祈りというのは本質的に祈る主体本人のための行為であるという点については個人的に好きな主題であり、面白いと感じました。
ですが、せっかく1998年カノンであるならば"神の不在"という文脈に対してもっと深いアプローチができたのではないかと思い、物足りない印象を受けました。勝手に過剰な期待をしているだけでもありますが……。しかしそれでもわざわざカノンを採用するのであれば、そのカノン特有の世界観("世界に対する捉え方"を意味するほうの用法です)に沿った何かがほしいなと私は思います。特にこの作品は主題が芸術なので……
また、これは構成的な部分への言及となるのですけども、"神の不在"と"妹の不在"は文脈として相似の意味関係にあると思うのですが、"神の不在"が掘り下げられていないせいで"妹の不在"が印象として浅くなってしまっている可能性がある気がします。
"信仰は内省を通して自己を再確認する機能を担う"というのが帝華の結論ですが、その結論への導線が引けていないのもあるかもしれません。結局お前なんでその考え方に至ったのん?というのが読者に伝わっていない、ないし共感を得られていないのかなあ、と……。
[以下ちょっと考えて思いついたので追記したものです。読み間違えていたらすみません]
"信仰それそのものが大事なもの/アイデンティティである→たとえ対象が存在せずとも信仰心を発揮し祈る(自己と対話する)ことでそれを取り戻せる"という構図なのかと思いましたが、祈る対象と大事なものはそれぞれ別っぽいのがそのあたりの錯綜の原因かもしれません。いっそそこを一緒にしてしまうと妹の不在もうまく拾えるかもしれないなぁと思いました。
眠れていないままで書き込んでいるのでしっちゃかめっちゃかでしたらすみません。以上参考になれば幸いです!