旭アキラ様
拝啓
『暑さ寒さも彼岸まで』のことばどおり、春の訪れを実感するようになりましたが、お元気でいらっしゃいますか。
さて、真面目な貴方様のことですから、事前に現地へと赴いて回る順路を見定めようなどと考えているのではないでしょうか。
心配はいりません。四月十日にはしかと都合がつきますので、予定通り博覧会で会いましょう。
花冷えに風邪など召されませぬようご自愛下さい。
敬具
昭和四十五年 三月十四日
切符代わりの手紙を握りしめた俺は、ヒビ割ればかりの老骨に鞭を打ち、枯木のごとき鉄階段を昇っていた。
膝はどう曲がるんだったか、意識はまだ事切れちゃいないか、なんて下らないことを確認しながら、一段、また一段と踏みしめる。
若き頃の筋肉は、今やスカスカの骨にへばりついた脂肪の枷となり、それが上下するだけで俺の生命の灯火は揺らぐ。
ふと上を見てみれば、あと踊り場は二つ。
しかし、そう実感して尚、足取りは決して軽くはならない。
これをご老人が持つ、特有の「貫禄」などと言うのであれば、今際の際でさえ自覚したくなかったものだ。
俺は今、自ら望んで天国へ向かおうとしている。
死期が迫って気が狂ったわけではない。
ただ、ホームシックになっただけだ。
愛しい彼女が待つ、あの場所へ。
1970年代、日本国が新時代の訪れを実感したあの時へ。
日本万国博覧会に再び迎えられるために。
ようやく辿り着いた先には、目的地の鉄扉があった。
赤錆の目立つこの扉でさえ、背中が曲がり切った俺にとっては骨のある奴に思えて仕方がない。
どうせ最期の力だとばかりに身体を押し付け、力任せに扉を開いて中に飛び出した
———気がしていたんだが、何者かに背中を押された感覚と共に地面に倒れ込む。
そんな俺を無視して、左右の耳元でヒールやら革靴やらが不規則にリズムを刻みやがる。
より小さな音で言えば、挑戦的な流線をかたどったゴミ箱が開閉する音が。
より大きい物で言えば、さして快適ではなかったと記憶している電車が、ホームの発車ベルの合図と共にガタガタと空気を震わせる音が背後に鳴り響いていた。
やっとこさ面を上げ、霞んだ視界を前へ向けると、そこにはアナクロな景色が広がっていた。
昭和の人間が想像する未来都市の中心に太陽の塔1がそびえ立ち、その足下には群衆が忙しなく動く。
殿上人を讃えるように担ぎ上げられた、宙の観覧通路という神輿の所為で、太陽の塔の顔はさほどよく見えない。
気が付けば、俺は丁度、園の中央に位置する駅に人知れず佇んでいた。
周囲には目を回すほどの人波が溢れ、それらは水面のさざなみのように俺を避けて真っ直ぐ太陽の塔へ向かって行く。
ここにいる奴らは興奮の渦に呑まれ、皆、新時代の訪れに酔っている。
道行く人々の表情や言葉を窺ってみたとしても、総じて、目の前に広がる美術品や技術の結晶よりも、また別の未来を視ているような面をしている。
しかし、今更俺は未来なんざに興味はない。
純白の大通りを外れ、博覧会を取り囲むモノレールの乗車口にすぐ近くに設置されたベンチにすぐさま焦点を当てた。
そこには知ってか知らでか、ひとりの女がおめかしして待っていた。
太陽の塔を真正面に見据えた、中央の駅からまもない位置に設置されたベンチ。
偉大なる二つの太陽に照らされた絶好の位置で、彼女は待っていた。
身体のラインが際立つ服を着て、当時の空気感を謳歌する彼女がそこにいたのだ。
俺は思わず息を呑み、自分の姿を見返した。
幻覚か、それとも遂に俺もボケたか、俺の当時の若い頃の姿もそこにあった。
映画に影響されて筋トレにハマっていた、当時の俺のシックスパックがそこにはあった。
現代ではそうそうお目にかかれない、健全で働き者の身体だ。
この姿なら、彼女に相応であろう。
だが、そう、うかうかとしていられないことを思い出すと、曲がった気でいた背骨と襟元を正し、人波に揉まれながらも前へ前へ進む。
駅のホームが携えた日傘代わりの屋根が途切れ、白光に前髪が照らされた。
まだまだ慣れていない視界は白く染まっているのにも関わらず、彼女の姿だけは明瞭に視えた。
「よぉ、待たせてしまったな。」
「あらそう? 丁度来たところよ、あなた。」
嘘だとすぐ分かる。
冬の寒さは終わったとはいえ、まだまだ冷えるこの季節。
そして、彼女は俺よりも馬鹿真面目な訳だ。
現に、今は予定時刻の10分前。
「……なら良いがな。さて、待ちに待ったこの日が来た訳だが、お前はどこから行きたい?」
「じゃあ、国際館から行ってみない? 月の石なんてロマンの塊じゃない!」
「元気で結構だ。案内図によれば、米館はここから北西らしい。少し歩くぞ。」
「ええ、分かったわ。ところで、いつもみたいに気楽な格好では来なかったのね。スーツの堅苦しさで、あなたが息切れしないかが心配だわ。」
彼女が俺のことをまじまじと見る。
仄かな香水の馨りがふっと鼻に入り、むず痒い感覚がした。
彼女の暖かい息遣いが、俺の胸の辺りで感じられる。
抱擁でもしたい気分だったが、流石に抑えた。
「『男が世に立つ以上は、人の風下に立ったらいけん2』……親父と俺の座右の銘に誓って、俺は俺らしさを貫き通したまでだ。」
「あはは! ええ、そうね。あなたらしくて安心したわ。」
その言葉を述べる彼女は右の五指ですぐさま俺の左腕を絡め取り、あっという間に彼女のペースに支配された。
「ゆっくり行きましょう? あなたはそうは思わないでしょうけど、周りの群衆を見るだけでも、案外楽しいものよ。」
「そう珍しく眺めるものでもないだろ。ここにいたっては、どこ見たって同じだ。全人口が此処に集合していると言われても俺は信じる。」
彼女は少しの間考える素振りを見せると、「確かにね」と笑った。
地図の上下を取っ替え引っ替えに回す彼女のリードを引くように、俺は一直線にアメリカ館へと向かった。
微かに現代の風流を感じさせる周囲の建物が、ヴィンテージな様相を呈す。
現代ではもう跡形もないここは、正に幻想的で、まるで夢を見ているような気分にさえなる。
レトロな建物群と入館待ちの列は、まだまだ俺らの後ろに続いていた。
———最初にアメリカ館では、
「人類の辛抱と長蛇とは、このことだったか。」
「ちゃんと入れたのだから文句言わないの。それよりも、ほら、月の石よ!」
「……想像よりも、そう大したことないな。月の石って言うぐらいなら、宙に浮かんでるもんなんじゃねぇのか?」
「結局は異星の地面ですもの。珍しいことには変わりありませんけれど。」
「俺が言うのもなんだが、浪漫がねぇなぁ。」
「浪漫なんて、アポロ13号が発射3した時点で、私はあれに全てを託しましたもの。あれはきっと、月に辿り着く渡し舟になるはずよ!」
———次のソ連館にて、
「あまり大きい言葉では言えないのだけれど、此処に入室するだけでもビクビクしちゃうわ。」
「だが、科学技術の先進国には変わりない。タッチの差だったが、米国がモタモタすれば、第二の矢は連邦だったからな。」
「勿論、有人宇宙飛行の話は分かっていますよ。そうではなくて、資本家側の私の立場上、あまり支持ができないが故に、ですよ。」
「今は別に気にしなくていいだろう。恨み辛み4はいつか飲み込まなければ、前へと進めない。」
「……そういうものかしら?」
「ああ。」
寸暇。
彼女の体力には毎度のことながら驚かせられる。
失礼な話だが、高度経済成長期だった当時、お嬢様は引き篭もり小法師だというのが相場だと思っていた。
だが、そうではなかったらしい。
小綺麗な石畳みに、もう一度周りを見回せば奇天烈なせりたった建物ばかり。
ソ連館からの外の眺めは圧巻であった。
太陽の塔を挟んでの向こう側には、ガラス箱を我武者羅に積み上げたようなスイス館がある。
ようやく半数を巡り終えてなお、ここの景色にはまだ飽きない。
いや、共に来る人間にもよるか。
同僚や友と建造の仕事でここに来た時は、楽しさよりも義務感の方が勝っていたようにも感じる。
しかし、ここに来てすぐに見た群衆の表情を見るに、彼らはそんな心持ちではなかったのだろう。
千差万別なことは結構だが、俺にとっては、つくづくゲイジュツというものは理解し難いものらしい。
———後のインド館では、
「HJT-16じゃないか、まさか実物を見れるとは!」
「私、航空機とかはあまり詳しくないのよね。それどころか、インドの文化ですら門外漢なのよね。」
「そうか、それは残念だな。俺は仕事柄もあるが、お前にいたっては獣医師だからな。なら、今度はホワイトタイガーでも見に行くか?」
「ダリップくんのこと!? 勿論行くに決まってるじゃない! あ、その前に、無病息災祈願として中央の池まで寄っていいかしら?」
「資本家として、神頼りは有りなのか?」
「気分よ、気分! 今日はそういう気分なのよ!」
———最後にエチオピア館にて。
「ここはまだ何も置かれてないのね。」
「ふむ、竹の入手困難と設計の関係で遅れたらしいな。」
「『開会式直前に完成した』……なんとも災難なこと。」
「そういえば、開会式には出向く気はあったのか? 開会式でお前の姿を見かけた覚えがないのだが……」
「その理由は、あなたがよく分かっているでしょう?」
「……愚問だったな。撤回する。」
一通り巡り終えた頃には、流石に疲れの色が見え始めた。
度々立ち止まって体力を温存していた俺はともかく、彼女は跳ねたり走ったりで体力を回復する暇もなかったのだろう。
呼吸も荒い。
レディをこのまま歩かせ続けるのも酷だな。
「なあ、この辺りで休まないか? 普段運動しない俺にとっては、中々くるものがあってな……そうだな、近くに広場がある。お茶でも飲みながら涼みたい気分だな。」
「ええ……そうね。じゃあ、お言葉に甘えようかしら。」
こうして俺らは、国際広場にあった専用のオブジェに腰掛けながら水筒のお茶で一服することにした。
空は未だ明るく、誰かが切ったシャッター音が印象的だった。
記念写真にはきっと最適な景色だろうな。
そう、俺は思った。
「もしや、旭アキラさん?」
煙草を吸うために、広場のチビっ子から離れたところ、ガラスの縁に寄り掛かりながらの一服。
久方ぶりに聞く友の声故に夢か何かと錯覚したが、その見知った声に若者の姿。
それでいてジジ臭い、つばの広い紺色の帽子に落下防止のハットクリップが付いている辺り、切符でここに入園した者の誰かなことは明確であった。
「……その帽子、國東コクトウか。若い頃は中々に格好の良い面をしていたんだな。」
「そういう旭さんこそ、切符でここにいらしたんですね。それにしても、あの厳格な旭さんが、昔はさほど渋い面構えではなかったことに驚きです。」
「老け顔ではあったがな。今の本部の計画は、順調に進んでいるのか?」
「ええ、勿論。後任として元気にやらしてもらっております。旭さんは件の彼女さんを連れて、視察中ですか?」
「……ああ。最期の思い出作りといったところだ。」
「素敵な話ですね。これだけ想ってくれる殿が居るなんて。」
余計なお世話だと一言添えると、國東はゲラゲラと笑った。
彼曰く、新事業に備えて資料伝達を行なっている最中らしい。
改めて群衆をしかと視たところ、確かに同僚が警備に精を出している様が目に映った。
今まで巡った国際館の裏手のキャストオンリーの先へ、また別の同僚が入って行く。
「最期にしてはあまりにも騒々しい墓場だな、ここは。おちおち眠ってもいられないな。」
「建造段階でもう明らかだったじゃないですか。それでも職務を全うするのが、我々の責務ですよ。」
「……そうだな。」
「さて、私もここで道草食ってるのを見つかる前に退散いたしますね。」
「ああ。」
気が付くと、友と話すために消した煙草の香りがやけに頭に響く。
灰皿に香りまるごと押し付けようと視線を滑らすと、友が俺の目線の先に灰皿を差し出していた。
「ありがとう、すまないな。」
「いいのですよ。」
煙草の後始末をし、残り香を手で追い払う俺に國東が云う。
「旭さん。彼女さんとのお別れの挨拶は、後腐れのないようにお願いしますね。」
「ああ。当然だ。」
「では、次は新たな時代にてお会いいたしましょう。お達者で。」
「お前こそ、息災でな。」
友は何食わぬ顔で歩を進め、瞬く間に行方をくらました。
入れ違うように彼女が戻ってくると、先まで会話していたのは誰かと問われた。
俺も彼のことを真似て、何食わぬ顔で同僚だと述べると、彼女はそのまま文言を続けることはしなかった。
「どうしたの、さっきよりキレがないじゃない。やっぱり何があったか、ちゃんと聞いて欲しかったのかしら?」
太陽の塔の内部、目線を下に向けていたところを彼女に捕捉されてしまった。
本命が頭上にありながら、地面タイルを眺める人間など、そう居ないから当然ではある。
「……いや、良い石を使っていると思ってな。」
「なら、もっと本職らしく鋭く批評していいのよ?」
「俺は建築家であって芸術家ではない。誤解なきよう言っておくが、ここでは構造上の文句など無粋だからな。」
「ふーん。」
「期待していた答えと違ったか?」
「いーえ? むしろ、新鮮な一面が見れたことが嬉しいわ。芸術品に思いを馳せるあなたなんて、この先見れないかもね!」
「……ああ、そうだな。」
歯切れも心持ちも悪い回答しか、俺は述べることができなかった。
元の世界に戻ったとしても、同じ笑顔は二度と見れないだろう。
周囲の音が閑散としていくのを感じる。
塔に溢れていた人々は零れ、瞑想と心構えをするには丁度良かった。
最期に、か。
國東の言葉をずっと頭の中で反芻していた。
「……なあ。」
彼女のなびく長髪が、太陽の塔内部を彩る生命の樹を通してきらめく。
「なあに?」
照明も合わさって、一つの舞台に立っている気分だ。
緊張のあまり、吐き気がする。
『彼女さんとのお別れの挨拶は、後腐れのないようにお願いしますね。』
人生七十余生きて尚、未だかつてない寒気と震えに襲われた。
汗が滝のように湧き出ているような気がして、変な心配ばかりが頭浮かぶ。
一つ息をし、思考を整理し直せるように、着実に脳へと酸素を送る。
「……出会ってからの六十年間、一度たりともその姿を忘れたことはない。
幾度となく時代が変わろうとも、俺はずっと愛し続けた。
これからも、よろしく……頼む。」
差し伸べた手の平は、一向に取られない。
タイルの切れ目を眺める合間、心臓が絶えず鼓動する。
数秒が数分に、数分が数時間にも感じられる中、頭を上げた。
肝心の彼女は、いたずらっ子が浮かべるような表情で俺を見つめていた。
「まるで、映画ね。あなたの……いいえ、旭のお父様は、その後何と言ったのかしら?」
やはり見透かされてしまったか。
そう言った時の彼女は、今日一番の笑顔を見せた。
「ねえ、旭の言葉で、ちゃんと伝えてくださる? 私、そちらの方が、天国にのぼるような気持ちになれると思うの。」
優美で飾り気のない、彼女らしい真っ直ぐな目でそう云う。
俺の全てを見透かすようで、あえて未来を視ないために俺で蓋をするように、目が合った。
『男が世に立つ以上は、人の風下に立ったらいけん』
なあ、親父。それは、この世で最も愛している人も入るのか?
……答えは一つしかないだろう?
「千尋、俺と結婚してください。」
「ええ、よろこんで。旭らしくて、格好良かったですよ。」
……ああ、千尋には敵わないな。
この返事はできれば天国ではなく、現実の方で聞きたかったな。
突如として、園内サイレンが鳴り響いた。
かしましい暴音はあっという間に辺り一面に広がり、日本万国博覧会の幻像らは一切の行動を停止した。
千尋もその例外ではなかった。
サイレン以外の喧騒が一切鳴り止み、
ほんの数秒雑音が流れた後、スピーカーを通して、先程分かれた國東の声が聞こえてきた。
博覧会をお楽しみ中の皆様へ、弊社、有限会社 如月工務店より新たなる時代へのご案内がございます。
どうやら、本部の計画は國東の言った通り、順調に実行に移されたようだった。
改めまして、こんにちは、皆様。この博覧会をお楽しみ頂けてらっしゃるでしょうか?
喜んでいただけたのなら、この施設を造営した甲斐があったというものです。
俺や國東を含む、夏鳥思想連盟は如月工務店の協力の下、かつての日本万国博覧会の建造に取り掛かった。
造形や設計まるごと再現することは当然のこと、職人たちはその意地にかけて、当時の賑わいをも再現することを最終到着点とした。
さて、もうすぐこの大阪の地で新たなる時代の幕が上がります。
それ自体はとても素晴らしきことです。
しかしながら、そのことが古き良き時代を忘れる理由となってはいけません。
長きに渡る苦難を受けてきた皆様のことが忘れ去られること等あってはならないのです。
だが建設段階で、もう既に当時を知る人間は老人や壮年の後期にさしかかる者ばかりとなり、最早全人口の半数にも満たない。
それ故、生身の人間ばかりでは再現には限界があることが一番の課題になり、俺らは長いこと頭を悩ませた。
そこで、弊社はこの新時代の幕開けを絶好の機会と捉え、皆様の存在を、あの素晴らしき時代が存在したことを、今を生きる世界中の人々に知らしめようと思い立ちました。
これは皆様が楽しんでいる博覧会の主催者様とのお約束でもあります。
その時、主催者の直属の建築家兼芸術家であり、俺らの主任である人物が考案した。
『新たな時代の情報媒体は、必ず優秀なものになる。全世界から当時の記憶を収集し、その記憶全てをそこに反映させればいい。』
そう簡単に言ってのけた彼の目には、確かな世界の輝きが映し出されていたように思う。
『職人諸君、君らは確かに凄腕の職人だ。しかし、肝心の君らが未来ゲイジュツに酔ってはならない。それは、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。』
当時に建造を担当した職人らの心の奥底には、今でも、彼が描いた顔が深く刻み込まれていることだろう。
皆様が博覧会をお楽しみになっている所、ご迷惑とお感じになる方もいらっしゃるでしょう。
それでも、弊社の考えに賛同して頂ける方は新たな時代にこれまで生きてきた証を刻めるよう、弊社が全力で努力することをお約束する所存です。
『手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がない。むしろ、いやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒することこそが真の芸術だ!』
多くの方のご賛同をご期待致しております。
やはり主任は、世界レベルの芸術家だ。
あの、太陽の塔を造るだけはある。
———こうして、俺以外の皆は、それに賛同した。
ここには、日本万国博覧会に心を奪われた奴らが集まっている。
連盟や工務店の奴らとて、例外ではない。
太陽の塔を出て、次に向かう場所を吟味していた俺と千尋は路傍に寄せられ、博覧会に飽和していた懐古主義者の群れが入れ違いに太陽の塔の中へ呑み込まれていく様をただ眺めることしかできなかった。
あんなにも明るかった空は夕暮れが近づき、過去の時代に終幕の帳を下ろす。
本当の閉会式であり開会式に出席していた彼らは、止まっていた過去が再び動き始めたように、様々な表情と感情の揺らめきを見せた。
まるで、アポロ13号が爆発を起こし、二度目の月面着陸作戦が失敗に終わった衝撃のように、
まるで、ベルリンの壁が崩壊した、世界そのものの超常的変化のように、
まるで、東京で再びオリンピックが開催されると歓喜する人々の声が聞こえたように、
しかし、そのいずれにも、千尋の姿はなかった。
そして、現代で再び博覧会が開かれると決まったあの日が訪れたように、半世紀以上にも及ぶ時代の変遷と共に世界が見せた景色を、ここの建造物らは再構築してみせた。
宇宙に散りばめられた星々が大玉の打ち上げ花火のように散り、
過去の趣を背負った建物らが時を戻していくように解体され、
太陽の塔を取り囲むように集まった人々が、大歓声と盛大な拍手を披露する。
「そろそろ、一緒に帰りましょうか。」
千尋の声にハッとさせられた。
俺は確かに昔を懐古する趣味こそあれど、今回の建造では初めて未来を楽しみに思うことができた。
七十年生きた現実が園の外にあるからこそ過去を想い、今や「旧き新時代」をも楽しむことができた。
記憶を再現する特別な切符となりうる当時の遺産を以てすれば、"正しく"この博覧会を巡ることができるのに加え、当時の記憶を基に肉体年齢さえも元通りとなる。
そうでない者は、博覧会のことを当時の者と共有ができるように、"ほんの少しだけ"博覧会にまつわる情報が記憶や人格そのものに付け加えられる。
つまりは当時の記憶を代償に、未来で一度だけ、再び過去を体験できる。
そんな切符に俺は、結局叶うことのなかった、千尋との日本万国博覧会巡りの誘いの手紙を選んだ。
当時の記憶なんて、本当は無かったのに。
連盟のために、工務店は全力を以てサービスしてくれたらしい。
「ここを抜け出して、か?」
「ええ、当然でしょう?」
千尋は、優しい笑顔をしていた。
写真を撮ることが苦手だった千尋は、その笑顔を遺すことは一切無かった。
「だが、俺には、連盟としての責務が……」
言い終える前に、俺の頬は痛みで赤く染まっていた。
「……旭、あなたは本当にそれで満足なのかしら。私に結婚の申し出をしておきながら、まさか花嫁を式場に連れて行かないなんてこと、ないわよね。」
千尋の訃報が届いて以降、大阪万博が終わり、俺は老いを気にするようになった。
過去に酩酊して何もかもを忘れようとしたが、彼女の姿だけはまぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
「旭が仕事を取るなら、それでも良い。私は何があっても旭についていくわ。だけど、もし、私のことを取ってくれるなら……」
千尋はその柔らかな両の手で、うつむいていた俺の顔を向き合わせる。
そして、両手を広げて、ぎこちない笑顔で云う。
「今、ここで、抱き返してよ。」
俺は何も答えなかった。
だが
ただ愚直に
ただ不器用に
俺は、抱擁を交わした。
千尋の身体に触れた俺の手は、すっかり皺が増えていた。
若いまま亡くなった千尋の身体は、既に灰となってしまったはずなのに。
葬式の時だけは肖像画として遺った彼女の面影は、生きながらに死んでいた俺を、
不思議と、内側から暖めた。