畜生
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「お父さんおはよう」

リビングに下りた峯川章大は、背中越しに父親に挨拶をした。ニュースがよほど面白かったのか、それとも彼に特段の関心がないのか、父親の返事はない。いつものことだが、彼がそれに慣れることはなかった。

章大はテーブルに置かれたコンビニのおにぎりに気付き、物欲しそうに手に取った。おにぎりを覆う薄いフィルムは彼にとって親切なものではなく、開封に苦心した。何度か父親に助けを求めるが、小さな舌打ちが返ってくるのみであった。米粒を散らかしつつ、結局数十分かけて完食した。

「餌もまともに喰えねえのかよ」

リビングを出る間際に呟かれたその言葉がひどく印象的だった。

洗面台に立ち寄った章大は、否応なしに映るその顔を見つめる。長い口、垂れ下がった長い耳、胸部から頭頂部にかけての茶色の長い体毛。出来の悪い犬のマスクを被った鏡の中の少年がこちらを見つめ返していた。彼はそいつが嫌いでたまらなかった。



給食の時間。色めき立つ周囲とは対照的に、章大は暗い表情を浮かべ項垂れている。そんな彼の元に、ニヤついたクラスメイトたちが卵スープを配膳する。「わざわざ運んであげたよ」、「俺たち親切だねー」などと、思い思いに勝手なことを彼らは語る。そんな彼らを御して、このクラスのリーダー格であり、村長の息子でもある山口隆久が口を開く。

「早く食えよ」

彼の言葉に促されるように、章大はスプーンを手に取る。そして恐る恐る卵スープをすくうと、

溺れもがく、数匹のミミズがその姿を現した。

章大は短い悲鳴をあげ抵抗するが、クラスメイトたちはそれを許さない。彼の両手を後ろに回し、二人がそれを押さえつける。隆久はミミズをつまみ上げ、章大の口にじりじりと近づける。章大は必死に閉口するが、数人の手にかかれば空しい抵抗であった。こじ開けられた口に、ミミズが放り込まれる。

ミミズが安息を求めて、喉奥に向かって這う感覚が舌を通じて章大の脳に伝えられた。隆久に片手で首を圧迫されたので、満足に舌を動かすこともできない。もぞもぞと食道に侵入したミミズは、直後の反射的な嘔吐によって排除された。隆久は椅子ごと章大を床に押し倒し、卵スープとミミズの残骸混じる吐瀉物を食すよう促す。クラスメイトたちからは好奇のアンコールの声。担任の先生は冷ややかな目でこちらを見つめるばかり。章大に選択の余地はない。



帰宅途中、章大はお腹を押さえて胃のムカムカを必死に誤魔化した。トイレに行くことや道端で吐くことは、隆久をはじめとする数人のクラスメイトたちが許さない。周囲のクラスメイトたちは長い耳を引っ張り、小突き、苦しむ彼をからかう。章大はとうとう我慢の限界を越え、腹の底から言葉を絞り出した。

「も、もうやめてください」

「は? ウケる」

隆久はランドセルを掴み、ブロック塀に章大を叩きつけた。崩れ落ちる彼の腹部に蹴りを入れる。小さな呻き声が響く。

「許してください、許してください」

隆久の足元で、章大は縋りつくように懇願の声をあげた。隆久は口角を厭らしく吊り上げ、彼の頭を踏みつけてさらに言葉を浴びせる。

「じゃあ許してやるからさ、そこの電柱でションベンしてよ」

章大は、隆久の言葉をか細い声で反芻する。それが冗談の類いではなく、事実上の命令であることを彼は理解していた。体毛の下で、青白かった肌に紅潮の色が混じる。よろよろと立ち上がり、途方もない羞恥と叫びだしたい気持ちを抑えて、章大は電柱の前に立った。そして、震える手でズボンに手をかけると、

「"お前"がションベンするんだぞ。どうすればいいかくらい、バカなお前でも分かるよな」

隆久の言葉を受けて、クラスメイトたちはどっと笑い声をあげた。上擦る声で小さく返事をし、滲む視界と好奇の注目の中、彼は上着を脱ぎ捨てた。次にズボンとパンツに指をかけるも躊躇すると、隆久はクラスメイトたちに指示をして地面に押さえつけ、無理やり脱がした。恥ずかしげに股間を隠そうとするも、右手を踏みつけられて阻止される。晒された間抜けな身体はクラスメイトたちの笑いを誘った。隆久は呻く彼の耳を引っ張り、もう一度命令をする。

章大は電柱に手をかけ、"自分"らしいポーズを見せる。不馴れなために、左脚に滴るそれとその温さが惨めさを演出した。ひとしきり終えて振り返ると、クラスメイトたちが両手を叩いて下卑た笑顔を浮かべていた。彼の足元に衣服が投げ捨てられ、別れの挨拶を告げてクラスメイトたちは去っていった。章大は俯きパンツを拾い上げると、染み付いたそれがひどく臭った。



章大の住むこの村は、ステレオタイプの閉鎖的なコミュニティだ。住民は200人程度、面積の狭さも手伝って住民同士の交流ネットワークは非常に活発。あらゆる問題が共有され、有力者の意向のもとに物事は進められる。元奇蹄病患者の章大についても例外ではない。

数年前、帰省していた東京の叔父を介して章大と母親は奇蹄病に罹患した。当初こそ同情の目を向けていた住民だが、致死性の感染病だと分かるや否や露骨に忌避するようになり、感染防止という大義名分のもとに峯川一家を一方的に遠ざけた。一切の治療すらも受けられず、叔父と母親は多くの恨み言を吐いて死んでいった。章大もまた意識が途切れかけたそのとき、突如現れた財団の医療チームにより特効薬を注入されたことで一命を取り留めた。それが幸か不幸かは定かではない。

特効薬は致死性と感染性を除去するのに一役買ったが、既に変異した細胞を改善する効果を持たない。治療を担当した職員は、「彼を一人の人間として尊重するよう、あなた方に強く要求します」と半ば機械的な言葉だけを残して、瞬く間に次の現場へ向かった。隔離状態が解除された彼を待っていたのは、偏見と暴力だった。



帰宅後、父親に発見されぬよう、章大はお風呂場でズボンとパンツの汚れをシャワーの水で洗い流した。すると、クラスメイトたちを刺激しないよう我慢していた涙が途端に溢れ出る。シャワーの喧しい音は、止まらない嗚咽と鼻を啜る音をかき消すのに都合が良かった。

体毛に染み付いた水分に苦労しつつも、軽く身体をバスタオルで拭き取る。ドライヤーに手を伸ばすと、不覚にも鏡面に自分の姿が映し出された。

長い口、垂れ下がった長い耳、胸部から頭頂部にかけての茶色の長い体毛。加えて、情けない顔と下半身を露出した無様な格好。

章大は、自分がいかに化物なのかを改めて思い知った。思わず視線を落とすと、無造作に置かれたハサミが目に入った。

体毛さえなければ、少しは───

ふと、治療後に担当職員から受けた注意の言葉を章大は思い出す。「その体毛は体温調節をするのに必要だ」と。彼は理不尽な現実が嫌いでたまらなかったが、決して死にたい訳ではなかった。ハサミを置き、どうしようもない感情の吹き溜まりを大声に換えて吐き出した。



つまらないバラエティ番組を呆然と眺めていると、父親が仕事から帰宅する。章大を一瞥するも、特段の反応はない。しばらく、妙にどんよりとした気まずい沈黙が流れる。



「おい」

突然、父親から声をかけられた。久しぶりのことで章大は戸惑いつつ返事をする。彼は無根拠に、次の父親の言葉に少しだけ期待を寄せた。

「お前、明日学校休め」

期待どおりの言葉だった。章大は逸る気持ちを抑えて、休まなければならない理由を聞いた。すると、返ってきたのは想定外の答えだった。

「山口さんとこの牝犬が発情期でな、毎晩吠えてばかりで煩いんだと。だからお前相手してやれ」

視界が暗く揺れる。さらに聞こうとするも、次の言葉に詰まり、脈絡のない上擦り声だけが漏れるばかりであった。戸惑う章太を横目に父親が背中を向けて自室に帰ろうとしたので、何とか言葉を絞り出す。

「何で僕が」

父親は露骨に舌打ちを鳴らし、章大に詰め寄る。

「セックスの仕方くらい学校で習っただろ。それやればいいんだよ」

「だ、だから何で僕が」

章大の態度に腹を立てた父親は、彼の頬を引っ叩いた。勢いで章大はテーブルにぶつかり、小さな悲鳴をあげる。室内に鳴り響く、落ちたグラスの割れる音。あまりの出来事に困惑する彼に、父親は罵声混じりに言葉を投げかける。

「てめえが犬っころだからに決まってんじゃねえか!」

「お前がちゃっちゃとセックスすれば山口さんがもう困らずにすむんだよ。ほんと頭悪りぃなお前」

十中八九、隆久の嫌がらせだろうと冷静に推測する一方、父親がそれに従っているのが受け入れられなかった。だが、頬に伝う鈍痛が現実であることを肯定する。尚も戸惑いの表情を浮かべる章大に、さらに父親は声を荒らげる。

「なんか文句あんのかよ、犬のくせに。それともセックスの仕方が分かんねえのか? ほら、こうやって」

父親は章大のズボンに右手をさしこみ、乱暴に股間をまさぐり始めた。章大は必死に抵抗するも、当然父親の方が強いため止めさせることができない。言い様のない不快感と恐怖が彼を支配する。

「やめてってたら!」

章大は、父親を力いっぱいに突き飛ばした。後ろの壁に頭をぶつけた父親は顔を真っ赤にして激昂し、章大の胸襟を掴んで言い放つ。

「親の言うことも聞けねえのか、この役立たずのクズが! てめえみたいな化物のせいでどれほど俺が苦しめられているのか分かってんのか? ああ?」

「何で俺がこんな目に合わないといけないんだよ! てめえみたいな出来損ないを作ったばかりに、とんだ災難だ!」

父親の怒号は尚も止まらない。言葉の一つ一つが心に響き、深く突き刺さった。ひとしきり父親は吐き出した後に、彼はリビングから出て行った。

「母さんと一緒に死ねば良かったのに」

去り際、父親はそう呟いた。



吐き気と頭痛が止まらない。搔きむしるような嫌悪感と嘆きの感情が渦巻く。目まぐるしいほどに、父親の言葉と屈辱の日々が彼の頭に過る。揺れ動く激情の中、顔を洗うために洗面台に立ち寄る。そして、再びあの鏡と対面する。

長い口、垂れ下がった長い耳、胸部から頭頂部にかけての茶色の長い体毛。



発達した剥き出しの犬歯。

鋭利なまでに伸びた丈夫な爪。

そして、強く見開かれた黒い眼。



そうだ、僕は化物なんだ






鏡の中の化物が口角を吊り上げる。彼の中で、何かが音を立てて壊れた。






早く、早く



死ね、死ね、死ね



お前なんか



痛い



ざまあみろ



苦しめ



痛い



剥いで、それから



絶対に許さない



あ、隆久くん!



痛い痛い



ああ、お父さんも



死ね



ごめんなさい



噛み千切って



おいしい!



痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い



全員殺すまでは



死ね死ね死ね死ね死ね



ああああああ先生死ね死ね死ね死ねあクズああああああああああ死ねあああああああああ死ね死ねお前も死ねあああああああああああ死ねあああああああああ死ねあ葵くんあああああああ許さないああああ全員ああああああああああああ死ね死ねああああ死ねあああ



皆殺しにしてやる



お前もお前もお前らも



ああああああああああああ肉ああああああああああああ死ね死ねああああ花江ちゃんあああああああああゴミがああああ死ね死ねああああああああくず死ねああああああああああ死ね死ね死ねあああああああクソ死ね死ねああ実くんああああああ死ねあああああ死ね死ね死ね死ね死ねああああああああああ死ね死ね死ね死ねああああ死ねああああああ骨あああああああああああああああああああああクソああああ死ね死ね死ね死ね死ね









もう疲れた



死にたい



死にたくない



独りはやだ



誰か助けて





徐々に拡がる血溜まりの中で、章大は倒れていた。腹部を両手で必死に押さえるも、数ヶ所の刺傷から血は止めどなく溢れ出る。浅く弱々しい息を繰り返し吐き出しながら、視線だけを上に向ける。目の前には、愛して止まなかった母親の墓。長年放置されていたため、墓石の色はくすみ、所々汚れが目立っていた。彼は口腔内に溜まった血を吐き出し、ヒューヒューと空気の抜けるような音を鳴らす。少しずつ、確実に終わりが迫っていた。



お母さん

僕ね、これでも頑張ったんだよ

みんなに嫌われないよう、負けないよう頑張ったんだ

でもダメだった。僕は化物だから



血に滲む視界が、少しずつ明度を失っていく。



寒い、寒い



肌に灯っていた赤みが、少しずつ引いていく。



お母さん助けて



カチカチと鳴らす歯の震えが止まり、脂汗も止まる。血液が流れ出る度、身体のどこかがその機能を止める。それは、意識すらも。



死にたくない死にたくない死に──



一粒の涙を溢して、彼の短い生涯は静かに幕を閉じた。









「緊張連絡を受けて来てみれば……この様か」

「大方「ふとした拍子に狂暴性を発揮して村民全員を惨殺した」といった筋書きだろうな。まあ、元奇蹄病患者ならよくある話だ」

「なあ、これからどうなるんだろうな?」

「処分の仕方は明確に決まっていないけど、前例に倣えば適当にサンプル採った後に廃棄所へ──いや最近だと市民団体がうるさいから、説明のためにまず今回の事案についての顛末書を作成してから、ええと……」

「何で俺らがそんな面倒なことやんなきゃいけないんだよ!」

「ああ迷惑な話だ、ちくしょう」

二人の役人は化物の死体を車のトランクに詰め込み、走り去って行った。

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