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—— サイト-CN-52記録情報セキュリティ管理部門
アイテム番号:SCP-CN-1101 | レベル4/CN-1101 |
オブジェクトクラス:Keter | 制限 |
特別収容プロトコル:SCP-CN-1101の位置とその性質上、現段階で財団が完全にSCP-CN-1101を収容することは不可能です。現在の収容手順は主にSCP-CN-1101、及びそれにより生成される様々な脅威実体の発見と収容です。SCP-CN-1101-1および-2の観察及び情報の隠蔽については、この文書の初版を参照してください。
現在の財団の広域全天捜査システムである、深宇宙光学観察アレイ「アルゴス」、深宇宙電波モニターアレイ「リスナー」、および木星の高軌道施設FORC-19は共同してSCP-CN-1101-1の観察を行い、全ての観察データはレベル4機密情報として扱われます。空間歪曲フィールドの強さが短期間に0.4 Ēl1以上変動した場合には、機動部隊庚申こうしん-02「肉狩人」およびユーラシアの全財団サイトにSCP-CN-1101の大量発生イベントが発生することが即座に通知されます。
財団はSCP-CN-1101-2を観察できるあらゆる組織に潜入しており、全世界の各国政府および宇宙開発機関と、SCP-CN-1101-2に関わる全ての観測結果を、標準的な情報隠蔽プロトコルにしたがって傍受し、一般市民の認識と合致する偽のデータに書き換える合意に達しています。天文学者がカバーデータと矛盾する結果を報告した場合、当該人物はBレベル記憶消去の対象となり、カバーデータと一致する報告に改ざんされます。木星を観測するプローブ全てに情報傍受機器が装備されます。大規模情報漏洩の際には、財団の天文学者に執筆されたカバーレポートが主要な天文学機関を通じて発表されます。
コルベット級フリゲートであるFSF-158は関連する改装を終え、現在FORC-19に向かっています。到着は2017-03-02と予想されています。到着後、SCP-CN-1101-2へのさらなる研究が開始されます。
説明:SCP-CN-1101-1は木星周辺にあるクラスIV周期的空間歪曲フィールドであり、かつてはCA-2216862と呼ばれていました。SCP-CN-1101の変動周期は11.86年2であり、直近のピークは2014年でした。SCP-CN-1101-1の空間歪曲の強さとSCP-CN-1101の発生頻度との間には相関関係があることが確認されています。詳細について、この文書の初版を参照してください。SCP-CN-1101-1とSCP-CN-1101の直接及び間接的関連性は確認中です。
SCP-CN-1101-2は木星の衛星、アドラステアであり、それは実際には3つの大型の異常な構造物により構成されています。現在、これは木星を安定した円形軌道で周回しており、その半径は128,700 kmです。公転周期は7時間5分であり、平均軌道速度は31.42 km/sです。SCP-CN-1101-2はSCP-CN-1101-1と空間歪曲が最大となる点でオーバーラップしており、SCP-CN-1101-1を引き起こしていると考えられています。これら2者の間の直接的、間接的な関係は確認中です。
補遺-1:SCP-CN-1101の観察データ

科学部門レポート
報告者:FORC-19深宇宙アノマリー対応主任アンディ博士
日付:2017-██-██
件名:SCP-CN-1101-1の観察データ
宛:SCP-CN-1101研究チーム
以下は深宇宙アノマリー対応部門により撮影された、SCP-CN-1101関連アノマリーの光学写真映像です。完全な観察データについては添付ファイルを参照してください。
画像#0001:1997年11月23日、広域宇宙捜査計画中にエリア-08の全天捜査アレイにより撮影されたSCP-CN-1101-2。画像は拡大されている。
画像#0007:2016年10月27日、「ウォッチタワー」深宇宙光学観測アレイにより撮影されたSCP-CN-1101-2。左上は発光パターン(SCP-CN-1101-2を球体とし、受光側をオレンジ、バックライト側を青とした)、左下はSCP-CN-1101-2の拡大像。
補遺-2:関連した歴史的文献

考古学部門レポート
報告者:エリア-CN-135考古学部門主任テッシアー博士
日付:2017-██-██
件名:SCP-CN-1101に関連する可能性のある古代の文献
宛:SCP-CN-1101研究チーム
以下は考古学部門が回収したSCP-CN-1101に関連する何件かの古代の文書を時系列に沿って並べ、翻訳したものです。文献の完全なリストは添付ファイルを参照してください。
卜骨ぼっこつ3の断片#1953BJYXT⑨:2239 - #1953BJYXT⑨:2244卜辞ぼくじ抜粋:
丁巳,歲星贏東南,太歲迫熒惑,貞:視肉何降,有祟不? 卜(問)太甲、太乙、太戊、祖乙、祖辛、祖丁、巫咸、巫貞、巫彭,十示。
視肉既降,貞:降東方,三河有恐不?東夷有恐不?卜(問)咸等群巫,十示。
戊午,萊夷化獸,與徐夷交,亂於彭、諸。貞:可自平不?亂至奄、亳不? 卜(問)伊尹……太乙……
視肉又降人方、基方,蘇、唐來告。其邑有恐不?卜(後缺)
己未,有鬼車鳥自基方入於京。貞:王伐基方,往來無災? 卜(問)太乙、太戊……巫咸……十二示。
卜骨の断片#1953BJYXT⑨:2239 - #1953BJYXT⑨:2244は旧中華異学会の倉庫「天」から回収されたもので、倉庫の帳簿によると、1931年に安陽市小屯村あんようししょうとんそんの殷いんの祭祀場跡で、当時の天璇てんせん4であった傅斯年ふ・しねん5が発見したと記されています。特筆すべきことは、高線量のEVE放射残留物が骨片から検出されたことです。これは、ある種の奇跡論的な作用が発生したことを示しています。
青銅の鼎かなえ#1962BJYXZ⑤:369-6銘文:
唯王廿三年九月,王大獵於成周郊,獲異物數頭,大著如豕彘,小者如盤盂,其韌如革,其柔如膠。王不知其何物,有辭求於眾師,膳夫克對曰:太歲經天,與歲星悖 ,其影所及,或生此物,故亦名太歲,是肉芝也。昔禹王曰:太歲,神靈所生,其物異形,或夭或壽,唯聖人能通其道。殷人名之視肉,或曰服之長生,愚民爭相食,暴斃者眾,化獸者亦多,武丁世,東夷之亂自此始。
眾奮而欲毀之,克阻曰:太歲者,水不能溺亡,火不能盡焚,割則復生,分則各長,非凡力可銷。當卜以吉地,包以吉金,裹以灰泥,覆以玄木,掘地十丈至泉而埋之,可保數十代無虞。王命從之。
克今作寶宗彜,傳此法於後世,子孫當謹記。純祐眉壽,永命靈終,萬年無疆。克其子子孫孫永寶用。
青銅の鼎#1962BJYXZ⑤:369-6は、中華異学会の倉庫「張」から回収されました。倉庫の帳簿によると、「小克鼎之六、光緒十六年、中華異学会の揺光ようこう6の潘祖陰はん・そいんが富峰郡法門寺蓮村で取得。周の孝王の時代、忠臣であった膳夫かしわで7克かつの作、その銘は異常について書かれており、天枢てんすう8の命にて銘を刻んだ通常の鼎とすり替えた。」とあります。
帛書はくしょ#1952HNCSM2②:67:
曰古大能伏羲,出自華胥,居於雷夏,闕淵漁漁,遇希氏女。夢夢昧昧,盲章閔閔,濛濛漫漫,風雨是閼。乃娶女希氏,號為媧皇,是生子四神,是襄天地,是格參化。
大能相鬥,四神隨父,六獸助母,茫茫蒼生,金石血肉,各擇其主,未有四時,不知其所歷,未有步裏,不知其所延。天崩地坼,玉宇將傾,伏羲乃逐女媧,遠至天外,或曰太歲之門,其亦不以身免。四神化星於天,六獸蟄伏於地,眾生稍安。
四神者,長曰青龍,二曰朱雀,三曰白虎,四曰玄武。千又有歲,日月俊生。九州不平,山陵備夨。四神乃作,至於載覆天動,扞蔽之以青木、赤木、黃木、白木、墨木者,五行之精。炎帝乃命祝融以四神降,祭三天,維思縛,奠四極。曰:非九天則大夨。帝俊乃為日月之行。
歷百千世,法兆為禹,以司土壤,晷天步數,乃上下騰傳。山陵不疏,乃命山川、四海之陽炁、陰炁以為其疏,以涉山陵、瀧汨、淊漫。未有日月,無名幹支,觀四神相代,乃步以為歲,是唯四時。
六獸之首曰共工。有夏末世,共工復起,與帝俊爭天地,俊攜羲和,步列十日,炙灼盈世,川澤是涸,工集太歲,相柳九嬰,腥穢蔽野,濁浪滔天。四時見擾,四靈無寧,四極闕思,百神風雨,萬民離散,水火並起,晨昏亂作,群芳齊綻,列星杳冥。帝乃起伏羲之臺,立軒轅之劍,乃逆日月,乃覆千山,神州陸沈,禹族無存。
有十巫者,曰巫鹹、巫即、巫盼、巫彭、巫姑、巫真、巫禮、巫抵、巫謝、巫羅,伏羲之眷裔也,皆服以金石,載以奇肱。高辛之時,有獸曰窫窳,率獸食人,黎民不安,十巫乃鑄神兵者曰貳負臣,以貳負臣殺窫窳,群獸之禍乃息。四巫巡行以安四極,六巫持不死藥以據窫窳之屍,數載,窫窳屍化人面馬足之獸而去,唯余一目,燦若珠焉。巫彭身化玄鳥,持之以降,簡狄服之,感而有孕,乃生契卨。
契傳十四世至湯,遇有夏傾覆事,唯群巫庇之而得免。十巫退隱,薦伊尹、仲虺以佐湯,伊尹者,巫貞所造之庖人也,仲虺者,龍裔也。伊、仲佐湯納群賢,聚人心,平九州,於是有商。
帛書#1952HNCSM2②:67は1952年、春秋時代の貴族の埋葬品から発見されました。その中には、GOI-004「壊れた神の教会」に関連した多くの異常が含まれていました。埋葬された骨格の分析によると、およそ78%の埋葬者が生前に機械化されていました。改造は主として四肢でしたが、一部は頭蓋骨や椎骨を人工物で置換されてしました。
蛇の手に潜入した財団のエージェントからもたらされた情報によると、蛇の手の資料では放浪者の図書館には、同様の内容が書かれている帛書があり、奇跡論的儀式の機能があるとされています。しかしながら、帛書#1952HNCSM2②:67のさらなる調査では、その内容には異常な性質が見つかりませんでした。財団の並行世界部門による放浪者の図書館の帛書の記述内容の分析では、基底現実とは大きく異る平行世界に由来するものであることが判明しました。
《越絶書えつぜつしょ·外伝·紀策考第七》隋代写本抜粋:
昔者,吳王闔廬始得子胥之時,甘心以賢之,以為上客,曰:“聖人前知乎千歲,後睹萬世。深問其國,世何昧昧,得無衰極?子其精焉,寡人垂意,聽子之言。”
子胥唯唯,不對。
王曰:“子其明之。”
子胥曰:“對而不明,恐獲其咎。”
王曰:“願一言之,以試直士。夫仁者樂,知者好。誠。秉禮者探幽索隱。明告寡人。”
子胥曰:“難乎言哉!邦其不長,王其圖之。存無忘傾,安無忘亡。臣始入邦,伏見衰亡之證,當霸吳厄會之際,然自古無長生之君,王百年之後,後王復空,或不免淪於楚、越之囚。”
王曰:“何以言之?”
子胥曰:“王觀楚之故事乎?楚王聽佞諂之言,食太歲之肉,半化禽獸,坐而待死。奸佞之臣,不久秉政,其後必將失道。仰觀天象,安危之兆,各有明紀。虹蜺牽牛,其異織女,黃氣在上,青黑於下。太歲八會,壬子數九。死由無氣,如法而止。得太歲之氣,則危矣。楚靈王太子坐太歲而死,感其氣而化異物,一旬數變,成駭物也,其名曰梼杌,禍亂三世,舉國莫之能制,南至百濮,東至彭蠡,千裏無雞鳴。楚昭王立,令風胡子之吳,見歐冶子、幹將,歐冶子、幹將鑿茨山,泄其溪,取鐵英,作鐵劍三枚:一曰龍淵,二曰泰阿,三曰工布。觀其華捽如芙蓉始出,其釽燦如列星之行,其光煥如日月麗天,其刃如礪南斗,其文若披群星。晉、鄭聞而求之,不得,乃與梼杌並興師圍楚之城,晉師在北,鄭師在西,梼杌之群獸居東南。其圍三年不解,倉谷粟索,庫無兵革,左右群臣賢士,莫能破之。於是楚王聞之,引泰阿之劍,登城而麾之,三軍破敗。士卒迷感,流血千裏,猛獸歐瞻,江水折揚,晉、鄭之頭畢白,梼杌之毛盡褪。楚王於是大悅,復引工布麾之,蠱雕折角,夔牛遠遁,群獸哀鳴,屍骨彌野,余者自散,江水為之赤。再引龍淵擲之,穿梼杌之顱,楚之難遂平。今歐冶已逝,幹將已亡,強楚在側,孰人能制?且吳越為鄰,同俗並土,西州大江,東絕大海,兩邦同城,相亞門戶,互為仇讎,憂在於斯,必將為咎。越有神佑,難與為鄰。為今之計,當與楚修好,先收越地,待楚王自矜而失德,寶劍自去,乃可伐之。唯平越破楚,可保吳地久長。願王定之,毋洩臣言。”
《越絶書·外伝·紀策考第七》隋代写本抜粋は中華異学会の倉庫「頼」から回収されました。倉庫の帳簿によると、この写本は現在知られている最も完全な版であり、東漢の「越絶書」の原型に最も近いものとのことです。一般に知られている「越絶書」は異学会の太史たいし9により改変され、何度か成文化されたものであるとのことです。
石碑#1964SNHZM2③:25碑文:
天星隱諸懺,鼗鼓起髣髴。
朽壤積層痂,鹿台奄一寤。
玉衣泣熾脂,帝幟頹粉蠹。
雲淖弄龍屍,無垠結黑墓。
血腥昆侖北,相柳橫九土。
長蛆自蛇盤,穢風釀枯霧。
高歌語漸疏,狂哮悲如怒。
鉛華泉已涸,孰人洗我骨。
形軀半腐臠,青貍啖啞兔。
石碑#1964SNHZM2③:25は1964年、漢中市東郊の後期唐の墓から出土したものです。その埋葬形式と墓の構造から、埋葬されているのは当時の貴族の高い地位にあった人物と考えられています。彼は異常な宗教の司祭として働いていたと思われます。DNA鑑定では、埋葬された人物の肉体は何らかの肉体改変の儀式(Lihakut'ak)を行っていたことを示しました。
《邵氏聞見録しょうしけんぶんろく10》第十巻抜粋:
元豐六年二月丁未,西賊數十萬眾犯蘭州,梁乙埋禦龍蛇之屬扣東西二關堡,兩關士卒不能拒,旦暮而下,遂圍其城。知州李浩閉城拒守,鈐轄王文郁請擊之。
浩曰:“城中騎不滿六百,士卒不滿五千,安可戰?”
文郁曰:“賊眾我寡,正當折其鋒,以安眾心,然後可守,此張遼所以全合淝也。況李太尉武庫尚在,啟之擊賊,莫能當也。”走馬承受閻仁武曰:“今李太尉遠在涇原,秘庫無印,誰能啟之?吾輩奉詔,令守不令戰,必欲啟關,當奏劾。”
文郁曰:“今披城而出,以一當千,勢有萬死,豈畏劾哉!況守則無必固之勢,戰則有可乘之機。”堅請不已,浩弗許。
是夜,有緇衣蓑笠老叟入見文郁,屏左右而納之,竟文潞公也。文郁愕然拜倒,文潞公曰:“吾特為破賊而來。”遂攜文郁徑至衙中,剝李浩職,屬之文郁。時潞公以太師掌樞密事,先行而後奏,舉城莫敢不從。
公持號炮如天花乍現,數刻間,有死士百余集廷下,皆著緇衣,飾以寒梅,蓋異會徒眾也。文郁亦自軍中募得勇銳之士六百余。潞公乃以異會印綬開府下四庫,秘者授徒眾,簡者授健卒。
王文郁親率死士七百余夜縋而下,其器多為《武經》所不載,持以突之。赤焰彌野,夜如白晝。賊眾驚潰,爭相渡河,踐斃、溺死者甚眾,王師追斬數十裏,蘭州得全。時人以文郁比尉遲敬德雲。或雲,是夜有金甲騰空,坊間之言,不足訓爾。
丙辰,詔以洛苑使、熙河蘭會鈐轄王文郁為西上合門使、知蘭州,代李浩,彰其破賊之功也。
越明年,西賊梁後點集十二監司人馬親征,眾號八十萬,陰雲蔽日,煙塵障天,數百裏不絕。時李憲在蘭州,以機巧之械禦之,憲自號李衛公之後,其守禦之器,或衛公所傳也。賊圍城旬日,屍骨相枕,高疊及城,猶不能下,糧盡乃退。點城下屍骸,多至五萬余眾,而精怪之屬竟居十之二三,余在京師尚聞之駭然,況西軍將士乎?
《邵氏聞見録》南宋の写本版は中華異学会の倉庫「虞」からから回収されたもので、邵伯温本人の手によるものと推測されており、彼の子の邵博しょう・はくによる注釈が付けられています。倉庫の帳簿の記録によると「異学会の太史によると:"その文には異常について記載があり、我々は天枢の潞公に相談した。それ故、紹興9年建州にて刊行したときに削除された。原稿も秘密の書庫に秘匿されている。"とのこと」とあります。
手紙#1909IMHSCT①:28-7内容:
媧皇會 鵸鵌 大夏太後 梁 親啟:
覽劄如唔。今吾兒趙頊已逝,王介甫亦卒,司馬君實迂拙愚忠,文寬夫衰朽昏聵,李、王、石、宋眾閹豎見逐,掌兩府、臺鑒者,皆吾教之人,哀家得專國政。西向鋒鏑盡銷,異學新黨渙散,西京九老不存,暗香之眾安在?此大舉之機也,大龍之日近矣。
今以米脂、義合、浮圖、葭蘆、吳堡、安疆六寨歸彼,名為偃兵,實則六寨悉為太歲之牢也。卿可擇三五親信分至諸寨,取以集興慶。以此並賀蘭聖物,擇吉時,引大河之水,集萬靈之血,獻乾順之體,祭吾皇並十二太歲於靈州,可至相柳重生矣。屆時,哀家亦將以萬牲之血祭十二歲神於澶、孟,以吾孫趙煦之血肉喚九嬰之靈,召龍馬之屬。
吾輩當架相柳而禦九嬰,起共工之靈,揚江河之水,卷九州之土,獻億兆之血,啟太歲之門,裂銅牢之隙,吾皇重臨必矣。媧皇再臨之日,諸神皆為彘胙!
媧皇會 狍鸮 宋太皇太後 高
手紙#1909IMHSCT①:28-7は黒水城の仏塔の秘蔵品の中の、西夏の羅太后11の銅箱の中から発見されました。1909年に財団の前身であるロシア皇立地理学会の会員であるゴズロフ大佐により発見され、1950年にヨシフ・スターリンによって中国に返還されました。1976年の唐山地震の際、それまで開けられていなかった銅箱は自発的に開封され、地震後の修復作業に関わっていた中央贈与品および遺物展事務局のスタッフ13名に様々な程度の精神的傷害を与えたため、内容物の異常な効果を考慮し、国務院議定書課から財団へと移管されました。箱の中を調査したところ、手紙及び木簡が合計31部入っており、その全てが宋と西夏の皇太后間の手紙であり、内容の多くが極端な宗教的崇拝、生贄、神格的実体の召喚などに関わっています。一部の情報には、ある程度の認識災害またはミーム効果が含まれています。
卜骨の断片#1953BJYXT⑨:2239 - #1953BJYXT⑨:2244卜辞抜粋:
紀元前1324年、木星は南東に現れ、太歳は火星に近づいた(私は災厄が起きることを恐れる)。問う:視肉(太歳たいさい)はどこに降りるか?害をなすか?太甲たいこうら十位の祖先よ、知恵を授け給え。
すでに視肉は降りたり、問う:それらが東に降りたならば、黄河の中流、下流で恐怖は起きるか?東夷とういの地に恐怖は起きるか?巫咸ふかんら十位の古の大巫だいふ12よ、知恵を授け給え。
紀元前1323年、莱らいの地(現在の山東省莱州半島)の蛮族の多くが怪物となり、徐の地(現在の江蘇北部)の蛮族と手を組み、徐と諸(現在の江蘇省徐州市と山東省諸城市、いずれも殷王朝の方国13)に大いなる破壊をもたらした。問う:我らの力で治められるか?この災厄は、奄えんの都や亳はくの都(現在の山東省曲阜市および河南省商丘市、殷王朝の首都および副首都)に及ぶか?伊尹いいん、太甲ら先賢よ指示を求む。
視肉がまた、人方(敵対的な方国の国名,現在の山東省沂河流域)に現れた、基方(敵対的な方国の国名,現在の山東省西部)一帯に肉が降りると、蘇国、唐国(方国、現在の河北省邢台市と山西省太原市)からの使者が宮中に助けを求めに来た。恐怖は我らの街にも起こるか?求む……
紀元前1322年、九頭の幽鬼の車、奇怪な鳥が基方から都まで飛び来たり!問う:陛下は基方に親征される。行き帰りの途上に災厄はあるか?太乙たいいつら十二位の祖先、先賢よ、指示を求む。
青銅の鼎#1962BJYXZ⑤:369-6銘文:
周の懿王いおうが即位して23年(紀元前900年14)9月、陛下は洛陽らくようの外で大規模な狩りを行われ、いくつかの奇妙なものを見つけられた。大きなものは猪の成獣ほど、小さなものは皿(茶皿ほどの大きさの青銅皿)で、革のようにしなやかで、ゲルのように柔らかなものだった。陛下はそれが何かわからなかったので、多くの知識を持つ者に聞いた。
皇室の厨房と従者を束ねる克は答えて言った。「太歳は空を巡り、その軌道は木星の対極にあります。その投影としてこのようなものが作り出されるのかもしれないので、これらも太歳と呼ばれ、霊芝れいしのように見えます。大禹だいうはかつて言いました"太歳は神や精霊が様々な形で作り出したもの、それに触れるものは長命を得ることもあれば、命を縮めることもある。"殷の人々はこれを視肉と呼び、これを食べれば永遠に生きれると言う人がおり、それに騙された人がこれを食べようとして無残に死に、多くの人が怪物になってしまったそうです。殷の武帝の時代、東夷の地で大いに乱が起こったのは、このような経緯があったと言います。」
文官も武官も大きく動揺し、早急に滅ぼすことを求めた。克は制止して言った。「太歳は水の中でも溺れず、火の中でも燃えません。また切りつけてもすぐに回復し、刻めば分裂します。(収容措置):最も良い風水の地を占いだす必要があります。ベリリウム青銅でそれをしっかりと包み、外側をさらに石灰と炭の泥で覆った後、10フィートほどの深さに掘り、地下水が見えたら、この箱を埋めます。何十世代にも渡って問題は起こらないことが保証されます。」陛下は克の提案に従い、そのようにするように命ぜられた。
今、克がこの礼器を鋳造した。太歳を収容する方法を次世代に引き継ぎ、子孫に伝えるために。後世の人々の健康と長寿を祈る。万事意の如く、万寿限り無く。克の子々孫々はこれを大事にしなくてはならない。
帛書#1952HNCSM2②:67:
伝説によると、古代には伏羲ふぎという偉大な神がいた。華胥かしょ(氏族名/地名またはある種の超次元領域の象徴と思われる)出身で、雷夏澤らいかたく(おそらく創造前の無限の深淵を指している)に住み、深淵で魚(魚は何らかのエネルギー体の象徴と思われる)を採って暮らしていた。そして偶然、女希じょきと名乗る大神と出会った。そのころ、宇宙は広大で目に見えず、曖昧であらゆるものの区別がつかなかった。その広漠にエネルギーは洪水のように広がり、蠢いて森のように隆起し、風も雨もなかった。
そこで伏羲は女希、その称号は女媧聖皇を娶り、彼らは4体の神々(四聖獣)を生んだ。彼らは天地を開き、すべてのものを育てた。これが天地の始まりであり、混沌が生まれた。
二柱の大神は戦い、四神は父たる伏羲を、六つの獣は母たる女媧を助けた。世界のあらゆる生あるものは、機械の体であろうと、生身であろうと、歩くことができ、動くことができるものは全ていずれかを選び、互いに争った。時間の単位はなく、この戦いがどれくらい長く戦われたのかわからず、距離の概念もなく、この混沌がどこまで広がっているのかわからなかった。宇宙は滅亡に瀕したが、ついに伏羲は女媧を世界の外に追放した。そこが太歳の門であり、彼自身も免れることができなかった(女媧の檻となった)。四神は天に昇り星となり、六つの獣は地に潜み眠り、苦しんだ者たちはついに休むことができた。
四神については、最も古きものは青龍、次は朱雀、次は白虎、最も若いものは玄武と呼ばれた。それらが星へと変わってから幾千年が経ち、古き神の帝俊ていしゅんが太陽と月を生んだ。その頃の九州は起伏が激しく、山々と川は片方へと寄っていた。そこで四神は天穹の上に来て、空を北極星の周りに回し、五星の精華を精錬し、天蓋を支える青、赤、黄、白、黒の五本の柱を建てた。そして、大地の皇である神農しんのうは、炎の神である祝融しゅくゆうに命じ、四神に太陽と月の軌道を三つ空に固定してもらうよう頼ませた。天穹は大地の四箇所で固定され、同時に東、南、西、北の四つの方向が定まった。(祝融の)崇拝者曰く、天の神々を失望させることなかれ。そして帝俊は太陽と月に命じ、決まった軌道で走るようにした。
幾世代もの時が流れ、大禹が世界を統べた。地は全て彼の手に委ねられた。彼は九州を測量するために人を送り、天の巡りを測り、幾度も天地の間を行き来した。九州の山々は土砂により塞がれ、洪水を起こしていたので、禹は山々と、川、湖、池を歩き回り、山々と四海15の間の陰陽の気に命じて土砂をさらわせた。その頃は、日付という概念もなく、天と地の時の流れを測る基準もなかったので、禹は青龍、白虎、朱雀、玄武の星座を見て、それが一巡する時間を一年とし、その移動の軌跡によって春分、夏至、秋分、冬至を分けた。
女媧が生み出した六つの獣のうち、最も古いものは共工きょうこうと呼ばれた。夏王朝の末期に、共工は再び目覚め、帝俊と世界の支配をめぐり争った。帝俊とその妻羲和ぎわはその子である十の太陽を一度に出現させた。太陽の光は地を焦がし、川や湖は干上がった。共工は太歳の破片を集め、怪物を作り、相柳そうりゅう、九嬰きゅうえいらの神魔を率い、風を興し波を作った。異臭と汚泥と汚濁に満ちた波があらゆるところを覆った。春夏秋冬四季は乱れ、天上の四神も安寧を得られなかった。大地は曲がり、四方は乱れ、神々は風雨を呼び、人々は散り散りに逃げた。深淵と炎の海があらゆるところにあり、昼夜の切り替わりも乱れた。千の花が一日に咲き乱れ、夜の空は暗く、一つの星も見えなかった。そこで夏の王の桀けつは伏羲に伝えられた技術を用いて高い台を建て、軒轅黄帝けんえんこうていより受け継がれた弑神の剣を立てた。十の剣は合わせて放たれ、時空は逆転し、山は転覆し、大地は沈んだ、(現実が激しく再構築された)。夏の文化と氏族はもはや存在しないことになった。
古代、十人の大巫がいた。その名を巫咸ふかん、巫即ふそく、巫盼ふはん、巫彭ふほう、巫姑ふきつ、巫真ふしん(貞)、巫礼ふれい、巫抵ふてい、巫謝ふしゃ、巫羅ふらという。彼女らは自らを伏羲の眷属あるいは子孫と称し、金属を身に着け、鉱物で作られた服を着て、奇怪な車輪のついた乗り物に乗っていた。嚳高辛帝こくこうしんていの時代、窫窳あつゆと呼ばれる怪物が現れ、獣の群れを率いて人々を食い荒らし、人民は安寧を得られなかった。十人の大巫は弐負臣じふしんという名の機甲を鋳造し、弐負臣を駆り窫窳を討伐した。獣たちは散り散りに逃げ、災厄は静まった。四人の大巫は各地を鎮めるため天下を巡り、六人の大巫は窫窳の死体に不死の薬を用いて様々な実験を行った。数年後、窫窳の死骸は長い頭、人間の顔と馬の脚を持った奇妙な獣となり逃げていき、宝石のような輝きの球体が残された。巫彭は黒い鴉のような姿になり、宝珠を簡狄かんてき(嚳の側室)の側に置いた。簡狄は(鳥の卵だと思い)それを取り飲み込み、実際に妊娠し、後に男児を産んだ。その名を契せつという(このことを踏まえると、契は嚳の子ではない可能性が高い)。
契卨から十四代の子孫に湯とうという者がおり、その頃ちょうど夏王朝が破壊された災害が起こった。幸運なことに、巫らが彼を密かに保護し、湯は救われた。十巫は隠退する前に、伊尹と仲虺ちゅうきという二人の人物に湯を補佐させた。伊尹は実は以前に巫真が作った調理機械人であり、仲虺は女媧の子孫であった。伊尹と仲虺は湯が才能ある者たちを集め、人心を掴み、九州の乱を平定し、商王朝を建てることを助けた。
《越絶書·外伝·紀策考第七》隋代写本抜粋:
その頃、呉ごの王、闔廬こうりょは伍子胥ご・ししょに会ったばかりだった(そして彼はその補佐により王となった)。闔廬は伍子胥に高い能力を持つものとして敬意を持っていたので、最高の相談役としていた。闔廬は伍子胥に尋ねて言った。「賢者は千年の歴史を知り、未来の世界の発展を予見できたという。今日は国について深く議論したい。世界が混沌とする中、呉は滅亡を免れることができるであろうか?具体的な考えをお聞かせ願いたい。今日は虚心に、意見を聞きたい。」
伍子胥は曖昧に、言を左右にし、はっきりと答えなかった。
呉の王は言った。「はっきりと答えていただきたい。」
伍子胥は言った。「答えははっきりとはしていない。気に召さないであろう。」
呉の王は言った。「言っていただきたい。あなたのような傑出した人物の意見を今日は聞きに来た。慈悲深いものは安らぎと愉悦を感じ、賢者は泰然自若とする。これらは誠意があるからである。礼節を持って自らを律する者こそ、隠され、複雑な物事を見通すことができる。この寡人かじん16に言ってくれ。」
伍子胥は言った。「伝えることは難しい!国の命運は長く続かないのではないかと思って、陛下は国を治めるために奔走されてきた。国が在るときに腐敗の可能性があることを忘れず、安全なときに危険があることを忘れないようにしなくてはならない。私がはじめて呉国に来たときには、衰退の兆候は見られず、山と湖の間の呉の地(現在の長江の三角州地帯に相当する)を統べることができると思った。しかし古代より永遠に生きる王はなく、陛下の百年の後、後継者が知恵と警戒心を持ち続けなければ、楚そや越えつの手に落ちることもある。」
呉の王は問うた。「なぜそのように言うのか?」
伍子胥は言った。「陛下は近来の楚での出来事をご存知であろうか?楚の霊王れいおうは佞臣の甘言に耳を傾け、太歳の肉を食べ、半人半獣の怪物となり、ただ座り死を待つことしかできなかった。奸佞の臣は程なく朝廷を掌握し、このように、霊王の後代は徳を失い道を誤るだろう。安全と危険の兆しを見ようと空へ目を向けると、すでに星々が兆しを示している。虹霓こうげい17は牛宿ぎゅうしゅくを囲み、女宿じょしゅくはそれから離れた。黄の精は昇り、青黒の精は下がった。今は太歳の周期八年目、壬子じんしの数は九になると推算される。この時期に若し太歳の精に触れて死んだ死者があれば、自然の法則は働かなくなる事がある。一旦太歳の精に触れれば、ああ危険である!
楚の霊王の王子は太歳が頭に接触した状態で死んだので、太歳の精に再び触れることとなり、奇怪な物と化して、十日ほどの間に幾度も変異し、恐ろしい怪物となり、梼杌とうこつと呼ばれた。楚の王三代に渡り、楚の国は乱れ、国の誰もそれを抑えることはできなかった。南は百濮族コーラオぞくの領地(現在の雲貴高原から湖南省西部一帯)、東は彭蠡ほうれい澤(彭蠡は古代の湖で、主として現在の洞庭湖北部となる)、何千里にも渡り人はいず、鶏の鳴く声も聞こえなかった。楚の昭王しょうおうは即位した後、刀匠である風胡子ふうこしに呉に行き、欧冶子おうじしとその弟子干将かんしょうに会うように命じた。欧冶子と干将は険しい山を掘り、地下の川を排水し、伝説の英鉄を掘り出し、三本の鉄剣を鍛えた。一つは龍淵りゅうえん、二つは泰阿たいあ、三つは工布こうふ。刀身の光は咲いたばかりの芙蓉花の如く明るく見え、刀身の紋様は天上の星の光の如く輝き、刀身の放つ光輝は天上の太陽や月の如く眩しく、刃は南斗星の上で磨かれたかの如く鋭く、鞘の装飾は満天の星を宿した着物を着たかのようであった。
普しんと鄭ていの両国は、このことを聞き、楚に三本の剣を求めたが、楚の王は渡さなかった。そこで、普と鄭と梼杌は共に楚を攻め、楚の都を包囲した。普の軍は都の北に、鄭の軍は都の西に、梼杌は獣の群れを率いて東と南にあった。彼らは三年の間楚の都を包囲し、楚の倉庫にある食料は尽き、武器庫の武器も鎧も不足した。楚の王の信頼する側近も、臣下も、誰一人敵を打ち破る策を思いつけなかった。最後に楚の王は風胡子の提案を聞き、宝剣泰阿を持って城壁に登り、敵に向かってそれを振った(泰阿が大規模な現実歪曲効果を生んだと推測される)。都の三方の大群は突然敗北し後退し、兵士は取り乱し、死者の鮮血は千里に絶えず、猛る獣たちは恐慌した。長江の流れも荒れ狂い、普と鄭の全軍の兵士の髪は一度に白くなり、続いて梼杌の長い毛も光を失った。楚の王はとても喜び、また宝剣工布を振り上げると、凶暴な獣の角が空気の波で折り断たれた。巨大な獣は恐怖して逃げ、獣たちは泣き叫び、死体ががあらゆるところに転がり、残った無傷のものは四散し逃げ去り、長江の水は全て赤く染まった。楚の昭王はまた宝剣龍淵を掲げ、梼杌に投げその頭を貫き、怪物を殺し、楚の国の災厄はようやく収まった。
今ではもう欧冶子は世を去り、干将ももういない。楚の国は強大になり我らの傍にあり、他の誰がそれに対することができるであろうか?そして呉と越は同じ文化を持ち、地形が似た隣国である。西北に長江があり、東方には大海があり、まるで同じ建物の中で、扉を向かい合わせて住んでいるようで、それでいて互いを憎んでいる。これこそが私の心配事である。遅かれ早かれ、越は我ら呉を脅かすだろう。そして越には山の神の庇護があり、我々が周囲と友好を保つことを更に難しくしている。今のところは、楚と友好な外交関係を保ち、まずは越を攻略する。楚の昭王が傲慢ゆえに徳を失うまで待ち、すると三本の神剣は自然と彼を見捨て去るので、その時楚を攻めることができる。楚と越の両国を平定してのみ、呉の長久を保証することができる。陛下には心の平安を保っていただき、このことを他に話さないようにしていただきたい。」
石碑#1964SNHZM2③:25銘文:
原文は以下:
天星隱諸懺,鼗鼓起髣髴。㈠㈡
天星諸々の悔いを隠し、振鼓髣髴と弾む。
朽壤積層痂,鹿臺奄一寤。㈢㈣
朽ちた土と痂は積み層なり、鹿台一寝を覆う。
玉衣泣熾脂,帝幟頽粉蠹。
玉衣は泣き脂を燃やし、帝の旗は倒れ崩れ、虫が食う。雲淖弄龍屍,無垠結黑墓。
雲と沼は龍の屍を作り、無限に黒い墓を結ぶ。血腥崑崙北,相柳橫九土。㈤
血生臭い臭いが崑崙の北にあり、相柳は九土に横たわる。長蛆自蛇盤,穢風釀枯霧。
長い蛆はとぐろを巻き、穢れた風が枯れた霧を醸す。高歌語漸疏,狂哮悲如怒。
高らかな歌の言葉も次第に疎らとなり、狂い悲しみの叫びは怒りのようだ。鉛華泉已涸,孰人洗我骨。㈥
鉛華の泉は涸れてしまい、誰が私の骨を洗うのか。形軀半腐臠,靑狸啖啞兔。
現れた体は半分腐った肉であり、青い狸は唖の兎を食う。以下、注釈:
㈠『鼗鼓』:振鼓ふりつづみ。『書経・益稷』:“下管鼗鼓合止柷敔。” 蒲松龄『聊斎志異·鴿異』:“小者上下飞鸣,时集其顶,翼翩翩如燕子落蒲叶上,声细碎,类鼗鼓;大者伸颈不敢动。”
㈡『髣髴』:漠然と、曖昧に。『楚辞·遠遊』:“时髣髴以遥见兮,精皎皎以往来。” 陶潜『桃花源记』:“山有小口,髣髴若有光。”
㈢『朽壤』:腐った土。『春秋左氏伝·成公五年』:“山有朽壤而崩。”
㈣『鹿台』から『玉衣』の句:『史記・殷本紀』:“甲子の日、紂王の軍は負けた。紂王は走って入り、鹿台に登り、宝玉の衣を着て、火の中で死んだ。”
㈤『血腥』から『九土』の句:『山海経せんがいきょう・大荒北経』:“共工の臣下であり、名を相繇そうようという。九つの首と蛇の体を持ち、とぐろを巻き、九つの地を食べ尽くした。その行くところは沢となり、その水は辛くないが苦く、あらゆる獣は住むことができなくなった。禹は洪水を塞ぎ、相繇を殺したが、その血は臭く、その地は作物が育たなくなった。その地は水が多く、人が住めなくなった。禹はその地の土を取り、山間を塞ぎ、土が取られたところは池となった。群帝はこの池の畔に台を作った。この地は崑崙の北である。”
㈥『鉛華』の句:李賀り・が『瑶華楽ようからく』:鉛華の水君の骨を洗い、君に与り相対し真質を作る。
《邵氏聞見録》第十巻抜粋:
宋そうの神宗しんそうの元豊六年(1083年)2月20日、西夏の丞相の梁乙埋りょう・おつまい18は自ら何十万もの大軍を率いて蘭州らんしゅうを攻めた。城主の李浩り・こうは城門を死守せよと命令し、副将軍の王文郁おう・ぶんいく19は市外に出て反撃するように命令を求めた。
李浩は言った。「城内の騎馬兵は六百に満たず、全軍も五千に満たないというのに、積極的に討って出る余力があるのか?」
王文郁は言った。「敵は多く我々は少ない、その攻勢を挫く必要がある。街の人々の人心を落ち着かせれば、その後、守りを保つことが可能である。これはまさに張遼ちょう・りょう(少数で多数に勝った)が合肥ごうひを守った方法である。そのうえ総大将李憲り・けんの武器庫は城中にあり、その内部の神兵利器の攻撃に敵う敵はいない。”
臣の閻仁武えん・じんぶは言った。「今、李憲は川や平原を遠く離れたところで指揮をとっている。秘密の鍵として作られた統帥印もない。誰が開けることができるのか?また我々は朝廷の指示に従うべきである。ただ守ることのみ許され、出て戦うことは許されていない。あなたが門を開けて反撃に出るならば、私は朝廷に弾劾を上奏する。」
王文郁は言った「今は兵士たちが敵を倒すために出ていくように導きたい。誰もが何千もの敵軍に囲まれ、死は免れない状況である。その上に弾劾を恐れなくてはならないとは!それに、蘭州を守ることは難しいかもしれないが、外に出て反撃することには一筋の光明がある。」彼は再び戦うことを主張したが、李浩は許可しなかった。
その晩、黒い服と傘をかぶった老人が王文郁に会いに来た。左右の側近を下がらせ、部屋の奥で彼に対応した。驚いたことに、それは潞国公ろこくこうの文彦博ぶん・げんはく大人たいじん20だった。文彦博は言った。「私は敵軍と戦うために来た。」(当時、文彦博は異学会の首脳であり、多数の異常な物品を身に着けていたため、包囲下にある蘭州に騒ぎを起こさず入ることができたのは当然である。)
文彦博は王文郁を立ち上がらせ、直接蘭州の府へ連れていき、李浩を解任したことを公に発表し、王文郁を蘭州の軍政両面の責任者とした。当時、文彦博は宋の顧問団の長であり、国防の長でもあったことから、李浩を蘭州府の長から解任し、戦いが終わってから神宗に事後承諾を取り付けることは問題なかった。街中の誰も彼に逆らおうとはしなかった。
文彦博は号砲を鳴らし、夜空を号令の花火が照らした。一時間と経たずに府の建物の前に百人以上の決死隊の男たちが集まってきた。皆黒い絹の服を着て、胸には五弁の梅の紋章が刺繍されており、全員が中華異学会の構成員であった。また、王文郁は自衛軍からも六百人以上の精鋭を集めてきた。その後、文彦博は異学会の印章を持って地下の四つの武器庫を開け、異学会の構成員には洗練された武器を、精鋭たちには操作が簡便な武器を配った。
その日の深夜、王文郁は七百人以上の決死隊を率いて、夜闇に紛れて縄を壁から降ろし、「武経総要ぶけいそうよう」にも記載されていない多数の武器を使用し、敵に奇襲を仕掛けた。街の外ではあちこちで炎が燃え、黒い夜空を昼のように照らした。西夏の軍は大いに動揺し崩壊し、黄河を北に渡って逃げようとし、互いに踏みつけ合い、数え切れないほどの人々が溺死した。蘭州の軍は数十里に渡って追撃し、蘭州は守られた。その時、多くの人々が王文郁を唐の高名な将軍、尉遅敬徳うっちけいとくになぞらえた。その夜、金色の機械傀儡が戦場の空を飛んだのを見たという人もいるが、それはただの逸話とされ、信じられはしなかった。(この金色の機械傀儡と伝えられるものは、壊れた神の教会に関連する巨大機甲であり、おそらく盘甲パンジアと魚鳧ぎょふが秦の始皇帝のために設計製作した十二体の金人の一体、もしくは漢の武帝の時代に東方朔とうほう・さくが設計した「金銅仙人」であると推測される。)
3月1日、皇帝は正式に李浩の後任として、熙き、河か、蘭らん、会かいの軍区の副将軍の王文郁を准将から少将兼蘭州の長とした。これは、王文郁が西夏軍を撃破したことを評価したものである。
翌年(1084年)、西夏の梁皇后りょうこうごう21は全国十二軍区から軍勢を集めた。その数は八十万人を数え、太陽を覆う暗雲のように広大で、彼らの巻き起こす土煙は空を曇らせ、その軍列は何百里にも伸びた。当時、蘭州には西北軍の総将軍李憲が鎮座しており、様々な高度な機械を用いて防衛軍を指揮していた(李憲は宦官であったが)。彼は唐の初期の名将、衛国公李靖の子孫だと自称した。彼が街を守るために使用した奇妙な武器は、衛国公の一族に密かに伝わったものだったと考えられる。敵は蘭州を十日間包囲し、激しい戦いが行われた場所では、死体は互いの上に積み重なり、それらは全て市壁の最上部まで高くなり、彼らは仲間の死体を踏みつけて街を攻撃したが、兵糧が底をついても、まだそれを陥落させることはできず、撤退した。終戦後、市壁の下の死体を数えると、形の揃ったものだけで五万以上あった。驚いたことに、その二から三割は妖魔鬼怪であった。当時私は開封から遠くにいて、この話を聞いて大いに恐れた。その怪物たちと正面から戦った西北軍の将兵たちについては、言うまでもないことではないだろうか?
手紙#1909IMHSCT①:28-7内容:
媧皇会かこうかい 鵸鵌きよ22(大祭司) 大夏太后梁氏、親開のこと:
この手紙を読んでください、今や、私の子の神宗趙頊しんそうちょうきょく23は死にました。その後すぐに、王安石おう・あんせきも死にました。司馬光し・ばこうは耄碌した老害で、文彦博、あの老人は衰え耄碌し、李憲、王中正おう・ちゅうせい、石得一せき・とくいち、宋の重臣たちは死に宦官たちも追放されました。残りの行政院、国防部、監察院、紀検委など主要部門は掌握し、全て我々の教派のものです。ですから今は私が権力を独占しています!西夏を守った西北軍はもう存在せず、異学会と新党も散り散りになり、龐籍ほう・せき、富弼ふ・ひつらの集団、不遜にも私に楯突くいわゆる「西京九老」は殆どが死にました。異学会の死士組織「闇香社」はどこに行ったのでしょうか?
これは千載一遇の大きな機会であり、大龍女媧降臨の日がついに来たのです!
米脂べいし、義合ぎごう、浮圖ふと、葭芦かろ、呉堡ごほ、安疆あんきょうの六つの要塞は、名目上は両国の講和のために貴国へと返還されましたが、実際上の理由はこれら六つの要塞は太歳の収容施設を持っているからです。妹よ、あなたの信頼する手練れを送り、分かれる前に各要塞に行き太歳を取り出し、興慶こうけい24の府中に集めなさい。その後、賀蘭山がらんさん由来の我らの教えの遺物を使い、霊武れいぶにて黄河の水を喚び、数万の生物の生き血を集め、あなたの息子の李乾順り・かんじゅん(西夏皇帝)の肉体を、我らの至高無上の女媧聖皇と十二位の太歳神明に捧げるのです。このようにすれば、古き獣、相柳を復活させることができます。それまでに、私も澶州せんしゅうと孟津もうしで数万の牛の生き血で聖皇と十二位の太歳神を讃えます。私の孫(北宋皇帝)趙煦ちょう・くの血肉を生贄とし、古の獣九嬰を目覚めさせ、合わせて黄河中の龍馬怪獣を召喚します。
我々が相柳と九嬰を従えることができれば、偉大なる共工神霊を呼び覚まし、長江と黄河は反乱し、九州の大地を席巻し、数十億の命の血を生贄とし、太歳の門を開き、大いなる真鍮の檻の間隙を引き裂き、そこから至高無上の聖皇は必ず再臨されるでしょう。
聖皇がこの世に帰られる日には、神々は皆食料となるのです!
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