濵﨑ミアムは、一向に自分達の所に来ない店員に内心苛立ちを覚えていた。向いに座る諸刃リンは、片手で操作するスマートフォン越しにその様子を見ている。それは決して、彼女を諭そうなどと考えている面持ちではなくいつ濵﨑が憤慨し暴れまわるのかを待ちわびている、そんなにやけ顔だ。
肝心の濵﨑はと言えば、ファミリーレストランの窓側に設置された向かい合わせのソファー席に腰掛けている。しかし、その態度はと言えば健全な女子高生とは言い難く、着崩した制服に短めに折られたスカート、その足首は明らかに時代遅れとも取れるルーズソックスを思わせる靴下を履き、剰えその足を惜しげもなく見せつける様に机の上に乗せふんぞり返っている。
傍から見れば明らかな営業妨害な所作はそのままではあるが、彼女の切れ長な眼差しと短めに整えられかつ金色に染められた髪の毛も相まってか、誰一人としてそれを指摘する者はいない。
それとは一見対照的な諸刃は、ピンクのパーカーに備え付けられたフードを深めに被り、その端からは恐らくはひざ下まで伸びているであろう黒い長髪の一部が垂れている。だが、先にも言ったような表情、その下卑たニヤケ面を続けている事からも彼女を構成する中身は濵﨑の態度と大差ないのだろう。
暫くして、店の奥の方から恐る恐ると言った態度でウェイトレスが姿を現した。緑と白のストライプが基本のワンピースが制服として採用されているらしく、そんな蛍光色の色彩とは裏腹に彼女の表情は暗い。
周りの客もその様なことは気にもしていないようで談笑と食事を続けている。そんな合間を、あからさまにビクビクとしているウェイトレスは抜けて行った。
「お、お待たせしました」
「おせえよ。何分待たせりゃ気が済むんだって」
既に心拍数が上がっているのであろうウェイトレスを威嚇するように濵﨑は、切れている視線をより尖らせながらこう言った。その声色は年相応の女の子の物と思える音域ではあるが、どういう訳か腹の底に響く。
「も、申し訳ございません。本日、満席で立て込んでおりまして……」
「関係ねえよ、客待たせてんだぞ? どうなってんだよ、この店は」
相も変わらずの高圧的な態度を見せつつ、濵﨑は乗せている足を机に叩きつけた。
机自体が床に固定されている使用のためか先程の衝撃で浮きこそしなかったものの、それは地にまで影響が出る程には嫌な音を鳴らした。それを見聞きし、勿論ウェイトレスも肩を上げながら全身を震わせる。
が、ここで注目すべきは他の客達の方である。あからさまな迷惑客と思える彼女達の様子を察知しているにもかかわらず、何も発言しなければ離席すらしない。尚も、家族や友人、恋人同士の物と思われる穏やかな声が周囲で生まれている。
それを、諸刃はまたしても下卑た笑みを持って見回した。だが、先程までの表情の違いと言えば、その視線の動かし方は何かを値踏みしている様な色を帯びている事だろう。
「ビビってねえで、さっさと注文訊けよ」
「は、はい」
そこからは何の問題もなく、凡そは円滑に事が進んだ。濵﨑はその風貌からは余り予想が付かなかったが、期間限定のイチゴ増量パフェを注文し、諸刃はステーキセットを頼んだ。
ウェイトレスはそそくさとした態度で一旦は離れたが、お辞儀だけは深々と熟したうえでその場を後にした。
この間、しばしの沈黙が流れる。今も周囲の声は鳴りやまない。
「……リン」
濵﨑が、既に暗くなっている外部に視線を向けながら対面している彼女の名を呼んだ。
「な~に? みあちゃん」
「ちょっと賭けでもしねえ?」
そう唐突に言い始めた濵﨑の口元は片方だけが上がっている。
「え~、どうしよっかなあ」
「頼むよ。どうせ、このまま待ってても暇だろ?」
「そうだけどさ~。こういう時、いっつもみあちゃん、ズルするし~」
「あ? あたしが何時ズルしたよ」
聞き捨てならんと言った事を後に付け加え、ここに来てやっと濵﨑は机の上から足を下ろした。
「言えよ。何時、あたしがズルをした」
「え~っとぉ、先月の依頼の時もそうだしぃ、先々月の時の恐山行脚の時もだしぃ、この前の報酬分配の時も金額ちょろまかしてたの、私知ってるし~」
諸刃の口からスラスラと実例が挙げられるに連れ、濵﨑の顔から次第に色が失われていく。正確に言えば、褐色気味の肌に色白さが出て来たと言った所だろう。
「だから~、みあちゃんとの賭けは、ちょっと乗り気じゃないかなぁ」
甘さを兼ね備えたような声ではあるが、その奥にある真意には一定の刃の様な鋭利さが感じられた。濵﨑自身もそれを認識、否、心底理解しているのか、心なしか身が小さくなったような印象を受ける。
「あ、あの時はマジでさ。ちょっち、厳しかったって言うか……」
「え~、知らなかったあ。私達シェアハウスしてるのに、そんなにうちの財政ってひっ迫してたんだあ」
「い、いや、そういう訳じゃなくてさ……! こ、個人的な、買い物しちまって……それで……」
「……聞こえないんだけど?」
ここに来て、外見上からは把握しきれない2人の関係性、もとい上下関係が明確に示された。諸刃は相変わらずに携帯越しに濵﨑の様子を窺っているのみだが、その瞳からは完全に光が失われており、端的に言えば据わっている状態へと移行している。
それに対して濵﨑はと言えば、蛇と蛙の食物連鎖、よりはまだ温和な状態ではあるが、この時分では完全に親に叱られている年相応な子供に成り下がっていた。
「ご……」
「ご~?」
一瞬、濵﨑は固唾を飲み込み、しばし待ってから発言する。
「ごめんなさい……」
「は~い、良く出来ました~」
諸刃はここに来て初めて自身の携帯を机に置き、真正面から濵﨑の方を見つめた。その顔には先程までの殺気は感じられず、その真逆を行く母性すら感じられる慈愛に満ち溢れていた。
その様な空気を纏いながら、多少は身を乗り出しつつも諸刃は濵﨑の頭の方へと片手を伸ばし、優しい手つきで彼女の頭を撫でた。
それに対して濵﨑は、その行為自体を待ち望んでいたかのように目を瞑りながら迎え入れ、端的に言い表せば犬の所作をそこで披露したのだ。
ほんの数秒であるが諸刃は満足げに濵﨑の頭から手を離す。そして、再び自身の定位置へと戻っていった。
「……で、さっきの話の続きなんだけど」
「も~、懲りないなあ」
尚も会話を続けようとする濵﨑に対して諸刃は呆れたといった言動をしつつも、既に乗り気な雰囲気を醸し出している。
「で~? どんな賭け~?」
「ここであたしらが仕事を終わらせるまでにあの2人が到達できるか、どうか」
濵﨑の発言を聞いた途端に、諸刃は全てを察したかのように笑みを強めた。
「良いじゃ~ん。……でも、それって賭けになるの? だって、私らが選ぶとしたら、一択じゃ~ん」
ここで、濵﨑の顔がまた歪む。
「じゃあさ、一個大穴を決めようぜ」
「大穴~?」
「そう。大穴。あの2人が、誰かを助けられるかどうか。いや、もっと良いのは、助ける気概を見せれるかどうか、の方が良いか。どう? リン」
到底、年端もいかない小娘2人から発せされる物とは思えないような悪意がその区画には充満していた。
この2人は、彼女達の後に来るであろう特定の人物らに対して、その人物らが取るであろう行動を賭けの対象にしているのだ。ただ、ここだけを取り出すのならば取るに足らない悪戯にしか過ぎないのだが、ここで根本的に取沙汰されているのは第三者の命の結末である。
逆を言えば、今この場にいる彼女らにとっての人命と呼ばれる物には何の価値もなく、剰え最悪の場合は失ってしまっても良いとすら考えているのだ。
そして、改めてこの賭けの内容に言及するのであればその人命と特定人物らのとる行動の賭けの土台となっている設定自体が、その第三者の死亡事案である。
誰かが死ぬ。そして、それを助けに入るであろう人物らがその結果に対してどの様な反応を示すのか。それを賭けの対象としている。これを醜悪と言わずして何と言おうか。
そんな彼女達の悪巧みも聞かずに、この場に居合わせている大衆は今も歓談を続けている。
「なるほど~?どうせ無理なゲーなら、決められた結果のその後を賭けるって訳か~。面白いね~」
「だろ? で、リンはどっちにする?」
「え~? 私から決めて良いの~」
「ああ。前の仕事の時の借りだ」
「じゃ~あ~、私は~」
諸刃の笑みが一瞬だけ耳まで裂けた様な気がした。
「絶望、にするかな~」
凡そ5分程経過したであろうか。未だに2人の下には注文の品がやって来ない。
この現状に対して濵﨑は再びあからさまな苛立ちを態度で示し、その証拠として先程から繰り返している貧乏ゆすりの振幅の度合いが増してきているのが分かる。
「みあちゃんさぁ。その癖辞めたら? 親父臭い」
「あ? 癖ってなんだよ」
完全に無意識での行いであったことを再認識した諸刃は、再び見始めた携帯をそのままに深い溜息を吐いた。
「てか、どんだけ時間が掛かってんだよ。マジでふざけんな」
「別に良いんじゃな~い? 時間なんて有り余ってんだし~」
「けど、あたしらの意識はどうなんだよ」
ここで、濵﨑が唐突に言い放つ。
「別に~。だって、ここに居たからって年取る訳でもないし~」
「ならあれか? リンは100年の孤独の中でも正気を保って居られるってか?」
「まあ、1人だったら駄目かもだけど~、みあちゃんとなら~……良いかな~」
「……あたし、何されっか想像もしたくないんだけど」
所々の会話に何やら歪なワードが交じりはするが、話す姿、それだけは見た目そのままの振る舞いである。
2人はそれからも止め処ない会話を続けるが、ここでふと、諸刃の方から会話の方向を変えた。
「ねえ~。これってさあ。感づかれてる?」
先程から眺めていた携帯の画面には、今彼女達がいるファミレスの様子が映し出されていた。画角からして店内の天井近くからの映像であろうか。諸刃が画面をスワイプする毎に映像が切り替わり、映される画角の変わった別の映像が現れる。
「さっきからさ~、周りの奴ら、話してる風を装ってず~っとこっち見てんだよねえ」
画面が切り替わる毎に店内にいる他の客も一緒に映し出されるが、どの画面を見ても全員が席を立ち、設置されているカメラの方を見つめている。ここで1つ挙げられる不可思議な点と言えば、各画面を切り替えた際にカメラ側を見ている人間たちの見つめるカメラも切り替わっているという事だ。
端的に言えば、全ての映像において写っている人間がカメラの方を見ているのである。一個目の映像、その次の映像、そのまた次の映像、それらは決して近しい感覚で設置された物では無い。もっと言えば、一個目のカメラの対角線上に位置する映像すらあるのである。
しかし、それらの全ての画面において写っている人間は例外なく全員がカメラの方を見つめているのだ。幾ら高速で画面を切り替えてもそれは変わらず、全員の顔が全ての映像で確認できる。
明らかな異常。それがこのファミレスの中で発生している。
にも関わらず、件の女子高生2人は異様な落ち着きを見せているのだ。
「んな事分かってるよ。ここに入った時点で全員あたしらに興味津々だったし。まあ、未だにあたしらの視覚に干渉できているって勘違いしている所はまだ可愛げはあるがな」
次第に周囲の談笑が騒ぎの様な声に切り替わっていく。濵﨑の指摘を切っ掛けにしてか、より一層声のボリュームが上昇してきているのだ。
「え~? みあちゃんってそっちが好み~?」
「いんや、どっちかと言うと、叫んでくれる方がアリかな」
「ふ~ん、そうなんだあ。みあちゃん、実際はM寄りなのにねえ」
「うっせうっせ!」
周囲の団体が今度は机をたたき始めたのかバンバンという鈍い破裂音が響き始める。歓談と称されていた声は今では完全な断末魔と悲鳴に転化しており、罵詈雑言と受け止められる言葉の羅列が彼女らに浴びせられる。
「うるっせーなぁ! 今話してる最中だろうが!」
「ね~、マジムカつくよねえ」
「てめえらの相手は、そっちの土俵に立った時にしてやるよ! それまで待ってろ! 糞共が!」
濵﨑が立ち上がり、高々と挙げた片足を机に叩きつけた。これまで以上に鈍い音が辺り一帯に響き、これを切っ掛けに周囲の騒ぎは一瞬にして静寂へと変わる。
「たく、堪え性のねえ奴ら」
「そりゃ~ね~。欲しい欲しいだけで、それ以外の事はなーんにも無い奴らだし~」
混沌とした空気の中、再び店舗の奥から例のウェイトレスが姿を現した。相変わらず彼女の様子は酷く怯えており、両手で支えるステンレスの盆に載せられた品物はカタカタと細かい音を立てながら震えている。
「お、待たせしました。ご注文の品をお持ちしました……」
「おせーんだよ。さっさと置け」
濵﨑は相変わらずの口調でウェイトレスを恫喝する。怒気の混じる言葉尻に反応する度にウェイトレスは肩を震わせ、おっかな吃驚な手で品物を机の上に置いていく。
そこには間違いなく彼女達が注文した食事が置かれていた。高々と積まれたクリームの側面には真っ赤に染まったイチゴが添えられ、熱せられた鉄板の上のステーキは肉汁を跳ねさせながら彼女らを誘うように歌っている。
しかし、ここでまた諸刃の携帯画面に視線を移せば、目の前に広がる情景とは全く異なる姿が映し出されていた。
イチゴのパフェは既に腐敗が始まっているであろう緑色で彩られ、イチゴの変わりとばかりにトッピングされているのは丸まった青い芋虫の群体だ。そして、ステーキとして認識されている物も、皿の上に載せられた冷たくなっている鼠の死骸へと置き換えられている。
「そうだよ、これを待ってたんだよ。なあ? リン」
濵﨑はわざとらしい物言いで事の感想を宣いつつ対面の諸刃に同意を求める。
「ね~、すっごい美味しそう~」
諸刃も負けじと大げさな身振りと口調で煽り、ニタニタとした顔のままウェイトレスの方を一瞥する。
今もなお、配膳を完遂した筈の彼女の片腕には震えが残っている。それを自覚したのか、自身でその震える腕を片手で抑え込み、時すでに遅しではあるのだが現状の隠蔽を画策する。
「……何、さっきからビビってんだよ」
濵﨑が再度、ウェイトレスに喰ってかかる。
「い、いえ、その様なことは……」
「震えてんじゃ~ん。かーわい~」
到底、本心からの言葉とは思えない声色で諸刃が煽る。
「……それとも何か? あたしらにこの飯を喰われるのがそんなに嫌か?」
この発言を聴いた途端に、微弱ではあるがウェイトレスの視線が泳いだ。
「店側が客に飯を食ってもらいたくねえってどんな了見なんだよ」
濵﨑がウェイトレスの方へと詰め寄り、彼女の頭を片手で鷲掴む。そのまま彼女の頭を無理やり動かし、ゆっくりとした動作で彼女の脳味噌を震わせる。
傍から見れば完全な虐めであり、この行為を称賛するものなど居ないだろう。
だが、今ではここにいるのが彼女等の3名のみであり、さっきまでの賑やかな店内の様子とはまるで変っていた。
壁紙は剥がれ落ち、床には落ち葉や小動物の糞や枯葉、もっと言えばカラスや野鼠の死骸までもが散乱している。彼女達が座っているソファーも一部が破け、その中から綿やバネが飛び出しているという有り様だ。
この場において真面にその実体を持ち合わせているのは彼女達だけである。濵﨑が触れられている彼女とその様子を動画に納めながら嬉々とした態度で座っている諸刃。この3名だけが、この生物の居なくなってしまった空間において息をしている者達なのである。
だが、ここで1つ引っ掛かる点がある。それは、またしても諸刃のスマホに映る画面であり、そこには尚もウェイトレスをいびる濵﨑の姿と完全に白骨化した人間の姿が映し出されているのだ。
「……お、お願いします」
消え入りそうな声でウェイトレスは何かを訴える。
「……なんか言ったか?」
「お、お願いします……。こ、殺さないで、下さい……」
その目には既に涙が滲んでおり充血が始まっている。彼女の必死の訴えに伴って感情の起伏が肉体の表層に現れ始めているのだ。
しかし、現状から推察できる事ではあるが、既に生命活動が止まっている者が決死の訴えをしていると言う皮肉が働いているのは少々ながら笑い草である。
が、件の2人にはそれが大いに壺に入ったらしくこの場で腹を抱えながら笑い出した。
「まじ……! ウケるわ……!」
「こ、ここで命乞いとか……! なーさけな……!」
2人の無慈悲な態度を受け、より一層ウェイトレスの表情に色が失われていく。見た目で分かる程の絶望感が露出していく様子は到底死者とは言い難い様子である。
そんな当人を目の前の娘たちは嘲笑い、貶め、虐げている。この現状自体が大きな矛盾を孕んでいるのは謂うに容易い。
「……誰一人として、逃がすわけがねえだろ」
濵﨑が一際ドスの利いた声で言い放った。
「あんたも~、例外じゃないからねえ~?」
気が付けば諸刃も立ち上がり、ウェイトレスの片頬の間近くまで自身の顔を接近させている。
不良女子高生2人に挟まれる構図となる中、より一層ウェイトレスの震えは止まるところを知らずに恐怖心が加速していく。
誰か。誰か助けて。
そう、心が叫んでいる。
「そろそろ、奥にいる奴らも待ってる頃だろう」
店の奥を睨みつけながら濵﨑は例のパフェに手を伸ばした。それに合わせ諸刃もステーキをそのまま鷲掴みにする。
「黄泉平坂、異界の物は口にするべからず」
濵﨑が突如口上を始める。
「しかして我ら、不浄を払いし者なり」
諸刃のそれに続き口を大きく開けゆっくりとした動作でステーキ、基、鼠の死骸を運んでいく。
「ならば自ら穢れを纏いて、汝らを、骸諸共滅せん」
濵﨑もパフェの載せられた芋虫を一つまみを口へと運び、ぽとりと落とす。
次の瞬間、店内の空気が変わる。ズンとまるで重力が増したかのように重くなり、大きな地震でも起きたかのように地面が揺れ始める。しかし、周囲の机や床に落ちてる物ら全ては一向に微動だとせず、これがごく当たり前の地震では無い事を証明する。
それに続き諸刃も鼠を頭から口に入れ、腹の部分で思い切り噛み千切る。これに呼応するかの様にまた振動と轟音が増し、更には幾人ものうめき声や叫び声が周囲で木霊しだす。
足元を目指して幾本もの影が伸びてくる。それらは木の枝のように細く、しかし確実に人の手の形を成す者ばかりだ。壁から伸びたそれは濵﨑と諸刃を中心にして集まる様に向かい、彼女らに掴みかからんとする勢いで勢いを増している。
あとほんの数cm。その領域に入った瞬間、濵﨑が大きく跳躍した。
そして、その際に発生する落下の勢いそのままに拳を地面に叩きつけ、まるで大きな鐘を鳴らしたかのような爆音を周囲に響かせる。
それが観測されたのと同時に、誰もいない筈の場所から凡そ100人はくだらないだろう人間の断末魔が響き渡った。
濵﨑が深く床にめり込んだ拳を引き抜き、不敵な笑みを浮かべながら辺りを見回す。
その彼女の両握り拳にはいつの間にか大玉で構成された数珠が巻きつけられており、まるで仏具で作られたメリケンサックの様なはめ込まれ方がされている。
続いて第2陣が登場したのか、何かが風を切る様な音だけが彼女達の周囲で鳴り始める。生ぬるい空気の流れだけが今度は諸刃の顔に掛かり、ほんの一瞬だけ何かが煌めく。
が、瞬きをしたほんのひと時である。突如として諸刃の眼前に、獣とも人とも取れない、黒い毛と羽で覆われた異形の存在が出現した。しかし、その様子は決して彼女への攻撃を成し遂げた物では無く、よくよく見てみれば大量の血を噴出させながら失われた腕の方を見ながら叫んでいるが実状だ。
「探してるのって~、これ~?」
そう話しかける諸刃の手には嘗てその異形の腕に繋がれていたであろうの腕が握られ、もう片方の手には彼女の身の丈ほどはある日本刀が握られている。
「さてと。わざわざてめえらの領域に出向いてやったんだ。この程度で諦める奴らじゃねえよなあ?」
自身の拳と拳を突き合わせながら濵﨑は自身の周囲にいるであろう者達に語り掛ける。
「じゃなきゃ~、あんなクッソまずいもん食わされた意味が無いし~。せめて料金分は楽しませてよね~?」
重量で換算すれば幾らほどになるのかもわからない刀剣を軽々と扱いながら、諸刃も濵﨑に続いた。
「「来いよ。糞共」」
一瞬、2人の声が重なった。
2人の周囲には黒い異形がひしめき合っていた。形態は大きな球であり、そこから枝の様に細い手足が生えている。その球の表面に浮き上がっている白い顔は苦痛に満ちた表情を浮かべており、真っ暗に染まった眼孔と口内からは延々と黒い粘液が溢れ出ている。
そんな異形の集団が、たった2人の女子高生に対して奇声を上げながら吶喊を敢行しているこの状況は異常と言わずして何と言おうか。
異形共は複数で取り囲むように飛び掛かる。が、濵﨑からの拳が彼奴等の顔面に投げつけられ、そのままの勢いで固い床に叩きつけられる。その際、異形の肉体はその衝撃により激突と同時に破裂し、内臓の変わりに多量の黒色粘液が床を染める。
濵﨑はまたしても、向ってくる異形の顔面に対して容赦の無い殴打を浴びせる。後方から襲い掛かる物にはすかさず裏拳を当て、その回転のままフックへと移行。その後、再び床と相手を挟む様に叩きつけ、異形の頭部とも呼べる器官を次々に粉砕する。
諸刃はと言えば、激しく動く濵﨑とは相対的に「静」を体現する様子のままで微動だにしない。しかし、彼女に向う異形達はと言えば気が付けば床に突っ伏しており、胴体、腕、顔、肉体のありとあらゆる部位が両断されている。
一瞬光ったと思った刃が地面と水平にした途端にその刀身を失せさせ、異形達自身が彼女に向っていた筈なのに、彼女と自分達の立ち位置が急に入れ替わったように錯覚する。気が付けば諸刃が己の背後におり、振りむこうとする頃には自身の肉体がふたつに断たれてしまうのだ。
その様な攻防が延々と繰り返され、気が付けば異形達の数も少なくなり始めていた。最早、当初の頃に展開されていた人海戦術に基づく物量作戦など姿を潜め、既に戦意が消失しているであろう異形達を、彼女等が追い詰めてる構図へと変遷している。
濵﨑が殴り殺し、諸刃が切り殺す。2人の体は黒色の返り血で染まり、しかして、その顔には恍惚とした笑みが浮かび上がっている。
逃げ延びようとする異形の足を踏み、情けなく転んだその顔面を濵﨑は情け容赦なく己の拳で粉砕する。
諸刃の方では、手足が切り落とされたことで身動きが取れなくなった異形を敢えて放置し、それらを一か所に集めている。それは既に異形達との戦いというよりは、戦争犯罪の現場にも似た状態だ。
無慈悲でも無ければ、冷酷でもない。ここで繰り広げられる惨劇は正に、残酷そのものなのだ。無抵抗の異形が只々縊り殺され続けている。嬲り殺しにされている。弄ばれている。この有様を残酷と言わずして何と言おうか。
「リンー、そっちはどうだあ?」
良い汗をかいたとでも言いたげに額を拭う濵﨑が諸刃へと声を掛けた。その先では、先程から彼女が黙々と励んでいた甲斐もあってか、手足のもがれた異形達の山が完成している。
「丁度完成したところだよ~」
諸刃はそう返答しつつ、自身が作り上げた物を得意げに指刺した。
「み~あちゃん。やっちゃって~」
諸刃の声かけに応じる様に、濵﨑は再び大きく跳躍する。そして、そのままの落下の速度と、自身の腕の力を上乗せするように空中で構え、己の相方が生み出した不条理の山の天辺に向かって拳を叩きつける。
最初は肉の裂ける音。それから頭骨やその他の骨が砕け、筋繊維が引きちぎられる音。内臓が破裂する音。肉のつぶれる音。
細かく聞き分けて行けば細分化できるそれらの音達が、一瞬の内に盛大な合唱となってフロア全体に響いた。その終幕には、濵﨑の打ち付けた拳が床に到達したことによる破壊音が奏でられ、それらの衝撃によって、店内の机や椅子、諸々の備品が吹き飛ばされるに至った。
気が付けば、店の中は余計なものがすべて撤去されたように床が広く使われる様に変貌しており、端的に言えば、先の戦闘行為によってそれらの衝撃に耐えられなかった家具や設備類が壁際にまではじき出されただけだ。
それに加え、あからさまな異形達の亡骸と、黒い血によって大きな水溜まりが床を満たしている事にも言及しておこう。
フロア内には、主無き声による苦悶を匂わせる響きで満たされている。
「まだ居やがるか。キリがねえな」
濵﨑はそうぼやきながら、小指を耳の穴に入れる事で簡易的な耳掃除を始めている。
「まあね~、ここ、霊道のど真ん中だし~。後続はあとを断たないんじゃな~い?」
猫なで声で話す諸刃は、次の戦闘に向けてなのか自身の制服の裾を使って刀身に付いた血を拭っている。
緩い雰囲気を纏っている件の2人ではあるが、その目の奥に隠されているのは戦いに向けての狂気のみだ。先の戦闘においても、この2人は命のやり取りをしている最中でさえ、いや、よりそれらがきわどくなる状況でこそ、頬を赤らめさせている笑顔を強調させていた。
自身に向ってくる存在を容赦なく殺す。この行為自体に悦を感じているこの2人こそが、ある種の化け物なのではないのかと錯覚させるのは、人の持つ感性と、または善性と言う物の妙であろうか。
今、正にこの有様を作り出した2人は、この時点で新たな獲物を探して周囲を見回している。転がってる設備のがれきの合間から時折黒い影が見え隠れするが、濵﨑や諸刃が視線を向けた途端にどこかへと逃げていく。
「だが、所詮、残ってるのは死にたての雑魚だけだ。そんな奴ら潰したところで、面白くもねえ」
「だねえ~。そろそろ、本丸でも叩く~?」
「だな……さてと」
そう言い、濵﨑はバックヤードへと続いているであろう扉の方へと視線を向けた。
先程、彼女達が注文した品を持ってきたウェイトレスが出て来た場所だ。
扉と言っても、開閉式の何かが取り付けられている訳ではなく、四角く枠取りされた入口と言った方が正しいかもしれない。だが、それを扉と形容する理由は別にあり、結論を言えば、その四角形の向こう側が闇よりも漆黒で埋め尽くされた様に一切の視覚情報から隔絶されていたからだ。
まるで、その向こう側だけがこのファミリーレストランと形容されるべき区間とは一線を画している様で、そこを通り過ぎた段階で全て変わってしまう、そう直感させる雰囲気を発している。
だが、肝心の2人にはその感覚はあまり効果を発揮していない様で、というよりはそういう気配があるからこそ、彼女達の興味を引かせてしまっていると言っても過言ではない。
「行くぞ、リン」
「は~い」
両こぶしを強く合わせる濵﨑と、刀身を肩に載せながら歩く諸刃が、例の扉へと近づいて行く。
黒色の境界へ差し掛かり、しかし2人はそんな物を気にもしないと言った態度でそのまま直進する。
心なしか、水に何かが沈む様な「とぷん」という独特の音が聞こえた。が、過去ってしまえばその様な物などとうに忘れてしまうのがこの世界の理の様だ。
内部の様子は大枠で見れば大きめな厨房に見えるが、所々に錆と汚れが目立ち、衛生局からの勧告は免れないであろう実状が窺える。
だが、そんな物よりもより目立ち、彼女達の目を引くのがその区画の中心に位置する存在である。
そこには、先程の異形達から噴出していた黒色の血を遥かに凌駕する量の液体が、粘性を伴って天井と癒着するように伸び上がっている。その有様は、まるで肉感を持った柱の様に存在し、極めつけなのがその柱から発生している部分、人1人が膝を抱え込んだほどの大きさのあるカラスの様な生物の頭部が3つ、同様な状態の羽3対が現在進行形で蠢いている。
カラスの頭部に該当する箇所にある眼球部分はと言えば、ここだけは本来の量類らしからぬ形状をしており、魚類を思わせる巨大な眼球に置き換えられている。そして、その計6つの目が、この場では完全に部外者として数えられる女子高生2人を見つめている。
「なんだよ。これが、この異界の本丸かよ」
濵﨑が、正に期待外れだとでも言いたげにそう述べた。
「身動きも取れない、支配力もない。こいつ自身、人を取り込んでいる訳でもない。クソ雑魚だな」
「ね~。殺しても、なぁ~んも面白くなさそ~」
濵﨑に同意する形で諸刃も同様の内容を述べる。
「拍子抜けだな。まあ、とっととやっちまうか」
そう放ちながら、濵﨑がと諸刃が一歩前出る。が、突如それが何者かによって阻まれる。
「ま、待ってください……!」
2人の前に、例のウェイトレスが立ちふさがった。その者の様子を見れば、足も肩も震えており、見るからに無理をしているのが分かる。
「こ、殺さないで……! こ、この方は、私達にとって……!」
「知るかよ、そんな事」
涙ながらのウェイトレスの懇願など一切聞き入れる様子もなく、濵﨑は目の前の彼女の胸ぐらを掴んだ。そして、その華奢な見た目の何処にその様な力があるのかは分からないが、そのままウェイトレスのつま先が地面から浮くぐらいまで持ち上げた。
「しょーじき~、私達も~、ここの実状とかまでは知らないんだよね~」
諸刃が刀の側面で、持ち上げられているウェイトレスの頬を叩く。その切っ先は、今にも彼女の首を持って行きそうな程に近い。
「なんか~、あんた等みたいなのが滅茶苦茶に屯ってる場所あるって聞いたから~来てみただけなんだ~」
「そ、そんな……!」
諸刃から発せられる言葉を聞いてか、ウェイトレスの表情が少しばかり色を変える。先程までは恐怖でしかなかったが、その中には明確な怒りの感情が芽生え始めていた。
「それに、あんた等、あの野呂井君と岩場がんばの爺からの庇護を受けてんだろ?」
「え……?」
その2人の名前を聞いた瞬間、ウェイトレスの中で時が止まったように口が静止した。その様子を見て、諸刃はより一層意地悪な笑みを浮かべる。
「実を言うと、あたしらあの2人には前々からの因縁があるんだよねえ。特に野呂井君に関しては彼の実家からのお願いもあってさあ」
「だからぁ~、あんた達に対しては別にな~んとも思ってはいないんだけど~、ぶっちゃけ憂さ晴らし的な~? 感じで~、暴れたって言うか~」
ウェイトレスの肩に、掛けられていた刀の刃の部分が触れ、少しばかり諸刃の手前に引かれる。それによりウェイトレスの服と皮膚が少しばかり傷付けられ、綺麗に薄皮1枚に対して一筋の切り傷が作られる。
ウェイトレスもそれには流石に苦痛の表情を浮かべ、思わず声が出る。諸刃はと言えば、その反応を楽しむかのように無邪気に笑う。
「そんじゃあ、取り合えずあんたも潔く消えてくれや」
「じゃあ~ね~♡」
無慈悲な2人組がウェイトレスの顔に向かって己の拳と得物を向ける。
助けて。
そう、ウェイトレスは、既に無くなってしまった心臓の前で両手を結び祈る。既に自身に定められた命の時が終わってしまっているにも拘らず、消え入る事に恐怖するのは人の性か。霊になってしまえば解消されると思われていた死への恐怖に今も尚苛まれている。これを皮肉と言わずに何と言おう。
あと、数秒後には自分が消えてしまう。その予想に彼女の脳内が埋め尽くされる。
「止めろ」
その時、突如、周囲の様子が一変した。何処から聞こえた男の声を切っ掛けに、周囲が急に明るく光り始める。その眩しさ故か、件の女子高生2人も思わず目を瞑ってしまい、その際には濵﨑の手も力が緩んでしまう。結果、持ち上げられていたウェイトレスも床の方へと無作為に落とされる形となり、そのまま尻もちを付く有様で体を接地させる。
暫くして、2人が目を開けると、そこは完全な屋外へと変わっていた。さっきまでいた厨房の中など綺麗に消え失せており、周囲を見回せば、彼女達が暴れていた店の外観が遠くにある。
すぐさま、2人は先程手放してしまったウェイトレスを探す。しかし、その姿は当の昔に消え失せており、慌てて再度周りを見渡せば、2人にとっての宿敵とも言える男2人が、彼のウェイトレスを介抱するような形でそこに居た。
この2組との距離はおよそ30m。全力で走れば詰められない距離ではあるが、何が仕掛けられているかも分からない現状ではその場での膠着が最適解であると結論が出された。
「……なんだよ、来ちゃったじゃん」
濵﨑が落胆の意を示す。
「マジ……。ムカつく」
諸刃に至っては、あの猫撫で声で話す事すらも忘れてしまうほどに苛立ちの方が勝っている様子だ。
「……大丈夫かい? ごめんね。怖い思いをさせて」
「が、岩場さん……」
「今は、ゆっくりと休んでくれ。本当に良く、頑張ってくれた」
岩場はウェイトレスの背中をさする様にしながら、傷ついた彼女を座らせている。そして、彼女の額に優しく触れながらそっと手の平を落とし、瞼を閉じさせる。
その瞬間、今この時までは実体を伴っていた彼女の肉体がまるで細かな光の粒の様に霧散し始め、気が付けばそこからは1人の女性という物の形が綺麗に無くなっていた。
そして、当たりに散らばった光の粒子はまるで穏やかな風にでも乗るかのように空中を流れ、例のファミレスの方へと消えていった。
「……本当に、間に合ってよかった」
岩場が思わず安堵の言葉を漏らす。
「ええ。同感です」
それに対して、彼の隣で今も尚、両手で印を結びながら立っている野呂井が返答をした。そんな彼の顔は冷静さを醸し出してはいるものの、絶大に膨れ上がった侮蔑と怒りの感情が地を這うように漏れ出し、この現状を作り出した女子高生ら2人に向けられている。
到底、年端もいかない子供に向けて良い筈の無い殺意である。
「また君達か。濵﨑ミアム、そして、諸刃リン」
岩場が立ち上がり、彼女達の名前を呼ぶ。
「よお、久し振りだなあ、岩場の爺さん。鉄橋際の幽霊騒動の件以来か?」
濵﨑が、岩場に対して言を発する。
「そうだな。君達もあの1件から数カ月は身を潜めていると思ってはいたが、まさかこんな形で再会するとは。正直、残念でならないよ」
「そりゃあ、こっちのセリフだなあ! あんたらの所為であたしらの仕事が1つおじゃんになったんだ! 報復の1つや2つしたところで、罰は当たんねんだろ!」
「それに関しては、君達の浅はかな考えの所為だ。言い方は厳しくなるが、自業自得だよ」
普段の温厚な物言いとは裏腹に、今回の岩場の口調には棘が目立つ。
「なんだと?」
「確かに、あの場所は一種の心霊スポットとして有名に成りつつあった。それも、1人の女性があそこで投身自殺をしたからだ。それを切っ掛けに、あそこに所謂澱みが生まれた。だが、それが生み出されたもう1つの理由がある。それを、君達は理解していたのか」
岩場の言葉を聞き、諸刃が濵﨑の前に立つ。そして、眼前に断つ男達を睨み付ける様に視線を送りながら、自身の手にある物の切っ先を向ける。
「あの川の源流に位置する場所を納める川の神、神格実体の管理する領域だったって事? 知らない訳ないじゃん」
諸刃が岩場に言われたことに対する反論を述べると同時に、それを覆す様に岩場が再び言葉をかぶせる。
「ならば、君達のやり方であの霊実体を祓った場合に何が起きたか。そこまで、君達は考えを巡らせていたのか」
「神域を犯した。そう神格実体に認識される。だろ?」
「そこまで分かっていたのならば、何故、あのような暴力的な除霊を敢行しようとしたのか。何故……」
「そういう依頼だったからだよ」
濵﨑は、苛立ちを隠せないといった口調で返答をした。
「……やはりか」
この返答に対し、岩場は更なる落胆を重ねる。
「……対立宗派の利権争いの結果だったと」
「当たり~。表向きは地縛霊の排除だけど~、あそこで派手に暴れればぁ、隠居してるあの神格実体も荒神となって出てくる感じだったし~。そこを皮切りにあの土地全部を新しい御神体の領土に挿げ替えるって寸法。だったのに……」
「てめえらが見事に邪魔しやがったんだよ。糞が」
濵﨑はその場で地面にむかって唾を吐いた。諸刃に至っては座った目のまま、堂々と岩場と野呂井に向って中指を立てている。
そんな中、我慢の限界が来たのか野呂井の方も喋り出した。
「そんな事になれば、下流にある町や集落がどんな目にあうのか。分かっていたんだろう?」
「当たり前だろうが。被害がでかくなきゃ、各協会も動かねえしな」
「そうと知ったうえで事に及ぼうとした。なるほど。やはりお前たちは、祓い屋の中でも最低の部類に入る面汚しだ」
怒りにより、心なしか野呂井の毛が逆立つ様に見えた。いつもは堅物然とした眼鏡と七三に整えられた頭髪を携える1男性でしかない彼だが、この時だけはどうしてか異様な空気を纏った人物へと変貌していた。彼の周囲では微かながらに砂埃が舞い、風もない筈なのに気体の躍動が感じられる。
その野呂井の姿を見てか、濵﨑と諸刃も身構えた。ここに来ても、戦闘狂である2人の性分は変わらずに、顔にはうっすらと笑みが浮かぶ。
「野呂井君。抑えなさい」
岩場が野呂井の肩に手をそっと置く形で彼を宥めた。これに対し、思わず岩場の方へと視線を移す野呂井ではあるが、尚も真直ぐな瞳で彼女達を見据える岩場の顔を見てか、己自身の態度を改めた。
「すいません。岩場博士」
「気持ちはわかる。私も、彼女達には心底はらわたが煮えくり返っているんだ。だが、君が手を下すべきではない。いずれ、彼女等にもその時が来る」
岩場の言葉を聞いてか、生意気な女子高生2人組は急に緊張の糸が切れたかのようにけらけらと笑い始めた。それとは対照的に、博士2人の態度は変わらない。
「何? あんた等、天罰とか信じてる訳? マジで受けるんだけど!」
「そんな物あったら、苦労しないって~の~!」
件の2人は互いの肩に手を掛けながら、これでもかと言わんばかりに笑い続ける。侮蔑、見下し、嘲笑。ありとあらゆる他者を侮辱する事に費やすかのような笑い声が響き、夜の森に木霊した。
彼らのいる地点は、到底ファミリーレストランが立地しているべき場所ではなかった。正に森林地帯の奥地であり、その中でも1個高台に位置した開けている場所にこの建築物は存在しているのだ。彼ら以外でこの様な場所を尋ねる事は無い。それだけは断言できるほどに、ここには自然しか存在しない。
にも拘らず、この様な建物が存在している。この違和感を覚えている者はいるのだろうか。いや、否である。
「この場所は、謂わば霊道の終着点だ」
岩場は彼女達の態度には一切反応する事は無く、この場所に関する説明を始めた。その物言いはまるで幼子に事の分別を諭す様で、それを察してか、彼女達の苛立ちがまたもや再起した。
「我々がこの場所を見つけたのがおよそ5年前。当初は、ここも澱みの一部か、異界へと発展しかけている場所かとも危惧していたが、我々の調査によりここは比較的安全な地帯、よりも重要な地点である事が発覚した」
濵﨑は岩場を睨みつけながら拳を構え、諸刃も一旦は降ろした切っ先を再度彼に向ける。
「この場所の中心にいる存在は何か。あれは、動物霊の集合体で且つこの土地を納める神格実体からの加護を受けた神使だ。この山で潰えた命の行き場所であり、安らかな最後を迎える為の安息地だ。何故、ここら辺一帯の地域では澱みの堪る場所が極端に少ないのか。それはこの土地が一種の浄化作用を担っているからだ。神格実体の導き、神使の導きにより彷徨える存在はここに集まり、苦しまずに天へと昇れる。見た目こそこの様な場所だが、ここは我々を含め、部外者が興味本位に立ち寄っていい場所じゃない」
この解説を聞いた彼女達の態度は芳しくなく、今にも岩場に向って生きそうな雰囲気がある。
「君達はそれを分かって……」
「黙れや素人!」
「口を閉じろよ、老いぼれ」
言葉遣いの粗さが際立ち、岩場に対する怨嗟すら匂わせる2人の雰囲気が場の空気をひりつかせる。
「あたしらの領分を荒らしてるのはてめえらみてえな奴なんだよ! 科学しか取り柄のねえ野郎が、霊界に首突っ込んでんじゃねえぞ!」
「その癖、本業の私達に対して異界の何たるかの説教とか、嘗めんのも体外にしろよ? そんな事、承知の上で私達は仕事してんだ。あんたが今まで見た事も無い様な地獄をこっちは日々見てんだよ」
「何も力のねえ凡人が、あたしらと肩を並べた気になってんじゃねえぞ! ぶっ殺すぞ!」
界隈の逆鱗に触れた岩場の様子は最初の頃から一切変わらず、尚も彼女達を見つめる視線にも変化はない。最早、彼女達に対して哀れみすら感じているのか、それとも手に負えない存在に半ば諦めにも似た感情を抱いているのか。その真意は定かではないが、それでも芯の通った出で立ちである事は紛れもない事実であった。
それがより彼女達の琴線に触れたのか、今も苛立ちが加速している。
「確かに、君らの言い分には一理あるだろう」
彼女達とは相反するように冷静な口振りで岩場は再び言葉を発する。
「私は、言ってしまえば君達にとっての部外者だ。君らの様な不思議な力も無ければ、自力で霊を見定める目もない。凡人と言われればそれきりだ。だがね、未知を未知のままにしているその怠慢さも、私からすると許せない」
岩場の言葉を聞き、野呂井の顔も更に険しくなる。同じ志を持つ者同士だからこその覚悟を持った目を、改めて彼女達に向ける。
「我々科学者は、事象のデータを収拾し、分析、解明する。君達にとっては、自分達の領域を土足で踏み荒らされるという屈辱を感じている事だろう。それは十分理解できる。だが、君達はその中でも、その研鑽の中でも物事の本質を暴こうとしたことはあるのか。それらはこういう物である、そうあるべきであるという固定概念を良しとし、ましてやそれらを秘匿した上で独占している。それは最早ただの利権だ。未知の領域が既知となる事で救われる命や霊魂も増える。私は、それをいつか実現するために邁進している。だからこそ、私は、それを力でねじ伏せ玩具の様に扱う君達を心の底から軽蔑している。これは、一生続く平行線だろうが、変わりはしない」
己の掲げる理念を展開し、岩場は全てを出し切ったように鼻で息をした。それでも尚、これまでの言葉はあくまで選んだ物のようで、まだ言い足りないと言わんばかりの態度だ。
そして、その隙間を埋める様に今度は野呂井が話し始め、この場を治めようと語り出す。
「分かったら、とっととここを去りなさい。あくまで、ここは我々の管理する区域だ。不可侵条約を犯したという事で、協会の上層部に君達の事を報告しても良い。その年で、違法霊媒師として追われたくはないだろう」
「……はっ」
野呂井の言葉は響かないようで、濵﨑は鼻で笑う。
「てめえも、人の事言えねえだろうが。野呂井家の跡取り息子が」
「ね~。貴方だって、追われる身のくせにね~」
岩場と野呂井に対してのあからさまな接し方の違いに、野呂井自身はより一層の静かな怒りを覚えていた。嫌なことを思い出させてくれるな。そう言いたげな表情が彼の口元の歪みから感じられる。しかし、ここで再び岩場の方が片手で彼を制するように前に出て、まるで親が子を守るような態度を見せながら一歩を踏み出した。
「彼の人生だ。君達にとやかく言われる筋合いはない」
ここで、再び岩場からの言が発せられる。
「これは、警告だ。我々への意趣返しをしたつもりだろうが、それは大きな間違いだ」
「てめえは黙ってろよ。凡人」
「うぜえんだよ~」
聞く耳など持ち合わせてはいないという態度は変わらず、2人は岩場の言葉を遮る。
「我々は、この領域に来るに当たって、神格実体との契約を結んでいる。この土地の分析や研究を進める代わりに、この場所の安全を守るという務めだ。謂わば、君達は本当の意味での侵犯者だ。だからこそ、強く言う。早くここから立ち去りなさい」
これが最後だ。そう岩場は締め括り、それ以上の事は言わなかった。勿論、この警告に対して彼女達が素直になる訳もなく、ものの1、2秒だけではあるが、見てもわかる様な無益な時間が流れた。
「たく、うっせえ爺だなあ」
濵﨑が悪びれる事も無く悪態を吐く。
「まじ~、最悪~」
諸刃がそう言い終わる瞬間、突如、彼女の体が何かによって貫かれた。
ほんの一瞬の事である。まるで遠距離からの狙撃を受けたように、諸刃の腹部には風穴が空き、そこから大量の血液が流出し始める。
「リン!」
濵﨑が諸刃に駆け寄る。諸刃の方は力が抜けたように足から崩れ、辛うじて生きてはいるものの吐血を繰り返しながら息も絶え絶えと言った様子だ。
「てめえ、何を……!」
「我々じゃない。彼だ」
岩場はそう言い、ゆっくりとした動作で天を指さした。濵﨑はそれの指し示す方へと誘われる様に視線を上げ、そこに君臨する存在を目に焼き付けた。
そこには巨大な目が合った。ここいらの森林地帯を全て覆うほどの目である。それが、それにとってはほんのアリのサイズでしかない筈の彼女達を見つめ続け、ただ静かにそこに居る。
「これは、ある意味彼からの温情だ。その気になれば、君達の存在など簡単に消される。彼女も直ぐに治療すれば、一命は取り留める筈だ。だから、さあ。行きなさい」
「……この借りは、また返す……! 糞学者ども……!」
濵﨑の恨み言が消え入るや否や、気が付けば2人の姿は忽然と消えていた。
途端に、嘗てはそこを支配していた筈の静寂が息を吹き返し始め、再びそこら一帯を覆い始めた。
岩場は仕切り直すように息を吐き、すっと空に向って顔を上げた。そこには先程まで彼等を見つめていた目はとっくの昔に消え失せ、相も変わらずにそこにある夜空だけが鎮座している。月明かりが2人を照らす。
「……前にも、こんな状況で2人で取り残されたことがあったね」
岩場は自身の背広の懐から煙草の入った紙箱を取り出し、相変わらずの慣れていない手つきでやっと一本を選び出した。その様子を見てか野呂井の方も1本を所望し、岩場はこれを快く受け入れる。
「ええ。貴方といるといつもこういう状況になる気がします」
野呂井も調子が戻ってきたのか、いつもの皮肉を込めた応えを返した。岩場もそれを察している様でこの掛け合いに安ど感を覚える。
「若い世代というのは往々にして怖いもの知らずだ。特に、力を持って生まれてしまった子達はね。その子たちを導いてあげる、等と言う傲慢なことを言うつもりもないが。ああなる前に、何か出来たんじゃないかとつい考えてしまう」
「あれに関しては、我々が関わっていなくてもいづれ同じ結末を辿っていたでしょう。遅かれ早かれ。逆にあの程度で済んだ事の方が幸運てやつですよ。本当の深淵は、あんな物じゃない」
2人は同時に煙を吐き出し、改めて例のファミレスを見つめる。
「……さっきは、ありがとうございました」
野呂井が岩場に対して、真の意味での礼を述べた。端的で短い文言ではあるが、彼も、そして岩場もその言葉の重さを実感している。
「構わんよ。私の方こそ、君には辛い道を歩ませている」
「そんな事はありません。本当に」
2人の煙が空中で混ざり、そして消える。
「さて……仕事に戻ろう」
「はい」
尚、静寂は周囲を覆っていた。









