最初の一筆
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窓の外には代わり映えの無い灰色の景色がいつものように佇んでいた。

財団という組織で人類のためにと働いてきた。その結果が、これだ。街は灰色に染まり、上層部はこれが正しい姿だと嘯く。欺瞞に満ちた正常はいつの間にか受け入れられ、新たな日常となって続いていく。だが、その中にあっても失った色の復活を望んでいる者も存在する。私もまた、その一人だ。

歩みを止めるつもりは無かった。人がかつてを忘れ、今を受け入れ始めても。立ち向かうのが強大な力を持った相手であろうとも。それほどまでに譲れないものがそこにはあった。動機はどうあれ誰もが同じ気持ちだっただろう。異常を知る者と知らぬ者。両者が目的を前に手を取り合った。異常は裏で、日常は表で。二つの動きが並行し、水面下の更にその下で準備は整いつつあった。

そして今日この日、南太島は、その一部は再び塗り替わる。今度は無機質な灰色ではなく、目にした者を吸い込むような極彩色の色合いへと。それが何を齎すのか、この先何を引き起こすのか、それを私はまだ知らない。だがそれでも、一つ言える事があるとするなら——

「それじゃあ、頼みます」

「はい」

その言葉を最後に閉まったドアを見つめながら、ゆっくりと作り笑いを剥がした。本当は笑っていられるような気分ではなかった。それでも笑みを浮かべたのは余計な緊張を与えないため。一般人たる彼女に重すぎるものを背負わせておいてそれだけの事もしないなど、あまりに不誠実が過ぎる。

南太島を覆う灰色を引っぺがす。そう意気込んだ俺たちの中には一般人も少なくない。戦いの舞台が尋常の理を超えた世界になると分かっていても彼らを遊ばせておくのは惜しかった。だが本当の意味で異常に関わらせれば、彼ら彼女らの身の丈に対して大きすぎる役目を押し付ける事になりかねない。得てして異常と呼ばれるものは普通よりも大きな影響力を持つものだからだ。だが、板挟みの末に俺たちは一般人が異常に触れる事を良しとした。作成補助、道具の使用役、影響力の分析。その役割は少なくとも表面上は上手く回り続けている。今出て行った彼女も出来上がった道具をこれから使う。初めての大規模な作戦の、その一番槍を任されて。一見するといい事だ。皆がそれぞれのやり方で目的に向かって進んでいる。目的へと着実に近付いていく。だが、本当にそれで良かったのか俺は未だに分からない。初めて一般人がコンタクトを取ってきたあの時、活動の参加者が増え、規模が拡大するのを喜ぶばかりではなく、よく考えてはっきりと拒絶しておくべきだったのではないかと、今でもたまに思うのだ。

「朝顔の花が好きなんです」

そう言った彼女の顔を覚えている。どこか寂しげな目をしていた。彼女が好きだったものは何か別のものに変わって、無くなってしまったからだろう。

実際のところ、それが失われて変わった事などさほど多くはなかったはずだ。誰も気に留める事なく、そしてそれを好いていた当の彼女でさえも多少残念がるだけで元の生活に戻っていった。この生の中で大切なものはただ一つだけではないのだから、無くなったものにいつまでも執着している訳にはいかなかった。

彼女は言った。変わってしまった朝顔の色が気に入らなくて日課だったスケッチをやめたと。散歩する道もいつしか変わった。本業により精を出すようになった。こんな言い方が正しいのかは分からないが、言ってしまえばその程度だ。周りも似たようなものだったらしい。絵画やビーズをやっていた人たちの中には活動を辞めてしまった人もいたが、いつの間にかそんな人たちのことも運が悪かったねと流せるようになっていった。コミュニティの輪は僅かに狭まり、けれどそれまでと同じように続いていた。

だから、それまでと同じように日々を過ごして行くことだってきっとできたはずだった。元より異常な世界と関わりがあった異常芸術家たちと違って、彼女は財団に睨まれる事もなく、ただの少し絵が好きな、彫刻が好きな一般市民として生きて行く選択肢があったはずだ。それを半ば捨てさせるようにしてこの戦いに駆り出したのが、果たして正しい事だったのか。

彼女は正しいと言うだろう。この街のために。皆のために。そのためには必要な事だったと。ならば仮にそうだとして、皆のためにと言う彼女に、一時的なものとは言えど人を害する事を求めたのは正しい事だと言えるのだろうか。

分からなかった。分からないまま進むしかなかった。そしてこれからも分からないまま前に進んで、そうするしかなかったと言うのだろう。

胸に棘が刺さったような気持ちを抱えながら俺はキャンバスを横目で睨んだ。複数のポイントが記されたこの街の地図を。何を思えど、もう後戻りなどできはしない。なぜなら——

どうしようもなく平穏な、何事も無い日曜日だった。そんな静かな一日を自分が壊してしまう、なんて想像は誰もが一度はしたことだろう。だが、それが本当になるなどとは誰も思いはしなかった。それはそうだ。あまりにも非現実的すぎ、そして破滅的すぎる。その後の人生を棒に振る覚悟を持たなければどんな意味でも平穏を破ることは難しい。

ならば今、自分にはその覚悟ができているだろうか?私はポケットの小瓶を弄びながら心の中で自問した。街を歩く人々、店先に野菜が並ぶ個人商店、マネキンの並ぶショーケース。誰もが、一瞬の後に全てが崩れ落ちてしまうなどとは想像だにしていない。その日常を自分の手で非日常に叩き落とす覚悟が、その責任の一端を負う覚悟が、自分にはできているのだろうか?

分からなかった。正しいと信じた事のために集い、正しいと信じた事のために行動してきた。けれど事ここに至って、今更ながらにその正しさの下にある事にぐらつくものを感じていた。最後には皆のためになるからと言って、人を害する事を私は正しいと言えるのだろうか。

時が過ぎる。そのうちに、疑問は尽きず、けれど決して事の本質に辿り着くことは無い事に気づいた。自問だけを繰り返すうちに冷めてきた頭が揺らがぬ物事の根幹を認識したのだ。誰のためでもなく、ただ自分自身のために。あるいは同じ願いを抱く同志のために。始まりはほんのそれだけだった。ならば、それで良いではないか。全て正しくある必要は無い。最初から目的と道があるだけだ。では、自らのためにと言うのなら、それを為すための動機とは、自分の抱く願いとは何か。

小瓶を取り出し、地面に落とす。小瓶に亀裂が走り、中の極彩色が蠢いた。転がった小瓶を踏みつけて空を仰ぐ。どこまでも深い青空を小鳥の群れが飛んで行く。ああ、と小さく声が漏れた。

「あの朝顔をもう一度見たい」

ガラスが砕ける小さな音が日曜日の商店街に吸い込まれていく。一瞬遅れて極彩色が顔を出した。猛烈な勢いで周囲の景色を覆い隠し、赤青黄色が、それらの複雑な重なり合いが街の中に満ちていく。空を隠し、人を隠し、灰色を塗り潰しながら広がっていく。

確かな達成感に笑みを浮かべて、薄れ行く意識の中で私は思った。きっと私の願いは叶う。だって——



南太島西区 極彩色に

もやの出現した西区中央部は現在立ち入り禁止となっているが、この区域においては脱色事件以来南太島を覆っていた灰色ではなく、極彩色に覆われているように見える。また、立ち入り禁止区域以外においても線状に灰色でない色が発生している場所があり、警察と財団はこれについてもやから現れた実体が通過した跡ではないかという見方を示している。



——全ては、ここから始まるのだ。

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