。私がこの店を予約した後、随分入念に準備していたことが伺える。ショウガを乗せていただく。まずは一口。コリコリとした食感が心地いい。冷蔵庫で一日寝かせたのだろうか。深い味わいが感じられる。ついつい手が進みあっという間に完食してしまった。彼女を動かし、熱を与えていた臓器をいとも簡単に平らげてしまった。あっけないものだな、そう思わずにはいられなかった。

次に出てきたのは胸部であった。胸部といっても乳房ではなく大胸筋の方だ。乳房は柔らかすぎてあまり好みではない。そのあたりもリサーチしていたのだろうか。オイスターソースをつけていただく。歯ごたえはしっかりとしていながら、ほどよい柔らかさがあり非常に美味である。わずかについた脂肪が口の中でとろける。同窓会で見た時よりも筋肉が引き締まっているようだ。石榴にするために適度な運動と健康的な食生活を送っていたことが伺える。まさか生前から手をかけていたとは驚きだ。通常、捕獲され監禁された人間はストレスや罹病により肉質が悪化してしまうのだが、そのようなことは一切なかった。石榴となる直前まで死ぬことなど考えていなかった。まるでそんな深い味わいを感じる。しかし、初恋の人の胸だと思うと些か恥ずかしさも感じてしまうものだ。少々顔が熱い気がするのは気のせいではないだろう。

続いて脳が出てくる。これは私の大好物だ。先ほどから何かを削る音がしていたのは頭蓋骨を開けていたのだろう。トロトロとした食感の脳はライムがかかっており、そのままいただける。口に入れた瞬間、芳醇な味わいと独特の風味が広がる。この脳で彼女は今まで様々なことを考え、感じて、ここまで成長してきたのだ。その中に私との思い出もあるとすればなんとも感慨深いものがある。

最期に出てきたのは彼女の唇だ。一人の人間から二枚しか採れない貴重な部位である。血液をベースとしたソースをつけていただく。プチプチとした食感が楽しめる。まるで初恋の人との口づけだな、口に入れる瞬間そんなことを考えていた。

彼女の唇を噛みしめている間、私の中では言いようのない気持ちが沸き上がっていた。なんと表現すればよいのだろうか。徹夜でラブレターを書いたこと、必死になってデートプランを考えたこと、ふとした瞬間に見た彼女の横顔、告白前日の眠れなかった夜。切ないような不思議な気持ちで私はそれを完食した。

そうか──

これが初恋の味か。

「続いてご自由に部位をご指定いただき調理させていただきます」

シェフはそう言うと微笑んだ。私の初恋はまだまだ終わらなそうだ。

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