SCP-5074
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地獄の方がまだ優しいだろう。


夢だろうが、白昼夢だろうが、違いは無い。結局、どちらにも何の価値も無い。

ここに来て以来、良い夢を見る機会には事欠かなかった。ほとんどの夢は私の記憶からそのまま引き出されたものだ — 何かを、具体的に何だったかははっきり覚えていないが、母の腕の中で食べていた記憶。父の器用な手足の指がタイプライターを優しく叩き、私たちには一度も読ませてくれなかった堅苦しい科学関係の書類をまた1枚書き上げる音で、眠りへと誘われる記憶。父から何かの授業を受け、母がそれを見守っていた記憶 — 父の話を全力で理解しようと苦労していた母の、あの年老いた悲しげな目つき。私が初めて書いた文字を肩越しに見た父の勝ち誇った顔、母の誇らしげな顔… 穏やかな記憶。私が目覚めると、それは私を置き去りにして、ここに来て以来毎日感じている例の執拗な気分に取って代わられる。箱に閉じ込められ、逃げ道は死だけという感覚が脳を侵す。

それらは取って代わられた。当然、私が自らの小さな箱の中で大切に抱えていた他のあらゆる物と共に。父のタイピング音は、部屋の隅にある錆びた古い扇風機の気の抜けた耳障りな唸りになった。父のタイプライターは、乾いた万年筆とティッシュ並みに薄い紙の束になった。私の母は、悪意で光る小さな目とじっとり湿った肌を持ち、堕落した変質者の笑いを顔に浮かべる太った髭面の男になった。そして、私の穏やかな記憶と夢は、少なくともほんの一瞬の休止と安心を与えてくれた唯一のものは、絶え間なく終わりの無い悪夢になった。

夢であろうと白昼夢であろうと、全ては同じイメージで満たされている — 銃声とガラスが割れる音、続いて黒いコートを着た男たち、私の世話人が着る緑とは違う服の男たちが真夜中に私たちを取り囲む。母は叫び、父は引きずられていき、他のチンパンジーたちは何もかもただの見世物か観戦スポーツだとでもいうようにそれを見ている。手首をきつく掴まれ、見えない力で勢いよく後ろに引かれる。何かが折れる音、激しい痛み、そして私は残っている力を振り絞って誰かを、誰でも構わない、私を助けてくれる者を呼ぶ。母が金切り声を上げながら、1人の男のバイザーに拳をぶち込み、そいつが膝を突いて痙攣するのを、バイザーの穴から煙が立ち昇るのを見る。もう1発の銃声 —

私が思い出せる事など、地獄に堕ちればいい。何もかも地獄に堕ちるがいい。思い出す価値など欠片も無い。



メモ 466
2014/04/20
送信者 マイケル・キルガー 受信者 ダンカン・エアーズ
さて。もうすぐ半年だが、チンパンジーは未だに協力的じゃない。クライアントは少々待ちくたびれてきてる(真面目な話、何ヶ月も待たされてうんざりしてるんだと思う)が、確定申告をやってくれるペットのチンパンジーに支払う金を全身の穴という穴からひり出すつもりはまだある。

要するにだ — このメッセージは、俺たちが損失を被る前に、あのクソ忌々しい猿に忠誠心の何たるかを教え込みたいという正式な要請だと捉えてほしい。
マーシャル・カーター&ダーク有限責任事業組合

メモ 467
2014/04/20
送信者 ダンカン・エアーズ 受信者 マイケル・キルガー
許可する。あのチンパンジーはどうとでも君の好きなようにすればいい。商品だからあまり傷付けないようにだけしてくれ。
マーシャル・カーター&ダーク有限責任事業組合

拷問。

別な何かであるかのように甘い言葉で取り繕ったり、上辺の汚れだけ払ったりしても意味は無い。

父が初めて教えてくれた時、私は幼すぎてその概念を理解できなかった。父は人間たちがお互いを傷付けるために使い、今もなお続けている方法の全てを私に語った。親指締め具と鉄の処女。全身に蜂蜜を塗ってから縛って砂漠に放置し、アリに少しずつ身体を引き裂かせる方法。顔に布を被せて溺れているように感じさせる方法。後に彼が興した運動の象徴となる十字架に釘づけにされた男 — その間ずっと、私は父の膝の上に座っていた。知るにはあまりにも恐ろしく、無視するにはあまりにも恐ろしいのだと理解した概念に魅了された子供。

言うまでも無く、これは私の幼い心に傷を残した。後日そうではないと知ったが、当時の私は保護された若いチンパンジーとして、拷問は我々の種族が行わない事であり、苦痛とはごく短い不快な経験(例えばハチ刺されやケンカの怪我)だけを意味すると考えていたのだ。終わりも絶え間も無い苦痛がただそれだけを目的として及ぼされるという概念は、それまでに聞いたどんな話よりも恐ろしく、そんな行為は人間にしかできないと思った私は、それ以来世話人たちに恐怖心と不信を抱くようになった。緑色の防護服を着た男女が私の面倒を見にやって来ると、私は必ず母の腕の中に潜り込んで泣きわめき、彼らが近寄って来るとかんしゃくを起こした。母はあれから何週間も父と口を利かなかった — 起きている間はずっと私と一緒にいてくれた。母は私の心をなだめようとして、世話人たちを信頼するように語り聞かせ、私は安全だと保証した。誰も私を傷付けようとはしないし、彼女がそれに立ち向かう限り私が拷問されることは決して無いと。

母の無知を責めようとは思わない。

私はただ、拷問がこれほど恐ろしい事だとは知らなかったのだ。



メモ 475
2014/05/01
送信者 マイケル・キルガー 受信者 ダンカン・エアーズ
正直言って、俺たちはチンパンジーを入手した直後から痛い目に遭わせておくべきだったと思うんだ。

奴の部屋に入ってぶちのめすのを始めてからもうすぐ2週間経つが、俺たちの言いたい事は全く伝わってないらしい。もうすぐ時間切れだし、クライアントはキレ散らかしてるし、猿はますます殻の中に引きこもってやがる。何か良い案は?
マーシャル・カーター&ダーク有限責任事業組合

メモ 477
2014/05/01
送信者 ダンカン・エアーズ 受信者 マイケル・キルガー
僕の正直な意見としては、もう損失切りをする頃合いだと思う。チンパンジーを始末して、先に進もう。大勢いるクライアントが1人減っても大した事無い。

楽しかったけれど、あの猿は本格的な悩みの種になりつつある。
マーシャル・カーター&ダーク有限責任事業組合

メモ 478
2014/05/01
送信者 マイケル・キルガー 受信者 ダンカン・エアーズ
そいつは良いアイデアだ。全く、あのチビのクソ投げ野郎と永遠におさらばできるかと思うと清々するね。

ともあれ、クライアントには地獄に堕ちろと伝えといてくれ。大至急殺処分の注射を準備してくる。
マーシャル・カーター&ダーク有限責任事業組合

こうなるのは目に見えていた。

もし他の状況なら、私はそれを受け入れただろう。長い間、私は死を望んでいた。ある程度は、今もそうだ。

だが、それは私に希望が無かった時の話だ。

デブ男は私を辱めるために拷問した。私の魂を身体から叩き出し、それを地面に叩き付けて潰し、私を完全足らしめている全てを殺すために。私を従属させ、征服し、何かを取り去るために。どの目的も果たされていない。

憎しみ — また別の、子供時代の私が知らなかった概念。憎悪と復讐、知的な父からは原始的と見做され、原始的な母からは不必要と見做されたその2つが、現在の私を支えている。私を生かし続けている。私を自由へと導く。

こうしている今も、私が記す言葉の中に母の愛を感じる — 墓からの最後の贈り物だ。彼女の温かさが私を支え、私の書く文字から湧水のように流れ出す。私には水であり、彼らには溶岩だ。

父はかつて人類を襲ったある大災害について教えてくれた。人間の知性で命を宿し、無知から産み落とされた災害。その災害の副産物は“ゾウの足”という名前でのみ知られる物体だった — 計り知れない力を帯び、近寄る物を全て殺し、1インチも動かずに大惨事をもたらすことが可能な存在。父が教えてくれた他の様々な事物と同じく、私はゾウの足を恐れた。

しかし、今はゾウの足こそが私に必要なのだ。敵を踏み潰し、牢獄を蹴り崩すほどに強いゾウの足が。



メモ 479
2014/05/02
送信者 マイケル・キルガー 受信者 トリシア・ブラック
今日はしばらく外出する予定だ — 例のチンパンジーを眠らせてくる。誰かがオフィスに来たら追っ払え。


マイク・キルガーはいつも仕事が大好きだったが、今日もまた例外ではない。今日はこれまでで最高の仕事日和になること疑い無しという事実はまた別である。

過去に数多くの動物を扱った経験がある彼は、チンパンジーもそう変わらないと考えていた — 餌をやってしっかり訓練すれば、どこぞの幸運なクライアントに飼われる可愛いエキゾチックなペットになるだろう。とにかく、常にそういう流れだった。クライアントは動物を手に入れ、会社には金が入り、誰もがハッピーになる。

しかし、あのチンパンジーは… 頑固すぎるせいか、それとも頭の回転が良すぎるせいか — どんな理由にせよ、そいつはバブルス・ジャクソンよりもむしろトラビス寄りの猿であり、マイケルがサーカスで学んだ昔ながらのトリックは上手く行かなかった。クライアントも五十歩百歩で、マイケルが“猿はまだ適切に訓練されてないんですよ”と言う度に、堪え性の無いクソガキのようなふくれっ面をする。きっとお似合いのコンビになったはずだ

まぁ、最早どうでもいい話である。例のクライアントはとっくに去っているし(マイケルは確実にアイリス・ダーク嬢からこっ酷く叱られるだろう)、そいつの金も一緒に失せた。だからと言って、彼がもう少し猿と楽しんでいけないことはあるまい。マイクはフェドーラ帽を被って(こいつを忘れちゃいけない)群衆に紛れ込み、エレベーターの13階のボタンを押す。宿泊客は誰もマイクの存在に気付かないらしく、彼と一緒に降りる者もいない — 結局のところ、この建物に13階が建造されたことはないのだ。

マイクは今や完全な別世界に入ったように見える — ニューヨーク・プラザホテルの残りの部分よりも少し暗い世界だ。MC&D社の誇りであり喜びだが、ニューヨーク市のヴェールの裏で行われる他のどの事業より維持費がかかる(ホテルの階層1つに反ミームを山ほど貼り付けるのがこんなに高価だなんて!)。しかし、それでもアイリス嬢と彼女の取り巻きにはここを保つのに十分な金があり、重要なのはそれだけだ。マイクは深呼吸して、カビと暗闇の匂いを吸い込み、“スイートルーム”の防音壁を破るほど高らかに響き渡る絶叫のかすかな名残を堪能する。彼は廊下を左に曲がる — 猿を創造主のお膝下に返す時が来た。

マイクは同じ事を過去何回もやっているが、今回は特別だ。今回は個人的なのだ。注射器に睡眠薬を充填するのにも痒い所を掻いているような感覚があり、チンパンジーの部屋に向かって歩きながら口笛を吹かずにはいられない。

58673 — ドアがアンロックされ、マイクは陽気にドアを押し開く —

最初のうち、マイクはチンパンジーの姿を見ない。彼は部屋の壁を完全に覆い尽くす、クモの巣のような、流れるような亀裂に気を取られている — マイクは突然、奇妙な不安とほんの少しのおかしな暖かさを感じ、尻尾を巻いて逃げ出したいという幼稚な衝動を抑え込む。仕事を投げ出すぐらいならサボテンで自分自身をファックする方がまだマシだ、特にこの猿が相手なら猶更だ。壁の… 落書き(はぁ?)如きに彼を止めることはできない。マイクは注射器を指で弄りながら、ためらいがちにもう一歩踏み出し、ドアが後ろで勢いよく閉まる音を聞く。

マイクは注射器を飛び出しナイフのように構えて振り向く — 膝を突く時まで、熱にはほとんど気付かない。視界が暗転する前に、マイケル・キルガーの目に最後に映るのは、天井の照明からぶら下がり、白痴のように歯を剥いて笑っているチンパンジーの姿だ。マイクには弱々しい叫び声を上げ、空っぽになった注射器を投げることしかできない。彼は前のめりに倒れ込み、ヒロシマの、ナガサキの、ゾウの足のありとあらゆる熱が、彼の無防備な柔らかい身体を煮えたぎる湯のように包み込むのを感じる。

チンパンジーは止まり木から降りて、煙を吹き上げる捕獲者の死体の上に屈み込む。自己満足丸出しの笑いは、床に倒れている男がよく知っていた、分析的で薄気味悪いほど知的な眼差しに変わっている。顎を軽く撫でた後、チンパンジーは死体のフェドーラ帽を取り上げ、それを被って、立ち去る

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