見た目は南極大陸の観測隊が使うような雪上車、短く切り落とされた電車に無限軌道キャタピラが取り付けられたような直方体の塊。橇そりを牽引しながらも問題なく駆動し続ける馬力を持つオレンジ色の巨体は、雪上で一際夕焼けを吸収していたようであった。
本来は十人がゆうに乗れる車内には超・長距離移動のための物資が所狭しと積まれ、僅かな通路と二段ベッド、運転席と助手席程度の空間のみ。お互いの体についた雪を払い、梯子を片手にキャタピラの上についたドアを開く。
「コーヒー、淹れようか」と声をかける。返事を待たずコップに粉末を入れ、エンジンの熱で溶かされ暖められた氷を注ぎ、彼に手渡した。
「ありがとう」アウターの手袋を脱いだ彼が、その手のひらを比熱の高いコップに擦り付けつつ口を開いた。
「ところで、わざわざいうのもなんだけどさ。このコーヒー、もう少し甘くできない?」
「君が苦手なのは知ってるけど」
いつも彼は、この妙に酸味のあるインスタントを苦手そうにしていた。外での作業で冷えた体を温めてくれる飲み物。残しこそしないものの、ネコでもないのに随分ちびちびと飲むし、最後に残る澱は、運命を占う訳でもないのに口にしなかった。
「砂糖も限られてるしね、甘党には悪いけど。それに角砂糖四つも五つも入れるのは明らかに健康に悪いよ。お医者さんもないし、節制、節制」
「節制、ね。しょうがない、今日の晩御飯は何だっけ」
「今日はカレー。楽だし」
「楽。温める以外の調理法がしたいよ。揚げるとか球型に丸めて焼くとか」
橇に積まれた食料品は基本的に凍っている。北半球が夏であることには変わりないが、日中でも最高気温は零下二十度を超すのは稀だし、夜中には零下五十度だって下回ることもあるからだ。
パウチを置き、温風での解凍を待つ。
「油だって少ないし、そういう特殊な機材もないし」
「別にたっぷりの油で天ぷらとか唐揚げを作りたいって話じゃないんだ。ただフライパンを使うような料理がしたくて」
「そんなこと言われても。どうせもう消費するしかないんだから」
「神を殺すんだ」
飛び出した言葉が余りにも荒唐無稽で、一周回って冷静になる。
「犯罪歴がつくね。まだ十代なのに」
「もう法律はないよ。善も悪も、二人の規範の上にしか存在しない。それに一応二百歳台ともいえるね」
「それで、改めてどういうこと? 伝わらない諷喩はおいといて」
「うん、あらゆる修辞を排していうなら……うん、これから二人でイエローストーンまで行くんだ」
「アメリカの国立公園の。何キロあると?」
「約六千キロ余り。長い旅行だね」
「はあ、湯治にでも行くの? 確かに暖かそうだけど」
「惜しい。その温泉を作ってるイエローストーンの溶岩溜まりを破局噴火させて、壊すんだ。この全球凍結の間接的原因、埋もれた金細工の獅子、機械仕掛けの神様──SCP-2000を」
緞帳どんちょうが閉まり、星の影のみが地平線を教えてくれる時間帯。無粋、心無い月は主張をひそめ、舞台袖で縮こまっている。
助手席で足を組みつつ、フロントガラス越し、二重窓の向こうの僅かにぼやけた灯りを眺める彼が、シャワーを浴び終えたこちらを振り返り、問う。
「あの星座、なんだっけ?」
隣に座って彼の指さした先を見つめると、浮かんでいたのは視力の悪い自分にもはっきりと見える-0.05等星であった。逆さまになった牛飼いの膝、現在の全天で最も明るい星、アークトゥルス。解説してやろうと口を開きかけ──やめた。牛飼い座α星は春のダイヤモンドの一角を担う。季節など在って無いような世界でも、少し外れているように思え。そしてそれはあの時彼の言った「ロマンチック」からも外れているように思えたから、
「別にわざわざ八十八星座に当てはめなくてもいいでしょ。トレミーが勝手に整理した並びに意味なんてないんだから」
「……うーん──、そうかも?」
「完全な合意のもとに認識されるんだから、むしろ二人にこそ天球を金銀砂子の箱庭にする権利があるよ」
「いいね、ただ北半分だけなのは残念」
「それもこれぐらいの時間帯に北東に浮かぶヤツだけ。もちろんもっともっと遅くまで起きてもいいけど──明日に響いちゃうし」
二人でまた、窓に映った自分たちの目の向こうに浮かぶアークトゥルス……いや、今や無名の只明るい星に視線を向ける。
「提案しておいてなんだけど、まったく思いつかない。こんなところで名付け親になるとは思ってなくて」
「単純なのでいいよ。一番明るいから第一人者とか」
「プリンケプス・……えー、ノクス? いいと思う」
「ラテン語の格変化はそれで合ってたっけ?」
「分からないけど、話者も記録もないから今はこれが正しいんだ」
「合意があればね」
「今日はもう少し起きてようか? 地球がもう少し傾くまで」
「二人だけしかいないのに、地動説を取る理由はある? 言われたから言い返すけど。二人の完全な合意があれば今から宇宙はこの車を中心にして回り始める。地の果ては滝になって──いや、今は凍っちゃったから流れ落ちてはないけど」
「それ、多用し続けるとなんでも誤魔化せるからダメだよ。もうちょっと自重しないと」
「はいはい。今日はちょっと夜更かししようか。もうちょっと名付けたいけど、続ける前にシャワー浴びてきなよ」
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SCP-514