好雨
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ウラノサムヤロ タマヘノツルマロ ユカシノイナタロ コレノミタリノウカリト コレノオオミヤニマイキテ

(ある日大宮にウラのサムヤロ、タマベのツルマロ、ユガシのイナタロの三人の漁師がやってきて、陛下にこう言った)

ヤツトモミタリ ウミニイテテツリナスシハニ トキシクニツムシカセイタクフキテ ロ カイ カチモカナワ

(我々が海で釣りをしていますと、強い風で舟が流されてしまったのですが、そこで島を見つけました)

カレ ソレノシマニイソキフナコキタミハタシテ ソノシマヌチヲミメクリナスニ シマヒロクコタチシミテ

(その島へ上陸してみると、緑の多い大きな島で、岩に穴を空けて人が住んでいたのです)

カレ ソノヒトトモニコトトイナセトモ エ ワキタメス カレモオカシトヤホエケニ イトタカニワライナス

(島の人間と話しましたが要領を得ず、なにがおかしいのか笑っているだけでした)

ケシハ オオウナノカワヲハキテ コノハヲシキナメテキオリ マタ オシモノハウナヲトリクラウ

(彼らは、魚の皮と木の葉の服を来ていて、主に魚を好んで食べているようでした)

カレ コレノシマヒラキテ ソレノヒトトモヲタスケテ カスシマトナシタマエ トマヲス

(この島の人を助けて領土としてみてはいかがでしょうか)

コレノシマヲカミツメ シマトイイシヲ ヒト オルシトイイ

(この島はカミヅメと呼ばれ、その島の人間をオルシと言うようになった)

ウエツフミウエツフミから一部引用




 一九〇六年、大分県高崎山。
 中園道朗は幌馬車の中から雨を眺めていた。
 外は雨のせいで夕暮れかと思うほどに暗い。
 目を凝らすと雨の隙間に灰色の空や少しの緑が見え、この馬車は崖沿いの道をゆっくりと下っているのがわかった。
 今日は暮れまでずっとこの雨が続くだろう。
 雨が特別好きなわけではなかった。隣の男と話すくらいなら雨を眺めていた方が無難だと考えていたからだ。
「雨、止みませんね」その件の男は幌に雨が叩きつけられる音にかき消されないように大声で言った。
 勘弁してくれ、と道朗は思った。死の恐怖で饒舌になるんじゃない。
「止んだほうがいいんですか」
「とんでもない。我々にはこれが一番いい。葦船の奴らから逃れるためにはね」
 妙に回りくどい言い方をする男は道朗とふた回りほどの年の差があった。まだ十四歳になったばかりの道朗に敬語を使うのは、彼が蒐集院という組織の中で特別な存在だからだ。
「この山を越えれば大分はすぐそこです。そうすればもう心配することはありません。我々宇佐別院が貴方をお守り致します」
 そう言いながら手を振りかざす男の袖にはツツジとイチイガシの実を模した紋様があった。宇佐別院の紋様である。
 高崎山は別府湾の目と鼻の先にあり、別府と大分の二つの都市部を別つ位置にある。別府が温泉街として有名なのは周囲に鶴見岳や伽藍岳といった火山地帯があるからで、高崎山も火山活動によって誕生したとされている。
 平安時代末期に蒐集院は高崎山に城を築いた。それは重要な監視対象のために万全を期すためだったが、文禄二年に廃城となっている。
 宇佐別院にとってこの山は自分たちの庭のようなものでここなら危険なことは何もない、というのがこの男の言い分だった。
「宇佐別院なら宇佐に私を置いておけばいいでしょう。それを大分市までわざわざ……上の権力闘争の関わり合いになりたくなくて厄介払いしたいだけなんじゃないんですか?」
 言い返す道朗の袖には、三柱鳥居を中心にして四隅には藤の花が形取られた紋様がある。服の生地も上等で、短髪の黒髪も十四歳の少年にしては丁寧に手入れがされていた。
「そんなことはありませんっ」
 道朗は男がどのように答えようが興味はなかった。これで不毛な会話を続けなくていいとさえ思っていた。
「じゃあ、大分に着けばそれで解決すると考えましょう」
「はあ」
 男は呆れながらを相槌を打った。
「車両は馬車一台だけ、人気の少ない山道を走っている。今葦船の奴らに襲われたらひとたまりもないでしょうね」
「ありえません」
「どうだか。葦船の手で七哲の半分が死亡したのをお忘れですか? あの時も皆、葦船が殺しに来るなんてあり得ないと言っていたそうですよ」
「……どうして道朗殿は、自分のことを他人事のように言うのですか? 貴方は七哲の一人、中園正一の長男なのですよ?」
 それだ。それのせいで俺はこうなったのだ、と道朗は思ったが叫ぶ気力はなかった。そんなことができたのなら、とうにこんな人間にはなっていないからだ。
 蒐集院の頂点、七哲。
 中園一族は歴史の中で七哲を何人も輩出してきた由緒正しき名家である。彼らは自らの体に刺青を彫り、その刺青を用いて秘儀を行使してきた。
 秘儀とは非科学的・非論理的な手法であり、卜占や呪術、神道や修験道などが該当する。現代では奇跡論の一種とされる。中園の秘儀は水を操ることであり、それを用いた治水や農耕で財を成してきた。
 中園一族筆頭、中園正一の長男として産まれた道朗は七哲にならなくてはならない、と周囲の誰もが考えていた。
 開国してから今日に至るまで、蒐集院の衰退は留まることを知らない。何が打開策があるわけでもない彼らは次の世代に期待するしかなかったのだ。
 蒐集院の積み重ねた伝統、知識、思想といったあらゆる経験がまだ五歳にも満たない道朗に注ぎまれ、彼の心から人間性が溢れていった。残ったのは自分こそが蒐集院の希望であるという根拠のない自信しかなかった。
 ある日、いつものように自室で書物に目を通している道朗の元に中園正一が来た。まだ日が登ってから中ほどで、正一はいつもなら七哲として仕事をしているはずだった。
「葦船の阿呆がっ」
 唾を飛ばしながら彼は叫んだ。いつも着ている錦は煤で汚れ、烏帽子も頭に被っておらず、裸足で内院から道朗の自室まで来たのだった。
「もう、終わりだ。七哲が死んだ。四人もだぞ。蒐集院は葦船の手足になる……」
 体は震え、硬く握った拳は指が手の甲を貫通せんとする力強さだった。
「よかったではないですか」
 あっけらかんと道朗は言った。
「私は貴方たちの存在が蒐集院が没落した理由であると思っていました。時代の変化に取り残され、政府との仲も悪く、やることは内向きのことばかり。自分の子供を洗脳すること以外にもっとやれることはあったでしょう」
 正一は道朗の瞳から感情を見ることができなかった。悲しみも怒りもなく、ただ事実を述べているだけだった。
「私が七哲になったら同じことをやるつもりでしたが、やるのならまぁ早いほうが良いでしょう。ご安心ください。例え看板だけになろうとも蒐集院の名前だけは降ろさせませんので」
 全て本心だった。この言葉を聞けば父親は安心するだろうという確信があった。
 だが、正一は明らかに絶望の顔をした後、道朗の肩を掴んで言った。
「もういい、蒐集院のことはもういいんだ、道朗。お前の好きなことをやっていいんだ。私たちのことは気にしないで……自由になっていいんだ」
 その言葉を聞いた道朗は少しの間戸惑った後、
「ああ?」
と威嚇する声を出し、正一を睨め付けた。

 勝手に期待して、勝手に裏切りやがって……
 正一の言葉を聞いて道朗は深く失望した。
 俺の周りには打算をもった人間しかいなかった。秘儀を教える者、お前には相応しくないという理由で俺から友達を奪う者。
 すべては道朗を七哲させるため。そうすればきっと自分たちを正しく導いてくれるという期待があったからだ。
 幼かった俺は彼らの言い方に従った。あの頃の俺は何も知らなかった。誰かのために自分の人生を費すことになんの躊躇いも持たなかった。
 正一から自由にやれと言われたときにはひどく困惑した。急に正一の考え方が変わったのもそうだが、あの言葉を聞いて自分の視界が急激に広くなって、なんでそうなったのか自分自身にもよくわからなかった。家畜が野に解き放たれたらあんな気持ちになるのだろう、と今になって思う。
 ゆっくりと進んでいた馬車が止まった。御者が困惑した様子で幌の中を覗いてきた。隣の男が眉を顰めながら御者と話し始めた。
「どうした。さっさと進め」
「いやでも、前に人が……」
「人?」
 男が幌から顔を覗くと、馬車の数メートル先で五、六人の大柄な人間たちが道を塞いでいるのが見えた。全員、陸軍の外套を着て、顔を帽子で隠している。
 外套が膨張した。一瞬、風船のように膨らんだ後、これ以上体を隠すことができないと言わんばかりに破れていった。
 雨で視界が悪くとも彼らの異形さは理解できた。本来一対しかない腕を彼らは三対持ち、それらは全て地面につくほどに長い。
 妖怪、としか言いようがなかった。
「葦船だっ」
 隣の男がそう喚いた。それを聞いた御者は手綱を振るい、目の前の妖怪たちへ馬車を突っ込ませた。
 妖怪たちは馬車に轢かれることはなく、それどころか走る馬車に飛び乗ってきた。
 幌を裂き、中に入ろうとする異形たちを、道朗はただじっと眺めていた。
 もう俺の人生に意味はない。葦船の連中に殺されようがどうでもいい。
 御者が馬車から投げ出された。そのまま頭から地面に着地し、ぴくりともせずに後方へと消えてゆく。断末魔は激しい雨音でよく聞こえなかった。
 制御を失った馬車は道路を左右によれながら更に加速し、遂に山道から外れて崖を落ちていった。




──起きろ、『オルシ』オルシ
 頬に軽い衝撃を受けて道朗は目を覚ました。
 ぼんやりとした気分で声の主を探そうと体を動かしたが、両手首を縄で拘束されているため満足に動くことができない。
 しばらくすると視界が元に戻り、自分が高崎山の山頂にいることに気がついた。そして、目の前で自分を見据える女性の姿もはっきりと捉えることができた。
 激しい雨の中、傘を持たずに外に出ていた彼女はずぶ濡れだった。濡れた茶黒髪は薪の炎に照らされて怪しい光沢を帯び、彼女の色黒の、あくまでも黄色人種の範囲内での色黒の肌によく似合っていた。そして、巫女装束と作務衣をかけ合わせたような奇妙な格好をしていたが、体に張り付いた服から肢体の輪郭が容易に判別できる。
 彼女は道朗の顔の前に布切れを出した。道朗が持っていた蒐集院の紋様だった。
──名前と階級は?
 彼女の話す日本語はとても難解だった。発音や文法に違和感を感じるのではなく、それは室町時代末期から江戸時代初期の日本語だったからだ。
「中園道朗。一等秘儀官」
──そこまで高い階級を持った人間がなぜここにいる? 内院にいるはずでは?
「内輪揉めだ。葦船という男が七哲の半分を殺したからここまで逃げてきた。」
──それを証明できるものは?
「あいつらは自分たちの紋様を持っていると思う。蒐集院の紋様に侮辱的な意味を足してるか、あるいは蒐集院の紋様を元に新しく作ったか……」
──これか。
 そう言って彼女は足元に転がっている上半身だけの死体から、藤と正号が書かれた服の一部を取り出した。死体は道朗を襲った妖怪で、馬車の転落に巻き込まれたのか下半身が潰れているようだった。
──これについて知っていることは?
 そう言って死体を顎で指し示した。
「これは……詳しくは知らない。葦船と陸軍が一緒になって作った……妖怪みたいなものなんじゃないかな。あいつらは兵士を改造して不死身の軍隊を作ろうとしているって聞いたことがあるから、多分それだと思う」
 これが道朗が話せる葦船についての全ての情報だった。
 道朗の言葉が終わると、彼女は少しの間死体と道朗を交互に見ながら逡巡していた。
 お互いが沈黙する中で、道朗は目の前の女性が何者であるのかを考えていた。
 浅黒い肌、赤みがかった黒髪。
 彼女の衣服は、全体的に和服の趣があるが、和服だと断言できない程度に異文化を思わせる服装をしている。
 そして何よりも自分のことを彼女は「オルシ」と呼んだ。この言葉を話す人間について心当たりがあった。
 だが彼らは既に滅んだのでは、と考えていると件の彼女は道朗に近づくと持っていたナイフで縄を断ち切った。
──お前を信用しよう。さっさと消えてくれ。
「俺を捕まえて中園正一を脅迫するんじゃないのか?」
──しない。
「本当に何もしないのか? 何も見返りもなく俺を助けたのか?」
──くどいぞ。何もしないと言っているだろう。
 そう言うと彼女は道朗から離れるそぶりを見せた。
「どこへ行くんだ?」
──ここから離れる。もう二度とここに戻るつもりはない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
 この瞬間を逃すと彼女に二度と会うことができないという確信があった。
「あいつらを追うのか」
──ああ。今ここで奴らを止めなくては、故郷が危機に晒されることになる。
「故郷っていうのは瓜生島の船ことだろう? あんたは、タエナだ」
──そうだ。知っていたのか。
 山人タエナはかつて日本列島に存在した和人とは異なる部族である。かつては蒐集院とも交流があった人間たちで、アイヌや琉球民族がそうであるように、彼らの母語は自らの民族の言葉だ。
 かつて大分湾に存在した瓜生島。その島に座礁した『ククハシトリ』ククハシトリと呼ばれる数隻の船の中で住んでいたはずだった。
「だけど……慶長大地震で島ごと沈んだはずでは?」
──我々は海の底で今も生きている。私たちはもう一度陽の光を浴びようと外へ出て、お前たち蒐集院と平穏に接触するはずだった……
 地震で島そのものが沈むまで、タエナと蒐集院は良好な関係であった、と道朗は頭の片隅にあった情報を引き出した。正一が無理やり道朗の頭の中に詰め込んだものだった。
「つまり蒐集院だと思って接触したのは葦船の連中で、奴等から攻撃を受けたということ?」
──私はお前との会話でそう解釈したが、ククハシトリの連中はそうではないらしい。
 そう言って彼女は雨の中を歩いていった。道朗はずぶ濡れになりながら追いすがっていく。
 かつて高崎山にあった山城はとうの昔に壊され、今では山頂の一角に不自然に土が盛られている部分があることしか城の存在を示すものはない。
 その土塁の上に立ち、彼女は景色を見ていた。天気がよかったのなら山頂から別府湾が見えるはずだ。
 だが彼女の視線は下に向けられていない。
──私が帰って誤解を解かなければ彼らはオルシに攻撃を始めるだろう。
 彼女の視線を辿った道朗は雨の中に巨大な物体の輪郭を見た。
 高崎山標高六二八メートル、その山頂と同じ高さで浮遊している何かがある。
──『ククハシトリ』ククハシトリの一隻、『シシロツトリ』シシロヅトリだ。
もっと激しい戦いになる、彼女はそう言った。
 だが道朗には目の前にある船よりも大事なことがあった。
「じゃあ、あんたはあいつらのことを何も知らないんじゃないのか? 島から来たのはあんただけじゃないだろう? 葦船との戦いであんただけになって、途方に暮れてるんじゃないのか?」
 やはり彼女は何も答えなかった。沈黙の中で豪雨が大地を抉る音がよく聞こえる。
「俺にも手伝わせてくれっ」
 おおよそ人に何かを頼む態度ではなかった。自分でも信じられなかったが、それは心の底から人と繋がっていたいという感情から産まれてくる言葉だった。
──わからんやつだな、お前は。
 さっきまで自分を疑っていた人間が今度は協力を申し出ているのを見て、彼女の顔は困惑に染まっていた。
──お前は何ができる?
「秘儀が使える。一つしか使えないけど雨の日ならとびきりのやつを」
 そう言って自分の袖を捲り、右上腕の刺青を見せた。

 なぜそこまで彼女に拘るのか、と道朗の頭の中にあるまだ冷えた部分が問いかけてきた。
 彼女は今までの人間とは違う。見返りを求めずに見ず知らずの自分を助けてくれた。
 そう考えると自分の内側がにわかに熱を帯び、頬にまで赤みがさし、恥ずかしさと切なさに悶え、道朗は正常な判断ができくなるのだった。
 冷えた頭は「彼女はもっと合理的な判断があって助けたのでは?」と最後の抵抗を試みるが、道朗の首から下は「そんなこと考えなくていいじゃないか」と諌めてくる。最終的に道朗は首から下の、人間の原始的な欲求に従うということで決めた。
 まだ名前も知らない彼女のことを、道朗は好きになってしまったのだ。


 彼女と道朗は山頂から下り、車が落下した現場へと向かっていた。未だに盆をひっくり返したような豪雨が降っていたために、外に出ると二人の体はすぐに濡れてしまった。
 幸運なことに雨は二人の味方をしてくれている。雨粒が木や地面に打ちつけられる音が足音を隠し、圧倒的な雨量は数メートル先の景色を水のカーテンで覆い隠した。
「あんたの名前はなんて言うんだ?」
 彼女は何も答えなかった。雨で聞こえなかったのかと思い、「瓜生島に家族はいるのか?」と聞き直した。
──父親だけ。
 彼女は振り返る事なくそう言った。
「仲はいいのか?」
 聞いてしまった以上黙るわけにもいかず、道朗は尋ねた。自分が一番言われたくない言葉だった。
──昔は良かったが、外へ出るときに喧嘩をした。瓜生島の中で数百年もの間生活してきたのだから外に出なくてもいいじゃないかと言っていた。
 吐き気が少し和らいだ気がした。
「そこまでして外に出る理由は?」
──我々も人間だからな。我々にも日の光を浴びる権利はあると大多数のタエナが考えただけだよ。
 そう言い終わると急に立ち止まり、道朗の顔を見ながら、
──失望したか?
「何を?」
──いや、お前は私に何か変な期待を持っている気がしたが。
「それは……」
 図星を突かれ彼は言葉に困った。道朗が彼女の事を好きになった理由の一つは、彼女が自分の知らない世界からやって来たからだ。
 彼女についていけば、きっとこの世界よりも素晴らしい世界が待っているのではないかと思ったからだ。
 答えない道朗に興味を失い、彼女は目的地へと再び歩き始めた。

 しばらく歩いた後、彼女が手を挙げ後方の道朗に合図を送った。
──奴らがいる。
 馬車は崖にもたれかかるようにして立っていた。崖から落ちた車はそのまま崖肌を滑るようにして落下し、最後は崖下にある馬車よりも大きな岩石に衝突して停止したようだった。馬車の側面部分は完全に歪んでしまっている。
 その奇妙な像を前にして、葦舟龍臣に与する人間たちが中を検めていた。人数はおよそ八人。蓑と菅笠には蒐集院を表す麻の葉の紋様が見える。
──あいつらがお前を崖に落とした。
 彼女はそう呟いた。
 しばらくの間二人は彼らが馬車を検分しているのを眺めていた。車の中だけではなく、周囲を検分している様子を見せていたが、何も収穫がないことを悟ると検分を諦め、何処かへと去っていく。
──追うぞ。
 だが彼は車へと向かっていた。真実を伝えられていても、道朗自身がこの目で確かめなければならないことがあった。
 それは幌の中で鎮座していた。車内へ流れる水が血を洗い流したようで、宇佐別院の紋様がはっきりと見え、これといった外傷も見当たらなかった。「お前のせいでこんな目にあったのだ」と叱責してくることを願ったが、目の前にあるのはただの肉の塊でしかない。
──お前が殺したのではない。
 彼女からの言葉を聞いても気持ちは晴れなかった。
「……馬はどうなったんだ?」
 馬を見つけ出すのにそう時間はかからなかった。馬車と崖の間に挟まれて身動きができていなかったからだ。
 二人を視界に捉えた馬は助けを求めて嘶いた。か細く、甲高い声で、もう頭を上げることもできないほどに衰弱していた。
──助かるか?
「いや、無理だ。脚が折れてる」
 前足の可動域を超えて屈曲する前脚、そして皮膚から飛び出る骨を見れば、医術の心得のない道朗であっても完全に折れていると判断できた。
 馬は四本の脚で体重を支える。一本でも脚が使えなくなると他の脚に負担が増え、他の脚も駄目になってしまう。馬の骨折とはそれほどまでに致命的だ。
 苦しんで死ぬくらいなら、この場で……
──殺すか?
 彼女が道朗の考えを追従する。手には道朗の拘束を解いた刃物を握っている。
 乳白色の黒曜石を削って作られたそれは、馬の喉を容易く切り裂くことができそうだった。
「いや、俺がやる」
 そう言って道朗は着物の袖を上げ、上腕に彫られた狼の刺青を露出させた。
 息を詰め、腹に力を入れて力む。そうすると刺青の狼がにわかに動き始めた。
 変化は道朗の腕だけではなかった。山肌を流れる水が道朗の周囲に集まり始め、重力に逆らいながら馬車を囲むように留まった。
 横たわる馬を窒息させるには十分な量の水がある。
 道朗は肩で息をしながら、馬をじっと見つめていた。ただ秘儀を使うのに疲れているわけではなかった。
 男は目を固く閉じると、自らの右腕に意識を集めた。水が馬を覆うように動き、動くことのできない馬は、なす術なく沈んでいった。
 それから数分の間、彼は何もしなかった。
 おそるおそる目を開けると、道朗の予想通りの景色があった。見上げれば相変わらずの雨であったし、振り返れば自分を見つめる褐色で赤黒髪の女がいた。
 そして目の前には、馬の死体。
 道朗が殺したのだ。
 すごく嫌な気分になった。下腹部から氷のように冷たい何かが這い上がってきて、頭にまで到達すると弾けて全身に広がっていった。
 それを吐き出そうとして、道朗は胃の中にあったものを全て出した。
 動物一頭を殺すだけでここまで、とひどく痛感させられるものがあった。
 これから先、自分はもっと酷いことをするつもりだ。その時、自分はどうなってしまうのだろう。
 もう胃から出せるものはない。ちらりと彼女を見れば、感情の読めない目をして道朗を見つめている。
「行こう。あいつらがどこへ向かったのか確かめないと」
 と、平静さを取り繕った。

 麻の葉の集団が山道を下っていく。道朗と彼女は少し離れた距離で彼らを追う。
 しばらく歩くと彼らは山道から外れ、獣道を歩き始めた。雨水に足を取られながら傾斜を下ると、それまで広葉樹が広がっていた景色が一変する。
 山に大きな穴が空いていた。穴はほぼ完璧な蹄鉄型であり、それは人工的に掘削されたトンネルであることを意味していた。
「あの先にあるのが故郷……?」
──そうだ。
 彼女はいつも必要な言葉しか言わない。
 当時の道朗は知り得なかったが、宇佐別院が大分まで運ぼうと画策したのと、葦船と陸軍がタエナと戦うために高崎山で展開していたのは全くの偶然であった。偶々近くを通りかかってしまったので攻撃を受けた、というのが真相だ。
 トンネルの前では多くのテントが並んでいた。追っていた蒐集院の一団はその中でもひときわ大きなテントの中へ入っていった。
 銃を持った兵士たちがトンネルの入り口で屯している。
 陸軍と蒐集院の興味はトンネルの先へ向けられているようだ。
 先頭を歩いていた彼女が急に立ち止まった。
 いくつもの死体があった。雨が降っていなければ血の匂いが辺り一帯を覆い、蠅と蛆が死体を求めて集まっていただろう。
 死体は彼女と似ている。褐色の肌、赤黒髪。
 今までがそうであったように、彼女は眉を顰め口を固く結んでいた。
 死体の前に立つと懐から例の刃物を取り出し、顔の前で軽く振り回すと、
──オキクオキク オキクオキク クルコクルコ クルコクルコ ヒレコヒレコ ヒレコヒレコ
 それはタエナの葬儀の手法だった。
 その後、死体から彼女が持っていた刃物と同じものを取り上げると彼に渡した。
──これで身を守れ。
 渡された刃物は乳白色の石を削った原始的な石器で、柄の部分に象形文字のような言葉が彫られている。
「大事な物なんじゃないのか」
──弔いは済んだ。彼らは空へと登り、星となって我々を見守ってくれている。彼らにはもう必要のない物だ。
「海の底にいる民族が星や空に思いを馳せるのか……」
──本当に見守っているのかどうかは問題ではない。必要なのは自分が死んだあと、誰かに自らの存在を考えてもらえるかどうかだ。だから我々は死者の平穏を願う。そうすれば、死んだあと誰かに記憶してもらえるからだ。
 耳の痛い話だ、と道朗は思った。俺は殺した馬のことを一刻も早く忘れたいと考えている。
──早く受け取れ。
 そう言って彼女は道朗に刃物を押し付けようとする。
「作戦が全部成功したらこんなの必要ないだろ」
 彼は武器を持つことを渋った。彼女の協力者として活動する覚悟を持っていたが、共犯者になる覚悟はまだ持てていなかった。
 作戦が成功したら、あの麻の葉の同胞は何人か生き埋めになるのかもしれない。いや、間違いなく死ぬだろう。
 だがそれは不可抗力というものであって、大義とのために出る仕方のない死者だ。道朗は彼らを殺そうとしてやったのではないと言い訳ができる。
 もし俺が彼らの喉を裂けば、俺は彼らの死を誰よりも近くで見ることになってしまう。自分の利己的な精神で他人の生命を終わらせたという事実を直視してしまう。
 端的に言えば、それが一番嫌だった。
──わかった。
 押し黙った彼を鼓舞するわけでもなく、かといって侮蔑の感情を向けるわけでもなく、彼女はただ受けれいるだけだった。

 作戦はとても単純なものだ。中園の秘儀で山肌を流れる水流を集め、土砂崩れを発生させる。流れた土砂はトンネルを覆い、彼らはトンネルの先へ向かうことができなくなる。
 碌に経験を積んでいない俺の秘儀で土砂崩れは発生するのか、発生したとして本当にトンネルを塞ぐことはできるのか。なにもかもが未知数で粗雑な作戦だったが、道朗がやらなければ彼女はたった一人で彼らに戦いを挑んでしまうだろう。
 雨が止むまでに実行しなければならない。
 二人はトンネルから数百メートルほど上の傾斜へと向かっていた。
──これから実行する前に、聞いておきたいことがある。なぜお前は私に協力する?
「あんたが俺を助けてくれたからだ」
──それだけか?
「それだけで良かったんだ。あんたのことを知らないし、警戒されてるのは分かってたけど、それでも俺を助けてくれたのは本当のことだから」
 彼女から疎まれようが構わなかった。
 父は自分の夢を実現するために育てた。子はかくあるべしと規範を定め、その規範から外れたものを取り除く。それで俺がどう思おうが知ったことではないのだろう。俺は彼の影で、どこまで伸びようと父の背から離れることはできない。それが親子の営みであると、愛であると絶対に認めたくなかった。
 だからこそ、彼女との出会いに運命を感じたのだ。
 煤汚れた世界を捨てて彼女の故郷へと旅立つことができたらどれだけ良かったか。彼女の善意は俺の心を洗い流してくれた。なんの見返りも無く助けられたのなら、同じようにその人を助けてもよいのではないか。これこそが愛なのだと思いたかった。
──本当にそれだけか? それだけの理由でお前は人を殺せるのか?
「あんただって……似たような立場ならやれるんだろう?」
 返答は要領を得なかった。綺麗な言葉で着飾っていた薄暗い部分をつつかれ、己の身を守るために彼女に詰め寄った。
「あんたは……俺の言うとおりにすればいいんだ。そうすればきっと上手くいって、あんたは無事に故郷に帰れる。同胞の遺品を持って帰れるんだ」
──そうだな。
 彼女は肯定したが、単に話を合わせているように思えた。
 道朗の足取りは重い。
 こんな人間が瓜生島へ行っていいのだろうかと疑問が浮かんだ。彼女の住む世界は俺を苦しみから解放してくれるのかもしれないが、彼女の世界には彼女の世界の現実がある。
 タエナの死体がそうだ。彼らはもう一度人間社会に進出するために命を賭して行動している。
 俺はその現実に耐えられるのか。また別の世界に逃げたいと考えてしまうだけではないのか。
──始めるか。
 トンネルから手頃な距離を歩くと彼女は立ち止まった。
 俺は頷くと、右上腕に力を込めた。
 右上腕の刺青に熱感を覚える。
 刺青の狼の目が動いた。
 次に尾、四本の足の順で動き始め、肌の下で疾走しているかのような動きをとっている。
 刺青の狼が走り始めたのと同時に、山肌に従って流れていく水が彼の元へ集まっていき、トンネルへと向けて下っていく。
 このまま続けていけば、土砂を巻き込みながらトンネルへ殺到するだろう。
 すでに水流は勢いを増し、膝丈半分程度の水位があった。
 俺の刺青は右上腕に彫られた狼一匹だけだ。上腕を飲み込むようにして彫られた狼は、そのまま喉を食いちぎろうとしているかのような力を感じる。
 彼女は十分な水が集まりつつあるのを見ると、俺から離れていった。この豪雨ではどれほどの規模の土砂崩れが発生するかの予測ができないため、秘儀の実行と共に避難することは事前に確認しあっていた。
 刺青の狼は、肌の下で顎を開き、そして閉じるという動作を繰り返している。
 脳裏にあの馬の顔が蘇ってきた。
 お互いの視線は交差しているはずなのに、横長の瞳孔は開きっぱなしで、虚な瞳で俺を見ている。
 忘れろ、あんなもの。全部流してしまえ。
「────」
 ふいに、背中に強い衝撃を感じた。
 肺が絞られるような感覚と共に息が口から漏れる。
 勢いを殺せず、そのまま地面に倒れた。
 雨が降っていたことは彼にとって本当に幸運だった。哨戒していた二人組は銃を所持していたが、雨のために発砲することはなく、銃底で背中を殴ったのだ。
「何やろうとしてんだお前」
 答えるつもりはなかったが、骨が軋み内臓が裂けそうな感覚を脳が痛いと理解してきたのでそれどころではなかった。
「いいや、もう。適当に絞めて、連れていっちまおう」
 男がそう呟くと、もう一人が首を締めあげる。
「──、───」
 考えることなどできない。わけもわからずに手足を振り回せば倒木や石に打ち付けてしまい、鋭い痛みが襲い掛かってくる。
 雨水が口の中に入り反射的に咽ようとするも、気道を塞がれた状態でできるはずもなく、ただ胸が膨らむ感覚があるだけ。
 視界が滲んでいく、二人の男の顔と灰色の空の境界が無くなっていく。
 
 失敗した、と彼は思った。
 私はこのまま死ぬのか。あの従者や馬のように二度と動かなくなるのだろうか。
 そんなの嫌だ。私はまだ何も始まってはいない。私には何もない。何もできてない。
 いや、違う。認めたくなかっただけだ。
 本当に私が何もできなかったら、彼女と会話することさえ不可能だった。秘儀で彼女を助けることもできなかった。
 あんなに嫌っていた父親の力がなければ、私はなにもできない。
 それがどうしようもなく、腹立たしくて、悲しかった。
 父さん、なんであんなことを言ったんですか。
 私、みんなの期待に応えようとして頑張ってたのに、急に「蒐集院はもういい」とか「自由にやれ」ってそりゃあんまりでしょうよ。
 ああ、でもあの人が死ぬくらいならこんな俺が死んだほうがよかったかな……
「父さん……」
 やっとのことで絞り出した声は酷く掠れて、聞くに堪なかった。

 失敗した、と彼女は思った。
 長い赤黒髪は濡れて彼女の肌にぴったりとくっついている。
 今優先すべきはこの場から立ち去ることだ。
──結局、あいつは使えなかったな……
 ぽつりと言葉が溢れた。今まで我慢していた感情だった。
 道朗からの申し出を受けたとき、何故この男は協力しようするのか理解できなかったが、話すうちにこの男は私に好意を持っていることがわかってきた。
 おめでたいことだ。生き死にが掛かっている状況でよくもそんなことを。こっちは同胞が何人も死んでいったというのに。
 適当に話を合わせ、必要最小限の返答と情報を与える。それだけであの男はその気になった。
 私にはやるべきことがある。誰かを殺してでもやらなくてはならないことが。
 それは外へ出るときの父の言葉だった。

 俺たちは数百年の間、ククハシトリの中で生きてきた。今外に出なくてもいいじゃないか……なんでお前が外に出るんだ……なんで今なんだ……お前が帰ってこなかったら俺はどうすればいい……一人にしないでくれ……生きて帰ってきてくれ、必ず……

 私はまだ生きている。まだ務めを果たさずにいる。
 二度と動けなくなるその一瞬まで、約束を違えるわけにはいかない。
 そう決意して離れようとしたときだった。
「父さん……」
 聞くに堪えない声だった。
 だが、その声を無視するわけにはいかなかった。

 赤色が目に入り込んだ。その刺激のある色彩は俺の視界を鮮明にし、喉に張り付いた閉塞感を取り払ってくれる。
 呼吸を整えながら、隣に横たわる赤色を見た。赤は男の首から垂れていた。
 彼女が男の後ろに立ち、刃物で喉を切り裂いたのだ。
 今彼女はもう一人の男と戦っている。彼の首を絞めていた男だ。
 男は銃に剣を装着し距離を置いている。
 不意を突くならやり方はいくらでもあるだろうが、相対した場面では長い武器の方が有利である。
 ましてやそれが男と女なら尚のこと。
 だがそれでも彼女は男と距離を詰めていった。
 銃剣の射程に入った時、男は刺突する動作で迎え撃ってきた。
 彼女は刃物を振り下ろした。
 乳白色の刃物から女性の金切り声に似た音が聞こえる。
 刃に垂れた雨水が熱された鉄に触れたかのように蒸発する。
 刃と刃が重なりあい、鉄でできた銃身が牛酪のように切断された。
 そのまま彼女は振り切り、体を切りつける。大きな悲鳴もなく男は斃れた。
 悲鳴をあげたのは道朗のほうだ。
──道朗、まだやるか? こうなってもお前はやるのか?
 俺の奥底にある感情を見据えて云う。相変わらず瞳の奥で何を考えているのか理解できなかったが、その言葉の意味は痛いほどわかる。
──馬車の中からお前を助けたのは……お前が何が情報を知っているかと思ったからだ。何も知らないと知っていたのなら、お前を助けることはなかったよ。
「う、うう、う」
 喉から嗚咽が漏れ出る。体が震えるのは雨に打たれているからではない。
 自分を助けたのは善意であって欲しい。そう願った。彼女が何者で、何の目的でここにいるのかはどうでもよかった。
 ただ、俺は彼女に人を殺して欲しくなかった。俺を救ったその手で誰かの命を奪って欲しくなかった。
 だから、彼女を「あるべき姿」に矯正させようとしたのだ。父が私にやったように。
 俺は父親と何が違う?
──私はお前が思っているほどいい人ではない。今からやろうとしていることは殺人だ。私は、何も知らないお前に人殺しをさせようとしている。
 死刑宣告に等しい言葉を浴びせられる。
──これでもお前はやるのか?
 もう道朗の中には何も残っていなかった。
「みんな同じなんだ……勝手に誰かを崇めて、自分に都合のいい存在だと期待する…」
 泥を強く握りながら言う。
「……それでも、あんたのためにやるよ。あんたは、いい人だ。きっといい人だ。悪い人だったら俺が苦しんでいることなんかどうでもいいはずなんだ。他人のためにここまで言ってくれるあんたに何か、してやらなきゃいけないって」
 ただ、彼女のために。誰にどう思われようとも知ったことではない。
 彼女は何も答えなかった。それでいい、と思った。


 水が下っていく。
 水が全てを洗い流していく。
 土砂や死体、私の過去や拘りもなにもかもを。
 その中で俺だけが流れに逆らい立ち尽くしている。
 どこか遠くで、男たちの怒号や悲鳴が聞こえた気がした。
 最悪の気分だった。
 
 全てが終わった後、二人は山頂に戻っていた。
 道朗は地面に座り、雨の様子を眺めている。
 別に雨が特別好きなわけではない。
 一体いつになったらこの雨は止むのだろう。
──よくやってくれた。これで時間を稼ぐことができる。
 蒐集院とタエナの関係はこれからも続いていくだろう、と形式ばって感情のこもっていない声で言った。
 道朗は雨を見続けていた。自分から話す気になれなかった。
──そう落ち込むな。我々はなりふり構わず生きていかねばならんのだ。明日もその明日も……泥臭くな。
「そうかもしれないけど……」と言葉に詰まった。
 自分だけは違うと思っていた。
 綺麗に生きることができると思っていた。
 だがそうではなかった。
 これから先、自分はどうやって生きていけばいいのだろう。
──わかった。ではお前に生きる理由をやろう。
 道朗の目の前の地面に刃物が置かれた。
 柄の部分には象形文字のような文字が彫られていて、乳白色の黒曜石を削ってできた刃物だった。
──いつか返してこい。蒐集院の人間として、男として立派になったらな。
 お前は私のために生きろ、そう彼女は言った。
 刃物を手に取ってみる。彼女がずっと持っていたからか温かかった。
「ひどい言い方だ……」そう言うと少しだけ自分の口元が歪んだ気がした。
──沈んだ気分を紛らわす一番の方法は、誰かと話すことだ。
 隣に彼女がいた。褐色の肌に水滴を垂らして、長い赤黒の髪の毛は髪に張り付いている。
──お前に興味が湧いた。喋ってみろ。お前について、家族について、そして……
 茶色い目を俺に向けながら言う。
──なぜ私を好きになったのか。

 お互いのことを話す中で、聞く側は話の内容に驚くことも、怒ることも、聞き直すこともなかった。
 ただ二人は言いたいことを言い、自分の内を曝け出した。
 それは言葉だけの関係ではなく、もっと深い部分の繋がりであることを証明していた。
 人を殺したことへの後悔が全て消え去るわけではないが、それでもこの時間は満たされて、幸せだと言えた。

 刺すような雨は小康へと傾き、大地を叩くような雨音は聞こえなくなった。
 それは彼女との別れの時を示していた。
 きっと雨は止むことはないのだろう。
 雲一つない快晴など最初から存在しなかったのかもしれない。
 蒐集院が発見したトンネルは我々が掘削した穴の一つであって、故郷へ帰る手段はまだ残っている、そう彼女は云っていた。
──共に来るか?
 もしかしたら彼女は悪戯好きな性格なのかもしれないと思った。絶対に肯定しないことを知って彼女は道朗に聞いている。
「まだ、行かない。もっと自分と向き合いたいんだ。そのためにまず父親と話し合いたい。父親が俺のことをどう思っているのか……もう一度会って確かめたい。真実を知って今より失望するかもしれないけれど、きっと必要なことなんだ」
 人を殺すこと以外で君の力になりたい、と締めくくった。
「最後に教えてくれよ。あんたの名前」
──『ナユシ』ナユジだ。
「ナユジ……」
──そう、ナユジ。我々に苗字はない。
 いい名前だと思った。きっと父親が苦心して考えた名前なのだろう。
「また逢おう、ナユジ。今度会うときは、もっといい男になるからさ……期待していてくれ」
──待っているぞ。道朗。
 最後に手を振ると、彼女は離れて行った。
 彼も彼女と別の方向へ歩き出した。振り返ることはなかった。
 数時間後、道朗を探しに来た宇佐別院の人間たちと合流し下山することができた。

 その後、しばらくの間大分で隠遁生活を送っていたが、葦船機関を名乗る人物から京都の内院まで戻るように、と言伝を受けた。蒐集院の実権は自らの手の内にあり、七哲の存在などもはや眼中にないと、葦船龍臣が言っているようなものだった。
 内院へ帰還した後、道朗は父の元へ向かった。
 久方ぶりに見る正一の顔は憔悴しきっていた。
 葦舟との政治闘争に敗れ、生きる目的を完全に失っていた。
 きっと秘儀で洗い流したあとの自分はあんな顔をしていたのだと思う。
 二度と自分の人生に干渉しないこと、自分の身の上話をすることを約束させた。気落ちしていたからか、正一はすんなりと要求を聞き入れた。
 結局のところ、俺たちは血の繋がった親子だと呆れるしかないのだ。

 自分に何ができるのか、何があるのか。
 それを考えた結果、蒐集院に新しい派閥を作ることにした。葦船龍臣に対抗することを目的として、蒐集院の未来を変えていけるように活動するつもりだ。構成員は若年層が大多数を占める。
 だが現実は厳しい。
 葦舟は生き馬の目を抜くほどの躍進ぶりであるが、中園派閥は牛歩といった体たらくだ。
 若者らしく蒐集院を変えようとする情熱はあっても、実現させる縁も実績もない人物が殆どで、葦舟龍臣からは障害とすら思われていないのが現状だ。タエナの分野でも葦船の方が詳しい。
 だが、諦めない。
 父親がやれと言ったからやるわけではない。やめろと言われたから逆張りでやろうとしているのでもない。自分でやりたいからやるのだ。
 それがきっとナユジのためになる、そう信じている。




第二次世界大戦後、財団は蒐集院を吸収することを決定しました。しかし、与するのを良しとしない組織(大日本陸軍特別医療部隊など)が財団と衝突しました。蒐集院の中園派閥も反財団を掲げ敵対していましたが、武力的衝突ではなく逃走を図り、タエナと共に大口真院(GOI-1834)を結成しました。

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