ワン

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現在

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アーロンの剣は一閃し、鈍い唸りがカルヴィンの立つ地点まで貫いた。カルヴィンは後ろに跳びのき、槍の柄尻で稲妻の雨を地面に降らせつつそれを弾いた。アーロンは迫り、切っ先から噴き出る炎を四方八方に撒き散らし、カルヴィンは回転するように避けた。ようやく止まると槍の柄を強く握り込んで頭上で回し、アーロンは舞うようにしてその長物の切っ先を辛うじて避けた。

カルヴィンは穂先を低く突き出したが僅かにアーロンの左腿を外し、はずみのままに体が前傾した。バランスを失う中で燃え盛る鋼の刃が自分めがけて振り下ろされるのがわかり、どうにか転がるとアーロンの剣が地面に突き刺さるとともに炎が弾けた。アーロンは剣を持ち上げると何度も、何度も、何度も振り下ろし、都度業火から逃げようとするカルヴィンに後退を余儀なくさせた。どうにか背後に十分な空間を見つけ、カルヴィンは必死に立ち上がった。アーロンがまた剣を引いた隙に体を大きく逸らすと、槍から手を離した。

次の瞬間に部屋の空気は張り詰め、低く鈍い音があらゆる音を吸い上げたように感じた。刹那、轟音が響くと槍が2人のいる地点の向かいの石造りの壁に埋まり、巨大でいびつな亀裂をはしらせた。アーロンは自身の腕を見ると、そこに血と灰があった──槍が腕を掠めたのだ。同じくアーロンの腕を見つめていたカルヴィンを見上げた。躊躇いもなく、剣を左に振って先端から炎を吹き、カルヴィンをカーテンのように包み込んだ。カルヴィンは再度横に避けたが、アーロンは再度迫り、とどめの一撃を打ち込もうとした。死を目前にしつつ、カルヴィンは自分に降りてくる刃を止めようと手を伸ばした──

──すると、槍がまた彼の手に戻り、物の見事に燃え盛る剣に衝突した。予想外の出来事にアーロンも驚愕し、もう1撃浴びせることができなかった。カルヴィンは両手で槍を握って押し返し、アーロンを後ろによろめかせたところで機を見て、槍の鋭い穂先を横一字に振った。アーロンは伏せ、再度剣を地面に這うように走らせ火花をまき散らした。

監督者は再度攻勢に回り、飛び交う炎を避けるために伏せて転げるカルヴィンに向け長く広い一閃を翳した。13脚の椅子の並ぶ長いテーブルの上を滑るように駆けていく中で、流れてくる炎に壁のモニターは溶けて真っ黒な炭に変わった。振り返るとアーロンはまた迫っていたが、今度はその黄金の剣が上からではなく下から迫ってきて、カルヴィンの横腹を掠めた。悲鳴をあげて身を翻しながらも槍の柄でアーロンを押し返した。熱い血がシャツに沁みてくるのがわかった。どうにか立ち上がると、アーロンは足を止め、剣を下げた。

少しの間、2人は荒々しく呼吸をして立ち竦み、互いを部屋の両端から見つめあった。

「お前はインサージェンシーの意志にとって、素晴らしい証だな、」
アーロンはカルヴィンから目を離さぬまま、ゆっくりと言った。
「若い頃の私はきっと羨ましがるだろうな。」

カルヴィンは手の甲で口元から血をぬぐった。
「何を羨むことがある?」

アーロンは身をかがめた。
「私が若い頃、いくつもの過ちを犯した──多大な代償を払うような過ちを。それらの過ちを、私の決意が足らないが為であると、ずっと思ってきた──しかしこうしてお前はここにいる。お前の決意のあらゆる要素が私のそれと同じくらい強いか…あるいは、凌駕さえするかもしれない。それでいてお前はここにいる、当時の私と全く同じ場所に立ち、同じ過ちを犯している。」

「俺はあんたとは違う、」
カルヴィンは言い放った。
「あんたが何なのかを知っている。裏切り者。あんたはインサージェンシーのエンジニアになりながら俺たちを裏切った、奴らが差し出した力のために。あんたはその玉座と永遠の命のために理想をも踏み躙ったんだ。」

アーロンは顔を上げた。その瞳は、悲しげだった。
「私はエンジニアじゃないよ、カルヴィン。一度もそうじゃなかった。ヴィンス・アリアンスがエンジニアだった。私たち2人で作り上げたが、彼が創造の長だった。彼こそがSumma Modus Operandiを書き、インサージェンシーを作り上げた。我々への…私への牽制のために。」

彼は立ち上がり、また剣を握り込んだ。
「しかし1点においてお前は正しい。私はお前を裏切った。お前たち皆を裏切った──しかし理想のためじゃあない。私がここへ辿り着いた時、その理想を悍ましい存在と天秤にかけなくてはならなかった。そして理想は私を支えるには十分な力たりえなかった。」

剣は再び火を灯した。そして空間の仄かな明かりの中、剣の炎はアーロンの目の中で眩く踊った。
「お前を殺そう、カルヴィン──お前が憎いからじゃない、お前が私を覆すことを恐れてでもない。私が恐れるのは、お前の意志が当時の私のものよりも強いことだ。私がお前を殺すのは、お前が私を殺した時、お前がかつての私とまったく同じ立場に置かれることになるからだ。そして、お前は確実に強くある。」

彼は剣を頭上高くあげ、その柄から想像だにしないほど強烈な火炎が上がった。それは空に弧を描き、天井を焼きながら電灯をかき消していった。炎は壁に沿って大きくうねり、通り過ぎる石をその割れ目の内側に至るまでを黒く焼き焦がしていった。やがてそれが床に着くと、炎は波のように空間に叩きつけられ、全てを燃やし、煙と灰を宙に撒き上げた。巨大な炎の塊は、アーロンが剣を頭上に戻すとともに回転し、再び、空間全体を業火の渦に変えた。

そしてカルヴィンはいた。中央のテーブルから跳び上がり、手中の槍を構えていた。防御に回ると槍の切り裂くような轟音が耳を劈いた。刃を振り下ろし、穂先との衝突と同時に、輝ける黄金は、閃光と共に砕けた。槍はアーロンの胸を穿ち、彼を部屋の向こうまで吹き飛ばし、最奥のモニターの下の壁に縫い付けた。粉々に砕けた剣の破片が手から溢れ、バラバラと床に落ちた。槍の刺さった背後の壁には、天井まで伸びる巨大なヒビが生じていた。空間全体を満たしていた炎はしばらく揺らめいたのち、何もなかったように消え失せた。

アーロンは喘ぎ、壁によりかかった。胸元に手を伸ばすと、血が指の隙間から流れ出た。槍の柄を片手で弱々しく掴み、引っ張ったが、もはや引き抜く力も無かった。咳き込むと、喉奥に血が溜まった。体の感覚が鈍く、手足が冷たく生気を失っていった。視界はぼやけ、呼吸するごとに苦しさを増していった。

そしてカルヴィンが彼の前に立った。自身も血と痣にまみれ、しかし両足で立っていた。アーロンは彼を見上げると、笑った。その歯に血がこびりついた。

「喋りすぎたな、」
静かに呟いた。

カルヴィンは片膝をつき、彼の目をまっすぐ見つめた。
「終わりだ。あんたが奴らの最後の1人、あんたが片付いた今、世界はようやく癒えることができる。」

アーロンは頭を横に倒し、また立てた。両目をカルヴィンの目に向けた。するとカルヴィンは、数ヶ月前、あのソマリの倉庫でデルタと会議をした日に感じた巨大な存在感を思い出した。自分の感覚全てで──心、体、魂の全てで──独特で落ち着かない感覚に気づき、あたかも何か巨大な存在から観察されているように感じた。やがてしばらく経つと、それは消えた。

アーロンは静かに笑って咳き込んだ。
「違う、カルヴィン、お前は──お前は本当に…わかっていない。私も…私もかつてそう考えていた、だが…間違っていた。私たちは、間違っていた。アリアンスにはわからなかった、しかし私…私は、見た。彼は理解しなかった、私も彼にずっと言えなかった、そして彼は、私に裏切られたと思ったまま死んだ──」
ひと息するために喘鳴が漏れた。
「──大好きだった。あいつは、私の兄弟だった。しかし、あいつは知らなかった。」

アーロンの呼吸は浅くなりつつあった。
「不十分なんだよ、カ、カルヴィン…まだ…まだ、足りない。癌、癌は…違った、我々じゃなかった。そして彼も…違った、フレデリック…ウィリアムズも違った…財団なんだ。いつだって、財団だったんだ。」

カルヴィンは立ち上がった。
「もういい──終わりだ。俺は階段を降りて、全てを終わらせる。これが終焉の在り方だ。」

アーロンはもう数回だけ呼吸をし、一言言い放った。
「いいや、違うさ。」

その瞳は宙を見つめ、その唇から名前と思しき言葉が紡がれた。

「ソ…ソフィア…ソ、フィア…私、私は…私は…私は───」

最後のひと息を懸命に吸おうとして、しかしもはや力を失った体は槍にもたれるように弛緩した。

アーロン・シーガルは死んだ。

カルヴィンはヨタヨタとその亡骸から離れ、思考が逡巡した。頭上からは溶けたプラスチックと金属の光る糸がポタポタと落ち、ほぼ完全な闇となった部屋に辛うじて影と呼べるものを差した。その闇にしばらく立ち尽くして呼吸を整え、やがて覚えのある存在感が暗闇の中に混じった。

「奴は死んだ、」
カルヴィンは告げた。その声は、何故だか自分のものとは思えなかった。
「俺が殺した。」

『目的』は部屋の奥で不動に佇んだ。それは両手をあげると、一度だけ手を叩き、部屋中の石造りの床から、背の短い円柱が伸びて空間を照らした。カルヴィンは躊躇しつつ1歩踏み出し、そしてそのまま歩いていき、アーロンの死体を壁に縫い付けたままに捨て置いてあの控えの間に続く階段を登った。巨大な人型実体が、彼を待っていた。

「『目的』よ、」
静かに尋ねた。
「この施設には、財団そのものを無に帰すことのできる部屋があることで間違いないな?」

『目的』は動かなかった。
「然り。」

カルヴィンは頷いた。
「控えの間の下にあるんだな?」

「然り。」

「連れて行け。」

2人は奇妙な囁きのトンネルを通り、広間を通り、財団の遺産を描いたあの空間の下に戻った。巨大な振り子が頭上をゆっくりと、静かによぎり、どこか遠くで巨大な時計の針がカチリ、カチリ、と、足音を除く空間唯一の音を静かに奏でていた。

その場所、空間の中央に鎮座するのは、あのエレベーターだった。『目的』は先にそれに近づき、手のひらを扉に翳すと、それはいとも簡単に開いた。カルヴィンは踏み込むために動いたが、『目的』が彼の肩に手を乗せてきたことで足を止めた。

「私は次のことを伝えることを課せられている、」
彼は静かな声で言った。そのバリトンの声は広間の端からこだました。
「ひとたびこのエレベーターに乗り込めば、後戻りはできない。この先で決められる選択はただ1つ。そしてそれを取り消すことはできない。」

カルヴィンは頷いた。
「わかっている。」
地下深く、壁に張り付けられたアーロンの見える巨大な扉に一度振り返った。
「時は来た。」

『目的』は道を開け、カルヴィンはエレベーターに乗り込んだ。すると背後の扉は閉まり、ゆっくりと下降を始めた。

— - —

エレベーターは止まり、扉が開くとカルヴィンは眩しさに目を細めた。高い天井に、暗い木の床の部屋へと踏み出した。奥の壁には壁全体を埋めるような高く聳える窓があり、窓の向こうには山々に沈む陽が見えた。壁には本棚が立ち並び、収められた書物は分厚く古めかしいものだったが、綺麗に手入れをされていた。

1つの壁には、あの上階の部屋と同じように大量のモニターが備え付けられ、映す内容だけ少々異なっていた。1つには雨の中で手首を切る女。1つには頭蓋に弾丸を受け電車から投げ落とされる男。4人で野宿した山奥の廃墟の風景、グリーンが破壊した燃え盛る街。空港の映像では、金物臭い虐殺現場でズタズタに破壊された端正な顔の男の死体。胸に槍を穿たれたアーロン・シーガルの亡骸も見えた。

中央の部屋には高級そうな木製のデスクがあり、そこも手入れがしっかりと行き届いていた。そこにモニターが設置され、そこには財団のセキュリティログイン画面が開いていた。カルヴィンは歩み寄り、背もたれの高い椅子に座ると、デスクの隅に奇妙なものを見た──黒い、金属製の、ダイヤル式電話だった。

コンピューターに向き直ってログインを開始する。システムはデスク上に現れた指紋認証と虹彩スキャンによる生体認証を要求した。本能的に手を伸ばし、赤く光に覗き込むと、それらはすぐに木材の中に引っ込んだ。スクリーンはログイン成功を示し、部屋中のモニター映像が切り替わった。全て異なる映像を映していたが、今度はカルヴィンも知っているものだった──財団サイトだ。1つはサイト-19、別のものはサイト-42、別のはサイト-77。あらゆるLED画面を埋め尽くし、ついには壁全面が数多の財団サイトの映像となった。

そして、デスク上のスクリーンに、1つの選択画面が現れた。

[TERMINATE]終了

カルヴィンは胸の中で息がつまるのを感じた。キーボードに手を乗せ、指が最後の勝利の瞬間を噛みしめるように浮ついた。深く息を吸い、そして──

電話が鳴った。

驚き、指先はキーからほんの髪の毛1本の距離で止まった。鳴り響くものを探すと、また電話が鳴った。また。また。

5度目のコールで電話に出た。手はまるで自分の意思に逆らうように動いていた。どこか機械的ですらある動きで、何か自分でも判断しかねる本能的なものが同じく彼を動かした。ゆっくりと、あたかも生き物を取り扱うように受話器を拾い、耳に当てた。聞こえるのは反対側の静けさだけだった。

「もしもし?」

受話器から音が響いた。紛れもなく、男の声だ──しかし、なにかがカルヴィンの腕の毛を逆立てた。何か極めて遠くにありながら、同じ空間を共有するものの声を聴いている感覚だった。

「まずは君の功績を讃えよう、ミスター・ルシエン。」
声は言った。音色はひどく明るく、声色は滑らかなものだった。
「素晴らしい行動力を見せてくれた。きっと我々にもよく尽くしてくれることだろう。」

カルヴィンの鼓動が早まった。
「誰だ?」

「誰だって?おやおや、ミスター・ルシエン、とっくにわかっているはずだろう。君がずっと殺したがっていた男だよ。」

カルヴィンの額にどっと汗が噴き出した。
「何だと?どういう意味だ?」

「私が管理者アドミニストレーターだよ、ミスター・ルシエン。」

カルヴィンの心の中でなにかが芽生えた。恐怖のようだが、もっと本能的なものだった。
「ありえない。管理者はとっくに殺されている──アーロン・シーガルが殺したんだ。」

声は穏やかに、「フム」と言った。
「いや、いや、違うよ。彼が殺したのは、フレデリック・ウィリアムズという男だ。」

「意味が…フレデリック・ウィリアムズ管理者だったんだろう。」

声は小さく笑った。決して、意地悪いものではなかった。
「もう一度言うが、少し違う。そうだな、ミスター・ウィリアムズはか細い糸を引いて、宇宙をゆっくりと壊していただけの男だ。彼は糸を見つけ、糸を調べ──分類し──定義し、やがて、自らもなったのだ。そうして財団は生まれたのだよ。」
受話器越しの声は一拍置いた。
「フレデリック・ウィリアムズは自分よりも大きなものを見つけ、育てるための種を植えた。アーロン・シーガルはそのために彼を殺したが、彼の一部は残り続けた。彼がまだいるのは、アーロン・シーガルが殺したのは人間のみで、種を潰していなかったからだ。わかるだろうか?彼は私を殺さなかったのだよ。」

カルヴィンの腕から力が抜けた。全身に凄まじい重圧を感じた。
「なんなんだ、あんたは?」

「書類のサイン。会議室のスーツ。電話越しの声。ミスター・シーガルは真実に気づくのに遅すぎた。フレデリック・ウィリアムズは財団の最初の管理者だが、管理者その人ではない。こそが管理者だよ、ミスター・ルシエン。私は財団があるから存在する。そして財団は私があるから存在する。『目的』はいつもなんと言っていた?」
声はしばし思案するように止まった。
「私を知ることは、財団を知ることだ。そういうことだ。」

カルヴィンは返答しなかった。声は続けた。
「君は本当にミスター・シーガルが財団の権力のために参入したと思っているのかい?財団が彼をかどわかし、彼がその手管に落ちたと?」
声は笑った。
「違うよ。彼が結論づけ、決定したのだ。理想を代償にね。君がここに立つのと同じ理由で行動をしたのだよ──全てを終わらせるために。」
その声に突然敵意がこもった。が、それもすぐに潜めた。
「そして君がやってきた。そしてあらゆる警告を過ぎてなお、君はあの槍を彼の胸に突き立てることを決めた。私とあらゆる創造物の間に立つ唯一の男に。」

声はまた1つ置いて、言った。
「そして?君が電話に出たのだ。」

カルヴィンの胸に、一抹の抵抗の意思が光った。
「俺が電話に出なかったらどうした。」

受話器越しの声は笑い始めた。鋭く、唐突な声だった──聞こえる前から、意識を呼び起こすようなものだった。
「馬鹿を言ってはいけないよ、カルヴィン。電話というものは、必ず誰かが出るものだろう。」

「このまま立ち去ってもいいんだぞ。」
カルヴィンの舌で、言葉が石灰のように広がった。次に何がくるかなんてわかりきっていた。のしかかる重圧に必死に耐えた。モニターに向き直り、カーソルを見つめた。とてつもなく、遠く感じた。

「もちろんだとも。今すぐ立ち去っても良い、そして君がここに訪れたことを、私と君だけが知ることとなる。そこのボタンを押して、それが財団にとって何を意味するのか知らしめても良い。」
カルヴィンは、姿の見えない声の主が唇をニタリと釣り上げるのが想像できた。
「そしてしばらくすれば、電話はまた鳴って、鳴って、鳴って──誰も取らない。誰もどうするように指示をしないのだ、ミスター・ルシエン。サイトが破られ、中に閉じ込められていた怪物らが解き放たれた時何億も死に、さらに続く。」
声はまた笑った。
「それでもなお、私はここに在り続けるのだよ。」

それは語り続けた。
「君も言っただろう、私が癌だ、私がアノマリーだ。私はあの最初の男が最初の奇跡を見た時に生まれた──財団全体の意識創発だ。フレデリック・ウィリアムズはそうした時の自分の行いを理解していなかったが、ミスター・シーガルは時間のうちにそれに気づいた。さて、今この瞬間、癌を食い止めるに最も適した立場の人物とは誰になるか?当然、ミスター・シーガルではない。彼は今、上階で壁に縫い付けられているからねえ。君は彼の守護者を皆殺しにした──万が一、彼が死んだ時に後任する者たちをね。さて、誰が私を収容するのかな?」

「や、奴らは…」
カルヴィンは自分が喋っていることに気づいた。しかし、なぜかはわからなかった。
「奴らは、悪だったんだ。」

「悪?」
電話口の男は大きな声をあげた。
「ミスター・ルシエン、これは今のところ君の犯した最大の過ちだよ──君自身が倫理的に正しいと思い込むとは。君は自身の行動を善と言い訳し、敵こそが悪を為していると決めつけた。君は選択を考慮するために一度も立ち止まらなかったのだ、カルヴィン、そして人々がなぜそう選択するのかも、ね。」

言葉は続いた。
「『会計士』か?彼がミスター・シーガルに選ばれたのは、私の存在が経済に影響を与えているからだ。彼は私の活動を監視するためにあったのだ。彼は決して無闇に人を傷つけることはなかった──どこからともなく現れる財団の資産は全て、独裁者や策士どもからだ。『嘘使い』は不幸な状況に置かれた善人だった、その新たな能力で世界を狂気から守る機会を与えられただけだ。『外様』は、実にかわいそうな娘だったな、彼女はただ難しい立場の研究者で、その道を歩ませるくらいならば死を選んだにすぎない。考えてみるといい。」

声は一度止まり、なにやら考え込む様だった。
「ああ、紛れもなく腐った林檎もあったな…特に最も大きな力を与えられたものについては『記録管理人』と、『少年』と、『アメリカン』だ。しかし彼らですら、利用価値があり、他者からしっかり管理されていた。君が言葉を遮る前に、『記録管理人』はただ本の虫であることに満足していて、生きた人間のことなど歯牙にもかけていなかった。『少年』は道具だよ、カルヴィン、しかもかなり強力なやつだ。しかし、大人の言いつけを従う子供をどう責められようか?」
再び、言葉を止めた。
「『グリーン』な。あれが最も酷かったかもしれないな。しかし、彼女の先になにがある?不可能の中でひたすら奔走する人々だ、責任の中で狂気に陥り、残りは巨大な装置の駒になるだけだ。そして君はここにいる、そしてその高慢な倫理の塔の上から、これらの哀れな人々をと呼ぶわけだ。君はそんな理由だけで彼らの殺害を正当化したのだ。」

カルヴィンは反論をできないまま言葉を失い、部屋は沈黙に満ちた。彼がなにも返す言葉ないと気づいて、声はため息をついた。

「違うよ、カルヴィン、」
声は言った。優しく、疑いようもなく、結論するように。
「善などない。悪などないのだ。」

もはや立つことはできなかった。カルヴィンは椅子に沈み込み、耳元で受話器をただぶら下げた。対向の声はまだ話を続けた。

「まあこの仕事にはちょっとした…特典があると君も知る。さあどうなるだろうね?アーロン・シーガルは私を殺せなかった、しかし君ならば見つけるかもしれない。そしていつか──君が本当に尽力し、正しい光を掴み、ちょうど目を細めたならば──君が正しいことをしていると、自身に言い聞かせられるかもしれないな。」

カルヴィンはなにも言えなかった。周りの世界が空虚になった。残ったのは電話機と声だけだった。思考の奥で、アダムが地面に転がって、自身の名を繰り返し叫びながら戻ってくるように懇願した。オリヴィアは、その皮膚が破れ、血が顔面の割れ目からこぼれ、瞳が生気を失いなにも見つめずにいた。そしてアンソニーが、地面に崩れ、必死に喘いでいた。

上階の時計の鐘が時を告げた。ゴーン。Goneゴーン。Goneゴーン。Goneゴーン。Goneゴーン。Goneゴーン。Gone

「喜べ、ミスター・ルシエン。仕事は始まったばかりだ。」

通話は切れた。カルヴィンはカチンと、受話器を下ろした。部屋に響く音は、自身の心音と、こだます時計の鐘の音だけだった。ゴーン。Goneゴーン。Goneゴーン。Gone

部屋を見渡し、心の目で何かを見た──遠い、遠い昔の風景の夢の再現だった。アーロン・シーガルが、デスクの電話の受話器を耳に当て、震えているのを見た。ソフィア・ライトがその隣に立ち、悲しげながらもあまり驚きもない表情をしていた。そしてよく知る男、アンソニー・ライト…ヴィンセント・アリアンスだった男が、銃を構えてデスクの前に立っているのを見た。その銃口は、アーロンの心臓に向けられていた。
「そのクソ電話を下ろせ、」
アンソニーが言うのを聞いた。
「下ろせっつってんだ、アーロン。早く行こう。ここから出るんだ、早くするんだ。お前にやらせはしねえ。」

「彼はどうしても──」
ソフィアは言葉を挟んだ。

「黙れっつってんだ、このアマ、」
アンソニーは、手を震わせながら言い放った。
「てめえがこいつをここに連れてきたんだ。これがてめえの毒だ、ずっとこれを企ててやがったな。ここでこいつを待ち受けるモノを知ってやがったな。」
彼はアーロンに向き直った。
「アーロン、後生だ。俺たちの果たしてきたことを。あらゆる犠牲を考えてみろ。正さなきゃならねえんだ。行かなきゃならねえんだ。まだやれる。ただその電話を下ろせ。頼む。電話を下ろしてくれ。」

アーロンの表情は死んでいた。その瞳に生気はなかった。彼は目の前の銃口を、迫り来る電車を見つめるようにただ見つめた──何か重厚で、不可避の存在を見つめる様に。アンソニーは首を振った。

「アーロン。頼む。後生だ、早く行こう。行くんだ。行くんだって。この女は捨て置け。ここで朽ちるに任せろ。こいつはお前になにも与えやしないんだ、アーロン。こいつには何もない。いいから電話を下ろせ。」
彼は銃口を少しだけあげた。
その電話を下ろせっつってんだよ、後生だから。

アーロンの目は、彼をじっと見つめていた。その体は、震えていた。

「できないよ、ヴィンス、」
彼は静かに言った。その声は、空虚だった。
「できない。できないんだ。」
アンソニーの顔は、真っ赤に染まった。血管が皮膚を押し上げ、瞳は暗くなった。嫌悪と怒りと虫酸が迸り、絶叫した。そしてカルヴィンは銃声を聞いた──アンソニーが、その弾倉の中身を全て天井に撃ち出し、石片や塵をデスク上に降らせた。全て撃ち終えると、深く息を吸った。

「わかった、」
彼は言った。もはや、2人を見上げようともしなかった。
「わかった。俺にはお前を殺せねえ、アーロン。そんな気分じゃねえ。もしかしたら…俺に運があれば、てめえの過ちが俺の代わりに果たしてくれるかもしれねえ。」

彼は1歩踏み出し、弾を撃ち切った銃をデスクに置いた。他に言葉を交わすことなく、彼はエレベーターへと踵を返し、視界から消えた。アーロンもソフィアも動かなかった。

幻影は消えた。カルヴィンはまたデスクで1人になった。見下ろし、そこに置かれた銃を見た。見上げると、天井を作る石に穴がまだ残っていた。

そして電話が、静かにデスクに鎮座していた。

30秒後、それは鳴った。


電話が鳴った。


電話が鳴った。


電話が鳴った。


電話が鳴った。


電話が鳴った。


7度目のコールで、カルヴィンは受話器を取った。




- EPILOGUE -


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