本記事SCP-1831は、2018年9月26日に
Westrin氏によって投稿された記事の日本語訳である。原題は"I Feel Homesick For A Place I'm Not Even Sure Exists"で、本稿ではこれを「存在するかも分からない場所をホームシックに思う」として訳した。ここに「訳者解説」として記述するものは、翻訳に際して気付いた点や、本文中には書くことのできなかった情報等である。また、内容についての指摘を含むため、読了後に読まれたい。
なお、本記事はサンドボックスⅢで数週間に渡る査読を受けたが、誤訳や、日本語だけでは意味の取りづらい箇所があるかもしれない。そのような場合、適宜修正をしたいと考えているので、細かな点は直接修正を頂きたいし、文脈判断等の大規模な修正が必要と思われる場合には該当箇所を本ページに書き込んで頂きたい。
原文では、各実験記録はタイプライター調のフォントが用いられている。しかしながら、日本語で同様のフォントを用いた場合、極めて視認性が悪くなるため、ここでは採用しなかった。整合性の問題があると思われる場合には本ページにその旨書き込んでもらいたい。
この記事は、見たものに存在しない記憶を与える写真、及び当該写真を用いた実験について記述されたものである。記憶に影響を与えるSCP自体はそこまで珍しいものではないが、この記事の優れている点は、何と言っても被験者D-3731を用いた実験である。この記事の著述スタイルは非常にシンプルで、特別収容プロトコル、説明、補遺の他には、D-3731がSCP-1831を見て語った内容の記録が書かれているのみである。記録はやや分量があるものの、人間の語り言葉の筆記録なので簡単に読むことが可能であるが、読み進めていくとともに変化していく記憶と、徐々に発現していく「存在しない」記憶の異常性が読者の注意を惹く。
実験1では、至って普通の記憶が語られる。「普通の暮らしをしていた」と強調する場面は、いわゆる「ゴミ屋敷」のような家の裏庭を念頭に置いたものだろうが、この後に語られる、ある種の狂気に満ちた記憶の伏線となっている。しかしこの時点ではD-3731は明らかにその先の記憶は得ていないのであって、「普通」の相対性が暗示されている。その後に語られる内容は、時に常軌を逸していて、いわば「悪夢」のようなものである。実験3や実験4などでは勝手にテーブルが壊れたり、記憶が無い内にBB銃で母親を撃ったり、本人でも理解できないことが起こったという記憶を得る。ここから、「普通」だったはずの生活が崩れ落ちていく。その崩壊をありありと、しかしゆっくりと感じとることができよう。
ここで、「兄」の存在について考察してみたい。実験2では、D-3731と「兄」は普通の兄弟として描かれている。実験3〜6では「兄」はメインとしては登場せず、D-3731に発生した異常が中心に語られている。しかしながら、ここではD-3731の「普通の」生活が壊れていく様が描かれており、実験7から露呈し始める兄の異常さにスムースに接続する役割を果たしている。実験7では、葉の山に引っ掛かり出られなくなった母を側に立つだけで動けるようにした、一種の超能力のようなことを行なっている。そして実験9で「兄」の存在はD-3731の記憶から消滅する。この過程で、兄は「表情」を失っている。ここで注目するべきは、「兄」はフェードアウトのように徐々に存在を消したわけではなく、むしろその存在感を強めていく中で、急に存在を消したという点である。結局「兄」がどのような存在だったのか、私たちには明らかに提示されていない。しかし存在感が増していた「兄」を突然、存在しないものにしたことで読者は一種の驚きと、恐怖を体感する。それは、私たち記憶が真のものであるかが括弧に入れられたことによる恐怖である。私たちが一見自明に考えていた過去の記憶は、本当に起こったことだったのだろうか?例えば、あなたの記憶にある「元カノ」は本当に存在していた人物なのだろうか?気付かないうちにこのSCPのような物体を見て、存在しない記憶を得ているだけではないだろうか?本記事の筆者は、私たちに記憶の不確実さと、「いまここ」のかけがえの無さを訴えかけているのである。
ところで、SCP-1831の裏に書かれている、"The Prison ♥. -Big Brother"とはどのような意味だろうか。直訳すればもちろん「監獄 ♥ -兄」だが、ここでの"Prison"はニュアンスとしては"an unpleasant place or situation which it is difficult to escape from"(ロングマン英英辞典)が近いと思われる。写真に映っている家が監獄と考えることもできよう。しかし、この家で起こる様々な異常現象こそが「逃れることのできない不快な場所」であるとも考えられる。そしてそれを書いているのが他ならぬ「兄」であること、我々に多くの含みを残した一文である。
最後に、原文を参照した上で気づいた点を述べる。翻訳でどこまで伝えることができたか不明であるが、D-3731の言葉遣いは、綺麗とは言い難い。また、文中にアメリカ英語と認められる箇所があり、恐らくアメリカを舞台と想定して書かれていると思われる。本記事を読む際には、アメリカの風土と雰囲気、そしていわゆる"Broken English"を念頭に置くと、より一層本記事が趣深いものになるであろうと思われる。
本翻訳にあたって、
ccle氏には、前回のSCP-2052の翻訳に引き続き査読を行っていただいた。同氏の英語に対する深い知見と見識は私の浅学を補ってくれた。ccle氏の協力なしに本記事は十分な翻訳記事とはならなかっただろう。この場を借りて深い感謝を申し上げる。
原作 http://scp-wiki.wikidot.com/scp-1831