未練未酌爺
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アルコールの匂いがそばえるように漂う街。街には雪がずっと降っていて、ここの住民はべろんべろんになって寝るためか、悪酔いを少し治すためか、その程度のことがなければ外に出ることはあまりしない。街角の公園がせっかくあるのに、酔い覚まし以外に使われることはない。住民たちは忘れるために酔って、忘れきったら今度は酔うために酔うのだ。自分の明日の健康を気にして散歩する人などそもやそもいるはずもないのだ。しかしながら、今日はいつもと違うようだ。

公園の真ん中にある中くらいの池のほとり、ガス灯からの橙色に背を向ける。釣り人は口にアルコールの匂いを漂わせ、寝惚け眼で池を見ていた。

「これは驚きましたなあ。こんな街のこんな池でも釣りができるなんて、いや、釣りをする人がいるなんて」

ん、と振り返ると、丸メガネの男がいた。丸メガネに古臭いスーツ、飄々とした見た目の男だ。細い鼈甲べっこうの縁が妙にレトロである。丁寧な語り口だが、どこかに慇懃無礼さも見える。

「お爺さん、肩に雪が積もっていますよ。私が払ってあげましょう」

ありがとうと答えた。慇懃無礼は見た目だけのようだ。

「でも、こんな酒か水かもわからないような池に魚がいますかねえ」

揺らめく水面に目を凝らすが、魚影は見当たらない。鉛の錘と雪の粒が作る穏やかな波紋だけが浮かんでいる。事実、何時間も糸を垂らしているがモツ一匹釣れない。竹の釣竿にもうっすら雪が残る程だ。

「だがなあ、若いの。そんなことを気にしてちゃあ釣りなんぞできませんよ。……別にいいじゃあないですか。釣りっていうのは気長に待って、うたたねしたり、景色を眺めたりしながら楽しむもんですよ。……それにね、この街みたいに、儂は釣り以外のことをなんも覚えとらんです。全部忘れちまったんです」

説教を垂れるわけじゃないが、薄い記憶に残された思いの丈を吐いた。この釣り人は実は忘れきっていない。目を閉じ、この街に来る前のことを微かに思い出したら、少し開ける。忘れかけると、また閉じて思い出す。繰り返しながら釣り人はゆっくり答えた。男はそれが瞬きであることにしばらく気づけなかった。

「ふむ、どうやら酔っていらっしゃるようですな。……そうだな、足を滑らして池に落ちたりしたらいけない。酔いの醒めるまで、しばらく私が付き添ってあげましょう」

「ありがとうな。お前さんみたいな孫でもいれば、よかったんだがなあ」

釣り人は池を見続けていた。











丸メガネの男は考えた。この釣り人はボケているし、酒もすでにたくさん飲んでいる。街中に酒も飲まずずっと釣りをしている男がいると聞いたから来てみたが、この様子じゃあ案内はできなさそうだ。しかしこのまま諦めて帰ってしまえば、案内人としての矜持が廃る。このお爺さんはきっと本意から忘れて、忘れられたのではないのだろう。なぜならこの街に来てもこうして釣りを続けているからだ、……つまり忘れるという救いからまだ抗っているからだ。釣りという行為がここに来る前のお爺さんにとって重要なものであることは間違いないだろう。男はこのお爺さんに街から出るか出ないかの選択肢を与えたいと思い、隣で見守ることにした。











しばらく、釣り人と丸メガネの男は小さなカウチを並べてぼうっとしていた。何時間か経って、錘が矢庭に落ちた。すべすべした竹の感触が釣り人のグレイの手袋越しに伝わる。ぐぐっと親指の腹が押される感覚がした。おや、池の底にでもひっかけたかな。釣り人はそう思い半目の瞼ををもう少し開き立ち上がる。

「おや! 何かかかっております。早く引き揚げましょう」

男も気付き、釣り人に呼び掛けた。感触をみるに池の底ではないようだ。だが、なかなか重い。釣り人は衰えた80代の細腕しか持ち合わせていない。このままでは釣るよりも力が尽きるのが先になるだろう。

「私が力を貸しましょう。この池に何がいるのか、私も興味深い」

男はホワイトの手袋をはめて釣り人の斜め後ろから釣り竿を握る。力を込め一気に引っ張る。簡素な竿がしなり、ざぶん、と大きな音を立てて獲物は池から飛び出る。釣り人は両手で釣果を抱きかかえる。瞼はすっかり開ききっていた。丸メガネの男はずり落ちたメガネを直し、凝視した。

「これは……? 」

釣り人は公園のレンガの上にゆっくりと置かれた死体を見た。若い女性の死体だ。釣られる前に池にそんなものがなかったことは分かっている。つまりこの死体は急に現れたのだ。

「……そうじゃ、思い出した。これは……」

また会いたいの、釣り人のその言葉を丸メガネの男は聞き逃した。釣り人はふっと消えていなくなってしまった。仕方ないので男はじいっと、釣り人が釣ったそれを見続けた。よく見ると釣り人の顔ととても似ている。もし孫といわれれば信じるくらいの顔だった。男は驚いたが、すぐに安心して微笑んだ。

男は分かっている。思い出して、会いたいと思って、ふっと消える、それが示す意味を。酩酊街には普通の人だけではなく時たま変わった人も来るのだ。変わっているがゆえに疎外され、孤立するから。しかしこの釣り人の場合はそれがいいようにはたらいたのかもしれない。男は考えをまとめると、街はずれへと歩き出した。

この街は忘れたもの、忘れるものが集う場所。思い出せば、酔いが醒めれば、愛をこめて、送り出す。孫が思い出したのか、お爺さんが思い出したのか、男は知る由もない。

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