繡子とイブキの贖罪 其ノ壱「いつも心に太陽を」
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父親の右手だけが帰ってきました。

 警察署の一部屋で、三角繡子みすみしゅうこは男から渡された写真を見ていた。
 父三角寛雄みすみひろおは五ヶ月前から行方不明だった。
「見つかったのは右前腕、つまり肘から先です。ディーエヌエー型鑑定の結果、あなたのと一致する部分が多く、三角寛雄さんの腕である可能性が高いと判断しました」
 対面に座った男が極めて冷静に状況を説明する。確か名前は神在じんざいと名乗っていた気がする。
 阿多古あたご神社の木の枝に人の腕が引っかかっているという通報があったのはつい二日前のことである。
 発見者はゴールデンウィークに大分へ帰省していたという家族だ。住む人間もおらず、行事の場になることもない神社には近隣の住民もめったに近づくことはなかった。
「寛雄さんは繡子さんに阿多古神社について話していたことはありますか?」
 ありません、と答えた。あの地域に神社があることでさえこの場で初めて知った。
「なんでもいいんです。阿多古神社じゃなくても、この地域について話していた、とか、仕事でそこの近くへ行った、とか」
 ありません、と繰り返すしかなかった。
 繡子は何か知っていても答えられる状態ではなかった。
 離断した右前腕の写真を見せられて、呑気に質問に答えられる人間ではない。それが親しい人間の腕であれば尚のことである。
「最後に寛雄さんと会ったのはいつですか?」
「十二月十二日の朝だったと思います」
「どんな会話をしていましたか?」
「……覚えていません」
 その後、何度か男から質問があったが、繡子の口から意味のある言葉は出てこない。
 これ以上彼女から情報を聞き出すことはできないと悟ったのか、男は刺激的な写真を見せてしまったことを謝罪し繡子の取り調べを終えると宣言した。
 居座る理由もなく、繡子は部屋から退出した。

「神在さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
 繡子と入れ替わる形で部屋に入った刑事は挨拶をして頭を下げた。神在と呼ばれた男も続いて頭を下げる。
 刑事は本庁から出向してきた。人の腕が発見された時点で、この事件は県警本部ではなく、警視庁の取り仕切りとなった。この世界の裏側に何が潜んでいるのか、そしてそれを覆い隠す存在について、彼はある程度の見識を持っている。
「検査の結果はわかりましたか?」
 抑揚のない声で神在が刑事に尋ねた。
「我々警察は当初、三角寛雄は巨大な生物に襲撃されたと考えていました。そこで、腕に付着していた唾液を調べたのですが……」
 口籠った刑事は持っていた書類を神在に渡した。書類を一瞥すると吐き出すように一言、
「人間、それも複数人ですか」
「そう、なります。鑑定の結果、腕を食いちぎったのは人間で間違いありません。それだけならまだ良いのですが、複数人のディーエヌエーが発見されました。わずかな唾液から百人以上の痕跡が……」
 事実をどう受けるべきか決めあぐねて、刑事は判断を煽った。
「個人を特定でましたか?」
「いいえ。本庁へ過去に採取した物との参照を要請しましたが、誰一人として一致する人間はいないと返ってきました」
 刑事の顔には未知に対する怯えがあった。百人以上の唾液が何を意味するのかを合理的に説明することなどできず、ましてやどう解決すればいいのかなど考えつかなかった。
「三角寛雄を殺害したのは何なのか……我々はここまでです」
「安心してください。そのために我々がいるのです。これ以上警察の手を煩わすことはありません。あとの事は我々にお任せください。全て解決してみせます」


 あの日、私は焼けたパンの匂いで目が覚めました。
 匂いを嗅いで最初に考えたのは火事です。まさかガスの元栓を閉めるのを忘れたんじゃないか、暖房器具に洗濯物が覆い被さっていたんじゃないか、そう思いベットから飛び起きるとリビングへと駆け出しました。
 誰かがこの瞬間を見ていたらきっと笑われるのでしょう。でもその時の私はとても真剣で必死だったのです。
 だって家には誰もいないはずでした。片手で数えきれないほどの転校を繰り返してきた私には友達はいません。恋人なんてできるわけない。
 親の都合による転校、親。
 リビングに向かうにつれて寝ぼけた頭に血が登ってきました。整理された脳内でこの状況について整理します。どう見てもこれは火事じゃない。
 可能性として一番高いのは──
「おはよう、繡子」
 トースターの前で佇む三角寛雄の姿でした。
 自分の中の血が冷たくなっていくのが手に取るようにわかりました。
 私は父の言葉を無視して椅子に座ります。
「炊飯器」
「え?」
「朝はご飯を食べるって決めてるの私。夜にご飯の準備したたんだけどさ。これ、どうすんの?」
「ええ、ああ」
 生返事を繰り返した後、父は黙ってしまいました。
 本当はこんなことよりももっと大事な話をしたいのですが、父親との会話はいつもぎくしゃくして棘のあるものになってしまいます。
 原因は簡単で、私と父の間に信頼関係ができていないからです。
 十二歳の時、母が交通事故で死んだ日から私の孤独な生活が始まりました。料理も洗濯も掃除も全て一人でやるのはとても大変でしたが、すぐに慣れてしまいました。
 一番苦しかったのは母が死んでも尚、父親が側にいてくれなかったことです。
 母が生きていた頃から父は、年に一回か二回程度しか家に帰ってきませんでした。それも決まった時期はなく、深夜に帰ってくることもあれば日中に帰ってくることもありました。そして次の日の朝には仕事へ戻っていくのです。
 父は自分の仕事について話そうとしません。転勤のたび、自分は特殊な銀行員なので同じ場所に長く居続けることはできないと、私に申し訳無さそうに話していたのを覚えています。
 でも、それだけです。
 他に何も語ってくれることはありません。たまに繡子が仕事について聞くことがあっても煙に撒かれるのが予定調和です。
 そんな人間を信頼できるはずがないのです。
 父に酷いことをしているという自覚はあります。私だって本当は父親と仲良くしたい。もう親と呼べる人はこの人しかいないのだから。
 学校の行事が苦手でした。授業参観の日も三者面談の日も私だけ誰もいなくて。私だけ変わり映えのない毎日を送っているのを無理やり理解させられて。
 一人で生きるのは辛い。
 父親に孤独を埋めて欲しい。
 そんなことをいつも考えているのに、いざ父親に会うと憎しみの方が上回ってしまうのです。
 この人は私を一人にした人。
 私の辛さと同等の痛みを父には感じてほしいと、どうしても考えてしまうのです。 
「また夜遅くに帰ってきたんだ。どうせもう行くんだろうけど」
 熱い食パンを齧りながら私は突き放すように言いました。諦めがありました。
「そりゃ、行くけどさ。すぐじゃない」
 だから繡子と話したいんだ。学校のこととか、友達のことでもなんでもいいから。そう訴えていると私は考えました。
「私は学校に行くよ。受験勉強があるの。当然でしょ」
「うん……」
 そんな泣きそうな顔をしないでほしい。私に寄り添えないくせに、私を可哀想だなんて思わないでほしい。
「まだ出るのに時間あるんでしょ? じゃあさ、炊飯器の中身片付けておいてよ」
 それから、お互いに無言で食事をしていました。
 口を食べることだけに使っていると皿の上の物はすぐになくなってしまいました。
 朝食が済んだらリビングから去って出発の準備をするべきですが、まだ父に話さないといけないことがあるので私はテーブルから離れることができずに、目が泳ぎ、頭を軽く振って狼狽していました。
 こんな話、最初から無理に決まってる。でも、もしもできるのなら。
「あの、あのさ、卒業式あるじゃん」
 父親の胸元で揺れるロザリオを見ながら言います。
 とてもじゃないけど彼の目を見て言うことはできませんでした。
「来れる?」
 父が言葉を出すまでの時間は永遠にも感じました。
「行ける。約束する。繡子の卒業式に絶対来るよ」
 一番聞きたかった言葉なのに、その言葉を信じることができず、
 「本当? 絶対に来る?」
 と何度も聞き返しました。その度に父は首を何度も縦に振って肯定してくれました。
 頭の中のもやがすこし薄くなった感覚がありました。でも完全には晴れません。
 私の中の黒々とした感情を本当に消すのなら、父は約束を守ってくれなければなりません。卒業式の日、パイプ椅子に座った父の姿をひな壇から見て、このもやは消えてなくなるのだろうと思っていました。
 身なりを整えた後、私は学校に向かうことにしました。
「繡子、いってらっしゃい」
「うん」
 まだ私のもやは晴れていません。なので父が玄関まで見送ってくれたのに、私は父の顔を見ることもできず、そのまま外へ出ていってしまいました。
 なんで私はいってきますとあの人の目を見て言えなかったんだろう。
 これが父との最期の会話でした。


 警察署を出ると昼過ぎの生暖かい風が繡子を迎えた。五月も半ばの今日この頃、肌寒い日々はとうに過ぎ去り、初夏の雰囲気が日を追うごとに強まってきている。
 大分の夏はどれだけ暑かったか、と繡子は考えたが、そんなもの私は体験していないと気がついた。高校三年の春に大分市へ引っ越してきた彼女は、そのまま受験勉強の世界へと突入したからだ。
 一年を通して勉強漬けの日々だったが、希望通り大分大学経済学部へ進学することができた。
 だからこそ、卒業間近に父親が失踪したことは彼女の影になった。大学に合格した日、合格したと伝えたかった父親は仕事へ行ったきり、二度と帰ってくるとこはなかった。
「これで本当に一人ぼっち……」
 そう呟いた自分にはっとした。自分は何を言っているのだろう。
 予想から確信へ、そして事実へと変わっただけではないか、繡子はそう思った。
 父が失踪し日が経つにつれて、父はもう二度と帰ってこないだろうという気持ちが強くなってきていた。
 今日の朝に、警察から署に来るように電話があった。スマートフォンから流れる淡々とした口調を聞いた時点で、これから何が起きるのか、父はどうなったのかの予想はあった。そして警察署に来るとディーエヌエー型鑑定のために口の粘膜を採取すると言われた時、予想は確信へと変わった。
「大丈夫。今まで一人でやってきたんだから。こらからも一人でやっていける。絶対大丈夫」
 そう言い聞かせて自動車のドアを開くと、どこか遠くでクラクションの鳴る音がした。
 大分県警察本部から車でおよそ十分。繡子の住むマンションは東中島の閑静な住宅街に位置している。
 屋根付きの駐車場に車を停めると、自分の部屋へと向かった。
 ここから引っ越さないといけないな。大学生にここの家賃は高すぎる。もう払ってくれる父はいないのだからと思い、あの人が父親として褒められる所は金払いがいいところぐらいだったなとも思った。
 カードキーをかざすとドアを開いた。
「ただいまー」
 ただ無意識の内にそう言った。誰からも返事はない。これからはずっとそうだ。
 玄関の奥では暗闇が彼女を待っている。なにもかもを塗りつぶして隠してしまいそうな黒。
 母が死んだ時と同じだ。
 繡子はどうしても家に入ることができなかった。 
 そうか、そうだったのか。
「仕方のない人だな……」
 そう呟くとドアを閉め、駐車場へと再び向かった。

 遺体安置所の暗い陰鬱な空気。血を吸って異臭を放つ遺品。潰れた母の自転車。
 そして中央には化粧をした真っ白な顔の母の死体。
 警察から小学校へ、そして繡子の元へ届いた知らせは真実だった。
 交通事故なんて毎日起きている。そして毎年誰かが死んでいる。そんなことは皆知っている。
 でも死ぬ人間が自分であるとは誰も思わない。死ぬ瞬間まで誰もわからない。きっと母もそうだったに違いない。
 だから母はきっと楽に死ねた。そうに違いない。そう考えて繡子は平静を保った。
 警察は父親に連絡する手段がないことに困っているようだった。今どきガラゲーすら持っていないとは、と警官が話しているのが聞こえた。
 父親が遺体安置所にやってるまでに、どれくらいの時間が経ったのかはっきりと覚えていない。
 でも、初めて母の姿を見た父の姿はよく覚えている。
 ドアを開いて母を見た瞬間、青白い顔にさっと赤みが差し、体の奥底に閉まって必死に押し留めていた感情を抑えきれず、行き場を失った感情は涙となって外へと出ていった。
 繡子は父に何を話せばいいのかよくわからなかった。
 一体、何を話せばいいのだろう。普段から会話すらままならないというのに、こんな時にだけ上手く話せるはずがないのだ。
 最初に口を開いたのは父の方だった。
「ごめんなぁ、繡子。ごめんなぁ」
 何故か安置所の中で父は私に謝っている。
 母が事故で死んだのは父が悪いわけではないのに。
「俺はさ、お前が産まれた時も仕事でさ、母さんのそばにいれなかったんだ」
 両目の輝きが一層強くなっていく。
「大事な時に俺はいつもいない……」
 おうおうと叫びながら父は床に崩れ落ちた。
 なぜこの人は私にこんな話をするのだろう。
「繡子……あのな……お前は……」
「やめてよ、そういうの。自分だけ辛いみたいなこと言わないでよ」
「繡子……」
「私だって悲しいの! 泣きたいの! でも泣いたって仕方ないでしょ!? どれだけ泣いてもお母さんは帰って来ないんだから! だから、私は泣きたいのを堪えて、お母さんが死んだことを早く受け入れようって頑張ってるの! あんたがいつもいないから! 私はそうやって生きてきたの! これからもきっとこうやって生きていくの!」
 静寂があった。
 繡子は肩で息をしながら、怒りに支配された自分には、もう母を喪った悲しみは残っていないことに気がついた。虚しかった。
「……ごめん」
 父親はただ娘に赦しを乞うことしかできなかった。


 あの山には新興宗教の建物がある、というのが麓に住む人間たちの共通の見解だった。
 誰もその建物を見たことはなかったが、人の出入りは多かったので、きっと大きな建物があるのだろうと皆は言った。
 麓の人間たちはそこにどんな人間が、どれくらい住んでいるのかなど全く興味がなかったし、知りたいとも思わなかった。八十年以上前からこの地に居を構え、それなりの歴史を持つ宗教団体なのだが、地域の住民と交流することは殆どなかった。数ヶ月に一回の頻度で、下っ端が山から降りて来てドアの前に立ち、信じるものは救われるだの、このペンダントを買えば運気が上がるだの胡散臭い言葉を並べては住人を苛つかせる程度の希薄な関係でしかなかった。
 ある時、あまりにも喧しいので住人が腹を立てて警察に通報したことがあった。何故か警官ではなく警視庁の刑事がやって来たのには皆面食らっていたが、刑事の下っ端への態度がやけに下手であることにも驚いた。刑事は「彼らの行動には問題はなく、犯罪行為はしていない」と住民たちに説明した。
 それ以来、住人たちはその新興宗教について考えるのをやめてしまった。たまにやって来ては煩わしく話しかけてくるのを我慢さえしてしまえば無害な人間たちだった。
 なので、その新興宗教の代紋が入ったトレーラーが山へ入っていくのを見ても、住人たちは黙って見て見ぬふりをしていたのである。

 住人が考えていたように山の奥深くには大きな施設があった。赤レンガを用いた近代建築の西洋館だ。
 意外なのはその屋敷には通信設備や気象レーダーといった精密機器が多くあったことで、その全てが何者かによって破壊し尽くされていた。
「全員死亡か?」
「おそらくは」
 ゴーグルを付け、全身を防護服で守った神在は還暦を過ぎた男にそう答えた。
「うちに喧嘩を売るのか」呆れながら男は言う。「上が黙っちゃいないよ」
 西洋館はかろうじて建物としての体裁を保っていたが、逆にいえば立っていること以外は酷い有様だった。
 消火しきれなかった黒煙が立ち上り、内で何がが爆発したのか内装が外から見えるほどに破壊され、破片が屋敷の外へと飛び散っている。
 二人の男は屋敷だったものへと入っていった。入り口のバルコニーでは、シャンデリアに引っかかった死体を降ろそうと作業員たちが四苦八苦している。
 作業員は二人を見ると会釈し、すぐに自分たちの仕事へと戻っていった。
「五行結社でしょうか」
「彼奴らならやりかねないけどさ。うちが協定に入ってからはこういうのは一度もしてこなかっただろう? 今さらやるとは考えにくいよ。あっちだって立場があるんだし」
 奥の扉が開き、二人の男は新たな作業員たちとストレッチャーを迎えた。酸味を感じさせる異臭が鼻の奥を突く。ストレッチャーに乗っている死体のせいだ。
 死体が人間だとかろうじて判別できるのは、人の顔の部分が残っているからで、もし顔が無かったのなら、海岸に打ち上がった鯨の臓器と言われても誰も疑わないだろう。
 全身は粘液に塗れ、表皮は剥がれ、あるいは極端に縮こまって裂けて、筋肉や内臓が露出している。人間に本来備わっている左右対称の長さの腕や脚は、片や関節がどこにあるのかわからないほど腫れ上がり、もう片方は酷い熱傷のように肌が異常に白く、筋肉が拘縮して枯れ木の枝のような様相を呈している。おおよそ人としての形を保っていなかった。
 なによりも、異様なのは顔の部分だった。潰れたバターのように顔が引き伸ばされ、別の顔と継ぎ目もなく融合している。
 二人の人間が融合した死体だった。
「ひどいな、これは」
 神在は男の言葉に無言で頷くことで同意した。 
「三角寛雄といい、最近の大分は治安が悪い」頭を掻いて男は言う。「これ以上、被害を出すのは我々の存続に関わる。かくなる上は──」最後まで言い終わらずに神在の顔を見た。
 神在が代弁する。「出しますか、四代目」
「どうにもならん時はお前が処分しろ」
「わかりました」
 神在は屋敷を出るとトレーラーへと向かった。
 扉に取り付けられた覗き窓から中を伺う。
 内部は居住空間になっており、ベッドと洗面台が存在している。
 生きるという行為に最低限必要な物だけが揃った部屋は、純潔さとある種の荘厳な雰囲気が同居している。
「外に出る準備をしろ。イフキイブキ
 青年は、洗面台の前で自らの爪の手入れを始めるのだった。


 繡子が阿多古神社に到着したのは午後七時を過ぎた頃だった。
 前照灯をハイビームにしてフロントガラス越しに事件現場を見る。
 周囲に灯りになるものはなく、急勾配の石階段の先には闇に包まれようとしている神社がそびえ立っている。
 山の中にある小規模な神社には駐車場といった参拝客への配慮というものはなく、車を置く場所に困った繡子はやむを得ず道路の路肩に停車した。
 計画もなく動いてしまうからこうなってしまうのだ、と繡子は思い知った。もしも阿多古神社で警官と会ったら、彼らは間違いなく訝しんで、わざわざ現場まで来た目的を聞いてくるだろう。
 自分は一体何をしているのだろう、という考えが浮かんだ。思い立ったらすぐに行動してしまうのは自分の悪い癖だ。
 私はなんと答えればいいのか。父との思い出が溢れてきて、いても立ってもいられませんでした、と正直に言った方がいいのだろうか。
 それでいいのかもしれない。自分の中でずっと後悔し続けるくらいなら、誰かに呆れられるくらいが良いと思える。
 エンジンキーを回し、ドアを開いて外へと繰り出した。そして後部座席のドアを開き、購入した土木作業用のスコップを手に持った。
 一歩、また一歩と繡子は階段を登る。
 初夏の生暖かい風が繡子の髪を揺らす。神社という舞台に黒の平服はよく似合っていた。
 階段を登った繡子が見たのは、ベニヤ板の壁でできたバリケードだった。警官は一人もいない。もう現場は調べ尽くされてしまったのだろうか。
 流石にバリケードを登っていくのは厳しいだろうと周囲を見ると、バリケードの一部に大きな穴が空いているのを発見した。繡子が四つん這いになればなんとか通ることができそうだ。
 穴は何か強い物体がバリケードに衝突した際にできたようで、破片が周囲に散乱している。
 でも、なんでこんな穴が空いているのだろう?
 強烈な不安が繡子を襲うのだった。
 どこかで、何かが私を見ている気がする。そんな錯覚を覚える。
 少しの間だけ繡子は穴の前で考えこんでいたが、両手で頬を叩くと意を決して穴へと入っていった。犯罪者になったところで、縁が切れる人間に心当たりなどなかった。
 神社の規模からして拝堂ぐらいしかないだろうと思っていたが、特に期待を裏切られることもなかった。
 屋根付きのバス停よりも少し大きい程度の大きさの拝堂は全体が黒ずんでいて、風雨で足元が腐り、コケかカビがよくわからないものが覆っている。
 寂しい場所だと繡子は思った。なぜ父はこんな所に来たのだろうか。
 スマートフォンのライトで道を照らし、父の腕が見つかった場所へと向かった。神社の裏手にある木である。
 神在の言葉が正しければ、木の枝に人の腕がぶらがっていたのだという。
 あの神社の角を曲がれば木は目の前、その時だった。

ぶちゅう、ううっ、ぶちゅるるる、ずずっ、ぐふっ……

 あの角を曲がった先で、何がこんな音を出しているのかわからなかった。水気のある何かがのたうち、絡みあう音。そうとしか考えることはできなかった。
 意を決して角を曲がり、スマートフォンの光を音のする方へと向けた。
 毛が生えている。
 収縮して震えている。
 全体のシルエットは木そのものであるが、それはあまりにも肉肉しい。動物の生皮を剥いで木に貼り付けているのだろうと思ったが、木の先が舌のように滑らかに動くのを説明することはできなかった。

ずちゅる、ぐむっ、ずるるっ、むぐっ……

 またあの水音がする。木の幹が妊婦のように膨れ上がると、そのまま木の先へと動いていく。

むぐぐっ、ずぴゅ、どじゅ……ぺしゃっ

 吐き出す音と共に、何かが地面へと落ちていった。
「猿……」
 そう呟いたのは目の前にいるのがどう見てもただの猿だったからだ。
 大分で猿を見るのは珍しいことではない。近くの高崎山では猿はいくらでもいるし、迷った猿が市内に侵入することもあった。
 粘液に塗れた猿は母親に産み落とされた直後の状態を思わせたが、その姿はどう見ても胎児ではなく、成体の猿の姿だった。
 軽く震えるとおもむろに二本の足で立ち、じっと繡子を見ていた。
 どうしていいのかよくわからなかった。
 だが猿は突然、歯を剥き出して威嚇したかと思うと変化は急に始まった。
 猿の顔が額から顎にかけて一本の切れ込みが入り、さらに両頬にも一本の切れ込みが入ると、ダンボール箱を開いたかのように顔が四つに分かれた。筋肉や血管が露出し、瞼が無くなった目が異様に丸く見えた。
 何本もの触手が表皮を突き破り、甲殻類の脚のような器官も現れ始めている。
 明らかに異常な事態だった。
 それを見た繡子は、反射的に持っていたスコップを猿の頭に叩きつけた。
 スコップ越しに奇妙な感触が伝わってくる。振り下ろされたスコップは弾かれることはなく、そのまま猿の頭に入っていった。
 猿の顔はカエルのように眼球が顔からせり出し、両目の視線はあらぬ方向を向いている。
 繡子の攻撃は猿の怒りを助長させるだけだった。
 打つ手がなくなり繡子は走った。
 あれは猿じゃない。木も木じゃない。猿の肉でできた、猿の化け物を産む木だ。この場にいるのは絶対に良くない。
 角を曲がる前に振り返って柿と猿を見れば、柿から何体もの猿が生まれ落ちようとしている。最初に生まれた猿はもはやただの肉の塊といった有り様で、刺さったスコップが盛り上がる肉に埋れていくのが見えた。
 肉の塊が蟹の脚を使って繡子へと向かって来ている。
 止まるんじゃなかった、と後悔した後すぐに走り始めた。恥も外聞もなく、全速力で入ってきたバリケードの穴へ向かった。
 肉が拝堂を破壊しながら繡子に迫る。ナメクジのような収縮運動と蟹の脚の歩行は、繡子との距離をあっと言う間に縮めてしまった。
 父はあれに殺されたのか?
 頭の中によぎった考えをすぐに振り払って、足を前に出すことだけを考える。
 死にたくない。まだ死ねない。父の死の真相を知りたいのに私が死んでどうする。
 だが繡子のすぐ後ろにいる肉からは、どうしようもなく死の匂いがするのだった。


カレ トコロ トコロノシマ オオキ チイサキハ アメノマサコノ ホコリノ シヲナワニ コリナレルナリ
(この国の大地は「アメノマサゴ」が凝り固まって形成された。)

 バリケードが溶けていく。砂になって崩れ落ちる。邪魔だと言わんばかりに、あるいは深淵へと踏み出した女を逃がさないとしているかのように。
 もはやバリケードは跡形もなく、その場には青年が立っている。
 茶黒髪に褐色の肌、茶色の虹彩。狩衣と作務衣を掛け合わせたような服。
 青年は両手を挙げ手掌を周囲に曝け出す。

カレ フタハシラノオオオカミ チチノクノタケニ タタシマシテ オマツオオカミノ タマエリシ アマノマサコヲ トリツテ ウシロテニ フキカマシタマエハ ヤソチノシマトナル
(イザナギとイザナミの御両神はチヂノクの山に立ち、「アメノマサゴ」を掴んで振り撒くとそこは島になった。)

 繡子と青年の視線が交錯する。青年は繡子の存在を認識すると若干の困惑を見せたが、すぐに表情を固めると繡子に向かって走り出した。
 そのまま繡子とすれ違うと猿に貫手を放つ。
 指に当たった瞬間、肉が削げ落ちる。
 血が流れるわけでもない、肉片が飛び散るわけでもない。
 青年の指に触れるものは一切の区別なく砂になる。
 バリケードと同じように猿は砂になって崩れ落ちる。

ヒタリノミテモテ マカセタマエハ フトシマナリキ ナハ イクツムロトイウ
(左の手で砂を蒔けば大島になり、名はイクツムロという。)

 木から生った猿たちはやっと状況を理解したようで、甲高い奇声をあげながら青年の元へ殺到しようとしていた。
 青年は両の手を地面につける。砂利でできた地面は瞬く間に砂の海へと変わった。
 地面から手を放すと手を交差させ、人差し指と中指を伸ばした。
 イメージは蜻蛉。指で翅を表現する。
アキツネワケアキツネワケ
 そう青年が言い放つと同時に砂が蜻蛉の形を持って飛び上がった。
 砂で出来た蜻蛉は猿たちへと向かい、衝突し、砂であるが故に簡単に崩れさる。
 狙いは猿たちの全身が砂に包まれていくことだ。
 蜻蛉の波に飲まれていく猿たちはもはや青年の掌の上である。
 為すすべなく、砂に沈んでいく猿と木。
 砂は塔を形成し、猿を閉じ込めた。

ヒトミトノミテモッテ マカセタマエハ オオチ オチノシマナリキナハ カルトイウ 
(右と左の手を使って砂を蒔けば大小さまざまな島になり、名はカルという。)

 繡子は今自分が見ているものが現実であるのか分からなかった。人並みの大きさの猿、肉でできた樹、そして触れたものを砂に変える男。
 その男が今度は私に視線を預けている……。
 あっと叫ぼうとした時にはすでに男は繡子の目の前に接近しており、男の指は繡子の首を締め始めた。
 指の力だけで首が折れるのではないかと錯覚させる力だった。頸動脈の血流が絶たれ、視界がぼやけてそのまま失神する、かに思われたが、青年は急に手を離すと自らの手掌を見つめ、手を握る動作を繰り返し、
「体の中に何を?」
 と繡子に尋ねた。
「何って……」青年の中で完結している行動を汲み取ることができず、ただ青年の言葉を繰り返す。「知らないわよ……そんなの……」
 仮にも殺そうとしてきた人間に聞く言葉か?と言いたくなるのを堪え、
「あなたの方こそ、なんなの? なんでこんな所にいるの? なんで猿を砂にしたの?」
「私からすれば、貴女が不可解です」
 そう返答すると青年は信号弾を空へ向けて発射した。


 信号弾が空に上がると、すぐに何人もの人間たちが神社に集結した。
 日本ではまず見ることができない程武装した人間たちは、砂の塔の周囲を守る者、青年の話を聞く者、繡子にあからさまな敵意をぶつける者に分かれていた。
 しばらくすると、リーダー格と思わしき男が顎で繡子に指図する。ついて来いということらしい。
 石階段を降りると、トレーラーが待ち構えていた。
「乗れ。イブキはこいつを見張っていろ」
 その声は警察署で会った神在その人だと繡子は理解した。
 荷台に載るとすぐにトレーラーは出発した。
 どれだけの時間移動したのかはよくわからなかった。
 青年と繡子は目的地に着くまでの間、一言も会話をしなかった。
 トレーラーのエンジンが停止する。
ウナチウナチウナチウナチ、三角繡子君」
 聞きなれない言葉を口にしながら男がトレーナーに入ってきた。
 年齢は五十代だろうか。青年と同じ髪の色をしている。逆光になってよく見えないがきっと目の色も茶色だろう。
「私は中園嘉智。ここの四代目の責任者だ。でその男はイブキ。漢字で書くなら伊邪那岐の伊に夫、芸者の伎で伊夫伎だよ。君も見たように彼は人間じゃない」
 袖から見える前腕には刺青が見えた。
「君は三角繡子で間違いないね?」
「そうです」
「三角繡子……この繡はメジロの漢名『繡眼児』の『繡』だ。お父さんが名前を付けてくれたのかな?」
「母が考えてくれました。美しく飾った子になって欲しいから『繡』の字を使ったと父から聞いています」
「ふぅん、君は両親から愛されていたんだねぇ」
 中園は持っていた資料に視線を預けて質問を続けた。
「父親のことは本当に何も知らない?」
「はい」
「銀行員だと信じていた?」
「そう、ですね」
「そう」所作なさげに中園は相槌を打つ。「じゃあ、神社へ向かった理由を聞かせてもらっていいかな?」
「父の全てを知りたかったんです。なんであの神社にいたのか、神社で何があったのかを。父が生きているのらならそれが一番いいんですけど……」
「もう死んでいるのではないのですか?」
 口を挟んできたのはあの青年だった。
「腕が無くなっているんでしょう? どこかで治療を受けなければ生存は絶望的だと思いますが……生きているのなら貴女に連絡することがあってもいいでしょう。それが一度もないということは、つまりそういうことでは?」
 貴女は父親の死を受け入れるべきなんですよ、と締めた。
「私も……父は死んでいると思っています」
「?」

「母が死んだ時、父は私に産まれた時にそばにいれなかったことを謝っていました。私はわけがわからなくて、なんでこの人はこんなことを言うのだろうと思っていました。

父は私が産まれた瞬間に立ち会えなかったことを悔やんで生きてきました。ずっと心の中でへばりついて、私や母の顔を見るたびに思い出していたんだと思います。だから、私の顔を見るたびに悲しい顔をしていたんです。

いつか私に話すつもりだったんでしょう。でもそれよりも先に母は事故で死んでしまった。

もう父は耐えられなかった。母を喪った悲しみが押し寄せてきて、これ以上罪を背負い続けることができなかった。

父がいなくなって……あの時の父と同じ立場になって、やっと分かりました。

父は他にも謝りたいことがあるようでした。でも私は聞いていません。父はあの日のことについて何も言うことはありませんでした。

私は父に全てを吐き出させてあげたいんです。

きっと辛い罪の思い出だと思います。でも聞かないと私はずっと後ろ暗い気持ちのまま生きていかないといけないから。

もう二度と父に会えなくなったとしても、このまま何も分からずに生きていくのは嫌なんです」

「つまり貴女の自己満足でしかないと? それで貴女は死にかけたんですよ? 死んだら元も子もありません」
「そう、ですね。私がここまで来たのは自己満足です。私がどう行動しようと父の生死は変わらないのかもしれない。変わるのは私だけ」
 顔を上げて繡子は言葉を紡いだ。自分に言い聞かせるように。
「でも、罪を償うってそういうことだと思います。一人で何をやろうと罪が消えるわけじゃない。罪に寄り添う人がいて初めて、赦されるんです。それに、私が死にかけた時貴方が助けてくれたじゃないですか」
「……貴女は、死ぬ瞬間まで自分は死なないと考えてそうですね」
「話を聞いてくれてありがとうございました。吐き出せてだいぶ楽になりました」
 皮肉を無視して繡子は頭を下げた。苦い顔をしたイブキは黙ってその姿を見ている。
 イブキがここまで感情的になるのか、と中園は心の内で舌を巻いた。この女は使える、とも思った。
「待つんだ二人とも。話が脱線している。確率が高いだけで三角寛雄が死んだと決まったわけじゃない。三角君、単刀直入に言うよ。これ以上三角寛雄のことを調べようとするのなら財団が黙っちゃいない。上は血も涙もないよ。君の体をずたずたに引き裂いてホルマリン漬けにするくらいは平気でやる。必要ならね」
 中園は人差し指を顔の前に立てる。
「選択肢は一つしかない。だけど僕はこれをおすすめしない。始めに言っておこうか。神社で君が経験したことよりも遥かに惨い現実が君を待っている。知らなくていいこともある。やらなくていいこともある。だが君が進むのならそうはいってられない。我々が隠し通してきたこの世界の脆さ、残酷さを君は知るだろう。君は必ず後悔する。ここが際だ。まだやり直せるよ。全てを忘れて家に帰れる。それでもやるかい?」
 中園の言葉がただの脅しでないことは今までの経験で十分に理解している。
 ただし、その覚悟はすでにバリケードを越えた瞬間に決めている。
 父のために、何よりも私のために。
「やります。私を大口真院に入れてください」
 中園の口角が吊り上がった。
「では改めて、ようこそウナチウナチ、三角繡子君。我々は大口真院。財団と共に人類の未来を守る組織だ」




其ノ壱「いつも心に太陽を」 | 其ノ弐「救済の技法」

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