テン
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過去

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小さなアパートメントの静けさの中、ヴィンセント・アリアンスは飲み物を一口啜った。半分空いたボトルと弾の装填された銃がカウンターの上、すぐ近くに置かれていた。黄昏の細い筋がブラインドの狭い隙間から覗き、目の前の床で俯せのアーロン・シーガルを照らした。

アリアンスはグラスを横に置き、タバコの長い一服をしつつ眩さに目を細めた。一瞬後、アーロンが身じろぎした。彼は肘で起き上がり、眠気とヒゲの唾液を片手で拭った。彼の赤く腫れた顔が、アリアンスを見た。

「何があった?」
彼は呻いた。
「俺たちはどこにいるんだ?」
彼は自分の手を見下ろした。まだ震えていた。
「うまく、いったのか?」

アリアンスはまた一服した。煙はゆっくりと彼の鼻から漂い出て、目の前の光を浴びた。その煙の向こうで辛うじて姿が見えた。
奴は死んだよ。
アリアンスの目が遠くを見つめた。
「うまくいった。」

しばし、アーロンは動かなかった。そして─突然─拳を床に叩きつけた。

「よしっ、」
食いしばった歯から言い放った。
「よし!。」

アリアンスの表情はまだ遠く見ていた。
「わかってると思うが、死にかけたんだぜ。」
右側にあるカーペット上の灰を蹴った。
「仲間の数人は逃げ切れなかった。」

アーロンはよろめき立ち上がり、壁に背中を倒れ込ませた。手を伸ばすと、アリアンスがタバコを手渡した。

「何人だ?」
アーロンは尋ねた。

「お前と俺、フェリックス。コンラッド。イングリッド。」
アリアンスは指で数えた。
「計5人。フェリックスは他のサイトの研究員達のもとへ向かった。何人が俺らを求めてきた。みんな心底怯えてる。」
またグラスから一口飲んだ。
「お前が死んだんじゃないかと思った。」

アーロンはこめかみを撫でた。
「あまり思い出せないな。」
そしてアリアンスに目をやった。
「若返ってないか?」

「ああ、全員な。あの水の効果だ。」
グラスを飲みきった。
「やる事が山ほどあるぜ、アーロン。だが始める前に、まず何故こんな事をしでかすのかを説明してもらおうか。」

アーロンは首を振った。
「もう関係ないよ。全ては終わった。」

「クソが、関係あるんだよ。」
何かが変わった。2人の間に距離があった。
「俺らはやった─がやったんだ─この命が尽きるまで、ずっと苛み続ける事をよ。それでも俺らはやったんだ。だってそれで世界が救われるんだからな。お前はアバドンを滅ぼす千載一遇のチャンスにあった。そしてやらなかったんだ。」

その声はどんどん厳しく、冷たくなっていった。
「あの時お前は、あいつらを起動する瞬間に俺に行けと言った。あの子供達を。お前は聞くなと言ったよな。だから聞かなかった。俺はお前を信じていた、なぜならお前は一度も信じない理由を作らなかったから。だが今はどうだ?俺には聞きたい理由がある。お前はなぜフレデリック・ウィリアムズを殺したのか説明しなきゃならねえんだ。」

しばし、長い時間、静寂が満ちた。アーロンはタバコの一服を終える為に時間をかけた─アリアンスはまた一杯注いだ。壁に寄りかかれば、アーロンはアリアンスの目の周りにかすかな、赤い腫れをみとめた。

「アバドンなんていなかった、」
ついにアーロンは答えた。
「もともと存在しなかった。アレは囮だったんだ。」

アリアンスは不規則な息を漏らした。
「そんなのどうやってわかる?」

「彼が言ったからだよ、ヴィンス。」

「何?」

「そして彼を信じなかった時、」
アーロンは続けた。
「彼は俺に見せつけた。」
沈黙に語らせた。それの物語るものに疲れてきた時、言葉を再開した。
「コンゴのサイトの前の時だった。俺はあそこにいた、彼と一緒に。」
アーロンは息を吐いた。煙の筋が鼻から流れ出て、天井に向かって立ち上っていた。

アリアンスは何も言えなかった。アーロンはタバコを見つめた。
「彼が何者なのかは俺にもわからない。たぶん人間だった…かつては。おそらく。しかしもはや違うものだった。彼はあらゆる事が出来た─不可能な事をできた。サイトが壊滅した時…、」
彼は目を閉じた。
「施設を丸ごと平らにするのを見たんだよ、ヴィンセント。たった1人の男が。たったそれだけだ。それがアバドンだ。」

「どうしてそんな─」

アーロンはまた目を開いた。
「きっと俺を同族だと思ったのだろう。」
そして、声を柔らかくした。
「彼がコンクリートと鉄格子をまるで柔らかく水っぽいペーストであるかのように通り抜けるのを見たよ。自身の骨格を濃密な黄色い煙にして吐き出すのを見た。女の血が結晶化するのを見た…まるでダイヤモンドのように固く、チョークのように脆いものに。彼はそれを俺に見せつけた、俺が言いふらしたところで誰もこんな事を信じないとわかっていたから。彼は見せつけた、何故なら…きっと、俺がこれから何を為すのかを、見たかったんだと思う。」

アリアンスはうまく言葉を形にできなかった。声が喉につっかえたのだ。
「だから奴を滅ぼしたのか。」

アーロンは至って落ち着いていた。
「そうだ。俺には奴を殺せるような力を持っていない事を知っていた、そして…」
そこで止まって立ち止まり、別のボトルがないかを探った。無事見つけた時、そこに書いてあるラベルを見なかった。自分用にそれを注いだ。

「きっと奴が見たかったのは、俺が何かをできるか─何かをするか、という事だ。彼とのやりとりの中で…初期の頃、彼はアノマリーの事を『素晴らしい』と形容していた。まるで日の出について語るようにアノマリーを語ったんだ。俺が思うに…いや、わからない。きっと彼は一度も満たされなかったんだと思う。きっと何もかもが。」
アーロンは1口でその1杯を終えた。

「奴が癌だよ、ヴィンス。アバドンじゃない。『管理者』だ。奴こそ抹殺されなければならなかった。何もかもが滅ぼされなければならなかった。芯から腐り果てていたんだ。」
ボトルを持ち上げ、また1杯を注いだ。

アリアンスの呼吸は重く、震えるものとなっていた。また喋り出すには少しかかった─そうできた時、辛うじて押さえつけられた嗚咽となっていた。

「ずっと知っていたなら…今までずっと─俺達は止まれた筈だ、アーロン。俺達はきっと─見逃す事だってできた筈だ、きっと─」

アーロンはボトルを乱暴に下ろした。
「ダメだ、ヴィンス。『子供達』は必要だった。彼らがいなければ、きっと果たされなか──」

アリアンスの声は、怒りに爆発した。
「俺達はあの子らを切り開いて脳に刃を入れたんだぞクソが!」

アーロンは顔を顰めた。アリアンスはカウンターに手を伸ばし、自身を落ち着けた。
「俺は─俺は、子供達を手術台に縛り付けたんだぞ、アーロン。俺はあの子らを縛り付けて、お前に、あの子らを構成する最後の一欠片までを切り刻ませた。あの子らは叫んで、叫んで、俺達はそれでも切り刻み続けた。そして叫びが静かになっていって、静かになっていって、最後にはかすかな途切れ途切れの音に、耳を澄まさなきゃ聞こえないほど小さな湿っぽい嗚咽に変わっていって、そして、ある日にはもう音がしなくなって、そして…」

アリアンスの声は、震えた喘鳴に変わった。目を閉じて、10秒数えた。

「お前は、ウィリアムズ博士がただお前の為す事を見たかったと言ったな。でもお前は?」
彼は目を開いた。
「どうしてそれを止めなかった?」

「言っただろう。殺さなければ─」

「信じない。」

どちらも喋らなかった。

アリアンスはカウンターから離れた。
「財団が崩壊したら、俺達にはやるべき事がある。」
その声は、不気味なほどに穏やかだった─まるで真っ暗な水を覆う薄氷のように。

「フェリックスは研究員をまとめて作業を始める場所を探している。あいつら全員は、『管理者』がアバドンと組んだと思っている。お前が何らかのヒーローだと思っている。お前が率いてくれると期待している。そしてそれこそがお前の為すべき事だ。」

「ヴィンス。」
アーロンは向き直り、生気のない目を見開かせた─まるで何かを遠くから眺めるように。
「お前も、見たんだろう?あれが起きた瞬間を─彼が滅ぼされた瞬間を。あの瞬間を、お前は見たんだろう。そうだろう?」

「ああ、見たよ。」

「あれは…」
アーロンは、最適な言葉を探った。
「あれは…」

「なんでもなかった、」
アリアンスは答えた。
「ただ、財団の下に横たわる死体の1つにすぎん。」


現在

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アダムは顔にへばりついた蜘蛛の巣を吐き、拭き取っていた。
「僕が虫嫌いだって知ってるよね?」

カルヴィンは笑った。
「虫がお前にビビってるとも思えないな。」

濃い朝霧が木々から滲み出ていた。それが森ににぶい琥珀色の光沢を作っていた。昆虫達の小さなコーラスが2人を包み、あたかも侵入を咎めているようだった。踏み出すごとに枯葉が足元でカサカサと鳴った。

アダムは口元の巣をぬぐい続けた。
「しかも魔法とか。もし嫌いなものをリストにしたなら、これで決まりだよ。『虫と魔法』。そんであんたは両方ある方の任務に連れ出したわけだ。」
またいくらか巣を吐きながら止まった。
「なんで僕?なんでアンソニーとオリヴィアじゃないの?2人の方が絶対に向いてるのに。」

「オリヴィアは『嘘使い』の件で忙しい。」
カルヴィンはポケットから手帳を取り出した。
「アンソニーについては、『外様』の情報を探っている。」

「ああもう、わかったよ。でも今回の女って─つまるところ、なんかの魔法使いなんだろ?そんなのどうやって相手にするんだよ?なんか計画でもあるの?」

「いくつか。」
カルヴィンはページをめくり、歩きながら読み進めた。

「あっそ。で、何なの?」

「主に顔面をぶち抜く事かな。」

「えっと、それは…」
アダムは嫌な顔をした。
「それは計画とは言わないでしょ。」

「今のところ上手く行っているぞ。」
カルヴィンは手帳から目を離し、アダムに視線を向けた。
「そしてもし事態が苛烈になったなら、一応…物はある。武器だ。」

「何それ?」

「言えないな。」

「マジで言ってんの?なあなあ、それは─」

「いや、」
カルヴィンは言葉を遮った。
「俺が言いたいのは、言葉通り言えないんだ。」
手帳を閉じ、立ち止まった。
「着いたぞ。」

アダムの顔は一層顰められた。何もないそこを見渡した。
「何も見えないじゃんか。どうしてわかるの?」

「耳を澄ませろ。」

アダムは立ち止まり、耳をそばだてた。

静寂だ。

「財団が大概に凄まじいアノマリーを抱え込んでいるのはわかるな?そう例えば、野放しにすれば、世界が終わりかねないようなのだ。」

「うん。」
アダムは木に寄りかかり、拓けたそこを見渡した。静けさが─「不動」の感覚だ─圧倒的だった。それを破る事は、無作法だと思えるほど。
「そうだね。」

「そして財団がかれこれ、そうだな、1、2世紀ほど存在している事は知っているな?」
カルヴィンはポケットに手帳をねじ込んだ。

アダムは頷いた。
「そうだね。」

「それじゃあ歴史のクイズだ。財団はそんな世界滅亡アノマリーをそれだけ抱え込んでいて、しかし財団はここ100年ちょっとの歴史しかありません。なら、それ以前は誰がそんなアノマリーを収容していたでしょうか?」

アダムは目を見開かないようにおさえた。
「誰もしてない。だってアノマリーは財団以前には存在しなかったんだ。監督者が不死性を得る為に作り出したんだ。ねえ、本当に何なのさ?子供のクイズじゃないんだから。」

「ところがそうじゃない。事実、財団以前から存在するアノマリーはあるんだ。その上、そもそも最初から存在しなかったなら、どうやってアノマリーを『作る』っていうんだ?」

アダムは胸元で腕を組み、眉にしわを寄せて考え込んだ。

「実際確認されているのは、」
カルヴィンは空き地の1箇所に向けて歩きつつ、言葉を続けた。
「アノマリーの数が見るからに増え始めたという事だ。財団は問題を作ったんじゃない─問題を大きくしたに過ぎない。」

「どうやって?」

カルヴィンは目的地に辿り着いた。2本の若木が並んで立っていた。目を閉じ、深呼吸し、そしてその間へと手を伸ばした。

その手は手首まで消えた。

アダムの目は皿のように大きく見開かれた。カルヴィンが腕を引くと、傷1つないままの手が戻っていた。振り向き、それをアダムの前に突き出し、指を動かしてみせた。
「引かれるべきでない糸を引いたって事だ。使おうとしたんだ。あまつさえ利用しようとさえな。」

「何だよ、これ…」

「道だ。世界と世界のトンネル…ほつれた、バラバラになった糸だ。」
カルヴィンは若木に顔を向け、また手を伸ばした。
「ここを通り抜けるには、正しくノックする必要がある。」

アダムはカルヴィンに歩み寄り、その手の途切れる場所を見つめた。
「えっと…何?」

「道を開くものだ。ある時はその日が鍵で、ある時は手にした物品が鍵となる…あるいは儀式だったり、言葉だったり、思念だったり。今回の場合は、知識のカケラが鍵だ。とても大切な知識だ。」
カルヴィンはアダムに振り向いた。
「ここを通り過ぎる頃には、すっかり忘れている事だろう。」

「えっと…」

知りたい知識の小さなカケラについて考えるんだ。でも知る必要はない。そして、若木の間を通るんだ。あと事前に言っておくが…結構激しい道になるぞ。」
カルヴィンは背を向け、先へ進んだ。彼の姿は消えた。

アダムはカルヴィンが消えた場所を、案外長い時間を見つめ続けた。そして息を吐き、目を閉じて1歩進んだ。THAC0が何の事なのか知る必要はあったか?

それは一気に迫ってきた。空間と物質がタフィーのように柔らかく伸びた。木々が引き離された。空気が押し寄せ、彼を迎え入れた。まるで首がへし折れんばかりの勢いでトンネルに突っ込んだようだった─光と音のトンネルが、どこまでも続いていたのだ。

周りで世界が唸り声をあげた。声を出そうと、叫ぼうと、悲鳴を上げようとした─しかし彼の起こす音は全て唇から引き剥がされ、洞へと渦を巻きながら吸い込まれていった。冷たく、遠い星々が空と足元から見つめてきた。

そしてやがて─まるで伸びきっていた輪ゴムの宇宙が離されたように─全てはパチンと音を立てて元に戻った。

アダムは前につんのめり、手と胸で着地した。

「大丈夫か?言ったろ、結構激しいって。」
カルヴィンが手を伸ばし、アダムを助け起こした。

彼らは中にいた。空気は不思議なほどに冷たかった。床はなめらかで、平らで、オレンジ色だった。アダムは立ち上がりつつ、辺りを見回した。

「これは…」
アダムはうまい言葉が浮かばなかった。

多数の細長い蛍光灯の備え付けられた、広大な事務所にいた。冷蔵庫サイズのコンピューターが部屋の壁に沿って静かに唸っていた。アダムはそのモデルがわからなかったが、当てるとすればおそらく80年代半ばのものだ。レコードサイズの磁性板をハードディスクに使っていた機種だ。

巨大で無骨なモニターを備えたデスクが彼らの周囲に並んでいた。アダムは古めいたマイクロフィッシュマシンのようなものすらを見つけた─最後にそんなものを見たのは父の書斎の中でだった。

「─期待してたのと違う。」

ホールは部屋の4方向全てに伸びており、それぞれが違う部屋へと続いていた。一見すると全て同じように見えた。通路はどこまでも、先が見えないほど続いていた─もしくは、機材が視界の先を遮っていた。

「誰か?」
カルヴィンはホールの1本に向けて歩きだした。最初の部屋からは出ずにいた。
「誰かいないのか?」
返事はない─ただ、メインフレームの絶えぬ唸りだけだ。
「誰かがいるはずなんだがな。」

「ここは、その…ここって何?」
アダムはメインフレームの1つに近づき、観察した。各機器には光沢のあるロゴがあった。エメラルド色の瞳に銀の冠をつけた蛇だ。
「この機械達、僕が生まれるよりも前からあるように見えるよ。」

「たぶんそうだろう。」
カルヴィンは顔を顰め、アダムに目を向けた。
「ここは図書館の一部分だ。財団はそれまで現れた世界中全ての作品をここに記録している。芸術、図書、音楽─手書き文書も、印刷された文書も─あらゆる情報をだ。」

「マイクロフィルムに…。」
アダムはあまり感心したようには見えなかった。
「待って、『それまで』だって?」

「ああ。『司書』を見つけないとならない。ここは実質無限だ…ここで迷ったら他の誰かを見つける前に餓死するだろう。」

「『司書』ぉ?」
アダムはコンピューターの1つをじっくりを観察していた。
「ねえ、これ動いてない。」

「ああ、『司書』だ。彼らはこの図書館の一部で、全てがどこにあるかを把握して─」
カルヴィンは語るのを止め、アダムを見た。
「待て、なんだって?」

「このコンピューター。動いてない。」
アダムは既に折り畳み式の道具キットを取り出しており、前面パネルを外しにかかっていた。
「電源には繋がってる、電源も点いてる。でも何の音も立ててない。」

カルヴィンは近づいた。
「むやみに触るな。」

「何で?いっそ壊しちゃったらいいんじゃない?」
アダムは返答した。カルヴィンが近くに来た頃には、4つ目のネジを外し終えてパネルを持ち上げるところだった。

「そいつは相当まずいぞ、アダム。ここは失われた世界を記録する為だけの場所じゃない─収容しているアノマリーの情報をバックアップする為に使うんだ。もしメインフレームを失ったら、アノマリーを収容する為の肝心な情報が失われ─」

パネルは外れた。内側はほぼ空っぽだった。配線は取り外され、ハードディスクの磁気プレートのみを残していた。その表面には曲がりくねった魔術記号の文がびっしりと刻まれていた。2人が眺めるうち、プレートはゆっくりを回転した─見る限りでの電源がないにも関わらず。

「一体全体なんだこりゃ?」
アダムは聞いた。

カルヴィンはアダムの肩を乱暴に掴み、後ろに引っ張った。
「触るな、」
強い語調で囁いた。

「何なんだよ?」

「それはダエーバイトを起源とするもの。」
背後から声が響いた。それはぐるぐると回り、カルヴィンの手は腰のピストルに触れ、アダムはスクリュードライバーをナイフのように構えた。

その生物は2人の前に立ち尽くした。細く華奢なそれは輝く銀色のローブを纏っていた。フードは顔にかかり、その表情は伺えなかった。それでもアダムはその肌の特徴を捉えられた─青白く、微かにエメラルド色を帯びていた。固く鱗状のテクスチャーも見て取れた。

カルヴィンはしばらくピストルを胸元に構え、やがてゆっくりと下げた。
「『司書』か。」

アダムもスクリュードライバーを下げた。
「『記録管理人』を探してるんだ。」

「彼女はもうここにはおりません、」
『司書』は告げた。

「どこにいる?」
カルヴィンは顔をしかめた。
「そして財団のサーバーでダエーバイト技術が存在するのは何なんだ?」

「あとそもそもダエーバイトって何?」
アダムは付け足した。

「彼女は大蛇との協定を破り、禁じられた知識を口にしました。彼女は自身の存在し得ぬ世界の物語に自身を挿入しました。彼女が今どこにいるかについては…彼女を求めるならば、」
『司書』は語った。
「私が彼女のもとへお連れしましょう。この下におります。」


そして彼らは下へと降りていった。長い階段を降りていくと見えたのは、果てしない本棚の列、奇怪で不快な芸術の画廊、小さく音楽の響く細い回廊の数々。通り抜けるあらゆるドアは知識に満ちた別の世界、それでもまだまだ先が続いていた。アダムはここの時間の流れがどこか不自然だと気づいた。もうどれだけ進み、どれだけここにいたのかすらわからない。見上げようと思った時、図書館の天井はもはや見えず、それでもまだ降り続けた。

一生分は過ぎただろうか、突然階段の最下段に届いた。足は再び石を踏む事が叶い、1歩後ろは闇に掻き消えた。ここの暗闇はあまりに深い。『司書』の持つ松明ですら暗く見え、放つ光が弱々しく感じた。また暗闇の中、巨大な石柱が暗闇の向こうへと消える洞窟の中をしばらく歩いた。

「ここは図書館の土台です、」
『司書』が言うのを聞いた。数十年ぶりに聞いた声に思えた。
「この柱達は、遥か、遥か昔に大蛇自身によって建てられました。全ての知識はこの柱達の上にあるのです。」

アダムは咳き込んだ。
「ヘビがこれを建てたの?」

『司書』は不思議そう彼を見た。
「大蛇が貴方達の世界で大蛇と呼ばれるのは、それがこの空間の外でそのような形を取る為です。ここと、この下の暗闇の永久の中では、大蛇は数多の形を取ります。」

「暗闇の永久?なんだそれ?」

「貴方達が大蛇をそのように呼ぶのは、それをそのように認識する為ですが、実際はそうではありません。大蛇は現実の普遍的な一面、『情報』の化身です。アイデアが存在し得る、あるいは全てには各々に固有の真実が在るというアイデアです。」
それはいったん沈黙した。
「この下にあるのは生死の外の空白、すなわち虚無です。大蛇の物言わぬ兄弟とはそんな静かな忘却の果ての王。そこを進むものは存在そのものを失います。」

『司書』は立ち止まり、2人に振り返った。
「この土台はそう在るものと在らざるものを隔てるものです。この扉の先は、」
それは手を伸ばし、その前に2枚の重々しい銅の扉が暗闇に佇むのを認識できた。
「全ての知識の根源、大蛇の建てた図書館の土台の中心。このチャンバーの中には決して触れられるべきでない3冊の大著がおさめられています。それらは我々の宇宙、そしてもちろん全ての宇宙にとって最も重要なものです。見つけたならばすぐに気づくでしょう。」

カルヴィンは頷いた。
「中に入る前に、ちょっと引き出したいものがあるな。」

『司書』はゆっくりと頷き、ローブをめくった。そこからは、古代文字を全面びっしりと書き込まれた小さな金属のチューブが現れた。
「数年前、貴方がこれを持ってきた時、これをまた取りに戻られると私達は思いもよりませんでした。しかし貴方はあの頃とは違うのでしょうね。」
『司書』はその筒をじっと見つめた。
「この図書館にも、一切関知できないものがごく少数ながら存在します。この筒の中にあるものは、そんな異常の1つです。これが貴方に幸を齎さん事を。」

アダムは筒をその手で受け取った。聞き出そうと見上げた時には、『司書』は消えていた。松明だけが掲げられた場所に残っていた。2人の前には、扉が佇んでいた。

「さて、」
カルヴィンは取り出した銃のマガジンの確認をしつつ言った。
「いくか。」

2人は扉を押し開け、中へと入っていった。境界を踏み越えた時、アダムは最初の入り口に入った時と同じ、吐き気をするような激流を感じた。一瞬過ぎて、目を開いた。

2人は青い草の広がる緩やかな丘の上にいた。見上げれば転々と白い雲のちりばめられた青い空が広がっていた。下を見れば谷があり、その中央には2本の樹が立っていた。その1つの根元で、白くシンプルなドレスを身にまとった1人の女が足を組んでいた。その足元には2冊の本が見えた。3冊目は彼女の手にあり、彼女は赤い実を齧りながらそれを静かに読んでいた。

女は2人が入ってきた事に何の反応も見せなかった。茶色の髪に、眼鏡。アダムは彼女がおそらく30代であると推測した。2人が近くごとに、髪の根元に白いものが微かに見えた。彼女の手にある本は金のトリムに飾られた革装丁のものであり、明らかに古めかしいものだった。表紙には小さな金の文字で何かが書かれていたが、アダムもカルヴィンもそれを読む事ができなかった。近づくにつれ、カルヴィンは声をかけた。

「あんたが記録管理人ジ・アーキビストか?」

女は頷いた。

カルヴィンは頷き返した。銃を取り出し、彼女の額にまっすぐ狙いを定めて3発を撃ち込んだ。『記録管理人』は怯みもしなかった。銃声が空間にこだました後、彼女はゆっくりと目を開けて彼を見上げた。その顔に銃痕はなかった。

「カルヴィン、あなたは本を読みまして?」
彼女は言った。

カルヴィンは銃からマガジンを抜き、それをポケットに入れた。そして別のマガジンをベルトのクリップから抜き取った。
「いや、」
カルヴィンは返した。
「ここ最近は本を読む時間があったとはとても言えない身分なものでね。」
彼は銃の撃鉄を起こし、また彼女に向けた。
「んでこれは何だ。霊的ななんかか?何か聖なる弾丸でもいるのか。例えば銀製の何かとかいるのかい?」
また3発ほど撃ち込んだ。『記録管理人』は目を離さなかった。

「私は本を読みます、」
彼女は手元の本を閉じ、半分だけ食べられた果実の横に置いた。
「事実、私は普段から本を読みます。おわかりの通り、私は書き手でもあります、そして書き手がその技術を洗練させる手段とは、書く事と、読む事なのです。」

彼女は樹に頭を預け、彼の顔をじっと見つめた。
「読書をする事でどれだけの知識を得られるかをご存知?私は知っていますわ。とても多くです。実際、本を読んでいれば十分の知識が得られるので、他の事をする理由などありません。本だけで何億もの人生を生きられますわ。本だけで、学ぶべき事の全てを学べますわ。例えばこの図書館に、『まるでそこにないかのように弾丸を通り抜けさせる術を教える本』がある事をご存知?私は知っていますわ。私はその本を読みましたの。私は全ての本を読みましたの。」

彼女は目を閉じて隣の分厚い本を指で叩き始めた。
「貴方がたがあの哀れなフェリックスを殺したと聞いた時…正直に言います、怖かったのです。死の概念は私達にとってあまりに遠いものとなっておりました。そしてそんな事を気にするだなんてもう遠い昔の事でしたわ。死を免れないという事実と面した時、私の役割はかなり難しいものとなりました。見ての通り、私は書き手。私は財団でおこる事、地球上でおこる事全てを記録する義務があります。死んでしまったら、もうそのような事ができなくなってしまいます。」

「私がここに降りてきましたのは、不死の謎をこれらの本の中から見つけられると思ったからなのです。結局のところ、不要でしたわ。最初は違いましたけれど。ここの時の流れが違う事にはお気付きかしら?これは大蛇からの贈り物ですの。図書館にいれば、知りたい事をいつまでも知り続ける事ができるのです。」

彼女は微笑んだ。
「私はそれだけの時間を、ここで過ごしてきましたの。」

カルヴィンはため息をついた。
「つまりあんたは不死の術を見つけるまで本を読み続けるってか?」

彼女の目はぱっと開いた。
「あらあら、違いますわ。そんな事、とっくに見つけ出しましたわ。と言うより、もうやってしまいましたの。」

彼女は背後の樹へと向いた。
「この樹々は特別なのです。これは、善悪の知恵の樹。あちらは生命の樹。知恵の樹は知識を授け、生命の樹は命を授けます。しかし蛇は狡猾ですわ。蛇はこの樹々を創り、そして呪いをかけました。片方を食べた時だけ、もう片方の実を食べられますの。随分と矛盾すると思いませんこと?もし片方から食べていなければもう片方から食べられず、その逆も同じであるなら、そもそもどうやって実を食べるのでしょう?」

組まれた足を解き、立ち上がった。
「私は長い間、ここで過ごしてきましたわ。ここにならば答えがある筈だと考えてきましたの、私がずっと見落としてきた秘密が。そしてその秘密が存在しないと気づいた時には、この図書館の本を全て読んでいました。ここに収容された全ての知識が、私の中に収容されています。」

彼女は知恵の樹を気怠げに示した。
「以前、この樹に実が成らない事を疑問に思っておりました。これは図書館こそが実だからなのです。私は既に食べつくしました。」

彼女は首を鳴らし、肩を回した。
「いつかは大蛇がここに来るとは知っていました。私がこの3つの実以外を食べつくした事を、大蛇は知っておりました。生と死の書、過去の書、未来の書。きっと私にこれらの本を読んで欲しくなかったのでしょうね。」
彼女の背中は曲がり、その背骨で何かが弾けたのが聞こえた。
「もう関係ありませんの。大蛇は図書館の全ての知識を有しております。私は図書館の全ての知識を有しております。私こそが大蛇なのです。」

2人が戦慄する前で、『記録管理人』の背骨の付け根から背筋を登るように皮膚が裂けた。その眼は窩に引っ込み、スポンジから滲み出るように血が噴き出した。口は絶叫せんばかりに開き、声の代わりに先の割れた長い舌と長い牙が飛び出た。何か重々しく濡れたものが裂ける音とともに、彼女の体は中心から破けて中から巨大な蛇がのたうちながら現れた。その眼は黒いスリットであり、エメラルド色の背には宝石が優美な草原の光を浴びて煌めいた。頭上には黒いウロボロスの描かれた尖った銀の冠が浮いていた。

大蛇はトグロを巻いて2人に向き、その口角を微かにあげてこの上なく悍ましい微笑みを浮かべた。それが瞬いた時、『記録管理人』の碧眼を見た。

「1つだけ、私を悩ませるものがありますわ、」
それは首を高く擡げて言った、
「その筒にあるものですの、アダム・イヴァノフ。なんと奇妙なものでしょう。知恵を与えしものにすら把握しかねるだなんて。私自ら確かめるしかありませんわ。」

大蛇の口が大きく開いて煌めく牙を晒し、アダムへと突進した。アダムはその一瞬に伏せるほかなく、その隙に大蛇は振り返りまた彼を襲うと、間一髪でその軌道から転げ逃げた。アダムは覚えのある銃声が聞こえ、カルヴィンが大蛇の頭に向けて発砲している光景を見た。大蛇は振り向き、その眼がまた黒く染まる最中に巨大な尾をカルヴィンに叩きつけた。カルヴィンはかろうじてそれを避けた。

「たぶん顔面に弾を叩き込む段階はとっくに過ぎたと思うよ!」
弾を再装填するカルヴィンにアダムは叫んだ。アダムはどうにかまた立ち上がり、怪物の横腹に向けて自身の銃が空になるまで撃ったが、何の成果も齎さなかった。そうするうちに、穏やかな丘陵の風景が崩れ落ちていくのに気づいた。巨大なひび割れが地面に生じ、土地を裂き、一部は完全に崩壊した。晒された穴の底に果てしない暗闇が広がる様をアダムは見た。頭上では空が青さを失い、重々しい灰色へと変わっていった。世界の色は、大蛇の背に連なる宝石と眩く煌めく銀冠だけとなった。

カルヴィンは何度も何度も撃った。大蛇は彼に迫り、彼はしなやかに避けた。冠の一端を掴むと、鈴のように鳴り響き周囲の空気を震わせた。カルヴィンが自身を安定させようと止まったその一瞬、大蛇の尾が襲いかかり彼を灰色の草原の中に叩き落とした。アダムは発砲したが、弾は怪物の背に跳ね返された。

大蛇は再びアダムを向き、その舌が彼の背丈の同じ長さの牙の間から伸びた。アダムはその場に縫い付けられたように固まり、銃を落としてしまった。大蛇は攻撃の準備をするようにその前でトグロを巻き、アダムは自身の生物的本能が「走れ」「逃げろ」「生き残る為に何でもいいからやれ」と乞うのを感じた。しかし何もできなかった。

そしてカルヴィンが右側から叫ぶのが聞こえた。

「アダム!筒だ!筒を開けろ!」

一瞬にしてアダムの硬直は破られた。アダムが素早く蓋を引くと気持ちいいほど見事に外れ、開口部を地面に向けた。すると突然筒がズドンと重くなり、中から長く太く重い物がすべり出た。

それは黒く滑らかな木製の柄だった。その木材には記号や古代文字が焼き込まれていた。先端近くには金属のバンドがあり、その先には荒々しく尖った鏃が付いていた。大蛇が突っ込んでくるのを避けて逃げる前の一瞬、アダムはかろうじて「─其は信じざる者、あらゆる神にも揺らがぬ─」という文言が読み取れた。槍を引きずりつつ、アダムは混乱しながらカルヴィンに向かって叫んだ。

「ちょっと、これが何なのかわかんないけどたぶん役に立たないよ!だってこれ…クソ!持ち上がりすらしない!」

言葉とともに、投げ捨てた筒が回転しながら震えだした。いくつかの部位が展開していき、更なる筒が明らかに質量を無視して現れた。アダムが襲い来る大蛇から逃れる中、背後の筒は大きな機械的なラックへと変貌していた。先に気づいたカルヴィンが、アダムに気づかせる為に叫んだ。

「おい、見ろ!」
ピストルを再装填しながらラックを指し示した。
「そいつは銛だ!発射台に装填するんだ!」

アダムの疑念が危うく彼の命を奪いかけた。大蛇が彼の横に迫り、地面へと叩きつけたのだ。大蛇はまた噛みつかんと首を伸ばしたが、アダムは槍を草の上に引きずりながら逃げ出し、牙は土のみを穿った。カルヴィンの武器が何度も悲鳴をあげるのが聞こえたが、崩壊する地面を駆け回りながらも伏せ続けた。ギア、滑車、鋼でごちゃごちゃの発射台に辿り着くと、槍をどうにか乗せて巻き始めた。槍が装填され準備が出来た時、大蛇に振り返り、パニックで固まった。

大蛇がカルヴィンを尾の中に捉えていた。彼は足元の亀裂の上で危うくぶら下がっていた。大蛇はシューシューと声を出してアダムに微笑みかけ、カルヴィンを軽く揺らした。

「まあまあ、」
大蛇は言った、
「あまり焦らないでくださいな。まさかこの展開を私が想定できないなんて思っていない筈ですわ、そうでしょう?私は知られる事全てを知り尽くしたのですよ、アダム。私は貴方の心を凍り付かせるようなものも見てきましたの。想像しただけで貴方を死に至らしめるような悍ましい話も耳にして来ましたの。」
その眼はわずかに細められた。
「正直に言いますわ、その武器に秘められた魔法が如何様なものかはとても厄介です。今までこの目で見る事はできませんでしたの。けれどこうして目にしました…ならば、もはや関係無いとはお分かりでしょう?」

「今すぐお前を殺せるんだぞ、」
アダムは低く唸り、大蛇の顔面に穂先を向けた。
「1秒もかからない。」

「できたとしましても、」
大蛇はビロードのような、煙のような柔らかな声で言った。
「そもそもできませんもの、ならば何故そうするのです?貴方がたは自分達の行いを理解なさっていて?貴方がたが何を果たさんとしているかをご理解なさっていて?」

「13人の財団監督者を抹殺する、」
アダムは歯を食いしばり、震える指先で引鉄を握りながら言い放った。

「何故?」

「お前達がその卑劣な願いの為に宇宙をゆがめたからだ、」
アダムは吐き捨てた。
「自然の摂理すらも嘲った。お前達は癌そのものだ。」

大蛇は溜息をついたようだった。
「狂信ですわねえ。世界のあらゆる知識を以ってしても、私はそれを理解できませんわ。」
それは軽く力を込めてカルヴィンを潰し、穴の中へと落とした。

アダムは動けないまま立ち尽くし、それでも兵器のハンドルからは決して手を離さなかった。大蛇は彼に向かって動き始めた。

「貴方は自分こそが悪辣で醜悪なSCP財団の破壊を望む第一人者だと思っているのですか?現実を御覧なさいな、アダム。私は千の命を生き、その更に千の夢を見てきましたわ。私はこの世界が覆る様を何度も何度も目にしてきて、その全てを事務的に記録してきました。貴方は私の予測できない何かをできると思いますか?私と私の責務の間に立ちはだかれるものが存在しうると思いますか?」
それは尾先を発射台に向けて伸ばした。
「そんなものをお仕舞いなさいな。私は生命の樹の果実を口にしました。私は死にません、こうなった今─」

- カチリ。 -

刹那、槍は大蛇に向けて空中に放たれた。距離は既に避けるいとまも与えない程だった。槍は不気味な粉砕音と共に大蛇の頭蓋に埋まり、怪物はトグロを解いて絶叫した。暴れ狂う中で煙が頭部の傷口から漏れ、アダムは振り回される尾に潰されないよう、急ぎ地面へと避難した。その直後に発射台は叩き潰された。

世界はゆっくりと震え出し、やがて激しさを増して空気そのものまで振動しているように感じた。空は黒く染まり、生じたひび割れから太い光の帯が差し込んだ。足元の地面は波打ち掻き回され、やがて崩壊した。暗闇へと放り投げられる前にアダムが最後に見たものは、落ち行く空を背に、誇らしげに銀に輝く槍を顔面から伸ばしてユニコーンのようになった大蛇のシルエットだった。


アダムが目を覚ますと、頭の下にひんやりとした草の感触を覚えた。首が痛み、座ろうとすると四肢が拒否するように痺れた。こめかみをこすり、記憶を呼び起そうとした─どのくらい気を失っていた?─が、苦しげな咳が近くから聞こえて目を開けた。少し離れたところに、汗と血にまみれて震えながらも、依然元気そうなカルヴィンがいた。アダムが近づくと、カルヴィンは目の前の若者を見て微笑んだ。

「よう、」
彼は血のついた歯を見せて笑った、
「死ななかったじゃないか。」

アダムは笑った。周囲を見回すのに時間をかけ、また同じ草原の広がる丘にいる事に気付いた。ただ、今はまた空の青と草の緑があった。血の痕跡を見つけて辿ると、丘の上に立つ2本の樹へと続き、その1本にはシンプルなドレスを纏った女性が巨大な槍を顔面に打ち込まれて垂れ下がっていた。その顔はもはや判別不可能であり、真っ白だったドレスは自身の血液で染まっていた。

彼女の前に佇む人影があった。背が高く細身で、あの『司書』を思わせたが、もっとシンプルな印象があった。それもまた顔を隠し特徴を悟らせないローブを纏っていたが、その色は鮮烈な緑だった。人影はややかがんで見え、アダムはそれが顔面を槍に穿たれた女性ではなく、槍そのものを見つめているのだとわかった。

アダムはカルヴィンを助け起こし、2人でゆっくりと丘を上っていった。近づくにつれ、緑のローブの背後に、いまいち認識できないもう1つの存在を強く感じた。それが何であれ見ずにはいられず、ほんの少しだけそれに目を向けた。その表情は伺えなかったが、不思議と何か見覚えがある気がした。

「おや、目を覚ましたのですね、」
人影は言った。その声は柔らかく穏やかだった。
「最悪を恐れていました。この図書館には多くの真実を抱えるのですが、『そう在るもの』と『そうで在らざるもの』の境界を超える事については僅かしか語られないのです。事実、私の認識が正しければ、あの境界を超えた人間がまた戻ってくるのはこれが初めてです。実に見事なものですね。」

緑色の人影が背後の暗い影に身振りした。
「幸いな事に、それを確定させた大いなる力は貴方にこの繋がりを抜ける事を望まなかったようですね。少なくとも、今は。」
それは頭に、長手袋を嵌めた指先を当てた。
「ええ、とても珍しい事です。」

カルヴィンは咳き込み、どうにか声を出す事が出来た。
「あんたは?」

緑色の人影は聞いていないようだった。
「コレは、実に不思議なものですね。」
それは樹に捻じ込まれた槍に手を添えた。
「明らかに何か奇妙なものを秘めています。図書館はこれを保管する事を許しました。しかし図書館にもこれが何なのかがわかりませんでした。ええ、実に珍しい事です。」

人影は暫く沈黙した。
「これが何なのかを知っていますか?」

2人は首を振り、人影は頷いた。
「これは『信じざるものの槍』と呼ばれます。古くから存在する武器です…おそらくは、この図書館よりも前からの。伝説によると、全能を否定した最初の知恵ある者が鍛造したとされます。打ち勝ち難い力に立ちはだかる為に。実に、実に奇妙なものです。」
人影は笑いと思しき音を出した。
「事実、私にはこれが見えないのです。不思議じゃありませんか。」

人影はカルヴィンを見た。
「どうやってこれを入手しましたか?…誰かが貴方に託した、そうでしょう?」

カルヴィンは頷いた。

人影は背を伸ばし、じっと立った。
「さて、それはおかしな話です。」

人影は器用な手付きで槍を樹から引き抜き、空いた手で垂れ下がる監督者の亡骸を引きずり出した。穂先を顔まで持ち上げると、それをじっと観察した。
「実に、実に奇妙。まるでこの物品が私の事を気にも留めていないようにも感じます。」

人影は細い金属の筒を地面から拾い上げ、素早く槍を全て中へと差し入れた。明らかに長さに大きな差異があるにも関わらず、槍は完全に筒の中に姿を消した。人影は振り返り、筒をアダムへと差し出した。アダムもまた、手を伸ばしてそれを受け取った。

「さて、」
人影は足元で血の海に沈む女性を見下ろした。
「彼女とはそれなりに長く知り合っていました。彼女が最初ここに訪れた時、貴方達とそう大差ありませんでした。唯一、彼女の意図こそ─極めて純粋であったのでしょうけれど─この結末へと至らしめる事となりました。貴方の信念は確かに貴方を素晴らしき存在たらしめ、終わらぬ謎と恐怖へと立ち向かわせるのでしょう。」

それは再度2人へと振り返り、カルヴィンは自分が見つめられている事に気付いた。
「さて、その信念は貴方をどう導くのでしょうね?」

眩い光と熱が吹き出した。そしてほんの一瞬して、2人はまたあの森の中へと戻っていた。




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