歌を忘れたかなりやは

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とん、たん、とん、狭い階段を少女は駆けあがる。大正31年の黄昏時、踊り場のランタンが帝都郊外の下宿屋の階段を照らし出す。そんな時間である。少女は奥から二番目の扉の前に立つ。

「先生!せんせェい!」

木製の扉はその金属質の拳により、軽快で高い音を鳴らした。扉の向こうから流れるピアノの音は止み、床がきしむ音がだんだんと近づく。
がちゃん、鍵の開く音が鳴って、外開きの扉が開いた。顔をのぞかせるのは、少しくたびれた40代半ばの男だ。かつて黒々としていた髪も、今では灰がかっている。表情は気だるげなものから、しつこい営業を見るかのようなそれに変化した。

「……郵便はいつからこんなに迷惑な少女を雇うようになったんだ」

「今したためるための文具と紙があれば、ラブレタァの一つくらいはお届けできるでしょう。ですが、あいにく私はこの通り手ぶらです。きっと帰ったらクビを言い渡されるでしょうね」

「当たり前だ、無理やり押しかけてくるような奴が仕事など」

冗句には冗句で返す、少なくとも外聞のいい淑女の下で育ったお嬢ちゃんの特徴だ。男は大きくため息をつき、「入れ」と少女を招き入れた。

貧相な割には広く、がらんどうとしている居間である。右奥の隅には、ちんまりとしていてもグランドピアノと遜色ない音色を出せる鍵盤楽器が鎮座しており、中央には一人用の低い机。左の辺いっぱいに本棚が並び、本棚はその全ての段がパズルのように余すことなく敷き詰められ、その足元には本が少し積もっている。布団は鍵盤楽器のそばに常に敷かれていて、しわくちゃになっていた。少女は、その光景に少し優越感を感じつつ、机に向かって座る。男はその「もてなされて当然」のようにふるまう少女に釈然としないながらも、少女に向かい合う形で胡坐をかいた。

「いつもいつも親切ですね」

「いたいけな少女を夜空の下に放り出す趣味はない。それだけの話だ」

「この街に住んでいるのに聖人気取りですか?」

「聖人気取りを続けていたら、いつかは羅馬の教皇直々に指名されるかもしれないだろう?」

「先生は仏教徒でしょう?」

「なら悟りを得られるかもしれないな」

「いたいけな少女を持ち帰るなどした殿方が悟りを!?地獄に叩き落とされますよ!?」

「おう随分な物言いだな、今日はこれから晩飯の支度をするところなんだが……」

「あら、食人趣味にしても奇特な方ですね。このような瘦せ身を食べてしまうとは、お菓子の魔女よりも賢いのか浅ましいのかわかりません」

「賢いんだろ、即座に食べてしまえば燃やされることはないからな」

言葉遊びも終えて、男は簡素な夕飯を用意する。

「食うか?」

「いえ、私はもう食べてきましたので」

少女と男は、もう半年の仲である。男が初めて出会ったときの少女は、全てに絶望した表情で路傍に座り、夜が来るのを待っていた。そんな人間は郊外には不似合いで、何より死に場所の為だけに近所が利用されるのが、男にとっては許しがたかった。だから下宿しているこの家に連れ込んで、夜は暇だから鍵盤楽器を弾いて、少女を早朝に放り出した。すると、その日の黄昏に少女は男の部屋に押しかけてきた。

曰く、「ピアノをもう一度弾けるようになりたい」

それから、毎日黄昏から早朝までを共にするようになった。最初は鍵盤を二本以上の指で叩くことも叶わなかったが、今ではようやっと両手での演奏に挑戦しているところだ。
夕飯を食べ終えるまで、少女は鍵盤楽器に手をかける。所々ズレたメロディで演奏するのは「かなりや」。20年前に発表された、子供向けの歌である。歌詞の内容は「歌を忘れたかなりやの処遇を決める」というものだ。野暮ったい男の夕食にはとことん合わない歌である。

「……調子は?」

男は訊くと、少女は静かにかぶりを振った。

「以前よりは動かせるようにはなりました。ですがこんな簡単な曲でも弾くのは難儀しますね……もどかしいです。自分の腕なのに、ずっと操り人形を動かしているみたいで」

少女は袖をまくり、金属光沢が鈍く輝く義腕を見せた。

「先生も、そのような感覚はありませんでしたか?」

「覚えてないな。15年前のことなんざ」

思うような答えが得られない少女は膨れた。

「帝都から直接お呼びがかかる唯一の義躯奏者に訊いた私がバカでしたね。『腕を義躯に換えたピアニストは、二度と上手く弾けることはない』、今もそう言われています。けれども先生は違います。きっと生身だったころと遜色ない音色を奏でられる。そのような腕前をお持ちなのにどうして帝都に行かないのか不思議でなりません。いっそ帝都に来てくれれば、私も日が暮れるまでにこんな場所まで駆け込むこともないのに」

「お前の都合と俺の気分だけでここを離れるには、理由が弱すぎる。何回も言っているが、俺はロクデナシだからここに住んでいるんだ。俺が帝都の人間なら、すぐさま親の元に届けただろうよ」

男がそう言えば、少女は「だったら私もここに住んで良いですか?現在私は家出中のロクデナシなので」と言う。

「勘弁してくれ。お前を養うには色々足りねえ」

「ふふ、わかってますよ」

日が完全に暮れて、帝都の眼が潰れるほどの光から逃げきてきた闇が流れ込んでは、部屋の灯りに撃退される。戦況は光の圧倒的な優勢で、街灯の光も窓の外から挟み撃ちしている。
外には走る人影、揺らめく人影、求める人影、それぞれがそれぞれの足音を立てて誰もかれもが悪を成す。人を殴る音がする。人が解体される音がする。死体から売れそうな義駆を漁る音がする。夜になると、誰もかれもが悪人になる。

「ここは、ロクデナシしかいない場所」

確かに、その言葉は事実だろう。夜になれば悲鳴や怒号が、おぞましい音が辺りにこだまする。ロクデナシがロクデナシに危害を加えている。しかし、不幸ばかりが渦巻くかといわれればそうではない。いくら恐怖や危険におぼれても、明日路傍に打ち捨てられても、人ではない何かに加工されても、そこで汚い日々を過ごす方が幸せだと言える人がいるのだ。或いは、ありもしない幸せを夢見るときが幸せと感じる人がいるのだ。故に、「ロクデナシしかいない場所」とは厳密には誤りである。「ロクデナシのための場所」が正解だ。

「ちょっと代われ」

夕飯を食べ終えた男は少女に代わって鍵盤楽器を弾き始めた。静かで、ささやかな幸せを謳うような音色だが、明らかに暴力的な和音が共存していた。日本最高峰の音楽が、他でもないこの夜で、少女の耳に独占される。聞いたことのない旋律、おそらくは彼の即興の音楽であろう。白いワイシャツから除く掠れた金属の皮は、少なからず少女の心に爪を立てた。

「何と題されますか?」

「……近所の夜」

「それはちょっとロマンがありませんね、今どきロマンが無い名前は受けません。そうですね……夢みたいに不思議な音色だったので、悪夢とかでどうでしょう?」

「悪夢はもう少しうるさい。やはり夜だからこの音なんだ。しかし、同じ夜でも帝都の夜は騒がしくて平和な、こことは対極の音だ。なら、近所の夜と題するのが適当だろう」

「……帝都郊外の夜では駄目なんですか?」

夜風は血の臭いを運び、二人の義躯から漂う金属の香りと結びつく。男は顔をしかめて席を立ち、窓を閉めてカアテンを閉じた。

「それは語感が悪い」

「……ずるいですね」

「何もずるくない」

空いた席に無言で座った少女は再び「かなりや」を弾き始めた。今度は音階こそ大方合っているものの、調子は少し狂っている。

「半年、毎日毎度飽きないな……いつまで続けるつもりだ」

「そりゃあ、私が弾けるようになるまでですよ」

「その義躯でか?」

「ええ。この義躯で」

「なぜそこまで執着する?まだお前は子供だ、いくらでも他に道はあるだろ」

音が止んだ。

「事故で腕から先を義躯に換えてから、友達はすぐに離れていきました。私じゃなくて音楽を見ていたと気づいて、学校に行くのは億劫になりました。それを拗らせて死にたくなって、郊外に来たあの日以降、親からは『軟弱者』と言われ見放されました」

「じゃあ、親は今何してんだ?」

「今は弟の教育に手一杯なようです。私の代わりは既にいくらでもいたのですよ。歌い方を忘れたカナリヤには美しいものを見せるまでもなく、捨てるか埋めるか、慰み者としてぶつのです」

「悲観でしかないが、まあ、否定はしない。帝都は生き物のようで、全ての存在に代替品があるから」

「でも先生には未だに代わりがいないんですよ。……先生は私と同じ義躯の腕なのに、まるで神様のように上手な音楽を奏でます。それが希望なのです。私、これでも天才と呼ばれていたんですよ?同じ天才である以上、私もそこに至れるはず。私は先生の代替になれます。きっと代替品になります。そうなりたいです。それが未練がましくも、女々しくも、音楽に執着する理由です」

男は深いため息を吐いた。夜のような重苦しさに耐えられなかったように、夜空の闇を吐くように。

「あぁ、そうだな。なれるかもな。俺とは違って本物の天才なんだから」

「その卑下は煽りですよ?なるほどロクデナシなのは事実のようですね。聖人になるのは諦めてください」

「敬ってんだか馬鹿にしてんだか、反撃の火力が一々高いな……」

ある天才科学者曰く、「天才とは、99%の努力と1%の才能で構成されている」、男はそれを想起した。男はそれに否定的な立場だったが、総量を示さない割合で語るという底意地の悪さには感心していた。彼女の場合、才能が余りにも大きいものだから、必要とされる努力の量も膨大になってしまう。しかし、それを達成したならば、確実に男の代わりになりうるのは目に見えていた。

再開された「かなりや」は少しずつ模範に近づくが、未だ模範には程遠い。

「そして、私は来年で15です。子ども扱いはダメですよ」

「15?まだ子供だろ」

「『赤とんぼ』では15で姉やが嫁に行きましたが」

「あれは例外だろ」

「お嫁に行ける年齢は子供ではなくレディです」

「ダメだな、レディとしての威厳が無い」

「まぁ!辛辣ですね」

一通り弾き終えて、男に改善個所を求め、もう一回「かなりや」を弾く。この繰り返しで、夜が更けていった。


日の出近い早朝に、少女は外を見る。夜の阿鼻叫喚はとっくに消えて、何事もなかったかのように人々の暮らしが始まろうという静寂ばかりである。

「では、ありがとうございました。今日も立ち寄るのでよろしくお願いします」

「俺は今から億劫になってきたな」

そのような軽いやり取りをして、少女の姿は消えた。その数分後、男の部屋の扉が叩かれた。忘れものだろう、そう思って扉を開けた先、目の前に現れたのは、軍服の女だった。

「……郵便はいつからこんな物騒な制服を採用したんだ」

「ここに紙とペンがあれば、何か書をしたため投函することもできましょう。ですが、あいにくそのようなものは持ち合わせておりません。我々は蒐集総院神格部門。宮内省に呼ばれる唯一の義躯の奏者、あなたを蒐集します」

蒐集総院、それは全く聞いたことのない組織だ。しかし、格式の高さはなんとなくわかる。歴史の授業で習う「神祇官」の類だろう。そして心当たりもある。

「……義躯の奏者で、宮内省に呼ばれたのは俺しかいないからな。気になっていたんだ、『義躯に換えたピアニストは、二度と上手く弾けることはない』、その例外がここにいる理由を」

男は少女とは違った境遇の人間だ。事故によって義躯に換えて、それで苦労したことが本当にない。むしろ、換える前はピアノを除いたあらゆる楽器が下手だったのだ。音楽学校では補欠合格、落第ぎりぎりの毎日だった。ピアノだけは2番手で、それも一向に上達しない日々だったが、義躯ひとつで劇的に変わった。あらゆる楽器で上位の成績に入り、特にピアノは同期と隔絶した実力を授かった。遅咲きの天才とも呼ばれるようにもなった。今では定期的に帝都へ出向いて演奏するまでなっている。ここまで来たのは義躯のおかげであって、人を見る目や世渡り術以外は自分で培ったわけではないのだ。自分と少女のまるで正反対の境遇に、ここ半年間疑問を持たない日はなかった。

今日という日に、ようやく答えに辿り着いた気がする。

「俺がここで拒否したら?」

「あなたの性質上、蒐集については生死を問いません。ですが大人しく蒐集されてほしいですね。あなたは代わりのいない、天道元帥の欠片に選ばれた聖人ですので」

俺は仏教徒なんだが、そう男は頭をかいて、両手をあげた。

「……わかったわかった。降参だ。少し時間をくれ、置手紙のひとつくらい置かねえと、アイツが不安になっちまう」


とん、たん、とん、狭い階段を少女は駆けあがる。黄昏時、踊り場のランタンが下宿屋の階段を照らし出す。そんな時間である。少女は奥から二番目の扉の前に立つ。

「先生!せんせェい!」

木製の扉はその金属質の拳により、軽快で高い音を鳴らした。返事もなければピアノの音も聞こえない。扉の取っ手に手をかけた。金属の手から、無機質な手触りが伝わる。力を入れるまでもなく、すぅ、と扉は外に開いた。

先生は留守であった。

貧相な割には広く、がらんどうとしている居間である。右奥の隅には、ちんまりとしていてもグランドピアノと遜色ない音色を出せる鍵盤楽器が鎮座しており、中央には一人用の低い机。左の辺いっぱいに本棚が並び、本棚はその全ての段がパズルのように余すことなく敷き詰められ、その足元には本が少し積もっている。布団は鍵盤楽器のそばに常に敷かれていて、しわくちゃになっていた。

机には、紙の山と、その上に一枚の紙片が置いてあった。紙片には、「15ニナツテ、マダ俺ノ代ハリニナリタイナドト抜カスナラ、マヅハ俺ノ代ハリニコノ部屋ヲ使フコト。向カフ10年ハ生キテイケルダケノ金ガアル。ロクデナシニ憧レルオ前ニピツタリダ」とあった。紙の山の正体は大量の楽譜であった。簡易なものから、複雑怪奇なものまで。そして、一番底の楽譜は最も新しく、まだ書きたてのインクの臭いがした。

その題名は、「近所の夜」と銘打たれていた。

「本当にずるい人ですね」と、少女はひとりごちた。そして、昨日と同じ「かなりや」を弾いた。何度も、何度も。歌い方を忘れたかなりやで、少女は歌い方を思い出す。さようなら、私にとっての銀の櫂、象牙の船、月夜の海のロクデナシ。阿鼻叫喚の悲鳴と怒号に、拙い音色が良く響く。夜はまだ訪れたばかりだ。


それからも変わらず音色は郊外をこだました。しばらくは夜限定の音色だったが、いつしか四六時中、気がつけば流れているものになった。
眠気の重い春の深夜、じっとりして蝉のうるさい夏の黄昏、あらゆる生き物が忙しない秋の白昼、頬のかじかみがとれない冬の早朝……郊外の人間は口々に噂する。「妖怪が力をつけるために弾いているのだ」「いやいや老人が狂気に支配されたのだ」「華族の美女が目当ての男を射止めるためにお忍びで練習しているとの噂も……」「軍服が来たその夕べから流れ出したんだ、きっとあれは怨霊の類だ!」などなど……実に800もの憶測が郊外を満たしていたが、共通の認識は確かにあった。

それは、「日に日に確かに上手くなっている」こと。

加速度的に上達するピアノの音色は、いつしか郊外の風物詩になっていた。夜はロクデナシ共が出張ってさまざまな地獄が披露される点は変わらないが、音色が流れている時は、誰しもが少しでも長く聴こうと必死に生き抜くようになった。

そして、そんな変化が定着して10年目となる大正41年、音色はその頻度を年に2回にまで落とした。夏の一日と、冬の一日である。これには皆首を傾げたものだ。しかし、たかだか音色のためだけに、彼らは毎日を生きているわけではない。不思議な10年間だったなあと、皆口々に言い合って、いつしか忘れた。そして、音色は夏と冬の郊外の新しい風物詩となって、改めて定着した。

さて、そんな大正41年の冬、或るラヂオのニュース番組では、このような報道があった。

今日ハ御婦人方ヤ義躯ノ奏者ニトツテ、大変ニ喜バシイ日ニナルデセウ。宮内省ハ、天皇陛下直属ノ奏者採用ニ於イテ、初メテ女性奏者ガ採用サレタコトヲ発表シマシタ。呪イノ不良品ト名高キ初期型ノ義躯デ腕ヲ換装シテアルニモカカハラズ、天性ノ才能ト純然タル努力ノ末、倍率420倍トイフ厳シイ競争ニ勝利シタノデス。マタ、初期型ノ義躯ノ腕ヲ持チツツモ直属ノ奏者ニナツタノハ、24年ブリ2人目デアリマス。レディハ当番組ノインタビウニ於ヒテ、「ロクデナシガコノラヂオヲ聴クコトガアレバ、冬ノ音色ガ流レル日、ツマリ明日、黄昏マデニ下宿屋マデ来ナサイ。」トノコト。コレハ私ノオ節介デスガ、ロクデナシノ何某ハ、行ッテアゲタホウガ良イデセウ。

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