山井田研究員の事件メモ ~反ミームの中に一人~
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近年問題になっているのは孤独死である。家族に看取られぬまま、あるいはその家族すら存在しない人間が死に直面した場合、自室は棺桶に変貌し先ほどまで息をしていたそれは分解される蛋白質その他の塊と化す。この研究室はそんな孤独死の可能性がもっとも高い場所として財団整備部にマークされている一つ。タバコのヤニで黄色く汚れた天井に無節操に積み上げられた資料。掘り起こせば昇天し損ねたラットのミイラでも掘り起こされかねないその部屋の中心部には一脚のオフィスチェア。これだけは異質ともいえるほど清潔に保たれ、むしろ逆に死の臭いを感じさせる。
そんなチェアにもたれ掛かりアヘン窟の中毒患者のような顔で眠りこけるザトウムシの様な手足の男。どす黒いクマが歌舞伎の隈取のように染みついており、対照的に蒼白い肌は不健康な生活をいやがおうに想起させる。半目になったその眼球は朱く充血し、乱杭歯の隙間から漏れ出るいびきは不協和音のアンサンブル。長く伸びた髪は手入れもされないまま周囲のカオスと混ざり合い、むしろ奇妙な調和すら見せている。十中八九知人にしようと思わない風体。残りの二割は知人であることを忘却している。

だがどんな場所にも訪れる物好きはいる。歩幅の小さい音が研究室の外から聞こえてくる。それを聞くや否や、チェスの上の死体は覚醒し、髪を整え、歯を磨きながら消臭剤を振り撒き、白衣を着替え、眼鏡の指紋をふき取る。そのうえで周囲に積み重なった書類の地層をブルドーザーがごとくディメンションポケットにでも放り込んだのかという鮮やかさで部屋の中から消し去った。最後にポットに湯を沸かし、茶葉と茶菓子を用意して、ノックに対し応える。

「空いてますよ」
「失礼します、初めまして、山井田研究員はいらっしゃいますか?」
「こんにちは、角宇野さん。重ねて言いますと初めましてではなく、今回で97回目です。顔見知りと呼ぶには躊躇われる仲でしょう」

先ほどまでの醜態が無かったような朗らさで笑うのは山井田健彦。この研究室の主にして秘密組織である財団職員。複数の学問分野を横断的に活用し、高い適応力・習得力・応用力を持つマルチリサーチャーとして遊撃的な立ち回りをこなして見せる若きホープ。その一方で人格及び人相に問題のある"財団の問題児"が一人である。山井田が小柄な訪問者にティーカップを差し出した。

「どうぞ、今日はミントティーです」
「ありがとうございます」

礼を言い受け取るのは角宇野一四。財団内で発生する膨大な記録を処理、収集、分類する特殊役職である記録官の1人。その特性上、記憶処理の対象になりやすいため、常にメモを持ち歩き、過去の自分と対比させる数奇な役割を与えられている。彼女らもまた、"礎の一人"であることに山井田含め多くの職員は疑問を挟むことはない。そんな角宇野は受け取ったカップに口を付けず、手の中で弄んでいる。

「どうかしました? まさか、何か変なものでも入ってましたか? そんな古い葉じゃないはずなんですけど」
「ああ、いえ、そうじゃなく。実は今回は私以外にお客さんを連れてきてまして」
「お客さん? どこに」

山井田が言い終わるや否や、ジャーン、ジャーンと銅鑼の音が響き、入口にその男が姿を表した。

「ここにいるぞ」
「……それは確か馬岱の台詞では? 三国技師」
「おや、御存知でしたか。重畳重畳」

鶴氅をまとい、手に小さめの銅鑼を持ちながら穏やかな笑みを浮かべるどこかで見たような軍師風の男、三国軍師技師。収容計画を立案する収容スペシャリストの一人であり、収容施設、装置を担当する保守班主要技師の一人。三国志好きが高じて普段からコスプレのような恰好を好む財団奇人の一角。

「ちょっと待ってください、一応、椅子を出しますので。ああ、角宇野さんは座ったままでいいですよ」
「お構いなく」
「そういうわけにもいきませんよ、ところで三国技師がなんでこんな場末の研究室なんかに? 何度かお会いしたことはありますけど」

役職から分かる通り、現場の作戦立案、実務を担当する側の人間であり本来ならこういった研究者側には滅多に姿を見せないはずの人間である。

「君子は言に訥にして、行いに敏ならんことを欲すといいます、それにならい簡潔に言いましょう」

三国がつるりと顎を撫で、不敵に笑う。

「雪山の密室を解明してもらいたいのです、山井田研究員」


「貴方が以前エージェント飯塚の事件の解決に寄与したことを耳に挟みましてね、ならば某が抱えている案件にもなにか助言をいただけないかと、角宇野記録官を通じ参上した次第」
「……別に俺が解決したというわけじゃないんですが」
「す、すいません。私がメモに書いてたことをそのまま言っちゃって……」
「ああ、いえいえいえ、角宇野さんはまったく、まったく、悪くありませんよ? ただまあ、そんな大層な奴じゃないですし、そもそも何故俺に?」
「御謙遜を、顰みに倣って卑下する必要はありませんよ。とりあえず話だけでも聞いてごらんなさいな」

問いをはぐらかされたことで、これ以上聞いても無駄だと山井田は口を噤む。せめてもの抵抗に黙ったままカップの中身を飲み干した。ミントティーの匂いが部屋に広がったのを見計らい、三国は扇で口元を隠しながら事件のあらましを説明する。

「インシデントが起こったのはこの二月です。山井田研究員、SCP-2616-JPを御存知ですか?」
「赤石山脈に存在する山小屋でしたね、周囲に降雪があり、観察されていない状態で山小屋内部の燃料が尽きたとき補充されるっていう」
「やはり優秀ですね。その通りです、実は今回そのSCP-2616-JPに対し監視実験が行われる運びとなりました」
「……? あれはたしか有用な異常性の阻害可能性があるとかで停止されてたと記憶してますけど」
「ええ、そうですね。しかし、平成26年豪雪の際遭難した一般人の証言に不審な点があり、短期間の監視実験が行われる運びとなったのですよ」

短期間の特別実験、脅威度が低く財団にとって優先順位が低いオブジェクトに対してはまま行われる方法だ。

「そしてその監視実験の際、同時進行でもう一つ実験が行われましてね。某がかかわっていたのはこちらの方なんですが」
「へえ、三国技師が関わるってことは、そちらの方が重要視されていたということですね?」
「御明察です。詳しい話はクリアランスに引っ掛かるのですが、端的に言ってしまうと反ミーム塗装の実用実験ですな」
「反ミーム塗装、聞いたことはありますね。確かセーフティハウスなんかに特殊な塗装を施し、簡易かつ安価に隠密性を確保しようとかいう話だったと記憶しています。ですが記憶している限りでは、一般的な光学迷彩と有意な差異が認められず、中止になったような気がしますが」

山井田の問いに三国が目を光らせ、喉の奥でクックと笑う。

「よくご存じですね、某が記憶している限り保守部門の内部誌や内部リリースでしか出されていないはずですが」
「読んでますからね、俺の職域上何処へ動かされるか分からないもんで」
「いやはやまったく、竜とはこのようなものでしょうかね。はい、詳しいことは話せませんが、中止になったこれまでは視覚をメインとした技術でした。故に光学迷彩との有意差がなく実用には至りませんでした。しかし、今回はこれまでと異なり、視覚のみならず五感全てに対し作用するものを、という注文に応えたものです」
「ということは見ても、触っても分からないということでしょうか、それは凄いですね」
「ええ、角宇野さんの言った形で理解としては不足なし。塗料の配合パターンなどで再現しようという試みでいくつかは実用段階に入っています。今回はそれの極限状態における実験でしてね。SCP-2616-JPを監視できる範囲に山荘を建て、塗装を施したうえでそこからの監視実験をおこなうことになったのです」

一瞬これは聞いてもいい話なのかと眉を顰める山井田だが、角宇野がメモを走らせつつ三国の動きに質問を続けていく。

「ここまでの話を聞いた感じ、その実験で何かが起こったんですよね?」
「御明察、これも端的に言いましょう。参加したエージェント二人のうち一人が実験中に死亡しました。死因は凍死、反ミーム塗装を施された山荘の中で一人凍り付いて」

思わずといったように角宇野がペンを止める。その様子に何か重たいものが喉の方で生まれるような感覚を覚えつつ、山井田は三国を促した。

「どういった状況だったんですか?」
「参加していたのはA.三波と同じくA.土方。実験内容は単純なものです。片方がSCP-2616-JPに留まり、もう片方が認識できない山荘の中から監視を行うというものでした。現地に到着した両エージェントは一旦山荘に向かい、そこで撮影機材などを整え、A.土方の方が午後5時付近にSCP-2616-JPへ移動しました」

三国の言葉を遮り、角宇野が手を挙げる。

「質問ですが、見ることも触ることもできないんですよね? ならば参加した皆さんはどうやって認識したのでしょうか? 何らかのポイントがあり、近くまで行けるとしても」
「いい質問ですね。今回は塗料のパターンによるものだとお伝えしました。その為、その塗料のパターンに対応するキネトグリフ的ミームを摂取することで認識が可能になるのです」
「角宇野さんに被せる形ですがキネトグリフということは、動作によるパターンですね? それはどのタイミングで? 加えるならばそれを行わなければ認識はできないという解釈でいいでしょうか?」
「今回は試験運用ですので機密を守るためにもポイント到着が確認できた段階で音声により通達を行いました。その音声ガイドに従い特定の行動を取ることで認識したということです。認識の可否に関しては仰る通り特定の行動を取らない限り認識は不可能です。認識できるのは個人差もありますが1時間程度、もっとも、内部に入ってしまえば問題はありません」

成程、とペンを走らせる角宇野。山井田は神経質そうに指を絡め、目をぐるぐるとあちこちへ向けている。

「話を戻しますね。翌朝実験終了時間の8時を過ぎ、A.土方が山荘へ帰投したところ、山荘の2階部分で凍死しているA.三波を発見。サイトに連絡が入りインシデントが発覚したというのが概要です。監視実験もこのインシデントの影響を受け、保留となったようですね。証言では異常性は発生しなかったそうですが。両エージェントの情報及び事件の概要はそちらの端末に送信しました」

端末を開き、添付された資料を開くとA.三波の死体を確認する。目を閉じた三波の肌は蒼白いものの、今にも目を覚ましそうなほど自然に見えた。状況は三国の言う通りで薄手の絨毯に全身を包んでいる。しばらく確認したが違和感はなく、次に両方の容姿、経歴を確認する。死亡した三波の方は40代の男性、多くの収容事案にかかわった経験を持ち、複数のオブジェクト収容に貢献。エージェント業務以外にも複数の有用資格を持っておりベテランと呼ばれても頷ける経歴の持ち主。一方の土方は30代の女性であり三波ほどではないが十分な経験を積んだ歴戦のエージェントと言えるだろう。両者に強い人間関係は確認されていない。三国の許可を取り、角宇野へ情報を転送する。

「角宇野さん、どうでしょう、メモに記録されてますか?」
「私がメインに働いているサイトではあまり活動されてないようですね……、もう少しメモを探ってみます。それと、情報をホワイトボードにまとめておきますね」
「ありがとうございます」

角宇野へ礼を返しながら確かに、と山井田は頷く。人付き合いが得意ではない山井田だが、これくらいの経験を持つエージェントたちであれば、同じサイト勤務なら一回くらいは遭遇したこともあるだろし、顔は覚えていないにしろ名前くらいは聞こえてくるだろう。それが記憶にないということは完全に活動サイトが異なる。となれば、今回は角宇野のメモから人格に迫る手段は難しいか、と頭を掻いた。

「状況だけ聞くと、事故の可能性も有り得るって感じですが、どうなんですか?」
「後で報告書もお送りしますが、簡潔に話していきましょう。まずは発生現場の状況から。現場はSCP-2616-JPから約500m程離れた崖に面した地点。二階建てで崖に背を向ける形で扉があり、対面にベランダがあります。煙突付き、窓は網ガラスを二重にして防寒対策を行っています。寒冷地のログハウスのようなものを想像していただければ結構かと」
「なんでそんな複雑なものを?」
「実験自体が複雑であることを求めたからです。簡易な形状、塗装が乗りやすい建物ではなく、凹凸があったり塗装の乗りにくい素材などをあえて利用したうえで、反ミーム塗装が起動するかの実験でもあったのですよ。建物といったものは常に同じ材料、形状の建物を現地で用意することは困難です。そのうえで零下の状況においても対応できる、そういったリクエストに応えた結果ですね」
「三国さんも大変ですね、そういえば確認してませんでしたがその反ミーム塗装の結果はどうだったのでしょう?」

角宇野の質問に三国は笑みを深くする。それ以上語ることはないが、表情だけで十分に成功したのだろうと推測でき、角宇野も理解したのか頷いてそれ以上話を広げようとはしなかった。

「話を戻しましょう。A.三波が死亡していたのはここの2階。見分調書を見るに、備えられていた絨毯にくるまるような形で死亡していました。装備は必要最低限のもので当時の現場付近は零下10℃を下回っていたそうですから、それだけではとても暖を取るような状況では無かったでしょうね。その一方で室内には十分に暖を取れる装備があり、同様に山荘内の暖房機能も壊れていなかったことが確認されています。そこから不慮の事故ではないと判断されました」
「なるほど、では何故殺人にこだわるのかを伺いたいですね。自殺じゃないと考えるならかなり難しい話ですよね? なんたって歴戦のエージェント、例え軽い装備で雪山に放り出されたとしても、何かしらの方法で屋内へ避難することが可能のはずです。反ミーム塗装が施されていたにしろ、SCP-2616-JPが近くにあるわけですし。……その時猛吹雪があったとか?」
「いえ、それはありません。インシデント当時周囲は晴天で降雪は発生していませんでした。実験開始以前に積もっていた雪があったため、移動の痕跡は残ります。そこに山荘へ入って以降のA.三波の足跡等は確認されていません。つまりA.三波は山荘から出ていないことになります。同様にA.土方の足跡等も移動後は確認されていません。その為、先ほども言った通り、反ミームの密室の中でA.三波は凍り付いたことになります」

山井田は腕を組む。角宇野がメモ帳やエディタを確認しながら、ホワイトボードに情報を整理する音だけが静かに流れている。

「実験の都合上外部に監視カメラは設置しなかったようですが、内部は何かしら撮影されていないんですか? 基本的に財団の実験施設は浴室等のプライベートな部分を除き常時撮影されているはずです。山荘の内部も撮影されているのでは?」
「そんなものはない。……というわけではなく、確かに山荘内には監視カメラが設置されていました。しかし、それは壊れていました」
「壊れていた? 故障ということですか? 確かに実験ではままあることですけど……」
「仰る通り。しかし、後に詳しい調査を行ったところ、カメラの故障は自然な損傷に見せかけた人為的なものでした。非常に巧妙なものだったそうです」

山井田の眉が動く。ホワイトボードにカメラの故障が書き込まれた。

「それは確かに不自然ですね。それがA.土方によるものであれば疑う理由はできる」
「ええ、某もそうであってくれればと思いました。しかし残念ですが、それは不可能です。調査を担当した部署に話を聞いたところ、この方法には高度な電子工学の知識が必要との事。A.土方はそういった資格を取得しておらず、逆にそういった技能を有しこれが可能なのは」
「……なるほど、死亡したA.三波の方だというわけですか」
「そういうことになります。そしてこれは後続調査で判明したことですが、A.三波の関与した実験で過去にも同様の機器の破損が発生していました。これまではこういった死者の出る案件ではなかったことと、破壊される可能性のあるオブジェクトが関連していたため、自然破損とされていたようですが、今回の事案を見るにA.三波が行っていたとみて間違いないでしょう」

手元の端末を確認し、山井田はため息を吐いた。確かに、A.三波の所持している資格にはそれに対応できそうなものが散見される。ガシガシと指を動かしながら、山井田はボードを見つめ声にならない思考を呟きだした。

「……状況的に不自然ではありますが、自殺の可能性が高い、ですが疑問点としてはそれならば何故絨毯にくるまっていたのか? 本能的に寒さから逃れようとして? しかし凍死なんて手段を選ぶならそれなりの覚悟があって然るべきだ。勿論それは否定できませんが。……カミソリで切るならば。三国さん、A.三波は何か睡眠薬などを飲んではいなかったんですか? 凍死という死に方はかなり辛い。眠っている間に、という考えは自然だと思いますが」
「ええ、先ほどお送りした人事データに解剖の結果も添付しています。睡眠薬は確認できませんでしたが胃の内容物及び血中成分から記憶処理薬が検出されました」

データに目を通すと、確かに薬物の名前が記載されている。山井田は角宇野へ目をやった。職務上記憶処理薬にかかわりの深い彼女なら、どういった薬品かデータベースを探るまでもなく応えられる。

「このタイプなら軽度の記憶処理薬ですね。主に液体で支給されています。効果としても単純で摂取した前後2~3時間の記憶をすべて失うといったものです。使用申請も容易なので現場での緊急事態や突発的な事態での使用率が高く、主にエージェントの方による使用が多いものです。加えて、睡眠薬としても使用することが可能で、即効性が高く、一部精神疾患の治療薬として用いられることもあります」
「ありがとうございます、角宇野さん。記憶処理の対象時間を見るに、これを使用すれば何の装備も持たないA.三波が反ミームの認識をするのは困難ですね。三国さん、これの使用申請は?」
「この報告は私にもショックだったのですが、A.三波によるものでした」
「……A.三波が自分で用意した、ということですね? 実験に必要なものだったのですか?」
「いえ、最後にはこちらで高度記憶処理、先ほどのキネトに関する記憶だけを処理する計画を立てていました」

意図的に撮影機材を破壊し、自ら記憶処理薬の利用申請を出している。申請システムは原則生体認証であり、他人が介在する余地は少ない。人事データを見るにA.三波とA.土方は私的な付き合いは殆どないと言ってもよかった。とすれば、三国の態度に山井田は違和感を覚える。頑として否定しているわけではないが、三国のニュアンスには自殺を確定するには歯に物の挟まった言い方を繰り返す。そもそも、自殺だと断定したのであれば、山井田などの一研究員に相談しに来る必要はない。

「……三国技師、そろそろハッキリさせましょう。あなたは何故A.三波の自殺を疑っているんですか? 今更疑ってないとは言わないで欲しいんですが」

山井田の指摘に三国はゆっくりと頷いた。

「そうですね。……正直なところ、相談しようと思いつつ、これを相談すれば取り返しのないことになるのでは、と思っていたのです。……A.土方のことはよく知っていましてね、万が一にでも彼女が、と思うと。……しかし泣いて馬謖を切りましょう。お話します。私が疑った理由はA.三波が死亡時に持っていたあるものについてなのです」
「あるもの?」
「はい、彼は聖書を握りしめていました。調査した部署はそこまで重要視してはいないようでしたが……」

聖書、言わずと知れた聖典。南極点観測の帰路死亡したロバート・スコットはその手にブラウニングの詩集を握っていたな、と山井田は思い出した。

「A.三波は何らかの信教を持っていたのですか?
「いえ、A.三波が特定宗教の信者であることは確認されていません。むしろそういったものを軽視する傾向があったようです。実際、その聖書も山荘に備え付けられていたものですしね。……お分かりと思いますが、これが自殺という線を疑った理由です。それに関して素養のないものが、何故それを握り締めていたのか? 特に宗教に対する敬意の薄いA.三波が」
「私も疑問に思います、信教というのは個人のアイデンティティの中でも高い比重を持ちます。もちろん、緊急事態に際して信教に目覚めたという可能性も否定はできませんが……」

角宇野の言葉に山井田はA.三波の人事評価を再度確認し、首を振った。こういったタイプはそういった信教に目覚めるなら最期まで足掻いて進み続ける、エージェント気質の人間。角宇野の語尾が曖昧になったのも、それを察したからだろう。しかし、それならば何故聖書を持っていたのか。山井田の頭の中のカミソリはまだ複数の可能性を選んでいる段階で止まっていた。

「本を燃やし、暖を取ろうとしていたのでは?」
「それならば自殺という可能性はなおのこと除外されてしまうんじゃないでしょうか?」
「……確かに、角宇野さんの言う通りです。この聖書がかなり強いノイズであることは確かですね。……三国技師、A.土方の方は」
「彼女にも同様に特定の信仰は無いようですね」

ふむ、と長い手足を絡めて椅子に深く腰掛ける。角宇野がてきぱきと整理するホワイトボードや端末へ交互に目をやり、そこで一瞬よぎった何かに目を奪われた。

「……三国技師、この事件概要に添付されている聖書の写真は当時発見されたもので間違いないのですね?」
「ええ、そうです」
「では、この跡も最初から?」

山井田が指した画像には発見された聖書の写真。指差す先を角宇野が拡大すると、そこには「#」マークのような跡がうっすらと映っている。

「ほう、よく見つけられましたね、この薄さであれば書き込まれたものではなく、何か細いもので押し付けて残ったような跡ですね。ペンでメモ帳に書き込んだとき、次のページに残っているような」
「ということはこれ、殺人事件であればダイイングメッセージでしょうか? 別のページに書き込んだ跡が残ったとかよくありますけど」
「いえ、角宇野さん、その仮説は成り立ちませんね。他のページが破られた形跡はありませんでしたし、その可能性は無いと某は考えます。しかし、これは何を意味しているのでしょうね? 音楽記号であればシャープ、SNSのハッシュタグ、漢字の井、あとは〇×ゲームの格子? ……何とでも取れますが、そもそもこれはどうやって付けられた跡でしょうか?」

三国の疑問に山井田は呻き声に近い形容しがたい声で同意を表明した。

「うっすらとした跡ですが、その線は直線に近く、何か定規のようなものを当てて付けられたように見えますね。……極限下でそれをしていたなら確かにダイイングメッセージですが、それならばもう少し分かりやすく書くでしょう。……偶然付いたと考えることもできますし、……いや」

しばらく考え込んだ後、考えてもしょうがないというように山井田は長い手を振り、再度ホワイトボードを穴の空かんばかりに見つめる。その様子に三国も息を吐き、研究室内は静寂に包まれた。


「……あっ」

その静寂を破ったのは角宇野。手に持った何枚かの角宇野メモを広げ、ホワイトボードに張り付ける。そのメモに山井田と三国の視線が向けられた。

「……数年前に起こった職員の自死に関するメモですか? ……まだ若い女性職員ですね、名前はA.岩鷺、自室にて縊死。これがどうかされたのですか?」
「他のサイトの話を書き込んでいただけのようなんですけど、ここを見てください」

角宇野の指さす先に三国は目を向け、その目を丸めた。

「げえっ! A.土方!」
「はい、A.土方は死亡したA.岩鷺の友人として書かれています。ただ関連した名前を見つけたというだけなんですけど……」

その横で端末を操作していた山井田がオフィスチェアにどっかりと座り込み、指と目線は縦横無尽に動き回らせ始める。指は端末に次から次へと情報を打ち込み、目は角宇野と三国、そしてボードに書き込まれた情報へぐるりぐるりと回されていく。癲癇患者の痙攣にも似たその一連の動作。ビデオの早回しのような速度で山井田は思考を言葉へ変えていく。

「……状況として自殺ですが、それは何故そうなったのか? 最初から自殺しようとしていたのか? 反ミームの中でどのようにして死んだのか? だとすれば聖書の意味とは? ……いえ、もしかして聖書ではなく、今俺が見るべきなのは、……あのマークは、シャープ、ハッシュタグ、いや、意味は。……いや、いや、いや、そうか、そういうことか。これの原因はそうじゃなく、いや、も、も、もし、そうなら。……傷つくのは、誰だ? 何処で、死んだんだ?」

困惑する三国をよそに角宇野はそれをじっと見つめ、約5分後、山井田の視線が角宇野とぶつかった。

「山井田さん、何をすればいいでしょう?」
「……えーっと、あー、まずは三国さん。現場になった山荘に使用された資材を確認してください。それと、A.岩鷺の詳細な人事ファイル、主に趣味や嗜好などが分かればなお良しですね。と、あるならばA.岩鷺が死亡した時の調書、あとは今回話に出た職員がこれまでに参加した実験の調書が必要です。えっと、それと後は保安部門への連絡を」
「は、はあ……それぞれ十分に準備できると思いますが」
「山井田さん、前にも言いましたが」

角宇野の言葉に山井田は目を逸らし、頷いた。だが、その言葉尻はもしょもしょと濁り。

「ええ、わ、分かってます。結論を、お伝えするべきだとは思うのですが……」

しばらく声にならない呻き声をブツブツと発し。意を決めたように向き直ると。

「今回の件は非常に強い殺意をもって行われた殺人事件です。で、その……、それ以上の……、続きはまた今度、で」
「……えぇっ?」


「こちら、温州蜜柑でございます」
「……どうも、でもこれネーブルですよね?」
「はは、お気になさらず。この前の一件のお礼です、受け取っていただければ」

数日後、バスケットを下げ山井田の研究室を訪れた三国。大人しくそれを受け取り、椅子を指した。

「どうぞ、座ってください。コーヒーくらいは淹れますから」
「ええ、ありがとうございます。彼女、A.土方はA.三波の殺害を自供しましたよ」
「……そうですか。それは良かった」

にこにこと笑う三国とは対照的に苦虫を噛み潰したような顔で、山井田はインスタントコーヒーに湯を注ぐ。

「そんな顔をなさることでもありますまい。彼女にとってもこれが最良でしょう」
「ええ、そうであってほしいですね」
「しかし、どのあたりから気付かれていたのですか?」

コーヒーを受け取りながら白々しく三国は尋ねる。そんな三国に渋面を隠さず、山井田はコーヒーを啜った。

「……今回の事件で一番問題とされるのは、"殺人だとして、何故優れたエージェントが何も抵抗せずに凍死したのか?"です。A.三波は経験豊富なエージェントです。それが装備を失ったとはいえ、近距離、それも良天候の中でただ凍死したというのは違和感がある。それの答えを考えていましたが、一番単純な答えに辿り着きました」
「それは?」
「簡単なことです。A.三波は記憶処理薬を飲んだことで"周囲を反ミームによって認識できていなかった"だけです」

周囲が認識できない状況に置かれていれば、何処へたどり着くこともできない。当たり前のその結論に三国がコーヒーカップを置き、羽扇で先を促す。山井田は仕方がないというように、先日からそのまま残されたボードに書き込んでいく。状況を整理し、錆ついた剃刀で探っていく。

「しかし、認識できないというのは疑問ですね、この前の会話でもその問題について触れました。記憶を失っても山荘の外に出ればそこからは自由に動けます。そうすれば簡単に移動できるし、屋内へ逃げ込むことができると言ったのは山井田研究員ですよ? 例え山荘を認識できなくても」
「ええ、ですから問題は次に移ります。すなわち、A.三波は"何処で死んだのか"? その答えを出すためにはもう一つの手がかり、聖書に残された「#」が必要でした。これは爪で押して書いたような跡でしたね。これはシャープでも、ハッシュタグでも漢字の「井」でもない。そもそもダイイングメッセージなんてものとは思っていません。……先日も話した時に呟いたことが正しかった。これは、"偶然に付いた"ものなんです」

山井田の指摘に何か気が付いたのか、三国は再度資料を取り出し、山荘の構造を確認すると意を得たとばかりに頷いた。

「なるほど、そうですね、それはただ偶然に押し当てられた跡です。皮肉にも反ミーム塗装が完璧だったという証拠にもなりますが」
「今回施された反ミーム塗装は角宇野さんの言葉を借りれば、"見ても、触っても分からない"。……極寒の反ミームの中で彷徨したA.三波はそれに跡が残る程聖書を押し当てていることに気付いていなかった。……この「#」は強く押し当てられた"網ガラスの格子"です。そう考えればA.三波が放置された場所は自ずと分かる、加えて自殺を試みたという可能性は崩されます」

頷く三国を横目に、山井田はボードを指差し、続ける。


「A.三波は"ベランダに放置された"」


「ベランダは建物の裏手、加えて背後は崖です。しかも反ミームにより、A.三波にはベランダにいることすら気づかない。どのような状況かは判断しかねますが、崖を避け、せめて別の方向へ向かおうとそこに存在する網ガラスに向かい進み続け、力尽きたという状況が考えられます。絨毯はベランダで凍り付いた場合、A.三波の身体が凍結し付着するのを防ぐため、というわけでしょう」
「おそらくはその考えで間違いないでしょう。そして、あの状況下でA.三波をそう動かすことのできた人物はA.土方しかいません」

目を覚ますと極寒の山中。先ほどまであったはずの山荘はなく、背後に崖、寒さは身を切るように迫り、冷静さを失わせる。その中でただ生きるために歩き、歩き、歩き、すぐそこにあるものに気付くこともなく絶望と孤独の中凍え死ぬ。想像するだけでも寒気のするようなその最期を、A.土方は山小屋の中から見ていたのだろうか。……おそらく見ていたのだろう、監視実験の際、"異常性は発生しなかった"、それは監視者がいたことを意味する。A.三波がその状況に置かれている以上、外部を監視できるのは。その光景を想像し、山井田の背中に悪寒が走る。

「見事な推理ですね。ですが幾つか疑問は残り、そしてあなたはそれに対する答えも持っているのでしょう? 角宇野記録官を呼んでいないのも、前回先延ばししたのもそれが理由だと考えますが」

ニコニコと笑う三国。性格が悪い、と呟きながら山井田はボードを離れると傍らの資料を掘り返し、貼り付けてからオフィスチェアに座り込んだ。コーヒーは既に冷めている。

「疑問は単純ですね。"何故、A.三波は自らカメラを壊し、記憶処理薬を申請したのか"。その答えはこの資料にあります」

山井田がボードの資料を指差す。それはA.三波が関連した実験において撮影機材が破損した記録と記憶処理剤の申請記録、そしてA.岩鷺の解剖記録。
それを交互に眺め、しばらくためらった後大きくため息を吐いて山井田は口を開く。

「……A.三波が参加した実験において撮影機材が破損した実験の日時と、今回と同様の記憶処理薬を申請した日時の記録は殆どが一致します。加えて、……その実験の際、参加していたエージェントに"若い女性がいる"、という共通点があります。そしてA.岩鷺の解剖記録には、……妊娠の兆候が確認されていました。……もう、これで十分ですか?」
「ええ、十分です。A.土方はその真相を知り、加えて自分にまでその目が向けられていることを利用して今回の事件に及んだのでしょう。……これからは記憶処理薬の申請が厳密になるであろうことが予想されますね」
「そうあってほしいです。……角宇野さんに聞かせるにはあまりにも酷い話なので」
「A.岩鷺は敬虔なキリスト教信者だったそうですよ。だからA.土方はA.三波に聖書を渡していたのでしょうかね。お前がしでかしたことを忘れるなと、断罪のつもりで。A.三波が気付いていたかは分かりませんが、それが彼女の命取りになった。……それさえなければ彼女の犯行は証明困難だったでしょうに」

重苦しい沈黙が研究室を包む。……山井田はA.岩鷺の死亡理由に嫌な想像を覚えた。キリスト教は自殺を禁じていたはずだ。そして基本的に監視のない私室で彼女は死亡しており、第一発見者はA.土方。もし、自分が彼女の立場なら、親しい人が悪意の罠に嵌り、傷つけられ、苦しんでいたなら。その苦しみを与えた人間を。

零下の雪原、見えない山荘の向こうで生きながら地獄に落ちたA.三波の姿を見て、A.土方はどんな表情を浮かべていたのだろう。

しばらくして三国がパチンと羽扇を畳み立ち上がった。

「では、山井田さん。そろそろ某は失礼します、今回の件、感謝いたしますぞ」

手を合わせ、深く礼をする三国に山井田はしばらくそのクマに覆われた目で眺め、やっと、というように口を開いた。


「……三国技師、最後に聞かせてもらいたいんですが、今回の事案、最初からA.三波が自殺でないという前提で話されていましたね?」
「ええ、そうですね。A.土方のことはよく知っていたので、と言ったつもりでしたが」

何のことかと目を丸める三国に山井田は深く息を吸い、あえて鋭い口調を飛ばす。

「調べました。三国技師、A.土方とあなたは今回の実験が初対面です。もちろん、余人の知らない場所で関与していた可能性はありますが、それならば逆に秘匿する理由になるでしょう。ならば何故自殺だと考えなかったのか。いえ、自殺を否定しなかったのか。あなたの言った通り聖書の件はあるでしょう。ですが、それだけではないはずだ」

決壊したダムのように三国の反応を見る余裕すらなく、山井田は言葉を吐き続ける。

「なら何故か。……それは願望だったのではないですか? これが自殺であってほしくない、正確には"これが実験の予期せぬ副作用によって発生したインシデントであってほしくない"という。……自殺となれば今回の実験が何らかの影響を与えていると考えてもおかしくありませんからね」
「さて、そう考える人もいるでしょうな」
「少しだけ調べました、今回の反ミーム塗装、敵対していた要注意団体にかかわる技術であり、財団内部でも意見が割れていると。……厳密に言えばそれを理由とした派閥闘争じみたことが行われている、と。……だからその中で事件が起きたとき、その理由を今回の実験に求め、案件そのものを潰そうとしていた派閥があったのではないか。何故俺に尋ねたのか疑問だったんです。理由は簡単だった。実験の主導者であるあなたが声を出せば中立性は保証されない。中立的な意見であると装うために何処にも属していない遊撃部隊である俺を利用した」

山井田の鋭い言葉に三国は笑みを止め、目を細め、静かに聞き入れていた。

「……加えて、A.三波の人事ファイルにはいくつかの不自然な抜けがあります。時期は全てではありませんがある要注意団体の政変期と一致します。……これはあくまで仮説です、その案件を潰そうとしていた派閥は、A.土方とA.三波の関係を、A.三波の素行を知ったうえで、二人を送り、問題を同時に解決しようと」

そこまで捲し立てた山井田の喉に、三国の羽扇がすっと当てられた。
刃物のように冷たくさえ感じられる一撃に、山井田の喉がごくりと動く。

「何も聞かなかったことにしましょう、山井田研究員。……財団とはね、建物の下の基礎なのです、その基礎はもちろん堅牢であることが求められます。そしてそれ以上に、"堅牢である"と思わせることが必要なのですよ。某は現在の財団が堅牢な基礎を持っていることを前提としてその上に設計を行っています。某が答えられるのはそこまで、どうでしょう?」

これまでとは違う冷たい機械のような声に山井田はしばらく三国を睨み、そして両手を挙げた。

「……はあ、卑怯かつ誠実ですね」
「はっはっは、では、これにて」

高笑いを残し研究室のドアを開ける三国。それを見送る山井田にふと振り返った。

「そうそう、これは年長者としてのアドバイスですが、巧言令色は好まれません、言葉は真っ直ぐに使われるべきです。角宇野記録官に上手いこと誤魔化そうとしてもあなたには難しいでしょう」
「……そうですか」
「正直に話すことです。別に気にしませんよ、彼女は」

それだけ言い残し、三国がドアを閉める。山井田はぐったりとオフィスチェアに倒れ込み、ヤニに汚れた天井を仰いだ。
しばらく目をつぶるとホワイトボードに目をやり、端末に手を伸ばす。登録されている僅かな相手からその名前を見つけ出すと立ち上がり、冷めたコーヒーを流しながら電話をかけた。コール音が響いていた。

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