そもそも人は獣である
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男にはそもそも執着というものが存在しなかった。彼にとっては万物は無味乾燥であり、それ故に怠惰であったと言える。
小学校、中学校を無為に過ごした男にとって、高校での生活にあまり期待はなかった。執着がないために当然ではあるのだが。それでも男にとっては無気力こそ慣れ親しんだ感覚であった。

だが、平穏が崩れ去るのはいつも突然である。


「隼人!」

朗らかでよく通る声が後ろの席から聞こえてくる。いい加減やかましいが、振り向いて望みのものを差し出す。

「ノートだろ。」

「そう!見せてくれない? 」

懇願するような表情と、短く切り揃えた黒髪、申し訳なさそうに手を合わせる、いつもの姿が目に飛び込んでくる。

「いい加減シングルタスクを治したらどうだ?」

「治らないものんは治らないでしょ! あとはヴェール史と英語と…」

「わかった、全部だな。」

「ありがと!」

彼女は咲田 蓮である。席が近いことや毎年同じクラスになることで、彼とは半ば腐れ縁になっている仲だ。彼女のことを葦 隼人はあまり快く思ってない。
頭がさほど良いわけではないが、とにかく明るく常に笑顔である。それが彼女の持ち合わせの感性であるのか、知性や経験の欠如によるものなのかを隼人は知り得ない。とにかく、常に彼の隣には小動物のように騒がしい彼女がいた。


咲田 蓮が学校を休んだ事実は隼人にとって晴天の霹靂であった。それは単に彼女が床に伏す姿が想像できなかったためである。冬も本格化する2月初旬。隼人は、彼女が休んでいる理由がただの風邪であると高を括っていた。
彼があまり心配でなかったもう1つの理由として、彼らは進学校に所属しており、高校3年冬の授業が半ば自習と化していた為でもある。彼女にノートを見せる理由も無くなっていたのだ。

彼が不安に呑まれるのは彼女が休んでから2日後である。”奇蹄病”なる病気がテレビで報道され始めたことがきっかけであった。

ヴェールが破られたことでも彼は何も感じなかった。実際ヴェールが剥がれようがどうしようが、生活は変わらず過ぎ去って行った。大人たちの奔走も、当時小学生の隼人には関係なかった上に、ヴェール崩壊にすら彼は執着しなかったのだ。

そんな自分が不安になっている。彼は慄いた。
自分が変わろうとしていることが怖かったし、何より咲田 蓮の安否が心配だった。感情はぐしゃぐしゃになり居ても立っても居られない。彼は月初めに配られる”学校便り”を右手に、自転車をかっ飛ばして彼女の居住を訪れた。

冷たい雪の降る日である。


隼人は滲んで判別の付かなくなった学校便りを握りしめ、古臭いアパートの1室の前に立つ。彼女の明るさとアパートの物悲しさのギャップに彼はたじろぐが、意を決してインターホンを押す。

ジリリリリというインターホンの機械音は、何故か彼の心をさらに掻き乱す。扉の先に気配を感じる。彼は衝動的に声を張り上げていた。

「おい! 居るんだろ! 咲田!」

返答はない。深呼吸をしてもう一度話しかける。

「咲田、学校便りを届けにきた。大丈夫か。」

「…うん、私は大丈夫。」

弱々しくも、どこか強さを感じる彼女の声に隼人は安心する。

「なあ、風邪に効くらしいから、みかん買ってきたんだ。」

「ありがとね。扉の前に置いといてくれる?」

「ああ…。」

彼は彼女の拒絶を肌で感じとっていた。

「い、いや。手渡ししたい。」

彼の心臓は高鳴っている。

「じゃあさ。驚かないよね、隼人。」

彼はその真意を計りかねた。もしくは目を背けた。

「もちろんだよ。」

「わかった。」

呟くように彼女は答え、チェーンが外れる音がする。鍵が開く音がする。
扉が開き、彼は思わず顔をしかめる。

しばらくの無言が続く。

咲田 蓮の耳は腐っていた。黒く変色して壊死していた。それだけならまだ良かった。彼女の頭頂部には兎の耳が生えていた。彼は目を疑った。
彼女は寝巻きであり、ひどく汗をかいていた。髪は額に張り付き、肌は蒸気して紅く染まっている。ある種の妖艶な雰囲気と身体の異変はひどく不釣り合いであり、歪であり、それを形容する手段を彼は持ち合わせていなかった。

彼女の頬を涙が伝い、男は彼女の瞳を見る。
瞳孔は異様に大きく、そして赤く変色していた。

男は1歩後退り、その手に持ったオレンジ入りのビニール袋を取り落とす。彼が転がるオレンジに気を取られた瞬間、その扉は硬く閉ざされてしまった。


2009年2月9日。空には満月が浮かんでいた。

葦 隼人は自問自答を行なっていた。夕方の出来事について深く考え、そして自分のことを正当化しようと躍起になっていた。

人は畢竟ただの生物であり、その性には逆らうことができない。その生物種は進化の過程で社会を形成し、内部に存在する異物を排除することで生存・発展を続けてきたのだ。自分はその性に囚われてしまっただけで、なんら悪いことはしていないと。

ある程度考えをまとめた彼は布団に包まり、何も考えないようにしていた。しかし頭の中には彼女との思い出がぐるぐると渦巻いていた。
彼女と1年の春に隣の席になったこと。毎度毎度1日の終わりにノートを見せていたこと。昼休みにたわいない会話を続けたこと。試験前にはいつも勉強を教えていたこと。彼女が学校を休んで不安になったこと。彼女の身体。

今思い返せば彼女のことが好きだったのかもしれない。彼女のことを思うと、それを上回る不快感を自分に与えてきた”人の性”というものが気持ち悪く思えてくる。そして恋愛感情の根底にある性欲こそ”人の性”であることに至り、さらに気持ち悪くなった。

彼は本当に考えることをやめた。


そして、月に兎は跳ねたのである。


気がつくと朝であり、スマホのアラーム音で目が覚めた。
学校に行く気力も起きない。

スマホの画面に目をやれば、咲田 蓮から通知が来ている。

無気力のまま通知をタップする。

通話アプリが開き、そこに添付された動画が再生された。


彼女が画面に映っている。頬には涙の跡が残っており、目の縁は腫れぼったくなっている。男は罪悪感に苛まれながらも、画面から目を離すことができなかった。

満月を背に座る彼女はいつもの笑顔を浮かべていた。

「やあ隼人! 今日はありがとね。」

「最後にどうしても言いたいことがあって、この動画を撮ってます。」

「あの後色々思い出したんだ、とっても楽しかった時間…隼人と一緒にいた時間をね。」

「本当に楽しかったんだよ?」

「伝えたいことの1つはそれ。」

はにかみながら彼女が言う。いつも通りの声色ではあったが、隼人はその内に彼女の強さを感じ取ることができなかった。

「あとね、隼人の買ってきてくれたオレンジ美味しかったよ。」

「甘くて酸っぱくて、でもやっぱり甘さの方がずっと強かったんだ。」

彼の目から涙が溢れるが、動画は止まってくれない。

「最後に一番大事なこと。」

「私、あなたのことが好きだった。隼人がどうなのかは分からないけど、これが本当の気持ち。」

「こんな私でごめんね。」

「本当に、ありがとね。」

彼女は震えた声でそう言い残し、動画は終わった。


男は部屋を飛び出した。彼女に会うために。
それはただ純粋な執着であった。

彼女の住むアパートはすでに封鎖されていた。

眼前は青いヴェールで塞がれている。
男は呆然と立ち尽くし、膝から崩れ落ちた。

今まさに目の前には正常と異常の断絶が現れていた。男はこの異常な社会を呪い、人の性を呪い、最後に己を呪った。

正常か異常かは実際には何も意味もない。人が獣であるならば、この話はただ単に、獣が獣を模した形を得ただけのことである。

ただやはり”人の性”が断絶を生むのならば。
全くもって、救いのない話である。

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