錆びた記念硬貨
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中学生の頃、祖父から1枚の記念硬貨を貰った。私が生まれた年だか翌年だかに開催された、アジア冬季競技大会記念の1000円銀貨だ。表面にスキーとスケートの選手が彫られた意匠の、少し黒ずんだ銀貨。

それを貰ったのは、確か親に連れられて母方の実家に行った時だった。祖父がふと、思い出したかのようにタンスの棚から剥き身の銀貨を取り出して私に寄こしたのだ。私は「要らないよ」と一度突っぱねたけれど、「数十年もすれば価値が上がるから持っときなさい」と無理矢理押し付けられたのを覚えている。後になって考えれば、自分の死期を悟っていたであろう祖父なりに私に関する思い出の品を託したかったんだろうなと思っている。

祖父が死んだのは、ちょうどその2年後だった。老衰で、家族に看取られながら病院のベッドで眠るように死んだ。医者の言うことを信じるなら、きっと一番苦しくない方法で逝ったのだと思う。

そうして手元に残った、1枚の銀貨。祖父は「いずれ売れば金になるから」と言っていたけれど、どうしてもこれを売る自分の姿が想像できなくて、貰ったあの日のままに、ケースにも入れないままで机の上で弄んでいた。
 

そのコインのある性質に気付いたのは、高校2年の冬。

きっかけは、当時ハマっていたギャンブル漫画だった。主人公の行く末を左右するコイントスのシーンの構図がやけに印象的で、触発されて机の上の記念硬貨を試しに投げてみたのが始まりだったと思う。表裏に特別な意味は持たせなかったけれど、漫画では表面が主人公の快進撃の象徴として扱われていたから、「表が出たらほんの少し嬉しい」くらいの気持ちでコイントスを練習した。

記念硬貨はそれなりに重く大きいので、綺麗に弾くのは少し難しかった。最初のうちは垂直方向に飛ばすことすらままならない。それでも、何度か弾いているうちに徐々に一連の動作が安定するようになり、やがて直径が大きい分だけ安定するようになっていった。そうして、コインの裏表にまで意識を向けられるようになって、ふと違和感に気付いた。

何回投げても、判を押したように表を上にして着地する。手の甲から零れ落ちたときも、例外なく表が出る。どちらの面を上において、どれくらいの力でコインを弾いても、手に落ちるときには必ず表面が上だった。マジック用のコインというわけでもなければ特段重心が偏っているわけでもない至って普通の銀貨が、なぜそんな奇妙な振る舞いをするのかについてはどうしても納得のいく説明を付けることができなかった。

ただ、「必ず表が出るコイン」というほんの少しの不可思議は、当時の私を魅了するには充分だった。

これを使ったマジックがないかとか考えてみたり、「コイントスで裏が出たらゲームをやめる」なんていう茶番みたいなルールを自分に課して寝落ちするまでゲームをしてみたり。

今までとは明確に違う形でその記念硬貨を意識した瞬間だった。
 

それから、しばらくして。
いつしかコイントスは、自室での意思決定前に必ず行うルーティーンになっていた。

例えば、降水確率30%の日に傘を持っていくべきか、とか。
例えば、寝る前に1袋だけポテチを食べてしまおうか、とか。
例えば、第一志望の大学を変えるべきか、とか。

日常のふとした葛藤から人生の重大な岐路まで、その全ての選択を表しか出ないコインに容認してもらった。こんなこと、自分でも馬鹿らしいとは感じていたけれど、実際にこのルーティーンを始めてからは心に余裕のある生活を送れていた。もしかしたら、「お前の選択は正しいんだ、自信を持て」と後押しするように必ず表を出すコインに、子供の頃の私を無条件に肯定してくれていた祖父を重ねて、幾分かの勇気と自己肯定感を受け取っていたのかもしれない。あの漫画のワンシーンと同じように、私の生活の中でもコインの表面は好調の象徴だった。

順風満帆とまでは行かないまでも、そこそこに好調で安定した生活。

そんな生活は、確か半年間くらい続いたと思う。
 

大きな転機になったのは、6月の朝。起きた時に何となく気怠いような感覚があって、学校に行くのが億劫になってしまったから、今までのように怠惰を肯定してもらおうとコインを爪弾いた時。いつも通りの軌道でくるくると宙を舞ったコインは、初めて林檎の面を上にして着地した。

数秒硬直して、遅れて現実に気付く。数百回、下手したら千回以上連続で表を出し続けたコインが、裏を出した。
高々コインで裏が出たというだけ出来事に酷く動揺しながら、慌てて何度もコインを投げる。表、表、表、また表。ついさっきの裏が嘘のように表が出続けた。それでもまだ必死にコインを投げ続けようとして、自室の外から聞こえた母の急かす声で現実に引き戻される。

当初の計画通り学校を休むかどうか一瞬考えて、「一応コイントスに従うと決めたのだから」と慌てて家を出て。ずっと裏面が頭から離れないまま一日を過ごした。

それ以来、コインはたまに裏を出すようになった。

次に裏が出たのは1か月後で、その次はその2週間後。一ヶ月に数回はやがて一週間に数回になり、直ぐに一日に数回になった。頭にちらついた「この調子で裏が増えていってしまったら」という不安はすぐに現実になり、表の頻度を裏の頻度が上回るようになって、そこからコインが表を一切出さなくなるまでに一週間もかからなかった。

そして、裏の頻度に比例するように、私の精神状態も段々と悪化していった。

最初のうちこそ、何とかして表を出そうと試行錯誤を重ねた。例えば、初めに爪の上に乗せるコインの向きを逆にしてみたり、投げる手を逆にしてみたり、祖父の遺影に一礼してから投げるようにしてみたり。なんで表が出続けたのかもなんで急に裏が出るようになったのかもわからなかったから、思いつくありとあらゆることを試しながらコインを投げ続けた。

そんな中でも、コインは徐々に、徐々に確率を高めながら裏を出し続けて。
表裏の内訳で裏が大半を占めるころには、精神が摩耗しきっていた。

ここ最近、不幸が降りかかり続けているような気がしてならない。どれだけ些細な不幸に対しても、コインで裏を出してしまったからという思考が脳裏をよぎって仕方ない。これから先、もう一生このコインが表を見せることはなくて、今後は一生何もうまくいかない人生を歩んでいくような気すらした。

常識的に考えてコインの裏表と日常の不幸に関連性はないと自分に言い聞かせるには、今まさに目の前にある記念硬貨は非常識的な挙動をしていた。最終的に、「適当にコインを投げ続けたから祖父が激怒したのだ」だとか、「もう一生分の幸運を使い果たしたから、後は不幸しか残っていないんだ」だとか、とにかく非論理的でネガティブな結論しか考えられなかった。
 

そこからの数か月間、私は沈みこむような生活をした。
ルーティーンに従ってコインを投げては裏を出し、それに絶望しながら1日を送る。

そんな日課の中でもコイントスを辞めなかった理由は、単なる惰性だったのか、「コイントスをやめたらいよいよ本格的な不幸が起きるかもしれない」と厄災を恐れたからなのか、あるいは、どこかでまた表が出るのを期待していたのか。きっと単一の理由ではなかったから、自分でも何のためにコインを投げているのか分からないまま。

私はコインを投げるのをやめなかった。
 

2回目の転機になったのは、11月の夕方。

この日は朝、「雨が降るかもしれないから雨傘を持っていくべきか」にコインが裏を返答していた。その結果を「雨は降らない」と解釈して、それでも念のため保険で持っていって。結局、その傘は夕立に伴う強風で破損して、ずぶ濡れで帰宅した。そして、不注意で開けっ放しにした窓から好き勝手に雨風が吹き荒れる中。

風に煽られて書類ごと床に落ちたコインは、表を上にして着地していた。

またあの時と同じように少し硬直した後、恐る恐る床から摘まんで持ち上げる。確かに表面が上に来ている。数秒のうちは信じられなかったし、受け入れ難いという気持ちすらあった。多分、表が出る瞬間というのはもっと劇的に訪れるものだと思っていたのだと思う。漠然と、何か特別な儀式をしてその赦しを貰わない限りは一生表が出ることはないのだと。そういった固定観念がガラガラと崩れ去って、代わりに一つの可能性に思い至った。

もしや、と思って何度もコインを投げる。数回、数十回と裏が出るのも厭わず、ただひたすら投げ続けた。そして、試行し始めてから数時間後、コインはもう一度表面を上にして着地した。その日から数週間、暇な時間さえあればコインを投げ続ける日々を送っているうちに、あれだけ見られなかった表面が次々に出始めて、ようやくそこで仕組みに思い至った。

ああ、そうか。このコインの表面が出る出ないには投げ方も普段の行いもおじいちゃんの意志も関係ないんだと。ただ、表が出やすい期間と裏が出やすい期間が、システマチックに切り替わり続けているだけなんだと。結局、どんな構造がそんな仕組みを可能にしているのかは分からないままだったけれど、そう解釈した瞬間にすとんと納得がいったのは確かだった。

そんな単純なことにも気付かずにずっと空回り続けていた自分をふと振り返ると、それがあまりにも滑稽だったから。深夜のテンションのまま、思い切り笑った。「そういえば、こんなに笑うのも久しぶりだな」なんて頭の片隅で考えたりして、そんな冷静さすら面白くて笑って。

コインの魅了が解けたのは、間違いなくこの日だった。


そして、今。

社会人になり、実家からアパートの一室に居を移してからも、変わらず机上には剥き身の記念硬貨がある。散々私の生活を振り回してきた記念硬貨が、今もなお手元に残っている。その理由が何なのかは判然としないままだけど。

それでも、これは決して後ろ向きな理由ではないだろう。

表裏が切り替わる周期は以前よりも短くなり、確率は徐々に均一に近くなっている。もしかしたら、コインに宿った不可思議な力のようなものが弱まりつつあるのかもしれない。以前のように長期間表が出続けるというようなこともなくなり、自分でも今どちらが出やすい状態にあるのかはあまりよくわからなくなってしまった。あの時みたいな「コイントスで裏が出たらゲームをやめる」なんていう茶番はもうできない。

もう、普通のコインを投げるのと何も変わらない。でも、それでいい。

今日もまた、爪に弾かれたコインが、いつも通りの回転で宙を舞う。表が出たという結果に全てを委ねることも、裏が出たという結果に悲観することもない。

ただ、表が出たらほんの少し嬉しい。これだけでいい。

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