この大地は、かつては一望のもとにあった。
しかし今は、神の最も素晴らしい奇跡の上に、神のものではない他の奇跡が乗っている。
高く聳え立つ巨大な塔は、その頂上に立てば天に届くと思われる程の高さに達していた。
「天国?もしかしたらとっくにあのビッグフット達に占領されているかもしれませんね」
青年はこの見覚えのある土地に座って誰にともなく自らの考えを呟いていた。
「おじさんは天国に行ったことがあるの?」返事を期待していなかった独り言に、子供の声が返ってきた。
「えっ?こんなにも彼らの領土に近い場所に人が?」青年は平静を装いつつ振り返った。
だが、今度こそ本当に驚きを隠せなかった。
何故なら、その少年の顔立ちは、彼の遠い記憶の中にある姿と、完全に重なっていたからだ。
互いに驚き合い、目の前の男が後ずさるのを見て、少年も鏡合わせのように数歩後ずさった。
そして、二人の間に沈黙が流れ、宙を舞う風の音だけが野次馬の様に騒がしく響いていた。
「…あぁ…こんにちは」驚きから失っていた冷静さを取り戻しながら、今すぐこの気まずい状況を打破するべきだと青年は考えた。
「えっと…こ…こんにちは」いまだ驚いているのか恥ずかしがっているのか、少年は少しどもりながら答えた。
そして、また二人の間に沈黙が流れた。
気まずさが互いの心を満たしている。
最初に沈黙を打ち破ったのは少年だった。「あの、でも最近そのビッグフット達が領地を広げ始めて、以前の放牧地が使えなくなったんだ。 それで新しい場所を探していて、ここを通りかかったら、おじさんが座っているのが見えて声をかけようと思ったんだよ。 見かけない顔だけど、おじさんは他の村の人なの?」
「えぇ…私は他の村の人間ですが、ビッグフット達との衝突で散り散りになってしまい、私は仲間達の新しい所在地を知ってそこに向かっています。今は休憩していました。」青年はようやく冷静な思考を取り戻した。
「ところで…君の村はあの森の近くの土地にあるのですか?」
「そうだよ。もしかしておじさん、僕の村に来たことがあるの?」
「…いえ、遠くから君の村を眺めていただけです。」
「へぇ〜、じゃあ、おじさんの村はどこにあるの?」
「あはは、ずっと遠くです…」
あらかじめ考えておいた嘘に近い話だったが、青年は会話を楽しんでいた。見知らぬ子供の為に時間を無駄にしてはいけないと自分に言い聞かせてはいたが、やはりそれはこの少年の顔立ちのせいだったのだろうか。青年の心は、この会話を止めたくなかった。
いつの間にか、偽りの情報しかなかったはずの会話に、自分の本心に混じり始めていた。
「ところで、おじさんは本当に天国を見たことがあるの?」
「えぇ、見た事があります。それに、秘密を教えてあげましょう。天国というものは、人によってはこの地上にあるものなのです。」
「本当に!…でも、お父さまは『天国は空の上にあって、誰もが地球上で一番美しい場所だと思える場所だ』と言っていたよ。どうしておじさんは、天国が地上にあって言うの?」
「君は知らないかもしれませんが、伝説によると、神が天国を作った時、地球上で最も美しい場所にしようと頭を悩ませました。ですが、どのように造っても気に入らない人が現れ、その人たちの思い通りに改造しまいました。その結果、元々の風景が好きだった人たちがまたその風景を嫌うようになり、神様が頭を痛めていた矢先、天使が『心の中の一番美しい風景を皆に見せてあげたらどうでしょうか?』と提案しました。だから、その後天国を見た人は皆、今まで見た中で一番美しい場所だと言う様になったのです。」
「へ~そうなんだ。でも天国がこの世にある理由にはならないよ?」
「…そうですね。天国は実はこの世にある、というのは、私の心の中で最も美しい場所は故郷であり、その中でも最も美しいのが私の故郷のラベンダー畑だからです。たとえ本当に天国を見たとしても、その風景は、それになるでしょう。 だから、人によっては天国は地上にあると言っているのです。」
「あの…おじさん…ラベンダーって何?」
「えっ!…ラベンダーも知らないのですか?」青年は少年の問い掛けに、噎せそうになった。
「あはは、僕にとって草花は、牛や羊が食べられる物と食べられない物くらいしか違いがないもん」
「やはりあの子と同じですね…」青年は少年に聞こえない様に、声を潜めて呟いた。
そして、ローブの下に隠されている青年の身体の機械的な部分が、外からは見えないほどのうねりを帯び始め、やがて、青年の身体の内側からローブに隠された手へと長方形の物体が移ってきた。
青年は手を出して、その物体を見せながら 「ほら、これがラベンダーです。」と言った。
透明な長方形の箱の中には紫の葉が緑の芯を飾っている花が納められているが、その香りは箱に全く邪魔される事なくその状態でも二人の鼻を擽った。彼によって何年も持ち歩かれていたラベンダーだとは思えなかった。
「わぁ!これがラベンダーなんだ!」少年の目は立方体に釘付けになり、ラベンダーに惹かれている事が分かった。
「こんなに爽やかで清々しい香りは初めてだよ!」少年は立方体を抱き締めて、深呼吸を繰り返した。
「それはよかったです。君が私とひとつ約束をしてくれたら、それを君にあげましょう」
「本当に!?」少年は感激した。
青年のローブに隠された身体は再び音もなく変形し、青年の隠していた手ひらから中指の指一本分程の大きさしかない四角い箱が現れた。
「これを君の家長に渡して下さい。渡せばおのずと理解してくれるはずですから。」
ラベンダーと小さな四角い箱を丁寧に抱きかかる少年の肩に手を置きながら、青年は「家長に引き渡すと、約束してください。どこで見つけたのかと聞かれたら森の神を名乗る男から貰ったと言えばいいです。分かりましたか?」と念を押すように言った。
青年の粛々とした態度にやや威圧感を覚えつつも、すぐに態度を正し少年は青年の頼みを受け入れた。
少年の姿が視界から消えるのを見届けた後、青年は大きく溜め息をついた。
「汝の唯一の所有物を他人に与えてよかったのか?汝の異能を遮断する箱を、我が作るのは容易ではない」。空中に現れたゼンマイと歯車は、空中に浮かぶ機械仕掛けの首を構成した。
「いいんです、ずっと一緒に彷徨っているよりも、あの美しさと香りの良さをより多くの人に知ってもらえた方がいい」
「しかし、汝が思うように、その人間の幼子は汝の兄弟の末裔である」
「えぇ、あの少年が偽物1の子孫だったら、確かに大損です」
「嘆くな。大敵が復活するまでに我らはあらゆる不安要素を一掃せねばならない。汝、今一度覚えておけ。汝は我に誓いを立てた。血肉の大敵を討ち滅ぼすまで、汝の『贖罪』の為に、我が意のままに行動すると誓った事を。」
「分かっています。余計なことは言わずに、次にどうすべきかだけ教えて下さい」
「賢明な選択だ」
「ですが、あと五分だけ猶予をくれませんか…せっかくこの土地が私の故郷だったのですから、少しだけ懐かしんでから去りたいのです」
「あまり時間を掛けるな」その言葉とともに、機械仕掛けの首は複雑な変形を繰り返したあと、その場から消え去った。
青年は土地の上に仰向けに寝転がり、遥か昔の懐かしい記憶に思いを馳せていた……
兄は弟の手を引いて小道を走った。
弟は走りながら、兄に文句を言った。「ねぇ、わたしにとって草花は、牛や羊が食べられるか食べられないかぐらいの違いしかないよ!」
兄は「そんな事を言わずに着いて来なさい!」と、弟の手を更に引いて走った。
やがて、紫色の海が二人の兄弟の前に現われた。
弟はそのラベンダーの海を眺め、視覚と嗅覚からの驚きでその場に立ち尽くした。
「どうだ、約束した通りここが気に入ったでしょう!」兄は誇らしげに胸を張った。
弟は暫くじっとしていたが、やがて紫色の海に向かって足を進め、ラベンダーを一束つまみ上げると、口に入れた。
当然、「不味い!」という声とともに弟はラベンダーを吐き出した。
文句を言おうとしたが、弟の滑稽な仕草のせいか、それとも他の理由からか、兄は明るく笑った。
弟も、兄の笑い声につられて、一緒に楽しそうに笑い出した。
こうして二人の世間知らずの少年は、この紫の海の果てを探すために、その視界の果てへと向かっていった。
彼らの姿は、次第にラベンダーの海の中へと消えていった。