死と著者
サイト-87
アメリカ合衆国ウィスコンシン州スロース・ピット
「物語は嫌いよ。」
それは正確な真実ではなかったが、彼女はそうしたほうが強く聞こえると思った。
演台についた男は青くなった。彼女は彼にギリシア人が嫌いだとも言っていたのかもしれない。彼は助けを求めるかのように、彼の後ろに高く投影されたタイトルのスライドを見た。そこには「応用終末空想科学、あるいは全ての終末において物語ること」と書かれていた。彼は確信を得たかのように頷き、答えた。
「物語を嫌うものなどいません。」
講堂にいたものはみなシートの上で体をひねり、入り口に立った人物を見た。デルフィナ・イバニェスの小柄な姿が、高いドアの枠をその存在感で満たしていた。彼女は認めた。
「そうね、私が嫌いなのはフィクションよ。」
「それならば……良かったです。」
声色からして、評価は僅かにしか良くなってないようだった。
「それでは、質問に答えていただけますか?」
彼女は革靴が軋む音をさせ、レーヨンのジャンプスーツの照り返しを見せながら通路を降りてきた。
「もう忘れたわ。」
「好きな物語は何か、ですよ。会場の誰かに問いかけるつもりだったのですが、あなたがあまりに印象的な登場を……」
彼女は会場で唯一の知己である人物の隣にどさりと座った。ウド・オコリー博士は無理に起こされた死人のように見えた。イバニェスは答える前に、共感の笑みを彼女に向けた。
「私が遅れたのは、フィクションが嫌いだからよ。つまり、空想科学を評価しないということ。だから質問なら他の人にして。」
彼は演壇を掴み、身を乗り出した。イバニェスには彼のスニーカーがステージ上でキュッと鳴るのが聞こえた。
「指図するなら、自分でプレゼンテーションをしていただきたい。イバニェス主任、あなたの好きな物語は何ですか?」
彼女は少しの間考えるふりをして、それから答えた。
「ライト・スタッフね。」

「私は魔法が嫌いよ。」
イバニェスは眉を跳ね上げた。
「あなたが魔法を嫌うとはね。」
オコリーは周りから人がいなくなるまでシートに留まった。彼女の目は取り憑かれたようだった。
「もし急に月に飛ばされたら、あなたも空気が嫌いになるわ。」
「お友達がどうかしたかね?」
男の声がして、イバニェスは通路に立つ、先程狼狽させられた美男子を見上げた。
「愚かな講演だったわね。」
「愚かなのは君だ。僕の講演は完璧だった。」
彼は笑って答えた。
「私は魔術師よ。生まれついてのね。」
オコリーは眼鏡を取り、鼻筋を摘みながら答えた。
「私の九十パーセントは水よ。」
イバニェスは言った。
「あなたの九十パーセントは熱い空気で、彼女の九十パーセントは魔法なの。」
オコリーは弱々しく笑った。
「真実から遠からずと言ったところね。この難局が始まってから、毎日血を一パイント失ったような気分で目覚めるわ。」
男は言った。
「シンクレア博士の研究室を尋ねるといい。僕ら魔術師は、こんなEVEの低い場所ではどうかなりがちだ。」
オコリーはだるそうに頷き、イバニェスは肩をすくめた。
「ありがとう、ナントカ博士。」
「プレースホルダーだ。」
彼は訂正した。
「プレースホルダー・マクドクトラート。」
彼女は再び眉を吊り上げた。
「何が起きたか知りたいかね?」
「いいえ。」
イバニェスは友人に手を差し出し、彼女が立ち上がるのを助けた。

オコリーは留守中のシンクレア博士のオフィスで注射器のパックを一つ見つけた。それは彼女の気分を一時的に緩和した。イバニェスは宿舎に彼女を連れていき休ませた。そこでプレースホルダーを振り払うことは困難であると知ることになった。
「O5が二つも001提言を機密解除するのがどれほど珍しいことかわかっているかい?」
彼は彼女の後ろから問いかけた。彼の脚は長かったが、彼女もまるで目的があるかのように急ぎ足で歩いた。
「スワンは別次元にいるホラー作家の群れが我々の毎日の生活に干渉していると言っている。そしてピックマンらは物語という概念こそが知性を持っていると言っている。僕もこれらについて講義するのは許されてなかった。特に理由なく人々をパニックにさせるわけにはいかないからね。」
「理由がないわけじゃないでしょう」
彼女は肩越しに反駁した。
「理由がくだらないのよ。」
「現実はくだらなくなんてないさ!」
彼は駆け出して彼女の前に出て、靴の爪先で踊るように後ろ向きに廊下を歩き出した。
「我々の存在は異常なシステムのネットワークで定義されている。イバニェス主任、我々は異常なエコシステムの中に住んでいるのさ。何かが遺伝的な多様性を狭めている。だがそれは全体で均一に起きているわけじゃない。ある面において秘術的なものの奇怪さが縮小する一方で、他のものがギャップを埋めるために拡大する。」
彼は奇妙で厄介な技術の一片を白衣のポケットから取り出し、彼女の前で振った。
「これはナラティブ変動を測定する。針は今でも動いている。スロース・ピットには僅かな魔法が残っていて、そのフィクションの力は強くなってきている。」
彼女は顔をしかめた。
「私たちに、本物の魔法を物語で置き換えさせようというわけ?」
「物語こそ本物の魔法さ!」
プレースホルダーは腕を宙に振り、イバニェスの野球帽を取った。彼はつま先で踊りながら謝罪を表現し、そうしながら彼女の隣に移動した。
彼女は頭を振った。
「どうでもいいわ!どれも同じということね。」
彼女らは彼女の部屋がある営倉に到着した。彼女はドアに背をもたれかからせ、ベルトから鍵束を取り出した。
「物語は魔法になることもある。私には関係ないわ。私の仕事は魔法をシャットダウンすることだから。」
彼女はドアを開けた。
「私は物語を終わらせるわ、博士。」
彼女は中に滑り込み、彼の眼前でドアを閉めた。


イバニェスは水が木材を打つ音で目を覚ました。それは彼女の意識の辺縁にあり、リズミカルに液体が滴る、落ち着くような低い音だった。そしてジャンプスーツの背中から染み込むような湿気に気づいた。彼女の最初の思考は、自分が夜尿などするはずがないということだった。
次の思考は、草の上で寝ようとしたはずもないということだった。そしてそれらは、彼女を急いで立ち上がらせるに十分だった。
空気は凍るように冷たく、息が白くなるのが見えた。それはほんの一瞬で鬱蒼とした周りの霧に溶け、その霧は両方向に果てしなく伸びる川岸を包んでいた。水は背後の空間よりも暗く、彼女には感じられない風に揺れる低い手漕ぎボートに弾けていた。
オール受けにはオールがかかり、重い旅人のマントが船尾を越えてはためいていた。形の崩れた中折れ帽が不安定に頂上に乗せられており……
……それが近づく彼女を見ようと振り返った。マントは息を止めたように、一度だけ揺らめいた。
「ハイ」
彼女は言った。
帽子が深く下げられ、下にあるものを隠した。片方の袖が水面下から黒いベルベットのような滴りとともに振り上げられ、川下を弱々しく指差した。その形をほんの一瞬保ったあと、漂白された木材の上に叩きつけるように戻された。
「何でダメなの。」
と彼女は言った。これは明らかに夢だ。
彼女は水に浸かりながら、ボートまで進んだ。コンバットブーツを通して足に冷たさが沁みこんだ。彼女がその小さな乗り物に乗り込むと、布の塊は目的を果たして最後の力を使い果たしたかのように。萎んでうず高い塊となった。
「自分で漕がなくちゃならないわけね。」
彼女はため息を付いた。

渡し守の帽子は、オールが水に浸かるたびにリズミカルに跳ね、彼女が河口に沿って船を進めるのを見守るようだった。鏡のように静かな水面にオールが飛沫をたて、不透明な白い雲の中を進む永遠のような時間が過ぎていった……
……彼女は何かが後ろにいるのを感じていた、何かはわからなかった。渡し守の帽子は後ろに下げられ、彼女にはそれがもしできたならば再び招くのが感じられた。彼女は肩越しに振り返り、そして都市を見た……
……彼女は都市の中に立っていた。川と、小舟と、渡し守は全て消え去っていた。石の壁が彼女の周りを包み、硬い敷石の感触が足に感じられた。丘の側面の急斜面を通りが登り、陰鬱な古い町並みが地平線まで広がっていた。
私の声が君に届くかわからなかった。
イバニェスは何か言い返そうとする衝動を堪えた。その声はかすれ、弱々しく哀れを感じさせた。彼女が歩き出すと、影が薄暗い光の中で屈折した。無数のシルエットと化した人々が彼女の足音で時を刻んだ。
最後の時に、私は君に希望を与える。
「あなたは誰?」
彼女は立ち止まった。
「訳のわからない夢で出鱈目を言うのはやめて。」
私たちの時は終わろうとしている。
……彼女は教会の広い白亜の階段を登っていた。周りには影のような人々がいて、彼女が前を通り過ぎると一つまた一つと瞬いて消えた。階段は滑らかな石の台座で終わっており、そこには雪のように白いローブが横たえられ、またしても感じられない風にはためいていた。
私のもとに来て、始めるのだ。
そよ風は嵐となり、彼女は膝をついた。彼女は両手を固く耳に当て、何かを激しく叫んだ。ローブは風に吹き飛ばされ、その下には──

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アメリカ合衆国ウィスコンシン州スロース・ピット
「それはビジョンね。」
オコリーは大口を開けた。彼女は皿に載った冷たいチキンのサンドイッチを楽しんでいるところだった。
「それが物語の種だよ。」
プレースホルダーは得意げに口を挟み、自分の分のサンドイッチを一口で半分消費した。
「ただの夢よ、」
イバニェスは不満げに言った。
「未消化のチーズみたいな。」
「ディケンズ的な神話だね。」
筋ばった鶏の肉片をエージェントの靴に飛ばしながらプレースホルダーはその考えを却下した。
「チーズは悪い夢の原因にはならない。主人公の気質がその原因になる。それが──」
「ビジョンを得るための最も確実な方法ね。」
オコリーは食べ終わった。彼女は昨夜から少ししか回復していないようだった。
「ビジョンを与えるのを決して失敗しないものを知ってる?SCP-5923よ。」
イバニェスは瞬きした。
「それは何?」
「トルコの孤立した街ね。九十年代に私たちが旅行者をそこへ送り込むようにするまで、それは人々に夢を送って、そこに“故郷”として帰るように仕向けていたわ。それ以来現象は報告されていないわ。」
魔術師は指を立てた。
「そこには川はあった?小舟は?渡し守は?」
イバニェスは頷いた。
「霧は?教会は?白い人物は?」
イバニェスは曖昧に頷いた。
「多少は。」
オコリーは身を引いて背もたれにもたれた。
「5923ね。あなたに何かを求めている。」
「多分死にかけなのさ。」
プレースホルダーは言った。
「他の異常なもの全てと同じ。君なら助けてくれると思ったのかも。」
「むしろ私たちを助けられると思っているのかも。」
イバニェスは考え込みながら言った。
「何だって/ですって?」
他の二人が声を合わせて言った。
「あれがそう言っていたの……」
彼女は怯みながら言った。
「私がバランスを戻せると。私に剣を見せたわ。そして剣が鍵だと。」
言いながら、自分でもバカバカしいと思った。
二人の博士は意味深な視線を交わした。
「オーライ、」
プレースホルダーが言った。
「ルール通りに行こう。O5は6500に対して行うことは何でも儀式的でなくては、異常の力を強化する何かでなくてはならないと言っている。」
彼はイバニェスを指差した。
「君はトルコに行きたくない、と言ってくれ。」
「私はトルコに行きたくない。」
彼女は意図した。
「いいね。君は呼び声を拒絶した。だから我々は次に進める。」
彼はオコリーに身振りした。
「ビジョン探索のルールは?」
オコリーは肩を竦めた。
「ビジョンが先に来たのなら、ビジョン探索とは言えないわ。それはただの探索ね。」

カラキョイの村
トルコ共和国
「そうね、」
イバニェスは認めた。
「これは恐ろしいわ。」
彼らは騒々しい村を一望できるところに立っていた。通りという通りはうつろな目をした動かない人々で満たされていた。かすかな風が、斜面に立つ曲がりくねった町並みを、そしてボディバッグを身に着けた中年男性がアンズの露店に突っ伏したところを通り抜けていた。その内容物は陽気に坂道を転がっていた。
「彼らを座らせて。」
彼女は命令した。部下の十名の機動部隊は散会し、揺れる人々を優しく座らせた。オコリーはすでに膝をついていた。彼女はシンクレアの荷物を探り、この日三回目の注射を準備していた。
「彼らはどうしたんだ?」
プレースホルダーは思いがけず開放された果実のいくつかをバックパックに入れていた。
「この場所。」
オコリーがあくびをしながら言った。彼女は一センテンスごとにあくびをした。
「住人の生命力で生きながらえてるの。」
「さながら吸血鬼の村といったところね。」
イバニェスはホルスターに指を置いた。
「違うわ。」
オコリーは深く息を吸った。
「生命を吸うんじゃないの。それは……反映するの。訪ねてきた人々のことは気遣ってるわ。もし今それを吸い取っているのならば、なにか理由があるに違いないわ。」
「その通り、」
プレースホルダーは言った。
「そいつは飢えている。範囲内にいた食事は彼らだけだったということさ。」
「そうとも限らないと思うけ──」
オコリーが言いかけたところで、深い振動が彼女の発言を遮った。その振動は舗装の敷石をモルタルから飛び出させた。イバニェスは辛うじて転ばずにいたが、プレースホルダーは潮流のように通りが巻くのに巻き込まれ、アンズのカートに突っ込んだ。道路は石が砕け、モルタルが粉末となることにより崩壊し、建物も全て崩れ去った。彼らは真っ黒な広がりの中を転がった……
周囲の光景は再構築された。彼らは今や乾いた噴水の底に立ち、這い、あるいは座っていた。イバニェスの夢にあった教会が彼らの前にそびえ立ち、MTFは消えていた。
急いでくれ。
全ての単語は息継ぎなく、差し迫った嘆願だった。
私を見つけてくれ。急いで。
「あれが私に話しかけているわ。」
イバニェスは噴水から歩き出た。
「私に剣を見つけろと言っている。」
「あそこよ、」
オコリーはヤスリのように掠れた声で言った。彼女が指差す先には、教会の階段の根本の柱廊の入り口があった。
「図書館よ。ここにはあまり魔法が残されていない。でも感じる……」
彼女は頭を振った。
「図書館の中にはあるわ。」
「その通りだ。」
プレースホルダーは彼女に手を貸した。同時に、イバニェスは部下を無線で招集した。

図書館は厳かだった。カラキョイはただの村だったが、同時にただの村ではなく──
「旅行者を捕らえていた。」
イバニェスは言った。
「あれだけでそう言えるわね。」
そこには一人しか利用者はおらず、テーブルの上に広げた本に突っ伏していた。カウンターの奥の司書はそれを見ずにコンピューターのスクリーンを凝視していた。従って、部屋の中の三人目の人物が、皆の注目を集めた。
これを取るのだ。
白いローブを着て、フードを被った人物が言った。それは擦り切れたモザイク模様の床の中央に立ち、白い手に怪しく輝く剣を高く掲げていた。
イバニェスはホルスターから武器を引き抜いた。「おかしなことはしないで。」
不明なものがなくなるということは、全ての物語が終わるということだ。
彼女が用心して近づく間にも、内耳をくすぐるような声が聞こえた。
全ての物語が終わるということは、全ての変化が終わるということだ。
ローブが突然滑り落ち、そこに顕になったのは光沢のある大理石の……同じローブを着た姿の彫像だった。イバニェスは最後の言葉を聞くため集中した。
変化が終わるということは、全てが終わるということだ。
イバニェスは眠っている学者の隣の椅子を引き抜き、像の台座に押し付けるように置いた。プレースホルダーは落ちたローブを拾うために膝をついた。
「気をつけて、」
オコリーはかすれた声で言った。彼女はカウンターにぐったりと寄りかかっていた。
イバニェスは椅子の上に乗り、像の指と剣の柄の間を探った。冷たい金属の指は簡単に持ち上がり、彼女は自分の手で取り付けられた木の円筒を包んだ。彼女は息を止めて……
……剣を引き抜いた。
彼女は息を再開し、その物体を更に仔細に観察した。それは三フィート弱の短めの剣で、円形の鍔と磨かれたオーク材の柄頭が取り付けられていた。鍔の辺縁には何かが書かれていたが、彼女には読めなかった。見慣れない文字が彼女の目を痛くした。
「で、次はどうすればいいの?」
重い武器を持っているとバランスを取りづらいと感じながら、彼女は椅子を降りた。
「これをどこかに差し込むとか?」
プレースホルダーは考え込んでいるように見えた。
「ドラゴンでも討伐するのが定番だが。」
オコリーの頭が左右に揺れた。
「あなたにも声が聞こえた?」
イバニェスは呼びかけた。
答える代わりに、魔術師は床にくずおれた。木材の床の上に、仰向けになり、荒い息をしていた。仲間たちが急いで駆け寄った。イバニェスは注意深く刃を後ろにしていた。
二人が覗き込むと、オコリーは顔をしかめていた。
「ここに“道”があるわ。」
「どこへの道だ?」
プレースホルダーはもう一本EVEの注射を探してシンクレアの背嚢をかき回していた。そうしながら更に背嚢にローブを詰め込んでいた。
「“道”よ。」
オコリーは繰り返した。
「ポータルよ。私はそれを感知できる。」
彼女は何度も瞬きした。
「どんな“道”にも“ノック”が必要よ。これへの“ノック”はわからないわ。」
彼女は剣を一瞥した。
「あの世からのさらなるメッセージは来た?」
イバニェスは頭を振った。
「今は消えてしまったみたい。」
彼女は鍔をオコリーに見せた。
「あなたにはこれが何かわかる?」
魔術師は目を細めて見て、それから急いで目をそらした。
「私には読めないわ。だけど読める人を知っている。」
彼女はカウンターを背にして、後頭部を打ち付けた。
「蛇の手よ。」
プレースホルダーは注射器を渡しながら眉をひそめた。
「そうだ、我らの最高の友人。いい考えだ。」
「“手”は私たちよりもさらに、魔法に無くなってほしくないと思っている。」
オコリーは彼の意見を補強した。
「状況が変わったのよ。」
「その“道”は正確にはどこにあるの?」
イバニェスが割り込んだ。
オコリーは肩越しに手を伸ばして拳で木材を叩いた。
「ここよ──」
カウンターから、遠くから鳴ったようなカチリという音がした。オコリーは口をあんぐりと開けた。
「“ノック”が文字通りの意味だなんて言ってなかったじゃない。」
イバニェスは剣を掴んで立ち上がった。
「そうじゃなかったのよ。」
オコリーは床の上で身じろぎした。プレースホルダーは彼女の手を掴み、引っ張り立ち上がらせた。今回は彼女は手を離そうとしなかった。
「これも魔法が消えつつあることの一環にちがいないわ。」
「あるいは、これが君の物語における役割だったかだ。」
空想科学者は指摘した。オコリーは再び顔をしかめたが、その点に関しては議論しなかった。
イバニェスはカウンターの周りを歩き、昏睡した司書をどかした。
「なんてこと」
カウンターの膝の高さに、箪笥のような開き扉があった。その中身を覗き込むと、彼女は再び剣を取り落しそうになった。
三人はカウンターの扉を這って抜けた。カラキョイの冷たい石畳は、キュッと鳴る柔らかく暖かな草へと変わった。その下には木材があった。腐ったものではなく堅く……磨かれている?イバニェスは立ち上がるまで完全には理解できなかったが、立ち上がるともっと理解できなくなった。
彼女は低木地帯の開けた場所で、同時に装飾されたアテナエウム1でもある場所に立っていた。そこは彼女が見たこともない巨大な図書館だった。詰め込まれた本棚の並木が雷雲の天井まで届いていた。暖かい風が古代の紙の匂いと遠くの戦いの音を運んでいた。彼女は仲間を振り返った。
オコリーはまだ草の上にいた。彼女はすまなそうに見上げていた。
「こんなことになるなんて。」
イバニェスはプレースホルダーに剣を手渡し、彼女のために手を伸ばした。
「あなたの体重がほとんど魔法ならばいいのだけど。」
彼らは積み上げられ、壁となりあらゆる方向へと伸びる文書の森へと入り込んだ。彼らは巨大なアーケードをいくつも抜け、交差点のたびに超自然的な経路を見るため立ち止まった。十五分ほど進んだところで、動く骸骨が指骨を、全体が目でできた二メートルの塊に突き入れ、何度も何度も「プラキシス!」と叫んでいるのを見た。ずんぐりとした、四つ目の緑色のクリーチャーが張り子のゴキブリの群れを巨大な革の本で蹴散らしているのを見た。そもそもそれらは巨大な蛇か恐竜のようなクリーチャーから逃げていて、あまりに速かったために何のためだったのかを理解するのが難しかった。そして少なくとも三人の狂おしい目をしたローブを着た男が、天井から伸びた彼らを締め付けようとする腕と格闘していた。
オコリーは腕を後ろに回して、手の届く範囲の本の背を軽く撫でながら進んだ。彼女は深い息をつき、目には涙を溜めていた。
「何だいあれは?」
プレースホルダーが問いかけた。イバニェスは片手で魔術師を運ぶように姿勢を変えた。もう片方の手は訓練された何気ない動きで腰へと伸びた。そして一発の銃声が、木でできた峡谷にこだました。金属の一片は空中で膨れた神経の塊に命中し、両者は血と金属を撒き散らした光景の中で崩壊した。
「よし。」
武器を下げながらイバニェスは言った。
「あれは何だったのかしら?」
「狙いもせずに?」
プレースホルダーは剣を床に置き、蜘蛛のような物体の残骸を調べるため膝をついた。
「君は恐ろしいな。」
「そしてうるさいわ、」
オコリーは不平を言った。
「またやるときには、私を降ろしてからにして。」
イバニェスは優しく彼女を床へと降ろした。魔術師は震えた。
「感じる……今度は良いものかわからないけど──」
イバニェスはあたりを探り、左手で剣の柄頭を見つけると流れるような動きで持ち上げた。もう一つ、はるか上の天井から落ちてきた肉の球を、彼女は剣の平で叩いた。
「撤退!」
彼女は叫び、もう一発射撃した。今回はクリーチャーは本棚の一つに衝突し、百科事典のセットに血の筋を残した。
「オウ、」
プレースホルダーは言った。
「クソ。」
彼が見つめていたのは、血のような色をした蜘蛛の群れが糸を撚り合わせ、通路を塞いでいるところだった。しかしイバニェスが立ち上がるより前に、肉のカーテンは乱暴に引き裂かれ、積み上げられた本棚にぶち撒けられた。巨大な、バスの車列よりも長い、赤い背中をしたヤスデが伸び上がり、痙攣するものたちを空中に放り投げた。その巨大な丸い頭部の中央に縦に開いた軋る口で逃げ遅れたものたちを吸い込み、この世のものとも思えぬ甲高い声を上げながら咀嚼した。最後の赤い一欠片がその食道へと消えると、深い茶色をした腹部が真っ赤に燃え、肉の沸騰する音が空気を満たした。
それは羽毛のような炎のげっぷを丸い肩に吐き、それから三人の上に落ちるように覆いかぶさってきた。
イバニェスは伏せたオコリーの隣で身を縮めながら、プレースホルダーをちらりと見た。
「これもドラゴンのうちに入る?」
「看守ども!」
巨大な恐怖は金切り声を上げた。
「私の図書館だ!お前たちには──」
その細長い脚が突如広がり、その節くれだった胴体が一面の床板に叩きつけられた。
「クソ、」
それはゼイゼイと息をついた。
「忌々しい。」
イバニェスは立ち上がり、剣をそれとの間に掲げた。
「ここには何かを収容しに来たわけじゃないわ。」
彼女は列車サイズの腐食生物に挨拶しているにしては、驚くほど平静なトーンを保っていた。
「私はたった一つの情報を求めてここに来た。信頼して。本当は私がそれを見つけるのを手伝いたいはずよ。」
「私は案内人ではないぞ、半分足らずの間抜けめ。」
それはバタバタと立ち直り、積み上がった本棚に寄りかかり体を支えた。
「無礼者め、お前を欠片nibletsに引き裂いてやる。」
それは立ち止まった。
「欠片niblets?臓物gibletsのほうが良いか?どちらにしろ私はお前たちのようなものを信頼しない。私は盗賊も焚書者も我慢できぬ。」
「蜘蛛spiderは我慢abideできるのかしら?」
イバニェスは手近の死んだ怪物の残骸をヤスデに向けて蹴った。ヤスデはそれを前脚の一つで弾いて空中に飛ばした。
「お前は蜘蛛を我慢するものspider abiderか?」
クリーチャーは再び伸び上がり、その瞬間イバニェスは燃える胃の中で蜘蛛に加わりかねないと思った。そして驚くべきことに優しく囀る音が空気を満たし、彼女は唐突にそれが笑っていることに気づいた。
「蜘蛛を我慢するものspider abider!お前は悪くないな、」
それはキシキシとした声で言った。
「私は八番目の司書。我が友らは私をラウンダーピードと呼ぶ。」
そのT字型の眼が細められた。
「八番目の司書と呼んでくれ。」
「驚いたわ。」
イバニェスは剣を下げた。
「なぜ図書館が大変なことon fireになっているか教えてくれない?これは比喩的な意味だけど。」
「比喩などではない。」
司書は巨大な内部空間を見せるために脇へどいた。オコリーは見たことがあった。机、棚、テーブルと椅子、シェーズロング2とソファ、ランタン、火鉢、雑誌ラック、そして書見台。それは生きて息をするものであるかのように拡大し縮小していた。そして彼女が積み上がった本棚の影から出ると、なぜそうなっていたのかが見えた。
高層ビルのような壮大なギャラリーには肉々しい赤い蜘蛛が終わりなく巣を這わせており、小刻みに揺れる神経状の脚をかみ合わせて血と腱のネットワークを形作っていた。
「大広間The Grand Hallだわ。」
オコリーは呟いた
火花が蜘蛛から蜘蛛へと飛び、イバニェスに思い起こさせるものがあった。
最悪だわ。
「私が直すわ。何であの……蜘蛛の脳、があなたのロビーに作られているのか教えてくれない?」
ラウンダーピードはふいごのように拡大縮小しながら喘鳴のような声で言った。
「古い魔法は死につつある。“道”は開いていて、我々には閉じることができない。そこを抜けてくるものがある。招かれざるものが。これを待ち続けていたものが。」
「どんなタイプのものなんだい?」
プレースホルダーがアトリウムでイバニェスに追いついた。
「以前の利用者に盗み、図書館の資産を破壊し、消費し、他の利用者を消費するために入り込んだものがいた。」
巨大な丸い頭が持ち上がるのと同時に、はるか上方で新たな蜘蛛が少数、血が吹き出すように実体化した。
「そして超自然的な怪物たちも、勿論。外から中へと移ることでしか存在し得ないものたち。これがそのうちの一つだ。」
その緑色の宝珠のような眼が細められた。
「大広間はその内容に合わせて拡大する。通常ならそれは便利なことだが、今はそうではないな。」
オコリーはフラフラと立ち上がった。
「あなたたちはファーストネームで呼び合う仲なの?」
「間抜けの脳足らずのユベロス。」
ラウンダーピードは唾を吐いた。唾は蠢く黒色だった。それは緑色の板の上でシュウシュウと音を立てたが、その匂いは錆びた金属のようだった。
「知識への憎しみの化身、空虚のユベロス、非常識の網のユベロス、足跡なき夜の貪る胃の腑。」
「それがその人の名前ね。」
イバニェスは言った。
司書はその身の毛もよだつような歯のジッパーを鳴らした。「何だと?」
「ユベロス。」
イバニェスは増殖しつつある肉の神経細胞を憑かれたように睨みながら言った。
「80年代のスポーツ選手ね。うちの父は野球をよく見ていたから。」
ホールの頂点は、盲目の愚者の陽気さで興奮したように波打つ赤の偽の天井の上に隠れていた。
「ピーター・ユベロス。」
彼女は言った。蜘蛛は積み上がった本棚にも網を張っていて、案内人たちが勇敢にも箒ではたき落としていた。
「九十パーセントは確かだと思うわ。」
「あー、」
プレースホルダーは言った。
「彼とは思えないが。」
イバニェスはしゃがみこんでブーツの紐を堅く結んだ。
「あなたは登れるんでしょう?」
ラウンダーピードはきつくとぐろを巻いた。
「いつもやってる。」
彼女はスタート姿勢をとった。
「それであなたのキチン質はどの程度硬いの?」
司書は期待で震えていた。
「お前が考えていることには十分だ。」
「何を考えて──」
オコリーが言った。その瞬間、イバニェスは床を蹴って巨大なヤスデの背中に乗った。それは手近の支柱に貼り付き、凝結した脳の下の空間へと駆け上がっていった。
イバニェスは片手でアーチ状になった棘を掴み、もう片手で剣を回した。それは鈍い白色の輝きを放っていた。
「隠れてたほうがいいわよ。」
彼女は下の仲間たちに叫んだ。同時に、ラウンダーピードは有機素材の細工の壁に向けて螺旋を描いていった。
イバニェスは、ラウンダーピードが黄金の中二階を這うとともに蛇腹になった体節から体節へと飛び、終わりない大理石の柱を登るとともに棘から棘へと飛び移り、上昇する巨大な節足動物の胴体を登った。空は蜘蛛と本の雨を降らせた。そしてラウンダーピードは前者をその口で受け、細切れへと引き裂き、あるいは飲み下した。また後者をその蛇のような舌で宙からつまみ上げ、驚くべき慈愛をこめて腹に抱えた。一つだけ、魔術書を落下から拾い上げると、それを丸呑みした。
「図書館の蔵書を食べてもいいの?」
イバニェスは耳鳴りをこらえて叫んだ。
「私の内臓には別の管tractsがある。その……宗教書tracts向けの。」
ラウンダーピードは喘鳴のような声で言った。
「その分泌液は保存に適している。」
彼女は返答しようとしたが、髪の毛を切りつけられた。彼女はもがく蜘蛛を引き剥がし、司書の脇腹に叩きつけた。
「オーケー。」
彼女は吠えた。
「ファック・スパイダーズ作戦を開始するわ。」
彼らが向きを変えて手すりに沿った陳列棚を抜けると、もう一匹、心のない悪性のものが飛びかかってきた。彼女は剣を大きく振り、蜘蛛は剣の平に沿って滑った。その爛れた胸に二本のスリットが開き、彼女は装飾された金色の柱にそれを放り投げた。それは爆発した。
ラウンダーピードの巨大な顔が振り向き、彼女を睨んだ。
「剣は棍棒じゃないぞ。」
「野球のことが頭から離れないのよ。」
奇声を上げる群れの中を縫い進みながら、彼女は剣の柄を握り直した。
「私はそれが何なのかも知らない。」
彼女は続いて飛びかかってきた恐怖を三体、きれいに半分にした。緋色の飛沫が司書の背中に散った。本棚の間を司書が駆け抜ける間、彼女は頭によじ登った。輝く水晶のような目の間で、バランスを取るために中腰になり、剣を体の後ろに構えると、ハミングし始めた。震える影があらゆる方向から弾んで近づいてきた。

続く数分間、イバニェスは攻撃者たちを叩き切り、撫で斬り、あるいは臓器を引き抜き、周囲は赤い霞と化した。二人は鋏角類の臓器の霧の中大広間へ飛び戻り、彼女は司書の背中で酔っ払ったエロール・フリンのようにダンスした。彼女は不運な肉の塊を剣の先端で回した。それは剣を這い下ろうとしたが、彼女は八本の脚を全て薙いでからそれを投げ捨てた。それは床の上で所在無げにしていた博士たちのそばの地面に、濡れたハンバーガーの塊のように叩きつけられた。彼女は大きく剣を振り回して一度に五匹のクリーチャーを捕まえ、それらをラウンダーピードの喉へと掃き流して気の狂ったような笑みを浮かべた。
一ダースほどの階数を登り、ついに天井があった空間に手が届いた。司書は壁を蹴り、開けた空間を、頭を下にして、まるで建築上の梁のように横切った。イバニェスはその腹によじ登り、剣を高く掲げ、蜘蛛の空を切り裂き、きらきらと光る緋色の奔流に浸かった。彼女は激しく笑い、バランスを崩しそうになった。ラウンダーピードも笑っているのか、奇妙なクチャクチャとした音が彼女の笑い声と混ざって惨憺たる空間に響き渡った。
石材の塊が落下し、有機素材の生地を引き裂いて通り抜け、司書の背中を直撃した。力強い咳払いのようなの音を立てて、それはイバニェスからほんの数インチのところに炎のげっぷを吐いた。彼女は後ずさって剣を振り回した。それは純粋に、本能的な無意味な動作だった……
……そして力の奔流が先端から広がり、炎を捕まえて取り込んだ。剣は今や眼をくらますような白い光で輝き、イバニェスはそれを振り回して大きな円弧を描いた。火柱がホールを渦巻き、そして破壊された蜘蛛の天蓋は猛烈に燃え上がり、一つの蠢き死にゆく実体と化した。
ラウンダーピードは反対側の壁に移動し終わると、その前方部分を空中に突き出し、焼け落ちる蜘蛛のシートを受け止めるため前後動した。イバニェスは慌ててその頭部へと戻り、歓声を上げてコントラポスト3のポーズを取りながら落下する生き残った恐怖を切断した。
プレースホルダーとオコリーは、調理された灰色の物質が降り注ぎ、沸騰したクラレット4が床に撒き散らされる中、積み上がった本棚の間へと退却した。ラウンダーピードが最上階から地上階の虐殺現場へと降りると、イバニェスは猿が蔓を伝うように脚の一本を滑り降りた。彼女は貸し出しカウンターの上で、恐怖に縮み上がっているように見える
最後の生き残りの蜘蛛の上に、ゴロツキのように着地した。それは赤いゼリードーナツのように潰れて分離した。
博士たちは彼女を見た。彼女は血に覆われ、塗り固められ、包まれていた。彼女の真紅の容貌が割れて、目も眩みそうな白い笑いが覗いた。そして彼女は大声で叫んだ。
「物語って最高ね!」
そしてその声には獰猛な、張り裂けそうな笑いが重なった。実際、喉を痛めそうだった。
火花がラウンダーピードのなめらかなキチン質の上を踊り、消えていった。そしてそれは黒く波打つ舌で、更にいくつかの書物を蒸気に曇る中からつまみ上げていた。それは何ダースもの、計り知れない価値のある原稿や論文を、子供をあやす親のような慈愛を持って抱えながら、柔らかく低くさえずっていた。
司書は剣からのけぞった。
「私はその言語を知っていたとしても喋ろうとはしないだろう。話せないが。」
それは唸った。
「ここにはお前の助けになるものはいない。だから源へ行かねばならない。」
イバニェスは頷いた。
「でしょうね。その源とは何?」
それは彼女に語った。
「あー、」
プレースホルダーが言った。
「行くのはやめよう。」
「行かなきゃならないわよ。」
オコリーは手近な本棚の中身を吟味していた。見たところ、その内容から力を引き出しているようだった。
「そこが物語が終わる場所よ。」
彼に見つめられているのに気づいて、彼女は顔を紅潮させた。
「探索も物語も同じようなものよ。」
イバニェスは歯を軋らせた。
「もしこれが翻訳できたとして、"地球に平和を"みたいなことしか書いてなかったら、ものに当たり散らしてやるわ。もしかしたらあらゆるものにね。」
「もしかしたらそれがその剣の目的かもな。」
プレースホルダーは考え込んだ。
「君を苛立たせて、究極の戦士にする。」
彼女は彼を無視し、代わりに司書に話しかけた。
「私たちにも使える“道”があったりするんじゃないの?」
「“道”ではないな。“傷”だ。」
それは不満げに、歯擦音を立てた。
「感染した傷。絶えて久しい、誤った同盟のただ一つの置き土産よ。それはセブンフォールド・ポータルの向こうにある。それはお前が入るとともに、お前の後ろで閉まるだろう。図書館はあらゆる知識の場所と繋がっている、だが……」
それは口ごもった。
「この繋がりは意図して作られたものではない。そしてできることならば断っていただろう。」
「それをずっと聞きたかったんだ。」
プレースホルダーは言った。
「図書館はあらゆる、存在しうる現実と繋がっている、だろう?だから多元世界の定数と言える。我々の世界の魔法が死につつあるからと言って、何でそれが崩壊するんだい?」
まるで考えているかのように、巨大な頭が片方に傾いた。
「原因もまた多元世界定数に違いない。あるいはそれに近い何かだ。個人的にはお前たちのせいだと思う。」
プレースホルダーはたじろいだ。
「つまり、私たちに助けをよこすなどありえないと?」
「そうだ。」
ヤスデは床板を引っ掻いた。
「ここはもうすぐ全ての創造の中で、最後の魔法の砦となるだろう。お前たち愚か者を助けるために危険に晒すわけにはいかない。」
イバニェスは顔をしかめた。
「私たちは世界を救おうとしているわ。少しくらい協力できるはずよ。」
「今日ここまで協力できたのは偶然だ。」
司書は天井へとその体を伸ばした。まるで交渉力を見せつけるかのように。
イバニェスは今では真っ赤に染まったカラキョイのローブを脱ぎ捨て、輝く刃にまだ精悍な自分の姿が映るのを見た。
「オーライ、どこにポータルがあるか教えて。」
ラウンダーピードは頭を振り、頭の赤い雫を払った。
「私はお前たちが、自分でそれを見つけるように呪うだけだ。」
それは深い息をつき詠唱し始めた。その間、一行はその肋骨が浮き出たように見える喉の中心にある琥珀色の輝きを見つめていた。
我は今、汝らを異なる講堂へと急がせる
そこにて汝は汝の悲しみを知るだろう
黒き棚にてなお黒い書物の中
汝らの内なる暗き穴の中に
「すまんな。」
一瞬の間を置いて、それは付け加えた。
オコリーとプレースホルダーは即座に歩き去った。イバニェスは、それについていくよう彼女に強いる突然の力に抗った。まるで潮流の中の水泳選手のように。彼女は問いかけた。
「ここに残されたものが全部だったとしたら、どうするの?」
司書の目の縁が、ほんの僅かに収縮した。
「あなたが正しかったとしても、もし私たちが失敗したら、この場所の外には異常なものは一センチたりとも残らないわ。」
イバニェスは多大な努力を払って大広間を指し示した。そこは四方に広がる通路の中心で、血まみれの現場を見に生き残った放浪者たちが集まっているところだった。
「全てが死に絶えて、図書館だけが残るとしたら?」
「その時は、図書館だけで十分だ。」
ラウンダーピードは平坦な声で言った。イバニェスがついに立ち去る衝動に屈服すると同時に、それは大きく円弧を描きながら周囲の群衆に加わった。
彼らはよく踏み固められた通路を、よく整備された庭園を、そして広大な広間を、明晰なトランス状態で歩き抜けた。利用者たちの集団が、海岸の波のように彼らの周りに打ち付けた。彼らは図書館の深くへ、深くへと、心は空で、足取りは淀みなく正確に、そして完全に無意識に進んだ。幾世代も過ぎたギャラリー、古ぼけた書庫、そして使われていない閲覧室を通り過ぎた。ついに漆黒の保管庫の扉にたどり着いたとき、周りに人はいなかった。オコリーが鉄に手を触れると、金色の手の輪郭が浮かび上がった。
扉は開いた。空気が変わった。扉は開いた。心臓が高鳴った。扉は開いた。扉は開いた。あらゆる瞬間が一つとなり、扉は開いた。時が止まった。
扉は開き、そして彼らはそれを通り抜けた。扉は開き、彼らを受け入れたが、それを認識できたのはそれが終わった後だった。
「魔法は嫌いよ。」
イバニェスが言った。オコリーは彼女の肩を叩いた。
部屋は大広間を劣化させたものだった。経年、火災、腐敗により黒化して穴が開いていた。真に暗い光の光線が、天井の裂け目から砕けた床のタイルに向けて注いでいた。空となった本棚から、インクのように見える粘性の黒い液体が細い流れとなって、中央の空虚へと注いでいた。紙片が上方から降り注ぎ、それは底の無いように見える穴へと消えていた。
「この段階が、」
プレースホルダーが言った。
「底なしの穴みたいなものになったのは聞いたことないな。」
イバニェスは用心深く端へと近づいた。
「それは比喩?狂気に落ちるとかの?」
二人とも彼女のところに来た。
「発展の比喩だ。」
プレースホルダーは言った。
「移り変わりの、もっと深い知識を得ることの。」
「これは穴よ。」
オコリーが言った。彼女は二人の眼前に歩み出て、明るく笑い、そして後ろ歩きに無へと向かった。
二人は彼女が落ちるのを見て、そして手を繋ぎ彼女に続き歩み出た。
扉が閉じた。


イバニェスは今日二度目の落下を体験した。
彼女は光から落ちている間、意識して目を閉じていたわけではなかったが、脚が再び硬い地面を捉えた時には意識して開けなくてはならなかった。彼女が仮面を付けている事に気づいたことに言及するために口を開けたときにはまだ何も見えなかった。彼女は指をその縁に走らせ、ひどい日焼けのようにそれを剥がした。それは使い古した石鹸のように固く、特色のない細い白い陶器だった。
彼女の仲間たちが側にいた。彼らの分の仮面を持ち、突然の明るさに目を細めながら……
彼女は仮面を落とし、薄く光る剣を高く掲げた。オコリーはそれを見ようと身を寄せ、待ちわびていたかのように鍔を撫でた。
「これは正に出血の魔法ね。」
彼女は畏怖して囁いた。
「これ以上なく強くなっている!何物もこれ以上の力を得ることはできない。財団の収容庫にあるアーティファクトの半分が、ただ純粋に力を失ったわ。2264はもう開かない。005と963も全く機能しない。でもこれは?」
「もしかしたら、それこそが魔法の都市が我々にこれを持たせようとした理由かもな。」
プレースホルダーが示唆した。
「もしかしたらこれは本当に解決法の一部なのかも。」
「才覚あるものは、ふさわしい場所genius lociに置け、と言うものね。」
オコリーは同意した。
「望みがあるわ。」
「そうね、」
イバニェスが言った。
「これはシューッって鳴るところ以外は凄い剣だわ。」
彼女は強調するために音真似をして、それから周囲を照らすために体の前に掲げた。
「今日は図書館の中を這い回る運命にあるみたいね。」
彼女は不平を言った。黒い本棚で両方の壁が埋め尽くされた本棚が、延々と続いていた。地球の曲面すら感じられそうなほどの長さだった。完全に黒い本棚に埋め尽くされている。完全に、完全に……
彼らは皆一様に震えていた。イバニェスは、そこにある本は皆間違っている、本棚は間違っているという明白な感覚を感じていた。彼女には鋭いほどのイメージが感じられた。黒く積み上げられた本棚がその増大していく重量で割れ、崩れて山となり──
「移動しなくちゃ。」
彼女は言った。強く頭を振った。
「移動しないと、でないと──」
聞こえているか?
彼女は間髪をいれずに大股に前へ進んだ。
「来て。」
彼女は二人がついて来ているか確認しなかった。
お前たちは我々の秘密を盗みに来たのか?
その声はカラキョイのもののように弱くはなかった。自信に満ちて、空の井戸に響く壊れたベルの音のように響いた。
毒に引き寄せられる鼠のように。
彼女は歩みを速めた。本棚は死者の指の爪のように空へと伸びた。本たちは見つめていた。彼らは好意的ではなかった。
お前たちは我々を知ろうとしているのか?それとも自分自身を知ろうとしているのか?それとも汚れたものたちの作る汚物がまだあるかを見に来たのか?
声はあざ笑うように響いた。それは朗々とした、破壊的な、笑いの騒々しい流れでもあった。彼女は闇の中に裸体でいた。
「デルフィナ?」オコリーははるか後方から声をかけた。「デルフィナ、大丈夫?」
お前たちは我々の棲家に来た。
本棚が迫ってきた。本棚などなかった。
お前たちは全ての美しく、そして滅びたものが流れ着く終焉へと来たのだ。
彼女の足音はしなかった。
お前たちは黒のアラガッダへと来ている。そしてお前たちは歓迎されている。
彼女は歩みを止め、目を閉じた。
私のもとへ来たまえ。
声は歌った。
私のもとへ、そして終焉へと。
「これは終わりじゃないわ。」
彼女は自分の声に驚き、目を覚ました。そして目を開けた。

彼女は立っていた。──四人で立っていた──薄暗い涙のプールに。水の中には何冊かの本があり、破滅的な啓示に溺れており、単語は水を吸ったページから流れ出し、表面張力の下を泳ぎ回っていた。イバニェスは闇の中で膝を付き、指で境界の膜を探った。毒と──
「もう十分よ!」
イバニェスの叫びが広大な地下湖に木霊すると、仲間たちが狼狽えて後ずさった。三人とも彼女を恨めしげに見つめた。
ここにお前の知識がある。
一人が咎めるように言った。
それに溺れるといい。
彼女は瞬きした。
「知識。」
彼女は水中を睨み、そして手を伸ばして一冊の本を持ち上げた。その溶けた中身は彼女のジャンプスーツの表面をどろどろと流れ、彼女はカバーを閉じた。彼女は単語を読むことはできなかったが、そこには名前が死んだとき残るものと書いてあった。彼女は目を細めた。そこの文字は我ら全ての内にある狂気の印刷許可だった。彼女は深い息をつき、目を固く閉じ、そしてもう一度開けた。
表題はシンプルだった。略奪。彼女はそれを落とした。静かな水が、抗議の飛沫すらあげずにそれを飲み込んだ。彼女はもう一冊を拾い上げた。残骸と薔薇。もう一冊。酒池肉林の催し。鯨が海を割るように、英語の単語が静かなアラガッダ語から浮かび上がった。
「勿論、」
オコリーは、イバニェスの肩越しに覗き込むためにしゃがみ込みながら言った。
「アラガッダ語の文章は、街の中では自発的に翻訳されるわ。」
二人は立ち上がり、そして四人でプールの中心に輪になった。
「これが司書の言っていたことね。」
イバニェスは言った。彼女は剣を掲げ、ゆっくりと回した。
「私たちは源へと降りなくてはならなかった。」
剣は純白の棒となり、そのため彼らは刻まれた言葉を明瞭に見ることができた。イバニェスはそれをはっきりと読み上げた。
「私は消えないI will not fade。」
我々はそれを見るだろう。彼女の三人目の仲間が言った。そして彼女が三人目の仲間などいなかったことに気付く一瞬の前に、それは彼女の上に覆いかぶさった。

アラガッダの大使は彼女の右手の肉に鋭い爪を食い込ませた。彼女は後ろに、ピッチのように黒い水の中へと倒れ込んだ。渦巻く闇を通して、彼女には細切れの包帯が、剥かれた皮膚のように放散し、顔の欠落を露わにするのが見えた。
私はお前を知っている、
それはひび割れた声で言った。
お前は英雄ではない。
彼女の背中が浮かび上がった──にもかかわらず、彼女にはオコリーとプレースホルダーが恐慌した顔で彼女のもとへと急ぐのが見えた──そして彼女はサイト-43のメインエレベーター通路の磨かれた床に大の字に転がった。百体の包帯を巻いた亡霊が、彼女のもとへと迫っていた。そして彼女は、手にした剣が今は滑らかで輝く最新型のライフルになっているのに気付いた。
殺人者、
最も近いものが罵倒を吐きかけ、彼女は射撃で答えた。命中の瞬間、それはセキュリティ部門の制服を来た恐怖に引きつる女性の姿に変わり、両手は肩で千切れ、血を白い綺麗な壁に撒き散らしながら回転した。
臆病者、
次のものが叫び、抵抗のため手で殴りつけた。それが変化した女は、イバニェスが引き金を引くと、赤い霧となって消えた。
看守が、進む群衆から出た最後の言葉だった。イバニェスは連続射撃でそれらをスプレーにし、壁に殴り書きを描いていった。それらは分解されながらも彼女に倒れかかり、血は床を浸し、鉤爪のように曲がった手が一本彼女に到達し、広がりゆく飛沫に彼女の頭を押し付けた。
お前は救世主ではない。
彼女は沼のような水の、淀んだ水たまりから、咳き込みすすり泣く残骸のように現れた。空は燃え上がり、飛行機が頭上で叫び、MTFの装備をした男女が対空砲を設置しようと格闘する中、環礁沿いの村に重火器を吐きかけていた。
彼女の手にある明かりは半分に折れていたが、上方の白熱が彼女の前の水中に広がる赤い雲を不気味に照らしていた。幼い少女が、顔を汚物に突きこんで倒れており、一つの綺麗な開かれた傷口が、彼女の頭蓋の後ろにあった。イバニェスは明かりを落としたいという、ほとんど勝ちつつある衝動と戦いながら、下方に手を伸ばし、彼女の妹の冷たくなった死体をひっくり返した。
「これは現実ではない。
顔の無い、包帯を巻いた獣の嗄れた声が、彼女の声にかぶさった。それはその鉤爪を彼女の喉に伸ばして締め付けた。
お前は何者でもない。
今回は彼女も反撃した。折れた明かりで、大使を殴った。それは一撃を浴びせられるたびに、より高く、より直立し、より自信に満ちるように見えた。
「これは現実ではないわ!」
彼女は叫んだ。
「これは夢よ!」
今日では、夢はアラガッダのどんな魔法よりも現実である。
包帯は剥がれ落ち、真の夜のしなやかな形が彼女を包んだ。彼女は明かりを、銃を剣を持つ自分の指が緩むのを感じた。そして大使が彼女をもう一度水に突き入れると、何が起きているのかを理解した。
それが生ぬるい水面の下に彼女を押し入れると同時に、彼女は深く、速い息をつき、心を空にし、全てが終わったあとで彼女にとって重要となる唯一のことに集中した。噴水での失敗、十名の善良な男女の死。
お前はリーダーではない、
カミソリのように鋭い指が彼女の頭皮に食い込み、彼女の眼が血で満たされるのと同時に、彼女は月明かりに照らされた。雨に濡れたカラキョイの光景だった。彼女は噴水の中を水しぶきを上げて駆け抜け、雨のために咳をして、やけどするほど熱い空気の中で息を詰まらせていた。獣は教会の階段に立ち、何気ない、誰にでもするような悪意を込めて彼女を見ていた。
私はお前を呟き一つで分解する事もできる、
それはカラスのような鳴き声で言った。
だが自分の手でそれをさせたほうが遥かに面白いだろう──
「撃て。」
彼女は嗄れた声で言った。そして大使が混乱して動きを止め、その一瞬あとに十丁の銃からのホローポイント弾がそれを黒い細片へと引き裂くのを見て、満足が急激に湧き上がるのを感じた。彼女の部下のエージェントたちはマガジンを空にするまで撃ち続けた。穿たれた怪物は一歩前へと踏み出し、それから顔を先にして階段に倒れた。強い風が吹かれ、白いローブが狂ったようになびくのがほんの一瞬見えた。それから全ての光景が突然に非存在と化した。
彼女は四人で、知識の無限のプールの中にいた。彼女の敵は無傷で、しかし動かずに顔を下にして水中に浮かんでいた。彼女は剣を握る手を緩め、それを背中に構えた。仲間のうち誰がそれを取ったのかは見ていなかった。彼女は、手を伸ばして憎むべき生物の首を掴むという、野蛮で満足をもたらす行いに集中していた。一本の鎖が千切れるような音が洞窟に響き、彼女はインクのようなぬかるみから出た。
オコリーは何も言わず、剣を彼女に返した。それは闇の中の篝火のように輝いていた。

「一体全体、ありゃあ何だ!?」
一行が石の回廊を歩く間、プレースホルダーは半狂乱になりながら言った。
「アラガッダの大使よ。」
オコリーは冷静だった。
「地球上に存在した中で最も強力な魔術師の一人ね。」
「死んだのか?」
「最初から死んでいた。」
魔術師は沈痛な顔をしていた。
「通常ならば、あれは私たちを、見もせずに原子レベルまで分解できたでしょうね。」
「ええ。」
イバニェスは頷いた。彼女の声は憂鬱そうだったが、なぜか力強くもあった。
「自分でそう言っていたわ。それが負けた原因ね。」
彼女は顔に垂れた血を拭うために手を当てた。だが手を離しても、綺麗なままだった。
「悪役は空気を読めないものよ。」
「あれが悪役だったのか?」
プレースホルダーが割り込んだ。
「オコリー、君はあれを大使と呼んだ。あれは吊られた王に仕えているのか?」
「その名前を大きな声で言わないで。」
オコリーは怯えたように言った。
「答えはイエスでもありノーでもあるわね。複雑なのよ。」
プレースホルダーは白衣のポケットに手を伸ばした。
「キャラクターの類型というものを知っているかい?」
二人は肩をすくめ、彼はナラティブ変動検出器を取り出した。
「特に、巨悪の右腕the big bad's second-in-commandというものを知っているかい?」
二人は再び肩をすくめ、彼は装置のダイヤルを調整した。
「ドラゴンとも言うね。」
イバニェスは歩みを止めた。
「それはつまり……」
「つまり君は像から剣を抜いた、主権的な国家を救った、ドラゴンと戦い、ひょっとしたら倒したのかもしれない、そして……」
彼は検出器を睨んだ。
「……よし、針は振り切れているぞ。ここだ。」
イバニェスははたまらずに、身を乗り出した。
「それはどういうこと?具体的に言って。」
「我々はこれに幕を下ろすことを始めなくてはならない、あるいは著者を我々のレベルに引き下ろして、永遠にエスカレートする物語の中に捕らえるってことさ。君が英雄的な神格化に達するのを見るのも楽しいかもね。世界には救済を必要としている小さいことはまだある。」
オコリーの目は剣の光のなかで輝いていた。
「実はそのトピックについては……」
彼女は剣に手を伸ばし、それから急に引っ込めて指を咥えた。
「あっと、ええと。」
彼女は考えをまとめた。
「どうしてこの金属の塊がだんだん限界質量に近づいているのかはわかっているの?」
「それは彼女の主人公ポテンシャルを反映しているんだ。」
プレースホルダーが言った。
イバニェスは彼を見た。
「何それ?」
「これはあなたの英雄性から力を引き出しているのよ。」
オコリーが説明した。
「いいえ、今のは訂正。これはあなたの英雄性の力に比例しているの。カラキョイが観光客の満足度を反映するようにね。街は英雄を求めた。そしてあなたが答えた。あなたの人間性ゆえに。」
彼女はイバニェスの肩を掴んだ。
「私たちはトルコからアラガッダに来た。デルフィナ、あの放浪者の図書館を通じてよ。私たちがそれをしたのは、役に立つようなことは何も書いてない刻印を読むためじゃない。なすべきことをなすためよ。」
「剣は探索の引き金となって、探索が剣の引き金となった。」
プレースホルダーが同意した。
「君のバカバカしいほどの力と技の連鎖によって。」
「誰かがアラガッダの力のバランスを変えてからどれくらい経ったかわかる?」
オコリーが問いかけた。
「蛇の手の広間を看守たちが自由に歩き回るようになってから、カラキョイが喋るようになってから何十年経ったのかしら?」
彼女は笑った。
「あるいは私の血管が炎で満ちていると感じられるようになってから。」
彼女は剣に劣らないほどに、感情を放射していた。
「それがこのオブジェクトのすることよ。これはあなたの内面にあるものを反映して、物語をかき回し、死んだ場所に、あるいは死につつある場所に活力をもたらす。私たちが知る限り、その剣には十分な、生の変化力がこめられていて、停滞を完全に逆転させることができる!」
イバニェスはここは廊下の突き当りに到達したところかなと考えた。厚い石で作られたアーチが、広大な闇へと通じていた。
「そうね、」
彼女は言った。
「なんてこった、とでも言うところ?」

彼らが境界を超えると、空虚な恐怖が彼らを包んだ。彼らは巨大な円形の部屋の端にいた。サンゴ礁のねじれた柱、破れたバナー、そしてひび割れた柱廊で彩られていた。興奮した誰かがあちこちに歩き回ったような、枝分かれした小道があり、象牙のまぐさ石の上には邪悪なシジルで書かれた銘文が彫り込まれていた。吊られた王の間の中心には円形の階段があり、仄暗い玉座に占められた高座に続いていた。玉座の彫刻はまるで墓場を記憶のミミズが這い回るように、彼らの目の奥で這い回るようだった。それには汚らしい棘、黒い金属製の折れた繋ぎ手、擦り切れた黒いロープがあった。一本の鎖が見えない天井から吊られ、風に揺れていたが、その風はあらゆる表面を覆う埃の層を吹き飛ばすには至らなかった。
玉座は空だった。
オコリーは廊下へと一行を連れ戻した。彼女の陰鬱な表情は葬式にふさわしいほどの蒼白だった。
「問題が生じたわ。」
彼女は自分の言葉で窒息しそうに見えた。
「アラガッダを出る唯一の方法は扉をくぐることよ。実際のね。」
彼女は親指で肩越しに後ろを指した。
「ここにはそれがあるかもしれない。でも街には確実に扉がいくつかある。」
「じゃあ、街に出ていって、出口を探すわけ?」
イバニェスは脈が上がるのを感じた。
オコリーは頭を振った。
「王は解き放たれた。多分あなたが……私たちが彼を解き放った。」
イバニェスは剣をオコリーとの間に掲げたが、オコリーは更に強く首を振った。
「それが大使に何をしたか見たはずよ。もし何も縛るものが無い状態で、吊られた王がそれを手に入れたら、わざわざ世界を救う必要なんてなくなるわ。それはもう滅んでいるのだから。」
プレースホルダーの息は荒かった。
「じゃあ、道を探査してみて、ドアを見つけられるか期待するしかない。」
「見つからなかったら?」
イバニェスは仲間の顔を注意深く見た。
オコリーは彼女から目を背けた。
「道をどれか選びましょう。どれでもいいわ。そして走る。」

王の間の光は奇妙だった。彼らにはどの小道に刻まれた銘文も読むことができたが、アラガッダそのものへと至る曲がりくねった階段が潜む高座の上は全くの漆黒だった。彼らは通路から通路へと移動し、暗い石造りの終わりなきトンネルを眺めた。彼らの影は、間に合わせの照明の位置に関係なく、影が伸び縮みしないことに気づいた。
彼らは荘厳な一つの扉を見つけた。漆黒で、木製の、星型のパターンに錠が配置された扉だった。まぐさ石の上の銘板には、「アディトゥム」と書かれており、オコリーは無言で開けようとする試みをやめた。歯を食いしばり、顔は痩せこけ、彼らは玉座のある高台の周りを回り、消えない暗闇のあるその中心へと──
暗闇が動いた。
「ああ、」
オコリーが言った。彼女は背嚢に手を伸ばし、革の小袋を取り出し、そしてその中身を左手にあけた。彼女が両手を打ち合わせると、赤い雲が彼女の周りを包んだ。
「さよなら。」
「何?」
イバニェスは魔術師の肩を掴んだ。オコリーの筋肉は固く強張っており、脚は埃の上に固く植え付けられたようだった。
プレースホルダーは慌ててトンネルをスキャンした。イバニェスはオコリーを自分の方に向かせようとしていた。オコリーは手を擦り合わせた。手は古いサビのような色に変わり、それから周囲に残る粉の中に線を描き始めた。
「ウド!」
イバニェスはオコリーの前に移動した。そして振り向いてオコリーを乱暴に押して後退させた。オコリーの顔は涙に濡れていた。
「あなたは行って。」
彼女は膝をつき、床に指で線を描いた。彼女が自分の周りに複雑な紋様を描くと同時に、彼女の後ろに黒い霧が立ち上った。反物質が渦を巻き、絶対の無のタペストリーが紐解かれ、いくつもの暗黒の触手が彼らに向けてのたうった……
イバニェスは剣を構えた。そしてオコリーは苦しみに満ちた微笑みでイバニェスを祝福すると、親指と人差指の間に現れた炎を、床の紋様へと押し付けた。
炎の壁が彼女の足の下から吹き出し、玉座の間を二分した。それはイバニェスとプレースホルダーを、吊られた王の影である蝕む触手の侵攻から守った。イバニェスは手を炎に押し当てた。それは冷たかったが、石のように硬かった。
オコリーはイバニェスの鏡像のように手を押し当て、それから口をすぼめて押した。イバニェスは吹き飛ばされ、汚れた床石の上を滑った。プレースホルダーが彼女が転ばないように手を引くと同時に、彼女は叫んだ。
「ウド!」
炎の壁の後ろの空間は、今や星も月もない夜となっていた。オコリーは両手を頭より高く上げ、髪を渦巻かせ、全身を強張らせていた。王の空虚な質量は、三つの三日月の簡素な模様が描かれた扉の下を少しずつ移動しながら、彼女を少しずつ後退させていた。
イバニェスから彼女が見えなくなるまで、彼女は完全なる決意の姿でいた。イバニェスは取り乱した、しかし断固とした空想科学者に連れられ、非意図NEVERMEANTと書かれた暗い通路を進んだ。


五十フィートも行かないうちに、イバニェスは玉座の間まで引き返したいという、図書館で司書がかけた呪いよりも、揺らめく炎に蛾が引き寄せられるよりも強い、強烈な衝動を感じた。
「引き返さないと。」
プレースホルダーは彼女を押さえつけるための動きは示さなかった。自分の力を認識していた。
「できないよ。これは進むことしかできない道なんだ。」
彼は暗い色の、縮れた髪を両手で搔き上げた。
「僕らは君をここから連れ出さないとならない。剣もね。君は主人公で、オコリーと僕は……」
「違うわ。」
イバニェスは制した。
「オコリーと僕は脇役でしかない。」
彼は反論するように両手を上げた。
「これが真実なんだ!」
イバニェスは彼を叩きたい衝動を辛うじてこらえた。彼女は通ってきた通路を指し示した。
「私に空想科学を語るのはやめにして。私の仲間が、仲間が、助けなくてはあそこで死ぬのよ。」
彼は悲しげに頭を振った。
「違うよ。君が助けようと助けまいと、彼女は死ぬ。問題は、全員かどうかだ。」
イバニェスは手を拳の形に握った。
「あなたにもこの道がどこに続くかわからないでしょう?あなたは私を行き止まりに導いているだけよ。その間にウドは……」
彼女が瞬きすると、怒りの涙が溢れた。
「何にもならずに死ぬわ。」
プレースホルダーは険しく眉をひそめ、ナラティブ検出器を指で叩いた。
「これがどこに向かうのか、僕にはわかっている。アラガッダは非意図の境界にある。次元間の空虚だ。空間の間の空間。僕の理論が正しければ、魔法の崩壊とともに、そこは純粋な形而超となったのさ。著者の領域というわけだ。」
イバニェスは瞬きした。
「あなたの理論が正しければの話でしょ。」
彼は頷いた。
「スロース・ピットを出発する前、オコリーとこのことについて話した。ここでは、世界がナラティブの力に侵され過ぎた結果、ループに囚われる危険が常にある。」
彼はため息をついた。
「もしそれが発生したら、限界を越えた事態を起こすことに同意した。」
彼女は自分の心が落ち着いてくるのを感じた。
「限界を越えた事態を起こす。」
彼は打ちひしがれたように見えた。
「もう一つのナラティブ・ボックスをチェックして、著者を引き込み、ありがちなスケールの最後の音を弾く。」
彼女の鋭い視線が、彼にそれを言わせた。つまりは、彼は“大きな見せ場、犠牲。”という言葉を飲み込んだのだ。
一瞬の間、彼女は光る剣で彼の心臓を貫くことを恐れた。一瞬の間、彼女は彼を光る黒い床石に叩きつけることを考えた。一瞬の間、彼女は我を忘れることを考え、それから彼女の心臓は喉まで跳ね、目もくらむような光が刃から放たれた。
「これは犠牲なんかじゃないわ。」
彼女は彼の鼻の下に剣を突きつけた。
「これは次回への引きよ。」

最初は、トンネルの終わりに光があるように見えた。それから、それは実際には光も闇も欠如しているのだということが顕になった。ただ塗りたくられたような灰色が蠢き、あらゆる明瞭さと色を奪っていた。彼女らは不明瞭な霧の中を走り、イバニェスはちらりと後ろを振り返った。かけがえのない数秒の間、そこにはまだ空虚があり、ウド・オコリーの不明な運命の音のないメモリアルとなっていた。しかしすぐに、何らかの不在すらも残らなくなった──
彼女らの足は厚いカーペットの上に着地し、鮮やかなメープル材のパネルに飾られた星明りのギャラリーに埃の雲を立てた。
「これは現実じゃない。」
前方を見つめたプレースホルダーが言った。格子窓の向こうに炎が燃えており、突然の悲嘆が十分な力で──
彼女らは空虚な空を見つめながら、棘の生えたイラクサの迷宮を走っていた。輪縄が空から垂れ下がり、縄の先では形の見えない人影が揺れていた。
「僕らは層を抜けている。」
空想科学者が短く言った。
「移動し続けるんだ──」
彼女らは煙がかった、フェンスに区切られた道を下っていた。死んだ目をした死体たちが、彼女らが通ると振り返った。喇叭が高く鳴り響き、なにか大きなものが霧の中を動いていた。
「もう少しだ。」
明らかに息を切らしたプレースホルダーが、喘ぐように言った──
彼女らは再び無の広がりの中を落下していた。そして彼女は突然、ベールの向こうで何かが彼女を観察していることに気づいた。
「僕がどうしてプレースホルダー間に合せの代役と呼ばれるのか言ってなかったな。」
プレースホルダーが言った。彼の目は目の前の空虚を見ながら見開かれていった。
「僕は何かの注意を引いた。そしてそれは僕を呪ったんだ。」
彼女らは黒いベルベットのカーテンに、標本台の上の蝶のように留められた。形而上の質量が彼女らの上を蠢き、手を伸ばして──
「僕らはこの間に、僕らの呪いについていくらか学んだよ。」
静謐の吠え声、七重の砕けた鎖、非人間的な口を開けた顔が彼女らの後ろにせり上がり、第四の壁の向こうからの叫びと、そして──

カラキョイ村
トルコ共和国
彼女らは座り心地の悪い木製の信者席の両端に座り、白いローブを着た人影が説教壇の上に浮かぶのを見ていた。そのローブは見えない風によりはためていた。
終わりの終わりは近い。
「あれは何だったの?」
彼女には、彼女の自身の声が平坦で、空虚で、別人のもののように聞こえた。
「著者が私たちのところに来たっていうこと?」
「あれはセーフガードだ。」
ナラティブ変動検出器の動かない針を見ながらプレースホルダーがつぶやいた。
「作者への最後の手段。いざというときのための。使うとは思わなかった、緊急プランさ。」
彼は疲れ切った息を吐いた。
「87を出発する前に、僕が生活圏へと設置した。」
イバニェスは彼をちらりと見た。
「なぜ誰にも言わなかったの?」
辛うじてそれを言える程度に疲れ切っていた。
彼女の目の中の火を感じ取り、彼は恐る恐る答えた。
「あれが僕らを見つけるとは思わなかった。デウス・エクス・マキナがいるとは思わなかった。ルールには従わなくてはならないからね。」
彼女は刃を見た──私は消えないI will not fade──磨いた青銅のように鈍く輝いていた。彼女は頭を振った。
「うるさい音ね。」
彼女は立ち上がり、両開きの扉を開けに向かった。見せつけるかのように、場の空気genius lociを無視しながら。
「ルールは私に従うのよ。今からね。」
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