死地送りの岩場(がんば)
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「異動なんだって?」

喫煙室内で煙草をふかしている新垣に、同僚が話しかけた。

「……左遷だよ。」
「おいおい、そんな悲観的な物言いはよせよ。」

嘗ての同僚とは横に並ぶ形で会話を続け、その合間に購買部で入手した煙草を口に運ぶ。傍からはとても幼く見える新垣の顔立ちとは裏腹に、その所作からは彼が今までどれだけの空箱を生成してきたのかが見て取れる。2人の男は己の首に自らの情報が明記されたIDカードをぶら下げ、ここに就職した時に支給された白衣を身に纏っている。

喫煙所のガラス越しに見える道行く同僚たちも、皆が皆似た風貌を呈しながら日々の職務を全うしている。窓もなく、白く無機質である廊下に息吹を与えているのは少なくともここにいる人間のみというのは、実にここの空虚さを象徴しているではないか。それが快活に日常を謳歌する人々であるならばいざ知らず、己の職務に忠実でありその重責を両肩に乗せながらも決して歩みを止められない者達なのが最高の皮肉である。急ぎ足で進む者、全員がその目に疲労を乗せている。

中には笑顔を絶やさない者もいるのだろう。しかし、新垣の優れない精神状態から見える情景はどんなものでも負の印象に変換され、自己完結型の真実として脳に投影される。各言う新垣本人はこの忙しさとは正反対の状態であり、正に暇を持て余していたからこそ前述した観察行為に勤しんでいられたのである。

「……俺の、何が駄目だったんだろ。」
「別に、良い悪いの話じゃないだろ。」

施設内に設置されている喫煙所は全周ガラス張りであり、外の廊下が見える場所には丁度立ったまま肘が置ける高さに机が設置されている。新垣はそこで頬杖をつきながら、尚も口から煙を吐き出す。

玄武博士の意向だ。親心みたいなものだって割り切るしかないさ。」

同僚が見るからに項垂れている新垣の背中に手を置き慰める。しかし、それの効果は一切見られず、深いため息と共にそれは加速する。

「なら、もっと重要度の高い研究や実験に参加させてればいいんだ。俺がどんな思いで今まで頑張ってきたと……! 自分で言うのもあれだが、この前提出したレポートも生物型オブジェクトの飼育研究部門でも好評だったんだぞ。それ相応の評価や人事が下されても良いはずじゃないか……! なのに、何でまた……。」
「そりゃあ、年中暇だって言われてる部署への異動ではあるが、それを左遷なんて言い方じゃ異動先に対してもあんまりだろ。」
「じゃあ、それ以外に何て表現すればいいんだ……! 栄転か? それとも長期の休暇か何かか? なあ!」

新垣にすごまれ、流石に同僚も狼狽える。

「ま、まあ、この組織に本当の意味で無駄な部署なんて無いんだからさ、そんなに落ち込むなよ。な?」
「……だと良いがな。」

新垣もこの悪態を最後にこれ以上の文句を止める。この会話を異動先の上司にでも聞かれていたらと思うとぞっとするからだ。いつ何時、聞き耳を立てている人間が潜んでいるかも分からない。新垣は決して、その行いを反省したからではなく、前述した打算的な考えのもとで仕舞い込んだ。

「……ま、お前が心配になるのも分かるよ。」
「……何が?」
「確か霊実体研究部門と言えば、かの有名な岩場博士のいる部署だ。それを思えば、落ち込むのも無理はない。その点に関しては同情するよ。」
「誰だ、その岩場って。」

その一言を聞いた同僚は、驚いたような顔で新垣の方を見た。

「お前、知らないでそんなに落ち込んでいたのか?」
「……まあ。」

同僚の先程から続けていた同情から呆れた顔に変わる。新垣自身もその変化を察し、どこかしら不機嫌な気持ちになる。

「……単に仕事がなさ過ぎて暇な部署じゃないのか?」
「それはまあ、その通りだが……。」

同僚は新垣の方へと改めて向き直り、真っすぐに彼の方を見つめる。新垣もそれを受け、多少は態度を改める。

「あそこは霊実体の『研究』部門とは銘打っているものの、実際は都市伝説とか噂話の資料を集めて検証してるだけの部署だ。俺達が日頃勤しんでいるオブジェクト研究とは別の意味でかけ離れてる場所だよ。でもな、もう一つあの部門が毛嫌いされている理由があるんだそれがさっき言った岩場博士だよ。」

再度挙げられたその名前に新垣は未だピンと来ていない。新垣が知る博士の名前の中にもこの人物は一度として出て来ない。

新垣自身、先輩職員や他の部門で発表された研究レポート、実験記録、報告書は随時チェックしている。彼自身、本来であれば異空間・異次元空間での普遍的アプローチを目的とした物理研究部門に所属している身ではあるが、多方面の情報をインプットすることで自身の研究にもつながると理解しているからだ。

彼は多種多様な研究成果を記録した資料を読み漁り、それを作成した博士や研究員の名前も暗記している。これには今後の組織内での立ち回りを円滑にするためのコネクションづくりという意味合いもある。

だがそんな新垣であるにも関わらず、先程から連呼される『岩場博士』なる人物の情報が全く出てこないのだ。新垣はある意味、その点においては多少の興味を惹かれていた。

「岩場博士はな、この財団組織でもそこそこ古い時期からいる博士でな、多くのオブジェクトの研究主任を務めた人物でもあるんだ。」

その様な経歴を持っているなら尚更、何故自分がその名を知らないのか。新垣の疑問はさらに深まる。

「でもな、その当時から担当していたオブジェクトの殆どが家屋内で発生する異常現象が大半で、大体が原因不明。碌な研究成果も出せないし、実用化のめども立たない、剰え多くのDクラス職員を起用した実験を繰り返すばかりでその危険性しか分からないと来れば、察しは付くだろ。そりゃ、それらが全部無駄だった訳では決してないけどよ、そんな結果ばかりでかつ碌な論文も残せていないんじゃ、この財団において実績を残していけると思うか?」
「……無理だな。」
「だろ? んで、最後の『多くのDクラス職員を起用した』って部分で、嫌な異名が付いたんだよ。畏怖半分、バカにしてる半分だけどな。」
「嫌な?」
「人呼んで、『死地送りの岩場』。送り出した職員が皆帰ってこないから付いた異名だ。言いえて妙だよ。だから……。あ。」

その発言を聞いた瞬間、新垣の顔が引きつった。同僚自身も、当初の彼を励ますという目的から大きく逸脱する事を伝搬させてしまった事に気が付き、心情が顕著に表れる。

「べ、別に噂程度の話だから、全く信ぴょう性は無いんだぜ? だからそんな心配することじゃ……。」

そこから数秒、互いにどの様な会話を続けていけばいいのか分からずに沈黙する。

「じゃ、俺、もう行くな。が、頑張れよ?」

気まずい空気だけを置いていく形で同僚は喫煙室から出ていった。残留する煙のごとく、新垣の心境には更なる不安と絶望感だけが残される。

先程の話から推測すれば、かの「岩場」と呼ばれる人物は単純に無能な人間であり、これから自身が向かう部署はそんな無能な人間の掃きだめでかつ自分の死に場所になりえるという事だ。その様な場所に異動となるなど、左遷と言わずして何と言おう。いや、左遷ならまだ良い。これでは単なる死刑宣告ではないか。

無能の下で働き、無能のために死ぬ。

想像する中で一番最悪な語句が顔をのぞかせる。

新垣は半分ほどになった煙草を灰皿に押し付け、しつこい位にねじりながら火を消した。しかし、2、3秒経ったら再び紙箱に手を伸ばし、慣れた手つきで新しい一本を取り出す。

再度目の前の廊下に意識を向ける。皆が皆、齷齪あくせくしながら歩く様子が観察できる。

ある者は両腕からこぼれそうな程の資料を抱え、ある者は同じ部門の同僚とスケジュールの打ち合わせをしながら歩いている。そんな中で一際目立つ、白衣を翻しながら軽快に歩を進めかつ自身の進む道にいる職員たちが次々と避けていく様子をさも当然な顔で歩く上級研究員を確認する。そして、その後ろを腰を低くしながら付いて行く男の姿も合わせて目の当たりにする。

「俺にはもう、あの場所からの光景は見られない。」

性悪説というものがある。人は生まれながらにして悪性をもって生まれ、その欲望のままに生きるものである。善性などと言われているものはその全てが偽善という名の人の理性によって作り出された物に過ぎず、最初からその様な崇高な志など持ち合わせてはいないというのだ。

そも、この性悪説という物自体は荀子と呼ばれる中国の思想家によって考案された思想であり、それと対をなすように孟子の唱えた性善説というものがある。

性善説は人間は生まれながらにして善性を持ち、四端の心とされる四つの「善の兆し」を先天的に備えているという思想である。

惻隠は他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」、所謂、憐れみの心であり羞悪は不正を羞じる心、辞譲は謙譲、要は人に対して腰を低くし遜る心、是非は善悪を分別する心といった形である。

前述した四つの兆しを磨くことにより、人は君子に至る。

この世というものは人の欲望によって構築され、その中で善と悪という二対の心寧が常に互いをけん制しながら発展を遂げているのが世の常である。しかしながら、その中で真の君子たる頂に到達したものなどどれ程いるのだろうか。新垣はその大いなる矛盾に眉を顰める。

地位と名誉は研鑽と努力、そして少しばかりのコネと伝手を頼りにすれば何とでもなる、これは彼自身の持論であり、彼自身この組織内で「偉くなりたい」という純粋な欲のままこれまで邁進し続けてきた経験に元ずく帰結である。

そんな中、人は性悪説で説かれているような己の中にある悪性の赴くままに研鑽を続け、しかしながら本来備わっているなどと言われる四つの善性に基づいた君子足りえる存在に近づこうと躍起になっている。

それはこの財団という組織だからこそ生まれる歪みであるのかもしれないが、新垣はその矛盾の最中に置かれてしまった自分の境遇というものが心底嫌になってしまっていたのだ。

切磋琢磨と言えば聞こえはいいが、要は政治の絡んだ出世ゲームに過ぎない。そして自分はそのゲームに負け、尚且つ死地に送られるというのであるから溜まったものではない。

だが負けたからこそ見える景色というものもある。敢えてこの地点からこの組織内での勢力争いというものを俯瞰的に見てしまえば、なんと善性と悪性が争そう醜い世界であろうか。そんな情景の一部が顕となったこのたった一端の廊下を見て、彼は心底愛想が尽きてしまったのだ。

かと言って、新垣自身その世界への憧れが消えてしまった訳ではない。今も尚、己の中で蠢く出世欲が外に出ようと暴れているのがわかる。どうにか己の持てるコネを使って、これから赴くであろう末端の部署からの脱出は出来ないだろうかと脳をフル回転させている。

だが、多量のニコチンが回ってしまった脳ではそんな閃きなど起こる訳もなく、この怠惰に身を任せながら行くとこまで行こうというもが今の心境だ。

ふと、右手の腕時計を見る。ここにこもってから既に40分近くは経過していた。嘗ていた部署でこのような時間の使い方をしていたならば、職務怠慢で処罰されているだろう。

しかし、今はその心配もない。

その途方もない安堵感と喪失感を抱えたまま、新垣は喫煙室を跡にした。


新垣自身は至って効率的な思考の持ち主である。だからこそ、部署の移動に際してもこれといった苦労もなく、必要な書類系統や論文、各報告書の内容はすべてデータ化し数本のUSBメモリと一台のノートパソコンに保管している。

小脇にそれを抱えながら、これから自分の上司になるであろう人物のオフィスまでやってくる。聞いた話では、このオフィスが今後の彼が通う職場になるとのことだ。

端的に言えば、極々最小に留められた部屋に全ての機構が押し込められているのが、この霊実体の研究部門という場所なのだろう。

そんな小さなオフィスが想定できる扉の前で、新垣は鼻でため息を吐きながら襟元を正した。そして、今こうしてじっとしていても意味がないと自分に言い聞かせながら、その門戸を叩く。

「失礼します。今日からお世話になります、新垣と申します。」

本来ならば自動で横にスライドしながら開放される筈の扉が未だ沈黙を続け、かしこまった物言いに対する返事すらも聞こえない。中に誰かいるような気配もするが、一向に返事が返ってこない。

「あの、すいません。岩場博士はいらっしゃいますか?」

再度扉を叩きながら内部にいるであろう人物に対して語りかける。しかし、いつまでたっても返事がない。中に誰かがいるのは確実なのだ。何せ、先程からごそごそと物を漁っているような音がずっと聞こえているのだ。音の質からして書類系統だろうか。それとも段ボールだろうか。兎に角、紙製の何かしらを両の手で広げては戻し、また広げては戻しを繰り返している。そんな音が聞こえてくるのだ。

「あ、あの! 誰かいませんか!?」

流石の新垣もしびれを切らしたのか、語気が強みを帯びかつ扉を叩く力も増していく。もう2、3回ほど戸を叩いたが、相も変わらず誰も返事をしない。未だに中ではごそごそという音だけが続いている。

流石の新垣も苛立ちが勝ってくる。末端部署の掃きだめで、元中級研究員である自分の扱い迄雑なのか。これだから、窓際と言うのは始末に負えないのだ。そんな、決して口には出せない様な悪態を心の中で繰り返していた。

しかし、そこで新垣は1つの違和感に気が付く。先程から聞こえているごそごそという音が次第に大きくなっている気がしたのだ。というよりは、その音の発生源が自分の方へと近づいており、しまいにはそれが自身の耳元にまで迫って来てはいないだろうか、と。

扉を叩こうとしていた拳を宙に留めたままの状態で静止し、その静止した状態のまま、さっき迄扉の向こう側にあった筈の音が自分の左側に回り込み、足元をかすめ、彼の背中を介してから耳のすぐ横にまで到達している。

ごそごそ、ごそごそという音がでかくなる。いや、でかくなるだけならまだましだ。この音は、今自分の中に入ろうとしている。直感的に新垣はそれを感じ取る。まるで、音を伴った人差し指がゆっくりと、ただゆっくりと耳孔に接近している様だ。

そもそも、どうしてその様な明確な情景がこの「音」という極端に少ない情報だけで鮮明に浮かび上がってくるのだろうか。何かを広げ、何かをまとめている。その、深く考察すればするほどに殆ど意味をなさない行動を繰り返している人物を想像した時点で、何故自分は疑問すら持たなかったのだろうか。

新垣の思考は考えれば考える程に意味不明と理解不能が「判明」していく状態に陥っていく。そして、その思考の坩堝るつぼに嵌まっている間も、ごそごそと鳴る指先が彼の耳に近づいてくる。

これがこのまま、耳の中に入ってしまった場合、自分はどうなるのだろうか。分からない。この先が分からない。

分からないモノが分からないままに襲ってくる。どうすればいい。どうすればいい。

分からない。

「た、助け……。」
「どうかしましたか。」

ふと、彼の背後から聞きなれない男の声が聞こえた。途端に、先程まで感じていた違和感も、音も、体の硬直も無くなった。

「あ、あの……貴方は……」
「野呂井と言います。で、ここに何か用ですか。」

ぴちと整えられた七三の髪にレンズの面積が狭いメガネを掛けた、正に真面目と理路整然を形にしたような男が新垣の背後に立っていた。新垣自身、今の自分の現状を鑑みてその場を男に譲る形で横に身を引く。

野呂井と名乗った男は、多少の動揺を呈している新垣の様子など意にも返さずに扉に向かった。自動ドアであるその扉は何の異常も無く開き、今までの沈黙が嘘だったかのように稼働している。

「あ、あの。」
「何でしょう。」
「岩場博士は、今どこに。」
「……彼なら、今外部の実験に参加しています。彼に用事だったんですか?」
「い、いえ、あの……。今日から、この霊実体の研究部門に配属となりました新垣と申します。主任である岩場博士に挨拶をと思いまして、それで……。」

それを聞いた途端、野呂井は深いため息を吐きながら眉間を抑えた。明らかな呆れと苛立ちが見て取れる。

「……だからあれ程スケジュールの管理はしっかりしてくれと言ったのに……。何をやっているんだあの人は。全く。」

野呂井はぶつくさと岩場博士に対する悪態を呟く。そして、一通り言い終えたのか改めて新垣の方へと向き直り、今度は野呂井が彼に道を譲り中へと誘う。

「……新垣さんと言いましたか。」
「は、はい。」
「取り敢えず、中に入ってください。それと、ようこそ。我らが部門へ。」
「……はい。」

新垣は、野呂井に招かれるがまま、「岩場博士のオフィス」に入って行った。


「……以上が、この部門での主な仕事です。何か質問はありますか。」
「いえ、特には……。」

酷く山積みにされた書類。その群れに埋め尽くされたオフィス内のひと区画で、新垣は野呂井から一通りの説明を受けた。主に、都市伝説や噂話等の収集、異常現象の可能性が疑われる現場の検証、異常性発覚の場合は初期収容手順の確立、その後の研究と言った四つの内容である。

しかし、この部門での活動のほとんどは先に述べた2つの業務が主流であり、要は噂話集めと現場検証の繰り返しが大半だ。大体が異常性の認められないくたびれ儲けが関の山であり、話によれば彼らの周囲に乱立している紙束はそれらの噂がまとめられた資料、事故物件をまとめたリスト、それらの裏取り調査の報告書でかつ異常が認められなかった物の集まりであるという。

聞いていた通りの、言ってしまえば下請けの下請けの様な業務内容である。研究とはまさに名ばかりで、白衣を着ているのが馬鹿らしくなるような体制だ。

新垣はおくびにもそれを顔に出さないように努めていた。当然、部門の先輩にあたる人物に対する礼儀というものもあるが、先程の野呂井が取った態度から察するに、この男は相当神経質な性格の持ち主だと予想したからだ。下手に刺激をしても良い事は無いだろうし、表面上は真面目に業務説明を受ける事が最善である。新垣はそう思った。

全てが彼の予想した通りの始末だった。だからこそ、今の彼には真面目に何かを受け止めるという態度はあり得なかったのだ。

しかし、それとは逆行して彼自身、今のこの現状に驚いてもいた。それは新垣から見た野呂井の印象であり、几帳面で真面目、突発的に発生した新人への業務説明も卒なくこなす柔軟性、どれをとっても「優秀」という二文字が彼を表す最適の言葉であったからだ。

そんな人物がどうしてこの場末の部門なんかで働いているのだろう。それが新垣に舞い降りた最大の疑問だった。

「では、早速明日から業務開始ですのでよろしくお願いします。」
「え、明日ですか。」
「ええ。先日から気になる物件がありますので、それの現場検証に。」
「はあ……。」
「暇だと思っていた部署に仕事があって驚きですか。」
「え。」

心臓が止まったかと思った。処世術には長けていると自負していた。なのに何故。

突如自身の心境を見透かされた新垣は、真っすぐに野呂井の顔を見る事しか出来なくなった。その口は軽く開かれ、正に鳩が豆鉄砲を食らったという言葉を体現していた。

「い、いえ……そんな事は……。」
「ちょっと揶揄からかっただけですよ。本気にしないでください。冗談です。私なりの。」

言葉の内容とは裏腹に野呂井の表情は先程から一切変わっていない。本当に先程の言動は冗談なのか、将又、それ自体が嘘で何もかもが悪い冗談なのか。今の新垣には判断のしようがなかった。

「取り敢えず、今日は空いている当直室を使ってください。肝心の『主任』が今不在ですので、後日新しい貴方の自室が割り当てられると思います。」
「当直室、ですか。」
「はい。我々の部門は24時間、あらゆる情報が流れてきますのでそれを纏めるのも業務の一つです。今はほぼ自動化できてますから寝ずの番というわけではないですが、緊急時の対応が求められる場合もあります。あくまで、我々は異常性に対する財団の最前線であるという事を肝に銘じて下さい。」
「……分かりました。」
「では、行きましょうか。」

そう言うと野呂井は立ち上がり、新垣に手を差し伸べた。彼の心遣いに身を任せ、先程彼が言っていた『当直室』のある場所へと案内してもらう。その道中は壁や照明こそ財団サイト内の典型的な設備に変わりはないが、これでもかと言うほど人と遭遇しない殺風景な様相だった。嘗て新垣が努めていた物理研究部門では何時も財団の職員の行き来があり、日々異常物品に関する実験、その実験計画を練るミーティングが行われていたものだ。

それが今ではどうであろう。閑散とした廊下をたった2人で歩き、あの忙しさの中で日々互いを高め合っていた時が嘘のようだ。あの喫煙所で眺めていた同僚たちは一体どこへ消えてしまったのか。人っ子一人いないこの場所は新垣が務めていた部署と本当に地続きなのか疑わしくなる。それ程迄に、ここには人が存在しないのだ。

「ここは主に、既に研究が終わったオブジェクトの資料や無力化されたオブジェクトの報告書、先程もあの汚らしいオフィスに溢れていた異常現象の可能性がある事象を纏めた資料が保管されている区画になります。なので、そこまで常駐する職員を必要としません。新垣さんがいた部門と比べるとまるで別世界だと思いますけど、1週間もここで仕事すれば慣れますよ。」

またも新垣の心情を読み取ったかのようなタイミングで野呂井が答えた。自分が気づいていないだけで、全部口にでも出してしまっているのだろうか。新垣は自分の事の方が信じられなくなってきた。また、所々挟まれる岩場博士に対する悪態もどうも気になる。

「私達の武器はあくまで情報です。検証と実践、それから得られた情報だけが全てを解決します。」
「ええ。」
「特に、私達の扱う対象はそのきらいが強い。その為に、我々は自身の仕事に対して誇りをもって努めなければなりません。」

そんな事、言われなくても分かっている。新垣は決して口にはしなかったがそう心の中で毒づいた。この野呂井という人物が先程から続けている文句は彼自身が自分に言い聞かせているものなのではないのか。今自分が置かれている現状を慰めるための逃避手段なのではないのか。などと野呂井に対する推測を巡らせていた。

所詮、新垣にとってこの新しい職場で働く者たちなど財団内での出世コースから外れてしまった落ちこぼれだ。そんなレッテルが彼の中で確定していた。最初こそは野呂井という人物の卒のない行動や安定した態度などを見てとても優秀な人間であるという認識を持っていたが、部署や施設の説明に挟まれる己の上司に対する正直な感情を聞かされてる度に、この男が何故このような場末の部署に飛ばされたのかがよく分かった。この男は、人を立てるという事を知らないのだ。

新垣自身、前の職場での地位に昇り詰めるために様々な手を使った。自分が携わりたい研究を最終目的として、それを叶えるために数えきれないほどの人脈を作ることに躍起になった。勿論、科学者としての領分と好奇心を忘れたことはない。だが、それと同じぐらい、彼は財団の中に生まれた闘争に酔いしれていたのだ。

初めは自分が研究助手として配属された部署の博士に気に入られる事を心がけた。お茶汲みや報告書の整理、博士の望む雑用も率先してこなしていった。その間に、博士の作成していた研究論文の一部を参照する機会にも恵まれ、それを元に新たな学説の構築にも努めた。博士の後ろ盾を得ることと自身の研究テーマを確立させることを両立させ、結果、ただの助手から1人の研究員としての立場へと昇進した。

それからも彼の躍進は続いた。所属の上司にあたる博士のコンペにはいち早く参加したし、財団内に設置された学会のパーティーでも有力な研究員に取り入る事を意識した。

全ては自身の研究を円滑に進めるための環境づくりと地位の向上。論文と世渡りをこなし、それが成功した時の興奮は最早忘れることが出来ない。

そして、そんな道のりを超えてきた彼だからこそ、この野呂井という人間は自身の我を貫き過ぎたが為に出世街道から外されてしまった哀れな男として映ったのだ。

結果、新垣は既に野呂井の事を見下していた。彼の話す業務内容も、理念も、耳から耳へと抜けてしまい、顔こそ真面目を取り繕ってはいるもののその実態は全てを鼻で笑っている、そんな始末であったのだ。

「ここです。」

ほどなくして件の当直室にたどり着いた。気が付けば、先程のオフィスから歩いて20分以上は経っていた。思ったよりも歩いたなと新垣は思い、これもまた末端部署の定めかと勝手に納得した。

「では、明日はよろしくお願いします。早速で申し訳ないですが、この資料の場所へ向かいます。」

そう言うと野呂井は徐に懐からアクリルボードに止められた書類を取り出し、新垣に渡した。

「あの、これは。」
「各噂や報告されている異常現象。まあ、まだ確定していることの方が少ないのですが、先述した事象を纏めた資料です。必ず、目を通しておいてください。お願いします。」
「分かりました。」
「では、私はこれで。就寝用の支給品も部屋の中にあるので、洗顔や着替えはそれを使ってください。明日も早いのでよろしくお願いします。」
「はい。本日はありがとうございました。」
「いえ。では、私はこれで。」

野呂井は一瞥する事もなく、その場から去ろうとした。

「あ、あの。」
「……何でしょう。」

そこで、新垣は野呂井を呼び止めた。

「……岩場博士に関して何ですが……。」
「はい。」

相変わらず、野呂井の表情は一切変わらない。

「ある、噂を聞きまして。『死地送りの岩場』って呼ばれてるのは、知っていますか?」

新垣は野呂井の岩場に対する態度からして、彼も同様に上司に対して何か思うところがあるのではないかと予想した。だからこそ、聞きかじったばかりの噂を彼に投げかけたのだ。

だが、ほんの数秒後、新垣はそれを後悔した。先程迄、まるで鉄仮面の様な顔立ちだった野呂井の表情が、興奮により赤く染まっていたのだ。両目は見開かれ、皺の目立つ眉間は更に深みを増していた。

まずい。そう新垣は思った。

「あ、あの……すいません! 今のは、無かったことに……!」
「岩場博士は、貴方の思っているような人ではありませんよ。」
「え……?」
「……一体どこで何を聞いたかは分かりませんが、彼は私の知る中で一番優秀でかつ聡明な研究者の一人です。改めて、明日は早いので失礼します。」

本日の寝床となる部屋の中から彼の背中を見ていた新垣だが、空気の圧縮音と共に閉まる自動ドアによりそれは無情にも遮られてしまった。

やってしまった。

新垣は再度深いため息を吐き、酷く後悔した。

異動した部署では第一印象が肝心なのだ。それなのに、部署の先輩にあたる人間を怒らせてしまった。少人数の部門であるなら人間関係の構築は最終戦事項だ。にも関わらず、彼はその一手を間違えた。

あの変な音に襲われた事が影響しているのか、普段はしないようなミスを犯してしまった。そう言った類の後悔を彼は抱いていたのだ。

決して、野呂井の心情を気遣った訳ではないのが始末に負えない状態だった。

それもあってか、彼は早々に気を取り直し部屋の方へと意識を移していった。

中の状態と言えば、先程のオフィス内とは打って変わって大変整理整頓された区画となっていた。広さは14畳一間程で、複数のモニターが壁に設置されている。表示されている画像の内容から見て『異常現象』と称される情報が提示させているという役割だろう。壁に埋め込む形で突出している机の上にはキーボードが一つ置いてあり、。.恐らく今モニターに表示される情報を検索する際に使用するだけのものだ。

そのモニター群と対面する位置に一段床が上がった居間にあたる部分があり、施設然とした樹脂製の白い床とは違い、少し年季の入った畳が敷かれている。その畳が敷かれた区画の端っこには、昔懐かしい感じの羽毛の掛け布団と花柄の敷布団が畳まれ、周囲の無機質な情景とはそこの部分だけが有機性を帯びた物に感じられる。

新垣は大きなため息をつき、取り敢えずは自身のノートパソコンをキーボードが置かれている机に置き、重々とした動きではあるが取り敢えず居間に布団を敷いた。

そこに背中から倒れこむ様に寝転がる。

「明日は早い……か。」

ぽつりと言う。感覚的には初めて働いた学生時代のバイト前日にあたる気分だろうか。どこか現実味を感じられない、だが確実に時間が進んでいく、そんな感覚である。

二列ある蛍光灯を眺めながら、新垣の意識は次第に不鮮明にいく。

自身が横になっている右側に、恐らく先程野呂井が言っていた支給品とやらが入っているであろう襖があるが、今彼に降りかかっている睡魔へ抵抗する理由にはなりえない。渡された資料も畳の上に投げ出されたままの始末だ。

彼自身、そこまで不真面目な人間では決してない。いつもならば、渡された資料の確認を怠りはしないだろう。だが、今は無性に眠い。

そんな、曖昧になっている思考の中で、彼はさっきまでいたオフィスで起きた現象の事と、野呂井の顔を思い出していた。何処からともなく聞こえてきたあの「ごそごそ」という音。そして、野呂井が放った岩場博士に対する評価。

あれはいったい何だったんだろう。異常な音も、無能な上司を庇う有能な部下も。ダメだ。考えがまとまらない。兎に角、今は寝たい。

あれは、何だったんだ……。


当直室内にある内線用の電話がけたたましく鳴った。新垣はそれに驚かされる形で強制的に起床し、今自分が置かれている状況を確認するように周囲を齷齪と見渡した。

「……今、何時だ。」

寝ぼけた頭でまずはそれを確かめようと努める。幸いにも彼の枕元にはデジタル時計が置かれており、そこには午前の6時11分と表示されていた。

相も変わらず内線電話の呼び鈴が鳴り続け、新垣は眠たい目をこすりながら音の鳴る方へと歩みを進める。そして、寝起きのためか感覚が鈍くなっている腕の状態で受話器を取り、向こう側にいる者に対して声を掛ける。

「はい、もしもし……。」
「新垣さん。おはようございます。」
「……あの、どなたで……。」
「野呂井です。昨日ぶりですね。」
「あ。」

その名前を聞いた瞬間、新垣は昨日の出来事を鮮明にかつ高速的に思い出した。そして、このモーニングコールが掛かってきたという事が全てを物語っている事も同時に理解した。

「す、すいません! 今、支度しますんで!」
「いえ、構いません。正確な時間も言ってなかったですし、こっちも早めに連絡するつもりでしたので。お互いの準備ができ次第、出発します。待ち合わせは、昨日のオフィスで。では。」

その言葉を最後に野呂井は通話を終了させた。新垣も、ツーツーと鳴る通知音を聞くこともなく受話器を置き、準備に取り掛かる。とは言っても、乱れた服装を正して昨日野呂井から受け取った資料を手荷物にするだけであったが、多少の身だしなみぐらいはどうにかしたいのが正直な感想だった。

部屋の入り口横には簡易的な洗面所が設置されていた。新垣は急いでそこに向かい、寝ぼけた頭を覚ますために冷水で顔を洗う。

ふと、鏡で自身の顔を見る。自分でもあまり気に入っていない童顔の目元は少し赤く腫れ、熟睡できたとは言い辛い様相が見て取れる。髪も寝癖が付き、着替えずに寝てしまった弊害でワイシャツも皺が目立っている。

「……酷いな。」

思わず口から零れる。兎に角、今は急がねば。新垣は自身にそう言い聞かせ、再度顔を洗い始めた。

新垣が岩場博士のオフィス前に向かうと、既に野呂井が待機していた。

「お、遅くなりました。」
「いえ、おおむね時間通りです。では、行きましょう。」

その二三事だけを話し、野呂井はさっさと移動用の車がある区画へと歩き出した。新垣もそれに続き、2人は現場へと向かった。


「既に資料を読み込んでいるとは思いますが、現象は既に廃屋となっている邸宅にて起きていると推測されています。過去に6回、入居者による傷害事件が発生し住む人間が入れ替わっています。今では買い取りても付かず無人で、所有している不動産業者も手をこまねいているのが現状です。本日、我々は市の調査員として件の物件内の調査という名目で侵入し、本当に異常が確認されるのか、もしくはそれの原因は何なのかを探ります。凡その情報操作や偽造書類などは諜報部が既に済ませてくれていますので安心してください。」

走行中の車両の中で、野呂井は運転しながら説明を続けた。助手席に座る新垣は正面を見ながら、畏まった様に両の手を膝に乗せた状態で固まっている。

新垣は内心、野呂井の言葉を聞いてる処ではなかった。何故なら、先程から野呂井は新垣が例の資料をしっかりと確認している前提で全ての話を進めているからだ。まるで、宿題を忘れた子供の様な心境が今の彼を襲っていた。まして、昨日の自身の言動も相まって、心底居心地が悪かった。

仕事は仕事である。どの様な心情を抱いていたとしても、己を優先させるようなことはあってはならない。新垣とて腐っても財団職員の端くれである。その矜持だけは持っているにも拘らず、彼はそれを怠ってしまったのだ。

自責の念と、何故自分がこんな目にといった謂わば環境という物に責任転嫁をしたい感情が半々で彼の中で拮抗していた。

「なので、新垣さん自身にはある程度自己判断でかつ単独で内部の調査を行っていただきます。」

流石の新垣も、『単独』と言う単語だけは聞き逃さなかった。

「え、自分1人ですか?」
「フィールドワークでの調査というのは初めてだと思いますが、想定されている規模は大したことはありません。まあ、なにも観測できなければそれでも一定の成果ではありますから、あまり気負いせずに。」
「いや、でも……!」
「貴方は優秀な研究者だと聞いています。なので、私もある程度は貴方に一任します。これが岩場博士の以降でもありますので、悪しからず。」

これは昨日の当てつけか。新垣はそう思った。自分自身の失態もそうだが、この目の前にいる無表情の男も対外ではないか。そう言った、憤りの感情が次第に彼を支配していった。今にも手が出てしまいそうだ。

「ですが、1つだけ忠告をします。これだけは絶対に守ってください。」
「……え?」
「自分をしっかり持って下さい。」

憤りが止まらないに伊賀市を差し置いて、しばしの間、車両内ではこれから向かう場所で異常現象に遭遇した場合の講義が行われた。

もし、報告にあったような霊的実体およびそれに付随する現象が確認された場合、大抵は精神的ストレスを抱えている人間が優先されて標的とされる傾向にある。なので、どの様な状況に遭遇したとしても自身を保って、決してそれに飲まれてはいけないと言うのだ。

それらの解説を受けている間に、車は件の邸宅に到着した。野呂井は正面玄関のすぐ前に車を停め、早々に降車する。そして、新垣にも降りるよう促し、2人で目的の家を眺める。

その邸宅の様相は平屋一階建てではあるがそれは立派な物だった。前から見ただけで全体の広さはまだ分かっていないが、それでも左側にある池付きの庭園の事を思えばその規模は想像できるだろう。未だに手入れが行き届いているとみられる立派な松の木も植えられ、今にも高級旅館の女将が挨拶にでも出てきそうな予感さえ感じられる。

「……本当に、空き家なんですか? 偉く整えられていますけど……。」
「つい先月まで、ここには人が住んでいました。ですが、件の異常と推定される現象が原因で直ぐに売却されました。」
「廃屋と聞いていたので、もっと荒廃しているものかと……。それに、この家は……いや、家というよりは豪邸じゃないですか。」
「ええ。」

気が付くと野呂井は、家の様相に見とれている新垣を尻目に専用のゴム手袋を着用していた。それを見て新垣もそそくさと手袋を両の手にはめ始め、便宜上ではあるが野呂井の真似をする。

「では、始めていきましょう。」

その一言を皮切りに2人は邸宅の中へと入っていった。

案の定、玄関内も立派なもので広さもアパートの一室程はあった。黒い石畳もその重厚さを演出し、そこを越えれば城の中かと思うほどの理路整然とした等間隔の柱と廊下が続いている。その肝心の廊下は正面から見て真っすぐに伸び、明かりの関係かその奥の方までは視認が出来ず、ただ黒い場所があるだけとなっていた。

右側には下駄箱が備え付けられており、その上には前の住人が置いて行ったと思われる枯れた花が生けられたままの青磁の花鉢が設置されている。逃げ出すのに必死で忘れていってしまったのか、それは定かではない。

2人は一段上がる形の石段上で靴を脱ぎ、内部へと侵入していく。暫く進むと更に内部の暗さが増していき、左右にある白地の襖が唯一の光源に近い役割を担っている。が、それも通り過ぎてしまえば何とも心もとない。

床は檜の板張りだろうか。流石に多少の埃は目立つものの、それでも廃屋というにはあまりにも小奇麗にされている。今にも住人が出てきてもおかしく無い。そんな生活感がここには溢れているのだ。

「自分は奥の広間側を見てきます。」
「……はい。」

新垣は野呂井のその一言に何かしら言いたい気持ちもあったが、取り敢えずは飲み込んだ。

「昨日の資料に掲載してありました主要な異常が確認された場所を順番に回るだけで結構ですので、よろしくお願いします。」

正に、痛いところを突かれてしまった。その肝心の資料をまともに見ていないのだから何処に危険が潜んでいるかなんて分かるはずがない。いや、そもそも危険なんてあるのだろうか。それすら疑問だ。

「勿論サポートはします。もし何かあった場合は救難信号を。すぐに駆け付けます。安心してください。想定されている現象のみでしたら、既定の行動をとるだけで十分ですから。」
「……分かりました。」

ここでも新垣は己のプライドを優先してしてしまう。そして間もなく、2人は左右に分かれる形で捜索を開始した。

新垣は右側の襖を開け、すぐさま縁側を目指した。兎にも角にも、この暗がりからいち早く脱出したかったからだ。取り敢えずの明かりが欲しい。その一心で只々進み続けた。野呂井の向かった広間の方角には恐らく先程の庭園がある。あちら側に向かえばよかったという後悔が今になって襲ってくる。

新垣は暫くの間、目に付く襖や扉を手当たり次第に開けていった。1枚1枚を開けていく度に暗がりは深くなり、かと思えば窓がはめ込まれている区画へと差し掛かれば多少なりとも明るくはなった。しかしそこにたどり着いたは良いものの結局は何も変わりはなく、纏わりつくような薄暗さは継続されるに留まるのだ。

それにしてもこの家は広い。各部屋が壁1枚襖1枚で隔てられているのみで、目立った廊下等は先程の奥まで続く正面の箇所しか思い出せない。新垣は今開けた扉の先にある部屋で合計6つ目の区画に到達していた。恐らく、この場所は台所だ。

玄関周りの部屋の大半は畳の和室だが、一部リホームがされた箇所もあるようで洋式の間取りも幾つか見られた。今入った台所周りは最近のIH仕様に置き換えられ、ここにも改築の痕跡が見て取れる。

この前まで住んでいた人々の残滓とでも言うのだろうか、家具や食器、料理器具に至るまでそのままで置いてある。キッチンと食事場所を兼ねている区画には机と向かうあう形で並べられた2脚づつの椅子があり、恐らく嘗ては4人程の家族がここを利用していたのだろう。食器棚の中にも色違いのマグカップが並べられ、ピンクと赤、青と緑の配色から、父母と兄妹、もしくは姉弟の仲睦まじい家庭の様子が思い起こされる。

そんな家族がこの家から逃げ出した。その事実が、先程から続くこの薄暗さと合わせて新垣の頭にちらつく。家屋内と言えば相も変わらずで、障子越しや昭和ガラスから漏れる光のみが周囲を照らす物だ。

円満な家族の様子に思いをはせていた新垣ではあるが、この妙に残留している人の痕跡がどことなく不気味に思え、思わず目を逸らしてしまう。彼はその区画を後にし、次の部屋へと向かった。

丸いノブを捻るタイプの扉を開け、玄関周りとは違う少し狭めの廊下に出る。正に深淵と言うべきか、最早ここは闇の中だ。しかし、そんな中でそれを挟んだ向かいの襖に目が留まり、それの原因がほんの少し空いていた事による漏れ日であることが分かる。新垣はそれが気になり、少し控えめながらもそこに近づいて行った。

まるで誘蛾灯に誘われる虫のようだと新垣自身自は虐気味に思った。そして、中途半端に開けられた襖に手を掛けながらふとある事が頭をよぎった。

何故、ここは全部が全部閉め切られていたのだろうか。あれだけ人がいた痕跡が残されていたにも関わらず、襖や扉だけは全てきっちり閉じられていた。誰かがこの場から逃げ出したのならば、丁寧に扉など閉めていく律儀なことをしていくだろうか。

であるならば、今正に開け放とうとしているこの区画は一体何なんだろうか。ここだけ、何故開いていたのだろうか。

罠。

そんなワードがぽっと湧き出た。それにより、力を入れていた筈の片手が硬直する。

「……いや、まさかな……。」

思わず言葉に出し、改めてそこを開けようと試みる。

ごそごそ。

しかし、新垣の行動は再度阻まれ、先程よりも強い全身の硬直を覚えた。

ごそごそ。

前に聞いたあの音が、今、彼の背後から聞こえてくるのだ。この前聞いた時と同じく、いや、それよりも鮮明に彼の耳にそれが届いてくる。

ごそごそ。

新垣は、あまりの想定外な事象にそもそもの思考が追いつかない状況に陥った。そも、何故財団サイト内で聞こえたあの音が今この場で聞こえてくるのか。そも、この音は一体何なのか。

現状と現象に辻褄が合わない。何処に関連性があったというのだろうか。何故。何故。何故。いや、それよりも、今自分が取るべき行動は一体何だ。何をすれば良い。

考えろ考えろ考えろ。

そう自分に良い聞かせ、何とか自分の中の焦りを鎮めようと躍起になる。しかし例のあの音は決して止まる事はなく、前回と同じように段々と新垣の耳元へと近づいている。

それに相まって、今回は別の音も合わさって聞こえてきている。しわがれた老人の声。それが、例のごそごそした音と共に彼に近づいてくるのだ。

「ドコだ……ドコだ……。」

新垣にとっての選択肢は最早前に進むしか残されてはいない。自身の背後に存在する何かから逃れるルートなどそれしか残されていない。だが、彼の手と足は恐怖のあまり竦んでしまい動くことがない。

恐怖。死。

財団職員としての覚悟。それを持ち合わせていない訳では決してないが、それを自身の肌で直接感じることは今まで一度もなかった。誰かが死ぬ。機動部隊が壊滅した。資料では知っている。

だが、自分が死ぬ? 今? 自分が? そんなのあり得ない。あり得て良い訳がない。何で、何で自分が死ななければいけないのか。この部署にさえ来なければ。異動にさえならなければ。何で。どうして……!

「ドコだ……!」

新垣の耳元で声がした。思わず、彼は目の前の襖を勢いよく開けた。その勢いのまま転がり込む様に部屋の中に入り、すぐさま彼は自身の背後に視線を移した。尻餅をつきながら、壁際迄後ずさる。

そこには開け放たれた襖とその先にある、先程通ってきた台所の様子が見えた。

あれは気のせいだったのか。いや、そんな筈はない。確実に、老人の声を聞いた。だが自分の背後にいたであろう存在はそこにはおらず、あたりは以前のままの静寂に包まれているのみであった。

「……な、何だっていうんだ。」

一旦落ち着いたのか、新垣は周囲を確認した。広さは4畳半程。彼から見て左側には押し入れと思わしき所と、右側には床の間、仏壇が設置されていた。ほかの部屋とは変わって窓から差し込む光が強いのか、心地の良い日の光が部屋を満たしている。

新垣はふと、その窓から外を見てみた。そこには玄関側から見ていた庭園とは別の中庭が存在し、大岩と枯山水、青く生した苔が見事に映えている。

そして、その中庭の真ん中でかの野呂井が頻りにメモを取りながら周囲を観察している。

職務に忠実であれ。その様な言葉を体現した様な立ち姿に、新垣自身どこかで心がざわついた。まるで、野呂井が彼に自分の仕事ぶりを見せつけているかの様な錯覚に陥る。決して野呂井自身がそうしている訳では無いのだが、今の新垣の心理状況がそう言う感情へと誘導していくのだろう。

何故、自分があのような目に合わなければならなかったのか。そして、何故彼は何の被害も受けていないのか。あまりに不公平である。

自分は、あいつの様な財団内の落ちこぼれとは違う。

新垣は、この自身の心境の起伏に些か疑問を覚えた。この部署に異動になったたったの1日ではあるが、明らかに自分自身の感情の乖離を認識した。特に、この家に来てからそれが顕著に表れている。

彼自身、自分が善良な人間であるなど到底思っていない。しかし、ここまで他人と見下し、憎悪すること等あっただろうか。昨日のわだかまりがあるにしても、ほぼ初対面の人間に対して大きな感情を抱くはずがない。

「……疲れているのかな。自分。」

再度、気を取り直し、本来の職務へと戻る。が、そう思い立った瞬間にふと足元に何かが落ちているのに気が付いた。

「判子?」

そこには木製の角判子が落ちており、黒木でかつ漆で設えられた物がぽつんと畳の上に存在していた。いつ、どのタイミングでそれがここにあったかなど新垣は分からなかったが、確実にそれは実体をもって存在していた。

新垣はそれを自然な動作で拾い上げ、改めて確認した。

シンプルな造りではあるが、手触りや漆のきめ細やかさ、塗り重ねられた事による深く艶のある黒色はどこか吸い込まれそうな魅力がある。

新垣は、それを財団職員としての職務の一環が半分、もう半分は純粋にその判子を欲する気持ちで回収した。

まただ。また、自分の感情と、現状が乖離していく。

新垣はその疑問を抱きつつも、職務を継続しようと心に決めた。


「今日はお疲れさまでした。」

車両が発進してから数分経ち、野呂井が口を開いた。

「ええ、まあ。」
「想定以上の場所でした。観測できただけでも複数の霊実体の出現、空間のループ、幻覚、幻聴、感情の誘導や干渉、それに合わせた霊実体との同調もありました。」
「……は?」

淡々と話を続けている野呂井に反して、新垣自身はそれをうまく理解出来ていなかった。

「全ての扉や襖が閉じられていました。あれは、場所に発生する現状の典型的な前兆です。空間という物は不思議なもので、隔離された瞬間に観測されるその時は迄そこはこの世とは異なるに世界となる、と仮定されています。あの家屋は外見上は大きな家の様相を呈していますが、実際の総面積はただの一軒家の筈です。にも拘らず、あの家の中には存在しない筈の中庭もあり、最新の家具まで備わっていました。」

最新の家具という単語を聞いた途端、新垣が内部で確認したIHキッチンの事が思い出された。それに付け加え、存在しない筈の中庭。自分は、一体何処にいたのだろうか。どうして、無事に戻ることが出来たのだろうか。その様な疑問で頭がいっぱいになった。

あの時、中庭で見ていた彼の姿はその様な現象に遭遇している素振りなど全く見せず、しかも彼はそれを掻い潜ったうえで内部の調査を実施していたと言うのだろうか。あの頻りに取っていたメモが、一瞬にして何もかもを超越した特殊な技能に見えて来たのは隠しようもない。

「恐らく、あの家屋内で自動生成された部屋か、嘗て存在した部屋の名残でしょう。あそこに捕らわれてしまえば、一生出る事は出来ない。そう言う類の場所であったと思います。」

ぞっとする事実が次から次へと野呂井の口から語られる。いままで、自分がどういう場所にいたのか。無事に帰って来れたのが正に奇跡ではないか。下手をすれば、あの場で自分は永遠にさまよい続けていたのではないか。そう言った最悪の結末が彼の脳裏を駆け巡る。

「ですが、貴方のおかけでその対処法を見付けることが出来ました。ある程度想定の範囲内ではありましたが。」
「え。」
「日の光ですよ。貴方が真っ先に向かった場所。玄関周りの部分はまだ空間のループは深くない。その段階で外界との隣接された場所を選んでいけばある程度の空間のループを抑制できる。……新垣さん。」
「は、はい。」
「よく、私が渡した資料を読み込んでくれました。お陰で、ある一定の成果は得られました。」
「あ、あの……」
「ある意味、テストも兼ねていましたからね。万が一の事があれば、私が助け出す予定でしたので。正確な状況把握と、検証実験で得られた結果の実践、申し分ありません。」

新垣はその時点で何も言えなくなっていた。それに付け加え、何を言っていいのかも浮かんでこなかった。微かに、自ずと握っていた拳が震える。

目の前に死があった。今生きているのはただの運だ。それが確信に変わった瞬間に、何もかもの恐怖心がふつふつと沸き起こってきた。現在も継続している己の生命活動に対する過度な自信が、全て虚偽であったと突きつけられたのだ。

「明日、改めてそれぞれの調査結果を纏めて報告書としてサイト管理部門に提出します。今日は疲れたでしょうから、一旦休んで英気を養ってください。お疲れ様です。」

当初の無愛想な態度とは打って変わって、丁寧に気遣う野呂井の態度に戸惑いながらも、新垣はか細い声で返事をした。

「……本来なら、岩場博士と私の仕事だったはずなんですがね。全部含めて。……何で私があの人の失態のフォローをする破目に。事前の打ち合わせで決めていたとはいえ、全部私がしなければならないなんて……。挙句、あのミーティングが全部無駄になって……本当にあの人は……。」

その会話を最後に、2人の間にはそれ以上の会話はなくなり、野呂井は岩場に対する悪態のみを漏らし続けた。

「あ、それと。」

が、野呂井が何かを思い出し、咄嗟に再度新垣に対して会話をつづけた。

「先程、貴方が回収した判子。きっと、今回の異常に関連のある物品だと予想されます。貴方はそれに関わっている。今日は、念のためこちらで指定した宿直室で休んでください。万が一に備えてです。」
「……分かりました。」


ここに異動になってから2度目の施設内就寝となった。部屋の規模は前日の当直室とは打って変わり備え付けのベッドが一台入ると一杯になる程度の広さしかない。謂わば平均的なビジネスホテルの1室程度である。備え付けられている浴室もシャワーのみで、ここで常態的に生活するのは正直ごめん被りたいと新垣は思った。そんな程度の部屋だ。

新垣はベッドの上に腰かけながらどうにも寝付けないでいた。この狭い部屋の中に閉じ込められているような状況で、午前中に聞いた『部屋』の特性に関する話が脳内でリピートされていたからだ。

ならば今いるこの部屋の空間的実存性はどの一体程度なのか。本当に、この空間が自分が日頃生きている世界と同一的存在であると言う保証は何処にあるのだろうか。そんな疑問が未解決のまま提示され続けている。

と言うよりも、またあの音が聞こえてくるのではないのだろうかという不安の方が彼の眠りを妨げていたのだ。あの建物内で生き残って無事に出てこれた事自体がある種の奇跡に近いのであって、理屈などは分からないが新垣自身の中であの異常現象との縁が切れたようには到底思えなかったのだ。

そもそも、この部署に移動になった時点で不可思議な事が立て続けに起きていたのだ。例のあの音に始まり、その次は老人の声。最後は、自身が見つけたあの漆の判子である。

彼の取ったありとあらゆる行動が、それらの結果に帰結していた。まるで誘われていたようにあの家に行くことになり、今もなお頭から離れない。明確な証拠と結果がある訳ではないが、何処無く感じる胸騒ぎがその様な予感を想起させ、進み続ける深夜に向かう時計の針に内心怯えている現状なのだ。

新垣自身、それも相まって心底後悔していた。自分の出世と関わりの無い末端部署に飛ばされた事にではなく、その様に感じていた部署に移動になったからと言って財団職員としての職務に不備を起こしてしまった事に対してだ。

正直な感想、新垣は現場での仕事という物を嘗めた目線で捉えていた。所詮は噂話程度の大した事のない話題の掃きだめ。それの処理を書類作成の名義上行っていくだけの窓際部署程度にしか思っていなかったのだ。勿論、新垣自身も研究に参加するうえで様々な異常現象を目の当たりにしてきたつもりだ。だが、それは所詮安全圏からの観測でしかなく、あのDクラス職員の様に自身の体験としてそれを享受することなど決して無かったのだ。

そんな中で、あの野呂井という男は冷静な判断で対処し、異常現象の記録と言う己に課せられた職務を不備なく全うした。昨日の野呂井が言った、「我々が財団の最前線である。」という言葉の意味が今、ようやく理解できたような気がした。

それに引き換え自分はどうだ。オブジェクトになりえる現象の事前資料にも目を通さず、危険など全く理解しないで火中に飛び込み、情けなく転げまわったかと思えばただの運だけで生き残ってしまった。運も実力の内などという言葉も存在するが、そんな物、今の自分には当てはまらない。回避できた筈の危険を犯し、今もなお情けなくも生きている。そして、生きているからこそ、あの時、あの場所で、もし。等と言う想像が出来てしまい、結果としてそれが後悔に繋がっているのだ。

楽観主義の人間が羨ましい。いや、そんな人間だとて、これには後悔を抱くだろう。

新垣の心情は現在進行形で、後悔から酷い自己嫌悪へと移り変わっていた。その気持ちの志都美に比例してか、首を垂れながら頭を抱える。

「……俺は、何を……。」

ふと、新垣は視線を上げ、昨日渡された例の資料を見た。今更中身を見たとて意味があるのかは分からないが、せめて今のこの現状の収まりぐらいは付くだろう。そう思い、昨日は一瞥すらしなかったそれに手を伸ばした。

「……旧大塚家邸宅。明治時代から続く銘家の邸宅であり、土地の有力者であった初代大塚家当主、大塚幸之助から続く由緒ある血族である。」

元々は地元のしがない農家であったが、明治以降の廃藩置県を皮切りに独自で農業組合を発足し農地改革を実施、並行して海外からの産業も積極的に取り入れる事で地域の発展に多大な貢献を行った人物。初代大塚幸之助が残した偉業は数知れず、たった一代で大塚の名を確固たる物に作り上げた。そんな内容が冒頭部分に書かれていた。

それを読み、新垣自身も納得がいった。あれ程の立派な邸宅だ。有力な人間の所有物でない訳がない。どことなく感じた格式高いあの空気にも説明が付く。

しかし、そこからの展開は凄惨なものだった。

「だが、初代当主が他界後、大塚家の名声は後退の一途をたどる……。理由としては、当主を息子に譲った段階で起きた地域産業における急な経営方針の変更が1つの原因であり、その影響で大塚家を信奉していた人間の大半を失ったと推測されている。また、2代目当主にはその他にも6人の兄弟がおり、初代当主の容体が急変する直前まで熾烈な跡取り争いが絶えず、その際に行われた賄賂や癒着等が各産業、農地、地元の行政府の運営に大きな影響を与え、一部の家では運営が困難な常態にまで追い詰められたケースもあったという。これも相まって地域住民の大塚家に対する評価は当初の物からはかけ離れ、増悪すら抱く家筋も現れたという……。」

莫大な財産、由緒ある家柄の当主と言う肩書、名声。それらを追い求め、争い、周囲の人間をも巻き込んでそれが拡大していく。話だけを聞けば何処にでもある後継者争いではあるが、今の新垣にとってはまるで彼自身がそれの当事者であったかの様な感覚に襲われた。

結局、大塚家の兄弟争いはそれからも続いた。2代目当主を勝ち取った長男は、その6年後に原因不明の死を遂げている。そして、それと同じようなタイミングで長男の息子も急死し、結果、三女の息子が3代目の大塚家当主を襲名する。しかし、その3年後、またしても当主が急死。それから約12年間、当主の交代と死を繰り返しながら、大塚家は途絶えてしまったという。

「……結果、家は売りに出され、しかし、確認された異常によりその住民も逃げ出す。……6件の傷害事件を起こし、完全な訳あり物件として今もなおあそこに存在し続けている……。」

新垣は、昨日読んでいるはずだった資料の内容を大まかに理解し、そっとそれを机の上に戻した。

何とも言えぬ気持ちで、新垣は只々壁を見つめる。

出世。金。名声。それらを追い求め、同じ血筋同士で醜い争いを続ける。それを手に入れるためなら手段も厭わず、明記こそされてはいないものの、きっと人殺しですら簡単にしてしまう。

この財団と言う組織の中で、人の死という物はある種日常茶飯事ではある。だが、それらが新垣達の耳に届く頃にはそれらはただの数値としてのみ観測され、あった筈の人の痕跡など忘れ去られてしまう。その研究員には家族がいた。結婚を約束していた恋人がいた。守りたい仲間がいた。またはどす黒い恨みや怒りの感情があった。そんな、血の通っていたはずの情報も、結果として100人が死んだ、200人が死んだ、黒塗りにされた文字にすら起こされない人数が死んだ、ただそれだけの情報として流れてくるのみなのだ。

だが、新垣はあの現場に赴き、今、それの原因かもしれない惨状を改めて読み込んだ。そして、その当時の彼らはどの様な気持ちで争い、死んでいったのかを想像した。きっと、壮絶な悲劇がそこにはあり、様々な人間の感情が蠢き合っていた筈である。それを、改めて認識したのだ。

新垣は一旦瞳を閉じ、鼻で深く深呼吸する。瞼の裏に、あの家の様相が浮かび上がる。

「……今も、あの家では……。」

そう、新垣がつぶやいた瞬間、壮大な爆発音と共にまるで地面が下から叩きつけられたかの様な振動が発生し、吹き飛ばされるような形で床に投げ出された。

「な、何が……!?」

気が付くとそこは、彼が今までいた宿直室では決してなく、先程瞼の裏で思い描いていた例の家屋内にある部屋となっていた。


新垣は酷く混乱する。何故。どうして。先程迄、財団のサイト内にいたじゃないか。あまりにも不条理な状況に対して正確な反応を取ることが出来ない。

「何で……! 何で!」

最早、そんな言葉しか今の彼は発することが出来なかった。理解が追いつかず、只々、無茶苦茶な現状を叩きつけられる。

「か、考えろ……考えろ……! まずは、現状の把握を……!」

そう自分自身に言い聞かせ、新垣は周囲を確認する。中の様子は14畳1間の部屋で、四方八方が襖で囲まれている。窓は一切なく、これと言った家具も、今もなおぼんやりとした明かりを揺らしている行燈ぐらいしか置かれていない。畳の敷かれた和室の部屋である事は分かるが、あまりの暗さにその正確な見た目ははっきりとはしない。

新垣は、取り敢えず自身の背広にある携帯電話を取り出し、急いでライト機能を起動した。我ながら、こういった通信端末を懐に入れていたのは見事だと内心思う。そして、ここでもまたただの幸運に救われるのかと自虐的な気持ちに襲われる。

取り敢えずは状況を一個一個整理しなければならない。まず、この四方八方を囲っている襖の状態から鑑みるに、ここが野呂井の言っていた「空間のループ」が起きる場所だろう。恐らくではあるが、ここから無闇に動き回ったとて出られる訳ではない筈だ。

しかし、だからと言ってこの場所でじっとしている訳にはいかない。何故なら、この場所と関連があるであろうあの声の主がいつ何時現れないとも限らないからだ。新垣はそれが気になって仕方がなかった。明らかな敵対存在の有無が、自身が生存する可能性を極限まで下方させているからだ。

兎に角、対処法を模索しなければ。新垣は午前中の調査で得た情報を基にプランを構築する。

「……光…。日の光。」

あの時の幸運な自分の行動を思い出し、ではそれを目指せばいいのでは、と結論付ける。

「いや、でも……これじゃ、何処が外側なんて……。」

今なお、自分がどこのどの方角に位置しているか定かではないのだ。元より、外を目指しようがない。

だが、ここままでは埒が明かない。取り敢えず、新垣は部屋の一部を開けてみる事にした。

開けた先には、恐らく和式の寝室と思われる区画があった。広さは最初の部屋と同じぐらいで、ちょうど真ん中に布団が一枚引かれている。だが、周囲の構造は残念な事に襖と1枚の壁しかない。窓や障子の類は何処にもないのだ。

新垣は一旦、開け放った新たな区画へと足を踏み入れた。勿論、自分が出た部屋の襖は閉じずにだ。閉ざした瞬間、きっとループが再開しまた別のタイプの部屋が出現するのだろう。以前、拝読したオブジェクトの報告書でも似たような異常性を有した物の存在は知っている。自身の持っている知識を今使わずして何時使うのか。そんな事を思いつつ、頭を常に何かを考えている常態にさせる。

ここでも、野呂井の言葉が思い出される。「自分を持ってください。」

そうだ。自分を持つのだ。飲まれたら終わりだ。

そう自身を奮い立たせている最中、何処かから、例のあの音が聞こえてきた。

ごそごそ、ごそごそ。

新垣は、とうとう来たか、と身構える。

「ドコだ……ドコだ……。」

またしても、あの時に聞いた老人の声だ。丁度、閉ざされている方の襖の向こう側から聞こえる。どうする。どう対抗する。

「ない……ドコにも、ない……。」

例の声が話し続ける。それに合わせて、いつもの何かを搔き分ける様な音も聞こえている。

新垣は、自然と後ろに下がりつつ、声のする側から離れるように動いていた。なるべく奴から距離を取り、不測の事態にも対処できる様に努める。

「あれがあれば……あれさえあれば、私が……俺が……あたしが……。」

声が移動している。新垣は壁を背にしながら、ゆっくりと後退する。決して奴のいる方向からは目を逸らさずに、最終目標としては壁と自身の背中が合わさるように持っていく。

「私が……俺が……あたしが……僕が……わしが……。」

奴の一人称は安定せず、一言毎に変化している。そんな中、新垣は改めて対象の声に耳を傾けることが出来たためか、ある程度の詳細な声色の部分が分かるようになってきた。先程から老人の物であるとしていた声ではあるが、よくよく聞いてみれば、どこかエコーの掛かったような独特の響きがあるのだ。まるで、複数の音が重なり合って、今の声が形成されている様な、そんなノイズである。

「……返せ……あれを返せ。……あれは、私の物だ。」

新垣は等々、壁側へと到達する。これでどの襖から奴が入って来ようとも、咄嗟に左右へと避ける事が可能になる。ここで、新垣は耳に神経を集中させる。現在、奴のいる場所を特定できるのはあの音だけだ。

「返せ……。返せ……!」

奴の語気が強くなる。どこからやって来る。

「返せ!!」

新垣は驚愕する。恐らく、10人は下らないであろう怒号が、自身の背後から聞こえたのだ。そして、彼は思わず振り返る。驚いた拍子に前に飛び出てしまい、四つん這いの様な体勢にはなるが、それでも声のした方へと視線が動いてしまったのだ。

そして、彼はそれを直ぐに後悔する。今まで抑え込んできた物が己の口から悲鳴となって漏れ出す。

そこには、人、人、人、何十人もの人間が1つの塊になっている異形がいたのだ。黒く変色した体液を垂れ流しながら、腕や足がそれぞれあらぬ方向にひん曲がっているその肉の塊に、真っすぐに自分を見つめている何人もの顔が埋め込まれている。全員の眼球はなく、黒色でかつ粘着いた液体を涙のように流している。

新垣は今までの計画など既に忘却の彼方へと投げうってしまい、ただ、目の前の襖に向かって走り出す。調査の時から胸の中に押し殺してきた恐怖は最早とめどなく新垣の心を支配し、言語にすら到達していない叫びとなってに消費される。

ほぼ畳と平行になる位の前かがみな体勢で走り出し、眼前の襖を破壊しながらなおも前進する。半ば腰が抜けているにも拘らず、彼自身の生存本能が無理やり体を動かしている状態だ。

脈拍があからさまに早くなる。しかし、それとは逆行して全身の血の気は引いていき、冷たい汗が体中から噴き出る。

何が調査だ。何が財団だ。もう何もかもどうでもいい。死にたくない。死にたくない。死にたくない。

助けて。誰か助けて。

ピリリリリリリリリリリ。

突如、新垣が握りしめていた携帯の着信音が鳴り響いた。そして、同時にその場は強烈な破裂音と共に起こった閃光に包まれた。

ほんの数秒経ったであろうか。漸く視界が安定してきたところで、やっと自身が置かれている状況が分かるようになった。先程自分に襲い掛かろうとしてきた異形の姿はどこにも無く、新垣が破壊した痕跡のみが残されていた。

今なお、彼の携帯電話は鳴らし続け通話を待っている。

「も、もしもし……。」

新垣は恐る恐るではあるが携帯を手に取り、向こう側にいるであろう存在に語りかける。このような状況である。電話の向こう側が必ずしも人とは限らない。しかし、今の現状を打開するには兎に角何かしらの変化を与えなければならないという結論に至り、新垣は電話に出たのだ。

「ああ! 良かった通じた!」
「あ、あの……どなたですか?」
「そうか、まだ挨拶もしていなかったな。やあ、初めまして。私は岩場。霊実体研究部門主任の岩場だ。」


「野呂井君から報告を受けてね。何とか連絡がとれてよかった。」
「の、野呂井さんが?」
「ああ。君の様子がどうも気になると言っていてね。彼の独断で、家じゅうの至る所に閃光弾を設置したらしい。黙っていて悪かったが、下手に異常存在に勘ぐられて縁を結んでしまったら全員が異常に巻き込まれてしまうからね。それを避けるために敢えて君には詳細な情報共有を断っていたんだ。」
「縁、ですか?」
「不思議なものでね。こういった領域内に対象を誘い込む存在というのは人との縁によってを網を張る。それが深ければ深い程、現実世界での影響が大きくなる。特に君は、この家との相性が相当に良かったらしいね。思い当たる節が、いくつかあるんじゃないのかな。」

先程起こった光の原因が分かり、半分ではあるが納得がいった。だが、突拍子の無い話の展開も相まって、一部は確信の持てない状態なのが現状だ。

「でも、何故……。」
「この家の異常という物は外界と内界という定義に依存している。ここまでは分かるかね。」
「……ええ、まあ。」
「この家屋内部に存在する敵対存在は自身の領域内に獲物を誘う事によって攻撃を行う。君の状況からもそれは想定済みだし、その上で万が一その敵対存在との縁が結ばれてしまった場合の対処法は1つ、内界の一部を一時的に外界に近い状態に持っていけばいい。逆を言えば、あれは家の中でこそ主導権を握れるが外では何も出来ないからだ。君と言う本来は外界にいる存在と、この薄暗い家屋内とは異なる外界を象徴する光を与えること。それが条件だ。」
「……まるで、頓智ですね。」
「そんなものだ。特定のルールの上のみで存在が許されている実体はそれに準じた規範上で一部の行動が制限される。それが私達が検証してきた研究で得られた成果であり、あれらとの戦いで得られた英知だ。」
「……け、研究? 戦いって……。」
「ああ。幾度となく検証と実践を繰り返してきた。幾度となく死地を見て回り、現象の膨大なデータを集め、証明してきた。それが、私のやり方だ。」

その岩場の言葉を聞き、新垣は一瞬手を止めた。

「……その、検証と言うのは、Dクラスを起用した実験という事でしょうか。」
「それもあるが、半々と言ったところだな。まあ、私が現場で試してきた事の方が多い気もするがね。今、君に書いて貰っているのもそれの一環だ。」
「……なるほど。」

新垣は、岩場から送られてきた画像を元に自身のメモ用紙にとある記号を書いていた。基本は左右対称ではあるが、遠目で観れば漢字にも見える様な模様だ。

「……これは、札ですか。」
「そうとも言うな。だが、半分は私のオリジナルの様な物だ。何故、古来の日本から伝わっている魔よけの札、そういう物が存在するのか、それは単なる迷信なのか、それを解き明かしたくて検証実験を繰り返してきた。既存の札の中から、原理は分からないが霊実体に対して一定の効果を示した記号の組み合わせをリスト化し、それを実践するそれの繰り返しで得られた物の結果だ。主に、札の役割は霊実体からの認識阻害を目的とした物が大半だが、この中では恐らく時間稼ぎにしかならないだろう。」

岩場の話が終わる頃、新垣手製の札も完成した。そして、それを今いる区画の四隅に張り付け、所謂結界を作る。

「さて、それで、さっき言ってた準備も終わってるかな?」
「は、はい。……けど、このままじゃ自分の方がやられそうです。」
「すまんがもう少し辛抱してくれ。最近じゃファブリーズも効果があると聞くが、まだ試してないんだ。もし生きて帰れたら、今度はその実証実験をやってみよう。そう思うと、都市伝説も馬鹿には出来ないだろ?」
「……ええ、そうですね。」

全ての札を張り終えた新垣は、ハンカチで口を押えながら姿勢を低くした。何故なら、今彼がいる部屋の仲は白い煙で充満しており、丁度部屋の真ん中で未だに煌々と燃えながら白煙を生み出し続けている煙草の束があるからだ。部屋に置かれていた書き物机の引き出しを引っ張り出し、それの中で煙草を燃やしている。

「そろそろ、奴も復活してくる頃だろう。なんとかここまでの準備をする時間稼ぎができた。……さて、ここであの札の効果だが、結論から言えば相手の侵入を防ぐ、と言うよりはこの閉ざされた区画の所有者を再定義すると言う効力がある。先程も言ったように、自身の領域に人間を連れ込むタイプの怪異は逆を言えば自身の領域外においては全くの無力だ。だからこそ、奴らは人との縁を結び、自分と関連のある物であると世界に対して欺く。」
「……それが、あれがここに入って来れなくなる理由ですか。」
「ああ。だが、それは諸刃の剣でもある。この家は謂わば奴の体内も同然だ。そんな中に突然外界と同様の代物が生まれたとあっては、奴とてそれを異物として排除しなければならない。ある種の人体における免疫機能、そして君はあれが存在するための食材であり今はその消化の真っ最中と言ったところだ。だからこそ、今はこの区画が大きな囮となる。奴は何としてでもその空間を消滅させようと躍起になる筈だ。」

部屋の外で、おびただしい数の足音が響き始める。そして同じだけの人数が四方の襖を勢いよく叩き、今にも人の波が押し寄せんばかりに気迫を感じさせる。

「そして、その部屋は言ってしまえば一種の爆弾だ。彼らが嫌う煙が充満した部屋を一気に解き放った瞬間、この家の定義ごと揺らぐだろう。この部屋を消滅させようと周辺の空間の実存性を落とし、水の浸透圧を変えるようにその空間を融解させる。現実改変のヒューム値の流れを想像してくれればいい。それが奴らのやり方だ。だが、その結果煙がさらにこの家じゅうを駆け巡り、予想では家の輪郭自体が歪む筈だ。」

何十人、いや、何百人だろうか。皆が皆、頻りに「返せ。」「私の物だ。」と喚きながら侵入を試みようとしている。心なしか、次第に部屋の面積が減って行っている様にも思える。

「そこで、もう一つ野呂井君が残してくれた仕掛けを使う。空間の輪郭が曖昧になった瞬間、君には全力で鏡を探してほしいんだ。鏡の存在は内界と外界を繋ぐ道の様なものだ。特に、実存性が曖昧になった瞬間は脱出の糸口となる。新垣君。そこが君の正念場だ。全力で、走り切ってくれたまえ。」

四隅に張った札の方から何か焦げ臭い匂いが漂ってくる。遠目ではあるが、どういうわけか札の端っこに突如火が付き燃えだしているのだ。それを皮切りに、より一層部屋の外の喧噪が激しくなる。強行突破を試みようする強打も力を増し、最早、時間の問題だろう。今にも、壁が破られる。

「新垣君。健闘を祈る。そして、自分を信じなさい。それが奴にとっての最大の武器となる。さあ。走れ!」

襖が破壊される。無数の青白い手が伸び、新垣を掴もうとする。が、その瞬間部屋中に充満していた煙が、まるで巨大な換気扇に吸い込まれていくような勢いで周辺へと散っていく。それと同時に、周りからは強大でかつ悲痛に叫び声が鳴り響き、家全体が大きく振動し始める。

新垣は腕と腕の隙間から見える向こう側に、ちらっと光る何かを見つける。周囲の様子も急にどこが朧気で、まるで黒い靄が掛かった様に変異している。

新垣は携帯端末を握っている手をより強くし、そのまま全力をもって走り出す。夥しい数の腕の林を掻い潜り、どこか上なのか下なのかも分からない靄の中を只々走り続ける。

目標はあの光。外へ通じる鏡のみ。

もう少し。もう少しだ。あともう少し手を伸ばせば届く。外に出られる。

心臓がはち切れる程に鳴る。これで、これで。

だが突如、新垣は前のめりになりながら倒れる。白い腕の一本が彼の左足を掴んだのだ。

何で。どうして。あと、あと少しなのに!

一瞬にして希望が絶望に塗り替えられていく。あと、ほんの数センチ。

「新垣君!!」

前方から声が聞こえる。それと同時に、携帯端末からも同じような声が聞こえ、同一人物の声にエコーがかかって新垣の耳に届く。

「手を伸ばせ!!」

目の前の手鏡から男の物と思われる腕が発生している。明らかに通り抜けられる訳がないのに、さも当たり前のように手鏡の鏡面から人の腕が伸びているのだ。

新垣は居ても立ってもいられず、その腕を両手で掴む。まるで許しを請うように両の手で男の腕に縋りつき、思わず嗚咽と共に涙が出る。

「引くぞ!!」

ぐっと、男の腕に力が入る。新垣も、決して離すまいと力を入れる。

そして、目の前が真っ白な光に包まれる。


気が付くと新垣の眼前には見慣れた白い天井と三列に並んだ蛍光灯が置かれていた。いや、正確には新垣自身が横のなっている状態であり、決して世界が動転してしまったわけではない。

よく周囲を確認してみれば彼自身は今、白いシーツの敷かれたベッドで横になっている状態であり、身に付けているものも患者用の衣服に置き換わっている。

「やあ、目が覚めたね新垣君。本当に、お疲れ様。」

左の方から男の声がした。新垣はゆっくりと首をその方へと向け、声の主を確認する。そこには、白髪が混じったぼさぼさの髪と無精ひげを残した冴えない顔の男が居た。この部屋の備え付けられている物なのか、パイプ椅子に軽く腰かけている。

「……あの、貴方が……。」
「顔合わせがこんな形で申し訳ないね。私が岩場だ。」
「……ここは。」
「サイトの医療施設だ。あの事件から君は3日眠ったままだった。」

3日。その数字を聞いた新垣は一瞬だけ驚愕したが、すぐさま安堵のへと変わった。現実に戻って来れた。その安心感の方が上回ったのだ。

「……すいません。」
「謝る事じゃないよ。こちらも、対応が遅れてしまいすまなかった。」
「……いえ、その事じゃ……。」

しばしの間、沈黙が続く。

「因みにだがね、君があの家の中で拾ってきた判子。」

そう言い、岩場が徐に懐から例の黒塗りの判子を取り出す。それを見た新垣は思わず身を強張らせながら身を引き、今にもベッドから転落しそうになる。その様子を見て、岩場も焦りながらそれを支える。

「すまんすまん。驚かせたね。」
「そ、それは……! それの所為で……!」
「ああ。調べてみてわかったが、これは大塚家の正当後継者にのみ渡される契約印なんだそうだ。ある意味、これを勝ち取った者が真の大塚家の当主になれる。巨万の富と名声、それを追い求め、争い、こんな小さい判子を奪い合った。言ってしまえばあの家は、そんな人間の闘争心によって歪められた吹き溜まりなのかもしれないね。」

岩場は例の判子を眺めながら、再びそれを白衣の内ポケットにしまった。新垣と言えば、相変わらず怯えた表情で震えている。

「恐らくだが、あの家は、君の出世欲という物に同調したのだろう。一体どこで何が縁になるのか、それは流石の私も完全に予測する事は出来ない。だが、それでも得られた知識の数が、あれらに対抗するための武器になると私は信じている。」

岩場は真っすぐな瞳で新垣の目を見る。

「確かに、我々の仕事は研究と言うにはほど遠い。最新の設備がある訳でもないし、全ての原理を解明できる訳でもない。原理解明に関しては、私とて最早あきらめている部分の方が大半だ。」

新垣はその言葉を聞き、何とも言えない気持ちになる。自身の浅はかさか、見識の狭さか。将又未だに抱える恐怖ゆえの硬直かは分からないが、自身では処理の出来ない感情の波に心がさらわれる。

「……いえ。そんな事は……。」
「死地送りの岩場。」
「え。」
「他の職員からそう揶揄されているのは知っている。Dクラス職員を食いつぶす男。研究と言える結果と理論の構築もできない男。それが君の私に対する評価だという事もね。」

あまりの唐突な核心部分に、再び新垣は言葉を失う。だが、それでもその釈明と命を救ってもおらった御礼を伝えなければという気持ちが彼を突き動かす。

「は、博士……! 自分は……!」
「別に怒っている訳じゃないよ。言われてもおかしくない程、私は多くの職員を犠牲にした。だが、それで得られた知見や情報を無駄にすることはしない。いや、絶対にしないし許されない。それを駆使し、更なる発展を望む。それが私にとっての、科学者としての矜持だ。」

そう言う岩場の目は真剣その物で、明確な強さが見て取れる。

「まあ、そんな偉そうなこと言える立場でもないんだがね! ついさっきも、野呂井君にこっぴどく怒られたよ。私が予定を勘違いしていたからこんな事態になったんだってね。いやはや、本当に、申し訳ない。」

再び、しばしの沈黙が続く。そんな中、今度は新垣は依然考えていた性善説の事を思い出す。

人は四つの徳を積むことで君子に至る。そこに打算や悪徳などはなく、純粋な心持で研鑽を続ける。

そんな事を考えている内に、気づいたら新垣の方から話を始めていた。

「……付かぬことを、聞きますが。」
「ん? 何だね?」
「……あの、御札の記号に関して何ですが。一体、どれだけの検証を行って、構築したんですか。」
「ああ。あれか。……まあ。」

岩場は一旦呼吸をおいて、少し俯きつつ答える。

「……万を超えたあたりから、数えるの止めちゃったからね……。もう分んなくなったよ。」
「発表などは……されなかったんですか。」
「検証ばかりで、原理の究明や理論の構築もできていないからね。論文にもできなくて私も困ってるんだが、まあ趣味の範囲みたいなものだよ。」

そう言いながら、岩場は自嘲気味に笑う。

「……ですが、効果は証明されています。」
「ありがとう。でも、私自身も発表してどうこうしようとは思ってないんだ。と言うよりも、以前発表しようとしたら鼻で笑われて見向きもされなかったからね……。まあ、私の研究が実用されて、なおかつそれで救われる職員がいるのだったら、別に学会で認められなくても問題ないさ。」

恐らく、その言葉に一切嘘はないのだろう。

気が付くと、新垣は細い涙を流しながら彼を見つめていた。

それを見た岩場が慌てて彼を宥める。そんな時間が、暫くの間続いた。

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